作業療法は触媒2

触媒論の補足です (^^;

初めに私の体験談を。
実は、私は数年前に坐骨神経痛になって
痛みのために寝返りもうてず
独歩は2−3歩のみで、短距離のつかまり歩きしかできない
という状態になったことがありました。

整形外科にも通っていましたが
本当にお世話になったのは、スポーツマッサージをしている治療者でした。
触診の技術の高さは素晴らしく、筋だけでなく神経や血管も触知しながら癒着した軟部繊維を剥離してもらいました。

治療の後半になってくると私も教えてもらうこともありましたが、
分野違いとはいえ全然触診できませんでしたし、
老健で働いている時に、炎症による軟部繊維の癒着という視点を私は持っていなかったので反省もしました。

その先生の治療論を尋ねる機会もありましたが
「パターンはあるけどパターンじゃない」って言っていました。
また、触診・治療している時は指先の感覚にものすごく集中しているのが伝わってきました。
私も集中して食事介助していますから「会話しながら」なんてあり得ない
のもわかります。
分野違いながら共通している実践や考え方もあり、ずいぶん触発されたものです。

その先生は、身体の働きをすごく信頼していて
「動けるようになってきたら身体は自然に動くものだ」と言っていて
言葉で「背筋を伸ばして」「足をもっと前に出して」というように指示することは、ほとんどなかったと思います。
そのかわり望ましい動きができた時には、「そう!その動き!」ときちんと言葉でのフィードバックがありました。

軟部繊維の癒着を剥離していく過程では、ゆっくりとも言えるくらいにとても丁寧で決して無理矢理に行うことはありませんでした。

先生の実践と在りようは、本当に信頼できるものでした。

治療が進んで、ちゃんと立てるようになった時に感じた「抗重力伸展活動」の感覚は、今でも覚えています。
すごく気持ちが良かったし、自然な感じでどこにも無理がかかっていない感覚がありました。
まさしく、身体が自然に動いていくのを実感できました。

その他にも
寝ていても2時間も経つと痛みのために目が覚めてしまう体験をして
体位変換の時間が2時間ごとって正しいんだなーと思ったことも覚えています。

期せずして患者体験の一端をしたわけですが
いろいろと学ぶことがあったのを久しぶりに思い出しました。
しないで済むなら患者体験はしないほうが良いと思いますが
せっかくの体験。
「転んでもタダでは起きない」というわけではないですけど。

さて、前置きはこのくらいにして
本題に入りたいと思います。

「作業療法触媒論2」

対象者によって
一人ひとりに必要な触媒の種類も量の匙加減も異なりますし
同じ人でも時期によっては異なる種類、異なる量の触媒が必要となります。

対象者に起こっていることを的確に観察・洞察できないと、
必要な触媒の種類も量も選択することが困難になり、
誤った触媒の選択・提供をして逆効果になってしまう恐れもあります。

つまり私が言いたいのは「たかが触媒されど触媒」

もうひとつ、記事のタイトルが示しているように
「作業療法が触媒」であって、「作業療法」を指してはいません。

私たちは作業療法士として養成されたので
何をやっても作業療法しか提供できません。

 「作業療法って何だろう?」と言う人も少なくないようですが
 「あなたの実践があなたの作業療法です」

 と答えるのが良いと最近は思うようになりました (^^)

ただし、Aという作業療法士が提供したBという実践ないし関与が、
その時その場のその関係性においてCという対象者にとって適切なのか否か
ということが問われているということを
自覚しておいて自覚しすぎることはありませんし
問いに答えるためには、結果を出すことから始めるしかありません。

  Bという実践ないし関与は、Aという作業療法士が選択(無自覚であれ)提供して
  初めて作業療法というカタチになります。
  Bそのものが規定するCという対象者の状態像もありますから
  当然そこも踏まえたうえでCに対してプラスの結果が出る意図をもって
  Bを選択しているのは他ならぬAという作業療法士その人です。

  結果が出ないという場合に
    (現状維持も立派な結果=目標だと思いますが
     漠然と現状維持ではなく、どの部分の維持をする。それは〇〇だから。
     と担当者が言語化できることが大切だと考えています) 
  Cが困難な現実に在るということは、当然わかっているのだから
  そこを踏まえてBを選択
するという責務がAにはあると思います。
  さまざまな状態像と限界もあるにせよ。
      
他の多くの職業と同様に
作業療法士もまさしくピンキリだし、
ピンとキリの間にたくさんのグレー状態が存在するのだと考えています。

ピンだろうが、キリだろうが、グレーだろうが、
自分の今いる立ち位置から、出せる結果から出していくしかないと感じています。

  結果を出せていないことは、わからないからです。

その過程において
結果として起こることと目的を混同する対人援助職は本当に多いものです。

拘縮悪化予防スポンジ」の記事で書いたように
自分の見たいことしか見ていない
知識を実践に結びつけていない という現実的な対応しかり

「OTの不安への答え」の記事で書いたように
結果として楽しかった実習を目指すはずが
「実習は楽しく」というスローガンにすり替えられてしまうとか

そもそも
目標と目的と治療内容の混同というレベルでも起こっています (^^;
「OTどこでズレたのか:目標設定」の記事に書きましたのでご参照ください。

対象者にとってプラスの変化を期待するための触媒は
唯一絶対のものではなく
その時の対象者の状態像によって選択されるものだと考えています。

作業療法がスタンスを決めてしまうことの危険性は
あちらこちらに透明の蜘蛛の巣のように存在しているように感じています。

 例えば
 「作業療法は楽しく!」というスローガンを抱えている作業療法士には
 泣きたい気持ちを必死になって抑圧している方に対して
 表面的に楽しませる(楽しむのではなく)体験を提供し
 結果的であったとしても、善意からであったとしても
 抑圧を強め、問題を拗らせることになり
 その代償を払うのは当の作業療法士ではなく
 ご本人と先送りされた問題に直面した他の対人援助職にな
る。
 というようなことが現実に起こっていませんか?

もしも
私がスローガンを表明するとすれば
「自分はこう!」というものではなくて
目の前の対象者に今何が起こっているかを
虚心坦懐に観察する・洞察できるようになる
「事実の子たれよ」
の他にはあり得ないと感じています。

スローガンを表明する対人援助職は本当に多いですが
それは本来の対人援助職と真逆の在りようだということに気がついて欲しいものです。
例え自覚していなかったとしても
自身のスローガンやニーズを実践するために対象者を利用している事になってしまいます。
スタートは常に目の前の対象者なのだということを忘れたすり替えが
容易に起こりうるリスクを内在しているのが対人援助職の業というものです。
これらを学生のうちに感受したり学んだり
実習で身をもって実感する機会って最近はないのでしょうかねぇ。。。

内村鑑三の
「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」
という言葉のもつ重さをひしひしと感じています。

ここでいう理論とは
通常の意味での理論に限らずに
ギョーカイの常識や慣習的対応
自身のスローガンも含みます。
それらの奴隷とは、観察放棄・思考放棄という在りように繋がりかねず
ハウツー的思考回路が蔓延していることと関連しているように感じられてなりません。

事実を観察する眼が曇ってしまうことのないように
少なくとも自覚的で在るように

触媒に濁りがあれば
結果が明確ではなくなってしまいます。

触媒の純度が高ければ高いほど
対象者の行動変容という反応が明確に現れるものです。

Activityの提供に際して:提案

 

 

月刊よっしーワールド
「Activity提供に際して」というシリーズの記事を書きました。

 
重度を含めた認知症のある方に
Activityを提供するに際して
どのように考えたら良いのか
認知症のある方に不安や混乱をもたらさずに
その人らしさを発揮していただくための提案です。

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
という言葉から始まると日野原重明氏の本で読んだことがあります。

「作業療法は素晴らしい」と喧伝する人は多いけれど
私の関心は
対象者を傷つけずに、不安や混乱をもたらさずに
Activityを通して
「私は私で変わらない」という再体験・再確認をしていただくことを
いかにしたら私が実現できるのかという点にありました。

本当にPowerのあるものは
そのPowerはプラスにもマイナスにも働く
マイナスに働くことをどうしたら確実に回避できるのか
どうしたら常にプラスに働くことを促せるのか

対象者のActivityへの取り組みを
その都度確認し、
何がどうよくて、何がどうまずかったのか
抽象化・一般化・言語化を繰り返し蓄積してきました。

ようやく明確に言語化できるようになり
あまり時間をかけずとも外さずに適切なActivityを提供できるようになりました。

かつての私のように
悩んでいる方・困っている方に提案します。
まず、読んでみて。
やってみて!

 

日本のOTは遅れている?!(ごむてつ)

日本の産業経済の凋落ぶりは著しく、ほとんどの日本人が思う以上に、表面から見えるよりもかなり激しいようで貧困化は必至だ。

モノづくり、デジタル・テクノロジーばかりではなく、いくつかのアジア国々にいろいろな面ですっかり追い越されてしまったようだ。
中国製品が粗悪なのは既に過去のこと、日本の有名メーカーの名前を付けた家電製品やデジタル物も殆ど日本では作っていないし、それらは既に二流三流で一流のものは値段が高くなってしまうのでむしろ入ってこない。

最近知ったことでちょっと驚いたのは、大学進学率で日本は60%程度であるが、台湾や韓国は90%以上らしい。我々が大学に進学した頃は確か25%位だったと思う。
日本の若い人も英語ができる人は増えたが、アジアの他国ではむしろできて当たり前である。
その中でエリート称されるような、米国など海外の大学院を出るような人は中国も韓国や台湾も日本の100倍以上はいるらしい。

おそらく、日本のEランやFランと称するような大学はあっても少ないと思われる。
アジアの多くの国は日本よりもはるかに受験戦争も過酷だ。日本の「ゆとり教育」みたいに、その反動や揺り戻しもあるようだけど。

そういうわけで、製造業やIT関連産業だけでなく医療その他の分野も立ち遅れが目立ち、リハ分野も日本は近年まで先進国だったはずだがアジア諸国の中ですっかり取り残されているのではないだろうか?
バブル以降、様々な分野で追いつかれ追い越されたことを日本は見て見ぬふり、知って知らぬふりをしてきたと言えるだろう。

アジア諸国の中では欧米流の作業療法を最も早く取り入れたのは日本で、韓国や台湾その他のアジア諸国はそれに追従したようだが、今となっては質的な差ベルはOT後進国にとっくに抜かされてしまったのでないだろうか?
OT辞めたしそうした事情については、よくわからないけどそんな気がする。

もう30年近く前、1991年か92年だったと思う。当時勤めていた大学の教授が日本のOTの歴史について書くなどと言って資料を集めていた。
日本の初期のリハ、OT教育がとのようなものであったのか、古い人の話を聞いたり、資料を取り寄せて調べていた。(実際に書いたかどうかは知らない)

御存知の通り、日本で最初のリハビリの専門学校、Kリハ学院が開校したのは1963年なので今から60年近く前で、その時点より30年近く前である。

その教授もKリハ学院の教官をやっていたことがあったが、昔のカリキュラム、シラバスなどの資料も閲覧することができたようだ。

当時は日本人ではわずか2~3人の既に米国でOTの資格をとっていた人がいたくらいで、他には米国から講師を呼び寄せて授業が始まったようだ。
もちろん日本語もできないし、熱意はあってもまだ学校を出たばかりで駆け出しのOTが教えに来たようだ。

資料を見てその教授曰く、ROMやMMT、ブルンストロームやボバースも既に取り入れており今(その時点の1990年代の初め)とあまり変わらない先進的な教育をやっていたと感激していた。

これに対して私の感想はむしろ反対であり、何だ!30年経っても大して進歩していないのか…、そんなものかと落胆したのだが。
何のことはない、当時もしくはそれ以前の米国の作業療法を取り入れてそれからあまり変わっていないようだった。

それ以降、新しく日本のOTに取り入れられたのは80年代の初め頃に感覚統合と、もう少し後の80年代の半ばころから作業行動理論/人間作業モデルが入ってきた位ではないだろうか?
両者とも米国からの輸入で、日本のOT独自のものは殆どないのでは?

感覚統合は昨今はOTよりも障害児保育など他職種で盛んのようだが、後者はどうだろうか?「作業療法の理論」を称える人が多くなり、学校でも採用されるようになったのは事実だが。
私見ではいずれも臨床の技能や能力のレベル向上にはあまり貢献していないような気がする。

初期から「ボバースを取り入れていた」といっても、我々の頃もそうだったがもちろんさわりだけで、既に有能な臨床家も何人かいたが少数派であった。今でもあまり変わっていないか?

60年代当時ボバースは広まったばかりで、確かに先進的だったのだろうけど、ボバースが良いならもっと重点的に力を入れて学校でも教えれば良いはずだ。(私は良いと思うけど)
それに代わるような臨床的な技法、技能があればそれでも良いけど、そういうのはあるのかな?

例えば革細工なんかは、米国南部などでは普通の家庭の主婦が馬具などを作るために実際に行っており、それは既に廃れていたが、OTが治療的に役立つだろうとActivityとして取り入れて復活させたというのが事実のようだ。
日本なら裁縫とか我々の親の代くらいまでは和裁とか、ゆたかや着物など縫うのが当たり前で、日本なんだしそういうのを復活させた方が有用ではないか?
陶芸や木工、機織なども作業療法ではむしろ使い難い作業であり、実際にやっている所も少ないのではないだろうか。

その頃、OTの専門教育のカリキュラムの見直しがあって、〇〇の作業療法ではなく、作業治療学とか、基礎作業学とか、名前だけはかっこよくなったけど決して進歩とは言えないような…

私はむしろ手工芸的なものよりも、ヨガ、太極拳、エアロビクスなど全身活動を取り入れたほうが良いのでは、と思って提案したのだが、他の先生は(そう言えば皆K学院出身だったな)何を言ってるのだ!と怒りだす。昔からのいかにもOTを金科玉条のごとく考えているようであった。

作業療法の作業はありとあらゆる活動を含み、何でもあって良いと言うくせに、新しい有意義なものをあまり取り入れようとはしない。
精神科ならウオーキングとか、会話やおしゃべり、雑談だって作業だからそれも良いと思うけど。

結局のところ、学校の設備などの問題もあるけど、文科省で決められた(OTの意見を取り入れているはずだけど)カリキュラムや、厚労省で決められた施設基準に入っているものは外すことはできないだろうけど、それが本当に必要なのか?今となっては甚だ不適切なものが多いのではないか?
縦割り行政や忖度社会の弊害もあって日本は改革が難しい。

私の友人に1980年代の初めころに米国の大学院に留学し、OTの資格をとった人がいる。
彼が言うには、向こうではROMやMMT、ブルンストロームなんか見たことも聞いたこともない、何でそんなことやるのか?ということだった。

革細工、陶芸や木工、機織などOTらしいActivityも昔やっていただけではないか?実際にはやっていなかったと言っていた。
たぶんその頃既に米国の作業療法も1960年代からだいぶ進歩し変化していたのだろう。

海外のOTは進歩しているのに日本ばかりが因習にとらわれ、旧態依然としているのではないのだろうか?
我々の頃に比べるとOTの数は何十倍にも増え「数の時代」から「質の時代」、質の向上を図るべきと言われて久しいけど、実際に質的に向上したのだろうか?
臨床的な能力が優れた人は未だに決して多くはないのではなかろうか?

日本ではOT養成の大学は増えすぎるほど増えたし、研究もそれなりに盛んなのだろうけど…、本当に有用な意義のある研究はどれほどされているのだろうか?

業績のための研究、自分の地位や立場のための研究になっていないか?

本当に優れた臨床的な能力を持つOTは今でも極めて少数派ではないだろうか?
少なくともそうした人と同等くらいの人が多数を占めるようにならなくは…、と思うのだが。

大学教官もむしろ臨床能力が身につかず、大学院に逃げ研究に逃げて、大学教師になった人もいるのではないか?それでは当然、あまり臨床的な教育はできないのではないか?それでも学生は育つのは良いような悪いような…
「親はなくても子は育つ」

私は大学にも研究にもとっくに見切りをつけてOTも辞めたけど、自慢のつもりはないが、精神疾患のセラピーに関しては間違いなく世界最高レベル、最先端をいってるはずである。

それにはやはり天才的な優れた治療能力を持つ人のセラピーを受け、何年もかかって教えを請うたからこそ達成できたことである。
実際にはあまり教えてくれず、自分で考え実践を積み上げてきたのだが。

若い頃は重症患者から始まっているので、我ながらよくやってきたという気もする。パワハラやらずいぶん酷い目にも遭ったけど…
「師に遇わざるを不遇と言うなら私は不遇ではなかった。」
皆さんはどうだろうか?

「作業療法の理論」は臨床の役に立つのか?

昔に比べて確実に変わったのは「作業療法の理論」を提唱する人が増え広まったことだと思うが、本当に役に立つ理論なのだろうか?
それは臨床能力の向上をもたらすものだろうか?
わかったような気になるだけの理論になっていないだろうか?

もっと言えばレポートや論文を書くための理論であったり、大学教師がもっともらしいことを言ったり授業で使うための理論になっていないか?
実際の臨床にどれほど使われているのか?役に立たなければ使われなくなるのは当たり前だ。理論があってもなくても実践は同じだったりして。
極論かもしれないが、単なる合理化になってはまずいが理論は後付でも実践で示せればよい。無言実行

実践のための理論であるよりも理論のための理論、臨床能力の乏しさを合理化正当化し、言い訳するための理論なんてことはないよな?
それは作業療法について外から見た理論であり、実践し結果を出すための理論ではないのではなかろうか?

「事実の子たれよ、理論の奴隷たるなかれ」内村鑑三

あまり大きな声では言えないだろうが「作業〇〇理論が日本の作業療法の発展を30年阻害した」なんて言うOTさえいるようだ。
大学~大学院で哲学をやっていた友人OTは「あの人たち(OTの大学の先生達)は簡単なことを難しくするのが学問だと思っている。難しいことを簡単にするのが学問なのに逆だろ」と言ってた。

「作業療法の理論」以前に、臨床に必要な学問や理論、解剖学や生理学など基礎医学、症候学、運動学など十分に身につけているだろうか?
もちろん知識を詰め込んでいるだけでなく、それらを実際に即して理解し統合し、応用し活用し実践できているだろうか?

俺が大学を辞めて一人になってセラピーの仕事を始めた時、上述の教授は(その頃は別の大学)「君は臨床ができるから良い。やっぱり臨床をやるのが一番だ」と喜んでくれた。10年くらいして会ったときにも「臨床ができるのが一番強い。たいていは臨床ができないやつが教官になる。臨床的な能力はたいしてないのに、お互い先生、先生と持ち上げるばかりでいい気になってるヤツが多い」などと言ってたけど。
じゃ、自分はどうかと言うことにもなるだろうけど、ずっと気にはしていたようだ。その先生も決して臨床をやっていなかったわけではない。もうとっくに現役を退いているけど。

屁理屈言うより、やはり臨床できちんと結果を出せることが最も大事だろう。役にも立たない理論なら勉強する余裕はないはずだ。
もっとも俺の場合は臨床と言ってもOTは辞めて、独自のセラピーをやってるわけだけど。

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話は変わるけど…

私は小学校高学年の頃からグループサウンズやフォークソング、ビートルズなどに憧れてギターを弾き始めた。
その頃はギターを弾ける人は少なく、ピアノなど他の楽器が弾ける人も少なかった。ろくな教本もなく、もちろんビデオもないし、教えてくれる人も周りにはいないし、もちろんほとんど我流である。

ギターは中学の頃から兄貴にも友人たちにも随分教えたけど、俺より年上の人はなかなか上達しないが、俺よりも年下の人はすぐに俺なんか追い越してしまう。
カラオケはもちろんないし、大人はたいてい音痴だった。今でも私よりも年上の人はたいていあまり上手くないし、上達するのか難しい。

今の若い人たちはその頃とは比較にならないほど歌も楽器もダンスも上手いし、初心者でも短時間で上達する。
プロもアマチュアも数十年で全体的なレベルは遥かに向上し、初心者と言っても当時とは雲泥の差がある。

それにはいろいろな背景があり、機材の進歩もあり楽器も安くても良いものが手に入るようになったし、音楽が手軽に聞けるし、そもそも小さい頃から身近に音楽を耳にしている。
幼少期から洋楽的なリズムが身につているかという差が大きいことはだんだんわかってきたけど。赤ちゃんの頃から耳に入っていれば催眠術のように脳に染み込んでいるのだろうけど、昔はそんなのなかった。

ビートルズやロック、モダン・フォークなどが登場し、日本に入ってきたのは1960年代の前半で、OTが日本に入って来た頃とほぼ同時期である。
それから半世紀ほどの間にギターの奏法やテクニックは比較にならないほど進歩しており、もちろんギターだけでなく他の楽器に関しても、ポピュラー音楽全般のレベルの向上は激しく多様化も著しい。

英語だって私より年上の人でできる人は少ないが、若い人は随分できる人が増えたと思う。
戦前に高等教育を受ける人はごく一部だし、戦争中は英語なんて禁止で、戦後になって義務教育に取り入れられても教えられる人は殆どおらず、進駐軍の米兵以外に外国人と触れる機会も殆どなかったので仕方のないことだった。

そうしたことを考えるとOTだって半世紀もすれば進歩著しく、数十年前とは雲泥の差があって然るべきだと思うのだが、実際にはどうだろうか?
音楽やスポーツなんかに比べて熱意のある人、レベル向上に熱心な人は少ないのだろうか?
いや決して少なくはないのだろうけど、どっちを向いているか?何を求め目指しているのか?が問題である。

私のギターに関しては、時々思い出したように弾くだけでロクに練習もしないし、途切れ途切れにしかやらないから、結局、半世紀以上たっても万年初心者レベルである。
むしろ悪い癖ばかり身についてしまったかも知れず、およそ人に聞かせるようなシロモノではない。
ギターや音楽には結局のところ、大した情熱はなかったということだろう。
そのような万年初心者レベルのOT・PTも少なくないのではないだろうか?

もちろん音楽にも理論があるし、精神疾患の治療にも理論があり、私も臨床分野に関してはそれなりに必要な理論は身につけた上で実践しているつもりである。実践はさらなる理論的発展をもたらす。
極論だが理論がなくても実践は不可能ではない。有害なことはもちろんやるべきではないが。

私の専門分野に関して言えば、DSMは無視である。記述精神医学は所詮外から見た患者に関する医学でしかない。分類してわかった気になるのは愚かなことだ。幸いにして診断などしなくても良い立場だし。

そもそも私は精神病に関しては疾患単位を認めていないし、元々が患者出身だから外から見ることはむしろ苦手だ。
脳科学や大脳生理学などもほぼ完全に無視している。
力動派、分析派でありながら、例えばラカン派やポスト構造主義的な精神分析にも関心はない。
それらが学問として有意義であり価値のあることは認めるけど、精神疾患の治療のためには殆ど役立たないからである。

もっともラカン派などの彼らにしてみれば俺が言うような治療は全くおかしなことで笑止千万だろうけど、俺は彼らの考えも及ばないことも知り、逆立ちしてもできないことを実践し、もちろん結果も出している。
どういう考えや理論的実践的な立場か、敢えて言うならポスト新フロイト派である。そんなの俺しかいないだろうけど。

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やはりきちんと改善できる結果が出せるための理論を身につけ実践するべきである。理論はむしろ道具であり、実践を導き臨床の後ろ盾となるが、「臨床の知」とは理論に基づいて実践するのとは違うと思う。
ユングは確か「理論はできるだけ理解し身につける必要があるが、患者を前にしたらそれらは忘れるべきである」といったことを言ってたと思う。

これからの時代を作るのはもちろん若い人たちだ。
一時は介護や看護、セラピーなどの分野で輸出国になるべきなんて話もあったが現状ではお寒い限りだろう。
人類の健康と幸福、人類の平和と進歩に貢献することがセラピストには求められている。ともかく理屈より結果を出すことだと思う。

俺は12歳の時に重症な精神病となり、22歳の時に治療を受けて劇的に改善した。もちろんそれで治ったわけではなく、その後も改善の努力はしているけど。
病院に行っても薬漬けになったり、電パチ(電気ショック)をかけられるなど恐ろしいことはされたくないし、絶対に害されたくはなかった。とても病院など行けないので、病気だと思われないようになるべく問題は起こさず何とか学校は行ってた。もちすん良くなりたかったがその可能性には絶望的にならざるを得なかった。

「情熱の薔薇」 ブルーハーツ

♪見てきたものや聞いたこと 今まで憶えた全部
 デタラメだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう♪ 甲本ヒロト
 ※メゲてる時に聞くと勇気が湧いてくる曲です。涙ちょちょぎれる。

「青空」ブルーハーツ

最近の若い人も知ってるのかな?
彼らの曲とパフォーマンスは30年の時を経て反ヘイトの歌として海外でも広まり、多くの感動を与え物議を醸し続けているらしい。
歌詞に出てくるバスは1955年公民権運動の発端となったローザ・パークスが乗ったバスのことだろう。その車両そのものがフォードの博物館に現存している。

ローザ・パークス – Wikipedia

OTどこでズレたのか:目標設定

 

 

「OTどこでズレたのか:観察」の続編です。

目標設定で最も重要なのは
目標を目標というカタチで設定するということです。

カタチの担保がナカミの質を担保します。

いきなり内容の質を担保しようと模索する人は多いのですが
最初から適切な目標を設定するのはまず難しいものです。
その現実を見据えて、ではどうしたら良いか。。。と考えると良いと思います。

「こうすればあなたにもできます!」というのは魅力的な囁き言葉ですが
モノゴトそんなに甘くはありません。
簡単にできる、誰にでもできるのであればプロがしなくてもいいわけで。

そもそも、目標設定というのは、単に目標を設定して終わり。
目標設定だけが単独で存在するはずもなく
情報収集ー評価ー治療という一連の流れの中に生じるものなので
対人援助職にとって簡単なわけがないのです。

  このあたり、情報収集も評価も治療(対応・関与)も目標も
  本来は一連の流れの中に存在するはずなのに
  それぞれの関連性が失われていて単独で切り離されている傾向があって
  それがハウツー的思考態度とも相まって悪循環になっていませんか?


一発で目標を設定できずとも
有効な試行錯誤が確実にできる方策として
経験を積み重ねることで確実に目標設定ができるように
私はカタチの担保ができることを考えました。
詳細は、ぜひ「目標設定」をご参照いただきたいと思います。

さて、本題に入りたいと思います。
目標設定は古くて新しい課題。
私が学生の頃から「適切に目標を設定すること」が課題として挙げられていました。

評価実習に出る前に
模擬ケースが提示され、グループで目標について話し合うという。。。
そういう授業が今は多いのではないでしょうか?

  グループワークには、グループワークの良さもありますが
  未修得の事柄に関して、未修得者同士で検討させても
  習得には結びつかないと考えています。

  未修得の事柄については、
  きちんと教えられる人が責任を持って
  明確に言語化して教えるべきだと考えています。

ただし、目標設定が課題という認識は教員、実習指導者、学生ともに
共有されていたとは思いますが
じゃあ、どうしたらできるようになるのか、ということに関して
明確な言語化は為されてきませんでした。

  目標設定には、1)目標という概念の理解と、2)対象者にとっての適切さ
  という2点の課題があります。


本来であれば、どうしたら適切な目標設定ができるようになるのか
上記の2点それぞれに対して論点を整理した上で検討できればよかったのに
と思っています。

ところが、そうはならずに
教員も実習指導者も学生もみんなが困り悩んでいた
そこへ、Shared Decision Making の流れがあり、
OT協会では、MTDLP 生活行為向上マネジメントを導入するに至りました。

ここでもズレが生じたと考えています。
SDMそのものは、特にリハビリテーションの領域では必須の概念であり
MTDLPも多職種共有・言語的明確化のために最適なツールであり
導入されたという面では望ましいことではあると思います。

ただし、SDMが全てではなく
2)対象者にとっての適切さの担保の一部、下位概念であるにもかかわらず
目標設定=SDMという捉え方にすり替わってしまったのではないでしょうか。

そして
「何をしたらいいのでしょうか?」
「どうしたらいいのでしょうか?」
という悩みを抱えているOTに
「結果として達成できる状態像」と「行う治療内容」との混同を招いてしまう
という第2のズレをもたらしてしまったのではないでしょうか。

さらに
SDMに基づいて行われている、本人希望に基づいて行われている
という意識がPDCAを回しにくくしてしまうリスクや
希望を言語化できない方に対して
あるいは希望が実現困難な方に対してどう対応すべきなのか
(認知症のため過去の趣味活動を希望しても遂行困難なケースは多数遭遇します)

また
困難に遭遇した時に
対象者自身が思いもかけなかった自身の可能性を開いていく
(ジョハリの窓)
道を閉ざすことにならないか等についての検討が為されていないことについても指摘しておきます。

誤解がないように記載すると
SDMやMTDLPを否定しているわけではなく
その有用性や必要性、導入されたことの良い面は認識していますが
それらの位置付けについては、もっと整理されるべきだと考えています。

リハビリテーションという領域や
作業療法という分野において
最も重要なことは、PDCAを回していく
対象者にとっての必然に鑑みて確認していくということであり
そのためには、目標を目標というカタチで設定できる
つまり1)目標の概念理解が重要な役割を果たすのだということは強調しておきたいと思います。

関連して言えば
作業療法という分野では
それぞれがそれぞれの場で改善のための努力をしているのに
どこかでズレてしまっているということがたくさんある。
そしてそのズレは一見正当のように見えるからこそ
実は本来の課題解決から遠ざかってしまうこと
そしてその自覚が失われてしまいがちなことも記載しておきます。

 


拘縮悪化予防スポンジ


手指を硬く握り込んでしまう方に
タオルを丸めて握っていただくなら
こちらのスポンジを対象者の手に応じて作るのがオススメです (^^)

タオルを丸めたものを握っていただくと
手のアーチを崩してしまいます。

また、筋肉は強く作用する時もあればそうでもない時もある
収縮度合いに変動があるものです。
素材がスポンジであれば、
手指が硬く握り込んでいる時は皮膚を傷つけないように作用し
手指がリラックスしている時はスポンジの反発力でふんわり広がります。

つまり
対象者の手指がタオルに合わせるのではなくて
スポンジの方が対象者の手指に合わせてくれるのです。

その方の手指の状態に応じて
スポンジをジャストフィットに加工するのもカンタンです。

注意点が一つあります。
スポンジの大きさ・厚みは
Passiveな最大可動域にはしない方が良いです。

手指の筋肉は多関節筋ですから
手指の可動域だけ広げることに注目してしまうと
かえって手関節や肘関節の屈曲拘縮を悪化させてしまう恐れがあります。

最初はgentleに
最大可動域では設定しない。
手指を伸展させても
手関節や肘関節が屈曲しない範囲で設定
してみてください。

このあたりは
本当に善意による誤解によって
結果として逆効果にさせてしまっている場合が多いと感じています。
ポジショニングで
可動域いっぱいに膝や肘を伸ばした設定をして
股関節や肩関節の屈曲拘縮を増悪させてしまっているケースが本当に多いです。

  膝が曲がっている、肘が曲がっている
      ↓
  これ以上拘縮が進行しないように伸ばそう

と自分が気になったところしか見ていないし
何が起こっているのか本当にはわかっていない
そしてなんとかしたいという善意からの行動なので
結果に対して対処の適否に関する確認が為されにくいという問題があります。

作成方法などの詳細は
こちらをご参照ください。

 


作業療法は触媒

  

 

私は作業療法は触媒のようなものだと考えています。

対象者ご本人の良くなろうとする意思と努力があってこそ
言葉にならなかったとしても重度の認知症のある方にもあるし
  抵抗と防衛は対人援助職にも生じる

行動変容は生み出されるもので
「私が良くしてやった」わけではありません。
ただし、対象者の良くなろうとする過程において、私の実践が適切に働いた
ということは言えると思うのです。
逆にそうならない場合も起こり得る。。。

かつて
「私がよくしてやった」
「俺が歩かせてやった」
などと言ってのけるセラピストに複数遭遇したものですが
たぶん、そう言うことで何かを補償していたんじゃないかなーと
ある会見を見て感じました。

「作業療法は素晴らしい」
「作業療法は楽しい」
と語りがたるのも同じことで、語ることで補償してるのかなーと。

もしも
素晴らしい実践、楽しい実践が当たり前で毎回確実にできているのだったら
その人にとって至極当然のことなんだから
あえて言葉にする必要はないんじゃない?

むしろ、素晴らしくない実践、楽しくない実践の方が気になって
どうしたらいいのか考えるし、言葉にするんじゃないかな?

どうしても「作業療法は素晴らしい」「作業療法は楽しい」と言いたいなら
どうしたら100%作業療法を素晴らしく楽しく実践できるのか
ということを明確に言語化したり具体的現実的に検討した方が有益だと思うけど。

かつて
ごむてつさんが
「患者が良くなるのは当たり前だから
 良くなった人のことは忘れても
 うまくいかなかった人のことは覚えている」
と言ったことがあって、なるほどなーと思ったものです。



リハビリで筋力強化訓練は必要か?(ごむてつ)

私は民間療法家として精神疾患のセラピーをしており、精神疾患には詳しいが元OTでありながら身体障害のリハビリはほぼやったことがない。
元々関心がなかったわけではなく、むしろリハビリ専門学校に入ってからすっかりやる気をなくしたのだが、そのことについてはいずれまたの機会に触れたい。
しかし、精神疾患のセラピーをしていると身体的問題も避けることはできない。実際に問題が大きい人があまりに多いのである。

心身症や自律神経失調症は基本的には精神療法をやれば良くなるし、肩こりや腰痛などの問題も随分良くはなるのだが、実際に椎間板ヘルニアや脊椎間狭窄症、顎関節症など器質的な病変が起こっている人も多い。これらは精神疾患の合併症と言っても良いくらいであり、一般的には「身体表現性障害」には含まれないが、要するに精神的な緊張が身体に現れ、継続すると器質的な病変をもたらし障害になるわけである。
OTとしては身体障害からは逃げまくっていたけど、そういった疾患への対処もせざるを得ないのは、病院や整体などどこに行ってもどうにもならないどころか却って悪化させている人も多いからである。

「義を見てせざるは勇なきなり」
結局のところ自分の課題からは逃げてもまた追われるのだろう。

たまには精神疾患ではなく中枢神経疾患の人も来る。そうした疾患についてもある程度わかるのはOTになったおかげだけど、学校の勉強よりも実習もあるけどボランティアなどでそうした疾患の人をいろいろ見たことが大きい。病院の中だけで見ていたのではわからないこともある。

もちろん明らかに中枢疾患の人は神経内科などの受診を勧めるけど(心療内科じゃないぞ!って念を押して)そうした病院に行っても診断もつかなかったり、治療はどうにもならない場合もあり、先日もそういう患者が私の所に来た。

とりあえず結論から言えば、新形コロナワクチンの後遺症であろう。
やはりどこの病院に行ってもワクチンの後遺症とは認めないが、神経内科医の一人はやはりおそらくワクチンの後遺症だろうと診断したということだ。
精神科や他の神経内科でも、そんな後遺症が起こるはずはない、メンタルの問題だ、転換/解離症状だと主観だけで根拠もなく決めつけていた。

幸いにして薬漬けにはされていなかった。転換/解離症状ならストレスの軽減などにより変化しやすいし、向精神薬が有効ではないことくらいは精神科医でも知っているだろうけど。

2回目のワクチンを打った翌朝、身体が動かず歩けなくなったのだが、それからいろいろな病院に行って2カ月ほど経って私の所に来た。
いくぶん回復し、甚だ奇妙な歩き方だが数メートルはなんとか歩くことは可能で、立ち上がりも腕の力を使うが危なっかしい。
上肢にも同様な問題は出ており書字は可能だが、腕は自由に動かせないので自力での車椅子の操作は困難。結局、家族が2人がかりで介助して病院や学校に行くようだ。

ワクチンの副反応や後遺症は若年者に強く出やすいようで、後遺症と考えられるものにはギラン・バレー様の症状が多いようだが、それとは全く違う。他の少なくともメジャーな中枢神経疾患とも似ていなし、もちろんメンタルの問題による転換/解離症状でも似たような状態にはならない。

昔、OTの大学教官をやっていたとき、たいていは臨床実習への適応困難が要因であるが、転換/解離症状の運動麻痺で歩行困難になる学生も時々いた。もちろん今の臨床でもそういう人は来るのだが、そういった症状とは全く異なり、明らかに中枢の問題がある。
よく見ていると、チック症状も重なっていることもわかってきた。その症状もまた、それが起こるだけの背景や要因があるのだが。

当人はリハビリ訓練も受けており、PTの指導を受けているのだが、とにかく目標が「筋力強化」のようなのだ。
それを聞いた家族も、せっせと励まし自宅でも訓練を勧めていたのだが。
2カ月ほどでいくぶん回復したものの「甚だ奇妙な歩き方」と書いたが、そうなったのは疾患のせいばかりではなく不適切な「筋力強化訓練」も影響していると思われた。

それでは悪い運動パターンが身についてしまい却って良くない、動かすことは大いに必要だが力を入れるよりは無駄に入れずにうまくなるべく軽く適切に入れる、むしろなるべく力は抜くほうが大事だ、などと家族に言ったら、すぐに納得したようで、「そうですか、私は専門の理学療法士の先生が言うのだから正しいものだと信じ込んで…」と愕然としていた。
何かおかしい、これじゃまずいのでは?と薄々とは感じていたのだろう。

人間、新たなことを習得するより、間違った悪い癖を直すほうが遥かに難しい。
もちろん「患者だけでなく治療者側も」だ。身体面だけでなく思考や行動パターン精神面もね。

ここで書くことはOTよりもむしろPTに言いたいことだが…

元々体育系の人が多く、その延長で考えてしまうのだろうか?根性論が好きな人は未だに多いのでは?とも思う。そうでなくとも、そうした発想から抜けられない人も多いのでは?
スポーツでも楽器を弾くなど身体を使うことは、力を入れるよりも抜くほうが大切で難しいことではないだろうか?無駄な力は入れず必要な力だけ上手く使うのが運動や動作の基本だと思う。

股関節や膝関節が伸ばせない、立ち上がれないといった問題を「筋力低下」と考える人が多いと思う。もちろん立ち上がりや歩行にもある程度の筋力は必要だが、歩行など日常生活の殆どの場面では筋力は大して必要ではなく、リハで筋力強化訓練が必要なことは少ないのでは?

それが必要な場合もあるだろうが、そういう人はリハビリではなくジムに行けば良いのでは?ジムの方が器具もそろっているかもしれないし、指導者だっている。
むしろ動作や運動が行えるようになるとある程度の必要な筋力は自然につくはずである。

わかりやすい例を挙げれば…、
見たことがない人はイメージが沸かないかもしれないけど。

昔は田舎に行くとよく見かけたものだが、農家のお婆さんなどで腰(というか股関節か)が90度近くも曲がっており、姿勢がまっすぐにならない人がいた。もちろん寝ている時は腰を伸ばしているのだが。
都会のお婆さんは姿勢が悪くてもそんなふうにはならないし、農業も機械化されたので農村でもそういうお婆さんは絶滅した。

素人ならこうした姿勢の人を背筋などの筋力が低下したためと思ってしまうだろうし、医者でもPTでも整体なんかの人もでもそう言う人がいる。
上体を上げて姿勢を伸ばすにはもちろんは筋力は必要だがそういう問題ではない。

ああいう人は筋力低下どころかものすごく背筋や臀部などの筋力が強いのである。長年、農作業で鍛えているから歳をとってもあまり衰えず、そうやって歩いて生活しているのでいつも鍛えていることになる。
あれはむしろ背筋や臀部の筋力に頼って曲がった姿勢を保ってしまい、真っ直ぐにすることができないのであり、筋力ではなく神経の使い方の問題である。
椅子からの立ち上りが難しいのも殆の場合、筋力の問題ではなく、運動企図や身体の使い方、神経の使い方の問題だ。

精神疾患の人はほぼ例外なく姿勢も悪く、猫背で背中の上部を丸めて顎を突き出すか下を向いたような姿勢の人が多い。本人はむしろそうした姿勢のほうが楽で、短時間はともかく背中を伸ばして良い姿勢を保つのが難しいのだが。
本来は良い姿勢のほうが楽なはずだし、楽な姿勢の方が良い姿勢なのだが、それができない。

あれも精神的な緊張が体にも現れており、背中や頸の緊張が強くて力が抜けず、むしろ背中や頸を伸ばして頭を載せているよりも、頭部を前にぶら下げるようにした方がむしろ無駄な力が入らず楽に感じるのである。
緊張が強く無駄な力が抜けないのでリラックスできることが大事だ。
私は姿勢を保つのはバランスだから力はなるべく抜いて、積み木を積み重ねたように、あるいは子供やジャグラーが傘や棒などを掌の上でバランスを保って立たせるように、などと説明している。

私も幼稚園くらいから姿勢が悪くよく言われたもので、小学校では背中に物差しを突っ込まれたりして、もちろんそんなことをしても良くならない。
どうしたら姿勢が良くなるのか、運動神経が良くなるのかを研究し解明しようかと思い、中高の時には体育学部へ進学も考えたくらいである。
選手養成よりも皆の、特に鈍い人の運動能力が上がり、不器用さを直せたほうが良い。
しかし、やはり極度に運動が苦手な俺が行くような所ではないし、行ってもしょうがなかっただろうと思う。セラピストになって結局、その目的も一応達成できたので良かったけど。

姿勢が悪いと親にも口うるさく言われたが、はっきり言えば原因はその親である。姉なんかは「お前は顔色が悪い」となじられていた。女の子だから容姿を気にするのだろうけど。
顔色も姿勢もどうしたら良くなるのかわかったのは、大学4年の時にとあるセラピーを受けたからであり、明確になったのは今のセラピーをやるようになってからだ。

というわけで身体障害は専門でもなく知識も乏しく、特に経験もないしリハビリ器具もないのだが、観察しているとどういうことはしない方が良い、どういう訓練をした方が良いということはだんだんわかったきた。
新型コロナワクチンの後遺症で脳がどうなっているかなんてもちろん知らんけど。

もちろん訓練だけではそうそう良くならないので、神経系の状態や働きを良くしてから行う。この辺りは私の専門領域であり十八番の得意技、他の追従を許さない圧倒的な実力がある。

あとは本人が理解し自宅でも自分なりに訓練しつつ、日常生活にも活かせれば良いと思う。幸いにして家族も協力的で熱心だ。短時間でも幾分改善したし、たぶんこれでかなり良くなるとは思う。

やはり臨床は観察と洞察・理解が大事で、それと共に関与することだ。
サリヴァンの言う「関与しながらの観察」は精神科医よりもむしろOT・PTに有効であり必要な概念ではないだろうか。評価は「関与しながらの観察」、治療は「観察しながらの関与」と考えても良いと思う。

昔学生の頃、中枢は難しい、不適切な訓練をしたら却って良くないし、自分には恐れ多くてとても手が出せない、と思ったものだが、何でも直ぐにわかるわけではないし、冷静に観察しながらこうしたら良いと理解できたことからやれば良いし、結果を見て良い効果が現れれば良いので、そんなに畏れることもなかったなという気もする。

不勉強な自分が悪いのだが、そういうことは教官もSVもあまり教えてくれなかった気がする。
身障をやるならやっぱりボバースとか勉強すべきだったと思うけど、精神科に行きたかったしすっかり関心もなくした。

上述のような畏れをOTPTになった人はあまり持たないのだろうか?
学生の時はあったと思うけど慣れるにつれて薄れてしまい、SVや先輩を見ても疑問を持つより、あれで良いなら自分も真似すれば良いと思ったりして?

「赤信号、皆で渡れば怖くない」ビートたけし

ノウハウを求める気もわかるし、実際に私も学生の時はそうだったけど、安易にノウハウを得てその時はうまく適用できても応用が効かないし、適用するためには様々な配慮が必要で、ちょっとしたことでも悪い適用になってしまう。
少なくともそれが良いなら何故どのように良いのかよく理解すべきであり、似たような症例であっても不適切な場合があることも理解すべきだろう。

しかし臨床の基本的な姿勢や考え、方法を身に着けていれば、未熟なセラピストでもそれなりのことはできるし、やりながらいろいろ応用も効くし、徐々に向上していくこともできる。
しかし間違った考えや理論にとらわれて、それを修正できずにいつまでも支配されてしまうと、経験値が上がるどころか年数が経てば経つほど「悪いセラピスト」にもなりかねない。人間相手の職業の恐ろしいところだ。

「事実の子たれ、理論の奴隷たるなかれ」内村鑑三

サリヴァンの「関与しながらの観察」については、こちらを参照して欲しい。
読んでも理解できないヤツが多いので★3つ半だけど。

OTの不安への答え

 

先日、ある研修会に受講者の立場で参加して
そこで若い作業療法士の
「自分のやってることがこれでよいのか不安」
「見通しが立たない中で日々仕事をしている」
という声をたくさん聴きました。

思ったのは
これって「実習は楽しく!」という方針の弊害じゃない?ということでした。
養成校の先生も指導者も「楽しく」って本当によく言葉にしますよね。
結果として楽しい実習だった。なら良いと思いますが
楽しい実習を目指すのは本末転倒で
実習の時に体験すべきことは体験しておかないと
何よりも本人が就職してから大変な思いをすることになるし
課題の先送りをしてしまうと今は問題が表面化しなくても
卒後養成を本格的に整備・充実できずにいたら
今、本当に必要なのは
 理論や学会発表や論文執筆ではなくて実践力を高めることでは?)
「なんちゃってOT」が増えてしまって
OTの質が問われかねなくなり
結局は自分達で自分達の首を絞めることになりかねないと危惧しています。

私は実習の時に
「今は指導者がいるけど、将来は自分自身がこの選択・決定の責任を負うんだ」
ということに身も震えるような怖さを感じました。
自身の知識と技術のなさに直面させられ
習得への思いを新たにしたものです。
だから、実習は楽しいどころか、辛い思いをたくさんしました。

それは自分が未熟だったから仕方ないことだと受け入れるしかありませんでした。
そういうものでしょう?
事実に向き合い、乗り越える努力をする。
乗り越え方には幾多の方向性も方法もあるとしても。
仮に私が優秀な学生だったら、楽しく実習をすることができたかもしれませんが。。。

卒業してからも不安な気持ちは変わらず必死になって勉強しました。
片っ端から本を買い、研修会に出ていたので
パンの耳をかじり、素ラーメンを食べ、突然尋ねてきた知人に笑われたものです (^^;
同期と勉強会を立ち上げましたが、そこで思ったのは
どんぐりの背比べじゃダメだ。良い指導者からちゃんと教えてもらわないと。
ということでした。

私が就職してすぐに勤めていた施設には
ボバースアプローチの世界的権威の
紀伊克昌先生や古澤正道がきてくださり
デモンストレーションを目の前で見たことがあります。

普段誰もできなかったことを
いつの間にか子供達ができるようになっていました。

ダメなのは子供たちじゃなくて私(たち)じゃん!
と痛切に思い知らされたものです。

デモンストレーションで何が起こっているのか皆目わからず
当然再現することもできず
教えてもらうにも教えてもらうに値するだけのレベルに到達しないといけないと
強く思いました。

また、天と地ほどの技術の差がこんなにもあるにもかかわらず
診療報酬上は、同じ時間のリハを受け同じお金を親御さんは払わなくちゃいけない
ということを思い知らされました。

今のままじゃいけないと思っても
当時は自分で自分をどうやって育てていけば良いのかわからなくて(^^;

だから
「自分のやってることに自信が持てず不安」
「見通しが立たない中でやっていて不安」
という気持ちは、参加者の本当に正直な気持ちの吐露だと感じたし
かつての自分を思い起こしても共感できます。

でも
そういった気持ちを抱いているという時点で
結果が出てないことの表明だし
状態把握、評価が曖昧ということの表明でもあります。

360度の試行錯誤は、プロのお仕事じゃありません。
限界があったとしても、範囲を狭められる試行錯誤がプロのお仕事です。

かつて、試行錯誤という名の360度広角対応しかできなかった私でも
地道に研鑽を積むことで
本来の試行錯誤ができるようになってきました。
そしてほとんど試行錯誤せずに結果を出せるようになってきました。

大切なことは、観察・洞察です。
確かな知識に基づいた観察・洞察であり
観察・洞察に基づいた確かな技術の適用です。
そして何よりもまずは結果を出すことです。

臨床実践において理論は必要不可欠なものではありません。
ここは断言できます。
私は、いわゆる作業療法領域で紹介される理論を使っていませんが
重度の認知症のある方に対して
骨折後のリハや食事などのADL面でも
Activityの領域でも
生活障害やBPSDへの対応に対しても結果を出せるようになりました。
(もちろん対象者の状態によっては限界もあります)

そしてここが大切なところですが
なぜ結果を出せたかの言語化もできます。
つまり、今何が起こっているのかわかるようになったし
これからどうなるかという見通しのもとで関与できるようになった
ということです。

逆に言えば
何をどうしたらマズイ。ということもはっきりわかるようになりました。
一般的抽象的なレベルではなくて
具体的現実的に
固有の〇〇さんのその時の状態の中で。という意味です。

私が臨床の現場で抽出してきたことは
「対象者の埋もれている能力を見出し
 より合理的に発揮できるように援助する」
「対象者の能力を信頼する」
「対象者の特性の良い面が良い方向に発揮できるように援助する」
「自分を含めたその時その場の状況・関係性の中で
 対象者の言動が表現されている」
「関与しながら観察する」
これらの概念を指針として大切にしているということです。

でも最初はまったくできませんでした。
本当に何も分かっていなかったと思う。。。
私はまだまだ未熟だけれど、少なくとも方向性を確立できた今になって
かつて、自分がいかにわかっていなかったかということは
はっきりとわかるようになりました。

  できない時には、できないからこそ
  「できる」ことがまったく認識できない
  できるようにならなければ、できない人とできる人との違いがわからない

  できるようになって初めて、
  できない人とできる人との違いがわかるようになるのだ
  ということもよくよくわかるようになりました。

私ができるようになったのは観察と
その観察を支えた知識のおかげで理論は無関係です。

バリデーションは有効なツールだと感じていますが
私は作業療法士として実践し、
バリデーションを適用することもありますが
バリデーションありきの実践をしているわけではありません。

理論はツールですから、活用するものに過ぎません。
実践力は理論とは別に実践力として涵養すべき種類のもので
そのために必要なのは解剖学・運動学・症候学などの基礎知識の習得と
自身の観察力・洞察力を磨くことです。

今日、Twitterで同じことを言っている研究者のツイートを見かけました。
https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21
ぜひ、前後のツイートも読んでみてください。

冒頭に紹介した研修会では
ビデオも見せていただいて
講師が対応した時の対象者の表情と行動と
他のスタッフが対応した時の対象者の表情と行動は
まったく違っていたのです。

地道な研鑽の蓄積と
それを支えたその人の在りようは
無意識レベルでにじみ出て対象者にも伝わるんじゃないかな。
そんな風に感じました。

 

帰宅要求のある方に対して(2)

 

 

「説明より納得」と言われると
もっともな気がしてしまいがちですが
必要な人にはきちんと説明することによって再認を促すことが大切
ということを前の記事でご説明しました。

ところが、説明しても状況を再認できない方もいらっしゃいます。

そのような時には
1)バリデーションを行う
  個別リハの実施中にはこちらに切り替えます。

2)バリデーションを行えない時
  例えば、集団でのリハを実施中の時には
  あるいは、バリデーションなんて知らないという人は
  こちらの方法をご参照ください。
  
  まず、認知症のある方の状況把握の仕方をよく観察します。

  周囲の状況把握をどのようにしているか
  ということが観察のポイントです。

  帰りたいという理由
  例えば、子供がお腹を減らしている、母親の具合が悪い、バスに乗らなきゃ
  などなどの理由がその方にとってあまりに切実だと
  こちらの声が届かないことが多々あります。
  「うるさい!」と怒鳴られて逆効果になってしまいます。

  そのような時には、安全確保を最優先におこないます。
  (その方自身はもちろん
   周囲にいる他の方の安全確保も図ります)

  認知症のある方の言動を否定せず
  表出した言葉の感情の側面に焦点化してよく聴きます。

  じっとしていられず歩き回ってしまう場合には
  行動を否定せずに安全に配慮しながら見守ります。
  
  周囲の状況が見えていないので
  椅子に乗ったり机に座ったり、
  他の方が座っている車椅子を動かそうとしたり、
  狭いところを歩こうとすることがよくあります。
  危ない行動をしそうな時は、必ず制止します。
  声の調子はその時々で
  ゆったりした口調の時もあれば、きっぱりとした口調を使う時もあります。
  危険度とその方の状態によって使い分けます。

  よく観察していると
  そのうちに、ご様子が変わってくるのがわかります。
  周囲の状況を見ていたり
  表情の険しさが減ってきたり
  口調の荒々しさが減ってくるのを感じることができます。

  そこで
  感覚に焦点化した言葉を使って声をかけます。
  「寒くないですか?」
  「喉が渇いていませんか?」
  「足がかったるくありませんか?」

  これらの言葉に返答してくだされば、一歩前進、誘導可能なサインです。
  誘導可能とはいっても焦ってしまってはいけません。
  焦ると、元の木阿弥になってしまいます。

  大抵の人は
  焦って早く座らせようとか、早く〇〇させようとして
  その方の受け入れ準備状態ができているかどうかの観察をせずに
  一方的にこちらの声かけをしてしまいがちで
  そのために悪循環から抜け出せずにいる。。。というパターンが多いです。

  きちんと観察して
  その方が感じているだろう感覚を言語化した声かけができるかどうか
  が大切なことです。
  そのためにもきちんと観察せねば。  

  それから
  その方が感じている感覚に対応する行動に繋げます。
  寒いと言われたら、膝掛けを貸したり上着を着ていただいたり。
  喉が渇いたと言われたら、飲み物を召し上がっていただく。
  足が疲れたと言われたら、椅子に座っていただく。。。

  「イマ、ココ」という現実に戻っていただくために
  感覚の表現と表現された感覚に基づく行動をする

  その後に、他の方も参加されている集団でのリハに再参加を促したり
  個別リハに再参加を促します。

  この誘導可能性
  「自身の気持ちの中だけにいる状態から
  今の現実の状況を認識しつつある状態への変化」を確認しないで
  最初から集団でのリハ(個別リハ)に参加することを促しても
  決してうまくはいきません。

    ここで提供される集団でのリハあるいは個別リハで
    「やる」ことが、その方にとって明確にわかることである必要があります。

    誘導された時に「何を」「どうするか」が曖昧だと混乱して
    また徘徊を誘発することすら起こり得ます。

  その方の状態
  どんな風に状況を感受・認識しているのか
  を観察・洞察することと
  その変化を感じとれるようになること
  が最も重要なポイントです。

知識がなければ適切な観察・洞察ができません。
変化に合わせて即応できる確かな技術がなければ的確な対応もできません。

まずは、地道にそれらを習得する、表にでない努力こそが必要で
「徘徊する人がいるんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
「高齢の女性だったら、タオルたたみがいいです」
などというやりとりが示している
ハウツー的思考態度は、大問題だと考えています。

  誤解のないように書き添えますと
  タオルたたみそのものを否定しているわけではありません。
  暮らしに近い場面であるほど、手が離せなくて
  ちょっと待っていて欲しいという場面は必ずあるものです。
  そのような時に「しのぐ」ためにタオルたたみが有効であることもあります。
  ただし、「しのぐ」ことと「適切な対応」とは異なります。
  専門家であるなら、「しのぐ」しかないから「しのぐ」対応を選択する
  というように自覚しながら「しのぐ」べきだと考えています。

安易なハウツーを求め
安易にハウツーを対象者に当てはめようとする思考態度は
専門家としての本当に必要な地道な努力を
養成・醸成することを放棄させてしまう恐れがあり
認知症のある方ご本人にとっても
真の対人援助を志している人にとっても
弊害以外の何ものでもないからです。

 

参考:「帰宅要求への対応」よっしーずボイス


  
  

塗り絵の工夫:幼稚に見せない

 

 
シンプルな下絵を幼稚に見せない工夫です。

幼稚な下絵の問題点は下記をご参照ください。
「Activityの提供:本当にあったこと1」

シンプルな構図の下絵を提供する必要がある時には
幼稚な印象を与えないようにひと工夫しています。

下絵の線を筆ペンでなぞります。
筆圧の強弱を調整しながら、なぞっていきます。

筆ペンがない時には
普通のペンで線の太さを調整しながらなぞっていきます。

上の図の左側が普通の下絵。右側がひと工夫した下絵です。
ちょっと和風な感じが強調されて水墨画みたいな雰囲気に近づいて
あんまり幼稚な感じにはならないと思います。