第2回研修会 開催報告


昨日の研修会を無事に終了することができました。
参加された皆さま、どうもお疲れさまでした m(_ _)m

当初30名定員を予定していましたが
希望者が多かったので定員を増やし申込締切も延長して
44名のお申込がありました。
当日参加は29名まで確認できていますが、最終参加者数は未確認です。
アンケートは25名の方にご記入いただきました。(5/15時点)

オンライン開催という新たなツールを入手できたおかげで
遠方の方にも気軽に参加していただける場を作れるようになったことは
本当に良かったなと感じています。

参加者は神奈川県内の方が多かったのですが
宮崎、福岡、大分や広島、岡山県など遠方から参加された方もいました。

ご連絡がつかなかった方も
開催前に無事に連絡できて安心しました。

アンケート結果からは
こちらにある通り「とても臨床に役立つ内容」「臨床に役立つ内容」だったという感想をいただきました。

 


個別にたくさんの記載もしていただき
「具体例があり、わかりやすかった」
「大変勉強になりました」
「大変貴重なお話をいただきありがとうございました」
「ふだん何となくしていることを言語化してもらえ、その意味も教えてもらえた」
「認知症のある方の立場に立って声かけをすることの大切さを学んだ」
「知識が足りない、観察が足りない、まずはそこからだと思った」
「声かけの工夫で関係性や信頼関係も変わってくると思うので実践していきたい」
「対象者の方への接し方などとても参考になった」
「日頃から一人ひとりの能力をちゃんと理解しなくちゃいけないなと思った」
「さっそく実践してみる」
などの感想をいただきました。

 

開催日時については
夜間開催の希望が多かったので
今後も平日もしくは土曜の夜間に開催していこうと思っています。

 
 


講演終了後の相談コーナーでも
昨日はたくさん質問や相談をいただいたので今後も継続していきます。

研修会テーマについては
・Activityの選択や考え方、認知症のある方の集団での工夫、マンネリ防止
・食事
・目標設定
・帰宅要求のある方への対応をもう少し詳しく知りたい
・転倒や拘束予防の工夫
・記憶の連続性を知る工夫
・他職種への伝達の工夫や体験談
などのご希望をいただきました。
今後のテーマ設定の参考にさせていただきます。

研修会を開催してみてわかったこともたくさんあります。
今年度は不定期開催となりますが
私自身がもう少し運営に慣れてきたら
参加される方が前もって予定を立てやすいように
定期開催や年間計画などの計画的開催もできるようにしていけたらと考えています。

次回開催時には
今回の研修会参加申込時に開催通知を希望された方には
直接メールにてご連絡をいたします。

今回の研修会アンケートに開催通知をご希望された方には
連絡先アドレスがわからないので、こちらのサイトか
神奈川県作業療法士会の研修会・講習会をご参照いただければと思います。

私の知見を伝えることで
臨床から学ぼうとしている人たちの役に立てるように
ひいては、認知症のある方とご家族の余分な困難が
少しでも緩和されることを願っています。

研修会メール不着の方へ

 

 

本日11:10に、5月14日開催の認知症研修会のご連絡を差し上げました。
2名の方にはメールが送信できずに戻ってきてしまっています。

お二人ともGメールのアドレスが連絡先となっておりました。
 大分県の作業療法士の方
 神奈川県の介護職員の方

お心当たりのある方は
恐れ入りますが、本サイトの お問い合わせ からご連絡くださいますようお願いいたします。




食具の変更の意味(食事全介助)

 


通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

シリンジで1ccずつ介助したり
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
後述しますが、箸を使うことが有効な場合もあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした問題を抱えていることが多く
ちょっとした問題をちょっとした問題のまま維持することで
食べるチカラを保っていくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、
ちょっとした問題を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避しようとして結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
低下した食べ方をよく観察して
今の食べるチカラでラクに食べられるように食環境を変えることです。
食環境つまり、食形態・スプーンなどの食具・介助方法を変えます。

シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり
液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり
箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
(ところが、再認の能力を的確に把握せずに活用できていない現状があります)
ADLは特定の場面で特定の体験を繰り返すという、再認を促しやすい場面であり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助がその都度再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わなかったり、観察と洞察が不十分な場合には
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしてしまっている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境を変更します。

歯のある方なら
歯を使ってもらうことが
手続き記憶としての「食べる」ことを再認を促します。

歯を使えるように
箸でソフト食や栄養補助食品を介助することで
手続き記憶としての「食べる」ことを再認を促します。

意思疎通困難な方は
意思表示が明確な場合が多く
言語理解が困難だとしても
(この場合も介助者が適切な声かけを選択できていないことが圧倒的に多い)
視覚的理解力は保たれていることが多いので
きちんと食塊認識ができるように
すぐに口腔内に食塊を入れるのではなくて
目の前で食塊をいったん止めることを徹底します。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。
考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのです。
そのような時には、どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

詳しく知りたい方は、こちらの本をご参照ください。


食事介助の現状、現状分析、対応提案について
事例を提示しながら具体的に明確に記載してあります。
きっと「そういうことだったのか!」と思っていただけると思います。


5/20「ショーシャンクの空に」


5月20日の金曜ロードショーで「ショーシャンクの空に」が放映されます。

過去に記事を書いたこともありますが、素晴らしい映画です。
未見の方がいたら是非ご覧いただきたいと思います。

通い系施設で気をつけること

通い系施設の役割の一つとして
在宅で暮らし続ける ということがあると考えています。

主役は在宅

だとすると
通い系施設では
認知症のある方に頑張っていろいろな能力を発揮していただくか
あるいは
認知症のある方にリラックスできる場として過ごしていただくか
ということをまず最初に検討すべきだと考えています。

ケースによっては
介護力が限定的など
ご自宅ではゆっくりと休んでいただくことが最優先となる場合には
通い系施設で頑張っていろいろなチャレンジをしていただく

また
ご自宅でできることをできるだけ長く続けていただけることを優先する場合には
むしろ通い系施設では最大能力を発揮してもらうことよりも
リラックスして安心できるような場で過ごしていただく

その方にとって
通い系施設がどうあるべきか
という中身の位置付けを第一に検討・確認・共有すべきだと考えています。

それによって
声かけの段階づけ、接し方、提供するプログラム、全てが変わってきます。

ところが
通い系施設のその方にとっての位置付けが曖昧だったり
援助職側が良かれと思って単純に最大能力の発揮を要請するような
接し方やプログラム提供になってしまうと
通い系施設では問題がなくても
(正確には問題はあるけれど表面化しないために職員が気づけない)
肝心のご自宅で問題が起こっているー例えば、怒りっぽいという現れー
それが、環境設定の問題として捉えられ再検討されることなく
認知症の病状として捉えられてしまっている
ということって、なきにしもあらずなんじゃないかな?

どこかで大きな誤解があると思っていますが
それは、
「やらないと病状が進行する」
ということ。

やればいいってもんじゃない!
やることのマイナスだってあるのに!って。
と私は常々思っています。

刺激が少ないと認知症が進行する
という言葉も聞かれますが
微妙にあってて微妙に違う表現だと思っています。

「適切な刺激が適切にないことで認知症の進行が余計に進んでしまうこともある」
ということが本来だと考えています。

やり過ぎも、やらなさ過ぎもよくない。
その時その場において、適切かどうかが問われている。
だから、専門家が必要。

当事者として発信する先駆けとなったクリスティーン・ブランデン氏は
ことあるごとに、疲れやすさについて言及していました。
その時点でパワーポイントを作成して
大勢の聴衆の前で講演していた状態の方がです。

  ぜひ
  「私は誰になっていくの?」「私は私になっていく
  を読んでほしいと思います。
  ずいぶん前の本ですが、こんなにも明確に内面を言語化された本は希少です。
  日本の当事者が書いた本とは違う側面がたくさんあります。

傍目には目立たなくても
常に自身でできる工夫をしながら暮らしている
ということを私はたくさんの認知症のある方から教えていただきました。

ところが
多くの場合に、「認知症→能力低下→能力低下しないように」
という考え方がまだまだ残っていて
できていることの中にも、できないことの中にも、常に能力は発揮されている
という観点を持っている人は本当に少ないのが現状です。

このあたりは
身体の働きに言及されることなく
一気に高齢者の廃用モデルが浸透したこととも無関係じゃなくて
日本人は
「自分ではやろうとしないからやらせる」
「もっとがんばれ」
っていう精神論が好きな人が多いんじゃない?
って思ってしまいます。。。
だから、食事介助なんかでも
「食べさせる」人は多くても
「食べる援助をする」人は少ないし
その違いがわからないんじゃないかと思ってしまいます。。。

話が脱線してしまったので元に戻して。。。

通い系施設で
認知症のある方に頑張って能力発揮していただけるようにするか
能力を把握した上で敢えて発揮する機会を積極的に作るよりも
リラックスすることを主目的とするか。。。
それは固定的なものではなくて
流動的な変化するものだから
その検討・確認・共有化が本当に大事
だから、施設内スタッフはもちろん、ご本人やご家族、ケアマネさんや
他の利用サービス担当者も含めて本当に大事。

その上で
主役である在宅での暮らしぶりについてのフィードバックが大切で
良いことだけでなく
負担感のわかりやすい目安としての
疲労や怒りっぽさ、今までご自宅でしていたことを継続できているかどうか
などについては、関与する人みんなへのフィードバックと関与の再検討が必要だと考えています。

豚肉のトマト炒め

 


豚肉は下茹でしてアクをとります。
フライパンで炒めて
軽く焦げ目がつけます
次に薄切りにした玉ねぎを入れて火が通ったら
薄切りにしたピーマンを炒めて
最後にトマトソースを入れて
中濃ソースを大さじ1〜2杯ほど入れて炒め合わせたら完成!

我が家愛用のトマトソースはこちら


トマトソースがない時には
ケチャップを多めに入れてから中濃ソースを入れて炒め合わせます。

ケチャップやトマトソースは必ず肉や野菜をどけてフライパンに直接入れます。
ケチャップを炒めると酸味が飛んで味が濃くなって美味しいです (^^)

ROMとMMTの諸問題(ごむてつ)

【ROMとMMTの諸問題(ごむてつ)】

30年近く前のことだが、友人に「ロムって何のことだ?」って突然聞かれたので、「ROMっていうのはRead Only Memoryのことで、RAMはRandom Access Memoryで…」なんて頓珍漢な返答をしてしまったけど、聞かれたのはパソコンのことではなかった。

聞いてきたのは、当時同僚の友人OTである。
ROMもMMTも知らないOTなんかいるわけないだろ!と思うも知れないが、それがいたのである。

俺はもちろんROMもMMTも一応学生の時にはやったから一応知ってるけど。
ROMって何の略だっけ?関節可動域か? Range of Motionだっけ?
MMTは徒手筋力テストだっけ?Manual Muscle Test か?
正直、もう忘れた。思い出す気も調べる気もしない。

聞いてきた友人は、1980年代の初め米国の大学院に留学してOTの資格もとったのだが、米国ではROMもMMTもブルンストロームも聞いたことがないと言う。
米国の大学院に留学したOTは多いけど、彼のように米国でOT資格も取った人は珍しい。大抵の人は日本でOTの資格をとってから留学している。
(少なくとも当時は)米国のOT資格がそのまま日本で通用するわけではないので、日本に戻ってからまた国家試験を受けるのだが、専門用語は英語で覚えているし、米国では聞いたことがないような問題が出てくるし、たいへんだったらしい。

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今でもそうかもしれないが、私が一応OTだった2~30年前は短大や専門学校の2年生(大学だと3年か?)になると、RAMとMMTの実技テストは一大イベントであった。盆と正月とお祭りが一緒に来たように、教官も学生も急に色めき立って大わらわ。出来が悪いと落とされて何度も追試を受けなければならないことは、既に先輩たちから話も聞いている。あまり出来が悪いと単位がとれず留年になる。

その友人OTが「何であんなことやるんだ?」と言うので、「学生は人の身体に触れることも慣れてないし(今は慣れているのか?)、人に指示することも慣れてないし、そもそも実地テストなんかも受けたことがないだろうし、解剖学や神経・筋の知識のおさらいみたいなものだし、通過儀礼のようでもあるし…」なんて一応答えたのだけど、彼は全然納得してはいないようだった。
思い起こせば私も学生時代からあまり納得していなかったのだが。

正直言って、リハの学校に入ったときは、精神科志向は強かったものの特に決めていたわけでもなく、身体的なことや運動のことなどにも関心はあったのに、学校に入ってから徐々にOTには失望が強くなり、特に身障系には関心をなくしたのはROMやMMTがきっかけだった気がする。
もちろんそれ以外にも理由はいろいろあるけど。

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ROMやMMTが全く必要ないと言うわけではもちろんないので、念の為。
MMTは御存知の通り、中枢疾患だと殆ど意味をなさないし。
例えば筋ジストロフィーや頸髄損傷の不全麻痺とか、必要なら場合に応じてやれば良いと思う。
それにしてもやはり評価は臨床観察が主体であり、テストは一資料を得るだけで、そのための補助に過ぎないと思う。
テストの結果を積み上げても評価にはならないし、それだけでは治療目標やプログラムも立てられないだろう。今後いろいろなテストができてデータが得られるようになったとしても。

いずれにしても適用は限られ、必要に応じてやれば良いと思うけど、ROMもMMTも適切に行われているのだろうか?
OTPTの教義のように金科玉条になっていることは納得できないし問題かと思う。大げさに言えばOTの臨床的能力や技能のレベル向上をむしろ阻害している気もするし、そんなことばかりに労力や時間を使うのは無駄な気がする。
他にやらなくてはいけない重要なことがいくらでもあだろうし。
学生の勉強も臨床でも。

ROMテストや訓練の問題

俺はOTの学校に行く前は自転車の仕事をしていたので、その頃は直線が交わる角度なんてパッと見ただけで±0.5度単位なら正確にわかった。今は自信ないけど。
職人はそんなもんいちいち計っているようでは仕事にならない。もちろん確認のためには計るけど。

骨は直線ではないし計測ポイントもピンポイントではありえないので、そんなに正確にはわからないし、5度単位で良いならなら見ただけでわかるし、角度計を使えば精度が保証されるわけでもないし、そもそもデータが大事なわけでもない。
むしろ観察で状態像を把握しておくことは重要である。

きちんと観察・把握できていれば特にROMテストは必要ない場合も多いだろうし、関節可動域制限があるにしても、それ自体が問題なのかどうか?
セラピーの時だけROM訓練をやってもあまり効果はなく、直ぐに戻ってしまうのではないか?といった有効性の問題もある。

こういうのは有効だと思う。
スポンジでROM維持 ? 月刊よっしーワールド (kana-ot.jp)

前述の友人OTは訓練器具なんかも工夫して作っていたけど、そういうことをする人もあまりいないのでは?
なんで皆、あまり工夫しないんだろうか?という気もする。まさか今どきサンディングでも無いだろうし。

我々の頃は脳卒中の急性期には後のリハビリの妨げにならないようにROM訓練が必要だなどと言ってた気がする。適切に行えるかという問題もあるけど、むしろ看護や介護の役割という気もする。。

こんなこと書くとまた叱られそうだけど。
いずれにしても漫然とやるのではなく、必要な場合に適切に行うべきだろう。

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運動療法や機能訓練をきちんとやっていれば状態像の把握もできるし、要は動かせれるようになれば関節可動域も徐々に広がるし、当人自身でもある程度できるのではないか?

機能的なOTとか、神経筋促通手技とかファシリテーション・スキル、テクニックというのだろうか、ボバースとか?
やっぱり麻痺や上手く動かせないのを動かせるようにするのがリハの基本だろう。100%の回復は無理だろうし、限度はあるにしても。
そうしたことをきちんとやるならROM訓練を兼るだろうし、実際に動かせるようなって動かしていれば、ROMはある程度広がるはずだ。それでは支障があるならやはり必要に応じて適切にやれば良いだろう。

卒業生のOTいる病院に行くと何となく、あやしげな雰囲気を醸し出してROM訓練?をやっていたりした。
「痛みますかぁ~?」とかなんとか言ったりなんかしちゃって。
あれは一体何をやっているんだ?ストレッチか?

一対一でつきっきりでやると時間をとられるし、他にやることいくらでもあると思うのだが。実は何をやって良いのかわからなかったり、できないのでROM訓練をやってる人も多いのではないだろうか?
脳卒中のOTなど、ROMとActivityだけで良しとしている人はいないだろうか?
ROM訓練をやっているといかにもリハビリをやっているという自己満足がOTの側にも患者の側にもあるのかとも思うけど。温泉場のマッサージとかならそれでも良いだろうけど、医療としてやるのは問題もあるような…
悪く言えばリハビリごっこ、というのは言い過ぎか?

MMTは必要か?

ROMと違ってMMTは実際の臨床場面ではあまり行われておらず、もう忘れてしまったOTもいると思う。ご存知のように中枢疾患には適用できないし、適用の対象や範囲は非常に限られる。使わないものを学校でやってもしょうがないのでは?もっと基本と応用が可能となる考え方や方法を身につけることが必要かと思う。

たいして使いもしないのに、あたかも重要な臨床の基本のように扱うのも問題だが、むしろ一番大きな問題は、臨床の基本である運動学的理解の妨げになり、阻害していることではないか?と思う。もちろん知識それ自体が理解の妨げになるわけではなく、教育過程や理解や実践のプロセスとして。

筋の起始停止やら神経支配や主な動きを憶えてMMTを身につけると、運動の基本がわかったような気になってしまうかも知れないが、それだけでは全く応用が効かない。
もちろん、それらを知らなくても良いわけではないが。
MMTを身につけても神経・筋に関する学習にはなっても、運動の理解にはなかなか至らないのではないか?

実際に運動学的理解がMMTレベルに留まっている人も少なくない?というのは言い過ぎかも知れないが、OTもPTも臨床で必要な基本的な運動学の知識や理解に乏しく、あまり臨床に役立てられない人もいると思う。

MMTは基本的には単関節の一方向に関する運動として、個々の筋、もしくは共働してはたら筋群の働きについて調べるのだろうけど、これが一致しているとも限らない。結局何をテストしているのか?ということにもなる。

複雑で理解し難いことは、単純な要素に分けて理解し考えてから再統合することにより、全体の理解につなげることも一つの方法であるが、MMTはむしろ実際の運動からはかけ離れているので、そこから脱却するのが難しくなると思う。

実際の運動は単関節運動であることは殆どなく、殆どの動きは連続三次元である。
MMTの呪縛から離れられないと、どうしても運動を二次元でとらえてしまいそこから脱却するのは難しくなるのでは?
筋肉自体も二関節またはそれ以上の複関節にまたがって作用するものが多く、むしろ単関節筋は少ないし、昔のロボットみたいな動き方は実際には殆どない。

正確なテストのためには「代償運動」にならないようにする必要があるが、実際の運動はむしろ複合的で代償運動に近い場合が多い。
連合反応はMMTでは排されるが、実際の運動は連合的、複合的であり、部分的な小さい運動にも全身が関係する。

上腕二頭筋も三頭筋も、大腿四頭筋もハムストリングスも、前腕の筋も下腿の筋も主要な部分は二関節筋であり、実際の筋肉の殆どは二関節筋やそれ以上の複関節筋で、動きも当然複合的である。

拮抗筋は拮抗するだけでなく共同して働く筋でもある。同時収縮や共同収縮の場合、拮抗筋が相反する方向に力が入れば、力が入るのに全く動きにならないが、共同して補助する働くことにより、強い力を発揮する作用もあるし、目的に合った適切な運動を補助する働きもある。

例えば前腕の屈曲を考えた場合、上腕二頭筋に対して上腕三頭筋は拮抗して屈曲を妨げるが、この拮抗筋の働きがなければ、上腕二頭筋は十分に作用せず、屈曲の力も弱くなるし、他者がもしくは固定物などで保持したり固定しなければ共同運動になってしまい、肘関節の屈曲だけの働きは不可能になる。

筋力があるのに動かせない。テストの点数は1?

拮抗しているだけでは収縮はあっても、重力にも検者の抵抗にも抗することはできず、4~5以上の筋力があっても1になってしまうという問題もある。

しかしテストの中にはそうした観点は入っておらず、実際には観察でかなりわかることではあるが、観察で得たことはむしろ主観的な見方として排除され、臨床に役立つ知識や技能には役立てられない恐れがある。

こうした問題に気づいたのは学生のときであるが…

OTの学生の頃の私は肩甲骨のリトラクション、プロトラクションの動きができなかったのである。内転(僧帽筋中部線維、大小菱形筋)?外転(前鋸筋、小胸筋、僧帽筋上部線維)かな?よくわからんけど。

自分はそのような動かし方がほぼ全くできないので、できなくても当たり前と思いこんでいた。鼻の穴を膨らませたり、耳を動かしたり、足指を別々に動かしたり、できる人とできない人がいるが、そのようなものかと。

この動きを上手く利用できなければ、投球やクロールで泳ぐなどの肩を大きく使う運動は殆どできない。私は実際にそうしたことが極度に苦手だったのにその理由がわかっていなかったのだが、その一つの大きな要素はそうしたことだった。

PTの人など運動が得意でその延長でセラピストになった人も多いようだけど、むしろ運動が苦手な人の方が向いているかもしれない。スポーツ選手としては優秀でもコーチや指導者などに向かない人がいる。できる人はなぜできて、できない人はどうしたらできるようになるのかわからず、考えてもこなったような人は向かないだろう。

もちろん私は身体的には「健常者」で運動麻痺はなく、ちゃんと神経はつながっているし筋肉も収縮するのであるが、力を入れても共同収縮、拮抗作用になって動かせない。従ってMMTの評価としては1になる。筋力はそんなに強くないにしても十分あるのだが。

要するに上手く神経が使えておらず、必要な力を入れて不必要な力を抜くことができず、無駄な力ばかり入ってしまう。

原因はよくわかった。
要するに精神疾患の症状である。動かせないのに、むしろいつも力は入っており緊張している。
リハ学院に入った頃は、精神病は随分良くなっていたのだが、私は早期から重症だったので、幼児期から身につけるべきことの多くが身についておらず、良くなっても大人になってからも中々身につかないことがある。それ以前にその必要性にも気づかなかったのでだが。

実際に精神疾患の人を見ているとそのような人は多い、というより殆どかもしれない。肩を動かそうとしても体幹や別なところも力が入って動いてしまう。腕も一緒に動いたり、顔まで力が入ったり。
当然のこと、普段も無駄な力が入りがちで、肩こり症にもなっているのだが、しばしばというより大抵は自覚もない。酷い人の方が却って自覚しにくいかも知れない。

稀ではあるが、肩甲骨の挙上(肩をすぼめる)ことができない人もいる。
若い女性なのにプロレスラーみたいに肩の筋肉が盛り上がっているのに、力が入るばかりでむしろ抜くことはできず、上手く動かせないのである。筋肉は身体を動かすためにあるのだが、むしろ緊張し動きを邪魔するための筋肉になってしまっている。

そういう人は書痙、振戦も酷かったが、やはり肩こりにも肩に力が入りすぎていることにも自覚はなかった。震えないようにすれば余計に無駄な力が入ってしまい、却って震えてしまう。

私は身体障害のリハは殆どできないが、こういった中枢の問題はなく、精神的な緊張が身体にも現れ、様々な支障をきたしている人を治療するのはもちろん得意中の得意である。
医学的な基礎知識はそれなりに役立っているけど、勉強不足と言えばそのとおりだが、正直なところOTになるための勉強は殆ど役には立っていない。
個人的に師事した心理療法の師匠の教えと、自分自身と患者の観察、洞察・理解によりわかってきたことである。

自分のことをついつい語ってしまうが、話を戻すと…

MMTは5段階評価とは言え、検者の主観によって判定するものであり、データ化できるわけでもなく客観性にも乏しい。抵抗に抗してと言ってもその抵抗の強さが問題でもある。などなど様々な問題も指摘されているが…
実際のリハの場面で必要な場合があるにしても臨床には役立てるのは難しいのではないだろうか。

運動の基本は…

階段を昇るにも、自転車を漕ぐにも、立ち上がるにも、股関節伸展、膝関節伸展、足関節伸展を同時に行う。

それらの筋の組み合わせ、収縮のバランスで実際の運動は行われている。

実際には重力は除去できないし、一定の方向(鉛直?地球の中心)に向かって一定の法則に従って作用している。
もちろん実際には重力の方向は鉛直に決まっているし、質量が決まっていれば大きさも変えられず、重力に従うか利用して、あるいは抗して運動するしかない。

たいていの日常生活における運動は、立っているか座って行っている。
そうではない運動は、実際には水泳などのスポーツや、ベンチプレスみたいなトレーニングとか美容体操くらいで、一般人の日常生活ではあまり必要がない。

MMTをやる時のように、肢位を変えて重力を除去したり、(身体に対して相対的に)重力の方向を変えて運動するなんてことは殆どない。
それを理解することは訓練に役立つことはあるだろうけど。

しかしMMTのように肢位を変えることにより重力の方向を変えるという発想を身に着けてしまうと、むしろ重力の働きを理解するのは難しくなってしまうの可能性がある。
一度観点や発想をリセットして、日常生活では重力の方向は決まっていることを前提として考え直し観察できるようになる必要がある。

MMTをやってはいけないわけではもちろん無いし、必要な場合もあるだろけど、学生のうちからそことをばかりやっても、臨床的な応用が効かない知識の蓄積になり、むしろ運動学的理解の妨げになってしまうのではないかと懸念する。

繰り返すが臨床の基本は観察であり、テストはむしろそのための補助に過ぎず、テストの結果をいくら積み上げてもそれだけでは評価にはならない。
テストよりも臨床観察を身につける方が大事で、臨床的にも応用が効くはずだが、そうしたことは少なくとも私の知る限りでは、複数の学校のいずれもPTはともかくOTでは殆どやっていなかった。

ここでお題を

立ち上がりや階段を昇るにしても、下肢の運動でとても重要で頻度が高く、大きな力を出す必要がある動作は、股関節を伸展させると同時に膝関節も伸展させる運動である。
自転車のペダルを踏むにしても、身体は持ち上がらず、その代わりにペダルが下に下がるのだが、基本的には同様の運動だ。
しかしそのように股関節伸展と膝関節伸展の同時に作用する筋はない。

この時、力を使うのは大腿前面の筋、大腿四頭筋(主に大腿直筋?)であるが、それは膝関節には伸展に働くが股関節は伸展ではなくむしろ屈曲に働く。
しかしなぜ大腿四頭筋を最も使うのか?
四頭筋に力が入ると、股関節の伸展に働くハムストリングスや臀部、股関節周囲の筋に対して拮抗筋として作用するのに。

逆に椅子に座るなどの動作も、関節の動きとしては、股関節は屈曲し膝関節も屈曲するので真逆になるけど、やはり同様な筋肉の使い方になる。
単関節筋だけに着目すれば、短縮性収縮と伸張性収縮の違いになるが。
これには重力が大きく作用するけど、もちろん立ち上がる時にも重力は同様に作用している。

当たり前だけど筋肉は伸びる方向に力を発揮することはできない。
等張性収縮、等尺性収縮、短縮性収縮、伸張性収縮などの運動学の概念をきちんと実際に則して理解しておく必要がある。
もちろん言葉を知ってるだけでわかった気になってはダメだ。

こうした事象をきちんと十分に理解した上で、立ち上がりや椅子に座る、階段の上り下りや自転車を漕ぐなどの運動を、きちんと明確に説明できる人はOTやPTにも実は少ないのではないか?
人間工学とか、スポーツの専門家や指導者なんかも同様だと思う。

もちろん皆ではないが、そういう人が意外に嘘を平気で言うことがある。
要するにわかっていないのに専門家のつもりになって間違ったことを言うから嘘になるわけだが、違和感があっても自分をごまかしたり。

私の知る限りでは自転車関係の人はかなり酷いと思う。
ペダル漕ぐなんて運動は、機械的に決定づけられており一定の方向にしかできないのだが。自転車は単純なだけに1つの要素がいろいろなことに関係しており、無限に複雑でもあり難しく、だからこそ面白いのだが。
データをとるのも速度以外、事実上殆ど不可能だけど、習熟すれば自分で試して体感や経験で知ることはかなりの程度で可能である。
自分の身体に聞け、感じて考えろ、ということだけど、これまたけっこう自分で自分をごまかしたりもしがちである。人間の感覚はかなりの敏感であると同時に無自覚に歪曲もされやすい。
自転車となるとついつい語ってしまい、話がズレたが…

よくわからない人は、学生時代に運動学を習った先生にでも聞いてみたら良いけど、もしかしたら授業でも殆ど習っておらず、先生でもあまり説明できないかも知れない。
俺は十分ではないにしてもこうした運動について一応説明できるつもりだけど、専門でもないし正確に記述するのはやっぱり難しいと思う。

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今回もまたOTの皆様からは反感をかったり、お叱りを受けそうな記事ですが。
私は精神疾患のセラピストで、とっくの昔にOTは辞めており、身体障害のリハは正直あまり関心もなく、殆どやってもいないので間違いや不適切な記述もあると思いますが悪しからずご容赦願いたい。
それでも敢えて書いた主旨や意図をご理解頂き、何かの参考にして頂ければ幸いです。

叱らないで 青山ミチ


https://www.youtube.com/watch?v=XSKu9u3W0nY

DoとBe(優しくする?優しくなる!)

 
認知症のある方への対応で
「優しくする」
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
等と言われています。

これらの常識化している対応について
何回も過去の記事にて疑問を提示してきました。

優しくするということは、優しくない ということです。
DoBeの違いです。

結果として優しくなるように
認知症のある方の状態がありありと実感を持って
わかるようになることの方が大切だと思う。

「大声を出す」「抵抗する」
というのは結果として起こっている表面的な事象に過ぎません。
表面的な事象に反映されている、なんとかしようとしている
その方の意図と能力がわかれば
結果として優しくなるし
否定できなくなるし
敬服したくなるし
少なくともキツい言い方は控えたくなる

認知症のある方は決して何もわからないわけではありません。

表面的に口先だけ、優しくしても、褒めてあげても
本心は伝わる
このサイトにお立ち寄りくださっている方なら
そういった実感をお持ちなのではないでしょうか。

本心として認知症のある方の努力と能力が実感できるようになるためには
知識をもとにした観察と洞察が必須です。
地道に努力を積み重ねれば誰でも実践できるようになります。
今まで「あぁすればこうなる」式のマニュアルやハウツー以外の思考を
したことがないと最初は大変に感じると思うけど。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
「あんたが一番好きなんだよ」
そんな風に言われたり
認知症のある方が過去に信頼していた人と私を誤認したり
他の人の前では見られないような能力を発揮する場面を共有できたり。。。
このサイトに立ち寄ってくださっている方は
きっと同じような体験をしたことがあるんじゃないかなぁ?

「よっしーさんは、認知症のある方が嫌がることはしないから好かれる」
「毎日接していると違うんだね」
などと言われたこともありますが (苦笑)そうじゃない。
それは認知症のある方をバカにした言葉です。
  嫌がらずに対応できたらサイコーだし
  毎日接しているからこそ嫌がられる人だっているし

認知症のある方の能力を実感できていないから
そんなことが言えるんです。

ケアやリハの場面において
根底にどれだけ理解の実感があるのかということが
信頼関係に一番重要なんだとまさしく実感しています。

 

概念の本質を伝える・理解する

 


観察・洞察は臨床能力として最も必要な能力だと考えています。

評価とは観察・洞察であり
その観察・洞察を補い明確にするためにテスト・検査があると考えています。

ところが、現実には観察・洞察よりも客観的とされ、各種テストの実践が重要視されています。

でも、その結果、いったい何が起こっているのでしょうか?

五角形模写課題や立方体透視図模写テストをするOTは多いけど
「構成障害とは何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTは少ないものです。

トレイルメイキングテストをするOTは多いけど
「遂行機能障害って何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTがどれだけいるでしょうか?

これって、本末転倒ですよね?

概念の理解ができていないのに、テストだけできたって、
テストの結果は出せても、対象者の状態把握にはなりませんよね?

かくいう私も、学生時代には教科書に書いてあることを丸暗記していただけで
概念の本質を全く理解できていませんでした。

臨床家になってから、必然として
そのような自分の傾向が問題だと明確化することができるようになりました。

そうすると
わかってきたこともあって
そもそも、学生時代に概念の本質を理解することの重要性を教えてもらったか?
概念の本質を理解するように促してもらえるような教育だったか?
と考えた時に答えは NO だったんです。

もちろん、当時はまだリハもOTも黎明期だったので
教員だって手探りだったこともあるでしょう。
でも、だから、むしろ、本当は必要だったと思うんです。
本質を学ぶことが。

本質を学ぶということが疎かになった弊害
本末転倒、主客転倒、ってたくさんあるように感じています。

その一つが
テストはしても障害の概念を理解できていない。という表れであり
人は環境との相互作用の中で能力を発揮するものだという認識の欠如となっていると思います。

具体的に言うと
生活期において身体の使い方を再学習できるように援助できない
介助の問題
なのに
立ち上がれないお年寄りや食べられなくなっていくお年寄りに対して、
原因を廃用と鵜呑みにして
立ち上がり100回やらせたり漫然とした筋力強化をやらせたり
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作を続けながら「パタカラ」と言わせたり
etc.etc.

問題の現れ方として
ハウツーを求める臨床思考になってしまうし
組織の課題解決に際しても前例踏襲になってしまうのだと思う。

その場しのぎができるのも能力のひとつだとは思うし
その場しのぎが必ずしも悪いわけじゃないとは思う。
悪いのは、その場しのぎなのに本質的な対応だと誤認していること

その場しのぎの臨床思考と本質的な臨床思考とそれに基づく対応は
見た目同じように見えることがあったとしてもまったくの別物

なんだから、それを踏まえた上でその場しのぎをすればいいと思っています。

でも、そうはなっていないような。。。

養成校の教員は
昔に比べて卒前に教えなければならない知識の膨大さに
大変なご苦労をされていることと思います。

でも、卒前の教育が学生に与える影響はとてつもなく大きいので
教員にも本質を伝え学ぶことの重要性を再確認していただきたいものです。

例えば
目標設定について
私の講演を聞いた学生や臨床家は「とてもわかりやすかった」という感想を寄せてくれます。
その中に聞こえてくるのが
「臨床で使える」「目標とは何かがよくわかった」「維持は目標じゃないと言われて困っていた」「自分の今までの目標はなんちゃって目標だった」という声です。

また、複数の養成校の教員のレジメや論文に
「目標」という文言を用いながら
実際には、目標ではなく目的や治療内容が記載されている例も散見されます。

目標の概念がわからない人が教えているのだから
当然学生はわからない、誤認してしまいます。

目標設定でさえ、このような状況だとすれば他も推して知るべしでしょう。
(もちろん全ての養成校の全ての教員がそのような状態にあるとは思っていません)

また、すべてが卒前の養成課程にあるわけではなく
個々の職場での卒後の臨床教育の問題もあるでしょうし
何よりも本人自身の自覚と態度が一番の問題だと思いますが

「チームジャパン」という掛け声はあちらこちらで聞くようになりましたが
本当に総動員でなんとかしないといけないのは
「本質を学ぶ」「本質を伝える」
ということなんじゃないのかと感じる今日この頃です。


刺激がないと認知症が進行する?


「刺激がないと認知症が進行する」
って言う人、いますよね?

認知症のある方にいろいろなActivityを提供する人もいるでしょう?
「刺激があった方が進行を予防できる」
「私と一緒にやるから大丈夫」
って言う人もいるでしょう?

この言葉は
構成障害のある方には禁句なんですけど
認識できていない人がまだまだ多いんだなーって感じています。

よくよく観察していると
隣で一緒にやって見せてるのに、どうしても違うことをしたり
Activityの最中に突然怒り出したりする方に遭遇したことがありませんか?
認知症だから怒りっぽいんじゃなくて
怒るという表現でしか、気持ちを表出できないだけで
怒らせるきっかけを作っているのは善意の職員というパターンが結構あります。
このことは後日改めて詳述するとして。

刺激がないから認知症が進行するわけではありません。
やればいいってもんじゃないのです。

私はもっと正確に
「刺激があれば良いわけではない」
「適切な刺激がないと、認知症が進行する」
「適切な刺激でないと、不安感や混乱から生活障害やBPSDが増悪する」
と言い換えたいと思います。

認知症のある方をよく観察している方なら
楽しいはずのレクの後で
混乱したり不安になったりした方を知っているはずです。
作品は仕上がったけど
あれこれと指図するのは職員で
認知症のある方は必死になって言われた通り、
介助された通りに手を動かしているだけ
ということに気がついているはずなんです。

心のどこかで
「これは私が『作らせた』もので、この方が『作った』ものじゃない」
こんなやり方で本当にいいんだろうか?
って感じている人がいるはずなんです。

手工芸というのは
目に見えて仕上がっていきます。
上手にできれば達成感が得られます。

逆に言えば
「うまくできない」というフィードバックも明確に入りやすいので
不安や混乱、不満や不全感を抱きやすい場面でもあるのです。

「Activityはやることに意義がある」
わけではないということを強調したいと思います。

「Activityを通して、自分は自分である」ことを
再体験・再確認できることに意義があるのです。

そのためには
適切にActivityを選択することが必要です。

その方に「向いている」Activityを提供する必要があります。
単に「できることをする」のでは逆効果になることすらあります。

Doではなくて Beを重視するのです。

ぜひ、こちらもご参照ください。