ADL低下予防を実践する時の心構え

 


皮肉だなーとは思いますが
本当に予防できた時って、その効果を誰にもわかってもらえなかったりします。
起こると予測されたことを未然に防げた、つまり、現実には起こらなかったことだから。

私は認知症のある方の
一見、できないというカタチで現れる行動に反映されている能力を見出し活用する
ということをとても大切にしてきました。

そして同時に
一見、できるというカタチで現れる行動に反映されている困難を見出し最小化する
ということもとても大切にしてきました。

わかりやすいのが食事場面です。
食事を自力摂取できている方だと
どんな風に自力摂取可能なのかという質的側面を見落としてしまいがちです。
ものすごい把持の仕方をしていても、
代償的な取り込みをしていても、
「今、自分で全量食べられる」という状態だと「問題なし」と認定され
現在の過剰代償という認識も
将来起こるかもしれない困難があると予測することも
将来起こるかもしれない困難を最小化するための手立てを今とっておくことも
いずれも「何言ってんの?」「ちゃんと食べてるじゃない」としか認識されずに
対応が後手に回ってしまいがちです。
そして、思った通りの事態が生じても、
過去に指摘したことについては忘却の彼方となっていて
議論が進まず、いちゃもんをつけられたとしか受け止めてもらえなくなったりということも
現場あるあるです。

特に食事介助というのは
ご本人にとっても介助者にとっても大変な場面ですから
できるだけ自力摂取を推奨したいものです。
こんな時に説得力があるのは、過去にいた対象者の方の状態像を引き合いに出して説明することです。

  研修会では「事例があるとわかりやすい」のは
  テーマ問わず職種問わず、共通してよくいただく感想でもあります。
  抽象的な説明を具体的にイメージすることが容易となるからです。
  写真や動画があるとわかりやすい、納得感があるというのも同じ理由です。
  ましてや、文化の変容で本を読まない人が増え
  文字情報から視覚的情報を自身で構築するという体験が乏しい世代にとっては尚更です。
 (当人は体験したことがないので説明してもわからないという
  暗黙の前提要件を共有化できないところを踏まえた説明が必要となります)

  
〇〇が起こることを未然に防ぐために△△するというのは、抽象的説明です。
しかも〇〇が起こる恐れがあるということすら知らない人にとっては余計です。
具体的にイメージできないので、「理屈ばっかり言って」と受け止められかねません。
そこで、共通体験として共有できている事例を引き合いに出して状態像を説明すると
聞く耳を持ってもらえることがあります。
  
「Aさんは最初食事自力摂取できていたけど、だんだん食べこぼしが増えたじゃない?
 あれってスプーンと手指のフィッティングの問題で、
 フィッティングの問題を解決すれば自力摂取が続いていた可能性が高いの。
 今、BさんがAさんと同じ状態だからスプーンの柄にこういう工夫をしてるんだ。」
そうすると必ずスプーンの柄に工夫をした時としない時とで食べ方が違うということに
気がついてくれる人が出てきます。
   
このような体験の繰り返しをすると
「よっしーさんの言うことには必ず意味がある」
 (この言葉を言われた時にはすごく嬉しかったです)
ことをわかった上で実行してもらえるようになります。
  
でも、みんながみんなそうじゃないことだって現場あるあるですよね。
そうなるとここで温度差が出てきてしまいます。
工夫したスプーンを使わないから食べこぼしが増えたのに
食べこぼしが増えたのは「認知症のせい」「認知症が進行したから」
という理由づけをされてそれでおしまい。ということも現場あるあるです。
食環境の重要性の認識がなければそのような思い込みに一層の拍車がかかります。
そのような職場環境だと、予防するために為した
さまざまな実践の意味も効果もわかってもらえることはほぼないと言えるでしょう(^^;

でも、諦めないでほしい。
大切なことは、あなた自身の言動を通して世界に表明することだから
誰にわかってもらえなくても
助けた対象者自身にすら理解してもらえなくても
あなたの実践には意味がある。
今は誰にも理解されず辛い気持ちはよくわかるけど
この体験は必ず後になって、線を結ぶことにつながる
だから自身の実践の確度・精度を高めることの方がずっと重要

  点と点がどんな線を結ぶかは、後になってからでないとわからない
  ということはあちこちで言われていますし
  まさにそうだと思う。

ADL低下予防に取り組む時には
本当に効果的な実践ができた時には
そして周囲の人の理解が及ぼない時には一層
効果があったからこそ誰にもわかってもらえないものだという心構えをしておくこと
皮肉なことに
本当に大切で有効な予防策を実践できた時ほど理解してもらえないものなのだと
予め心構えをしておくことが
自身の心を守ることにもつながります。



拒否?食べたくても食べられない!

  


認知症のある方の食事介助にあたって
介助する人の悩みでダントツに多いのが
「口を開けて(食べてくれない)」
「ためこんで(飲み込んでくれない)」
「介助を拒否して(食べてくれない)」
つまり「食べて欲しいのに食べてくれない」という悩みです。

これは本当によくわかります。
普通に考えて、たとえば家庭でも
我が子のためにいろいろと工夫して作ったものを
「いらない!」「食べたくない!」って言われたりしたらショックですよね。
でも、同時に心配になりませんか?
具合が悪いのかな?って。

認知症のある方や生活期にある方もまったく同じで
具合が悪くて食べられないってことも相当数あるのです。
食べられない方は、まず、健康チェック!
どこか具合が悪いんじゃないか?
医師でなければわからないことも多数あります。
きちんと症状を観察して報告する必要があります。

その上で
本当は食べたいのに食べられない
食べようとしているのに食べられない

ということもまた、相当数あるのです。

コップを噛んでしまって水分摂取ができない
スプーンを噛んでしまって食べさせてあげられない
口を開けてくれない
ためこんで飲み込んでくれない
大声が続いて食べてもらえない
開口した時に舌が硬口蓋(上あご)に張り付いていて介助できない
介助しようとすると顔を背けてしまう etc.etc.。。。
そのような方が食べられるようになったケースをヤマほど体験しています。

    先日のネスレ日本さんのオンラインセミナーで紹介した
    3例の事例はごくごく一例に過ぎません。
    「見立てを間違うととんでもないことになる」
    「評価が大事、観察・洞察が重要」ということをお伝えするために
    伝わりやすいと思った事例を選んで紹介しただけです。

どのケースでも、
食べてくれない、食べようとしない のではなくて
本当は食べたいのに食べられなかった のです。

認知症のある方や生活期にある方で
食べることに困難がある場合に
「食べようとするんだけど〇〇になってしまって食べられないんです」
「食べようとするんだけど△△という介助では食べにくいんで⬜︎⬜︎という介助をしてほしい」
言ってくれることはありません。
そこをこちらが観察して洞察しなければ。

スティーブ・ジョブズは「意図こそが重要」と言いました。
本当にその通りだと思います。
意図によって観察から得られる結果は大きく変わります。

「食べてくれない」方に対して
「どうしたら食べさせることができるのか?」という意図のもとでは
いくら観察しても、その方が食べられるような洞察を得ることは叶いません。
その方には、食べたくても食べられない、食べようとしても食べられない必然があるからです。

問題設定の問題が起こっているのです。
逆に言えば、問題設定を変えれば良いだけです。

特別な研修を受けずとも、お金をかけずとも、今すぐにどんな人にでもできることです。

でも、多くの人が問題設定を変えようとしません。

変化への抵抗が起こるのです。

    古くはガリレオに始まり、ゼンメルワイスや小笠原登
    みんな当初は否定され、迫害と言っていいような抵抗を受けました。
    でも、最終的には彼らの正当性・先見性を歴史が証明しています。

ここで2通りに分かれます。
変化への抵抗を乗り越えて自身の問題設定を変更する人と
変化への抵抗に向き合いたくないために問題設定の変更を要請した提案そのものを否定する人と

私たちは対象者の利益のために働いているのですから
対象者が食べられるようになるための方策を選択すれば良いだけです。

科学は過去の知見の修正の上に成り立つ学問です。

修正を恐れることはないのです。

新たな知見
常識化していて誰も疑問に思わないくらい定着していることに
異議申し立てをすることは大変なことです。

   シュレディンガーの言葉に
  「大事なのはまだだれも見ていないものを見ることではなく
   だれもが見ていることについてだれも考えたことのないことを考えることだ」
   という言葉があります。

納得できる、新たな視点を持った知見を提示することは大切です。
ただ、ゴリ押しはできません。
否定されたら、その時はいったん引き下がりましょう。
でも、大丈夫。状況は必ず変わります。
職場の潮目の変化を感受して、そのタイミングでもう一度提示してみましょう。
その時に、口先だけでなく、自身が効果を体現できるように
まずは、自身の観察・洞察力と実践力を磨いておくことが肝要です。

言うだけじゃ、説得力がありません。
変化を起こして見せられる人にならなければ。

認知症のある方、生活期にある方が
食べる困難を乗り越えて、もう一度食べられるようになる体験を積み重ねると
食べたくても食べられずにいる
食べようとして食べられずにいる
その努力を合理的な方向に変換してくれる
協働者の存在が欠かせない
ことが身に沁みてわかるようになります。

今もなお、たくさんの方があちこちで
協働してくれる人の存在を声にならない声で
一見不合理に見える言動で必死になって訴えているのです。

  

ネスレオンラインセミナー「認知症の方への食支援アプローチ」再上映会 開催 !


6月26日に開催された、ネスレ日本さん主催のオンラインセミナー「認知症の方への食支援」の再上映会開催が決定いたしました!

お申し込みは
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おかげさまで
前回のオンラインセミナーでは、
「わかりやすかった」「勉強になった」など大変ご好評をいただきました。

もう一度視聴したい方
視聴した方のご感想を聞いて「視聴したかったな」と思った方
どうぞお申し込みください m(_ _)m

実習指導CCSの総括も必要では?


実習指導について
今は、CCSクリニカルクラークシップが導入されるようになっています。
でも、一度総括をして軌道修正することも必要なんじゃないかと考えています。

なぜ、OTの卒前養成過程に実習が組み込まれているのか
なんのために、学生時代に実習をする必要があるのか
そこをもう一度再確認することも必要だと思う。

かつて、私が実習指導に関与していた時には「楽しい実習」の大合唱でした。
どの養成校の教員も「実習は楽しく」
どの指導者も「実習は楽しく」
もしかして、学生も「実習は楽しく」って思ってるとか?

???

私はずっと前から異議申し立てをしていますが
将来、OTとして一人前に働けるようになるための体験学習だから
結果として「楽しかった」と思ってもらえるならそれは良いことだけれど
最初から楽しい実習を目的とするのはどうなんだろう?
教えるべき、体験させるべきことはきちっと教え、体験させる必要があるのではないかと考えています。

  飛行機のパイロットの養成過程で
  「楽しい養成を」なんて合言葉になっているんだろうか?
  もちろん、ハラスメントはいけないけれど
  どんな状況に陥っても、突発的な事態になっても
  安全に飛行機を飛行させ目的地に着陸させることができるようになるために
  相当厳しいトレーニングがなされているのではないでしょうか?
  明確な基準をクリアして初めて操縦桿を握ることが許されるのではないでしょうか?

「楽しい実習」が大合唱されるようになった背景として
多分、以前の実習のハードワークや理不尽さに対する反動もあるのだとは思う。
私自身は、(できない学生だったけど)実習で過剰に追い詰められることもなかったし
重箱の隅をつつくような指導をされたこともなかったし
夜遅くまで実習地に残されることもなかったし
理不尽な課題を要求されることもありませんでした。
ただ、上記のような体験をした人には、多数出会っていて体験談をたくさん聞かされました。
それはやっぱり良くないことだと思うし、改善されるべきだと思う。
だけど、旧来の実習の良い面もあったと思うし、必要不可欠な要素もあったとは思う。
それは、体験学習ができること
自分のできなさという事実に直面できること。
指導者がいるという安全な環境
多少の失敗(致命的な失敗は許されませんが)も試行錯誤も許容されること。

CCSも本来はそうだったんだと思うけど
導入の段階で微妙なすり替えが起きたんじゃないかと思っています。
それは、EBMを導入した医師が現在の取り扱われ方について異議申し立てをしているのと同じように。

実習に来た学生が見違えるように変わっていく姿、過程を見ることができるのは
指導者にとっても大きな喜びです。
でも、それは結果だから、常に得られるとは限らない。
ここで、いつの間にか、結果の目的化が起こったんじゃないかな?

目の前にいる対象者に対しての関与という、紛れもない事実・体験から虚心に学ぶ
事実だから、都合の良い事実だけが生じるわけがない。
その時に、学生も指導者もどう対峙するかが問われる。
でも、そんなの働いていればヤマほど遭遇することです。

お膳立てされた体験とは、まったく違う。

もちろん、臨床家養成の1ステップとして
お膳立てされた体験も必要かもしれないけれど
問題は、それだけしか体験できないことだと思う。
今の実習指導の形態では
就職してから、いきなり、お膳立てされていない体験に直面することになっています。

以前だったら、指導者のいる安全な実習期間中に体験できたことを
今は、入職して初めて、一人の国家資格者として周囲のOTと同等の立場にありながらも、
未知の体験に直面することになります。

言い方を変えれば
学生が実習で体験すべきことを先延ばしにして就職先に丸投げしている
とも言えるような状況が生まれてきています。
体力のある就職先や卒後養成が確立されている就職先に入職できれば
体験学習を受けながらフォローしてもらいながら働いてもらう猶予期間を設定できます。
でも、昨今の厳しい診療報酬や介護報酬の中では、そのような就職先は限られているんじゃないでしょうか。

国家資格者としての責務を負いながらも
わからないことだらけの中でどう「在る」のか、ふたつに分かれます。

    今春放映されたTBSの「アンチヒーロー」の最終回で主人公の明墨が語ります。
   「人は2とおりに分かれる。真実と向き合うものとそこから目を背けるものと。」

自分自身のできなさを正視し愚直に努力する人と
その場を取り繕うことはしても技術職のプロとしての努力をしない人と

どちらのOTに担当されても
対象者とそのご家族は、同じ時間とエネルギーとお金を国家資格者への対価として支払います。
美容師の世界のように一般のスタイリストとトップスタイリストで支払う金額に差があるわけではありません。
厳然とした技術差があっても。

将来、医療や介護保険の受け手に回ることがあれば
自分や家族はちゃんとした人に担当してもらいたいと思う。

ちゃんとした人を養成できる仕組みになっているんだろうか?

OTの世界でも、ホワイト化が進んでいます。
それはとても良いことだと思う。
終業後に残って勉強会を開催することは難しくなり定時で帰ることが要請される。
それ自体は良いことだと思う。
でも、カタチとしてのホワイト化が進む一方で
職場の後輩指導や実習指導にあたる人たちは、どう時間を捻出するか
そこから悩んでいるんじゃないでしょうか?
そして、ようやく捻出した限られた時間で教えようとしても
自分自身のできなさに直面する意思も体験もしてこなかった人たちは
果たして、真摯に教えようとしてくれる人に感謝することができるのでしょうか?
関係ない職場であれば、国家資格者なんだから自己研鑽、個人の問題と切り離せるのでしょうけれど
職場として最低限の質の担保をしようと考えた場合にその重責は一気に養成担当者にのしかかります。

「こうすればああなる」というハウツーを要求し
自分が困らないことを暗黙の優先事項として対応していることすら自覚できない人に対して
ハラスメントに注意し後輩の背景や気質を尊重した上で
職場の底上げを考えた時に、共有できるメタ認識の少なさに愕然とすることだってあるのではないでしょうか。

OTの志望動機として「家族・知人に勧められたから」という人が圧倒的に増えています。
お金を稼ぐ1つの職種としての認識だと資格を取ったらゴールと考えて当たり前かもしれません。
養成過程において成功体験だけを蓄積され、自身の困難に向き合う体験ができなければ
回避しようとするのも必然の防衛機制なのかもしれません。
 
本来は、資格をとったということは、
OTとしてのスタート地点に立つ資格を得たに過ぎないんですけどね。

ゴールと考えている相手とスタートと認識している人とでは、お話にならない。
双方にとってのストレスですが
この場合、スタートと認識している人の方が心身のエネルギーを削がれます。
(ゴールと考えている人には、そんなことすら想像もできません)

そういったことは、すでにあちこちで起こっているんじゃないでしょうか?

もうそろそろ、このあたりで
より良いOTを育成するために、
いったんCCSの功罪について、
そしてその取り扱われ方についても検討する時期なのではないでしょうか。




Cheer ! 陰ながら心から


中島みゆきの「ファイト!」と 「宙船」をぜひ聴いてほしいと思います。

  
働いていると、いろいろなことがあるじゃないですか。
詳しく説明しなくてもツーカーで分かり合える人と出会えたり
頑張っている人の踏ん張りを見聞きして自分も頑張る勇気をもらえたり
一方で
胸糞悪いことも、理不尽なことも
一生懸命な人が辛い思いをするだけだったり
足を引っ張られたり、悪者にされたり

そういうのも、頑張ってるからこそ。なんだよね。

私は、いろいろな場所でいろいろなOTと出会ってきました。
私は頑張っている、信頼できるOT達を知っています。
同時に、なんちゃってOT達も知っています。
なんちゃってOTは、自分が困らないように立ち回ることしかしてこなかったから
自身では立ち回れているつもりでも、ハタから見たらバレバレです。
真っ当な人と真っ当な話はできずにOT人生を終えるしかないけど
それもその人の選択でその人の責任なんだよね。

大切なことは、自己表明なんだと思ってます。
なんちゃってOTをはじめとするわからんちんにじゃなくて、世界に対しての。
私はこうしています、こう在りたいですと、世界に対して、自分自身に対して、表明する。
(表明とは言葉だけじゃなくて行動も含めています)
だから、わからんちんにわかってもらう必要なんて全然ない。
ただ、わからんちんにも言った方が良い時もあるとは思う。
「私は表明した。あとはあなたの選択。選択した責任はあなたにある。」という意味で。
もしも、その人の中でアンテナがちょこっとでも立っていたら
今すぐには無理でも、後になって伝えられた言葉を思い出して真正面から受け止めてくれることがあるかもしれない。

以前に勤めていたところで
あんまり話をしたことがなかった(実は私はあんまり信頼していなかった)人から
「よっしーさんて、対象者や家族の悪口は絶対言わないものね」と言われたことがあって
びっくりしたことがあります。

どんなOT人生を送るかは、自分で決めて選ぶことができます。
そして、言葉にすることで、行動に示すことで、自身の選択を表明することができる。
変な言い方に聞こえるかもしれないけど、
表明すると、そして表明に足る実践を続けていると
状況が変わったり(本当にありえないような変化が起こったこともありました)
実現の機会に遭遇することが本当に起こりました。

これはどういうことなのか、わかりません。
神様が願いを叶えてくれたのか
世界が聞き届けてくれたのか
たまたまそういう巡り合わせだったのか
巡り合わせは実はたくさんあったのに気づかずに過ぎてきたことを自分が気づけるようになったのか
自分が変わったから周囲を見る自分の視点が変わって同じ景色を見ていても異なるように見えたのか
何が起こっていたのかはわからないけれど、
私の相手は私であって、わからんちんじゃないってことだと思う。

時には、闘えなくなることだってあるし、漕いでた手が痛くて動かせない時だってあるし
冷たい水の中でじっと耐えてることが最善のことだってあると思う。
でも、今、手応えがなくても先が見えなくても、奥歯を噛み締め涙を堪えても
それは、頑張ろうという志を持ってるからこそ
そう在りたいという願い、そうせざるをえない志を持っているからこその辛さ
その願いや志が崇高であればあるほど、そんな容易く実現できるわけがない。
だから、表明し続けないと。

肝心なことは、口先だけじゃダメ。
当たり前だけど。
だって、「自分は口先人間だ」って世界に表明してることになっちゃうから。

今、辛い思いをしながらも、頑張っている人たちに伝えたい。
頑張りが無駄になることは決してない。
望んだ結果になることばかりじゃないけど
真摯な努力は確実に自身の成長につながっているし
別の場所で頑張っている誰かがちゃんと見ていてくれてる。
仮に、誰にもわかってもらえず、本当に孤独な思いに潰されそうな時があっても
世界に表明しているのだから、それで良いのです。
そうやって、崇高な志や願いを実現するに足る実践力が磨かれていくように感じています。

時には休んでも
時には後退りしても
願いや志を捨てさえしなければ
状況を変えられるだけのチカラがつくか
状況の方が変わってくるか
いずれにしろ、機会は巡ってくるから
その時に十分にチカラを発揮できるように牙を研いでおく。
ハタからは沈黙と思われても、自分にとって雌伏の時期を過ごせば良い。

「るろうに剣心」の中で
「捨てたものは見つからないが、失くしたものはきっと見つかる」というセリフがありました。

正確には
「まあ しかし 長い人生 何かを失うコトは常につきまとうもの 捨てなければそれでいいんじゃ」
「失ったものは再び不思議と見つかったりもするが 捨てた物は再び不思議と拾えた例がない」
というオイボレのセリフのようです。

だから、頑張れ〜!
私も頑張る〜!

一見、悪いことに見える良いことも
良いことに見える悪いこともあるから
OT人生ってわからないものです。



本の購入について


「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」の購入についてご案内します。

_ 出版社からの通販 _ だと新品を定価で購入することができます。
上の太い青色文字の部分をクリックしてみてください。

Amazonやヨドバシでは、今は新品を定価で購入することが難しいみたいです。
いつもお使いのサイトで取り扱われていなければ
日総研出版のサイトでのご購入についてご検討をお勧めします。



手段の目的化を脱却→目的達成の確認


これは、ありとあらゆる場面に通底している課題ですが
ポジショニングについて、最もわかりやすいカタチで反映されています。

生活期にある方のポジショニングは
過剰な筋緊張の緩和が最優先事項です。
筋緊張が緩和するから、
結果として可動域が改善され、
その結果としてオムツ交換や更衣がお互い楽になります。

ところが
現場あるあるなのは
筋緊張緩和という過程をすっ飛ばして
結果として起こる可動域拡大を表面的に行い
「手段を実施すれば目的達成したことになる」という思い込みから
手段の目的化、目的達成の可否の未確認という状態になっていることに
気がつけずにいる人が少なくないことです。

問題は
・設定前に対象者の身体のアライメントがどうなっているのか確認しない
・最大可動域目一杯にクッションを当て込む
・設定後に対象者の身体に改善があったかどうか確認しない
というところに反映されています。

臨床的に為せと言われてきたことを為すだけで
自身が為したことで目の前にいる方の身体にとってプラスの変化が生じたかどうか確認しない。

こういう時にはこうする
というパターン化された思考回路が一番の問題だと考えています。
もはや、思考ですらありません。
こうすればああなる というはめ込みです。

だから
食事介助に関して
「ためこんで飲み込んでくれない」
「口を開けてくれない」
という質問が相次ぐし
対応の工夫で
「帰宅要求のある方に対してどうしたら良いのか」
「立ち上がりが頻回な方に対してどうしたら良いのか」
という質問が相次ぐのだと考えています。

まずは、観察しなければ
目の前にいる方がどうやって食べているのか

目の前にいる方の身体の状態を

そして、自身の実践の適否について確認しなければ

と言うか、確認しないでよく平気でいられるなぁって思いますもの。
自身の実践が本当に適切だったのかどうか、私は心配だから必ず確認せずにいられません。
ポジショニングだったら、必ず毎回、設定後に筋緊張の緩和を確認しています。
そんなの1分もかからずにできます。
食事介助だって介助しながらその都度食べ方の変化を確認しています。
そんなの特別な時間を設けなくても介助場面で常にできることです。
意思さえあれば。

大昔にある人から教えてもらったことですが
作業療法士に「今やっていることがどういう効果があるのか」尋ねたら
「こっちは治療としてやってるんだから文句を言うな」って言われたんだそうです。。。
いやいや、治療としてやるのは当たり前
その効果を聞かれたんでしょうに。。。
(関連して書きたいことはヤマ程あるけど、この記事の趣旨から外れるので置いておいて)

良かれと思ってやったことが、適切だったかどうか
良かれと思ってやったことが、逆効果になることなんてヤマ程あります。
確認しないで怖くないのかな?

ポジショニングは、結果が一目瞭然に現れます。
だから、自身の関与の適否について一番確認しやすい場面です。
もしも、思ったような効果が出ていないのであれば
それは、関与に何か問題があったことを示しています。
多くの場合に、どこかしらに見落としがあるものです。
そこを見つけて再設定して再確認すれば良いだけです。
つまり、PDCAをきちんと回すということを体験学習しやすいのがポジショニングなのです。

ポジショニングの一連の過程を体験学習するということは
下支えしているメタ認識をも体験学習するということになります。

ポジショニング研修会
締切まで後わずかですが、まだお席があります。
お申し込みは、_ こちら _ からどうぞ!
内容については、_ ここ _ をご参照ください。

説明の仕方・説明の受け方

 


ある時、道に迷ってしまったので尋ねました。
「この道をまっすぐ行くとバス通りに出るからそこを左折」
私は初めての場所だったので『バス通り』がわかりません。
そんな気持ちが顔に出たのでしょうか、隣にいた少し年配の方が
「この道をまっすぐ行って一つ目の信号を左折」と教えてくださいました。

あーなるほどなー。と思いました。
相手の状態を把握し、理解しやすい言葉を使えるかどうか。
最初に教えてくれた人も間違った説明をしたわけではありません。
その説明で理解できて助かった人だっていると思います。

説明が上手というのは
相手の状態に応じて適切な言葉を選べる
か、どうかということなんだなーと
説明を受ける立場になって再確認。

同じ日に全くの別件で説明を受ける機会があり
その人の説明の仕方とその根幹にある思考過程に触れることになりました。
聞き手・尋ね手の立場として、
説明者の状態に応じて適切な質問のカタチで尋ねることの重要性
を再確認させられました。

説明と同意は、介護保険サービスや医療を提供する時にも受ける時にも必須の過程です。
双方の立場で説明の場にたくさん立ち会ってきました。
さすがだなーと思ってパクらせてもらった説明の仕方もありますし
そうなるよなー仕方ないよねと思ったこともありますし
それはマズイでしょうと思ったこともあります。

説明と同意という過程が形骸化してしまうというのは
いろいろな因子が関与していると思いますが、 日本的でもある と感じました。


DCゼミ第4回「ポジショニング研修会」開催


生活期にある方へのポジショニングには誤解があるあるです。
一番よくあるパターンは、良かれと思って
最大可動域いっぱいにクッションを詰め込んだのに
クッションを外すとキューッと足が縮こまってしまう。。。やっぱりクッションは必要だわ
。。。ではないんです!
最大可動域に詰め込むから足が縮こまってしまうんです!!

「え?」と思った方は是非ご参加ください。
 
今回も対面研修で開催します。
ポジショニングで困っている方なら職種を問わずどなたでも参加できます。

日 時:6月29日(土)19:00〜20:30
会 場:おだわら市民交流センターUMECO第7会議室(小田原駅東口徒歩3分)
参加費:500円(会場費・資料代)
    お釣りのないように、当日現金でお支払いください。

お問い合わせ:https://yoshiemon.info/contact/
お申し込み:事前申込制 6月22日(土)13時まで
      https://forms.gle/hssck3y8Zms9eQCZA

内容は
1)生活期にある方への適切なポジショニングの基本的な考え方
2)事例紹介:具体的な展開方法
3)他職種が再現しやすい工夫
などです。

研修会終了後には
希望者には無料でよろず相談会も開催します。


ご参考までに下記の記事もご参照ください。



ネスレオンラインセミナー「認知症の方への食支援アプローチ」

  

 
先週の時点でお申込者数が100名を超えたそうです。
前日までお申し込みは可能ですので、迷っている方がいたら是非ご参加をご検討ください。
見落としてはいけない観察ポイントは、動画でご確認いただけます (^^)
その他にも、ここでなければ聞けないお話がたくさんあります。

参加ご希望の方は、 https://x.gd/O5xeT から事前にお申し込みください。