私ならこう答える@OTジャーナルQ&A

OTジャーナルに原稿を書き掲載されたのが55巻4号です。
三輪書店さんから掲載誌が送られてきたので
せっかくですから久しぶりに全部読んでみました。

そこで目に止まったのが
「OTジャーナルの仕事論 職場の雰囲気を変えたいー教えて先輩」
手技や手法でぶつかり、職場の雰囲気がギスギスしています…
という若手作業療法士からの相談に、大御所OTが答えるというコーナーです。

OTジャーナル55巻4号384p.に掲載されている相談内容を
原文のまま引用しますと。。。

新卒から回復期病院で働いている3年目のOTです。対象疾患は脳卒中や整形外科がメインです。
リハのメーティングが手技や手法のぶつかり合いになり、なかなか話が進みません。自分の担当患者のリハについてもA先輩から、「〇〇のほうがいいよ」とアドバイスされれば、B先輩からは「△△をしていったほうがいいよ」と発言があり、混乱してしまい、せっかくのアドバイスも活かしきれていません。どちらかに肩入れして職場の空気が悪くなり、働きにくくなるのも嫌なので、先輩から深く学ぶことができません。この職場で成長できるのかと不安になります。
この状況を変えていくには、どう立ち回っていけばいいでしょうか?先輩方それぞれ手法や手技をおもちであるのはわかるのですが、共存しながらギスギスした空気をなくし、もっと患者主体のミーティングがしたいです。

ほうほう。。。と思いながら、大御所と言われているOT4氏の回答も読み進めていきました。
私の感想は、う〜ん。。。隔靴掻痒。相談者がもし本当に悩んでいるならどう思うだろう?と感じました。
そこで、自分なら何と回答するか、考えてみました。

「自分の悩みを問い直せ」

教育工学の沼野一男先生は「問い」の重要性を問われていました。
晩年の授業では、事前に配布した資料を学生に読ませ、質問を提出させていたのだそうです。
内容のない質問には「レイジークエスチョン」(怠惰な質問)と指摘されていたとか。

相談者の質問には、表向きの相談の文面から本音の相談が透けて見えます。
せっかく大御所と呼ばれているOTに答えてもらえるのだから本音で相談しないともったいないのにと感じました。

相談者のリハのミーティングがどのような進行の元に行われているのかは不明ですが
私が感じた相談者の本音はこちらです。

3年目の相談者がケース報告をして、それに対して先輩から複数の手技・手法を勧められて終わってしまう。
ケース報告に対してもらったアドバイスがよくわからないし、有益と感じられない。
手技・手法に走らずに有益なアドバイスが欲しいし、そういうミーティングだったらいいのに。
でもそんな指摘をして先輩に睨まれたら嫌だし。
今まではどうにかかわしてきたけれど、派閥になんか入りたくないし、かといってはぐれるのも嫌だけどどうしたらいいのかわからない。

違うかな?

相談者の質問には
全く次元の異なる複数の質問が錯綜しています。
自分がOTとして成長したいのか
ミーティングの場に不満があるのか
職場での立ち回り方を心配しているのか
何が優先なのか、よくわかりません。

文面通りに読んで
「ミーティングがミーティングとして有益・有効な場になって欲しい」
と願うのであれば
まずは管理者である上司に相談すべきです。
「手技・手法の勧誘のような場になってしまっている気がする」
心ある上司であれば相談者の意図に共感してくれるはずです。

ただし、そのような現状が既にある、ということですから
もしかしたら当の上司が手技・手法の権化と化しているか
もしくは、人は良いけれど管理者としてはあまり有能ではないのかもしれません。

そのような場合であっても
相談者が今すぐにできることはあります。

それは、自身のケース報告をもっと練り上げることです。
ケース報告が曖昧であれば、手技・手法という総論的なアドバイスになりがちです。
相談者が明確なレポートを作成し、質問を明確化して臨めば
アドバイスも具体的限定的であることを要請することになります。

良い質問は良い答えを引き出します。

仮に、良い質問をしたのに良い答えが返ってこなかったとしても
良い質問ができたのであれば、今度は自分自身でその答えを探すことができます。
今は、研修会はあちこちで山ほど企画されています。
論文も本も多数出版されています。
本当に答えを探そうと思えば、探す場はたくさんあります。

「この職場で成長できるのかと不安になります。」
「どう立ち回っていけばいいでしょうか?」
などと言っている場合ではありません。

OTとしての成長は自助努力です。
職場は、個々の職員の成長を応援はしてくれても
在籍していれば、黙っていてもオーダーメイドで成長させてもらえるわけがありません。

私の答えは
「自分の悩みを問い直せ」です。

ループの完結@食事介助

認知症のある方の中には
元来「しっかりしていた」方が少なくありません。

ご家族の情報から確認することもできますし
仮に、ご家族の情報が得られなかったとしても
対応の過程を通して
「この方はしっかりしていた方だろうな」
と感じることも多々あります。

そのような方が
溜め込んでしまう
というような表面的な現れをしている時には
誤介助誤学習のパターンが少なくありません。

 その背景には
 誤介助を引き起こしやすい身体的な問題(例えばオーラルジスキネジア)がある場合もあり
 その身体的な問題を的確に把握できないというケースも多いように感じています。

そのような時には
その方のその時点での「食べる能力」を最大限に活かして
余分な介助をしないことが効果的な場合が多々あります。

インプット〜アウトプットまでの一連の過程
刺激や環境の感受〜認識・判断〜食べるという行動という一連の過程
「食べる」ことに関するループを完結させる
という方法論です。

誤介助誤学習に起因するものであれば
「自分自身で食べる」という体験を通して
刺激の正しいインプットにより、
認識・判断の正しさと
食べるというアウトプットが修正されて
適切に行えるようになってきます。

元来、しっかりした方であればあるほど

お年寄り、認知症のある方に対して
能力低下してしまった、できなくなってしまった
という視点からだけ見ていると
認知症のある方の本当の能力を見誤ってしまいます。

たとえ
「苦労しながら食べるなんて可哀想」という善意からであったとしても
食事介助というのは実は奥深く難しいものなのですが
誰でもできるものという根本的な誤解があり
どんな風に食べさせても関係ないという思い込んでいる人も少なくありません。

知識に基づいた観察と
観察から導き出される的確な洞察と
洞察に基づいた適切な対応ができるだけの技術があって
初めて目の前にいる方へ適切な食事介助ができるのです。

食事介助をしない方が
その方の本来の能力発揮が叶う場合があります。
食形態も1回の摂取量も上がっていきます。

問題は
適切な「見立て」に基づく、適切な「食形態の選択」ができるかどうか
ということが問われているわけで
実は、その場で介助するよりも観察力・洞察力が求められます。

的確な自主トレの設定ができるということとも通じる側面があります。
「自主トレ作成=評価の確認」

サイト更新:声かけの工夫の考え方

 

 

サイトを更新しましたので、お知らせします。

「声かけの工夫の考え方」

「力は前向きにも後向きにも使える」

「力は前向きにも後ろ向きにも使える。
 でも、両方の方向に同時に使うことはできない。」


これは、アーシュラ・K・ル=グウィンの
「西のはての年代記 ギフト」でグライが語った言葉です。

直接には、能力の用い方や権力について語っている言葉ですが
私は、援助の本質もついている言葉だと感じました。

歩くことを援助するのか、歩かせるのか
食べることの援助するのか、食べさせるのか

見た目、まったく同じように見えて
働きかけとしては、180度異なります。

そして
対象者の反応は、
こちらの意図に応じて反応します。
歩くことの援助に応じた反応、歩かせられたことに応じた反応
食べることの援助に応じた反応、食べさせられたことに応じた反応

その反応はその場で直接返ってくることもあれば
蓄積されて大きな反応となって返ってくることもあります。

私は、学生の頃からこの問題について考えていました。
臨床に出てからも悩み続けていました。
自分の能力が圧倒的に不足している間は
働くことが本当に怖かった時期がありました。

リハビリテーションというのは
末梢への感覚入力をコントロールすることによって
中枢の機能・回路を再構築することが本質です。

昨今は廃用・筋力低下という思考・対応が本流のようになっていて
状態像の見極めなく安易に語る一般の方や関係者も少なくないので
非常に残念な状況だと感じています。

余談ですが
どうも日本人には、甘え、根性、精神論を振りかざす傾向が根深くあって
いろいろな場面に反映されているように感じられてなりません。

例えば
お年寄りのフレイル・引きこもりの問題についても
原因なのか、結果なのかという検討なく
活発な生活のために積極的に外出するように働きかけるとか
あまりに表面的な対応にすぎると感じています。

外に出て人と交流することが良いことだという前提としての議論がなく行われていますが
どうなんでしょう?
人と会話することが楽しいという人が
外出して交流しなくなれば、それは是非外出して交流する機会が必要だと思います。
でも、自分一人で沈思黙考することが楽しい人に対して
他者と交流しなさいと働きかけることは適切なことなのでしょうか?

「食べなきゃダメよ」って
食べられない、食べたくない、食べにくい状況があるのに
その状況をきちんと把握することなく
表面的に食べさせようとして食べてくれないことを問題視するとか。。。

為せば成る
というのは確かにそういう側面もありますが
そればかりとは言えない。

対人援助職というのは
対象者に対して
望むと望まざるとに関わらず
圧倒的に強い立場に立つわけです。

その前提、根本から出発するしかない。

そして、その前提、根本を
頭だけで考えるのではなくて
日々の臨床において
その時々の自らの言動をこそ、辛くとも自己検証するしかない。

そうやって
「援助」の援助たる姿勢と技術とを持ち得るようになるのだと思う。

力がなければ援助はできない

力を適切に用いることができなければ役には立てない


対人援助職が対人援助職として
職務を全うできるようになるためには
相応の時間が必要です。
ただし、時間さえあればできるわけでもない。
時間は必要条件だけど十分条件ではない。

経験が少ない時には少ないなりに
悪いことをしないで済むという側面もあります。

このことはとっても大切なことです。
良いことをしようと望んで、結果として悪いことをしてしまうことだって
臨床現場あるあるではないですか?

食事介助の場面において
誰も「食べ方が下手になっても構わない」「誤嚥性肺炎になっても構わない」
なんて思いながら介助するような人はいないと思います。
でも、現実には美味しく食べていただきたい、元気になっていただきたいと願いながらも
結果として、食べにくくなるような介助をしている人は山ほどいるわけです。

そして
こういった事柄は食事介助以外の場面でも起こっている事柄です。

良いことができるようになりたいと願う気持ちは尊いものですが
そのためには努力を重ねないと。
願えば行動に直結するわけがありません。
努力を積み重ねて初めて願いを具現化することができます。
その過程において悪いことをしないというのは、とても尊い関与だと感じています。

下手に場数だけを踏んで
自分が何をしているのかわからなくなってしまっている人や
やっている感ばかりが上達?している人だって
ある意味経験を積んでいるわけですが
そのような経験しかしていないと、
もう一つの現実を自身の眼で見る体験ができなくなってしまいます。

忙しい現実の間の中でも
本当に何とかしたいと願う人は
理想は遠くてもその時々でできる最善の行為を
人知れずに積み重ねていっているのではないでしょうか。。。

私も忙しい現実に押し流されそうになりながらも
時間を捻出するためには、対象者の人がよくなっていって
かけている時間を結果として減らしていくことが一番だとわかっているので
必死になって適切な援助を積み重ねています。
時には苦い自省をしながら。。。

「意図こそが重要」

スティーブ・ジョブズの言葉です。

自分が得た力は、
後向きには使わない。前向きに使う
という意図。

結果として
後向きに用いていないか
自己検証しようという意図。

力は同時に両方向には使えない。

例え
無自覚であったにしても
私たちは日々その都度その都度
力の向きの使い方を選択しているのだと感じています。



自主トレ作成=評価の確認

私は作業療法士として老健で長く勤めてきました。
そこで学んだことは多々ありますが
自主トレの作成に励んだことは自分にとって有益なことの一つでした。

通所リハの利用者さんに
一人ひとり個別でメニューを作りました。
身体面でも認知面でもメニューを作っておいて
余暇時間に取り組んでもらったり
リハの時間の中での私との個別リハ以外にも自分で取り組んでもらったりしました。

並行集団を作って、その中でセラピストとの個別リハも展開する
という形です。

並行集団。。。同じ時間と場を共有はしてるけど
個々の課題は異なるというグループ活動を私はよく用います。
(今も異なる形でやっています)

課題集団。。。同じ時間と場でみんなで一斉に同じ課題に取り組む
というのは私はあんまり用いません。
また、一つの課題を役割分担してみんなで取り組む
ということも私はあんまり用いません。
それぞれのメリットもあるとは思いますが
デメリットも大きいんじゃないかなと感じています。

並行集団は
個々の課題が異なるから
利用者さん同士の優劣の比較になりにくいし
ご自分のペースで取り組めるし
気が向いたら他の利用者さん同士のコミュニケーションも弾む
(私の準備や仕上げを含めた管理は大変だけど)

この並行集団が有益であるように
個々の自主トレが適切に提供できるようになるためには
評価の確認をすることが必須です。
とりわけ、能力の評価の確認を否応なく要求されます。

利用者さんの能力よりも高すぎる課題を設定してしまうと
自主トレとして成り立たないし
低すぎる課題を設定してしまうと
意欲が削がれてしまう。

同時に環境の評価も要求されます。
どのような環境=場面設定をすれば
スムーズに取り組めるようになるのか

自主トレの時に
利用者さんが困ってしまうことがあれば
私の場面設定が甘かったことになるので
評価について日々のリハ場面を通して鍛えられました。

中には「宿題」としてご自宅での自主トレを用意したこともあります。
その難易度は自主トレよりも下げて
「自分にはできる=やることが苦にならない」という難易度で
実施を最優先して設定していました。

能力を評価する
能力をアセスメントできる

今、思えば、かなり昔から私の中で一貫した在りようだったんだと感じます。

オンライン研修会@参加者限定

参加者限定ではありますが
オンライン研修会の準備を始めています。

主催者は、JA長野厚生連作業療法士研究会。
テーマは、目標設定と認知症。

私を講師に推薦・依頼してくださった担当者のKさんが
私が言いたいことをピンポイントで理解してくださっているのが嬉しかったです。

まずは、目標設定。
目標設定の研修会ってありそうでないんです。
正確に言えば、一部あるにはありますが
目標を目標というカタチで設定できることを目的とした研修会は、まずありません。

みんなそんなの簡単!って思ってるんですよね。
ところが、どっこい。
臨床家で本当に目標を目標というカタチで設定できている人って
実はすごく少ないんです。

目標じゃなくて方針だったり
目標じゃなくて目的だったり
目標じゃなくて治療内容だったり。。。(^^;

だから、学生や若手にどうしたら目標を目標というカタチで設定できるようになるか
具体的に明確に言葉で教えられる人が少ないのです。

作業療法総合研究所さんの主催で
何回か目標設定の研修会を行ってきました。
「良い作業療法士になるために〜目標を目標として設定できる」
「対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!」
「良い目標が設定できる作業療法士になろう!ー概念篇」

認知症をテーマとした研修会の講師として
私を招聘するにあたり、ネットで検索したところ
上記にいきあたり、「普段漠然と疑問に思っていたことを言葉にしてくれた」ということで
あわせてご依頼がありました。

いやー嬉しかったですね。
こういう地味な、でも本質的なことの必要性を認識している人が他にもいるということがわかって。

現状のOTの課題というのは
極論すれば、目標設定と評価が不十分なことだと私は考えています。
自分自身でPDCAを回せない、自己修正できない、だから結果として漫然としたリハになってしまうし
それは目標を目標というカタチで設定できないと、PDCAを回そうとしても回せないんです。

ちなみに
「目標とは何ぞや?」

この問いに即答できなかった人は
目標を目標というカタチで設定できていない。ということですよー。

もう一つ
検査はできても評価のできない作業療法士は少なくありません。
構成障害や遂行機能障害の検査はしていても
「構成障害とは何ぞや?」
「遂行機能障害とは何ぞや?」
と問われて明確に言葉で即答できる作業療法士は多くありません。
いわゆる大御所と言われている人だって検査と評価を混同していることも多々あります。。。

だから
声高に理想を叫んでも
その理想を具現化するための道筋を明確に言葉で示すことはできずに
いきなり実践例を示すことしかできないんじゃないだろうかと考えています。

研修会なんかでも
やたら症候論は詳しいけど
実際の評価の道筋となると、バッテリーの紹介にすり替えられてしまう。
そしていきなり実践例の提示。というパターンがやたら多いんですよねぇ。。。

これじゃあ
真摯な人はガッカリするでしょうし
とりあえず(臨床現場では何とかしないといけないから)ハウツーで凌いで、
その積み重ねを繰り返すしかなくなっちゃうんじゃないだろうか。。。
どこかでおかしい、これじゃいけない、と思いつつも
どうしたら良いのかわからない、まともに向き合うことが怖くて回避してしまう。。。

「わかっていても言葉にするのは難しいよね」
「やってるうちにわかるようになるよ」
なーんて内心胸の痛みを感じながらも後輩に言っちゃったりして。
そのうち最初は感じていた胸の痛みを忘れてしまって笑いながら言えるようになったりして。

そういう人たちにも伝えたい。
ちゃんと「道」はあるよ。って。

私の提案はBestではないかもしれないけど
おそらく現時点ではかなりBetterな考え方と方法論だと思っています。

今すぐには難しいけど
こちらのサイトにも概要を掲載できれば。と考えています。



能力を信頼する

経験年数を重ねて思うことは
能力を信頼しなければ、能力を見出すことは叶わない
ということです。

食べない人には食べないなりの必然がある。
「認知症だから」
嫌がって食べないんだろう
というような先入観を捨てて
目の前にいる方は
何をどこまで認識しているんだろう?
ということを確認しながら関与していると
ちゃんとその一端が観られるようになってきます。

無意識のコミュニケーションがあって
その一端をこちらが感受した
ということが伝わると
目の前にいる方の能力が一層明確に広がりを持って
観えるようになってくる。

私が他の人よりも少しは高い能力があるとすれば
この部分だと思う。

そのために
時間もエネルギーもお金も使って勉強しましたから。
若い時には、パンの耳や素ラーメンを食べていて当時付き合っていた彼に笑われたものです (^^;
そうやって時間をかけて培ってきたモノは、滲み出るのだと思う。
口先だけの人とは違って当たり前。

ごむてつさんの記事に
「いるだけで有害な人も居るだけで善い人もいますが、実際には前者は有害な行為を、後者は良い行いもするはずです。」
とありますが、まさに。

私たち自身にだって
この人の前では、本音は言わずに当たり障りのない演じた対応をしよう、
バリアを作って接しておこうと思うような人もいれば
この人の前では、リラックスできる、安心できるという人もいます。

患者さんやご家族に
「あんたと話してると頭の中がスッキリする」
「あれ?あなたと話してるとなぜか涙が出ちゃう」
「あなたといる時には本当に楽しそうにしてる」
などと言われたことが何回もあります。

別に私はスッキリさせよう、泣かせよう、楽しませよう
などと思いながら接しているわけではありません。
何が困ってるのだろう?
何があったのだろう?
何を思ってるのかな?
と思いながら接していて
心底そうしてるのが無意識に伝わっているんだと思う。

そこは一番大きな違いで
当たり前すぎることだけど
「心底そうしてる」のか
「そのふりをしてる」のかは、明確に確実に伝わる

一方でこういったことに対して
そうだよね。その通りだよねって思える人がいる一方で
表面的には同調しても心の中では
「認知症なんだからそんな違いなんてわかるわけないじゃん」って思う人もいる。
いっぱいいますものね (^^;

そしてこう言う。
「認知症だからダメだ」

ダメなのは、
他者を理解しようとしない、できない
観察しようとしない、できないあなたの態度じゃないのかな?

そんな態度の人に対して心開くわけがない。

そうやって自分のできなさから目を背けることで
一時の安寧を得て心の葛藤や学ぶことから逃れようとしているのかもしれませんが。

でも、それだと辛くなる一方だと思う。

対人援助職を選んだ以上
努力するしかないんだよね。
努力したからといってすべてが叶うなんてことはないけど
決して無駄にはならない。

ただ、努力の方向性の違いはあって
巷間言われているような「礼節の限りを尽くす」ような方向性ではなくて
脳の病気によって暮らしの困難が起こるのだから
そしておそらくは過去の体験の投影も重なるのだから
知識と技術が必要で
実践に際し、態度が肝要ということなんだと考えています。

私にできることは
何よりも日々の実践を深めること

そして
可能な限り言語化して
志ある人や後世に伝えていくこと

頑張ります (^^)

精神科作業療法、OT:臨床の能力を向上させるには…まず、考え方が大事です。(ごむてつ)

私も昔、精神科作業療法をやってはいましたが、正直なところ無能で作業療法士失格人間です。それもあって辞めたわけですが。

そんなわけで、精神科作業療法士の方に対してどのような作業療法を行うべきか、実際に具体的なアドバイスは殆どできません。実際にやっているところを見たり、話を聞いたりすれば、指導できることもいろいろあると思いますけど、見ても聞いてもいないのにここに書くわけにもいきません。

そんな私が精神科作業療法に携わっているOTの方々に対して「臨床の能力を向上させるにはどうしたら良いか」を教える資格なんかない、と思うかもしれませんが、基本的な確かな知識や治療の能力はあるので以下に述べる次第です。

そういう意味では私よりも指導者に相応しく優れた人もいないかもしれません。高慢、思い上がりと思われるのは百も承知ですが、これでも謙虚なつもりです。

実際に私はOTとしては無能でも1年目から患者には尊敬されており評判は良かったのです。患者も「ごむてつ先生はすごい」「良い人だ」「患者のことをよくわかってくれる」などと主治医にも言ってくれるので、精神科医からも尊敬とまでは言わなくとも一目も二目も置かれ、下へも置かないという扱いを受けていました。

そうした評判が広まり評価が定まると看護師や他の職員も徐々にわかってくれます。とはいえ、やはり人によるわけで、わからない人はいつまで経ってもわかってくれないですけど。でも8割方の人には尊敬されるようになったと思います。

OTの人は良く「作業療法を理解しててくれない」「わかってもらうのが難しい」と言いますが、私からすればともかく良い作業療法をやって結果を出せば良いだけのことです。必ずわかってくれる人もいるはずです。もちろんわかってくれない人もいますが、そういう人はいくら説明しても目の前で見せてもわかってくれないでしょうから、相手の認識や考えのレベルが向上するのを期待するしかありません。

話が逸れましたが本題へ。

ここに書くことは基本の基本ですので、OT以外でも精神科医でも臨床心理士や心理カウンセラーにとっても同様に役立つはずです。

やはり考え方が大事です。

正しい理解と洞察・理解と正しい考え方が基本にあればいくらでも応用は利くし、検証可能性も確保できる、すなわち進歩、向上していけいるはずですが、それがないとますますおかしな方向に向かってしまい、やっていることが頓珍漢になってしまい、治療者としても殆ど成長もしくは向上しません。そういう「セラピスト」はいくらでもいると思います。

精神医療に携わることの恐ろしさの一つは、経験値が上がっても進歩・向上するとは限らず、職業人としては慣れて能力が上がったかのように見えても、臨床家としてはどんどんダメになってしまうことがあることです。

そうなってしまうと、取り返しがつきません。そういう人は自分がベテランだと思い込み、間違った自分を正当化し、他者の優れた助言も受け入れようとしないでしょう。

これは個人だけの問題ではなく、組織では特に集団化しやすいので要注意です。共同幻想にはまってしまいそこから抜け出せないばかりか、それ以前に問題を対象化できず、もちろん解決もしくは克服もできない。

プロのセラピストであれば自分自身の評価がきちんとできることも当然必要です。

精神医療従事者たるものは外部の第三者にも、治療の話ができる相談相手を持っていたほうが良いと思います。分析医であれば駆け出しの少なくとも数年間は、スーパーヴィジョンを受けながら治療に当たるのが当然で、研修医であっても数年間は先輩医師の指導を受けながら診療を行うのが当然です。

前置きが少々長くなりましたが、基本の基本を以下に述べたいと思います。

それは…

精神疾患の原因は心的外傷であり、「全ての精神疾患は複雑性心的外傷後ストレス障害PTSDである」ことを徹頭徹尾理解して、血肉とすべく徹底的に身につけ、その上で患者に接することです。

複雑性心的外傷後と言う意味は、

1)幼児期からの(主に養育者から受けた)心的外傷(トラウマ)と、それによる精神的発達の未熟さや脆弱性など。

2)ある程度年齢が行ってからの(主に思秋期以降)犯罪被害、イジメ、パワハラなどのストレスや、不適応による精神的挫折など、その他いろいろな精神的問題によるトラウマ

これらが複雑に複合的な原因になって発症していることです。

心的外傷後というのは外傷体験が終わった後でも、脳内もしくは精神内界ではいつも繰り返し生じていることで、実際には現在も続いており、外傷は拡大していいかも知れません。特に家族と一緒にいる人は。

図式的に言えば、前者は原因としてのトラウマ、後者は誘引としてのトラウマと捉えても良いかと思います。

前者は暴力・遺棄といったと虐待ももちろんありますが、精神的虐待、言葉の暴力でさえない、療育者(殆どは親)の接し方や環境の問題でもあります。

「人はパンのみにて生くるにあらず」

そうは思えない「精神病は脳の病気」だと言う人も、もちろんいるでしょうけど、そうした考えは徹底的に排除し、心底から(実を言えば無意識のレベルから)「全ての精神疾患は複雑性心的外傷後ストレス障害PTSDである」だと思わなくては治療にはなりません。

精神病の患者さんは、今はひどく攻撃的であったり、他者を傷つけたり迷惑をかけている存在かもしれませんが、かつては自分自身がそうした被害を激しく被りそのことにより傷ついている人であり、周囲に対して無防備です。

「皮膚が全て剥ぎ取られ、筋肉がむき出しになった身体」のような精神でいるわけです。

病院の中で見ているだけだとわかりにくいかも知れませんが、多くの場合、他者を傷つけるより傷つけられてしまう、勝手に傷ついてしまう人です。

間違った考えにではむしろ悪化させることが多く、実際にそうしている精神医療従事者はいくらでもいます。治療どころか悪化させるのが主な仕事になっている。現状の精神医療の臨床的成果の乏しさや治療の不適切さをまず認めるべきです。

「精神病は脳の病気」というのはただの迷信で、もはや仮設にもなっていません。そう思い考えるだけでも有害です。

百万歩譲って「脳の病気」だとしてもOTにはもちろん、精神科医や臨床心理士にだって脳が治せるわけではありません。もちろん向精神薬は脳に影響を与えますが、厳密な意味では精神の治療にはなりません。もちろん、OTは薬物の処方もできませんが。

「精神病は脳の病気」という神話、もしくは信仰というより迷信がまかり通ってしまう主な理由は、

・脳の状態が良くないことを脳の病気としてしまい、器質性と機能性を区別できていないこと

・幼児期というよりもむしろ二歳半以前の乳幼児期に(無意識による)脳の使い方の基本が条件付けられ、精神機能の傾向が決定づけられているため、

あたかも「脳の病気の遺伝子があって、ストレスや外傷体験によりそれが発露し精神病になる」かのように見えるためでしょう。

もちろん、他の理由もあるでしょうけど。お金儲けとか地位とか。医療従事者側が自覚していることはまずありませんが。製薬会社も「心の病」と言いつつ、脳病信仰を捨てることは今後もありえません。

もちろん、遺伝的な脳の特質も精神疾患の原因に関係はあり、病像には大きな影響がありますが、精神病の発症や症状形成の基本的な決定因になるわけではありません。

脳科学もそれなりには進歩したようですが、それが直接精神疾患の何かを解明し、どこまで行っても平行線で臨床に直接結びつくことは今後もないはずです。こじつけは、これまでもこれからも大いにされるでしょうけど。

精神と脳の機能が不可分一体であることを前提に、精神疾患と中枢疾患を切り分けることに成功したのが20世紀の精神医学の最大の進歩ですが、多くの精神医学者はこのことを理解できず、何の根拠もなく何でも脳のせいにした大正時代に戻ってしまいました。

病院も癲狂院(なんだかわからない気違い)→脳病院(頭がおかしい脳の病気)→精神病院(精神、心の病)と一応進化したはずなのに後退甚だしい。

脳の病気ではなく精神の病気だから精神病なのです。

もちろん患者さんの脳の状態や働きは良くないですが、精神病は器質的ではなく、機能的な疾患です。そこを皆、理解せず曖昧にいい加減に恣意的にミソもクソも一緒にしてしまった。

もちろん合併することはあるし、似た症状はいくらでもありますが全く別物で、そこは区別できなければなりません。

脳の病気の症状は精神疾患にはありません。逆に精神疾患には脳の病気の症状はなく、普通の人にもあるものだけです。どんなに奇妙に見える症状でも、「健康な人」との差は激しくとも、平たく言えば結局のところ程度問題で、もちろんいろいろな傾向もありますが、人間の精神はそういうものです。

わかりやすい例をあげれば、例えば心的緊張による手の震え(書痙)は多くの患者さんにありますが、小脳失調を伴う中枢疾患によるものと心的な緊張によるものは震え方も全く違います。両者の違いは一目瞭然ですが、どう違うのかと言われてると困ってしまいます。ビデオを撮ったり加速度計などを使って画像診断や計測はできるでしょうけど、そんなことより洞察力や観察力を上げることが重要です。

しかし、両者ともただの振戦としてしまえば区別はつかず、治療的にも適切な治療的対応もできません。

メンタルな原因によるものを「脳の病気」と考え、そういう頭で先入観を以って見てしまうと素人でもできたはずの区別もつかなくなり、「見れども観えず」になってしまい、もちろん治療も見当違いのエクササイズになってしまいます。

中枢疾患による小脳失調のある患者さんに適した運動療法や機能訓練は、心的な緊張による振戦に対してはほぼ無効で不適切です。少なくとも精神疾患の人には有効な精神療法、心理療法的な対応を並行して行わなくては身体的改善もほぼ無効であり、書痙の人に書字訓練を行うとしても中枢疾患と精神疾患の人では、練習法や指導のポイントも違います。

ヒステリー性の転換症状としての運動麻痺にもやはり運動療法や機能訓練は不適であることは誰でも知っているはずです。

「幻覚・妄想なんて健常者にないだろ」と思うかもしれませんが、もちろんあります。もしくは乳幼児期にはあったことです。反感を持つ人は精神分析学、精神発達学など徹底的に勉強して下さい。

統合失調症でも神経症でもうつ病でも精神疾患は基本は同じです。精神疾患には本来、区別はなく、病名は疾患区分、疾患単位ではなく疾患概念に過ぎません。診断名は便宜的なものに過ぎません。

そのことについては長くなるので稿を改めて書きますが、とりあえずここでは触れません。

精神疾患を「脳の病気」としてしまえば、薬漬けにしたり脳を破壊したりで、もちろん治療どころではありません。かつてはロボトミーなども行われましたし、殆ど行われなくなった電気ショックも再び盛んに行われています。

私はそうした脳破壊をする人は患者に近づいてはならないと思います。近づいただけでも、一時的ではあれ、程度はともあれ(器質的にではなく)脳の機能を破壊します。もちろん物理的に侵襲し破壊するのは言語道断です。

そういう人がそばにいるだけでも精神の不調をもたらし、患者は具合悪くなる。悪くなりっぱなしかも知れませんけど。

そのような考えの人がこうしたことに気づいていることは、ほぼありえませんが。

はっきり言えば脳病信仰にとりつかれた精神科医が処方する向精神薬よりも、素人が適当に調べただけで処方した方が、同じ薬でも同じ相手(患者)でも後者の方がおそらくマシでしょう。

そんな滑稽なことはあるかっ!と思う人もいるでしょうけど、精神疾患の本質がわかる人なら同意できるはずです。

貴方が、例えばある人と1カ月の海外出張や旅行に行くことを考えてみましょう。

Aさんと行けるのは思っただけで楽しみ、ウキウキ・ワクワクするけど、Bさんと行かなければならないとすれば、考えただけで病気になりそう、実際に行く前から病気になってしまう、ということもありうるはずです。

海外旅行は大好きだし楽しいし行きたいけど、Bさんと行くくらいなら行きたくない、よほど深刻な疾患でもなければ、病気で寝ていたほうがマシ、かも?

基本的には相手にとっても同様であることが多いと思いますが、この場合Aさんはさほど楽しみではなかったり、Bさんは嫌がるどころか楽しみにしているかも知れません。

Bさんの場合は貴方の気持ちなどわからず、気にもしていないでしょう。

Aさんのような人は相手に対する理解や配慮もあるでしょうけど、Bさんのような人は相手のことを理解せずわかったような気になって、しかもそれに自信を持っていたりします。

結婚するなら一緒にいるだけで波長が合い、何も言わなくても気分が良い、楽しく充実している人が良いです。

惚れて腫れて口説かれて、尽くして尽くしてそして騙されて、どうせ騙してくれるならずっと騙して欲しかった、などと言う場合は、口説かれて悪い催眠にかかったようになり、いわばマインドコントロールされた状態になっていたわけです。

「第一印象が大事」と言いますが、そこには無意識の関係性の多くが含まれているからです。

いるだけで有害な人もいるだけで善い人もいますが、実際には前者は有害な行為を、後者は良い行為をするはずです。

特に患者と子供には邪悪な人間を近づけるべきではありませんが、なかなかそうは行かず、子供好きの親や精神医療従事者や心理カウンセラーが甚だしく邪悪であることもしばしばあることです。

繰り返しますが、人は一緒にいるだけでも大きな影響力があります。患者さんに於いておや、尚の事です。

患者さんの側に居るだけでも良い治療者になろうではありませんか。

それには知識も理論も必要で、長年の経験と勘も必要であり、経験値を上げるべきで、長い修業が必要かもしれませんが、正しい道を行くならばそれも苦しく辛く険しいばかりではありません。

基本がわかれば応用はいくらでも効きます。

逆に基本を知らずに「精神病は脳の病気」として、ただの便宜的な分類に過ぎないDSMなど覚えたり、それを適用してわかったようになるなんて遇の骨頂でトーシローの考えです。

OTでそんな人は殆どいないと思いますが、今はどうでしょうか?むしろ精神科医がやっていることですが、そこから患者にとって有益なことは何も生まれません。

セラピストたるもの反治療的なこと、精神の不健康をもたらすことは絶対にやるべきでありませんが、治療になることなら何をやっても良い、むしろやるべきだと私は思っています。

この辺りが、私が正統派精神分析には与せず、自称ポスト新フロイト派たる所以でもあります。

もちろん、治療的であるか反治療的であるかはそう簡単に分かることではありませんが、基本ができていればいくらでも応用はできます。

そのためには考え方ものの見方が重要で、正しい考えができていれば患者さんに対する接し方や働きかけも違うはずで、どうすれば治療的になるのかの判断も瞬時に可能で、先の見通しも可能になります。

不適切な間違った考えでは、そうした判断もできません。

心的外傷と回復 〈増補版〉 ジュディス・L. ハーマン みすず書房https://www.amazon.co.jp/dp/4622041138/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_TAYQ1T7MXCQ8QBVQDPW9

現代精神医学の概念 ハリー・スタック・サリヴァン みすず書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4622021919/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_CAATVFACY8MT2Q7XJC6E

人間関係の病理学 フロム・ライヒマン 誠信書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4414402107/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_0W39ENFJ5A9WKEA26V9X

ごむてつ君のブログ – OT佐藤良枝のDCゼミナール (yoshiemon.info)

セルフ・セラピー研究所

多職種連携の現実的課題

多職種連携、チームワークは古くて新しい課題です。

研修会終了後の質疑応答でも必ずこの問題について質問があります。
「チームワークに困難を感じている」
「(この話を)ぜひ職場に持ち帰って実践したいが、どうしたら良いか」

私の答えは
「まずは、自分自身が常に実践し続けられるようになること」

私たちは技術職なので、やってみせることができます。
説明よりも納得
重度の認知症のある方でも変わる
という事実を共有化するところから始めます。

作業療法士は往々にして
この順番を誤認していると思います。
幾百の言葉を連ねても
目の前の対象者の方がよくならなければ説得力がありません。

自分がやってみせられるようになること

聞いてわかることと
自らが実践できることとは
雲泥の差があります。

結果を出す
次に説明するのであって
順序は逆ではないのです。

相手は作業療法を志しているわけではなく
任意の対象者の方に寄与したいと思って別の職種として関与しているのですから
作業療法士が何を考えて何をしているのかよりも
対象者の方がどのような状態であり、今後どのような状態を目指すのか
というところを志向すべきだと考えています。

ただ、ここにも落とし穴があって
観察力というのは人により職種により異なります。

つまり
同じ現実を見ているはずなのに
異なる状態を観ているということが起こっています。

一つには
観察力の違いが挙げられます。

人によって観察の広さも深みも異なります。

ここがズレてしまうと
お話にならないので
ビデオを活用するのが良いと思います。

実際の場面を見てもらうよりも
実際の場面をビデオに録画したものを使って
何が起こっているかを説明する。

ビデオという道具を通すことで
自分の眼(認識)から距離を置いて、客観的に見ることを促されます。

見ることに専念できるので
状態説明をしても、拒否や抵抗や先入観なく受け入れやすくなります。

もう一つは
人の認識というのは
過去の体験に基づいて作られていきます。

「認知症なんだから無理だってば」
という人は
かつて、その人なりの努力をしたけれども
プラスの行動変容が見られなかったという体験を積み重ねてきたのでしょう。
だとしたら、その人が上記のような認識を持つ必然性があったのだということがわかります。

 問題は
 その人なりの努力というところが
 果たして本当に適切だったのかという振り返りが為されていないというところです。
 関与が不適切であれば適切な行動変容がみられるはずがないのです。

このような場合に
認識だけを変えるように促しても
効果がないどころか、逆効果になってしまいます。
認識を変えさせられるということは、認識の根拠となっている自身の過去の体験を否定させられる
ということを意味するからです。
ものすごい抵抗を示されるでしょう。

抵抗と防衛については、歴史も証明しています。
歴史的な発見をした人と周囲とのギャップが大きければ大きいほど
激しい抵抗と防衛が起こっています。
ガリレオ然り、ゼンメルワイス然り、小笠原登然り。
理解してもらえないどころか、当時は否定、弾圧の嵐。。。
でも、時代が変わってから、ようやく彼らの正当性が証明されました。

善いこと、正しいことがすぐに受け入れられるとは限らないのです。
むしろ善いことだからこそ、正しいことだからこそ、抵抗にあうこともあるのです。

「足を引っ張られたら喜ばなくちゃいけない」
ごむてつさんに、かつて諭されたものです。
「相手は足を引っ張るしかできないのだ」と。

ごむてつさんのブログ記事
精神分析で言うところの無意識の『抵抗と防衛』と憑依・心霊現象」
もご参照ください。

話を戻します。
相手の認識を表面的に否定や修正をしようとするのではなく
異なる体験をしてもらうのです。

一番良いのは、
その人自身の関与によって異なる変化が生じたという体験ができればベストですが
それは、まず、ありえないことなので。。。
次善の策として、異なる事実を見るという体験を積み重ねてもらうのです。

見るというその人自身の行動によって
異なる事実に遭遇したという体験を自己否定することは難しいものです。

 中にはそれでもイチャモンをつける人もいますが
 そのような人は他の場面でも問題が現れているものです。

 つまり、連携の問題よりもその人固有の問題の方が大きいということです。

いずれにしても
結果を出せる人がいる
ということが何よりもまず必要なのだ
ということがお分かりいただけると思います。

結果を出す
認知症のある方と一緒にプラスの行動変容を協働できる人がいる
周囲に誰もいなければ、その最初の一人にあなたがなるしかありません。

認知症のある方を
貶めることなく、崇め奉ることもなく
ありのままに、能力と障害を見出し
援助の視点を忘れずに関与する人に

多職種連携、チームワークという古くて新しい課題の根底には
同じ人を見ていながら異なる現実を観ているという前提の確認から
始めていくことだと考えています。

その上で
どのように説明するか、どのように役割分担するか
という技術的な課題が検討されるのであって
順序は逆にはならないのだと考えています。

OTジャーナル4号(原稿掲載)発売


2021年3月25日に三輪書店から発売されるOTジャーナル4号
特集記事「疾患別 臨床・上肢機能アプローチ―機能・活動・生活へ」に
「身体障害を合併する認知症に対する上肢機能アプローチ」というテーマで
原稿が掲載されました。


前半は認知症の状態像について概観し
後半で上肢機能アプローチの2つの側面について記述しました。

もともと、認知症があってご自宅や施設で暮らしていた方が
CVA後遺症片麻痺になったり、橈骨遠位端骨折や頭骨神経麻痺になることもよくあります。
認知症と身体障害の状態像を把握し、OT場面と暮らしの場面(特に食事)での対応の両面を考えることが求められます。

三輪書店さんのサイトから、1冊だけでも購入できます。
よかったらご参照ください。

本当は
もっと筋力強化に頼ることなく協調性や身体の働きを高めるということの重要性について
記述したかったのですが、ページ数の関係でそこまで踏み込めず。。。
残念ですが、書ききれなかった分は後日こちらのサイトにて掲載していければと考えています。