ちぎり絵の工夫(1)タオル


ちぎり絵をする時には
 こんな風にちぎった和紙を缶の中に入れておくと思います。


もちろん、私も缶の中に入れておきますが
さらに、もうひと工夫。


こんな風にタオルの上にあらかじめ和紙を1枚ずつ並べておきます。

理由は2つあります。

ひとつ目は
アルツハイマー型認知症のある方は
疾患の定義上、高齢者です。
高齢のために手指の巧緻性が低下している方は多いものです。


 このように缶の中に和紙をまとめて入れておくと
和紙の繊維同士が絡まって1枚ずつ取り出すことが難しい方もいます。

認知症のある方は、すでにたくさんの生活障害を繰り返し体験してきているので
1枚取る、こんなこともできなくなってしまった。
と認知機能低下のせいと誤認してしまいがちです。

また、セラピストも「1枚だけ取って」と指示したのに
認知症のある方が和紙を1枚だけ取ることができないと
(認知症だ)という先入観から、手指の巧緻性低下という身体面に配慮が及ばず
(こんなこともできなくなってしまった)とセラピストの側も誤認しがちです。

このような時には
タオルの上に和紙を1枚ずつ置いておくことで
スムーズに1枚ずつ手に取ることが可能となります。

決して、指示理解ができないという認知機能低下のためではなくて
手指の巧緻性低下という身体的な問題を解消することができます。

また、たとえ、HDS-R1桁と認知機能障害が重度であったとしても
色合いの変化をその都度工夫しながら和紙を貼ろうとする方も大勢います。

ちぎり絵というのは(塗り絵もですが)
同一工程の繰り返しによって作品が完成します。
構成障害が軽度であれば近時記憶障害が重度であっても
遂行可能なActivityのひとつです。

和紙をタオルの上に1枚ずつ並べて置いておけば
和紙の微妙な色合いの変化をよく見て選ぶという能力発揮を援助することができます。


こちらの作品をよく見ると
ナスの右側に限定して濃い色の和紙を貼ってあることがわかります。
ナスの左側も上は濃い色、下は薄い色と変えています。

下絵から和紙がはみ出さないように貼るだけでなくて
より立体的に貼ろうとしている
光と影を表現しようと貼ろうとしている
色合いの変化を意識して貼っていることが伝わってきます。

このように
ちぎり絵というActivityで工夫をする
ということは、メタ能力として表現に工夫をしているということですから
普段の他者との関係性においても表出を工夫している可能性があります。

まさしく、この作品を作った方は
私に対しても、とても配慮してくださった方でした。

水分補給のために飲み物をお渡しすると
口をつけたコップの反対側の示して
「先生、こっちは口つけてないからここから飲んでくださいよ」
と勧めてくださったりします。

自分だけが飲んでは私に悪いと思ったのでしょう。
お元気であればきっと私の分の飲み物を用意してくださる方なんだと思います。
でも、今の自分にはそこまでできない。
今の自分にできる精一杯のことは、飲み物を分けることだと思ったのでしょう。
ただ、結果として不適切な方法 (^^; になってはしまいましたが
他者への思いやり、心配りという能力と特性の発露からのものに違いはありません。

このような方は、
他者へ配慮する能力がある故に
他者との関わりの中でストレスを抱えることもあります。
特に周囲に同じように配慮できる他者が少ないような環境
つまり、この方だけが一方的に配慮するような環境では
気疲れしてしまったり、安心して過ごすことができなかったりします。

Activityの場面設定の工夫をすることで
認知症のある方の能力を
私たちが知ることができたり、
再確認できたり、
合理的な能力発揮の援助を促すことができますし
Activityというのは、単に「できることをする」「時間を過ごす」ために
提供するものでもありません。
 
Activityへの向き合い方にその方の能力も特性も困難も反映されていますから
ふだんの暮らしぶりとも密接な関係があります。
そこを踏まえることで、観察や対応に活かし、実践を深めるきっかけにもなりますし
また、逆も言えます。

和紙が缶の中に入った状態のままで提供するだけでは
「和紙を1枚ずつ取り出す」ことができないというリスクを減らすことができず
本来できるはずの「和紙を1枚ずつつまみ上げる」という能力発揮を促せず
(認知症だから和紙を1枚ずつ取り出すこともできない)と誤認してしまう恐れすらあります。

本当は、こんなにも、色合いの微妙な変化を工夫し、楽しむことができる方なのに

同じ方でも、
場面設定次第で、能力を発揮できることもあればできなくもなる。

能力は状況によりけり発揮される。

場面設定の工夫というのは、奥が深いものです。

(続く)

鶏肉のハニーマスタード焼き

これもネットで見つけたレシピです。

朝仕込んでおいて、夜焼くだけなので、カンタンです (^^)
粒マスタードのおかげで鶏肉の臭みも抜けるし
はちみつのおかげで鶏肉が柔らかく照り照りに仕上がります。

粒マスタードと醤油とはちみつを1:1:1の割合で
鶏肉に漬け込み、あとは焼くだけ!

粒マスタードは脂質が多いらしいので結構満腹感があります。
私は、レシピよりも気持ちマスタードの量を減らして作っています。

ちなみに
鶏肉580gに醤油・蜂蜜を大さじ2、マスタードは大さじ1.5くらいです。

現場で本当に役立つ認知症研修会第2回計画中


ご好評にお応えして、
現場で本当に役立つ認知症研修会 第2回をオンラインにて開催します。

5月の夜間に1時間ほどで
新人さんや新人さんを指導する人や
自身の実践を深めたいと考えている人や興味のある人を対象にして
声かけの工夫をテーマに開催しようかなと検討中です。

認知症のある方への声かけというと
「優しく」
「否定しない」
ということは、たいていの人が聞いたことがあると思います。

でも、そんなことより、もっと大切なことがあって
それらを明確に言語化している人、実践している人は少ないものです。

認知症は脳の病気です。
脳血管障害後遺症のある方に優しく、言動を否定しないような対応をしても
それだけで運動麻痺が改善したりADLが改善することはありません。
認知症も同じです。
優しく、言動を否定しないということは、対人援助職の基本ではあっても
障害と能力を観察・洞察して的確に対応することができて
初めて援助の入り口に立つことができるのです。

「優しく」「否定しない」対応をしただけで
改善がみられるのは、ごく軽度の方です。
(ここで言う改善とは認知機能障害ではなく、
 BPSDだったり介護への協力ができるようになったという意味です)

中等度以上の認知症のある方には、きちんと障害と能力に合わせて
対応することが求められています。

「優しく」「否定しない」対応をしても
認知症のある方の言動に改善がみられないどころか
火に油を注ぐようなことになってしまって
自身の対応が悪いのかと落ち込んでいる人に伝えたい。
あなたの努力が足りないのではなくて
努力の方向性が違うだけなのだと。

今、悩んでいる人
現行の方法論に違和感を抱いている人
新人さんはもちろん、どなたでも参加できます。

決定したら、こちらのサイトでもお伝えします。
今しばらくお待ちください。

 

伝達する時には具体的に/意味も添えて


老健で勤務していた時から、
看護介護職への情報伝達において
再現性を高めるにはどうしたら良いのか?ということを考えてきました。

リハサマリーも同様です。
リハサマリーの工夫についても書きましたので
よかったらご参照ください。

「具体的に/意味も添えて」 ということが今のところの私の答えです。

そして
もう一つが、自分の問題と先方の問題を混同しないで区分けする。
ということ

どういうことか、説明していきます。


写真のような座り方をしている方に対して
たいていの看護介護職員がすることは
頭の右側を起こそうとしたり、右腕のところにクッションを当てたりすることです。
でも、よく見ると臀部から左へズレてしまっています。
このような時には、臀部の位置を修正すると書いても伝わりません。
なぜなら、そもそも臀部の位置を見ていないからです。
(臀部を見ていれば臀部を修正するはずです)
臀部ではなく、見た目にインパクトのある頭部や体幹を見ているだけなので
臀部の修正をする必然性が伝わらないのです。

 
1)具体的に
  ・例えば、臀部の位置を修正ではなくて
   どうやったら左右対称になるのか、を書きます。
   「臀部を右に戻してから右側肩甲骨の下にタオルを当てる」と
   大きめの文字で書きます。

2)意味も添えて
  ・臀部が左へズレていることや、
   頭部の右側の筋肉は短縮しているので傾いていても気にしない
   などを小さめの文字で書きます。

 大きめの文字で書くのは、してほしいことを明確に伝えるため
 小さめの文字で書くのは、スペースの関係と理解よりも
 実行を優先しているからです。

3)自分の問題と先方の問題を混同しない
  ・職員の中には事実を観ずに、かつて受けた誤った教育による刷り込みを信じて
   そこから脱却できない人もいます。

   例えば、
  「強く激しいムセは異物を喀出できるので心配いらない。
   むしろ、弱々しいムセしかできない方の方が危ない」と
   ムセとは何かということから説明しても
   強く激しくムセている方に対して食事中止してしまう職員もいます。

  ・写真の例で言えば、
   臀部の位置を修正せずに体幹にクッションを当て続けたり、
   頭を左へ戻すように繰り返し声かけを続ける人も出てきます。
   そのような人は他の場面でも似たような言動をしている、
   つまりその人固有の問題を抱えている
   わけで、そこから先の対応はその人の上司が対応すべき問題となります。

  ・再現できるように、伝え方を最大限工夫するのは私の責務ですが
   全ての人がきちんと再現できるかどうか、その徹底は私の管轄外と言えます。
   ここに気がつくまでは長い年月を要しました。
   どうしたら、全員に完全に徹底できるようになるだろうか?
   と悩んだ時期が相当ありました。

  ・脱却できたきっかけは、
   リハと看護介護の情報伝達において問題が生じる時には
   必ず看護介護の中でも
   情報伝達の問題を抱えているということに気がついたからです。
   単に、リハ職が伝達徹底されていないことに
   気が付きやすいだけだということを認識できたからです。
   つまり、看護介護の管理責任者がすべきことであって、
   リハ職としては現状報告や相談をしても
   解決策を考えるのは管理責任者の仕事だということです。
   (管理責任者もいろいろな人がいますが 。。。)
   いくら、リハに関することとは言え、
   管理責任者がすべきことまでリハ職が肩代わりすることは
   ありません。
   事実の認識と事実への対応を明確に区分けすることを私は学んできました。

   リハ職としては、情報発信者として最大限明確に具体的に伝える。
   もう一つは、
   対象者の能力が最大限発揮できるようにリハを頑張るということです。
   対象者の能力が底上げされれば、問題を最小化することが可能となります。

   重度の認知症のある方でも、それだけの能力があります。
   全員で方法を徹底できないから
   認知症のある方の状態像が改善できないということではなくて
   認知症のある方にピンポイントで的確な対応ができる人がいないから
   状態像が改善できないということなんだと思います。
   (もちろん、他の疾患と同様に状態像によってはできないこともあります)

   過度に情報伝達にこだわることなく
   伝達の徹底や完全性にこだわることなく
   たった一人で良いから、的確な対応ができる人がいること
   その最初のひとりになることを目指すことの方がずっと大切です。

  

「現場で本当に役立つ認知症研修会」終了!


ただいま、第1回目の勉強会が終了しました!
covid-19対策で大変な中、また年度末でお忙しい中、
ご参加くださいました方、お疲れさまでした。

アンケートをざっと拝見したのですが
「わかりやすい」「うん、うんとうなづきながら聞いていた」「評価の重要性を再確認できた」などの
お声をたくさんいただきました。

開催時間についても「ちょうど良い」というお声が多かったです。
平日夜間の勉強会に参加したということは、参加可能だったということなので
(都合悪い方は参加できない)
そこを差し引くにしても
夜間に1テーマ限定で臨床現場で役立つ知識を提示するという勉強会への
ニーズもありなんだということは実感できました。

これってオンラインにぴったりじゃん!とも思いました。

わざわざ出かけるのに、40分の研修会じゃあ。。。と思っても
ご自宅でリラックスした雰囲気の中で40分なら参加してみようと思えるかも。

ただ、話している方としては、40分は本当にあっという間で
本当に内容を絞らないとすぐに時間超過しちゃうなぁーとも思いました。

有益なアドバイスは具体的2


NHKのスポーツ✖️ヒューマンという番組を見て
なるほど!と思いました。

スキージャンプの小林陵侑選手のお話で
葛西紀明チーム監督が
踏切の時に、スリップしていることを見抜いて
真下に力を加えるようにというアドバイスのもと練習してから
飛距離が伸びたそうです。

その練習というのが
坂道をローラースケート靴を履いて障害物をジャンプしながら
バランスを取って降りる練習

なるほど!
確かに真下に荷重しないと滑ってしまいます。

身体の働きを変えるために
必要な要素のある場面設定をして繰り返し身体に動きを叩き込む

有効なアドバイスは具体的

場面設定の意図も明確

なるほどーと唸ってしまいました。


しのぐ ≠ 適切な対応

 

「しのぐことと適切な対応とは違う」
ということを具体的に事例を提示しながらよくお話しています。

そうすると
講演後のアンケートなどで
「普段していることをしのぐと言われて傷ついた」
「ディスってる」
と書かれたりしたことがあります (^^;

私はその場をしのぐことを否定してはいません。
しのぐしかない時には、しのぐという意識を持って堂々としのぐべきだと言っています。
ただし、しのぐことと適切な対応との区別はするべきだと
具体的なケースの障害と能力を元にお話をしています。

下記の記事にも記載してありますので
よかったらご参照ください。

つまり
帰宅要求のある方の状態把握ー再生・再認の可否とその程度ーをせずに
表面的に
タオルたたみをしていただいたり
お茶を飲んでいただいたり
気を逸らす何かに誘ったり
「今日はもう遅いから」
「外は雨が降っているから」
などと時には事実と違うことを言ったり。。。

そのような対応をしている自分の胸がチクンと痛んだことはありませんか?

暮らしの場面に近いほど
しのぐしかない状況は山ほど出てきますが
適切な対応としのぐということは天と地ほどの差があります。

だって
しのぐことが適切な対応だとしたら
どれだけ認知症のある方を言いくるめることができるか
どれだけ上手にウソをつくことができるか
ということが大切で
言いくるめ方やウソのつき方が上手いほど良い対応
ということになってしまいます。

そんなバカなことがあるはずありません。
そんな実践をしながら「寄り添ったケア」をしているとどうして言えるのでしょうか?

かつて
帰宅要求をしていた方が落ち着いた時に
「あんたと話してると頭の中がスッキリしてくるよ」
と言われたことがあります。
とても嬉しかった。。。
その方がご自分を取り戻している。
そしてその援助ができた。。。本当に嬉しかった。

しのぐことを良い対応と思い込める人は
認知症のある方の能力
生活障害やBPSD(例えば帰宅要求)に
反映されている能力を観察・洞察したことがないんだと思います。

認知症のある方が
「またそんなことを言って私を騙そうと思って」
「私がバカだと思っていい加減なことを言って」
と必死になって叫んでいるのを見たこともあります。

そこしか見ていないので実際に何があったのかはわかりません。
もしかしたら、今言いくるめられたり、いい加減なことを言われたのかもしれないし
そうではなくて、今はちゃんと応対しているのに
かつて騙そうとしたり言いくるめられたりしたことが蘇ってきて
叫んでしまったのかもしれません。

認知症のある方は
初期や中期には介助者の言いくるめやウソをそうと知った上で
騙されてくれることもありますが
こちらを慮ってわざわざ同じ土俵に乗ってくれているだけなので
職員が言いくるめたり、ウソをついたりしても、付き合ってくれている。
 
その場で困ったことが生じない、その場が収まった=良い方法とは限らないのです。

後年、施設や病院が変わって
新しい職員が真摯に応対してくれているのに
過去の抑圧した感情をぶつけてしまうということも起こってきます。
しかも、そういうことが起こっていることを前の不適切な対応をしていた人は
知らずに済んでいるから自覚が起こらない。。。

食事介助で、上の歯でこそげ落としたり、スプーンを口の中に突っ込んでも
大抵の場合直後にひどいムセが起こることはありません。
それだけの対応力を対象者自身が持っているからです。
そのことがわからない介助者は自身のスプーン操作を改めることはありません。
今、ムセていないし、表面化する問題がないから自身の関与を疑えない。
でも段々と能力低下してくると対象者が対応しきれなくなってくる
そこで大きな問題が生じてくるけれど、
先の介助者にはその問題に自分が関与していたという自覚が生まれない。

短期的な結果を求めて、長期的な困難を助長させている
 
同じコトが違うカタチでいろいろな場面で現れています。

対象者ご本人にとっても
真摯な職員にとっても
余分な困難を抱えるだけだし
信頼関係を作っていく阻害因子になってしまいかねません。
そんな対応が本当に良い対応でしょうか?

ごむてつさんに
以前にアンケートで
「自分が普段やってることを『しのぐ』って言われてショックだった」
と書かれたことを話したら
「ショックを受けてよかったじゃないか」
「そこからどうするかが大事じゃないか」

って言われたことがあります。

事実を指摘されたら
学び直すチャンスだし、そのための研鑽
なんじゃないのかな?

事実の指摘をディスるって言う人もいますが
その人自身のディスる傾向を私に投影しているだけなんですよね。。。

半ば常識化している不適切な対応は自覚しにくいものです。

食事介助でのスプーン操作でも
上の歯でこそげ落としたり、奥に入れるようなスプーン操作をしていても
大半の人は自己修正できません。
他の操作方法があることを知らない。
他の操作方法と比べることができないから違いがわからない。
違いの意味を考えることもなかったし、教えてもらったこともないからです。
ところが、実技講習で実際に上記のような不適切な介助と適切な介助を両方とも受けると
その違いを明確に感受できます。

帰宅要求のある方への対応も全く同じで
半ば常識化している誤った対応と適切な対応を併記して説明されて
初めて、両者の違いとその意味に気がつける人はたくさんいます。

「反省した」
「目からウロコだった」
「明日からやってみます」
「もう一回頑張ろうと思った」
アンケートにそのような記載をしてくれる人もたくさんいて
本当に良かったと思います。

より広がりと深みのある実践の一端に触れて
もっと高みを目指して実践するためのきっかけが
研鑽としての研修会への参加じゃないのかな?

そうでないとしたら何のために研修会に来るんだろう?
誰かに肯定してもらうため?
私はそんなことを考えたことがなかったから
私もある意味でショックでしたけど
そういう人もいるんだということがわかってからは
なおさら事実に基づいて考え対応する
事実を事実として観察し洞察することの重要性と
それは現実に実践が可能なのだと伝える重要性を痛感しています。

「あそこへ行く!」対応と解説

前の記事「あそこへ行く!」の答え、
どう対応するのか、そして、その解説です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」

 郵便局に行こうとしていたんですね?
 郵便局に行って何をしたいんですか?

「郵便局には〇〇さんがいてね。
 前に〇〇さんのことをいろいろお世話したんだよ。

 〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
 洋服がたくさんあるんだ。」

 〇〇さんにちゃんとやって欲しいことがあるんですね。
 (両手を太ももの下に入れているのを見て)
 ところで、今、寒いですか?

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

 服を取りに行きたかったんですね。
 それでは、洋服のあるところにご案内します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上着は、その方のお部屋のベッドの上にちゃんと畳んで置いてありました。
 その後上着を車椅子の後ろにかけて食堂に戻りましたが
 立ち上がることはありませんでした。

いかがでしたか?

それでは、私が何を意図して何をしていたのか
解説をしていきます。

この方は、最初から「手段(方法)の言葉」を使っています。

 「あそこに行く!」

あそこに行って、何をしたいか ということは言っていません。
そこで、まず最初に目的を尋ね返しました。

  あそこに行って何をしたいんですか?

それに対する答えが
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と
もう一度、「手段(方法)の言葉」で答えられました。

そこで、再度、目的を尋ね返しました。

  郵便局に行きたいたんですね?
  郵便局に行って何をするんですか?

  ここは、口調に気をつけないと。
  詰問しているような口調にならないように気をつけながら
  語尾は小首をかしげるようにして尋ねました。

そこで、ようやく、この方がしたいことを答えてくれました。

  〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
  洋服がたくさんあるんだ。

ちゃんとやってほしい。
その気持ちを受け止めたことを言葉にして伝えます。

  〇〇さんにちゃんとしてほしいことがあるんですね。

何をちゃんとして欲しいのか、尋ねてみないとわかりませんが
洋服に関係あることだと言っています。

ここでその方の様子を確認すると、両手を太ももの下に入れています。
この方は寒がりだし、両手を太ももの下に入れてるのは寒いからかな?
と思って具体的に尋ねてみました。
イマ、ココでのその方の感覚を確認する言葉です。

  ところで、今、寒いですか?

ここで、ようやく 目的の言葉 が出てきました。

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

この方が
あそこに行きたかった
郵便局に行きたかった
本当の理由は、上着を手元に置いておきたかった
ということがわかりました。

このように
認知症のある方が
何かしたいと思った時に
直接的にしたいこと(目的)を言葉にせずに
したいことを達成するための手段(方法)の言葉で表現することは
よくよくあります。

そのことを職員が認識せずに
表現された言葉だけを切り取って
「あそこへ行きたい」
「郵便局へ行きたい」と言われた時に
「郵便局なんてここにはない」
「今は寒いから郵便局には出かけないほうがいい」
「あそこはパントリーでその向こうは廊下。よく見て」
「そんなことより、お茶でもいかが?」と言ったり
あるいは
「じゃあ、あそこへ行ってみましょう」と車椅子を押して行って
「郵便局はありませんよね?」などと言っても
かえって大声で怒鳴られまくって立ち上がり続けて
ほとほと困り果ててしまう。。。ということも現場あるあるです。

でも、よくよく考えてみて下さい。

上記のような職員の対応は
「立っちゃダメ」「立たないで」と言われても、
それでも
、なおかつ
どうしても郵便局へ行きたいと思う、あなたにとっての必然を教えて下さい。
ではなくて
  あなたが何をしたいのかは感知しない
  あなたの言っていることはおかしなことだ
  おかしなことを言っているとわかってね
と言っているのと同じなんです。

だから
「やっぱりあんたは私の話を聞いてくれないじゃないか」
「だから〇〇さんじゃなきゃダメなんだ」
「郵便局に行くって言ってるのに違うところに連れてきただろう」
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」
「そうやって私を言いくるめようとして!」
「私のことをバカだと思っているんでしょう!」
と怒り出してしまう。。。

それに対して
この方は最近怒りっぽいから認知症が進行したのかな?と
認知症のせいにして、自身の関与を吟味検討することなく終わってしまう。。。

でも
この方の怒りはもっともなこと、正当な怒りではないでしょうか?

この方が本当は何をしたいと思っているのか
困っていることは何なのか
答えることができるのは、その方だけ
対象者の方だけです。

対象者の方は答えている
答えを聴くためには工夫が必要
です。
私たちは聴けている?

 

答えを聴くために必要なのは
知識の明確な認識であり、
その知識をもとにした観察・洞察であり、
自身の意図を的確に実現できる技術です。

 

詳細は
「声かけの工夫の考え方」
に説明してありますので、ぜひご参照ください。

この記事で説明している
「手段(方法)の言葉と目的の言葉」を理解しておくと
認知症のある方とのコミュニケーションの質が上がり
ケアの質、対応の工夫の質が格段に上がると思います。
(ただし、適切に実践できるためには反復練習が必須です)

もうひとつ
大切なことは「声」です。
「何」を言うか考えても
口調に無頓着だったりすると
認知症のある方は口調のキツさに反応して怒ってしまうことがあります。

認知症のある方への声かけ、コミュニケーションにおいて
What、言葉だけでなく
How、声もcontrol して選択しながら関与できることが大切です。

認知症のある方の答えを聴かずに
表面的な困りごとをどうやって収めるのか考える風潮もあります。
もちろん、私たちの手は2本しかないから
気持ちがあっても収める、しのぐしかない時だってあります。
そのような時には、しのぐ自覚のもとに正々堂々としのげば良いと思います。
ただし、決して「しのいでいることと適切な対応の混同をしない」ことが重要です。
だって、違うんですから。

今はどの職種も忙しい。
時間も人手も限りがあります。
だからと言って
事実と内心の要請とを混同するから話がややこしくなってしまいます。
課題解決において、この混同も現場あるあるではないですか?

本当に適切な対応は時間もかかりません。
適切な食事介助をすれば15~20分程度の通常時間内で食べられるようになるのに
適切なスプーン操作ができないから
対象者の食べるチカラが混乱・低下し、
結果として食事に要する時間が40分もかかってしまう。。。

同じコトが違うカタチで
認知症のある方への対応全般に関しても起こっているだけです。

まず、考えるべきは適切な対応、食事介助ができることであって
それは可能なのだということを実践し伝えることが
このサイトでの役目のひとつだと考えています。

「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

キノコと冬野菜は冷凍

 

キノコ類が冷凍できるって知らなかったんです。
冷凍したほうが旨味も栄養もアップすると知ってから
椎茸、舞茸、エリンギ、エノキ、しめじ等
いつも冷凍しています。

その他にも
長ネギ、白菜、にんじん、里芋も冷凍常備中
良い長ネギが手に入ったら、緑の部分を細かく刻んでこれも冷凍

具沢山汁が簡単にできます。
キノコからも野菜からも出汁が出ておいしいお味噌汁がすぐにできます。

鍋の時も
白菜に火が通るまで時間がかかったけど
冷凍白菜ならあっという間に火が通るので調理時間も短縮できます (^^)