ROMとMMTの諸問題(ごむてつ)

【ROMとMMTの諸問題(ごむてつ)】

30年近く前のことだが、友人に「ロムって何のことだ?」って突然聞かれたので、「ROMっていうのはRead Only Memoryのことで、RAMはRandom Access Memoryで…」なんて頓珍漢な返答をしてしまったけど、聞かれたのはパソコンのことではなかった。

聞いてきたのは、当時同僚の友人OTである。
ROMもMMTも知らないOTなんかいるわけないだろ!と思うも知れないが、それがいたのである。

俺はもちろんROMもMMTも一応学生の時にはやったから一応知ってるけど。
ROMって何の略だっけ?関節可動域か? Range of Motionだっけ?
MMTは徒手筋力テストだっけ?Manual Muscle Test か?
正直、もう忘れた。思い出す気も調べる気もしない。

聞いてきた友人は、1980年代の初め米国の大学院に留学してOTの資格もとったのだが、米国ではROMもMMTもブルンストロームも聞いたことがないと言う。
米国の大学院に留学したOTは多いけど、彼のように米国でOT資格も取った人は珍しい。大抵の人は日本でOTの資格をとってから留学している。
(少なくとも当時は)米国のOT資格がそのまま日本で通用するわけではないので、日本に戻ってからまた国家試験を受けるのだが、専門用語は英語で覚えているし、米国では聞いたことがないような問題が出てくるし、たいへんだったらしい。

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今でもそうかもしれないが、私が一応OTだった2~30年前は短大や専門学校の2年生(大学だと3年か?)になると、RAMとMMTの実技テストは一大イベントであった。盆と正月とお祭りが一緒に来たように、教官も学生も急に色めき立って大わらわ。出来が悪いと落とされて何度も追試を受けなければならないことは、既に先輩たちから話も聞いている。あまり出来が悪いと単位がとれず留年になる。

その友人OTが「何であんなことやるんだ?」と言うので、「学生は人の身体に触れることも慣れてないし(今は慣れているのか?)、人に指示することも慣れてないし、そもそも実地テストなんかも受けたことがないだろうし、解剖学や神経・筋の知識のおさらいみたいなものだし、通過儀礼のようでもあるし…」なんて一応答えたのだけど、彼は全然納得してはいないようだった。
思い起こせば私も学生時代からあまり納得していなかったのだが。

正直言って、リハの学校に入ったときは、精神科志向は強かったものの特に決めていたわけでもなく、身体的なことや運動のことなどにも関心はあったのに、学校に入ってから徐々にOTには失望が強くなり、特に身障系には関心をなくしたのはROMやMMTがきっかけだった気がする。
もちろんそれ以外にも理由はいろいろあるけど。

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ROMやMMTが全く必要ないと言うわけではもちろんないので、念の為。
MMTは御存知の通り、中枢疾患だと殆ど意味をなさないし。
例えば筋ジストロフィーや頸髄損傷の不全麻痺とか、必要なら場合に応じてやれば良いと思う。
それにしてもやはり評価は臨床観察が主体であり、テストは一資料を得るだけで、そのための補助に過ぎないと思う。
テストの結果を積み上げても評価にはならないし、それだけでは治療目標やプログラムも立てられないだろう。今後いろいろなテストができてデータが得られるようになったとしても。

いずれにしても適用は限られ、必要に応じてやれば良いと思うけど、ROMもMMTも適切に行われているのだろうか?
OTPTの教義のように金科玉条になっていることは納得できないし問題かと思う。大げさに言えばOTの臨床的能力や技能のレベル向上をむしろ阻害している気もするし、そんなことばかりに労力や時間を使うのは無駄な気がする。
他にやらなくてはいけない重要なことがいくらでもあだろうし。
学生の勉強も臨床でも。

ROMテストや訓練の問題

俺はOTの学校に行く前は自転車の仕事をしていたので、その頃は直線が交わる角度なんてパッと見ただけで±0.5度単位なら正確にわかった。今は自信ないけど。
職人はそんなもんいちいち計っているようでは仕事にならない。もちろん確認のためには計るけど。

骨は直線ではないし計測ポイントもピンポイントではありえないので、そんなに正確にはわからないし、5度単位で良いならなら見ただけでわかるし、角度計を使えば精度が保証されるわけでもないし、そもそもデータが大事なわけでもない。
むしろ観察で状態像を把握しておくことは重要である。

きちんと観察・把握できていれば特にROMテストは必要ない場合も多いだろうし、関節可動域制限があるにしても、それ自体が問題なのかどうか?
セラピーの時だけROM訓練をやってもあまり効果はなく、直ぐに戻ってしまうのではないか?といった有効性の問題もある。

こういうのは有効だと思う。
スポンジでROM維持 ? 月刊よっしーワールド (kana-ot.jp)

前述の友人OTは訓練器具なんかも工夫して作っていたけど、そういうことをする人もあまりいないのでは?
なんで皆、あまり工夫しないんだろうか?という気もする。まさか今どきサンディングでも無いだろうし。

我々の頃は脳卒中の急性期には後のリハビリの妨げにならないようにROM訓練が必要だなどと言ってた気がする。適切に行えるかという問題もあるけど、むしろ看護や介護の役割という気もする。。

こんなこと書くとまた叱られそうだけど。
いずれにしても漫然とやるのではなく、必要な場合に適切に行うべきだろう。

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運動療法や機能訓練をきちんとやっていれば状態像の把握もできるし、要は動かせれるようになれば関節可動域も徐々に広がるし、当人自身でもある程度できるのではないか?

機能的なOTとか、神経筋促通手技とかファシリテーション・スキル、テクニックというのだろうか、ボバースとか?
やっぱり麻痺や上手く動かせないのを動かせるようにするのがリハの基本だろう。100%の回復は無理だろうし、限度はあるにしても。
そうしたことをきちんとやるならROM訓練を兼るだろうし、実際に動かせるようなって動かしていれば、ROMはある程度広がるはずだ。それでは支障があるならやはり必要に応じて適切にやれば良いだろう。

卒業生のOTいる病院に行くと何となく、あやしげな雰囲気を醸し出してROM訓練?をやっていたりした。
「痛みますかぁ~?」とかなんとか言ったりなんかしちゃって。
あれは一体何をやっているんだ?ストレッチか?

一対一でつきっきりでやると時間をとられるし、他にやることいくらでもあると思うのだが。実は何をやって良いのかわからなかったり、できないのでROM訓練をやってる人も多いのではないだろうか?
脳卒中のOTなど、ROMとActivityだけで良しとしている人はいないだろうか?
ROM訓練をやっているといかにもリハビリをやっているという自己満足がOTの側にも患者の側にもあるのかとも思うけど。温泉場のマッサージとかならそれでも良いだろうけど、医療としてやるのは問題もあるような…
悪く言えばリハビリごっこ、というのは言い過ぎか?

MMTは必要か?

ROMと違ってMMTは実際の臨床場面ではあまり行われておらず、もう忘れてしまったOTもいると思う。ご存知のように中枢疾患には適用できないし、適用の対象や範囲は非常に限られる。使わないものを学校でやってもしょうがないのでは?もっと基本と応用が可能となる考え方や方法を身につけることが必要かと思う。

たいして使いもしないのに、あたかも重要な臨床の基本のように扱うのも問題だが、むしろ一番大きな問題は、臨床の基本である運動学的理解の妨げになり、阻害していることではないか?と思う。もちろん知識それ自体が理解の妨げになるわけではなく、教育過程や理解や実践のプロセスとして。

筋の起始停止やら神経支配や主な動きを憶えてMMTを身につけると、運動の基本がわかったような気になってしまうかも知れないが、それだけでは全く応用が効かない。
もちろん、それらを知らなくても良いわけではないが。
MMTを身につけても神経・筋に関する学習にはなっても、運動の理解にはなかなか至らないのではないか?

実際に運動学的理解がMMTレベルに留まっている人も少なくない?というのは言い過ぎかも知れないが、OTもPTも臨床で必要な基本的な運動学の知識や理解に乏しく、あまり臨床に役立てられない人もいると思う。

MMTは基本的には単関節の一方向に関する運動として、個々の筋、もしくは共働してはたら筋群の働きについて調べるのだろうけど、これが一致しているとも限らない。結局何をテストしているのか?ということにもなる。

複雑で理解し難いことは、単純な要素に分けて理解し考えてから再統合することにより、全体の理解につなげることも一つの方法であるが、MMTはむしろ実際の運動からはかけ離れているので、そこから脱却するのが難しくなると思う。

実際の運動は単関節運動であることは殆どなく、殆どの動きは連続三次元である。
MMTの呪縛から離れられないと、どうしても運動を二次元でとらえてしまいそこから脱却するのは難しくなるのでは?
筋肉自体も二関節またはそれ以上の複関節にまたがって作用するものが多く、むしろ単関節筋は少ないし、昔のロボットみたいな動き方は実際には殆どない。

正確なテストのためには「代償運動」にならないようにする必要があるが、実際の運動はむしろ複合的で代償運動に近い場合が多い。
連合反応はMMTでは排されるが、実際の運動は連合的、複合的であり、部分的な小さい運動にも全身が関係する。

上腕二頭筋も三頭筋も、大腿四頭筋もハムストリングスも、前腕の筋も下腿の筋も主要な部分は二関節筋であり、実際の筋肉の殆どは二関節筋やそれ以上の複関節筋で、動きも当然複合的である。

拮抗筋は拮抗するだけでなく共同して働く筋でもある。同時収縮や共同収縮の場合、拮抗筋が相反する方向に力が入れば、力が入るのに全く動きにならないが、共同して補助する働くことにより、強い力を発揮する作用もあるし、目的に合った適切な運動を補助する働きもある。

例えば前腕の屈曲を考えた場合、上腕二頭筋に対して上腕三頭筋は拮抗して屈曲を妨げるが、この拮抗筋の働きがなければ、上腕二頭筋は十分に作用せず、屈曲の力も弱くなるし、他者がもしくは固定物などで保持したり固定しなければ共同運動になってしまい、肘関節の屈曲だけの働きは不可能になる。

筋力があるのに動かせない。テストの点数は1?

拮抗しているだけでは収縮はあっても、重力にも検者の抵抗にも抗することはできず、4~5以上の筋力があっても1になってしまうという問題もある。

しかしテストの中にはそうした観点は入っておらず、実際には観察でかなりわかることではあるが、観察で得たことはむしろ主観的な見方として排除され、臨床に役立つ知識や技能には役立てられない恐れがある。

こうした問題に気づいたのは学生のときであるが…

OTの学生の頃の私は肩甲骨のリトラクション、プロトラクションの動きができなかったのである。内転(僧帽筋中部線維、大小菱形筋)?外転(前鋸筋、小胸筋、僧帽筋上部線維)かな?よくわからんけど。

自分はそのような動かし方がほぼ全くできないので、できなくても当たり前と思いこんでいた。鼻の穴を膨らませたり、耳を動かしたり、足指を別々に動かしたり、できる人とできない人がいるが、そのようなものかと。

この動きを上手く利用できなければ、投球やクロールで泳ぐなどの肩を大きく使う運動は殆どできない。私は実際にそうしたことが極度に苦手だったのにその理由がわかっていなかったのだが、その一つの大きな要素はそうしたことだった。

PTの人など運動が得意でその延長でセラピストになった人も多いようだけど、むしろ運動が苦手な人の方が向いているかもしれない。スポーツ選手としては優秀でもコーチや指導者などに向かない人がいる。できる人はなぜできて、できない人はどうしたらできるようになるのかわからず、考えてもこなったような人は向かないだろう。

もちろん私は身体的には「健常者」で運動麻痺はなく、ちゃんと神経はつながっているし筋肉も収縮するのであるが、力を入れても共同収縮、拮抗作用になって動かせない。従ってMMTの評価としては1になる。筋力はそんなに強くないにしても十分あるのだが。

要するに上手く神経が使えておらず、必要な力を入れて不必要な力を抜くことができず、無駄な力ばかり入ってしまう。

原因はよくわかった。
要するに精神疾患の症状である。動かせないのに、むしろいつも力は入っており緊張している。
リハ学院に入った頃は、精神病は随分良くなっていたのだが、私は早期から重症だったので、幼児期から身につけるべきことの多くが身についておらず、良くなっても大人になってからも中々身につかないことがある。それ以前にその必要性にも気づかなかったのでだが。

実際に精神疾患の人を見ているとそのような人は多い、というより殆どかもしれない。肩を動かそうとしても体幹や別なところも力が入って動いてしまう。腕も一緒に動いたり、顔まで力が入ったり。
当然のこと、普段も無駄な力が入りがちで、肩こり症にもなっているのだが、しばしばというより大抵は自覚もない。酷い人の方が却って自覚しにくいかも知れない。

稀ではあるが、肩甲骨の挙上(肩をすぼめる)ことができない人もいる。
若い女性なのにプロレスラーみたいに肩の筋肉が盛り上がっているのに、力が入るばかりでむしろ抜くことはできず、上手く動かせないのである。筋肉は身体を動かすためにあるのだが、むしろ緊張し動きを邪魔するための筋肉になってしまっている。

そういう人は書痙、振戦も酷かったが、やはり肩こりにも肩に力が入りすぎていることにも自覚はなかった。震えないようにすれば余計に無駄な力が入ってしまい、却って震えてしまう。

私は身体障害のリハは殆どできないが、こういった中枢の問題はなく、精神的な緊張が身体にも現れ、様々な支障をきたしている人を治療するのはもちろん得意中の得意である。
医学的な基礎知識はそれなりに役立っているけど、勉強不足と言えばそのとおりだが、正直なところOTになるための勉強は殆ど役には立っていない。
個人的に師事した心理療法の師匠の教えと、自分自身と患者の観察、洞察・理解によりわかってきたことである。

自分のことをついつい語ってしまうが、話を戻すと…

MMTは5段階評価とは言え、検者の主観によって判定するものであり、データ化できるわけでもなく客観性にも乏しい。抵抗に抗してと言ってもその抵抗の強さが問題でもある。などなど様々な問題も指摘されているが…
実際のリハの場面で必要な場合があるにしても臨床には役立てるのは難しいのではないだろうか。

運動の基本は…

階段を昇るにも、自転車を漕ぐにも、立ち上がるにも、股関節伸展、膝関節伸展、足関節伸展を同時に行う。

それらの筋の組み合わせ、収縮のバランスで実際の運動は行われている。

実際には重力は除去できないし、一定の方向(鉛直?地球の中心)に向かって一定の法則に従って作用している。
もちろん実際には重力の方向は鉛直に決まっているし、質量が決まっていれば大きさも変えられず、重力に従うか利用して、あるいは抗して運動するしかない。

たいていの日常生活における運動は、立っているか座って行っている。
そうではない運動は、実際には水泳などのスポーツや、ベンチプレスみたいなトレーニングとか美容体操くらいで、一般人の日常生活ではあまり必要がない。

MMTをやる時のように、肢位を変えて重力を除去したり、(身体に対して相対的に)重力の方向を変えて運動するなんてことは殆どない。
それを理解することは訓練に役立つことはあるだろうけど。

しかしMMTのように肢位を変えることにより重力の方向を変えるという発想を身に着けてしまうと、むしろ重力の働きを理解するのは難しくなってしまうの可能性がある。
一度観点や発想をリセットして、日常生活では重力の方向は決まっていることを前提として考え直し観察できるようになる必要がある。

MMTをやってはいけないわけではもちろん無いし、必要な場合もあるだろけど、学生のうちからそことをばかりやっても、臨床的な応用が効かない知識の蓄積になり、むしろ運動学的理解の妨げになってしまうのではないかと懸念する。

繰り返すが臨床の基本は観察であり、テストはむしろそのための補助に過ぎず、テストの結果をいくら積み上げてもそれだけでは評価にはならない。
テストよりも臨床観察を身につける方が大事で、臨床的にも応用が効くはずだが、そうしたことは少なくとも私の知る限りでは、複数の学校のいずれもPTはともかくOTでは殆どやっていなかった。

ここでお題を

立ち上がりや階段を昇るにしても、下肢の運動でとても重要で頻度が高く、大きな力を出す必要がある動作は、股関節を伸展させると同時に膝関節も伸展させる運動である。
自転車のペダルを踏むにしても、身体は持ち上がらず、その代わりにペダルが下に下がるのだが、基本的には同様の運動だ。
しかしそのように股関節伸展と膝関節伸展の同時に作用する筋はない。

この時、力を使うのは大腿前面の筋、大腿四頭筋(主に大腿直筋?)であるが、それは膝関節には伸展に働くが股関節は伸展ではなくむしろ屈曲に働く。
しかしなぜ大腿四頭筋を最も使うのか?
四頭筋に力が入ると、股関節の伸展に働くハムストリングスや臀部、股関節周囲の筋に対して拮抗筋として作用するのに。

逆に椅子に座るなどの動作も、関節の動きとしては、股関節は屈曲し膝関節も屈曲するので真逆になるけど、やはり同様な筋肉の使い方になる。
単関節筋だけに着目すれば、短縮性収縮と伸張性収縮の違いになるが。
これには重力が大きく作用するけど、もちろん立ち上がる時にも重力は同様に作用している。

当たり前だけど筋肉は伸びる方向に力を発揮することはできない。
等張性収縮、等尺性収縮、短縮性収縮、伸張性収縮などの運動学の概念をきちんと実際に則して理解しておく必要がある。
もちろん言葉を知ってるだけでわかった気になってはダメだ。

こうした事象をきちんと十分に理解した上で、立ち上がりや椅子に座る、階段の上り下りや自転車を漕ぐなどの運動を、きちんと明確に説明できる人はOTやPTにも実は少ないのではないか?
人間工学とか、スポーツの専門家や指導者なんかも同様だと思う。

もちろん皆ではないが、そういう人が意外に嘘を平気で言うことがある。
要するにわかっていないのに専門家のつもりになって間違ったことを言うから嘘になるわけだが、違和感があっても自分をごまかしたり。

私の知る限りでは自転車関係の人はかなり酷いと思う。
ペダル漕ぐなんて運動は、機械的に決定づけられており一定の方向にしかできないのだが。自転車は単純なだけに1つの要素がいろいろなことに関係しており、無限に複雑でもあり難しく、だからこそ面白いのだが。
データをとるのも速度以外、事実上殆ど不可能だけど、習熟すれば自分で試して体感や経験で知ることはかなりの程度で可能である。
自分の身体に聞け、感じて考えろ、ということだけど、これまたけっこう自分で自分をごまかしたりもしがちである。人間の感覚はかなりの敏感であると同時に無自覚に歪曲もされやすい。
自転車となるとついつい語ってしまい、話がズレたが…

よくわからない人は、学生時代に運動学を習った先生にでも聞いてみたら良いけど、もしかしたら授業でも殆ど習っておらず、先生でもあまり説明できないかも知れない。
俺は十分ではないにしてもこうした運動について一応説明できるつもりだけど、専門でもないし正確に記述するのはやっぱり難しいと思う。

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今回もまたOTの皆様からは反感をかったり、お叱りを受けそうな記事ですが。
私は精神疾患のセラピストで、とっくの昔にOTは辞めており、身体障害のリハは正直あまり関心もなく、殆どやってもいないので間違いや不適切な記述もあると思いますが悪しからずご容赦願いたい。
それでも敢えて書いた主旨や意図をご理解頂き、何かの参考にして頂ければ幸いです。

叱らないで 青山ミチ


https://www.youtube.com/watch?v=XSKu9u3W0nY

DoとBe(優しくする?優しくなる!)

 
認知症のある方への対応で
「優しくする」
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
等と言われています。

これらの常識化している対応について
何回も過去の記事にて疑問を提示してきました。

優しくするということは、優しくない ということです。
DoBeの違いです。

結果として優しくなるように
認知症のある方の状態がありありと実感を持って
わかるようになることの方が大切だと思う。

「大声を出す」「抵抗する」
というのは結果として起こっている表面的な事象に過ぎません。
表面的な事象に反映されている、なんとかしようとしている
その方の意図と能力がわかれば
結果として優しくなるし
否定できなくなるし
敬服したくなるし
少なくともキツい言い方は控えたくなる

認知症のある方は決して何もわからないわけではありません。

表面的に口先だけ、優しくしても、褒めてあげても
本心は伝わる
このサイトにお立ち寄りくださっている方なら
そういった実感をお持ちなのではないでしょうか。

本心として認知症のある方の努力と能力が実感できるようになるためには
知識をもとにした観察と洞察が必須です。
地道に努力を積み重ねれば誰でも実践できるようになります。
今まで「あぁすればこうなる」式のマニュアルやハウツー以外の思考を
したことがないと最初は大変に感じると思うけど。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
「あんたが一番好きなんだよ」
そんな風に言われたり
認知症のある方が過去に信頼していた人と私を誤認したり
他の人の前では見られないような能力を発揮する場面を共有できたり。。。
このサイトに立ち寄ってくださっている方は
きっと同じような体験をしたことがあるんじゃないかなぁ?

「よっしーさんは、認知症のある方が嫌がることはしないから好かれる」
「毎日接していると違うんだね」
などと言われたこともありますが (苦笑)そうじゃない。
それは認知症のある方をバカにした言葉です。
  嫌がらずに対応できたらサイコーだし
  毎日接しているからこそ嫌がられる人だっているし

認知症のある方の能力を実感できていないから
そんなことが言えるんです。

ケアやリハの場面において
根底にどれだけ理解の実感があるのかということが
信頼関係に一番重要なんだとまさしく実感しています。

 

概念の本質を伝える・理解する

 


観察・洞察は臨床能力として最も必要な能力だと考えています。

評価とは観察・洞察であり
その観察・洞察を補い明確にするためにテスト・検査があると考えています。

ところが、現実には観察・洞察よりも客観的とされ、各種テストの実践が重要視されています。

でも、その結果、いったい何が起こっているのでしょうか?

五角形模写課題や立方体透視図模写テストをするOTは多いけど
「構成障害とは何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTは少ないものです。

トレイルメイキングテストをするOTは多いけど
「遂行機能障害って何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTがどれだけいるでしょうか?

これって、本末転倒ですよね?

概念の理解ができていないのに、テストだけできたって、
テストの結果は出せても、対象者の状態把握にはなりませんよね?

かくいう私も、学生時代には教科書に書いてあることを丸暗記していただけで
概念の本質を全く理解できていませんでした。

臨床家になってから、必然として
そのような自分の傾向が問題だと明確化することができるようになりました。

そうすると
わかってきたこともあって
そもそも、学生時代に概念の本質を理解することの重要性を教えてもらったか?
概念の本質を理解するように促してもらえるような教育だったか?
と考えた時に答えは NO だったんです。

もちろん、当時はまだリハもOTも黎明期だったので
教員だって手探りだったこともあるでしょう。
でも、だから、むしろ、本当は必要だったと思うんです。
本質を学ぶことが。

本質を学ぶということが疎かになった弊害
本末転倒、主客転倒、ってたくさんあるように感じています。

その一つが
テストはしても障害の概念を理解できていない。という表れであり
人は環境との相互作用の中で能力を発揮するものだという認識の欠如となっていると思います。

具体的に言うと
生活期において身体の使い方を再学習できるように援助できない
介助の問題
なのに
立ち上がれないお年寄りや食べられなくなっていくお年寄りに対して、
原因を廃用と鵜呑みにして
立ち上がり100回やらせたり漫然とした筋力強化をやらせたり
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作を続けながら「パタカラ」と言わせたり
etc.etc.

問題の現れ方として
ハウツーを求める臨床思考になってしまうし
組織の課題解決に際しても前例踏襲になってしまうのだと思う。

その場しのぎができるのも能力のひとつだとは思うし
その場しのぎが必ずしも悪いわけじゃないとは思う。
悪いのは、その場しのぎなのに本質的な対応だと誤認していること

その場しのぎの臨床思考と本質的な臨床思考とそれに基づく対応は
見た目同じように見えることがあったとしてもまったくの別物

なんだから、それを踏まえた上でその場しのぎをすればいいと思っています。

でも、そうはなっていないような。。。

養成校の教員は
昔に比べて卒前に教えなければならない知識の膨大さに
大変なご苦労をされていることと思います。

でも、卒前の教育が学生に与える影響はとてつもなく大きいので
教員にも本質を伝え学ぶことの重要性を再確認していただきたいものです。

例えば
目標設定について
私の講演を聞いた学生や臨床家は「とてもわかりやすかった」という感想を寄せてくれます。
その中に聞こえてくるのが
「臨床で使える」「目標とは何かがよくわかった」「維持は目標じゃないと言われて困っていた」「自分の今までの目標はなんちゃって目標だった」という声です。

また、複数の養成校の教員のレジメや論文に
「目標」という文言を用いながら
実際には、目標ではなく目的や治療内容が記載されている例も散見されます。

目標の概念がわからない人が教えているのだから
当然学生はわからない、誤認してしまいます。

目標設定でさえ、このような状況だとすれば他も推して知るべしでしょう。
(もちろん全ての養成校の全ての教員がそのような状態にあるとは思っていません)

また、すべてが卒前の養成課程にあるわけではなく
個々の職場での卒後の臨床教育の問題もあるでしょうし
何よりも本人自身の自覚と態度が一番の問題だと思いますが

「チームジャパン」という掛け声はあちらこちらで聞くようになりましたが
本当に総動員でなんとかしないといけないのは
「本質を学ぶ」「本質を伝える」
ということなんじゃないのかと感じる今日この頃です。


刺激がないと認知症が進行する?


「刺激がないと認知症が進行する」
って言う人、いますよね?

認知症のある方にいろいろなActivityを提供する人もいるでしょう?
「刺激があった方が進行を予防できる」
「私と一緒にやるから大丈夫」
って言う人もいるでしょう?

この言葉は
構成障害のある方には禁句なんですけど
認識できていない人がまだまだ多いんだなーって感じています。

よくよく観察していると
隣で一緒にやって見せてるのに、どうしても違うことをしたり
Activityの最中に突然怒り出したりする方に遭遇したことがありませんか?
認知症だから怒りっぽいんじゃなくて
怒るという表現でしか、気持ちを表出できないだけで
怒らせるきっかけを作っているのは善意の職員というパターンが結構あります。
このことは後日改めて詳述するとして。

刺激がないから認知症が進行するわけではありません。
やればいいってもんじゃないのです。

私はもっと正確に
「刺激があれば良いわけではない」
「適切な刺激がないと、認知症が進行する」
「適切な刺激でないと、不安感や混乱から生活障害やBPSDが増悪する」
と言い換えたいと思います。

認知症のある方をよく観察している方なら
楽しいはずのレクの後で
混乱したり不安になったりした方を知っているはずです。
作品は仕上がったけど
あれこれと指図するのは職員で
認知症のある方は必死になって言われた通り、
介助された通りに手を動かしているだけ
ということに気がついているはずなんです。

心のどこかで
「これは私が『作らせた』もので、この方が『作った』ものじゃない」
こんなやり方で本当にいいんだろうか?
って感じている人がいるはずなんです。

手工芸というのは
目に見えて仕上がっていきます。
上手にできれば達成感が得られます。

逆に言えば
「うまくできない」というフィードバックも明確に入りやすいので
不安や混乱、不満や不全感を抱きやすい場面でもあるのです。

「Activityはやることに意義がある」
わけではないということを強調したいと思います。

「Activityを通して、自分は自分である」ことを
再体験・再確認できることに意義があるのです。

そのためには
適切にActivityを選択することが必要です。

その方に「向いている」Activityを提供する必要があります。
単に「できることをする」のでは逆効果になることすらあります。

Doではなくて Beを重視するのです。

ぜひ、こちらもご参照ください。




厚揚げの味噌炒め

材料は
 厚揚げ
 ピーマン
 ナス
 玉ねぎ
 味噌
 めんつゆ
 ハチミツ
 生姜チューブ

ナスは大きめに乱切りして、レンチン
ピーマンも乱切り
玉ねぎは薄切りしておきます。

1口大に切った厚揚げを温めたフライパンにのせて
厚揚げの油分で炒めます。
表面がカリッとしたら、玉ねぎ・ナス・ピーマンを炒め
火が通ったら味噌をめんつゆで溶き、ハチミツと生姜チューブで味付けします。

カンタン・安い・早い・美味しい1品です (^^)

大豆サラダ


大豆の水煮缶とコーン缶orパックを買ってきて
サッと湯通しして水気を切って
キュウリを縦に1/3に切ってから小口切りにして
ハムも1センチ角くらいに切って和えるだけ

味付けは、
1)マヨネーズとケチャップを同量ずつ混ぜる
2)マヨネーズに柚子胡椒を少量混ぜて醤油も2回しくらい混ぜる
のどちらかにしています。

コクがあるのを食べたい時は 1)を
さっぱりしたのが良い時は 2)がオススメです (^^)

カンタン、カンタン!

「現場で本当に役立つ認知症研修会 第2回」

 


< ご連絡 5月7日 >
本日11:10に、5月14日開催の認知症研修会のご連絡を差し上げました。
2名の方にはメールが送信できない状態です。

お二人ともGメールのアドレスが連絡先となっておりました。
 大分県の作業療法士の方
 神奈川県の介護職員の方

お心当たりのある方は
恐れ入りますが、本サイトの お問い合わせ からご連絡くださるようお願いいたします。

お待たせしました!
研修会のお知らせです。

オンラインで
5月14日(土)19:00〜20:30に
「現場で本当に役立つ認知症研修会 第2回」を開催します。

最初の1時間は私のお話
その後にお時間のある方限定で質問・相談コーナーを30分間設けます。
講演内容とは関係なく普段困っていることでもOKです。
相談したい方は、他の人も試聴することをご了承の上ご相談ください。
困りごとって大抵同じようにみんな悩んでいたりするので
一緒に聞いてみたい方もどうぞお残りください。

私のお話だけ聞きたい方や
長く視聴することが難しい方は1時間だけ参加して退室もOKです。

オンラインのメリットを最大限活用して
フランクに、かつ真摯な勉強会を目指します (^^)

参加費は無料!
定員30名

残席わずかとなりました。
お申込を予定している方はお早めにどうぞ(3/28)

定員を超過しましたが、若干名追加でのお申込もお受けします。
期日は 4月10日(日)13時で完全に締切ます。
お申込を検討されている方は必ず上記期日までにお申込ください。(4/3)

お申込受付は終了しました。(4/10)

お申込は下記のURLをクリックして必要事項を入力してください。
https://forms.gle/HsStN3K2786zKAhD9

開催3日前になってもご連絡がない場合は、恐れ入りますがご連絡をお願いします。
申込期限は4月30日17時としますが、
定員超過の場合には期日前でも締め切りますので、お早めにお申込ください。

お問い合わせは こちら へ。

・・・・・・・・・・・・・・ 

さて、本題のテーマは
「認知症のある方への声かけの工夫〜眼からウロコの視点〜」です。

優しい声かけ、丁寧な対応は、対人援助職の基本ではあっても
一流ホテルのホテルマンのような対応をすることが
認知症のある方に適切な対応とは言えません。
逆効果になってしまうことすら、起こり得ます。

認知症がある方は、失語がなかったとしても
言語理解力が低下することがとても多いからです。
「オミアシヲアゲテクダサイ」という記事で説明しています。
最上級の敬語を使ったとしても
目の前にいる方が理解してくれない言葉では本末転倒です。

また、多くの人が
「何を言うか」ばかりに気を取られて
「どんな風に伝えるか」という非言語的側面に無頓着になっています。

とりわけ、声の大きさや口調には
職員の無自覚な感情が反映されやすく、
認知症のある方はそれらに敏感に反応します。

もっとはっきり言うと、
自分たちが何をどうするばかりを気にして
目の前にいる方の状態をきちんと観察していない

ということが一番の問題なんです。

目の前にいる方に伝えるための声かけではなくて
自分たちのモットー、スローガンの実践のための声かけになっている

「敬語を使わないと(所属施設に)怒られる」
という相談をされたことが何回もあります。
敬意を持って接するのは当然ですが、敬意を示す手段は敬語に限りません。

ネットで「食事介助をする時に立って介助するのは言語道断」という
書き込みを見たこともありますが
座って食事介助していてもスプーンで上の歯でこそげ落とすような介助をしていれば
座って介助する意味がないどころか、自覚がないのでもっと悪いと思います。

手段の目的化
目的を達成するための手段をいつの間にか目的とすり替え
てしまう
ということは、あちこちで起こっている根深い課題だと感じています。

本質でないコトに惑わされてはいけない。
 
「曇りなき眼で見定め決める」というのは
「もののけ姫」でアシタカが言った言葉です。

本質を追求したいと願う臨床家のための勉強会です。
実際に現場でよく遭遇するような事例をもとにして
具体的にご説明します。

認知症のある方を変えるのではなく
私たちが変わることによって
今まで見落としたり見過ごしていたことに鋭敏になれることを
意図した勉強会です。

臨床家として、
実践を深めたい
本当に認知症のある方に役立てるようになりたい
と願っている人が対象です。

新人さんはモチロンですが
新人さんだけでなく、
「優しく」「言動を否定しない」対応をしてみたけど効果がなくて困っている人や
それらの対応が意味する考え方に疑問や違和感を抱いている人
自身の実践に限界を感じたり、整理して考え直したいという人に
ぜひ、参加していただきたいと思います。


「塗り絵」と「ちぎり絵」の違い

 

それでは
表現を好む・工夫を楽しめる方に対して
「塗り絵」と「ちぎり絵」をどのように使い分けているのかをご説明します。

まず最初に、両者の違いを分析します。

塗り絵は、色鉛筆を用いての表現活動
ちぎり絵は、和紙を貼付しての表現活動
なので、塗り絵の方が身体運動感覚の作用もフィードバックもより直接的です。

任意の面積を色で埋めるという点では、「塗り絵」も「ちぎり絵」も同様ですが
色の埋め方に関して
「塗り絵」は該当面積を自身で塗る
「ちぎり絵」は該当面積を和紙に託せる

という違いがあります。

この点を踏まえて
近時記憶障害がより重度の方には「塗り絵」を勧めたり
「する」ことに不安が強い方には「ちぎり絵」を勧めています。

近時記憶障害が重度の方には
身体運動感覚のインプット・アウトプットの繰り返しが助けになって
作業遂行を続けやすくなります。

「する」ことに不安が強い方は
過去〜現在の暮らしにおいて失敗体験や困惑体験を積み重ねてきて
自身の行動によってまた失敗してしまうのではないかと予期不安が募りやすいので
その不安感を和らげるためにも
身体運動感覚があまり直接的でない「ちぎり絵」を勧めています。

遂行機能障害を確認するために考えた方法
も紹介してありますが
認知症のある方の中には
鉛筆をもつ、自身の名前を書くということですら
不安が強くなってしまう方もいます。
シールを貼るという、自身の関与をより間接的な表明方法にしたのも
少しでも不安感を和らげる意味があります。

 

「塗り絵」と「ちぎり絵」の違い:共通点

 

  
ちぎり絵は塗り絵と同様に
同一工程の繰り返しという要素の強いActivityです。

近時記憶障害が重度であったとしても
構成障害が軽度であれば遂行しやすいActivityといえるでしょう。
表現活動を好む方が長く楽しめるActivityでもあります。

ところで
「塗り絵」と「ちぎり絵」
似て非なるActivityですが
みなさまは、どのように使い分けていらっしゃいますか?

私が考えた両者の違いと臨床での使い分けについて
これからご説明していきます。

まずは、共通点の再確認から
 
塗り絵もちぎり絵も表現活動ですから
表現を好む、工夫することを楽しむ方に向いています。


色の濃淡を塗り分け、時に重ね塗りをしています。
この方は「この花の写真ある?嘘ついちゃいけないからね」といって
花の写真を見ながら丁寧に塗り絵をなさっていました。


一方で、こんな風に塗り絵をする方も多くいます。
下線を決してはみ出さない。
均一にきっちり塗りつぶす。
これはこれで、立派な作品ですが、表現の工夫をしているわけではありません。
「きっちりとこなす」ことに興味関心があるようです。
このような方には、表現の多様さを楽しめるActivityよりも
むしろ、きっちりと行うことが完成度の高さに直結するようなActivityの方が向いています。

たとえば
編みものや縫いもの
「昔とった杵柄」としてそのまま適用すると逆効果になる場合には
指編み毛糸モップを提供します。

指編み
毛糸モップ

お年寄りの中には
「働くこと暮らすことで精一杯で趣味なんてする間なんてなかったよ」
とおっしゃる方もいます。

身体的な労働を一生懸命してきた方にも
むしろ、指編みや毛糸モップといったActivityが向いています。
 
身体的な労働に従事してきたということは
身体運動感覚を長年にわたって活用してきたわけですから
一定の力加減をきちんと再現し続ける要素のあるActivityだと
見事に遂行することが可能ですし
完成した作品を実際に使えるという実用性がある面も向いています。

棒針やかぎ針を使わず
直接的に手指を用いるActivityなので
身体運動感覚をより強調して再現することにもなります。

近時記憶障害が重度で再認も困難な方だと
指編みや毛糸モップを導入することは難しい場合もありますが
個別リハなどでセラピストが常に同席できる状況では
場面設定と援助を工夫することで遂行可能になることも多々あります。

指編みや毛糸モップと、塗り絵やちぎり絵では
Activityの特性が真逆となるので
適用する方の特性に合わせて、提供を判断しています。

「塗り絵」と「ちぎり絵」の使い分けについてご説明する前に
前段階として、共通点の再確認をしました。

それでは、両者の違いについて次の記事でご説明します。

 

ちぎり絵の工夫(1)タオル


ちぎり絵をする時には
 こんな風にちぎった和紙を缶の中に入れておくと思います。


もちろん、私も缶の中に入れておきますが
さらに、もうひと工夫。


こんな風にタオルの上にあらかじめ和紙を1枚ずつ並べておきます。

理由は2つあります。

ひとつ目は
アルツハイマー型認知症のある方は
疾患の定義上、高齢者です。
高齢のために手指の巧緻性が低下している方は多いものです。


 このように缶の中に和紙をまとめて入れておくと
和紙の繊維同士が絡まって1枚ずつ取り出すことが難しい方もいます。

認知症のある方は、すでにたくさんの生活障害を繰り返し体験してきているので
1枚取る、こんなこともできなくなってしまった。
と認知機能低下のせいと誤認してしまいがちです。

また、セラピストも「1枚だけ取って」と指示したのに
認知症のある方が和紙を1枚だけ取ることができないと
(認知症だ)という先入観から、手指の巧緻性低下という身体面に配慮が及ばず
(こんなこともできなくなってしまった)とセラピストの側も誤認しがちです。

このような時には
タオルの上に和紙を1枚ずつ置いておくことで
スムーズに1枚ずつ手に取ることが可能となります。

決して、指示理解ができないという認知機能低下のためではなくて
手指の巧緻性低下という身体的な問題を解消することができます。

また、たとえ、HDS-R1桁と認知機能障害が重度であったとしても
色合いの変化をその都度工夫しながら和紙を貼ろうとする方も大勢います。

ちぎり絵というのは(塗り絵もですが)
同一工程の繰り返しによって作品が完成します。
構成障害が軽度であれば近時記憶障害が重度であっても
遂行可能なActivityのひとつです。

和紙をタオルの上に1枚ずつ並べて置いておけば
和紙の微妙な色合いの変化をよく見て選ぶという能力発揮を援助することができます。


こちらの作品をよく見ると
ナスの右側に限定して濃い色の和紙を貼ってあることがわかります。
ナスの左側も上は濃い色、下は薄い色と変えています。

下絵から和紙がはみ出さないように貼るだけでなくて
より立体的に貼ろうとしている
光と影を表現しようと貼ろうとしている
色合いの変化を意識して貼っていることが伝わってきます。

このように
ちぎり絵というActivityで工夫をする
ということは、メタ能力として表現に工夫をしているということですから
普段の他者との関係性においても表出を工夫している可能性があります。

まさしく、この作品を作った方は
私に対しても、とても配慮してくださった方でした。

水分補給のために飲み物をお渡しすると
口をつけたコップの反対側の示して
「先生、こっちは口つけてないからここから飲んでくださいよ」
と勧めてくださったりします。

自分だけが飲んでは私に悪いと思ったのでしょう。
お元気であればきっと私の分の飲み物を用意してくださる方なんだと思います。
でも、今の自分にはそこまでできない。
今の自分にできる精一杯のことは、飲み物を分けることだと思ったのでしょう。
ただ、結果として不適切な方法 (^^; になってはしまいましたが
他者への思いやり、心配りという能力と特性の発露からのものに違いはありません。

このような方は、
他者へ配慮する能力がある故に
他者との関わりの中でストレスを抱えることもあります。
特に周囲に同じように配慮できる他者が少ないような環境
つまり、この方だけが一方的に配慮するような環境では
気疲れしてしまったり、安心して過ごすことができなかったりします。

Activityの場面設定の工夫をすることで
認知症のある方の能力を
私たちが知ることができたり、
再確認できたり、
合理的な能力発揮の援助を促すことができますし
Activityというのは、単に「できることをする」「時間を過ごす」ために
提供するものでもありません。
 
Activityへの向き合い方にその方の能力も特性も困難も反映されていますから
ふだんの暮らしぶりとも密接な関係があります。
そこを踏まえることで、観察や対応に活かし、実践を深めるきっかけにもなりますし
また、逆も言えます。

和紙が缶の中に入った状態のままで提供するだけでは
「和紙を1枚ずつ取り出す」ことができないというリスクを減らすことができず
本来できるはずの「和紙を1枚ずつつまみ上げる」という能力発揮を促せず
(認知症だから和紙を1枚ずつ取り出すこともできない)と誤認してしまう恐れすらあります。

本当は、こんなにも、色合いの微妙な変化を工夫し、楽しむことができる方なのに

同じ方でも、
場面設定次第で、能力を発揮できることもあればできなくもなる。

能力は状況によりけり発揮される。

場面設定の工夫というのは、奥が深いものです。

(続く)