口角から食塊がこぼれ落ちたらスプーン操作を見直すべき

食塊をとりこんだ時に
対象者の口角から食塊がこぼれ落ちるようだったら
それは、次の二つのことを意味しています。

1口量が多すぎることと
口唇閉鎖が不十分なこと

まず、スプーンに山盛り食塊をよそったりせずに
せいぜいすりきり一杯程度に1口量を減らしてください。
そして、口角から食塊がこぼれ落ちなくなるのを確認してください。

また、口唇閉鎖の不十分さについては
本来、持っている口唇閉鎖能力を発揮しやすくなるように
下唇もしくは前舌をスプーンでしっかり押して
上唇を丸めて食塊を取り込んだのを確認してから
スプーンを水平に引き抜くようにしてください。

上記二つに気をつけたスプーン操作を徹底できれば
そのうちに口角から食塊がこぼれ落ちることがなくなってくると思います。

詳細は、「 食事介助について 」の各項目をご参照ください。

  

 

引き抜いたスプーンに食塊が残っていたらスプーン操作を見直すべき

 

食事介助をしていて
引き抜いたスプーンに食塊が残っている
ケースに遭遇したことのある人は少なくないと思います。

 
スプーンは、中央がくぼんでいますから
上唇を丸めてとりこむことができないと
くぼみの部分に食塊が残ってしまいます。
 
口唇は
ただ単に閉じたり開けたりしているわけではないのです。

じゃあ、なぜ、上唇を丸めてとりこめないのか?

私たちの不適切なスプーン操作に
適応しようとして自らの食べる能力を落としてしまったのです。

上の写真のように
スプーンを斜め上に引き上げたり
上の歯でこそげ落としたりすると
上唇を丸めてとりこめなくなってしまいます。

そして、このような介助を続ければ
頚部はどんどん後屈し、体幹も後傾してしまいます。

詳細は「 基本のスプーンテクニックとコップ操作 」をご参照ください。

下唇もしくは前舌を
スプーンの背でしっかりと押して
上唇が丸まるのを確認してから
スプーンを水平に引き抜くような介助を心がけてください。

見事に食べ方が変わるのを確認できると思いますし
お身体が硬い方でなければ
スプーン操作をした時に
頚部前屈の動きが出たり
体幹を前傾する動きが出てくるのを確認できるようになると思います。

  

舌が奥に引っ込んでいたらスプーン操作を見直すべき

 

スプーン操作を見直すべき兆候として
対象者の方が開口した時に
舌が奥に引っ込んでいるのは
介助のたびにスプーンを口の奥に入れ続けてきたからです。

通常、開口した時には
舌の先は、下の歯のすぐ裏側に位置しているものです。

ところが
スプーンを口の奥まで入れて食べさせるような介助を続けていると
対象者の舌が奥に引っ込んで
ひどい時には、丸まってしまって
さらにひどくなると
舌は奥の方で上の方にも上がっているという状態になってしまいます。。。

もっとひどくなると
舌が板のようにカチンコチンに硬くなってしまいます。
そんな舌でどうやって咀嚼や送り込みができましょうか。
舌は本来しなやかに動くものです。
しなやかに動くから送り込みがスムーズにできるのです。

「ためこんで飲み込んでくれない人にどう介助した良いか」
という相談をされることも多々あります。
このような言語表現を聞くと
「ためこんでしまう」
「飲み込もうとしてくれない」
という、認知症のある方の食べ方のせいにしている介助者の意識が透けて見えるようで
とても悲しくなります。

「ためこんでしまう」「飲み込もうとしない」
のではなくて
「食べたくても食べられない」のです。
舌がカチンコチンで板のように硬くなっているから。

どんなに重度の認知症のある方でも
最初からこんな食べ方をしていたわけではありません。

だから
このような状態の方でも
適切なスプーン操作を続けるだけで
ちゃんと舌は前に出てきて、丸まってしまうこともなくなります。
板のように硬かった舌が柔らかさを取り戻すことができます。

他の職員とおしゃべりしながら食事介助するなんてことはせずに
ムセの有無や食べこぼししか、気にしていないなんてことも卒業して
対象者の食べ方を摂食・嚥下5相に則って観察しながら介助してほしいと思います。

まずは、口を開けた時の舌の位置に注目してください。

 

観察力を磨くトレーニング

 

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。
サマリーや他職種への伝達で記録する時にも同様にします。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。

例えば
現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいが適正なゆっくりなのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント
どういう状態になったら次の介助をするかがはっきりと伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今まで自分がいかに「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時には
デイリーノートに対象者ごとに詳しく記録をすることが求められていました。
主観と客観を区別して書くように繰り返し指導されたものです。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要なことでしょう。
けれど、
「書く」ことによって「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しているのです。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 


  

 



他職種などがOTのことを「わかってくれない」(ごむてつ)

良枝さんのこちらの記事に触発されてコメントしようかと思ったけど、例によって長くなりそうなので俺もひとつの記事にしてみた。

OTの人はよく(他職種などがOTのことを)「わかってくれない」とか言ってたけど、今でもそうなんだろうか?

それに対して俺の答えは昔から決まっていて「結果を出せ、実績で示せ」である。
自分自身も怠け者とはいえ、それだけは自分に厳しく課し、実際にそう徹してきたつもりである。

プロの仕事がそう簡単にトーシローにわかってたまるか!
俺はOTの学校に行く前は精神病の患者だったから、少なくとも学生の時から全くの素人ではなかった。

正味の話、プロのやることがシロートにとって理解し難いのは当たり前で、だからこそわかりやすく正確な説明や伝える努力も必要だけど、聴く耳さえ持たないやつに何を言ってもわかるわけはない。
難しい哲学やら数学だのにしたって、先生がそういうことをよく知っているという前提があって、生徒も理解したいと思っているからこそ教授が成り立つわけで、いくら嫌いな先生であっても話は別だ。

日本人はホンネとタテマエの使い分け、綺麗事、社交辞令やお世辞など、宣伝文句やおだてやなだめや誤魔化しとか、取り繕うとか、忖度するとか、なあなあでやるとか、そういうのは得意だが、事実に基づいて正確にきちんと伝えたり、言葉を通してお互いに理解し合うということや、きちんと議論することは極めて苦手な人が多い。

批判を非難と受け取り、喧嘩腰になったり、その前に怒ったり不機嫌になったりして議論や話し合いが成り立たないことが多い。

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失言した政治家が「私の発言が誤解を招いたとしたら申し訳ありません」とか。
誤解されているわけではないのは自明で、誤解した上で不適切な発言をしたのは自分自身なのに、そう言って事実を捻じ曲げ謝罪にもならない謝罪をされたら二の句が告げなくなるし、これじゃ当人ではなく相手(国民など)に問題があるみたいなすり替えになっている。

すりかえを認める訳ではないにしても、もうそこを追求するわけにいかないし建設的でもないので、結局「しょうがねぇなコイツ」で有耶無耶になって終わってしまうが、しょうがないのはそいつだけでなく、政治家の殆ど、日本人の多くがそうかもしれない。

確信犯であれ、無自覚であれ、そういう政治家の真似をする奴も多いのが問題だが…、ハッキリ言って世の中を悪くする。
そういう社会にしてしまっている。
正しいことを追求すれば良いわけでももちろんないのだが。

話を戻して…

目的も結果がはっきりしているICUなどの場合、そうはいかないだろうが、慢性疾患の医療職の人はけっこうコミュニケーション不全は酷いかもしれない。
医療職に限ったことではないが弁が立つ人ほどそうかもしれない。

言うことがただのお題目やキャッチフレーズ、悪く言えばごまかし。
良枝さんの言うように自信のないことの不安の無自覚な防衛でもあるだろう。

OTはコピーライターかぁ!?

偽相互性か当たり前と思いこんでいる人が多数で、それが前提となっている社会では、伝えることだけでなく、当然のことながら、聴く、受け取る、理解することも下手なのにそのことに気づいていない人も多い。
そのため、話はなかなか伝わらない、と言っても話す方だって同様に正確な言い方をしてなかったりするし、実は「わかってくれない」のではなく、既に「わかられてしまう」「見透かされてる」ので話を真に受けても仕方ないし、うんざりされているのかもしれない。

得てしてお互い様だが、実はわかってもらったら困ったりして。わかって欲しいようにしか「わかって」欲しくないだけかも。
表現力や伝達力以前に言語の基本的な考え方ができておらず、現実認識からして基本ができていない人も少なからずいる。

例えば甚だしく顕著な例を挙げると某皇族と結婚した息子と母親とか。28ページもの文章を書いても、当人はちっとも理解してくれない、誤解されている、と思ったのだろうけど、国民の多くはそんなの読まなくても見え透いてしまっており、それを確認しただけだ。
当人が自分の認知の歪みや欠落に気付いておらず、それを他者に投影しているのが問題だ。

「初めにロゴス(言葉)ありき」
もちろん必ずしも西洋社会が良いわけではないし、察しの文化である日本の良さもあるけど。

概して言えば一般に欧米人は言っていないことは問題としないが、日本人は良くも悪くも言外の意味を推察する傾向がある。
それが事実に基づいており妥当で正しければ良いのだが、往々にしてただの主観的な憶測、悪く言えば邪推になりがちで、そうなると批判や訂正も相手の主観的な前提を覆す人格攻撃のように受け取られコミュニケーション不全となってしまう。

話す側もそのような状況を前提として、事実に忠実に思ったことや考えたことそのままを言うのではなく、良くも悪くも配慮、忖度して話すのが習慣になっている。
日本人が誠実でないと受け取られたり、議論が成り立ち難いのはこうした要因が大きいと思う。

言うことだけいくら正確で有益なことを言っても、ちっとも聞いてくれない、理解してくれないことはむしろ大いにあるのは当然だ。日常的にはやってもいないこと、考えてもいないことに対しての理解力は誰しも高くはない。
でも我々は良枝さんが言うように「やって見せること」ができる。精神科だって例外ではない。
もちろん眼の前で起こっていることを認識できない人も、否認する人もいるけど。

このような社会ではいくら発言の内容が正しく有益であっても尊重されるわけではなく、同じことを言ったとしても、誰が言ったかによって、尊重されたり逆にバカにして相手にされなかったりする。

「あなたのおっしゃるとおり、私は見ての通り」小林秀雄

誤解されるなんて普通のことだし、でもわかってくれる人はわかってくれる。
どう思われようが、どう言おうが相手の自由だし。

よく思われたい、よく言われたいのは当たり前だけど、それなら良いことをすれば良いだけだ。そう割り切るようにしてから、いくら人に悪口を言われても何と言われても気にならなくなった。

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どんなに愚かな人にとっても、やはり事実の重みというのはある。

例えば事実に基づいていない悪口を言われたら、とりあえず普通の人は世の中そんなに嘘つきや愚かな人がいるとは思わないから、当然真に受ける場合が多いけど、事実はだんだんと自ずから明らかになりそこから誰しも逃れることはできない。

いくら理解力や洞察力に乏しく、解離して認知の歪や欠落が激しく、事実を捻じ曲げ曲解する人でも、最後には事実を受け入れ認めざるを得ない。
いかなる人も100%事実を否認し続けることはできない。究極的には誰にとっても事実は事実だ。

「すべての事実はついに一大事実となりてあらわれるべし」
だったらなるべく事実をそのまま受け入れ、早く理解できるように努力するだけだ。

こんなこと言ったら例によって思い上がり、高慢とか怒られるけど、大抵の人は俺より人や物事を見る目がないし、洞察力や理解力も乏しい。
正直本音を言えばそう思っているので、自分に対する他人の評価より自分の評価の方が遥かに重要だ。もちろん自分じゃわからないこともあるけど。

学生の頃、皆が評価、評価と言うので、少なくとも同時に自分のやっていることの評価が大事だ、プロは自分で自分の評価が適切にできなくてはいけない、評価より洞察・理解が大事ななどと言っていたのだけどわかってくれる人は殆どいなかったと思う。
ちなみに一部流派を除いて、精神分析、心理療法、精神療法、カウンセリングなどのセラピーには「評価」という概念はない。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「相手と過去は変えられない」

話を戻して、もういちど繰り返して言おう。

「結果を出せ、実績で示せ」

お互い専門職だし、患者本人だって家族だってもちろんバカばかりじゃない。
良枝さんの言うように、認知症の患者だってこっちが思うより遥かにわかってくれる。わかっていないのは職員側だったりして。

賢い人でなくても専門的なことは知らなくても、患者のことを真剣に考える人であればわかってくれる可能性が高いし、それは関わる人の成長と実利ももたらすはずだ。
最初は一部の人しかわかってくれなくても、インフルエンサーになってくれる可能性も高い。

OTの学校を出て最初に勤めた精神科病院には短い間しかいなかったし、いわれのない非難攻撃もずいぶんされたし妨害もされたけど、仲間や味方になってくれる人は増えたし、俺に対するイメージや態度、評価は最低最悪から随分上がったと思う。

病院を辞めて大学に異動した時に、総婦長(当時)が直々に手紙をくれた。
「ごむてつ君はこんな所(田舎の山の中の精神病院)にいるような人ではないと思っていたので我がことのように嬉しいです」と書いてあった。
もちろん大学のセンセイが偉いわけでも必ずしも実力があるわけでもないのは皆さんご存知の通りだけど。

その総婦長と一緒だったのは最後の1年だけで、顔を合わせることも殆どなかったし一言二言しか言葉を交わしたこともなく、俺のことをそんなに知ってるわけではないけど。
わかってくれることはわかってくれるし伝わるものは伝わるのだと思った。
買いかぶり、過大評価としてもそう言ってくれるのはやっぱり嬉しかった。
辞めたことの後ろめたさもつのったが。

セラピストは人間相手の職人だ。地道に頑張れば結果は出せるし報われる。
どうせわかってくれないと思うよりずっとわかってくれるけど、わかるのが当たり前だろ、と思うよりもわかってくれないかもしれない。

でも矛盾するようだけど、言うべきことはハッキリ言うべきだ。
言うべきことをきちんと言わないで、「わかってくれない」もないだろ。

しかし、言いたいことと言うべきことは同じではない。
もちろん一致しているのに越したことはないし、それが本当に言いたいことなのかいつも検証し、一致するように心がけるべきだろう。

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まだ売れない頃2人時代のオフコースの曲、小田和正も20代半ばでよくこんな曲書いたなぁ。
NHKの「みんなのうた」からの依頼で自信はあったようだが、良い評価は得られずボツになったらしい。
当時は不遜にも聞こえただろうし、俺も違和感あったしそれも止むを得ないと思われるが、老人になりつつある今はむしろしっくりくる。
俺も歳をとんてホントにつくづく思うのだが。やっぱり伝えたことは良かったと思う。言わなかったことはやはり後悔がある。酷く傷ついたし随分引きずったけどね

https://www.youtube.com/watch?v=AhYmmtpJB5A

リードボーカルは堺正章ではなく井上順、彼のほうがこの曲には合っている。
キンキンしたリズムギターは釜范弘でテレキャスターではなくエスクワイヤー、ファルセットのコーラスも彼
オルガンは大野克夫、彼は元々ギタリストでスチールギターを弾いていた。ギタリストはかまやつと井上堯之の2人がいたし、井上も腕を上げてきたのでこの頃オルガンにコンバートしたのだが、アッという間に弾きこなせたらしい。
ドラムはその後芸能界の首領と言われた田邊昭知で、リズムが乱れまくるけど荒々しい個性や味はある。

ジュリーとは沢田のことではない。当時まだタイガースは出ていないしこの曲はメンバーではなく浜口庫之助の作詞作曲。
ジュディ・オングがジュリーという名の聾唖の役で主演映画が作られ、そのために作られた曲だけど、映画ではそぐわないので実際には使われていないはず。

財津和夫があべ静江のために書いた曲だけど、結局片思いで失恋したようだ。
俺も当時失恋したので、切なくささりまくった。
高校2年の頃、いつも隣の席にいたのに。
最初は「もっと早く仲良くなっていれば良かったのにね」と言ってくれたのだが、もうダメだった。
結局、心を閉ざしていたのは俺の方なんだけど仕方がない。
まだガキだったし対人恐怖症だったし。

でもやっぱりこう行きたいものだね。

というわけで、例によってお後がよろしいようで。

言葉にとらわれない


言葉にして尋ねることは大切なこと

でも、言葉にとらわれてしまうと身動きとれなくなることもあります。

認知症のある方に
「やりたいこと」
「好きなこと」
を直接言葉にして尋ねても
「そんなものはない」
「私は何もできない」
と言われて答えに窮してしまったことはありませんか?

そういった答えが返ってくればまだしも
言葉を理解し表現することが難しい疎通困難な方には
どうしたら良いのだろう?と困ってしまったことだってあるのではありませんか?

そんな時に
ご家族や周囲の職員に希望を尋ねて
そこから関与を始める。。。というのもテかもしれませんが
「やりたいことをやるから元気になれる」
というスローガンに相反するような気がしたり
認知症のある方を蔑ろにしているような気がして
もやもやした気持ちになったりしませんか?

希望を言葉で言えなくても
やりたいことや好きなことがないわけではありません。
そこを探れるから専門家なのではないでしょうか?

体験した時に
表情や態度や行動という、言葉にならないもう一つの言葉で
雄弁に語る場面に遭遇したことのある人は、実はとても多いんじゃないかと思います。

Aさんは、どんな体験を好むのか?
Bさんは、どんな体験をしたいのか?

体験を通して実感できること、理解できること、思い出せること
って、たくさんあります。

言葉でのやりとりが難しい方でも
体験のやりとりならできる方はたくさんいます。

体験を通して尋ねる、確かめることも大切で有効なツールです。

ただし、どんな体験が良いのか
イチから360度探るようでは、素人と一緒です。
 
ある程度絞り込むことができるから専門家なんじゃないかと思います。
こちらが探る過程を通して認知症のある方に辛い思いをさせない
そういった配慮が当たり前にできるから専門家なんだと思います。

それができるから、
プロとしての作業療法士が職種として成り立つんじゃないかな?

ポジショニングが的確に実施できるためには
言葉でどうして欲しいですか?
どうしたらラクですか?とは尋ねません。
全身のアライメントや筋緊張を観察・触診して
確認しながら設定していきます。

食事介助を的確に行えるために
言葉で何がお困りですか?
どうしたら食べやすくなりますか?とは尋ねません。
実際の食べ方を観察・洞察して
食環境(食形態・食具・場面設定・介助方法)を
確認・調整・選択しながら介助をしていきます。

言葉ではなく、身体と身体を通して交流しています。

なぜ、言葉を最大の根拠にするのか、疑問です。

なぜ、疎通困難な人の言葉にならない声を聞こうとするのではなく
周囲の人の言葉を根拠として優先するのか、疑問です。

最近の作業療法は、
あまりに言葉にとらわれすぎているように感じられてなりません。
海外の知見を最新の手法として導入するのも悪くはないかもしれませんが
余分な手数だけ増えて実際的ではないと感じたことはありませんか?

欧米では文化として言語を重要視して扱っていますが
日本人は古来から言葉だけでなく非言語なるものを大切に扱ってきました。
文化の違いをもっと考慮した方が良いのにと考えたことはありませんか?

言葉で意思確認をすることは大切だけれど
非言語的な体験の重層さ・複雑さから逃避するために
意思や希望を言質に取るような在り方や
作業療法を提供する理由づけになっているような気がして
心のどこかにモヤモヤした気持ちが
鬱積していくような感じになったことはありませんか?

多くのリハスタッフが
潜在的には目標設定に困難を抱えていますが
目標設定の難しさを自覚できるようには養成されているとは言い難く
(むしろ簡単だと思わされているし、
 設定できないことによる弊害について教育されているとも言えない。
 養成校の教授で目標を目標として設定できていない人すら
 複数いるのが現実です。)

学生や若手は、実践・対応の難しさに圧倒されてしまうものです。
 
また、目標設定を適切に指導できる指導者も少ないために
「目標=本人のやりたいこと」というすり替えが起こったと考えています。
一見正しそうであり、かつまた、目標設定の困難さから脱却できるために
多くの人が一気に飛びつきました。
短期的・表面的な利益のために、長期的・本質的な損失を選んだ
というわけです。
本質的な対応であるほど、除外要件は極めて限定的なものです。
これだけ認知症のある方を実際にはリハ対象にしているのに
除外要件にするという論理破綻に疑問を感じざるを得ません。

ジョハリの窓という言葉もありますが
自分で自分のことが常に明確にわかっているわけではありません。
思わぬ時に思わぬ発見をすることもあります。
何らかの危機に陥った時に、抑圧していたことを思い出すことだってあるでしょう。

スティーブ・ジョブズは
新商品開発にあたってマーケティングはしなかった
「人は形にして見せられるまで何が欲しいかわからない」
と言っていたそうです。
その代わり、開発した商品のユーザーからの感想は
とてもよくチェックしていたそうです。

非常に合理的・論理的な実践だと思いました。
今、欲しいと言語化できるものではなくて
言語化できていない、でも潜在しているニーズを掘り起こすことで
大ヒットが生まれる。

現状追認型の思考をしていれば
今は良くても
先はありません。

対人援助職だって
先手を打たなければ行動変容は起こらない。
現状追認型の対応をしていれば
トラブルは起こりにくいかもしれませんが。
(意図があって現状追認を選択すべき時もあるでしょうけれど)

かつて
ある医師が「作業療法は作業療法士によって潰される」と語っていたそうです。
その医師は、本当は作業療法の凄さをわかっているからこそ
作業療法士に期待しているからこそ、
現状改善のために、必死になって訴えていたのではないかと思います。

人は
自分が為している以上のことを語れません。
たとえ語ったとしても為してもいないことは説得力を持って伝わりません。

たくさんの講師の講演を聞いてきましたが
伝わってくるのは、言葉の向こうにある実践です。

私が心から尊敬しているのは、岩崎清隆先生です。
先生は、私とは分野違いではありますが
どれだけ丁寧にきめ細やかにこどもたちに接しているのかはわかります。
本質的な対応をしているからこそ
分野違いであっても胸打たれます。
決して御涙頂戴の内容でも話し方でもなく淡々と論理的に講演されているのに
涙がボロボロとこぼれて止まらなくなってしまったことがありました。
 
今、作業療法の奥深さを実感を込めて語れる作業療法士が何人いるのでしょうか。
語りたいけれど語るのが難しいと言う作業療法士はたくさんいるかもしれません。
本当は語るのが難しいのではなくて、語るに足る実践が難しいのです。

語るだけでなく
聴くためにも聴くに足る実践がないと
「聞けども聴き取れず」
になってしまいます。

言葉は大切だけれども
言葉を下支えしている体験も大切

その意味がわかる、活用できるからこそ
Occupational Therapy だと考えています。

 

開口したまま待っている方

認知症のある方で
食事場面で口を開けたまま食塊を入れてもらうのを
待っているような方の場合
頚部後屈していることが多いものです。

このような時に
介助しにくいからといって
決して上の歯でこそげ落とすような介助をしてはいけません。

その場では
ムセることがないからと問題視することができないかもしれませんが
「カタチに反映されるハタラキ」の記事でも説明したように
食べ方というカタチには
食べる能力と困難というハタラキが反映されているものです。

  食事介助ではムセの有無しか気にしていない人も多いのですが
  ムセの有無しか気にしていないと
  食べ方というカタチすら見ていないので
  ハタラキも観ることができようはずもありません。

この時点で
ハタラキには大きな問題が生じています。
にもかかわらず、上の歯でこそげ落とすような介助をすれば
食べ方の問題を増悪させてしまいます。

たとえ、その場ではムセていないとしても。

開口したまま待っているような方というのは
その前段階として、必ずそのような食べ方を
引き起こしてしまう不適切な介助があったはずです。
つまり、
上の歯で食塊をこそげ落としたり
口の奥にスプーンを入れたり
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしたり。。。

誤介助誤学習が起こっているのです。
不適切な介助にすら、適応しようとして
自らの食べ方を低下させてしまったのです。

自らのスプーン操作を振り返る介助者は少ない。
ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」をご確認いただきたいと思います。

口を開けたまま食塊が入ってくるのを待っているような方に
「口を閉じて」と言葉でいくら言ったとしても
開口するしかない介助(例えば、上の歯でこそげ落とす)を
介助者が行動として行なっていれば
自身の身体に直接作用する介助者の行動に対する応答を優先し
口を閉じることはないでしょう。
 
その表面的な表れだけを見て
「口を閉じてって言っても認知症だから口を閉じて食べてくれない」
「どうしたら良いだろう?」
などと問題設定をするのは、本末転倒でしかありません。

じゃあ、どうしたら良いのか

今を否定せず
より良い食べ方を促します。

口を開けたまま待っている状態を否定せずに
口を開けたまま待っている状態でも
より安全に食べられるように
箸を使って食塊を歯もしくは歯ぐきの上に置きます。

そうすれば、自然と口唇閉鎖しますから
タイミングを見計らって頚部前屈を動作介助します。

食べるという一連の動作の中で
自然と頚部前屈を伴う口唇閉鎖を促します。

ここでのポイントは
頚部前屈というハタラキを促すことで
頚部前屈というカタチに至らなくても良いということです。

頚部前屈というハタラキが出てくれば
口唇閉鎖というカタチが容易に現れるようになります。

箸を使った介助で口唇閉鎖が出てくれば
食塊をとりこむ時に口唇閉鎖を促せる食具と介助方法を導入します。

ここは、その方のそれぞれの状態に応じることになります。
すぐに、スプーンで下唇や前舌を押すだけで口唇閉鎖を促せる方もいれば
いったん、ストローを使って口唇閉鎖の強調体験をした方が
次のスプーンへの適応がスムーズに進む方もいます。

そこはきちんと観察・洞察して決定します。

不適切な介助への合理的適応の結果としての
不適切な食べ方をしていた期間が短ければ短いほど
行動変容はより容易により短期間で起こります。

逆に言えば
そのような期間が長ければ長いほど
適切な介助ができる人と遭遇できなかった場合には
誤嚥性肺炎になってしまったり
食べ方がわからなくなってしまって
食べる能力を持っていながらも
本当に食べられなくなってしまうことも起こり得るのです。

食事介助は本当に怖い

 

技術職という強み

作業療法士は技術職ですから
「やってみせる」ことができるのが強み
です。

ポジショニングしかり
食事介助しかり
認知症のある方への対応しかり

関わる人が違えば
対象者の状態も変わるという
異なる現実を現前させることができます。

そうすると、必ず
どうしたらそうできるのか?と
聞いてくる人が出てきます。

その時にもう一度
意図と注意点と望ましい方法としてはいけない方法を
原則とともに対象者の個別性について
説明しながら実演すれば明確に伝わります。

中には現実を目の当たりにしても
なんだかんだとこちらを否定するような人もまたいるものですが
それはその人自身の問題であって
(そのような人は同じ問題を所属組織でも抱えているはずなので
 その人と所属組織の管理者の管理運営の問題でもあって
 こちらが抱え込む問題ではありません。)
こちらの問題ではないのでスルーすればいいだけのことです。
(若い頃はここを切り分けることができずに必死になりすぎていて
 自分も消耗したし、相手にもストレスだったと思います)

多くの作業療法士が
説明を優先しているようですが
説明は二の次、順序は逆です。
まずは、やってみせられるようになることです。

やってみせ、異なる現実を現前させることが第一に必要です。
自分がやってみせられる技術を磨くことが第一に必要です。
自分が何をしているのかを明確に認識・言語化できることの方が大事です。
ここにゴールはありません。

過剰に説明にこだわったり、語りたがるという行為は
自身の実践の不足や未熟を補償(防衛機制)しているじゃないかと思います。
作業療法の素晴らしさを熱弁する人を私があんまり信頼できない理由も同じです。

仮に
誰からも「どうしたらそんなことができるのか」と
問われることがなかったとしても
黙々と異なる現実を現前させ続けていけば良いのです。

本当のプラスの変化は
周囲の状況がどうであれ
必ず良い方向に蓄積していきます。
HDS-Rの得点がゼロ
意思疎通困難な重度の認知症のある方でも
プラスに変化していきます。

見れども観えずの人には
その変化がわからないから変化がないと言われちゃうかもしれないけれど
「その人が『見ていない』『わからない』」ということと
「対象者に『変化がない』」ということは
まったく別のことです。
 
対象者の行動変容を本当に促すことができれば
変化の兆しと変化とその意味とを
明確に観察・洞察できるようになり
より深くより広く、対象者の行動の必然が認識できるようになり
他の状態像の方へのアプローチも変わってきます。

生きている限り
どのような状態であっても
どのような環境であっても
自身の現存する心身の能力を活用しようとして
能力を発揮しているのだということの再確認の体験ができます。

不合理な環境に対してすら適応しようとして
自身の能力を落としてしまう。。。
能力を不合理に発揮させて困難を助長させてしまうのか
能力の合理的な発揮の援助ができるか
環境因子としての援助者の関与の質が問われるのだということを
明確に再確認・再体験し続けることになります。

ポジショニングでも
食事介助でも
認知症のある方への対応でも
やってみせられるのがプロなのだから
語るのではなくて
その場で変化を実現できるように
自身の実践力を高め深める
臨床能力を磨く
ことに尽きると考えています。

プロとして
臨床能力を磨くことについては
議論の余地はないと思います。
ただし、どうしたら磨くことができるのか
という点については、現行では本質からズレてしまっていると感じています。

理論や研究や海外の論文を読むことも
しないよりはした方が良いでしょうけれど
実はそれらの方法論は臨床能力とは直結しません。
理論などなくても臨床能力を磨くことは可能です。
(実は、よっしー理論とでも言うべきものはある)

理論を否定するものではありませんが
理論はツールですから
活用すべきものであって拘泥されるものではありません。

理論に対象者を当てはめるのではなく
対象者の役に立てるように理論を活用すべきです。

本質に迫る理論であればあるほど
対象や場面を限定することなく適用できるはずです。

最初から
認知症を除外したり、生活障害やBPSDを除外するようであれば
それは本質的な理論とは言えないと考えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・                      ・
・  臨床能力を磨く一番の方法論は      ・
・  目の前にいる対象者の方への実践と    ・
・  自身の実践の適切さに関して       ・
・  常に自分自身で問い続ける臨床姿勢です。 ・ 
・  その時の根拠は対象者の目標です。    ・
・  (理論でもEBMでもありません)       ・
・                      ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちは技術職ですから
まず、第一に結果を出すことです。

結果が出せない時には
どんなにつらくとも
自身の実践の結果をきちんと見据え、自身の実践を修正し続けることです。

たぶん、
今までは辛い時に
本当に役に立つ実践の在り方について示唆してくれる先達が
身の回りにほとんどいなかったんだと思う。
だから、辛さに耐えきれず、語る方へ逃げたり、理論武装しようとしたり
するしかなかったんじゃないかな。。。
一時的には、自分の心を守るためには仕方ないとも思うけど
本末転倒になってしまったら技術職として成り立たなくなってしまいます。

私の実践は、ベストではないかもしれないけれど
対象者の行動変容をかなり促せる、ベターな在り方だとは言えます。
ADLでも、ポジショニングでも、食事介助でも
生活障害やBPSDでも、Activityでも一貫して適用できる考え方をもとに展開しています。

かつて
私が若くて本当に辛い時に
今の私と出会えていたら、こんなに遠回りをせずに済んだのに
と思っています。

今、本当に辛い思いをしている誰かに伝えたい。
技術とは、たった一人でも磨くことができるものです。
その道標もあります。
だから、本質からズレないで努力を重ねてほしい。

技術職の強みとは
たった一人でも研鑽し続けられることであり
その研鑽の過程からこそ、支えや励ましを得られる
ものなのです。

 

  

カタチに反映されるハタラキ

 


生活期にある方のポジショニングに関する誤解も
まだまだ根深いものがあります。。。

拘縮を悪化させないように
寝たきりの方の膝や股関節にクッションを当てる時に
全身のアライメントを確認せず
とにかく力まかせに最大可動域にまで広げてクッションを当てるという。。。

でも
時間が経つとクッションがズレてしまったり、はじけ飛んでいたり
クッションを外したとたんに、足がキューっと屈曲してしまうとか
現場あるあるではないでしょうか?

拘縮悪化防止の名のもとの実践が
拘縮悪化防止になっていないどころか
逆効果になることをしている。。。

そして
良かれと思っての行動の結果が
本当に良かったのかどうかの確認をしない
という職員の思考と行動の在り方も現場あるあるです。

自分が設定したポジショニングの結果が
適切かどうかは本来であれば、次に訪室した時の対象者の様子を見れば一目瞭然。
見ているはずなのに。。。
見れども観えず
ここでも起こっています。

ポジショニングしかり
食事介助しかり
認知症のある方への対応しかり。。。

カタチとハタラキ

構造は機能を規定する
一方で構造は働きを反映しています。

カタチを通して反映されているハタラキを観ることが大切

カタチを通して
ハタラキに働きかけることがポイント

拘縮の悪化を予防しようという意思・意図は良いことだけれど
その意図が適切に実行されるためには
知識と技術と、それらを支える観察・洞察力が必要です。

屈曲拘縮のある方に対して
最大可動域いっぱいにクッションを当てるという行動は
見た目のカタチだけ見て、カタチだけ整えようとしているだけで
ハタラキは何も見ていないし、観ようとすらしていないことを意味しています。
屈曲拘縮を全て対象者の問題として認識し、問題設定しているのです。

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ポジショニングをしたら、その場で確認する習慣をつけると良いと思います。 ・
・ まず膝や股関節を触って                        ・
・ ちゃんとリラックスして可動域が維持されているのかどうか        ・
・ 適切に設定できれば                          ・
・ その場ですぐに効果はわかるものです。                 ・
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ポジショニングしたのに
かえって膝や股関節が硬くなって、ビクともしなくなってしまったら
そのやり方は修正すべきというサイン
です。

対象者の方が身をもって示してくれているサインを
見落とすことのないように。。。

「絵描きになりたい人は絵描きに

 

  
「『絵描きになりたい人は絵描きになれず
  絵を描きたい人が絵描きになれる』
という言葉があって
それに従えば、
俳優になりたい人は俳優になれず
芝居をしたい人が俳優になれるんだと思ってるんですよ。」

この言葉は
「鎌倉殿の13人」比企能員を演じた佐藤二朗の言葉です。

なるほどなー
と思いました。

どんな世界でも
その世界を極めるのは大変なこと

極めるのは、自分が何を為すのか
ということだから
結果としての、表れとしての、絵描きや俳優を目指すと本質からズレる
絵を描く、芝居をする、という自身の行動そのものを極める
極めずにはおれない
ということなのかな?と思いました。

これ、作業療法士だって同じじゃん。。。