浮かび上がる一本道

 

 
認知症のある方が
良くなっていくのは
その方それぞれ固有の一本道を通っていくと感じています。

食事介助にしても
BPSDや生活障害への対応の工夫にしても
Activityの選択にしても
 
その一本道は、考えるものではなくて
自然と浮かび上がってくるもの

自然と浮かび上がってこない時には
その方のことがよく把握できていない時だから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
まずは、情報収集から始める
日々の暮らしぶりをきちんと観察することから始める

その方の障害と特性と能力が分かれば
自然と今何が起こっているのかがわかる
だから、どうしたら良いのかが浮かび上がってきます。

どうしたら良いのかと考えるというのは、私たちの頭の中の作業なんです。
観察するという行為は、私たちが認知症のある方から教えてもらうという行為で
答えは認知症のある方の言動の中にあります。
全然違う。

多くの人は困った時に、考えるけど観察が足りない

語弊がないように正確に言うと
観察が大雑把で
科学的に客観的に観察するよりも先に思い込みの判断が先にある
そういう人の方が圧倒的に多い

だから
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いでしょうか?」
という質問が蔓延るんだと思う

どうしたら良いのか、職員に対して質問するんじゃなくて
目の前にいる認知症のある方に尋ねなくちゃ
言葉で尋ねる時には、尋ね方に工夫して尋ねなくちゃ
言葉にならないもう一つの行動という言葉でも尋ねなくちゃ

現場あるあるなのは
尋ね方が不適切だから答えが返ってこないというケース

最初から何もかも全てがわかるわけじゃない
臨床とは、観察するという行為の積み重ねを通じて
より深くより広くより明確にわかるようになっていく過程

知識を広く深く習得していれば
同じ場面を観ていても得られる情報の量と質と的確さが増してくる

観察・洞察力を磨けば
フッと答えが先に浮かんでくることもある
その的確さに自分ながら驚くこともある

  ある小説の主人公の言葉に
  「カンというのは無意識下での論理的思考の発露」
  という言葉があって、まさしく!と膝を打ったものです

そんな時にも
あぁ良かったで終わらせずに
何がどう良かったのか、良かった意味を
抽象化して言語化する努力を重ねる

そうすると
経験が経験として蓄積していくから
一番の修行は、目の前の対象者の方への対応ってことになるんだよね
すると、また、経験の応用の意味がわかるという。。。
華厳経の縁起の図みたいになる。。。

自分の中にそういった眼がなければ
目の前にいる方の言動を見ることはできても観察はできない

「ためこんで飲み込んでくれない」
「すぐ怒る」
「何回も呼ばれる」
「身体が硬くてオムツ交換が大変」
「手を硬く握り込んで爪が食い込んでしまう」

確かにそうなんだけど
これってプロとしての観察?
これだったら親戚のおじさんおばさんでも言える(見える)ことじゃん

その時その場のその関係性の中で
全身を心身ともに総合的に観察できるから
何が起こっているのか洞察できて
どうしたら良いのかが一本道のように自然と浮かび上がってくる

だから良くなる

重度の認知症のある方でも変わる

それは
認知症のある方その方の能力の発揮であり
人間の脳の働きの可塑性の素晴らしさでもある

本来の作業療法は
生命への賛歌、応援歌なんだと思っています


 

NHKスペシャル「立花隆 最後の旅」を見た


今日の7:20〜9:00にNHK BSで放映されていた
「NHKスペシャル 立花隆最後の旅」を見た。

綿密な資料収集と取材をする立花隆の仕事への向き合い方を
NHKディレクターの視点から捉えた番組
立花隆と17年にわたって共に仕事をしてきた彼もまた
膨大な資料を丁寧に読み込んでいたことが伝わってきた
”知の巨人”から託されたもの〜立花隆との17年〜 
・NHK取材ノート
 立花隆さんと17年間一緒に番組を作ってきた私が、
 大量の段ボール箱を前に考えていること

印象的だった立花隆の言葉
 
竹藪を例にとって
「人間にとっての知的な営みも竹の地下茎のように実は地下でつながっている」
「人間の知識というのは、非常に深いところでいろんなかたちでつながっている」と

番組でこの言葉が紹介された時に
華厳経の縁起について説明された放射状の図を思い出しました。

エーゲ海での取材にて
「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体に比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどの微少なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に飲み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に飲み込まれてある。」

この言葉を聞いた時に
ふっと楽になりました。

記録として残されなかったものの方が圧倒的に多いが
残されなかったとしても存在しなかったわけでもなく影響が皆無というわけでもない
どんな微小なものであったとしても紛れもなく存在していた幾多の人々。。。

同時に
頑張ろうと思えました。

「意図こそが大事」
この言葉は、スティーブ・ジョブズの言葉です。
重みを持って響いています。

良い番組を見られて良かった。


日常生活や趣味を治療に活かす(ごむてつ)

むかし大学教師だった頃、時々学生と一緒にスキーに行った。もちろん最初はできないから経験者の学生に教えてもらったのだが。
生徒が先生に教えるわけで気後れもあるし仕方がないことだけど、ハッキリ言って教え方が下手なのである。質問しても殆ど応えられないし。

教えるのは当然面倒だし、そんなことより自分が行きたいコースで滑りたいように滑りたいのはよくわかるので「もういいから」と言って独りで練習することにした。初心者っぽい人の中でも自分よりは少し慣れていそうな人を見て真似したりして。

1回目は学生に教えてもらったけどそれからいろいろ考えて試して、2回目には全く初めての人には教えていた。1日中苦労しただけに文字通り一日の長があるのだ。
何かを習得する時にはそれを他の人に教えるにはどうしたらよいかをいつも考えている。

今は違うかも知れないけど当時は、初心者はボーゲンと言って足をハの字にして内側のエッジを立てるようにしてコントロールするのだが、これが最初はなかなか要領を得ずだいぶ苦労した。
股関節を股関節の内旋と足首の外反を同時に行うのは普段の生活には殆どないし初めてだと難しいので、どうしても内反しがちになってしまうし、外側のエッジを雪面に引っ掛けやすく、これが転ける原因にもなる。

学生には、
「とにかく慣れないうちは見た目を気にせずにとにかく大股開きにすると良い。そうすると足関節は自然に外反し内側のエッジが使えるので、制御しやすいので多少急な場所でもコントロールできるしすぐに止まれる」

「大股開きにすると脚がどんどん開いてしまい股裂きの刑になりそうな錯覚があるけど、実際には外転させると外旋にも内旋にも自由度が広がりむしろ内旋させやすくなるので自然にできると同時に足関節は内反するので、内側のエッジが立つので実際にはむしろ逆で股裂きにはならない」
「ついでにどの筋をどのように使っているか、どのように働いているかなども考えてやると良い」
てなことを話していたら、学生には怒られてしまった。

「せっかくこんなところまで遊びに来たのに勉強のことなんか考えたくないっ!そんなこと忘れて楽しむために来たのに!」などと宣う。
実演しながら教えているのだからわかり難いということはないはずだが。

俺としてはすっかり驚いてショックを受けてしまった。
趣味やスポーツや生活の身体の動きなど様々なことが仕事に生かせるし、また逆に専門的な知識や経験を日常にも活かせることがOTの魅力だし面白さだと思っていたので。

精神科でも基本的には同様だ。
どうも専門的な知識や臨床の実践と、日常生活や趣味や遊びは別と思っているか、統合できていない人が多いような気がする。

PTの人はスポーツをやっていた人や体育系の人が多いと思うけど、どちらかと言えばスポーツとリハビリの仕事は別と考えていたり、あるいはスポーツの方に軸足があり、その延長でリハビリを考えている人が多いように思う。それだと臨床的な理解や方法にはなり難いと思う。

スポーツの指導やコーチをするのとリハビリとでは全く別物だと思う。初心者どころか障害がある人が対象なので当然だろう。コーチや指導者は初心者に教えるのはまだ良いとしても、運動神経が極度に鈍い人に教えるのは苦手ではないだろうか?


ギターやベースをやっていると日常生活では殆どないような手指の使い方をすることが多い。
ギターの持ち方や構え方、姿勢なども手指の動きに随分影響するもので、始めた頃はもちろんそんなことがわからないので変な癖を身に着けてしまったり。いろいろ事情もあってそうならざるを得ないところもあったが、昔はビデオはなんかないし教則本なんかもろくなのが無かったし。

例えばギターを上から見て身体と平行に構えていたけど、むしろヘッドを前に突き出すようにして斜めに構えた方が指はだいぶ開きやすく動きやすい。
これでもOTの端くれでありながら、正直言って何十年も気づかず最近気づいたこともあるし、もちろんまだまだまだ発見することもあるはずだ。
他の楽器なんかでも良いかもしれないが、ハンドセラピーをやるような人ならむしろギターは必須にした方が良いかと思うくらいである。

ギターの弾き方には実にいろいろあるし、手の使い方のバリエーションはものすごく多く、日常的には使わないことも多い。
日常的に使わないことなら、他のことやら臨床には役立たないのでは?と思うかもしれないがそんなことはない。いろいろ体験してみて初めてわかることも多いはずだ。
だいぶ前にOTの重鎮の方が「手のかたち、手の動き」という本を書いていたが、ギターだけでももう一冊書けそうだ。


身体的なことに関しては、こうした趣味を治療に活かす、専門的な知識を趣味などに活かすという意味では、私はそもそも身体障害の治療はやっていないので必要性も乏しかったし、もう遅きに失するかもしれないけど。

というわけで唐突だが最近私はドラムを始めた。

今さらバンドをやったり人に聞かせるようなこともないだろうし、治療に活かせることもあまり無いだろうけど、目的は老化防止と精神・神経の健康のためである。
ガキの頃からギターやベースは一応弾いてたし、下手ながら一時期バンドをやってたこともあるけど、あまりに運動神経が鈍く不器用でリズム感が悪いので、畏れ多くもドラムには手を出さなかったのだ。
今から思うとだからこそやるべきだったのだが、長年そこまで思い至らず、もっと早く昔からやっておくべきだったとつくづく思う。

音楽をそれなりにやるとか歌を上手く歌いたいなら、メロディ楽器とコード楽器とリズム楽器はそれぞれ一応はやるべきだろう。

「だんだん良くなる法華の太鼓」

「心に太陽を、唇には歌を、体にはリズムを持て!」

精神疾患を発症したり老化が進むと顕著なのはリズム感が損なわれることである。
私の場合は両方が原因であるが、大抵の場合無駄に力が入ってしまいうまく抜くことが下手になっている。当然疲れやすいし。
ドラムは脱力に始まり脱力に終わると言ってもいいくらいだ。たぶんね。よく知らんけど。体力も必要と言えば必要だが、意外にそれほどでもなくむしろ中高年に向いた楽器だと思う。とりあえず練習用のパッドとスティックがあれば良いし、あまりお金もかからないので思ったより手軽に始められる。

ほぼいつでもどこでも練習できるので、歩きながら「くいだおれ人形」のように練習している。授業中でも音を出さないように手足を動かしているのがバレないように机の下でやれば練習できるぞ。頭の中だけでもイメージトレーニングができるが、そういうのがけっこう重要だったりする。
我ながら日々上達が見えるので面白いし、曲に合わせて手足を動かすだけでもけっこう楽しい。
やっぱりいろいろな手足の使い方をするし、全体の姿勢や呼吸なども関係するので勉強になる。
俺は無理だが、スティックのコントロールだけで分厚い本くらいは書けそうだし、実際にそういうのもある。

始めてみて直ぐにわかったことだが…
私は酷く運動神経が鈍く、不器用であることは重々自覚しており、中々改善せず半ば諦めてもいたのだけど、特に左手の使い方が極度に下手だ。もちろん右利きだからというのはあるが、それにしても、である。

左手はなぜこんなにも不器用で言うことを聞かないのか?改善するにはどうしたら良いか?ということは今まで殆ど考えたことがなかった、というかむしろ避けていたのだが…
日常生活では特に困るわけではないし、人間苦手なことはあまり認めたくないし克服するよりも無視したり避けがちである。疾病否認や病態否認もそうしたことの延長ではある。

具体的にはスティック(バチ)でドラムを叩く時、手首の動きに関しては、手首の屈曲、尺屈、それと回内を主に使うが、私の場合特に左手の回内回外の動きが極端に悪いことに気づいた。
スムーズに速く正確に回内回外させることができず、特に肘をほぼ90度の状態で肢位をほぼ保ったままやると、前腕部の筋に無駄な力が入ってしまい、共同収縮も多く動きを阻害しながら動かすことになってしまう。
要するに回内回外の分離運動が特に下手なのだ。もちろん統合的に動かす必要があるのだが、主な問題はそこだった。他の人にはどこまで当てはまるかわからなけど。
そこが克服できればまた別の問題がネックとなるのだが、でもそれで次のステップに進める。

そういうわけで、とにかく回内回外だけ訓練してみたら、左手の使い方は飛躍的に改善した。普段の動作も少し器用になり、手先の巧緻性もいくぶん改善しギターやベースも弾きやすくなったくらいである。
辞めたとは言えOTの端くれなのに、こんな簡単なことになんで今まで気づかなかったのか?と唖然としたけど、日常生活では特に困らないしドラムをやらなければ多分一生気づかなかったに違いない。

それでレギューラー・グリップ(ジャズなんかで使う持ち方で、回内を主に使う)でも下手だけど一応は叩けるようになった。そんな奇妙な?持ち方で叩くなんて最初はとても考えられなかったのだが。
たぶん最初からそこそこできる人と、私のようにとてもじゃないができない人がいると思う。
他の楽器に比べて「あんなの人間業じゃない!俺なんか出来るわけがない!」と思うことが意外にできたりして、イライラして嫌になったりすることは少ない。ギターを教えたがる人は多いが、ドラマーがあまり人に教えたがらないのは、多分ドラムが一番面白いからではないか?という気がする。

到底無理だと思うことでも、特に障害でもなければたいていのことはそこそこのレベルにはなれると思う。いきなりできるようになろうとしても無理でも、多少は時間はかかっても急がば回れで、なるべく基本からプロセスを踏んでやっていけば。
できる人がそれなりにいることなら、多少の向き不向きはあっても自分にはできない、無理だと思う必要はない。

と、偉そうなことを書いているが、実はまだ本物のドラムセットは触っていない。そのうちスタジオに行って練習してみるつもりだけど。
「講釈師、見てきたような嘘を言い」
昔、若い頃ちょっとばかりおイタしたことはあるけどな。

脳卒中右片麻痺の患者さんなんかに「利き手交換」と称して碁石の玉やら豆粒などお箸つまんでただ移動させる訓練など、今どきやるOTはたぶんいないだろうけど…
それが悪いというわけではなく必要もあるだろうけど、わざわざ訓練室に来てセラピーの時間を使ってやるものではなく、OTとしてやるならどうしたらそれが早く簡単に上手くできるようになるか、そのポイントを絞って指導・訓練するべきだと思う。

精神科の患者さんなんかは酷く不器用な人が多いが、ただActivityをやるのではなく、それが上手く出来るように基本から指導すべきだろうし、それが出来るのがOTの専門性というものだろう。
人によってはやはり苦手なことはやりたがらないし、抵抗を示す人もいるだろうけど、良い指導ができればわかってくれたり受け入れてくれる可能性が高いし、それで結果が出せれば精神的にも良い影響があるはずだ。
私はOTはもう辞めたけどセラピーでは神経そのものの状態や働き、使い方(というより無意識による使われ方)から改善できるように指導している。
ドラマーは基礎練習だけでなく、上達のために運動や体操をしたり、準備体操やウオーミングアップをするのが普通だ。

指導のポイントとは弱点・欠点を目ざとく見つけてそこを指摘してやらせるのではない。それだと下手ながらも一応できていたことが余計にできなくなってしまい、嫌になったりやる気がなくなりがちになる。
ポイントとはここを変えればあっちもこっちも良くなるからはるかに上達する、あるいはとりあえずここを改善すればこういうことができるので、その次にここを改善すれば…といったことであろう。

私は泳げなかったので中年の頃に教えてもらったり練習して何とか泳げるようになったのだがそうしたことを痛感した。結局教えてもらっても殆ど上達せず、自分でやり方を理解して訓練法を考えたことが上達につながったのだが、それも一応OTだから可能だったのかもしれない。

昔は体育や音楽や美術の教師などはロクに教えることができず、ただやらせるだけだった。酷いやつは水泳なんか棒で突っついたりなんかしやがって。今でも恨みが怒ってくるぞ!
今どきはきちんと教えてくれる先生が多いのだろうけど、それにしてもプロとして本当に教えることができる人はどのくらいいるだろうか。

だんだんわかってきたことは、自分が苦労して習得したことことや、大抵の生徒が苦手でも自分たちは得意なことを、生徒が簡単に上手くできてしまったら自分の立場やプライドが保ずむしろ困るわけで、自覚しているかはともかく差別化選別主義が根底にあるのだろうと思う。
そのためきちんとした指導法を考えたりすることを怠っていたのではないかと思う。
そういうつもりはないだろうが、殆どの先生がそうだったから。生徒にマウントとってもしょうがない。

俺なら上手く教えて生徒が皆、俺を楽々超えてしまうことにプライドを持つけどな。教師はできることより、教えることが仕事だ。音楽の先生はプロのミュージシャンじゃないし体育の先生はオリンピックや大会に出るわけではないし、もちろん殆どの生徒もそうだから、いかに上手く楽しめるか他のことにも役立てるかだ。

俺は優しく親切でサービス精神が旺盛なので、上述のようにスキーなんかも二回目には初めての人に教えたりなんかしていたわけだが。
ゴルフの練習場なんかでは教えたがり屋の嫌われるタイプでジジイである。ゴルフはやらないけど。

今は精神疾患の治療のことを教えたいのだが弟子はいないし、そもそも治療を教わる気がある人が殆どいないようなんである。これまた、だんだんわかってきたことは、精神科医や心理カウンセラーなんかになりたい人は掃いて捨てるほどたくさんいるけど、本当に治療をやりたい人は殆どいないということである。
それでメシが食えるとは限らないし、というよりとても難しいし。もっと言えば患者自身も本当に良くなる治療を求めていない。要するに『抵抗・防衛』ということだが、それを克服することを含めて治療なんだけど、それは患者側の問題でもあるがむしろ治療者自身の問題である。

今はそうでもないと思うけど、我々の世代だと音楽やスポーツや英語なんかも学校時代に何年もやっていたのに大抵の人は大してできるようにはならないし、できる人は自分がやりたくて教室に通ったり訓練や練習に励んだ人だ。

やっぱりリハビリの仕事もそうで学校は優秀な成績で卒業して資格をとっても、実際にできるようになるには自分から本を読んだり講習会に参加したり、学習して身につける姿勢や努力がないとダメだし、何事もセラピーに活かせるようにフル活用し、また専門的な知識を治療以外の様々なことに活かせるように心がけた方が良いと思う。

日々の臨床の中でも自分で自分を訓練し学習できる人と殆どできない人がいる。精神科なんかは特に経験が逆効果になっていることも多いから恐ろしい。

※追記

ところで最近、認知症のリハビリや評価に太鼓が使えるといったことがよく言われているようだ。
「認知症 太鼓」などで検索するといろいろ出てくる。
その辺は門外漢だし私としては何とも言えないのだが、何となく良さそうである。

実際にでかい音を出したほうがもちろん良いのだろうけど、当然のことウルサイのが難点である。ドラムの練習には一般に練習用のパッドを使うのだが、スネアドラムのスタンドにドラムの皮だけ固定して叩いたりもする。
それでもそれなりのお値段がするので、やはり100円ショップとかホームセンターで素材になるものを組み合わせて使うと良いかもしれない。スティックも一般的なものは1,500円くらいでそんなに高くはないのだが、Amazonなど探ると中華製の安いものも手に入る。

(92)嵐を呼ぶ男(石原裕次郎・笈田敏夫) – YouTube

いかりや長介の演技が秀逸でちょっと感動的
ドリフターズ加入前の志村けんもチラッと出てくる
ドラムすめには負けたくない。可愛いけど。目標は追いつき追い越せだ!

ごむてつ君に励ましのお便りを出そう!
auchida@msi.biglobe.ne.jp
もう禿げてるけどな
これ以上禿たら頭蓋骨が見えてしまう。

寒中お見舞い申し上げます

  


お久しぶりです。
みなさま、お変わりありませんでしょうか。

私は昨年は慌ただしい1年を過ごしました。
3月から父の入院・転院が続き、7月に逝去
その後、母の在宅療養を経て11月に看取り
付随するさまざまな手続きに
職場での2回のコロナ対応もあって
こちらへの書き込みをする心身のゆとりがありませんでした。

いろいろ体験してみて思ったことは
大変ではあっても体験してみてわかることもあり
直接的には関連していないことでも理解が深まることがある
ということでした。
このあたりのことについては、いずれ記事にしたいと考えています。

延期していた勉強会も再開を検討しています。
詳細が決まりましたらお知らせいたします。

寒さも厳しくなり
新型コロナとインフルエンザのW流行も増えているようです。
どうぞくれぐれもご自愛ください。


講演無事終了@全精栄神奈川県支部

 


12月3日に開催された
全国精神科栄養士協会神奈川県支部主催の研修会での講演を無事に終了することができました。

窓口になってくださったMさんはじめ
運営に携わられた皆さま
参加された皆さま
お疲れさまでした。
どうもありがとうございました。

食事介助とは
「何を」
「どんな風に」
食べていただくか
ということでもあります。

近年、「何を」という食形態の部分では
栄養士の皆さまのご尽力のおかげで
開発が進み、選択肢が広がったことをとてもありがたく思っています。

一方で
「どんな風に」という部分では
まだまだ誤解や従来の方法を漫然と踏襲している部分もあり
今後改善されていく余地も多々あると考えています。
講演では、その辺りについても少し触れました。

「食べることの援助」「食事介助」については
無関係な職種はない
と感じています。

一人でも多くの方が
余分な困難を抱えることなく
より楽に、よりスムーズに、より美味しく
食べられるようになり
誤嚥性肺炎で苦しむ方が少なくなるように願っています。

 

真の臨床家たる中井久夫

 

精神科分野で働く人はもちろん
そうでない人にとっても
中井久夫の言葉に支えられ励まされることは多いと思う。

中井久夫は徹頭徹尾、患者と並走する臨床家だった。

「医師は患者の弁護士」
と言明する医師を私は他に知らない。

初めて使う薬は、必ず自分で飲み心地を確認してから処方する
なんて医師を私は他に知らない。

DSMやエビデンスといった
身体疾患に関する現代医学の潮流とは別の側面に
個々の患者一人ひとりの経過とその時々の状態に
本当に寄り添っていたんじゃないかと思う。

患者への細心の気配りと
広く深い知見に基づく観察をどんなに丁寧に行なっていたのか
書かれた本の行間から滲み出てきます。

中井久夫のような実践は
現代医学の主流とは異なるのかもしれないが
歴史の必然の中で必ずや復活し見直される日が来ると思う。

中井久夫の実践に感動し学び直すことになるだろう。
看護や介護やリハ職に、多大なる影響を与えるだろう。

NHKが
4回の時間を割いて
心の病を普遍的な社会・文化の問題として読み解こうと設定した機会に
私ももう一度、中井久夫に学び直そうと思いました。

それにしても
中井久夫は晩年どんな思いでいたことだろうか。。。

 

医学書院のサイトから
中井久夫の鼎談記事を読むことができます。

https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2001dir/n2433dir/n2433_07.htm

NHKのEテレで中井久夫の特集番組(ごむてつ)

前回、中井久夫さんのことを書いたけど、NHKのEテレで中井久夫の特集番組をやるそうです。

精神科関係の人は特に見ると良いと思う。

名著125「中井久夫スペシャル」 – 100分de名著 – NHK

第1回は、2022年12月5日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
4週連続、100分×全4回なので結構充実しているかも。
再放送もあり

俺はテレビないので見られないけど、後追いでネット配信されるかも?

テキストも市販されているようです。

100分 de 名著 | 商品一覧| NHK出版 (nhk-book.co.jp)


最近になってこんな本も出版されています。

これは「精神科治療学」という雑誌に掲載された論文を集めたものです。

もちろん中井さんの本は著作集を始めいろいろ出ているのでお勧めです。もちろんサリヴァンなどの翻訳もぜひ読むべきです。

こちらは中井さん自身が書いたものではなく他の人の原稿を集めたもの
弟子だった?安克昌氏の著作も新たに出版されていました。

何と!2020年のことだけどNHKのドラマにもなっていた
主役のモデルは安克昌氏
土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」 | NHKドラマ
私は知らなかったけど見た人もいたのでは?

DVDが出ているので見られる。買うと高いけど
心の傷を癒(いや)すということ DVD 全2枚|国内ドラマ|DVD (nhk-ep.com)

劇場版もありネットで配信されている
心の傷を癒すということ 劇場版 : 作品情報 – 映画.com (eiga.com)


NHKに捧げる歌 早川義夫 
「ぶっ潰す!」ではありません。半世紀以上前のレコード

早川義夫さんは知らない人も多いだろうけど、極北の伝説?全然売れなかった幻のロックバンド?ジャックスの元リーダー

長らくレコードも廃盤だったけどその後再評価され、今は古い音源も発掘されてCDもいろいろ出ておりYou Tubeでも聴ける。これは1968年のファースト・アルバム

解散後は会員制のレコード会社、URC(アンダーグラウンドレコードクラブ)のディレクターで数々の名盤を残したが音楽的素養には乏しく、はっぴいえんどとはソリが合わずディレクターを降りている。

自分のソロ・アルバムはこの経費削減のため全曲ピアノまたはオルガンの弾き語り。
業界を抜けた後には長らく書店をやっていたが、1994年25年ぶりにソロで再デビューしているが現在は高齢のため活動停止

講演無事終了@長野県摂食・嚥下リハ研究会


11月20日(日)に開催された
長野県摂食・嚥下リハビリテーション研究会さん主催の研修会が無事に終了しました。

さまざまな職種のたくさんの方にお伝えする機会をいただけたことに感謝いたします。

ポイントはいくつかあって。。。
 
問題設定をし直すこと
1)重度の認知症のある方でも環境に応じて適応しようとしている
2)食べようとしているが食べられなくて困っている

私たちにできること
3)正の学習が働く限定された食環境をいかに見出すか
4)そのためには「適切なスプーン操作」「知識」があって
  食べ方をきちんと観察・洞察・評価できること
  そうすれば自ずからどうしたら良いのかが浮かび上がってくる

本当に
どうしたら良いのか、は考えることじゃなくて
自然と浮かび上がってくることなんです。

浮かび上がってこない時には
どこかしら見落としているところがある時なんです。

一人でも多くの方に
お伝えすることができて本当に嬉しく思います。

窓口になってくださったAさん始め関係者の皆様
お世話になりました。
どうもありがとうございました。

認知症=的確な援助を待ってる

たとえ、
言葉を発することができなかったとしても
寝たきりの状態の方でも
なんとかしようとご自身で頑張っている。

それがわかるのは
的確な援助ができた時

的確な援助ができて初めて
その方の能力発揮に遭遇する
ことができる

的確な援助ができないと
能力発揮できる機会がないので
職員のほうが認知症のある方の能力がわからないままなんです。

能力発揮できる機会がないということと
能力がないということは
全然違う

それがごっちゃになってしまわないように。。。

 

 

中井久夫さん、サリヴァン(ごむてつ)

もう3カ月程前になるが中井久夫さんが亡くなられた。日本の精神医療の良心とも言われていた精神科医である。

私はもちろん面識はないし、著作や翻訳書を通して知っているだけであるが、初めて知ったのはもちろん精神医療を志すより前、ただの患者の頃で「現代精神医学の概念」を読んだ時だから高校時代か少なくとも大学1~2年の頃には知っていたことになり、これまでに全部ではないが著作の殆どは読んでいるはずである。

中井さんが神戸大学を退職した後釜に教授になった人は認知症が専門の人だし、さらにその後継者はハッキリ言ってどうでも良いような…、他大学も同じようなもんだが。
弟子や後継者と言えるような人は安克昌さんの他にはいなかったようで、その安さんも阪神大震災の対応の労苦もあってか39歳の若さで早世してしまった。

傲岸不遜、高慢と思われることは百も承知であるが、彼の著作を読んでいると正直言って教唆したいことがいろいろ頭に浮かんでくる。エッセイなどは面白くて得るものも少なくないのだが、専門の精神医療に近づけば近づくほどそうなのだが。
そこらの精神科医や臨床心理師などとは話が通じるとは到底思えないが、中井さんならわかって頂けるのではないか?といったことである。

結局それを伝える機会はなくなり残念ではあるが、残念なのは私ではなく中井さんの方かもしれない。もちろん実際にはわからないし、タラレバのことを言ってもしょうがない。
実は連絡を取ろうかどうしようかなどと随分迷ったことがあり、実際に連絡を試みたときは既に高齢のため身体の方が弱っていたようで、出版社や大学には取り次いではもらえなかった。もっと早く、とも思うが仕方がない。そういうもんなのだろう。
何事にも、特に人間関係においては積極性に乏しいのが私の欠点であるが、他者と関わったり話したりすることには、なるべくためらわずに積極的に行ったほうが良いと皆さんにはアドバイスしておきたい。今は幸いにしてメールやSNSなど使いやすい手段もある。

ギリシャ語を3日でマスターしたというほど頭がよく人間的にも優れた人に、俺のような精神病で怠け者でボンクラのバカが教えられることなど、もちろん唯一つしかない。確かな治療法を持っておりそれを実践し結果も出しているということである。
それしか取り柄がないとしても、やはりやっていなければわからないことも、経験しているからこそわかることもあるのだ。

そもそも私の読書は著作を読んで何かを学習するということは殆していないしできない。理論を学習してそれを適用しようとすることもほぼ無い。従ってテストの点を取るためのような勉強もほぼしたことがない。
自分にとっての読書は端的に言えば自が考えたことやわかったことについて、他者の意見や考えを聞いて確かめるためだ。それしかできないのでしょうがない。

昔から私は活動的ではないが、実践を通して経験から学ぶことを子供の頃から心がけ、知識を当てはめただけでわかったような気にはならないようにしてきたつもりである。
それが良いとも一概には言えないが、勉強嫌いも必ずしも悪いことではないと思う。

「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ」

私の治療のことを知って頂けたら大いに関心を持ってくれただろうし、大いに賞賛または賛同し驚喜して頂けただろうとも思うのだが、正直言ってその自信はあまりない。少なくとも確かな結果が出せる治療法であり、治療法に自信がないわけではない。
中井さんが主治医だった患者が私の所に来たことはある。

以下はたぶんに俺の推測に過ぎず、穿った見方かも知れないが…

彼は統合失調症(精神分裂病)を含めて、精神疾患は脳の病気ではなく精神の病気であり、原因は生物学的な遺伝による脳の特質や偏差ではなく、心因、環境因、家族因だと言いたかったような気がしてならない。それが全てではないし確かなことは言えないにしても。

もちろん今の精神医学会で受け入れられるわけはないし、誰でもわかるように明確な根拠を示せるわけでもないけど。この点ではやはり俺の方が知っていることは多いと思う。
彼はそのことを伝えるのに明言はせず、いつも寸止めというより尺止めしていたような気がしてならない。

だからこそ、日本で最高の精神科医、精神科医の良心と言われつつも、あまり彼の考えは受け継がれ難いのだろう。
著作は多く、著作集もあるし今もそれなりに売れているようだが、多分読者の多くは精神科医や心理療法関係者ではなく、一般インテリ階級だろう。
惜しいことであるが、また時代は巡り巡ってやってくるかも知れない。

中井さんは晩年カトリックに帰依したという。
この点でも俺は一応先輩だ。先祖代々(明治時代からだけど5代目)カトリックなので生まれた時に洗礼を受けているので。自分自身の傲慢を戒めるため、といった理由のようだ。私ももちろん自戒が必要である。

私は英語も苦手なので、中井さんの翻訳のお陰でサリヴァンだけでなく精神医学の重要書物を読むことができた。他にはフィレンツィ、バリントなど。これはとても有り難いことであるが、それらの書物も品切れ絶版になりつつあるので、まだ読んでいない人はぜひ手に入れて読んでみると良いと思う。今なら古本もそんなに高くない。

とりあえず「現代精神医学の概念」から始めて「精神医学的面接」そして理論的なことを知りたければ「精神医学の臨床研究」あたりを読んでみるのがお勧めである。「臨床研究」はリハビリ専門学生の頃に読んだと思う。最初は取っ付き難かったが、理解が進むとむしろ自分が仮説的に考えていたことが明確に示されていることがわかり膝を打って驚喜した。まだ精神医療を志すよりもずっと前からそのようなことが書いてあるのでは?と期待していたのである。
他にはフロム=ライヒマン、サールズなど。

意外にもサリヴァンはDSMの原型も作っている。彼は戦争に反対であったが、政府の求めに応じて兵士を選抜するためにチェックリストを作ったのである。「興味関心のある内科医であればおそらく認識できるだろうという点を目指して作成された」という程度のものであったが。

その後DSMは肥大化し普及し当初の理念や主旨や目的とはおよそかけはなれたものとして独り歩きして広まり普及し「専門家」に運用されただけでなく一般人にも広まった。
その割には正確には内容が伝わらず恣意的に使われており、サリヴァンの作った原型を元にDSMの初版を作った人も後悔していたはずである。

どういうわけだか最近になって、サリヴァンの入門書的な本も訳出されている。

「個性という幻想」講談社学術文庫
文庫なので割に安いし、訳も読みやすい方である。冒頭部分はサリヴァンの入門の入門とも言えるが今まで訳出されていなかった。それに既に入手困難となっている著作のうち4つの論文の新訳が加えられている。まずこのあたりから読んでみるのもよいだろう。

「ハリー・スタック・サリヴァン入門: 精神療法は対人関係論である」F・バートン・エヴァンス3世 創元社
これまでサリヴァンの入門書的な本は何冊が出ていたし邦訳されているのもあったのだが、内容や訳があまり良くなかったりしてお勧めできるものはあまりなかった。これは良い方だと思う。

中井さんもサリヴァンも今の精神科医や医療従事者にとってはもはや過去の人に過ぎないのかもしれない。しかし、優れた人の洞察・理解には普遍性がありいつの時代も有益である。

もはや昭和の(旧)精神分裂病を知る人も少なくなってきた。統合失調症と名称が変わっただけでなく今世紀になる前後からずいぶんと病像が変わり、同じ病気とは言えない程である。私は元々疾患単位を認めない立場なのだが。

もっとも(旧)精神分裂病と言えども近代の病であり、エミール・クレペリンによる早発性痴呆の提唱は1893年であり、オイゲン・ブロイラーの精神分裂病は1916年、野口英世のスピロヘータの発見は1918年である。
結局のところ(旧)精神分裂病は高々百年程度の歴史しかなかったことになる。

近世以前はそれと似通った病気もあっただろうけど、おそらく憑依精神病が主な精神疾患である。
憑依なんて言うとおよそ前近代的なのは当然としても非科学的と考える人も多いだろうが、そうした現象があったことは間違いなく厳然たる事実である。今でもあることはある。
私はそうした歴史や現象を理解せずして精神疾患の原因論を語るべきではないとさえ思う。世界には科学の対象にならないことの方が多いのである。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
私は両者から学びたいと思うが、後者を重視すべきお年頃になった気がする。

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もはや若い人はあまり知らないと思われる昭和歌謡のカバーですが、こういうの好きな人も知らない人も聴いてみると良いと思う。「利理鈴まりりん」で検索すると40曲以上出てくる。
「昭和も遠くになりにけり」

この人は変な癖がなくて妙に上手い!魂が入っておる!?という気がする。
昔はこういった歌謡曲は好きではなかったが、ジジイには今風の曲も歌い方はあまり馴染めないのだ。
なぜかうるうる感動的、なぜか何度聴いても飽きない。
キーボードの人のハモリも良く、ボーカルが良いと演奏も熱が入るようだ。
歌が上手けりゃ見た目はどうでも良いのだが、たぶん人柄も良いのだろう。

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