「プロ野球マジックの継承者たち」を見た


見応えのある番組でした。
再放送もあります。
BS1:3月8日(水)午後9時10分~

栗山氏については
解説がやたらわかりやすいので気に留めていました。

三原ノートをただ読むんじゃなくて
コピーしてマーカーしながら読んでることに脱帽。。。

三原マジックについて
「奇策じゃなくて確率の高い根拠なんだよ」
「俺は気がついてるって言いたかったんじゃないかな」
まさしく、まさしく。。。
分野違いの私ですが
「確率の高い根拠」
「気がついてる」というところは、本当によくわかります。。。

それにしても
三原が既に二刀流を試していたとは。。。
本当に洞察力に優れていて度胸もある人だったのだろう。。。
戦場で修羅場を乗り越えてきたことの凄みを思いました。

番組の一端は
こちらの記事からも推察することができます。
WBC 栗山英樹監督 “名将の教えを胸に” 世界一目指す

読むだけでも得られることが多々あるかと思います。


工程はAct.そのものに語らせる

 


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。

  

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、時々困っていないか確認する程度の見守りをします。

  

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうことがよくあります。
  
  その方に取って、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれたからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

せっかく工程を教えたのに忘れられてしまったとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らない
・視覚的説明を活用する
・認知症のある方の能力発揮を援助する
ということです。

介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

   

スクラッチアートの良さ

 


塗り絵は、
リハやケアの分野で認知症のある方に多用されているActivityのひとつです。
「色を塗るだけだから簡単にできるはず」と思われているのが理由でしょうか。
多くの人が「できること」という観点でActivityを探します。

私は、Activityは「特性」の観点を優先して探すようにしています。
詳細は、 Activity選択の考え方 をご参照ください。

仕事的活動よりも表現活動が好き・綺麗なものが好き
という方の中に
塗り絵を提供しても能力が追いつかない
あるいは、不安が強くて塗り方が心配になってしまうという方もいらっしゃいます。

そうなると、仕上がりが今ひとつだったり
塗ることを楽しむ・工夫するどころじゃなくなったりしてしまうこともあります。

塗り絵の前段階として
おすすめなのが、こちらのスクラッチアートです。

線をなぞって削っていくと
削った分だけ色が出てきます。

やったことのフィードバックがその場であるので
「できた!」という達成感を継続的に感じることができます。

塗り絵だと「塗る」のが心身の負担になってしまう方も
「線をなぞる」だけで色が見えるので負担が少なくてすみます。

また、塗り絵の場合には
塗り損ねが目立ちますが
スクラッチアートは、塗り損ねても目立ちにくく
塗りつぶしてもいいし、塗らなくてもそれなりに綺麗に見えるので
遂行のムラがあっても目立ちにくく、かえって味わいに見えるのも良いところです。


不安の強い方も
「白い線の上をなぞって削る」という1工程を
職員に確認するのではなく、自分自身で確認しながら遂行する
ということに集中しやすくなります。

ダイソーで購入しました。
いろいろな種類が発売されていました。

失敗が失敗として目立ちにくい
でも綺麗
工程は1つのみ
スクラッチアート

細かな模様と
図と地のコントラストが高いので、眼精疲労には要注意です。

 

Act.導入への具体的な工夫

 


アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

誘導する時には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

これは 再認 に働きかけています。
作品を見る、視覚情報として提示することで過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は誘導の大変さを実感していると思います。

言葉だけで誘導するには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようでもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じ、ピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば感じは全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかけるということは
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。
良くも悪くも。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。


Act.を拒否された時:体験談いろいろ(2)

 


認知症のある方が帰宅要求などのBPSDのために
Activityを拒否することもよくあります。
このような時には、なんとか宥めてActivityに誘導しよう
などと考えない方が良いです。

作業療法ジャーナルvol.47no.7にて
「バリデーションの紹介ー体験談を通して」で紹介した事例ですが
帰宅要求のある方にバリデーションを提供したことがあります。

普段、帰宅要求などなかった方が
かなり大きく強い口調で「家に帰る!」と言い続けていたので
ちょっと驚きましたが、バリデーションの後ですっかり穏やかになられました。
落ち着いてから、Activityの見学に導入しました。
その時の穏やかな表情は忘れられません。

ここでのやり取りとその意図については
上記紙面にて紹介してありますのでご参照ください。

 バリデーションで強調しているのは
 BPSDが解消されるのは結果であって目的としない
 ということです。ここは誤解しないでほしい。

私もとても穏やかな気持ちになって
その場の雰囲気に浸っていたのですが
一連の過程を近くで見ていたスタッフが
「やっぱり気持ちをそらせると良いのねぇ」と言いました。
もうガックリです。。。
やりとりの過程をずっと見て聞いてたよね?
私がいつ気持ちをそらせるようなことを言った?

村上春樹の小説の登場人物のセリフに
「説明しなくちゃわからないってことは説明したってわからないってことだ」
という言葉がありますが
まさしく。。。

見れども観えず
観ようとしなければ観えないし
人は自分の観たいように見る


実は高齢者を対象とした施設・病院に勤務する職員は
職種を問わず、このように
「何かやらせて気を逸らすことができれば帰宅要求はおさまる」
と考えている人もまだまだ多いのが現実です。。。

実際には
「BPSDをおさめる」「気をそらせる」対応をしても
効果がないどころか逆効果となり
火に油を注ぐような事態に遭遇しているはずなんです。

しかも
「BPSDをおさめる」「気持ちをそらせる」という対応が良いものだとすると
上手くごまかすことができるのが良いケアということになってしまいます。
そんなことがあるわけがない。。。

帰宅要求は必然があって生じるものです。
確かに周囲の人は困ってしまいますが、ご本人が一番困っているのです。

  バリデーションに限界はありますが
  強力なツールでもあります。
  私の知っている限り、他のツールとは一線を画すものです。

  もし、今、辛い思いをしている方がいたら
  バリデーションを学ばれることをお勧めいたします。
  本もビデオもありますが、
  本を読むだけでは理解が限定的になってしまうと思います。
  ぜひセミナーを受講してみてください。
  世界共通で体系化されていますし、
  体感しながら知識と技術を学ぶことができます。
  興味のある方は 公認日本バリデーション協会 にアクセスしてみてください。

もし、あなたが
気になって仕方がない、心配で心配でたまらないことを抱えている時に
「あちらで楽しそうなことをしていますよ」
と話しかけられたら、どう感じるでしょうか?

「それはお気遣いくださり、ありがとう。
 どうぞ皆さんでお楽しみください。」
と相手を気遣いながらも自分には関係ないこととして断るのではないでしょうか。
  
最初は丁寧に断ったのにしつこく誘われたら
「私は今それどころじゃないのよ」
「嫌だって言ったでしょう」
誘われるたびに嫌な思いが募って、こちらの断り方も強くなってしまう
やんわり断っても引いてくれないから強く断ることになります。

これって「易怒的」なことでしょうか?
でも、認知症のある方がこのような表現をすると
「易怒的」って判断されがちですよね。

昨今は、認知症の普及啓発が進んでいますから
以前ほど「ボケたらおしまい」という言葉を公に言う人は少なくなりましたが
一方で公には言わないだけで内心では思っている人もまたまだまだ多いものです。
「認知症のある方の言動には正当なものではない」と内心思っていて
「気持ちをそらせる以外に有用な方法論があるのだと知らない」のであれば
「帰宅要求から気持ちをそらせる」以外の対応ができないのも仕方がないのかもしれません。

  帰宅要求のある方への対応については
  こちらにまとめてありますのでご参照ください。
  ・帰宅要求のある方に対して(1)
  ・帰宅要求のある方に対して(2)

Activityの導入時、実施中に拒否されたら
その表現にきちんと向き合いましょう。
心配な気持ちを吐露してもらいましょう。
多くの場合に、心配な気持ちを吐露してもらったら
かえって収拾がつかなくなり混乱を増してしまうという職員の側の思い込みによって
そのような事態になることを回避しようとして感情吐露の抑圧、ごまかし、に至ります。

「私のお父さんの先生のお通夜だから行かなくちゃ」
「私の母親の具合が悪いから早く帰らなくちゃ」
「子供がお腹を空かせて学校から帰ってくるから戻らなくちゃ」
Activityどころじゃないですよね?

バリデーションを実践できるようになると
過去にその方がどんな風にご家族に対応していたのか
その一端を感じ取れるようになることです。
こんなにきちんと周囲の方に対応されていたんだ
こんなにご家族から大切にされていたんだ
こんなに子供さんのことを気遣っていたんだ
当時の時代背景を知っていれば、そうするにはどれだけの努力が必要だったのかもわかるようになります。

感情と体験のいずれか、もしくは双方が
過去に本当にあった不安な感情を抱いた体験を想起させます。
感情と体験をキーワードに、現在と過去が結びついてしまう。

  このような対応は決して異常なものではありません。
  私たちにも実際起こっているものです。
  ただ、普段は自覚せずにコントロールできているだけで。

だからこそ
一見不合理に見える感情の吐露に対して正面から向き合う意義があります。
感情を吐露し、そうするしかなかったことを共感されることで
過去の体験と感情を受け入れることができるようになっていく

バリデーションそのものによって起こることですが
Activityにも似たような作用があります。

だからこそ、無理矢理Activityに導入してはいけないし
Activityに誘導することで気持ちをそらせるようなことはもってのほかなんです。

 

・・・

次の記事では
Activityやリハ室、OT室への誘導の工夫について記載していきます。

 

NHKで「ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」が放送されます


明日、2月25日(土)午後11時から
NHKで「ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」が放送されます。

番組告知には、社会が生み出した精神科病院の実態が明らかになってきたとあります。
虐待はいけないことですが、単純にいけないとして終わりでは
いじめと同じで今度は陰湿化し隠蔽されてしまいがちです。
NHKでは1病院の内実を明らかにして終わりではなく
社会全体の問題として捉え直して今後を考えてもらいたいという狙いなのでしょう。

精神科医療特有の問題もあるかもしれませんが
知的障害者施設とも共通する構造があるのかもしれません。

まずはお知らせまで。

 

Act.を拒否された時:体験談いろいろ(1)

 


目の前にいる対象者が
Activityを拒否している状況によって対応も変えています。

1)失敗や混乱への予期不安から拒否する
2)Activityとは関係なくBPSDのために拒否する

まずは
1)失敗や混乱への予期不安から拒否する という場合です。

このような場合に無理やり誘導は逆効果です。
暮らしのベースに予期不安を抱えているのです。
  普段はそれを言語表出しないだけで、
  Activityをきっかけとして、あるいはリハ室・OT室への誘導をきっかけとして
  表面化することはよくあります。
  職員のあるあるな誤解は、きっかけに過ぎないものを
  大きく問題化して解決案を検討するという方法論です。
  (ここではそれ以上触れませんが)

予期不安を抱く…というのは、
ある意味モノゴトを予測できる能力があることを示しています。
イマ・ココとは、違う場所、違うことをする不安があるのです。
とすれば、
おだてたり、褒めたり、言いくるめたり、強引に誘導して促すのではなくて
不安が解消されれば拒否もなくなる→不安が減る対応を考える
ということになります。

ここでいう不安とは
「自分ができない、わからなくなる、混乱する」ことへの不安であって
「できなくなっても助けてもらえない」ことへの不安ではないということを
認識しておくことです。

ケアやリハの現場でよく聞く言葉の一つに
「一緒にやるから大丈夫」という言葉があります。
もちろん、この言葉を発する人の善意を疑うものではありませんが
認知症のある方の不安は、
一緒にやって助けてくれる人の有無ではなくて
自分ができない、わからない、混乱するという体験そのものへの不安なのだから
「一緒にやるから大丈夫」という言葉は実は認知症のある方の不安に対しては
的外れの言葉になっています。
そしてその自覚がないから言える言葉でもあります。

認知症のある方だって
他者の配慮、ましてや自分が日頃お世話になっている人の配慮は感じますから
そういってくれる人の配慮を慮って応じていることだってよくあります。
つまり、職員は認知症のある方を配慮しているつもりで
実は、認知症のある方に配慮されていてそのことに気がついていないという。。。

職員の声かけに
「はーい、わかりました。どうもありがとう!」と笑顔で応じて
その直後にくるっと私の方を向いて
笑顔でペロッと舌を出しながら「あぁ言っておかないとさ」
って言われたこともありました。
HDS-R7点の方です。

認知症のある方の
「できなくなる、わからなくなる、混乱する」ことへの予期不安に対して
私たちがすべきことは、
「できた、わかった、混乱しなかった」という体験の提供です。
自分一人でもできた、困らずにラクにできた という場面設定ができることです。

そのためには
目の前にいる方の、特性と能力と困難を的確に見極められていること
少なくとも見極めようとしている態度が肝要です。

状態像を的確に把握する努力を怠り
全員一斉に同じ課題を提供し、
隣でできないことをその都度教えたり介助したりすることではないのです。
 
  誤解のないように書き添えると、
  上記の対応がむしろ適切な場合もあります。
  それは認知症のある方が生活歴の中でそのような体験を多々積んできており、
  しかもそういった体験を好んでいる場合です。
  でも決して万人に通用する場面設定ではありませんし
  そういうケースはあまり多くないことも書き添えておきます。

もうひとつのポイントとしては
Activity遂行の過程と結果が明確に示される手工芸的なActivityの場合には
仕上がりの綺麗さも求められます。

一生懸命やった結果の見た目がイマイチでは、ガッカリするのが人の常
まして、過去に趣味や仕事として為したことのあるActivityでは
比較対象の基準が内面化されているので要注意です。

また、綺麗に仕上がった作品であれば
ご家族やご友人など大切な人へのプレゼントにもなります。
お世話になるばかりじゃない、してあげられることがあった
という体験をカタチにできるのです。

そういう意味で重宝しているのが
写真で掲載している、毛糸モップです。
 
編み物をしていた女性も多いですし、草履を編んでいた男性も多くいます。
工程が少なく、段階づけも多様にできるので
数分前のことも忘れてしまうような近時記憶が著明に低下している方でも導入が容易です。
HDS-R3点の方でもできたというご連絡をいただいたこともありました。

作り方や段階づけ、応用についても
複数の記事を書いていますので、検索してみてください。

長くなったので
2)Activityとは関係なくBPSDのために拒否する
については、次の記事で書いていきます。

Act.を拒否された時:生活歴聴取

 

 
個別でのアプローチをしている場合に
「私は不器用だから」
「私は何にもできないから」
「私はバカだから」などと
Act.を拒否された時には
「一緒にやるから大丈夫」などと言って
工程の一部分を手伝うこともなくはありませんが
あまり良いテではないと考えています。

「一緒にやる」=「誰かの指示に従ってその通りに遂行する」
ということを好んでいた方の場合には有効かもしれませんが
そうでないと、私の脳みそが認知症のある方の手足を動かしている
ということになってしまう恐れが高いからです。

そんなリスクを冒すよりも
よっぽど有意義なのが
「生活歴を尋ねる」ということです。

どこで生まれて
どんな風に暮らしてきたのか
小さな頃どんな風に遊んで
若い頃の趣味や仕事はなんなのか

ここでもポイントがあって
何をしていたのか尋ねるだけではなくて
どんな能力を要求されていたことなのか
を意識しながら聞いています。

そうすると
今の若い人は「鍛冶屋」なんて職業を知らなかったりします。
(私だって、おわんやという職業があることを知りませんでした)
どんな職業かわからないとどんな能力を要請されるのかわかりません。
わからなければその場で尋ねることになりますが
知っていればその場での会話がより弾むことになります。

目の前にいる方がどんな風に暮らしてきたのか
イメージできることがポイントになります。
もちろん、誰だって最初から明確に具体的にイメージできるわけではなくて
その人を全面的にイメージできるわけでもなくて
ただし、その時その場のその関係性において
ありありとイメージできたことは確かな事実となります。

そのためにも事前に
当時の時代背景や風物詩、ニュースや流行していたものを
知識として知っているかいないか、ということは大きな違いになります。
まずは、それらを事前に調べておく
その方の出身の名所・名産品などを調べておく
そんな努力は今すぐにできます。
その上で尋ねると、具体的に尋ねることが可能となります。

今はネットで知りたい情報にアクセスするのが容易です。
「認知症のある方でもできるレク」
なんて情報を知るために努力するのではなくて
(一時凌ぎ、時間稼ぎとしては、アリかもしれませんが)
根本的な情報収集にこそ努力する方が
短期的には手間かもしれませんが、長期的にはよっぽど有効です。
そうやって調べた情報が回り回って他の方にも適用できたりします。
そのような努力を蓄積していけば多面的に知識を増やせることになり
さまざまな方への対応に有効活用できます。

対話に際して、伝わり具合の実感の差となって滲み出るものです。

認知症のある方に
「昔はそういうものだったじゃない?」
「みんな、そうだったよね?」
「なぁ?」
などと同意が返ってくることを確信されたようなお言葉を頂戴するたびに
(えー私はその時まだ生まれていないんだけど)
と思いつつも、内心ちょっとは嬉しかったものです。

その方のバックボーンに触れながら話を聞く
時には視覚的に情報を提供しながら話を聞く
(例えば、当時のニュース場面や風物の写真などを見せながら)
そうすると、いきいきと話をしてくださったり
広がりと深みのあるお話を聞くことが可能となります。

そして得られた情報は
今、この時、私自身が活用できる根拠となると同時に
認知症のある方が次に移る施設のスタッフにとっても有効活用できる根拠となります。

もしも、
認知症のある方にActivityを提供して拒否された時に
折り紙とか塗り絵とか手当たり次第に
漫然と「何かしている風」を装って「何かをさせる」のではなくて

人間としては、拒否されたことによるショックは受け止めても
プロとしては、拒否を情報収集の機会と捉えて次の手を打つ
ということが大切だと考えています。

何かする、していることが良いわけじゃない

していることに充実感を感じられるような
そして、することそのものに
自分が自分であることを再体験・再認識できるような
そんなActivityが提供できると
「できることをやらせる」
「徘徊しないようにできることを探す」なんてことはできなくなります。

そして
Activityの意味をその都度、対象化・抽象化・概念化する努力を重ねていると
作業療法とは何ぞや
ということを実感を伴って理解することができるようになっていきます。

  作業療法とは何だろう?
  それは考えることではなくて実践することです。
  結果を出してから、固有のケースごとに具体的に考えることです。
  誰かと語り合うものではありません。

  パイロットがパイロットとは何だろう?
  なんて考えているでしょうか?
  同僚と語り合っているでしょうか?
  それぞれの考えは考えですけど
  まずは、自分の技量を高めることに日々努力しているのではないでしょうか?

Activityは本当に大きなパワーを持っています。
大きなパワーを持つものは、逆効果となった時のマイナスの作用も大きいものです。

認知症のある方に良かれと思って提供したけれど
結果的にであったとしても傷つけてしまったということはありませんか?

どうしたらそのようなマイナスとなることを回避できるか
「まず第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの言葉の最初に書かれていると日野原重明は言っていました。
「患者は患者であるというだけで傷ついている」
そこから出発する。

認知症のある方に嫌がられたけど
この20分、どうしたらいいんだろう?
無理矢理させることはしたくない
でもどうしたらいいのか、わからない
先輩に聞いてもよくわからない
なんだか誤魔化されたような気がして納得できない

どこかでそんな悩みを抱えている人の力になれますように。。。
かつて一人でもがいていた過去の私が欲しかった答えです。

 


Act.を拒否された時:戦略的待機

 
Act.ができそうなのに拒否された時に
私がどうしているかというと。。。

まず、
「無理に誘ってごめんなさい。」
「また機会があったら」
「もし気が向くことがあったらその時にでも」
と言ってすぐに引き下がります。

でも、
拒否されてそれでおしまい。というわけではなくて
認知症のある方が拒否するには拒否するだけの必然があるので、そこを考えます。

多くの場合に
認知症のある方に私たちが出会った時点で
認知症のある方はすでにたくさんの失敗体験・喪失体験を重ねてきています。
同時に、日常生活においても失敗体験や混乱・不安にたびたび遭遇し続けています。

そんな中で
かつて得意だったことでも、やったことのないことでも
「やってみませんか?」と提示されたことに対して
不安に思ったり、心配な気持ちになるのは当然のことだと思います。

もしも、グループの中でAct.を提供する場であれば
代わりに「これならできる!」と確信していただけるものを提示します。

私は今、重度の認知症のある方を対象として働いているので
体操と音楽を評価の入り口として設定しています。
体操はラジオ体操第一とみんなの体操
音楽は懐メロの視聴です。

  その時点で
  この方は、こういう特性があるし、こういう能力があるし、こういう困難には
  こういった場面設定で工夫しようという私の側の判断があって
  あるAct.を第一候補として選択しています。
  詳細は「Activityの選択・工夫あれこれ」をご参照ください。

「これならできる!」と確信していただけるものを選択できるようになるのは
私たちの側の責務だと考えています。
ここは、特性に沿ったものを選択できるのが一番ですが
仮に、特性に沿ったものの判断ができず、能力に沿って選択したとしても
ここできちんと遂行の仕方を評価しておくことが重要です。

多くの場合に、「(認知症でも)できることがあった」ということで
職員の側が安心してしまい、それ以上の評価をしないことが多々あります。
だから往々にして、認知症のある方に塗り絵を提供してそれでよし
となる場合が多いのではないでしょうか。

目の前にいる方の適切なAct.選択の入口として
塗り絵を提供するのは良いと思いますが、
塗り絵なら座ってくれる。塗り絵ならやってくれる。
という安易な気持ちで漫然と塗り絵を提供するのはどうかと思います。

塗り絵が適切な方もそうでない方もいるからです。

塗り絵が適切な方は、
表現活動を楽しまれる方です。
色の塗り方をご自身で工夫しようという気持ちのある方
工夫をその方なりに見出し、実践する方です。

塗り絵が適切でない方は、
ただ、枠の中を塗りつぶすことが遂行目的となってしまいます。
もちろん、そのような遂行の仕方が間違いというわけではありません。
でも、「色を塗る=楽しむ」ではなくて「色を塗る=塗ることそのものが目的」
という場合には、他のAct.の方が適切だったりします。

Activityの選択というのは
良し悪し ではなくて適不適 なのです。
ましてや、可否ではありません。

作業療法の原語であるOccupy
その方がどんな風にOccupyしてきたのか
理解し、受け止め、今も変わらないということを
言葉ではなくActivityというカタチで媒介し伝え合うことができるから
Occupational Therapy なのです。

ちょっと脱線してしまいましたが
話を元に戻して

第一候補のAct.でなくても
遂行の仕方をきちんと観察・洞察することができれば
自分の判断の確認ができます。

認知症のある方も「できた!」「大丈夫だった!」という体験を積み重ねることで
やってみようかな?という気持ちが芽生えてきます。
そのサインを見逃さないことです。
チラチラと見ていたり
やたらと眼が合うような時は、チャンスです。

並行集団の良さは、こういうところにあります。
私はずっと課題集団と並行集団を使い分けてきています。
いろいろな人がいろいろなことをやっている
同じ時間と場を共有はしているけれど、することは人それぞれ異なる
というのが並行集団です。

いろんな人がいるんだな
いろんなことをやるんだな
ということを体験を通して実感できる場がある
ということを大切にしています。

その時を逃さずに声をかけることと
その時に失敗させないように工程を説明することがポイントとなります。
工程を説明する時には「言葉」と「実演という視覚的説明」を
意識して使い分けています。

私も若い時には、実演しながら「ここをこうしてこうやって」という説明をしていたことがありました。。。
ある時、ハッと気がついて以来そのような説明の仕方はやめています。

「ここをこうしてこうやって」
という説明は構成障害のある方には、かえってわかりにくい逆効果になってしまう説明です。
そして、実は、説明する本人が「ここをこうしてこうやって」という内容を
曖昧にしか理解していないという側面があります。
「ここ」がどこなのか
「こうして」とはどうすることなのか
「こうやって」とはどうすることなのか
明確化できていないから、なんとなくやっているから
「こう」としか言えないのです。

実演する過程で
「何を」「どのように」見ていただくのか
言葉にする時には
「何を」言うのか
ということを明確にして伝えています。

このあたりが曖昧になっている人って結構いるものです。
そのために認知症のある方が混乱している。
でも自分の曖昧さには気がつけないから
何が起こっているのかわからない
だから自己修正が効かない
だから認知症のある方も拒否してしまう
でも自覚がないから、それらすべてを「認知症のせい」にされてしまう

なんということでしょうか。。。

逆に言えば
私たちが自覚的になれば、今すぐに誰にでも修正できることです。
新たに論文を読んだり
研修に出かけたりせずとも
お金も時間もかけずに、自身の言動に明敏になることによってできることです。

  でもこういうことこそが、一番手を抜かれるところなんですよね。。。

話があちこちに飛んでしまいましたが
まとめると。。。
 
認知症のある方がAct.をできそうなのに拒否する時には
1)これならできる!と確信してもらえそうなAct.を次善の策として提案する
2)拒否なく応じてもらえたAct.の遂行の仕方を観察・洞察する
3)導入のタイミングを見逃さない
4)導入の仕方に注意する

もうひとつは
マンツーマンでの対応の仕方で
認知症のある方に話を聞く というものです。
これは次の記事でご説明します。

 

Act.を拒否された時:拒否は情報収集の機会

 


Activityができそうなのに拒否されることもありますよね?

拒否されるとメゲてしまうかもしれませんが
メゲてる場合じゃありません!
拒否は情報収集のチャンスなんです。

具体的にどのように対応するかは後述しますが
その前に。

Act.だけではなくて
認知症のある方へ対応しようとして
暴言や暴力や介護抵抗があると
正直、しんどいですよね。

そうすると
無意識の自己防衛から
「どうしたら暴言や暴力や介護抵抗を受けずに済むだろうか」
という観点に立って物事を考えようとしてしまいます。

でも、そうじゃない。
気持ちはよくわかるけど。

そのような観点に立って
為されたことが効果があるわけがない。
(だって、自己防衛の観点で対象者の観点ではないもの)
仮に短期的に効果があったとしても
長期的にはむしろ逆効果にしかならない。

ここで、私は決して
介助者が我慢すべき。などといっているわけではありません。

我慢することではないけれど
拒否された、その時その場にいる人が
一番よく状況をわかるのです。

どのような場面で
どのような状態像の方に
どんな関与をしたら
拒否されたのか

ここは、情報収集のチャンスなんです。

拒否は表面的な言動であって
必ず、拒否というカタチに現れている障害と能力があります。

そこを観察・洞察すれば
本質的な改善のミチがひらけてきます。

検査はするけど
貴重な情報収集の機会を逃している人って大勢います。
情報収集せずに「どうしたら良いか?」考えても
適切な介入方法が得られるわけがありません。

私たちは
客観性や科学的であるということを誤解させられてきたと思う。

人文科学に寄与する私たち対人援助職がすべきことは
科学的・論理的・合理的な観察ができるように
観察の精度を高めることであって
観察を否定することではない。
 
検査には検査の意義があるけれど
観察より検査の方が価値が高いわけではない。

観察とは
「ちゃんと関わっているのに拒否する」
といった表面的な言動ではなく
認知症のある方にとっての
環境の一因子としての私たち自身の言動も含めた「場」と
拒否という言動に反映されている能力と障害と特性を把握することです。

そうすると
回避すべき場面を明確に具体的に設定することができるようになります。