?「刺激がないと認知症が進行する」

  


現場あるあるの根深い誤解
「刺激がないと認知症が進行する」
「何かやらせないと」
「できることない?」

ヒトの筋肉は
動いている部位だけが働いているわけでなく
静止していても姿勢保持のために働いているように

認知症のある方が
何も言わないからといって何も考えていないわけではありません。

その場面場面で
どのように状況を判断しどのように対処しようとしているのか
行動というもうひとつの言葉を通して聴くことができる人は
冒頭のような言葉を言えないし言わないと思います。

善意からであったとしても
不適切なことをやらせて結果として逆効果になることは多々あります。

地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている

やればいいってものではありません。

その代表例がゲームであり、塗り絵です。

ゲームはルールがあります。
ゲームを楽しめるためには
(1)ルールの説明を聞いて理解し
(2)説明されたルールを覚えておき
(3)ルールに従って行動できるという
近時記憶障害のある方には高度なメタ認識を要請されます。

ペットボトルボーリングのように
「投げる」という簡単な行動だから
認知症があってもできるだろうと考える人は多いようですが
そして確かに実際「投げる」ことはできたとしても
マンツーマンで行うゲームではありませんから
待ち時間の長さに何をしていたのか忘れてしまう方も多いのではないでしょうか。
(もちろん近時記憶が保たれていたり、
 他者を応援することを楽しめる方もいますが)

塗り絵もケアやリハで多用されているActivityですが
自身の行動の結果が明確に現れるので
表現を楽しめる、丁寧に行う特性のある方には良くても
仕事づくめの一生だった方は遊んでいるようなことは罪悪感や抵抗感があったり
大雑把な性格の方は塗りつぶしが多くて見た目が残念なことを感受して嫌になったり
ということも往々にして起こります。
 
「認知症が進行しないように塗り絵をしましょう」
と言って「やらせる」ことに違和感や抵抗感を抱いている人もいると思います。
でも何がどう良くないのか、他にもっと良いことを提案できないから
口をつぐむしかない。。。
悔しいですよね。

そんな時はぜひ
「Activityの選択・工夫について」 をご参照ください。

私が奨励するのは、課題集団ではなくて並行集団です。
同じ時間と同じ場を共有するけれど個々それぞれ異なるActivityを行う方法です。

参加される認知症のある方自身が
いろいろな人がいるんだな、いろいろなことをやるんだな
ということを体験を通して感じることができます。

何もみんな揃って同じことをする必要はないんです。

「やる」「やらせる」ことのデメリットについて
もっと検討されて然るべき時期に来ていると考えています。








飲食摂取量が少ない方

  


食事摂取量や水分摂取量が少ない方に遭遇することも多々あります。

そんな時に
「ちゃんと食べてね」
「もっと食べてね」
「食べなきゃダメよ」
と言う職員は、まだまだ多いようです。。。

私は
「食べてねと言う」のではなくて、
「食べられるようになる」ために何をするのが適切なのかを考えます。
そのために、その方にとって「食べられない必然」を、
今何がその方に起こっているのかを、観察します。

まずは、事前情報を確認して
既往歴や現病歴を把握し
体温表を確認して
摂取量やその変動と緊急性の有無を判断して
それから食べ方を観察しています。

疾患や医学的緊急性がなくて
摂食・嚥下5相にも問題がなければ気持ちの問題を考慮します。

精神科病院に入院しなくてはならないほどに
原因が何であれ混乱状態に陥った方は
周囲の方だけでなく、当のご本人も心身ともに疲弊しています。

軽いうつ状態にあることも少なくありません。

当然、食欲もあんまりない。。。

提供されたトレーの上に整然と並んだお食事の見た目のボリュームに
圧倒されてしまって一層食べる気持ちが失せてしまう。。。

このような状態のある方が
「ちゃんと食べてね」
「もっと食べてね」
「食べなきゃダメよ」
「飲まなきゃダメよ」
と言われたらどう感じるでしょうか?

飲食することに関して医学的緊急性がない
気持ちの問題が大きいと判断した時には
見た目の負担を軽減するようにします。
つまり、1回の提供量を減らします。

見た目にコンパクトな栄養補助食品を提供したり
小さめのコップに半分だけ飲み物を入れて提供したり
これだけなら飲めるかも?と思っていただけるような
飲食場面を提供します。

声かけも
「これだけは全部飲み切ってください」
なんて絶対に言いません。
「もし飲めたら飲めるだけでいいから召し上がってください」
と言います。

少しうたた寝をしていたら
室温を上げておいて
目覚めに冷たい飲み物を提供しますし
肌寒い時には暖かい飲み物を提供します。

味がはっきりわかるように、濃いめに入れたお茶を出したります。

そうすると
食堂では飲み渋っていた方が
一気にごくごくと飲み干す。。。なんてことは多々あります。

近時記憶障害が進行している場合も多いので
1回に100ml摂取できたら、しばらく時間を置いてから
もう一度小さめのコップに半分ほど
「飲めるだけでもどうぞ」とお出しします。
近時記憶障害が進行していれば
さっき飲んだことを忘れているので
初めての体験として飲み干してくれたりします。
  
どんなに勧められても食堂ではほとんど飲まなかった方が
リハ室では300〜400ml飲んでいる。。。とか、よくあります。

飲めた、食べた。。。という体験を蓄積していき
心身の疲弊も癒やされた頃には
いつの間にか通常量を食べられるようになっていくものです。

これらは直接援助の考え方ですが
同時に間接援助も行っていきます。
食欲不振になるくらい、辛い思いをしてこられたのだから
「今のままでも大丈夫なんだ」と実感できるような体験を援助していきます。
心身の疲弊からの回復を支え、結果として食欲も戻ってくるように。

「飲んで」と言うのではなく
「飲みたくなる」ように、その方の状態に応じて場面設定を行う。
「言う」のではなくて
飲む・食べるられるように「援助する」のが私の仕事ですから。

  「ちゃんと食べてね」「もっと食べてね」って言うだけなら
  近所の人でも誰にでもできますよね?
  もしかしたら近所の人の中にも
  そう言ってしまうことの弊害を慮って躊躇する人だっているかもしれません。

飲食の摂取量が少ない
   ↓
飲食の摂取量を上げるためにどうしたら良いか? と考えることは
たとえ無自覚であったとしても、
食べることの援助ではなくて
食べさせるための工夫になってしまいます。

 

飲食の摂取量が少ない
   ↓
飲食の摂取量が少ないという事実に反映されている
その方の状態像、つまり
疾患、既往、脱水や低栄養の有無、摂食・嚥下5相、心身の疲弊
元々の摂取状況や好みなどを把握する
   ↓
無理なく摂取できる場面設定
   ↓
飲めた、食べられたという体験の蓄積と再認体験の反復
心身の回復
   ↓
摂取量改善

という道を辿るケースもたくさんあります。

 

多訴の方への対応


「認知症のある方の訴えが多くて困る」という声もよく聞きます。
 
確かに
認知症のある方の中には
同じ訴えを繰り返す方も少なくありません。

しかも、同じ訴えを繰り返す方の声は
たいてい、悲痛な声なので
「同じ訴えを繰り返す」という表現をしていますが
実は、あんな声を聞くのはイヤというのが本音だったりします。

職員だって人間ですから
ナマの感情として、そのように感じる
という現実を否定はできません。

だからといって
イヤイヤな内心をそのまま表現してしまったり
あるいは隠そうとはしても隠しきれずに
認知症のある方にぶっきらぼうに対応するのは
プロとしてどうなんだろう?とも思いますよね。

じゃあ、どうしたら良いのか
  
たいていの人は
「どうしたら訴えをなくせるのか」
と考えます。

   そのように問題設定を考える人は
   表面的に訴えをしないように説得したり抑圧しようとしがちです。
   言葉は丁寧でも口調は強く大きな声で
   従わざるを得ない雰囲気を醸し出しています。
   認知症のある方は空気を読み取る能力があるから
   従わざるを得ないという。。。
   そして「訴えなくなった→良い対応だった」と判断されるという。。。
   単に我慢を要請し、抑圧しているだけなのに。
   このような対応は、仮にその場は良くても長期的には逆効果になります。
   抑圧させているだけなので、
   抑圧しなくても良い場面あるいは
   抑圧することができなくなった時に一気に吹き出してきます。
   それを症状悪化と呼ぶという。。。
   現場あるあるです。
   こういったことは、同じコトが違うカタチでいろいろと起こっています。

ここがすでに問題設定の問題になっています。

「どうしたら訴えをなくせるのか」という問題設定は
誰にとっての問題を意味しているのでしょうか?

認知症のある方の困りごとを援助するという立場に立てば
繰り返し同じ訴えをするという行動に
反映されているコトは何なのだろうか?
という問題設定になるのではないでしょうか?

たとえば
よくある訴えが排尿関係の訴えです。
「おしっこが出ちゃう」と言って頻回にトイレに行きたがります。
実際にトイレに行ってみても出ないか、あるいはごく少量しか出なかったり。。。
そのような方の場合には
実はしっかりと排尿しきれず残尿感があるために尿意を感じ続ける
というケースが少なくありません。
であれば「トイレに行きたい」と繰り返し同じ訴えをするのは
正当な訴えということになります。
だとすると考えるべきは
いかに「トイレの訴えを減らすか、なくすか」ではなくて
「どうしたら残尿を減らせるか」という技術的な問題になります。

あるいは
何か集中できるActivityをしている時にはトイレ希望がない
というケースもよくあります。
このようなケースに対しては表面的に
「何か気持ちをそらせることをやらせましょう」という対応になりがちです。
そのような場合によくあるのが
「おしっこが出たい」のではなくて
「おしっこで失敗したくない」
 →「失敗したくない気持ちの具体例がおしっこを漏らしたくない」
ということもよくあります。
つまり、尿意は本当の問題ではない。
根底にあるのは、自身の不全感への不安であって
その不安が排泄の訴えとして現れている場合です。
このような場合に単純に気持ちを紛らわせることばかり考えて
認知症のある方の能力よりも高度なActivityをやらせて
かえって不全感を強めてしまい
「トイレ」「トイレ」と訴えが増えてしまうこともよくあります。

  現場あるあるなのが
  認知症のある方の遂行機能や構成障害などの能力や障害が把握できていないのに
  「これなら簡単だからできるだろう」と提供する職員がとても多いことです。
  毛糸モップは段階付けが多様に行えるので
  幅広い状態の方に適用できるActivityではありますが
  決して遂行が容易ではなくて、
  構成障害のある認知症のある方にとっては難しいこともよくあります。

  
自身の不全感への不安が根底にある場合に
達成感や安心感を内的に感受できるような体験が
Activityを通して体験できて、その体験を蓄積できるようになると
トイレの訴えがなくなったり、減ることはあり得ます。
ただし、近時記憶が低下しているので体験している場面ではよくても
体験以外の場面では難しいこともあります。
体験を忘れてしまうから日常生活全般への汎化は難しいのです。
 
  逆に言えば、Activity以外でも達成感や安心感を感受できれば良い
  ということになります。
  
  ちょっと話はそれますが
  特定の方に用事がある時に

  食堂やホールなど複数の方が集まる場所に出向く時には
  用事がない方にも必ずアイコンタクトをして会釈だけはするようにしています。
  「今はあなたに用事はないけど、あなたのことを気に留めています」
  ということを伝えるためです。
  用事のない方の前を見向きもせずに通り過ぎる人も多いけれど
  それって「あなたには用事も関心もない」と態度で言っているも同じです。

  また、この対応をしているおかげで
  実際に体調不良の方の早期発見をしたこともあります。
  私の他にこのような対応をしているのは、以前にいた医師だけです。
  他の対応全般と同様に、実践している人にはわかっても
  実践していない人には「何をしているかわからない」「見れども観えず」
  となっていて、しかもその自覚がないのです。。。

  多くの人は、自分にとっての問題というカタチでモノゴトが表面化した時に
  どうしたら良いのか?と考えます。
  対応が後手に回っているし、視点が自己中心ということに無自覚なのです。
  だから的確な対応が浮かぶはずがないのです。。。

  リハ室に来た方が
  「あーここに来るとホッとする」と言われると私もホッとします。
  そういう場所を作れて良かったと思います。
  問題が起こる前に環境づくりの一環として
  お金もかけず、エネルギーも使わずに私たちができることはまだまだあります。
  施設方針として敬語を奨励するくらいなら
  「用事のない方の前を黙って通り過ぎない」ことを奨励した方が
  よっぽど建設的だと思っています。
   
こういった事象を表面的にしか捉えられない人は
「やっぱり気持ちをそらせるべき」という判断になりがちですが
似て異なるもの、それは違うのです。

  これは私の推測ですが。。。
  アルツハイマー型認知症のある方は
  今よりもずっと社会的規範が明確にあり
  それらに従うことを要請され
  躾の厳しい時代を過ごしてこられました。
  両親から厳しい躾をされたり
  あるいは自己防衛から自主的に内面化し
  不安感を抱えた幼少期を過ごした方が
  高齢になり、近時記憶障害があるために、

  今までは抑圧できていた不安が抑圧しきれなくなり
  現在の不安感というカタチで表現されている
  可能性もあるのではないかと考えています。
  現在の不安や心配を抱いた時に、
  それらの「感情」を抱いた過去の記憶が蘇り
  余計に不安になってしまうと考えています。

だからこそ
イマ、ポジティブな体験をすることに意義があります。
HDS-R3点の方でも、1分前のことを忘れてしまう方でも
再認することができる方もいます。
現在の安心感という「感情」をきっかけとして
過去の安心感を抱いた体験を想起することも起こり得ます。

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きます。
イマ・ココでポジティブな体験をするために
体験構成の一因子である私たち職員の関与の質が問われます。

訴えが多い方に私がよくしていることは
ひとつには、不安や心配な気持ちの表出を促すことです。
不安や心配な気持ちを誤魔化したり気持ちをそらせるのではなくて
そう感じても良いのだと
何が心配なのか語ってもらいます。

  ここは バリデーション の出番です。

もう一つは、不安の表明があってから対応するのではなくて
不安の表明がない時でも常に大丈夫なのだと、よく頑張っているのを知っていると
最小限の言葉と、表情と声のトーンと態度という非言語の両面で伝え続けることです。

「どうしたら良いの?」「これで良いの?」と言葉で不安を訴える方には
訴えがあってから対応するのではなくて
訴えがない時から、アイコンタクトや笑顔、うなづきやハンドサインやジェスチャー
という非言語な表現を多用して、言葉以外で伝えます。
同じくアイコンタクトやうなづきやハンドサインでお返事をしてくれるようになれば
「悲痛な声」を聞かなくて済むこともあります。

「どうしたら良いの?」と悲痛な声で繰り返されると職員も疲弊してしまいますが
お茶目なハンドサインで表現が返ってくれば「悲痛な声」を聞くこともなくなるので
その方とのコミュニケーションをポジティブな気持ちで提供できるようになります。
その結果、情緒的に安定し、結果として訴えが減少することもあります。

  訴えが多い方に対して「依存的」と判断する職員は多いようですが
  実は困った時には他者に尋ねるという特性が若い頃からみられていた方だとすると
  内在する不安を自分で処理するのではなく身近な誰かによく相談するタイプ
  だったということかもしれません。
  であるならば、その特性を逆に活かして、非言語での交流に切り替えれば
  周囲も受け入れやすくなります。
  (余談ですが、不思議なもので
  「依存的」と判断したり、我慢を要請する職員に限って、
   受け入れやすい行動へ変容した時には
   打って変わって、ニコニコと接するようになります。。。)
  
ここでのポイントは
訴えの根底にある不安感からくる確認行動を否定せず
「多訴」「依存的」という行動を修正・改善することを考えるのではなくて

確認せざるを得ないというニーズに基づいた表現手段を
悲痛な声で表出する(つまりそれだけ切実なのです)言語から
周囲が受け入れやすい非言語へと行動変容を促すことにあります。

かつて
「ねぇ」と繰り返し発言する方がいました。
理由を尋ねても答えず(答えられず)ということが続くと
だんだん職員の対応も遠ざかってしまいます。
そうすると「ねぇ」だけが頻回に大きな声で繰り返されてしまいます。

大きな声で繰り返される「ねぇ」は本当に治療されるべきBPSDでしょうか?

私は、その方の真正面に座りました。
「ねぇ」と言われた時には「はい」と答えました。
そうすると真っ直ぐに私の顔を見てすぐにうつむきます。
しばらくするとまた「ねぇ」と言います。
「はい」と答えました。
しばらく繰り返していたら
その方は無言で顔を上げ、私の顔を見るとまたうつむくことを繰り返すようになりました。
その方の正面の席を立っても遠くからでもその方に視線を送るようにしました。
その方は私を探してちゃんとアイコンタクトをとります。
その後、アイコンタクトが担保されたことが確信できたのか
「ねぇ」という声を聞くことは無くなりました。

この方は、「ねぇ」以外の言葉を発することができなかったので
推測することしかできませんが
「ねぇ」以外に言語表現力がなければ
何かを伝えたい時には「ねぇ」と言うしかありません。
そして伝えたい気持ちが強ければ強いほど
唯一言える言葉である「ねぇ」を繰り返し大きな声で言うしかなかったのだと思います。
近時記憶障害が高度であれば、1分前のことも忘れてしまいますから
結果として同じ訴えを繰り返すように見えます。
 
  説得に走る人がよく使う「さっきも言いましたけれど」と言う言葉は
  効果がないどころか逆効果にしかなりません。
  そう言う職員は対応のネタ切れに陥っているのだと思いますが
 「さっきも言ったけれど」と言うことは
  暗に「もう言うなよ」と思っている
から言える言葉です。

  そして、その感情は確実に伝わっています
  認知症のある方は、この人に言ってもムダだと感受します。
  だから言わなくはなります。
  (忘れてしまって繰り返すことはありますが、すぐに引き下がります)

  職員は自分にとっての問題を解決はしましたが
  (だから、自分のとった方法が良いと主張します)
  認知症のある方にとっての問題は解決されてはいません。
  我慢、抑圧
させられただけです。

また、2−3分前のことも忘れてしまうくらい近時記憶が低下している別の方がいました。
この方が繰り返し痛みを訴えるような時には悲痛な表情で悲痛な声で訴えられます。
(痛みの原因はわかっていて対症療法しかできないケースです)
対応する職員の中には、言葉は丁寧でもぞんざいな口調と表情で対応する人もいます。
そのような人は無自覚であっても、
非言語な表出に反映されている本音はちゃんと伝わってしまいますから
認知症のある方は、なんとか自身の辛さをわかってもらおうとして
もっと悲痛な表情でもっと悲痛な声で痛みを訴えるようになります。
そうした悪循環を作っているのは職員の側なんです。

よくよく観察すれば
痛みを訴えない時間と場面があって
その方は自身でなんとか自制しようとしていることを意味していると感じています。

  (このようなケースでは往々にして
   構ってほしいアピールなんだと判断する職員もいますが
   そのような職員と対象者の方が善き関係性を築いているケースを
   見たことはありません)

痛いは痛いけれど、なんとか辛抱しようとしている
辛抱できる時もある
でも辛抱しきれない時もある

ここに可能性があります。
私には痛みを減らすことはできませんが
その方の自制しようとする気持ちを支え続けることならできます。
 
こちらも悲痛な表情で悲痛な声で痛みを受け止めようとしていることを伝えます。
2−3分ごとに繰り返される訴えに、こちらもその都度同じことを繰り返します。
同時にその方が自制しやすい場面を確認していきます。
他者との交流なのか
自身が達成感を抱けるActivityなのか
ヒトなのか、モノなのか、コトなのか、多くの場合は複合しているものです。
それらを提供することによって痛みの訴えはゼロにならなくても
痛みとともに暮らしていけるようになっていきます。

訴えの多い方に対して
どうしたら訴えをなくすことができるのか考える
という対応は現場あるあるですが
この問題設定は、誰のための問題なのでしょうか?

私たちの仕事は
認知症のある方の暮らしの支援のはずですが
いつの間にか、私たちの問題と認知症のある方が抱える困難とを混同していないでしょうか?
  
抽象的総論的に良いことを語る人たちが
具体的現実的に解決策を提案できないというのも現場あるあるです。

  具体的現実的に解決できないから
  過剰に抽象的総論的に語ることで補償する
  自己防衛しようとしているのではないかと考えています。
  無自覚でしょうけれど。
  理想は語るものでも唱えるものでもなく具現化していくものです。
  ところが、残念なことに
  理想と実践の乖離が進んでいる側面もあるのではないでしょうか。
  乖離に疑問を抱かざるをえない真摯に地道に働く職員が辛い思いを抱え
  認知症のある方も余分な困難を抱え
  本当の問題が表面化しにくくなっているのではないでしょうか?
  だからこそ、私が具体的現実的な考え方と具体例を提案する、表明することに
  意義があると考えています。

問題設定の問題

正しく聞くことができないから
正しい答えが返ってこない
だとしたら、検討すべきは聞き方であって答えではない。

食事介助で
「口を開けてくれない方がどうしたら口を開けて食べてくれるようになるか」
という問題設定と全く同じコトが違うカタチで
対応の工夫全般でも起こっているだけなんです。

それは、問題設定が悪いからなんです。
認知症のある方への支援に携わっている人たちの現場には
問題設定の問題が蔓延っていることに気がつければ
問題設定に意識的に取り組めるようになり、改善への道を模索できるようになります。
ここに未来への希望があります。

  

敬語奨励では解決できない問題

 


問題設定の問題、手段の目的化、手段と目的の混同って
リハやケアの分野で往々にして起こっていることです。

その一つが敬語問題だと感じています。

声かけの工夫 のコンテンツのところで記載・問題提起済みですし
講演でも説明していることですが
「敬語を使わないと叱られる」という施設があると多々聞いています。

そのたびに
あぁ、またか。。。
なんと安易な。。。
とガッカリします。

敬語を使うのは手段であって
敬意を示す、伝えることが本来の目的ですよね?

  もちろん、そういう方針の施設は
  「良かれ」と思っての善意からの方針なのだと思います。
  ですが!
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」
  「地獄には善意が、天国には善行が満ちている」
  という言葉がある通りに、善意ほど恐ろしいものはありません。。。

認知症のある方に対して、
幼児に対するような声掛けをしないために
敬語を使いましょうという考え方はわからなくはありません。

でも、問題は2つあります。

ひとつは
幼児のような声掛けは確かに失礼なことではありますが
もしかしたら無自覚のうちに認知症のある方の言語理解力の低下を感受した職員が
分かりやすいように単語中心の声掛けを重ねていた
ただし、無自覚に行なっていたことなので説明できなかった可能性について
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題

もうひとつは
確かに敬語を使うように指導するのは
今すぐにできることの一つなのでしょうけれど
敬語を使うことを奨励するのではなく
敬意を自然と抱けるように職員を養成することについて
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題です。

問題設定を的確に行えないと
得てして解決策も表面的になりがちです。
そして、解決策が有効でないという結果になりがちです。
ここできちんと現実を観察・洞察できなければ
すでに起こっている問題を見逃してしまうことすら起こり得ます。

敬語を使うように奨励するだけでは問題の本質的な解決につながらない
という事象がすでに起こっているはずだと思います。
つまり、声かけが有効に機能しない、意思疎通困難な事例が増えたように見える
という事象です。
優秀な人は、この現実に気がついていると思いますが、
敬語使用によって問題が惹起されてしまうこともあるのだとは
認識できていないのではないでしょうか?

敬語の特徴として
婉曲な表現、長い文章表現という特徴
があります。

「御御足を上げてくださいませ」という声掛けで理解できなかった方が
「足、上げて」でちゃんと足を上げられた
というケースがありました。
 
丁寧に長い文章で伝えたのに
「そんなに長ったらしく言われたってわかんないんだよ!」
と怒鳴られたことがありましたって教えてくださったご家族もいました。

また、
聞き間違いをする認知症のある方もたくさんいます。
聞き取りにくい時に必ず聞き返してくださる方もいれば
適当に相槌を打ってしまう方もいます。

そして、
言葉としては確かに敬語を使ってはいても
強い口調で早口で大声で話す職員も少なくありません。
当然、認知症のある方は怒りますが
 
  言葉ではなく、口調や早さや声量が伝えてしまう
  本音、本当の感情に対して怒り、理不尽さを感じるのです。
  言葉が伝えるコトとノンバーバルが伝えてしまうコトとの乖離に
  混乱する方だっているでしょう。

 
当の職員は(敬語を使っているが故に)
自身のノンバーバルな表現のマズさを自覚せず
認知症だからわからないという自身の誤認を強めてしまう。。。
現場あるあるではないでしょうか?

言葉は伝わって初めて言葉として機能します。
伝わらない敬語に、言葉としての意味、声かけとしての意味が
どれだけあるのでしょうか。

真に検討すべきは
普通だったら幼児に対するような声掛けをするはずのない大人が
なぜそんな声掛けをしたのか、
「敬語を使いましょう」という正義のみ旗に屈することではなくて
ひとつひとつの場面で具体的に本当は何が起こっていたのかを
事実を事実として振り返り検証する作業だったのではないでしょうか。

私の実践と提案です。

敬意は敬語を使わなくても伝わります。
敬意は言葉以外のノンバーバルな表現で伝えます。

  ノンバーバルな表現の伝える影響力については
  メラビアンの法則ですでに言われていることです。

 
その代わり、明確に伝えたい事柄はその方の理解力に応じて
必要であれば単語中心で伝えます。

もっというと
敬意の伝え方を意識するよりも
認知症のある方の能力を見出せるようになれば

自然に敬意を抱けるようになり
幼児扱いなんてできなくなります。
こちらの方が本来の在り方ではないでしょうか?

遠回りのようでいて
一番確実な方法だと思います。

認知症のある方への話しかける時の姿勢や距離の取り方や
間合い、声量、口調、早さ、表情。。。
ノンバーバルな表出には
敬意もそうでない感情も滲み出てしまいます。

逆に言えば
表面的に敬語にこだわりすぎる人は
肝腎要の敬意を抱いていないという本音を覆い隠そうとしているのでは?
という疑念を抱いています。

心の中では認知症のある方に敬意を抱けないから
敬語を使って誤魔化そうとしている。。。
どこまで自覚的かはともかくとして。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は敬語を使うなと言っているわけではありません。
理解できる方には敬語を使っていますし
分離礼を用いて挨拶することもあります。
ただし、敬語を使えば問題が解決するわけではないし
敬語を使うことによって本質的な問題の抑圧・隠蔽につながりはしないか?
敬意を伝えるカタチを指導するのではなくて
敬意を抱けるような養成が先ではないのか?という指摘です。

問題設定の問題、手段と目的の混同とすり替え
いろいろなカタチで現れています。

その具体例が
「なじみの関係を作って誘導に応じてもらう」という考え方・実践であり
「敬語を奨励する」という考え方・実践だと感じています。
「褒めてあげることが大事」というのもそうですね。

おかしいなと感じた時には
問題設定の問題に立ち返る
手段と目的を明確にすることで
問題の本質を把握し、真に解決への道を見つけられると考えています。

プロフェッショナリズムは実践でしか身につかない

プロフェッショナリズムは実践によって磨かれる


卒業推奨「なじみの関係→誘導」

 

 
リハへの誘導に際して困っているという場合には
実は、認知症のある方の状態が把握できていないという
職員側の問題が「認知症のある方が誘導に応じてくれない」というカタチで
現れているというケースが圧倒的に多いのです。

認知症のある方の
体調(睡眠、疲労、覚醒リズム)はもちろん
近時記憶、見当識、視空間認知、言語理解力、特性などなどの把握

最も重要なのは言語理解力です。
そして案外現場で確認されていないのも言語理解力です。

言語理解力には量的側面と質的側面があります。
量的側面とは、一度に受け取る言語の多さ・長さ
質的側面とは、「援助の言葉と意思表明の言葉」の違いであり
       「目的の言葉と手段(方法)の言葉」の違いです。

目の前にいる認知症のある方が
どんな言葉であれば理解しやすいのか把握したうえで
意図的に言葉を選び、使い分けることが必要です。

当然のことながら
声をかける時には、どちらの耳が聞き取りやすいのか確認する
そして、聞き間違いも多いので明瞭に発音する
ことに気をつけるのは言うまでもないことです。

また、何を言うかだけでなく
その時の口調や声の大きさ、視線などのノンバーバルな表出もコントロールすべきです。

そのうえで
先の記事でご説明したように
その方が再認しやすいように
キーとなる言葉を探したり、視覚的情報を提供します。

つまり、誘導時の声かけとは
すべてがその方の状態に応じて
評価にもとづいて選択されるものです。

認知症のある方がリハへ行くための援助」だからです。

決して、「リハへ行かせるための援助」ではありません。

さすがに、このご時世で認知症のある方への誘導に関して
無理矢理連れていくなんてことをしている人は少数派でしょうけれど
逆に「褒めておだてて言いくるめる」ようなやり方は増えているし
いまだに「毎朝訪室して挨拶してなじみの関係を作る」人も少なくないようです。
そのような対応は、もう卒業しましょう。

「なじみの関係を作る→誘導に応じてもらえる」
「顔見知りになる→言うことを聞いてもらえる」
というような実践は
  認知症のある方の状態像を把握していないからできる
  実は大雑把な方法
です。
リハへ行かせるための表面的な方法にすぎません。
  
しかも、この時にどんな言葉を選び、どんな風に伝えるのか
意図的に選択したうえで使い分けていなければ逆効果になってしまいます。
「何か言ってるけど何言ってるかわからない」
このような体験として再認した方は「うるさいからもう来るな!」と言うかもしれません。
そして易怒的とレッテルを貼られる。。。
リハを拒否すれば「意欲低下、やる気がない」とレッテルを貼られる。。。
認知症のある方の状態も改善されず
一生懸命毎朝訪室していた職員もガックリして落ち込んでしまう。。。
誰にとっても良いことがありません。

ただし、長い年月
漫然と為されていた方法論が継承されてしまったのには
それなりの理由があったのだろうと思います。
例えば「なじみの関係を作る」であれば
軽度だから職員に配慮できる方で効果があったように見えた、ザイオンス効果という論拠がある、情報収集や評価に手間をかけずにすむ、、、などなどの。

でも
認知症のある方にとっても、職員にとっても、もっと良い方法があるのだから
リハへの誘導のために毎朝訪室して挨拶するなどの漫然とした方法は
もう卒業しましょう。

「認知症のある方をうまくノセる」方法なんてないんです。
仮にあったとして、プロとして嫌じゃありませんか?
それって本当に援助と言えるでしょうか?
  
仮にあなたが「なじみの関係を作ったら誘導に応じてもらえた」としても
その意味を検証せず、あぁ良かったで終わりにしてしまう
単なるハウツーとして用いるのであれば
短期的には良くても長期的には望ましいことはありません。
認知症のある方にとっても、あなたにとっても。

一事が万事
他の事象に対してもハウツー的な表面的な対応をする思考回路になってしまいます。
認知症のある方は表面的な拒否というカタチに
反映されている意思や能力や困難を読み解いてもらえず
表面的に従うように要請されることを受け入れることになってしまいます。

きちんと状態を把握することに慣れていないうちは時間がかかります。
それは仕方のないことなのです。
今までやったことのないことをやるんですから。

モノゴトは何であれ誰であれ、習熟するには時間が必要です。
ここでいう時間とは、単なる経験年数のことではなくて
意図的に過ごす時間のことです。

  その間、自分のできなさから目を背けないことです。

  近くにいる先達は
  ちゃんとできるよ!ということをやってみせることです。
  そのうえで何をどうしていたのか言語化してあげることです。

未熟な時は辛いけど
その時にきちんと一つ一つをおろそかにせず
経験を経験として積み上げていけば
必ず自分自身の評価の能力すなわち観察力も洞察力も
量的にも質的にも高まっていきます。
 (ここをはしょると、なんちゃってOTになる)

知識は必要だし、検査やバッテリーも必要だけど
対人援助職として生涯をかけて研鑽すべきは観察力であり洞察力です。

ナイチンゲールの言葉です。
「経験をもたらすのは観察だけなのである。
 観察をしない女性が、50年あるいは60年
 病人のそばで過ごしたとしても
 決して賢い人間にはならないであろう」

  

ちょっとした工夫:カレンダー


カレンダーがあれば
日付の確認ができる認知症のある方も大勢います。
また、カレンダーとはなんぞや?がわかっても
今日がいつなのかが、わからない。。。という方もいます。

そんな方向けに、ちょっとした工夫をしています。
過ぎた日には、✖️印をつけて、
今日の日付のところにポストイットで矢印をつけて「今日」と書き込んでおきます。
「今日」という文言はなるべく矢印の先端がわかりやすくて良いと思います。

ちょっとしたことですが
歌詞の書写をしている方や
署名と日付を書き込む必要のある時に
大きなカレンダーとは別に卓上の1工夫したカレンダーがあると便利です。

予算があれば
日付や曜日まで一緒に表示される時計を欲しいところですが


今すぐにできる、ちょっとした工夫としてご紹介。

無理に広げるポジショニングからの卒業

 


ポジショニングは、まだまだ誤解が多いのが現場あるあるです。

拘縮や筋緊張が強い方に対して
拘縮変形予防のためと称して、
頑張って可動域を広げて広がったところに
無理矢理クッションを押し込むという。。。
そして、クッションを外すとぎゅーっと足や手が縮こまるという。。。
そこを見て、こんなに拘縮が強いからクッションできっちり広げないと
もっとひどくなっちゃうのよねと判断するという。。。

生活期にある方のポジショニングあるあるです。
気持ちが先走っていて逆効果になっているんです。

一生懸命頑張ってるのに効果が出ないどころか
どんどんひどくなっているのって、おかしいと思いませんか?

筋肉は多関節筋なので
無理に膝を伸ばすと
外見からは膝が伸びたように見えても
筋肉の働きとしては近位部として股関節はもっと収縮してしまいます。
だから、ちゃんとポジショニングしたのにだんだん悪くなるのです。

自分が気になるところしか見ていない
全体の中での関係を見ていない
概念の本質を理解していない
対象者のイマをネガティブなものとして捉え修正しようとする
対象者の動きと自分の介助とのやり取りをしていない
エトセトラエトセトラ。。。

私が食事介助や対応の工夫やリハで提唱していることと
まったく同じコトが違うカタチで起こっています。

良かれと思ってやってることが逆効果
過去から言われていることを検証なく続けてしまっている実践

よーく事実を見極めれば
自分たちがやってることがよくないんだ
認知症のある方の能力発揮を妨げているんだ
やり方を変えてみよう
関与の視点を変えてみよう
とならざるを得ないのに。。。

ポジショニングの体験談は山ほどありますが
足がガチガチに硬くて膝と膝がくっつきそうな方が
ポジショニング後に膝を触ると
容易に膝を左右に動かすことができるようになるのはよくあります。

早くから適切なポジショニングができれば
ご本人も職員も負担が少なく済みます。

じゃあ、どうしたら良いのか
お一人おひとり、ポイントは違いますので、お身体を見ないとなんとも言えませんが
原則は
1)常に全身を観てポジショニングを設定する
2)決して無理矢理可動域を広げるような設定はしない
3)適切なポジショニングができれば筋緊張は緩むので
  設定後に確認する

ことです。

特に
3)のポジショニングの適否について確認することが重要です。
ところが、確認しない人の方が圧倒的に多いんですよね〜。
(皮肉なことに知識と技術がない人ほど確認しないものです)
股関節や膝関節にクッションを当てた後に膝を触って左右に動かしてみる。
手指のスポンジを装着したら、肩の内外転を確認してみる。

適切にポジショニングが設定できていれば
可動域に制限はあったとしても、抵抗感なく動くようになります。

ここで、もしも、抵抗感を感じたとしたら
それはお身体のどこかに無理がかかっているという証左なんです。

無理矢理広げる→可動域が維持される  のではありません。
安楽な姿勢を作れる→筋肉がリラックスできる→可動域が維持される  のです。

ポジショニングに限らず
もしも、私が他の人より優れているところがあるとしたら
それは、常にPDCAを回している というところでしょうか。
自分の関与に自信がないから
現行の方法論を良いとは思えず説得力を感じられなかったから
確認・検証する過程を地道に踏んできました。

良いと言われていることは、全て勉強して実践してみました。
私のやり方が悪くて他者の実践を批判するのはお門違いだと思っていたので
私の理解ややり方が問題なのかもしれないと思い、何回も確認し検証し
その結果、やっぱり従来の方法論がズレていると判断しました。
じゃあ、どうしたら良いのか
試行錯誤しながら対象者の方に教えていただきました。

かつての私のように
信頼できる先達がいないという人もいるかもしれません。
そんな時には自分自身が頼りです。
ポジショニングを設定してみて、その後にお身体の状態を確認すれば
ダメ、悪くない、良い くらいの判断はできるはずです。
ダメだったらどこがダメなのか
良かったらどこが良かったのか
悪くないなら、どこが明言できないのか
自分自身の中で明確にしながら行っていけばよいのです。

ちっとも進歩していないように感じるかもしれませんが
「悪いことはしない」でいられるのも大切なことです。

良かれと思っての逆効果については冒頭で記載しました。
自覚がないと自己修正ができません。
そんな状態よりはずっとマシなんです。

自分の実践については必ず自己検証する
その蓄積で答えに辿り着けるはずなんです。
答えは必ず目の前にいる対象者の方から教えてもらえます。

どうしたら良いのかは、浮かび上がってくる
(つまり、最適解はひとつなんです)
浮かび上がってこない時には、自分の聞き方が悪いから

聞き方を変えてみましょう。
(身体が発する言葉にならない声に手を澄ませて聞きましょう)

生活期にいる方のポジショニング
どんなに重度の認知症のある方でもポジショニングとスポンジによって激変します。

「プロ野球マジックの継承者たち」を見た


見応えのある番組でした。
再放送もあります。
BS1:3月8日(水)午後9時10分~

栗山氏については
解説がやたらわかりやすいので気に留めていました。

三原ノートをただ読むんじゃなくて
コピーしてマーカーしながら読んでることに脱帽。。。

三原マジックについて
「奇策じゃなくて確率の高い根拠なんだよ」
「俺は気がついてるって言いたかったんじゃないかな」
まさしく、まさしく。。。
分野違いの私ですが
「確率の高い根拠」
「気がついてる」というところは、本当によくわかります。。。

それにしても
三原が既に二刀流を試していたとは。。。
本当に洞察力に優れていて度胸もある人だったのだろう。。。
戦場で修羅場を乗り越えてきたことの凄みを思いました。

番組の一端は
こちらの記事からも推察することができます。
WBC 栗山英樹監督 “名将の教えを胸に” 世界一目指す

読むだけでも得られることが多々あるかと思います。


工程はAct.そのものに語らせる

 


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。

  

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、時々困っていないか確認する程度の見守りをします。

  

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうことがよくあります。
  
  その方に取って、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれたからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

せっかく工程を教えたのに忘れられてしまったとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らない
・視覚的説明を活用する
・認知症のある方の能力発揮を援助する
ということです。

介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

   

スクラッチアートの良さ

 


塗り絵は、
リハやケアの分野で認知症のある方に多用されているActivityのひとつです。
「色を塗るだけだから簡単にできるはず」と思われているのが理由でしょうか。
多くの人が「できること」という観点でActivityを探します。

私は、Activityは「特性」の観点を優先して探すようにしています。
詳細は、 Activity選択の考え方 をご参照ください。

仕事的活動よりも表現活動が好き・綺麗なものが好き
という方の中に
塗り絵を提供しても能力が追いつかない
あるいは、不安が強くて塗り方が心配になってしまうという方もいらっしゃいます。

そうなると、仕上がりが今ひとつだったり
塗ることを楽しむ・工夫するどころじゃなくなったりしてしまうこともあります。

塗り絵の前段階として
おすすめなのが、こちらのスクラッチアートです。

線をなぞって削っていくと
削った分だけ色が出てきます。

やったことのフィードバックがその場であるので
「できた!」という達成感を継続的に感じることができます。

塗り絵だと「塗る」のが心身の負担になってしまう方も
「線をなぞる」だけで色が見えるので負担が少なくてすみます。

また、塗り絵の場合には
塗り損ねが目立ちますが
スクラッチアートは、塗り損ねても目立ちにくく
塗りつぶしてもいいし、塗らなくてもそれなりに綺麗に見えるので
遂行のムラがあっても目立ちにくく、かえって味わいに見えるのも良いところです。


不安の強い方も
「白い線の上をなぞって削る」という1工程を
職員に確認するのではなく、自分自身で確認しながら遂行する
ということに集中しやすくなります。

ダイソーで購入しました。
いろいろな種類が発売されていました。

失敗が失敗として目立ちにくい
でも綺麗
工程は1つのみ
スクラッチアート

細かな模様と
図と地のコントラストが高いので、眼精疲労には要注意です。