能力を活用する介助を

どうしたら、もう一度食べられるようになるのか

食べ方を観察して
洞察から得られた、
その時その方の食べる能力を
代償なく合理的に活かせるような食形態と介助方法を選択する
ということになります。

つまり
多くの場合に
食べる能力をきちんと観察・洞察できていないために
適切な食形態の選択ができていなかったり
適切な介助方法が選択できていなかったりする場合が圧倒的に多く
にもかかわらず、必死になってそれらに適応しようとして
過剰努力によって能力を合理的に発揮できなくなっている
というケースが非常に非常に多くみられています。

それなのに
職員の側にそのような自覚がなく
気持ちとしては、必死になって介助していて
何が起こっているかわからずに消耗してしまう。。。

対象者の方も
自らの食べるチカラを発揮できなくなってしまう。。。

本当にもったいない現状です。

この現状は変えられます。
一人でも多くの方に伝わることを願っています。

ためこみは不適切な食事介助が原因


「食塊を口の中にためこんでしまってなかなか飲み込もうとしない」
という方はとても多くみかけますが
認知症だから食べることを忘れてしまうとか
認知症だからうまく食べられないと言われていますけれど
私にはとてもそうは思えません。

不適切な食事介助が原因となっている場合がとても多いのです。
だから、食形態と介助方法を見直すことで
もう一度食べられるようになる場合もとても多いという現実があります。

食塊を口の中にためこんでしまうという状態は
口腔期の問題です。
舌が思うように動かないということを意味してます。

ですが
アルツハイマー型認知症では
舌の随意運動に関わる脳の部分が萎縮することはあまりなく(中枢の問題はない)
舌そのものの機能低下が原因ということもあまりありません(末梢の問題はない)

では
なぜ、舌が思うように動けなくなってしまうか。というと
不適切な食形態と不適切な食事介助に対して
なんとか適応しようとして食べようと頑張った結果
過剰に舌に力が入ってしまう状態にまで陥ってしまうのだと考えています。

だからこそ
その都度、適切な職形態を選択し、適切な食事介助を行うことで
持っている本来の食べるチカラを発揮できるようになり
もう一度食べられるようになるのだと考えています。

よく観察してみてください。

食事介助をしていると
開口した時に
舌が下の歯の裏側に位置しているのではなくて
口の奥の方に引っ込んでしまっていませんか?
時には、舌が丸まってしまっていませんか?
あるいは、舌が上顎の方に上がってしまっていませんか?

スプーンで舌の前部を押すことを私は奨励していますが
(望ましいのは下唇を押すことですが)
その時に舌が柔らかく応答するのではなくて
板のように硬くなっているのを感じたことはありませんか?

これらは多くの場合に
スプーンを口の奥に突っ込むような操作をしたり
スプーンを斜め上に引き抜いたり
1口量が多すぎることによって引き起こされる食べ方です。
その人本来の食べ方ではないのです。

食事介助で自分が何をしているか
対象者の方がどうやって食べようとしているか
観察・洞察ができないと
ついには口を開けたまま取り込んで口を開けたまま飲み込むようになってしまいます。
これは非常に危険な食べ方です。

私の本に事例を含めて基本的なスプーン操作としてはいけない操作とその理由を書いています。
ぜひ一度読んでみてください。

「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」

「食事をためこんで飲みこんでくれない」問題?

「食事をためこんで飲みこんでくれない」
「どうしたら飲みこんでくれるようになるでしょうか?」

そういうカタチの問いをしている限り
答えを手にすることは難しいと思っています。

「ためこみ」という一部分しか見ていないから。

観察というのは
自分が見たいように見ることではなくて
事実を事実のままに観ることだし

洞察というのは
観察された事実という状態像が
何を意味しているのか
障害と能力と特性がどのように反映されているのかを見出すこと

表面的に見えることだけを見る
自分の引き出しの中にある思い込みを投影させて見ることとは全く違います。

例えば
冒頭に提示した食事介助での「ためこんで飲みこんでくれない」という「問題」は
認知症のある方を対象とするケアやリハの分野では非常に多く見受けられる「問題」です。

 ですが
 「ためこんで飲みこんでくれない」という表現そのものに
 問題の一端は現れています。
 無意識のうちに「くれる」ことを前提に考えて
 差し引きマイナスで見ています。

 自身の介助の適不適を省みることなく
 『介助に「合わせてくれる」ことができない=問題』
 という思考過程はケアやリハの分野に限らず、あちこちで散見される課題だとも感じます。
 この課題については折を見て記事にしていきます。

今日はもっと他に書きたいことがあります。

食事介助において
「ためこみ」は散見される大きな課題の一つではあります。
でもためこみの前後も含め、摂食・嚥下5相にそった観察をしている人は少ないものです。

認知症という状態像を引き起こす疾患に関する知識と
食べることに関する基本的な機能解剖の知識を
両方持っている人はもっと少ない。

だから
「ためこんで飲みこむことができない」という現れに
反映されている固有の〇〇さんの障害・困難と能力と特性を
明確に洞察できる人が非常に少ないという現実が起こっているのです。

だから
適切な介助ができなくて当然ということになります。

多くの場合に
ためこみたくて、ためこんでいるのではなくて、どうしようもなくて
ためこむしかない。という方の方が圧倒的に多いのです。

そんな時に
「ためこまないで」
「ちゃんと食べて」
って言われたら、どんなに辛いでしょう。

私たちの仕事は
ちゃんと食べてって「言う」のではなくて
ちゃんと食べられるように「援助する」ことです。

そのためには
まず、私たちがちゃんと観察できるようにならなければ。

「ためこみ」という現れには
いろいろな状態像が反映されています。

例えば
覚醒不十分
オーラルジスキネジア
口腔周囲筋の過剰な同時収縮etc.etc.

状態像が異なるのですから、当然対応はまったく異なります。

「〇〇の時には△△する」
世にそのようなハウツー本は溢れていますが。。。
たまたま「当たる」ことはあるかもしれませんが
下記のような説明はできません。
 どうして今まで食べられなかったのか
 どうして今は食べられるようになったのか
 どんな困難があってどんな能力があるのか
 今後の見通しと対応について

これからは
本当のプロが求められる時代になる。
やってみせられる人が必要とされる。

求められるのは
資格じゃない。
資格は入口に過ぎない。
そう感じています。

私ならこう答える@OTジャーナルQ&A

OTジャーナルに原稿を書き掲載されたのが55巻4号です。
三輪書店さんから掲載誌が送られてきたので
せっかくですから久しぶりに全部読んでみました。

そこで目に止まったのが
「OTジャーナルの仕事論 職場の雰囲気を変えたいー教えて先輩」
手技や手法でぶつかり、職場の雰囲気がギスギスしています…
という若手作業療法士からの相談に、大御所OTが答えるというコーナーです。

OTジャーナル55巻4号384p.に掲載されている相談内容を
原文のまま引用しますと。。。

新卒から回復期病院で働いている3年目のOTです。対象疾患は脳卒中や整形外科がメインです。
リハのメーティングが手技や手法のぶつかり合いになり、なかなか話が進みません。自分の担当患者のリハについてもA先輩から、「〇〇のほうがいいよ」とアドバイスされれば、B先輩からは「△△をしていったほうがいいよ」と発言があり、混乱してしまい、せっかくのアドバイスも活かしきれていません。どちらかに肩入れして職場の空気が悪くなり、働きにくくなるのも嫌なので、先輩から深く学ぶことができません。この職場で成長できるのかと不安になります。
この状況を変えていくには、どう立ち回っていけばいいでしょうか?先輩方それぞれ手法や手技をおもちであるのはわかるのですが、共存しながらギスギスした空気をなくし、もっと患者主体のミーティングがしたいです。

ほうほう。。。と思いながら、大御所と言われているOT4氏の回答も読み進めていきました。
私の感想は、う〜ん。。。隔靴掻痒。相談者がもし本当に悩んでいるならどう思うだろう?と感じました。
そこで、自分なら何と回答するか、考えてみました。

「自分の悩みを問い直せ」

教育工学の沼野一男先生は「問い」の重要性を問われていました。
晩年の授業では、事前に配布した資料を学生に読ませ、質問を提出させていたのだそうです。
内容のない質問には「レイジークエスチョン」(怠惰な質問)と指摘されていたとか。

相談者の質問には、表向きの相談の文面から本音の相談が透けて見えます。
せっかく大御所と呼ばれているOTに答えてもらえるのだから本音で相談しないともったいないのにと感じました。

相談者のリハのミーティングがどのような進行の元に行われているのかは不明ですが
私が感じた相談者の本音はこちらです。

3年目の相談者がケース報告をして、それに対して先輩から複数の手技・手法を勧められて終わってしまう。
ケース報告に対してもらったアドバイスがよくわからないし、有益と感じられない。
手技・手法に走らずに有益なアドバイスが欲しいし、そういうミーティングだったらいいのに。
でもそんな指摘をして先輩に睨まれたら嫌だし。
今まではどうにかかわしてきたけれど、派閥になんか入りたくないし、かといってはぐれるのも嫌だけどどうしたらいいのかわからない。

違うかな?

相談者の質問には
全く次元の異なる複数の質問が錯綜しています。
自分がOTとして成長したいのか
ミーティングの場に不満があるのか
職場での立ち回り方を心配しているのか
何が優先なのか、よくわかりません。

文面通りに読んで
「ミーティングがミーティングとして有益・有効な場になって欲しい」
と願うのであれば
まずは管理者である上司に相談すべきです。
「手技・手法の勧誘のような場になってしまっている気がする」
心ある上司であれば相談者の意図に共感してくれるはずです。

ただし、そのような現状が既にある、ということですから
もしかしたら当の上司が手技・手法の権化と化しているか
もしくは、人は良いけれど管理者としてはあまり有能ではないのかもしれません。

そのような場合であっても
相談者が今すぐにできることはあります。

それは、自身のケース報告をもっと練り上げることです。
ケース報告が曖昧であれば、手技・手法という総論的なアドバイスになりがちです。
相談者が明確なレポートを作成し、質問を明確化して臨めば
アドバイスも具体的限定的であることを要請することになります。

良い質問は良い答えを引き出します。

仮に、良い質問をしたのに良い答えが返ってこなかったとしても
良い質問ができたのであれば、今度は自分自身でその答えを探すことができます。
今は、研修会はあちこちで山ほど企画されています。
論文も本も多数出版されています。
本当に答えを探そうと思えば、探す場はたくさんあります。

「この職場で成長できるのかと不安になります。」
「どう立ち回っていけばいいでしょうか?」
などと言っている場合ではありません。

OTとしての成長は自助努力です。
職場は、個々の職員の成長を応援はしてくれても
在籍していれば、黙っていてもオーダーメイドで成長させてもらえるわけがありません。

私の答えは
「自分の悩みを問い直せ」です。

ループの完結@食事介助

認知症のある方の中には
元来「しっかりしていた」方が少なくありません。

ご家族の情報から確認することもできますし
仮に、ご家族の情報が得られなかったとしても
対応の過程を通して
「この方はしっかりしていた方だろうな」
と感じることも多々あります。

そのような方が
溜め込んでしまう
というような表面的な現れをしている時には
誤介助誤学習のパターンが少なくありません。

 その背景には
 誤介助を引き起こしやすい身体的な問題(例えばオーラルジスキネジア)がある場合もあり
 その身体的な問題を的確に把握できないというケースも多いように感じています。

そのような時には
その方のその時点での「食べる能力」を最大限に活かして
余分な介助をしないことが効果的な場合が多々あります。

インプット〜アウトプットまでの一連の過程
刺激や環境の感受〜認識・判断〜食べるという行動という一連の過程
「食べる」ことに関するループを完結させる
という方法論です。

誤介助誤学習に起因するものであれば
「自分自身で食べる」という体験を通して
刺激の正しいインプットにより、
認識・判断の正しさと
食べるというアウトプットが修正されて
適切に行えるようになってきます。

元来、しっかりした方であればあるほど

お年寄り、認知症のある方に対して
能力低下してしまった、できなくなってしまった
という視点からだけ見ていると
認知症のある方の本当の能力を見誤ってしまいます。

たとえ
「苦労しながら食べるなんて可哀想」という善意からであったとしても
食事介助というのは実は奥深く難しいものなのですが
誰でもできるものという根本的な誤解があり
どんな風に食べさせても関係ないという思い込んでいる人も少なくありません。

知識に基づいた観察と
観察から導き出される的確な洞察と
洞察に基づいた適切な対応ができるだけの技術があって
初めて目の前にいる方へ適切な食事介助ができるのです。

食事介助をしない方が
その方の本来の能力発揮が叶う場合があります。
食形態も1回の摂取量も上がっていきます。

問題は
適切な「見立て」に基づく、適切な「食形態の選択」ができるかどうか
ということが問われているわけで
実は、その場で介助するよりも観察力・洞察力が求められます。

的確な自主トレの設定ができるということとも通じる側面があります。
「自主トレ作成=評価の確認」

サイト更新:声かけの工夫の考え方

 

 

サイトを更新しましたので、お知らせします。

「声かけの工夫の考え方」

「力は前向きにも後向きにも使える」

「力は前向きにも後ろ向きにも使える。
 でも、両方の方向に同時に使うことはできない。」


これは、アーシュラ・K・ル=グウィンの
「西のはての年代記 ギフト」でグライが語った言葉です。

直接には、能力の用い方や権力について語っている言葉ですが
私は、援助の本質もついている言葉だと感じました。

歩くことを援助するのか、歩かせるのか
食べることの援助するのか、食べさせるのか

見た目、まったく同じように見えて
働きかけとしては、180度異なります。

そして
対象者の反応は、
こちらの意図に応じて反応します。
歩くことの援助に応じた反応、歩かせられたことに応じた反応
食べることの援助に応じた反応、食べさせられたことに応じた反応

その反応はその場で直接返ってくることもあれば
蓄積されて大きな反応となって返ってくることもあります。

私は、学生の頃からこの問題について考えていました。
臨床に出てからも悩み続けていました。
自分の能力が圧倒的に不足している間は
働くことが本当に怖かった時期がありました。

リハビリテーションというのは
末梢への感覚入力をコントロールすることによって
中枢の機能・回路を再構築することが本質です。

昨今は廃用・筋力低下という思考・対応が本流のようになっていて
状態像の見極めなく安易に語る一般の方や関係者も少なくないので
非常に残念な状況だと感じています。

余談ですが
どうも日本人には、甘え、根性、精神論を振りかざす傾向が根深くあって
いろいろな場面に反映されているように感じられてなりません。

例えば
お年寄りのフレイル・引きこもりの問題についても
原因なのか、結果なのかという検討なく
活発な生活のために積極的に外出するように働きかけるとか
あまりに表面的な対応にすぎると感じています。

外に出て人と交流することが良いことだという前提としての議論がなく行われていますが
どうなんでしょう?
人と会話することが楽しいという人が
外出して交流しなくなれば、それは是非外出して交流する機会が必要だと思います。
でも、自分一人で沈思黙考することが楽しい人に対して
他者と交流しなさいと働きかけることは適切なことなのでしょうか?

「食べなきゃダメよ」って
食べられない、食べたくない、食べにくい状況があるのに
その状況をきちんと把握することなく
表面的に食べさせようとして食べてくれないことを問題視するとか。。。

為せば成る
というのは確かにそういう側面もありますが
そればかりとは言えない。

対人援助職というのは
対象者に対して
望むと望まざるとに関わらず
圧倒的に強い立場に立つわけです。

その前提、根本から出発するしかない。

そして、その前提、根本を
頭だけで考えるのではなくて
日々の臨床において
その時々の自らの言動をこそ、辛くとも自己検証するしかない。

そうやって
「援助」の援助たる姿勢と技術とを持ち得るようになるのだと思う。

力がなければ援助はできない

力を適切に用いることができなければ役には立てない


対人援助職が対人援助職として
職務を全うできるようになるためには
相応の時間が必要です。
ただし、時間さえあればできるわけでもない。
時間は必要条件だけど十分条件ではない。

経験が少ない時には少ないなりに
悪いことをしないで済むという側面もあります。

このことはとっても大切なことです。
良いことをしようと望んで、結果として悪いことをしてしまうことだって
臨床現場あるあるではないですか?

食事介助の場面において
誰も「食べ方が下手になっても構わない」「誤嚥性肺炎になっても構わない」
なんて思いながら介助するような人はいないと思います。
でも、現実には美味しく食べていただきたい、元気になっていただきたいと願いながらも
結果として、食べにくくなるような介助をしている人は山ほどいるわけです。

そして
こういった事柄は食事介助以外の場面でも起こっている事柄です。

良いことができるようになりたいと願う気持ちは尊いものですが
そのためには努力を重ねないと。
願えば行動に直結するわけがありません。
努力を積み重ねて初めて願いを具現化することができます。
その過程において悪いことをしないというのは、とても尊い関与だと感じています。

下手に場数だけを踏んで
自分が何をしているのかわからなくなってしまっている人や
やっている感ばかりが上達?している人だって
ある意味経験を積んでいるわけですが
そのような経験しかしていないと、
もう一つの現実を自身の眼で見る体験ができなくなってしまいます。

忙しい現実の間の中でも
本当に何とかしたいと願う人は
理想は遠くてもその時々でできる最善の行為を
人知れずに積み重ねていっているのではないでしょうか。。。

私も忙しい現実に押し流されそうになりながらも
時間を捻出するためには、対象者の人がよくなっていって
かけている時間を結果として減らしていくことが一番だとわかっているので
必死になって適切な援助を積み重ねています。
時には苦い自省をしながら。。。

「意図こそが重要」

スティーブ・ジョブズの言葉です。

自分が得た力は、
後向きには使わない。前向きに使う
という意図。

結果として
後向きに用いていないか
自己検証しようという意図。

力は同時に両方向には使えない。

例え
無自覚であったにしても
私たちは日々その都度その都度
力の向きの使い方を選択しているのだと感じています。



自主トレ作成=評価の確認

私は作業療法士として老健で長く勤めてきました。
そこで学んだことは多々ありますが
自主トレの作成に励んだことは自分にとって有益なことの一つでした。

通所リハの利用者さんに
一人ひとり個別でメニューを作りました。
身体面でも認知面でもメニューを作っておいて
余暇時間に取り組んでもらったり
リハの時間の中での私との個別リハ以外にも自分で取り組んでもらったりしました。

並行集団を作って、その中でセラピストとの個別リハも展開する
という形です。

並行集団。。。同じ時間と場を共有はしてるけど
個々の課題は異なるというグループ活動を私はよく用います。
(今も異なる形でやっています)

課題集団。。。同じ時間と場でみんなで一斉に同じ課題に取り組む
というのは私はあんまり用いません。
また、一つの課題を役割分担してみんなで取り組む
ということも私はあんまり用いません。
それぞれのメリットもあるとは思いますが
デメリットも大きいんじゃないかなと感じています。

並行集団は
個々の課題が異なるから
利用者さん同士の優劣の比較になりにくいし
ご自分のペースで取り組めるし
気が向いたら他の利用者さん同士のコミュニケーションも弾む
(私の準備や仕上げを含めた管理は大変だけど)

この並行集団が有益であるように
個々の自主トレが適切に提供できるようになるためには
評価の確認をすることが必須です。
とりわけ、能力の評価の確認を否応なく要求されます。

利用者さんの能力よりも高すぎる課題を設定してしまうと
自主トレとして成り立たないし
低すぎる課題を設定してしまうと
意欲が削がれてしまう。

同時に環境の評価も要求されます。
どのような環境=場面設定をすれば
スムーズに取り組めるようになるのか

自主トレの時に
利用者さんが困ってしまうことがあれば
私の場面設定が甘かったことになるので
評価について日々のリハ場面を通して鍛えられました。

中には「宿題」としてご自宅での自主トレを用意したこともあります。
その難易度は自主トレよりも下げて
「自分にはできる=やることが苦にならない」という難易度で
実施を最優先して設定していました。

能力を評価する
能力をアセスメントできる

今、思えば、かなり昔から私の中で一貫した在りようだったんだと感じます。

オンライン研修会@参加者限定

参加者限定ではありますが
オンライン研修会の準備を始めています。

主催者は、JA長野厚生連作業療法士研究会。
テーマは、目標設定と認知症。

私を講師に推薦・依頼してくださった担当者のKさんが
私が言いたいことをピンポイントで理解してくださっているのが嬉しかったです。

まずは、目標設定。
目標設定の研修会ってありそうでないんです。
正確に言えば、一部あるにはありますが
目標を目標というカタチで設定できることを目的とした研修会は、まずありません。

みんなそんなの簡単!って思ってるんですよね。
ところが、どっこい。
臨床家で本当に目標を目標というカタチで設定できている人って
実はすごく少ないんです。

目標じゃなくて方針だったり
目標じゃなくて目的だったり
目標じゃなくて治療内容だったり。。。(^^;

だから、学生や若手にどうしたら目標を目標というカタチで設定できるようになるか
具体的に明確に言葉で教えられる人が少ないのです。

作業療法総合研究所さんの主催で
何回か目標設定の研修会を行ってきました。
「良い作業療法士になるために〜目標を目標として設定できる」
「対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!」
「良い目標が設定できる作業療法士になろう!ー概念篇」

認知症をテーマとした研修会の講師として
私を招聘するにあたり、ネットで検索したところ
上記にいきあたり、「普段漠然と疑問に思っていたことを言葉にしてくれた」ということで
あわせてご依頼がありました。

いやー嬉しかったですね。
こういう地味な、でも本質的なことの必要性を認識している人が他にもいるということがわかって。

現状のOTの課題というのは
極論すれば、目標設定と評価が不十分なことだと私は考えています。
自分自身でPDCAを回せない、自己修正できない、だから結果として漫然としたリハになってしまうし
それは目標を目標というカタチで設定できないと、PDCAを回そうとしても回せないんです。

ちなみに
「目標とは何ぞや?」

この問いに即答できなかった人は
目標を目標というカタチで設定できていない。ということですよー。

もう一つ
検査はできても評価のできない作業療法士は少なくありません。
構成障害や遂行機能障害の検査はしていても
「構成障害とは何ぞや?」
「遂行機能障害とは何ぞや?」
と問われて明確に言葉で即答できる作業療法士は多くありません。
いわゆる大御所と言われている人だって検査と評価を混同していることも多々あります。。。

だから
声高に理想を叫んでも
その理想を具現化するための道筋を明確に言葉で示すことはできずに
いきなり実践例を示すことしかできないんじゃないだろうかと考えています。

研修会なんかでも
やたら症候論は詳しいけど
実際の評価の道筋となると、バッテリーの紹介にすり替えられてしまう。
そしていきなり実践例の提示。というパターンがやたら多いんですよねぇ。。。

これじゃあ
真摯な人はガッカリするでしょうし
とりあえず(臨床現場では何とかしないといけないから)ハウツーで凌いで、
その積み重ねを繰り返すしかなくなっちゃうんじゃないだろうか。。。
どこかでおかしい、これじゃいけない、と思いつつも
どうしたら良いのかわからない、まともに向き合うことが怖くて回避してしまう。。。

「わかっていても言葉にするのは難しいよね」
「やってるうちにわかるようになるよ」
なーんて内心胸の痛みを感じながらも後輩に言っちゃったりして。
そのうち最初は感じていた胸の痛みを忘れてしまって笑いながら言えるようになったりして。

そういう人たちにも伝えたい。
ちゃんと「道」はあるよ。って。

私の提案はBestではないかもしれないけど
おそらく現時点ではかなりBetterな考え方と方法論だと思っています。

今すぐには難しいけど
こちらのサイトにも概要を掲載できれば。と考えています。



能力を信頼する

経験年数を重ねて思うことは
能力を信頼しなければ、能力を見出すことは叶わない
ということです。

食べない人には食べないなりの必然がある。
「認知症だから」
嫌がって食べないんだろう
というような先入観を捨てて
目の前にいる方は
何をどこまで認識しているんだろう?
ということを確認しながら関与していると
ちゃんとその一端が観られるようになってきます。

無意識のコミュニケーションがあって
その一端をこちらが感受した
ということが伝わると
目の前にいる方の能力が一層明確に広がりを持って
観えるようになってくる。

私が他の人よりも少しは高い能力があるとすれば
この部分だと思う。

そのために
時間もエネルギーもお金も使って勉強しましたから。
若い時には、パンの耳や素ラーメンを食べていて当時付き合っていた彼に笑われたものです (^^;
そうやって時間をかけて培ってきたモノは、滲み出るのだと思う。
口先だけの人とは違って当たり前。

ごむてつさんの記事に
「いるだけで有害な人も居るだけで善い人もいますが、実際には前者は有害な行為を、後者は良い行いもするはずです。」
とありますが、まさに。

私たち自身にだって
この人の前では、本音は言わずに当たり障りのない演じた対応をしよう、
バリアを作って接しておこうと思うような人もいれば
この人の前では、リラックスできる、安心できるという人もいます。

患者さんやご家族に
「あんたと話してると頭の中がスッキリする」
「あれ?あなたと話してるとなぜか涙が出ちゃう」
「あなたといる時には本当に楽しそうにしてる」
などと言われたことが何回もあります。

別に私はスッキリさせよう、泣かせよう、楽しませよう
などと思いながら接しているわけではありません。
何が困ってるのだろう?
何があったのだろう?
何を思ってるのかな?
と思いながら接していて
心底そうしてるのが無意識に伝わっているんだと思う。

そこは一番大きな違いで
当たり前すぎることだけど
「心底そうしてる」のか
「そのふりをしてる」のかは、明確に確実に伝わる

一方でこういったことに対して
そうだよね。その通りだよねって思える人がいる一方で
表面的には同調しても心の中では
「認知症なんだからそんな違いなんてわかるわけないじゃん」って思う人もいる。
いっぱいいますものね (^^;

そしてこう言う。
「認知症だからダメだ」

ダメなのは、
他者を理解しようとしない、できない
観察しようとしない、できないあなたの態度じゃないのかな?

そんな態度の人に対して心開くわけがない。

そうやって自分のできなさから目を背けることで
一時の安寧を得て心の葛藤や学ぶことから逃れようとしているのかもしれませんが。

でも、それだと辛くなる一方だと思う。

対人援助職を選んだ以上
努力するしかないんだよね。
努力したからといってすべてが叶うなんてことはないけど
決して無駄にはならない。

ただ、努力の方向性の違いはあって
巷間言われているような「礼節の限りを尽くす」ような方向性ではなくて
脳の病気によって暮らしの困難が起こるのだから
そしておそらくは過去の体験の投影も重なるのだから
知識と技術が必要で
実践に際し、態度が肝要ということなんだと考えています。

私にできることは
何よりも日々の実践を深めること

そして
可能な限り言語化して
志ある人や後世に伝えていくこと

頑張ります (^^)