精神科作業療法、OT:臨床の能力を向上させるには…まず、考え方が大事です。(ごむてつ)

私も昔、精神科作業療法をやってはいましたが、正直なところ無能で作業療法士失格人間です。それもあって辞めたわけですが。

そんなわけで、精神科作業療法士の方に対してどのような作業療法を行うべきか、実際に具体的なアドバイスは殆どできません。実際にやっているところを見たり、話を聞いたりすれば、指導できることもいろいろあると思いますけど、見ても聞いてもいないのにここに書くわけにもいきません。

そんな私が精神科作業療法に携わっているOTの方々に対して「臨床の能力を向上させるにはどうしたら良いか」を教える資格なんかない、と思うかもしれませんが、基本的な確かな知識や治療の能力はあるので以下に述べる次第です。

そういう意味では私よりも指導者に相応しく優れた人もいないかもしれません。高慢、思い上がりと思われるのは百も承知ですが、これでも謙虚なつもりです。

実際に私はOTとしては無能でも1年目から患者には尊敬されており評判は良かったのです。患者も「ごむてつ先生はすごい」「良い人だ」「患者のことをよくわかってくれる」などと主治医にも言ってくれるので、精神科医からも尊敬とまでは言わなくとも一目も二目も置かれ、下へも置かないという扱いを受けていました。

そうした評判が広まり評価が定まると看護師や他の職員も徐々にわかってくれます。とはいえ、やはり人によるわけで、わからない人はいつまで経ってもわかってくれないですけど。でも8割方の人には尊敬されるようになったと思います。

OTの人は良く「作業療法を理解しててくれない」「わかってもらうのが難しい」と言いますが、私からすればともかく良い作業療法をやって結果を出せば良いだけのことです。必ずわかってくれる人もいるはずです。もちろんわかってくれない人もいますが、そういう人はいくら説明しても目の前で見せてもわかってくれないでしょうから、相手の認識や考えのレベルが向上するのを期待するしかありません。

話が逸れましたが本題へ。

ここに書くことは基本の基本ですので、OT以外でも精神科医でも臨床心理士や心理カウンセラーにとっても同様に役立つはずです。

やはり考え方が大事です。

正しい理解と洞察・理解と正しい考え方が基本にあればいくらでも応用は利くし、検証可能性も確保できる、すなわち進歩、向上していけいるはずですが、それがないとますますおかしな方向に向かってしまい、やっていることが頓珍漢になってしまい、治療者としても殆ど成長もしくは向上しません。そういう「セラピスト」はいくらでもいると思います。

精神医療に携わることの恐ろしさの一つは、経験値が上がっても進歩・向上するとは限らず、職業人としては慣れて能力が上がったかのように見えても、臨床家としてはどんどんダメになってしまうことがあることです。

そうなってしまうと、取り返しがつきません。そういう人は自分がベテランだと思い込み、間違った自分を正当化し、他者の優れた助言も受け入れようとしないでしょう。

これは個人だけの問題ではなく、組織では特に集団化しやすいので要注意です。共同幻想にはまってしまいそこから抜け出せないばかりか、それ以前に問題を対象化できず、もちろん解決もしくは克服もできない。

プロのセラピストであれば自分自身の評価がきちんとできることも当然必要です。

精神医療従事者たるものは外部の第三者にも、治療の話ができる相談相手を持っていたほうが良いと思います。分析医であれば駆け出しの少なくとも数年間は、スーパーヴィジョンを受けながら治療に当たるのが当然で、研修医であっても数年間は先輩医師の指導を受けながら診療を行うのが当然です。

前置きが少々長くなりましたが、基本の基本を以下に述べたいと思います。

それは…

精神疾患の原因は心的外傷であり、「全ての精神疾患は複雑性心的外傷後ストレス障害PTSDである」ことを徹頭徹尾理解して、血肉とすべく徹底的に身につけ、その上で患者に接することです。

複雑性心的外傷後と言う意味は、

1)幼児期からの(主に養育者から受けた)心的外傷(トラウマ)と、それによる精神的発達の未熟さや脆弱性など。

2)ある程度年齢が行ってからの(主に思秋期以降)犯罪被害、イジメ、パワハラなどのストレスや、不適応による精神的挫折など、その他いろいろな精神的問題によるトラウマ

これらが複雑に複合的な原因になって発症していることです。

心的外傷後というのは外傷体験が終わった後でも、脳内もしくは精神内界ではいつも繰り返し生じていることで、実際には現在も続いており、外傷は拡大していいかも知れません。特に家族と一緒にいる人は。

図式的に言えば、前者は原因としてのトラウマ、後者は誘引としてのトラウマと捉えても良いかと思います。

前者は暴力・遺棄といったと虐待ももちろんありますが、精神的虐待、言葉の暴力でさえない、療育者(殆どは親)の接し方や環境の問題でもあります。

「人はパンのみにて生くるにあらず」

そうは思えない「精神病は脳の病気」だと言う人も、もちろんいるでしょうけど、そうした考えは徹底的に排除し、心底から(実を言えば無意識のレベルから)「全ての精神疾患は複雑性心的外傷後ストレス障害PTSDである」だと思わなくては治療にはなりません。

精神病の患者さんは、今はひどく攻撃的であったり、他者を傷つけたり迷惑をかけている存在かもしれませんが、かつては自分自身がそうした被害を激しく被りそのことにより傷ついている人であり、周囲に対して無防備です。

「皮膚が全て剥ぎ取られ、筋肉がむき出しになった身体」のような精神でいるわけです。

病院の中で見ているだけだとわかりにくいかも知れませんが、多くの場合、他者を傷つけるより傷つけられてしまう、勝手に傷ついてしまう人です。

間違った考えにではむしろ悪化させることが多く、実際にそうしている精神医療従事者はいくらでもいます。治療どころか悪化させるのが主な仕事になっている。現状の精神医療の臨床的成果の乏しさや治療の不適切さをまず認めるべきです。

「精神病は脳の病気」というのはただの迷信で、もはや仮設にもなっていません。そう思い考えるだけでも有害です。

百万歩譲って「脳の病気」だとしてもOTにはもちろん、精神科医や臨床心理士にだって脳が治せるわけではありません。もちろん向精神薬は脳に影響を与えますが、厳密な意味では精神の治療にはなりません。もちろん、OTは薬物の処方もできませんが。

「精神病は脳の病気」という神話、もしくは信仰というより迷信がまかり通ってしまう主な理由は、

・脳の状態が良くないことを脳の病気としてしまい、器質性と機能性を区別できていないこと

・幼児期というよりもむしろ二歳半以前の乳幼児期に(無意識による)脳の使い方の基本が条件付けられ、精神機能の傾向が決定づけられているため、

あたかも「脳の病気の遺伝子があって、ストレスや外傷体験によりそれが発露し精神病になる」かのように見えるためでしょう。

もちろん、他の理由もあるでしょうけど。お金儲けとか地位とか。医療従事者側が自覚していることはまずありませんが。製薬会社も「心の病」と言いつつ、脳病信仰を捨てることは今後もありえません。

もちろん、遺伝的な脳の特質も精神疾患の原因に関係はあり、病像には大きな影響がありますが、精神病の発症や症状形成の基本的な決定因になるわけではありません。

脳科学もそれなりには進歩したようですが、それが直接精神疾患の何かを解明し、どこまで行っても平行線で臨床に直接結びつくことは今後もないはずです。こじつけは、これまでもこれからも大いにされるでしょうけど。

精神と脳の機能が不可分一体であることを前提に、精神疾患と中枢疾患を切り分けることに成功したのが20世紀の精神医学の最大の進歩ですが、多くの精神医学者はこのことを理解できず、何の根拠もなく何でも脳のせいにした大正時代に戻ってしまいました。

病院も癲狂院(なんだかわからない気違い)→脳病院(頭がおかしい脳の病気)→精神病院(精神、心の病)と一応進化したはずなのに後退甚だしい。

脳の病気ではなく精神の病気だから精神病なのです。

もちろん患者さんの脳の状態や働きは良くないですが、精神病は器質的ではなく、機能的な疾患です。そこを皆、理解せず曖昧にいい加減に恣意的にミソもクソも一緒にしてしまった。

もちろん合併することはあるし、似た症状はいくらでもありますが全く別物で、そこは区別できなければなりません。

脳の病気の症状は精神疾患にはありません。逆に精神疾患には脳の病気の症状はなく、普通の人にもあるものだけです。どんなに奇妙に見える症状でも、「健康な人」との差は激しくとも、平たく言えば結局のところ程度問題で、もちろんいろいろな傾向もありますが、人間の精神はそういうものです。

わかりやすい例をあげれば、例えば心的緊張による手の震え(書痙)は多くの患者さんにありますが、小脳失調を伴う中枢疾患によるものと心的な緊張によるものは震え方も全く違います。両者の違いは一目瞭然ですが、どう違うのかと言われてると困ってしまいます。ビデオを撮ったり加速度計などを使って画像診断や計測はできるでしょうけど、そんなことより洞察力や観察力を上げることが重要です。

しかし、両者ともただの振戦としてしまえば区別はつかず、治療的にも適切な治療的対応もできません。

メンタルな原因によるものを「脳の病気」と考え、そういう頭で先入観を以って見てしまうと素人でもできたはずの区別もつかなくなり、「見れども観えず」になってしまい、もちろん治療も見当違いのエクササイズになってしまいます。

中枢疾患による小脳失調のある患者さんに適した運動療法や機能訓練は、心的な緊張による振戦に対してはほぼ無効で不適切です。少なくとも精神疾患の人には有効な精神療法、心理療法的な対応を並行して行わなくては身体的改善もほぼ無効であり、書痙の人に書字訓練を行うとしても中枢疾患と精神疾患の人では、練習法や指導のポイントも違います。

ヒステリー性の転換症状としての運動麻痺にもやはり運動療法や機能訓練は不適であることは誰でも知っているはずです。

「幻覚・妄想なんて健常者にないだろ」と思うかもしれませんが、もちろんあります。もしくは乳幼児期にはあったことです。反感を持つ人は精神分析学、精神発達学など徹底的に勉強して下さい。

統合失調症でも神経症でもうつ病でも精神疾患は基本は同じです。精神疾患には本来、区別はなく、病名は疾患区分、疾患単位ではなく疾患概念に過ぎません。診断名は便宜的なものに過ぎません。

そのことについては長くなるので稿を改めて書きますが、とりあえずここでは触れません。

精神疾患を「脳の病気」としてしまえば、薬漬けにしたり脳を破壊したりで、もちろん治療どころではありません。かつてはロボトミーなども行われましたし、殆ど行われなくなった電気ショックも再び盛んに行われています。

私はそうした脳破壊をする人は患者に近づいてはならないと思います。近づいただけでも、一時的ではあれ、程度はともあれ(器質的にではなく)脳の機能を破壊します。もちろん物理的に侵襲し破壊するのは言語道断です。

そういう人がそばにいるだけでも精神の不調をもたらし、患者は具合悪くなる。悪くなりっぱなしかも知れませんけど。

そのような考えの人がこうしたことに気づいていることは、ほぼありえませんが。

はっきり言えば脳病信仰にとりつかれた精神科医が処方する向精神薬よりも、素人が適当に調べただけで処方した方が、同じ薬でも同じ相手(患者)でも後者の方がおそらくマシでしょう。

そんな滑稽なことはあるかっ!と思う人もいるでしょうけど、精神疾患の本質がわかる人なら同意できるはずです。

貴方が、例えばある人と1カ月の海外出張や旅行に行くことを考えてみましょう。

Aさんと行けるのは思っただけで楽しみ、ウキウキ・ワクワクするけど、Bさんと行かなければならないとすれば、考えただけで病気になりそう、実際に行く前から病気になってしまう、ということもありうるはずです。

海外旅行は大好きだし楽しいし行きたいけど、Bさんと行くくらいなら行きたくない、よほど深刻な疾患でもなければ、病気で寝ていたほうがマシ、かも?

基本的には相手にとっても同様であることが多いと思いますが、この場合Aさんはさほど楽しみではなかったり、Bさんは嫌がるどころか楽しみにしているかも知れません。

Bさんの場合は貴方の気持ちなどわからず、気にもしていないでしょう。

Aさんのような人は相手に対する理解や配慮もあるでしょうけど、Bさんのような人は相手のことを理解せずわかったような気になって、しかもそれに自信を持っていたりします。

結婚するなら一緒にいるだけで波長が合い、何も言わなくても気分が良い、楽しく充実している人が良いです。

惚れて腫れて口説かれて、尽くして尽くしてそして騙されて、どうせ騙してくれるならずっと騙して欲しかった、などと言う場合は、口説かれて悪い催眠にかかったようになり、いわばマインドコントロールされた状態になっていたわけです。

「第一印象が大事」と言いますが、そこには無意識の関係性の多くが含まれているからです。

いるだけで有害な人もいるだけで善い人もいますが、実際には前者は有害な行為を、後者は良い行為をするはずです。

特に患者と子供には邪悪な人間を近づけるべきではありませんが、なかなかそうは行かず、子供好きの親や精神医療従事者や心理カウンセラーが甚だしく邪悪であることもしばしばあることです。

繰り返しますが、人は一緒にいるだけでも大きな影響力があります。患者さんに於いておや、尚の事です。

患者さんの側に居るだけでも良い治療者になろうではありませんか。

それには知識も理論も必要で、長年の経験と勘も必要であり、経験値を上げるべきで、長い修業が必要かもしれませんが、正しい道を行くならばそれも苦しく辛く険しいばかりではありません。

基本がわかれば応用はいくらでも効きます。

逆に基本を知らずに「精神病は脳の病気」として、ただの便宜的な分類に過ぎないDSMなど覚えたり、それを適用してわかったようになるなんて遇の骨頂でトーシローの考えです。

OTでそんな人は殆どいないと思いますが、今はどうでしょうか?むしろ精神科医がやっていることですが、そこから患者にとって有益なことは何も生まれません。

セラピストたるもの反治療的なこと、精神の不健康をもたらすことは絶対にやるべきでありませんが、治療になることなら何をやっても良い、むしろやるべきだと私は思っています。

この辺りが、私が正統派精神分析には与せず、自称ポスト新フロイト派たる所以でもあります。

もちろん、治療的であるか反治療的であるかはそう簡単に分かることではありませんが、基本ができていればいくらでも応用はできます。

そのためには考え方ものの見方が重要で、正しい考えができていれば患者さんに対する接し方や働きかけも違うはずで、どうすれば治療的になるのかの判断も瞬時に可能で、先の見通しも可能になります。

不適切な間違った考えでは、そうした判断もできません。

心的外傷と回復 〈増補版〉 ジュディス・L. ハーマン みすず書房https://www.amazon.co.jp/dp/4622041138/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_TAYQ1T7MXCQ8QBVQDPW9

現代精神医学の概念 ハリー・スタック・サリヴァン みすず書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4622021919/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_CAATVFACY8MT2Q7XJC6E

人間関係の病理学 フロム・ライヒマン 誠信書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4414402107/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_0W39ENFJ5A9WKEA26V9X

ごむてつ君のブログ – OT佐藤良枝のDCゼミナール (yoshiemon.info)

セルフ・セラピー研究所

多職種連携の現実的課題

多職種連携、チームワークは古くて新しい課題です。

研修会終了後の質疑応答でも必ずこの問題について質問があります。
「チームワークに困難を感じている」
「(この話を)ぜひ職場に持ち帰って実践したいが、どうしたら良いか」

私の答えは
「まずは、自分自身が常に実践し続けられるようになること」

私たちは技術職なので、やってみせることができます。
説明よりも納得
重度の認知症のある方でも変わる
という事実を共有化するところから始めます。

作業療法士は往々にして
この順番を誤認していると思います。
幾百の言葉を連ねても
目の前の対象者の方がよくならなければ説得力がありません。

自分がやってみせられるようになること

聞いてわかることと
自らが実践できることとは
雲泥の差があります。

結果を出す
次に説明するのであって
順序は逆ではないのです。

相手は作業療法を志しているわけではなく
任意の対象者の方に寄与したいと思って別の職種として関与しているのですから
作業療法士が何を考えて何をしているのかよりも
対象者の方がどのような状態であり、今後どのような状態を目指すのか
というところを志向すべきだと考えています。

ただ、ここにも落とし穴があって
観察力というのは人により職種により異なります。

つまり
同じ現実を見ているはずなのに
異なる状態を観ているということが起こっています。

一つには
観察力の違いが挙げられます。

人によって観察の広さも深みも異なります。

ここがズレてしまうと
お話にならないので
ビデオを活用するのが良いと思います。

実際の場面を見てもらうよりも
実際の場面をビデオに録画したものを使って
何が起こっているかを説明する。

ビデオという道具を通すことで
自分の眼(認識)から距離を置いて、客観的に見ることを促されます。

見ることに専念できるので
状態説明をしても、拒否や抵抗や先入観なく受け入れやすくなります。

もう一つは
人の認識というのは
過去の体験に基づいて作られていきます。

「認知症なんだから無理だってば」
という人は
かつて、その人なりの努力をしたけれども
プラスの行動変容が見られなかったという体験を積み重ねてきたのでしょう。
だとしたら、その人が上記のような認識を持つ必然性があったのだということがわかります。

 問題は
 その人なりの努力というところが
 果たして本当に適切だったのかという振り返りが為されていないというところです。
 関与が不適切であれば適切な行動変容がみられるはずがないのです。

このような場合に
認識だけを変えるように促しても
効果がないどころか、逆効果になってしまいます。
認識を変えさせられるということは、認識の根拠となっている自身の過去の体験を否定させられる
ということを意味するからです。
ものすごい抵抗を示されるでしょう。

抵抗と防衛については、歴史も証明しています。
歴史的な発見をした人と周囲とのギャップが大きければ大きいほど
激しい抵抗と防衛が起こっています。
ガリレオ然り、ゼンメルワイス然り、小笠原登然り。
理解してもらえないどころか、当時は否定、弾圧の嵐。。。
でも、時代が変わってから、ようやく彼らの正当性が証明されました。

善いこと、正しいことがすぐに受け入れられるとは限らないのです。
むしろ善いことだからこそ、正しいことだからこそ、抵抗にあうこともあるのです。

「足を引っ張られたら喜ばなくちゃいけない」
ごむてつさんに、かつて諭されたものです。
「相手は足を引っ張るしかできないのだ」と。

ごむてつさんのブログ記事
精神分析で言うところの無意識の『抵抗と防衛』と憑依・心霊現象」
もご参照ください。

話を戻します。
相手の認識を表面的に否定や修正をしようとするのではなく
異なる体験をしてもらうのです。

一番良いのは、
その人自身の関与によって異なる変化が生じたという体験ができればベストですが
それは、まず、ありえないことなので。。。
次善の策として、異なる事実を見るという体験を積み重ねてもらうのです。

見るというその人自身の行動によって
異なる事実に遭遇したという体験を自己否定することは難しいものです。

 中にはそれでもイチャモンをつける人もいますが
 そのような人は他の場面でも問題が現れているものです。

 つまり、連携の問題よりもその人固有の問題の方が大きいということです。

いずれにしても
結果を出せる人がいる
ということが何よりもまず必要なのだ
ということがお分かりいただけると思います。

結果を出す
認知症のある方と一緒にプラスの行動変容を協働できる人がいる
周囲に誰もいなければ、その最初の一人にあなたがなるしかありません。

認知症のある方を
貶めることなく、崇め奉ることもなく
ありのままに、能力と障害を見出し
援助の視点を忘れずに関与する人に

多職種連携、チームワークという古くて新しい課題の根底には
同じ人を見ていながら異なる現実を観ているという前提の確認から
始めていくことだと考えています。

その上で
どのように説明するか、どのように役割分担するか
という技術的な課題が検討されるのであって
順序は逆にはならないのだと考えています。

OTジャーナル4号(原稿掲載)発売


2021年3月25日に三輪書店から発売されるOTジャーナル4号
特集記事「疾患別 臨床・上肢機能アプローチ―機能・活動・生活へ」に
「身体障害を合併する認知症に対する上肢機能アプローチ」というテーマで
原稿が掲載されました。


前半は認知症の状態像について概観し
後半で上肢機能アプローチの2つの側面について記述しました。

もともと、認知症があってご自宅や施設で暮らしていた方が
CVA後遺症片麻痺になったり、橈骨遠位端骨折や橈骨神経麻痺になることもよくあります。
認知症と身体障害の状態像を把握し、OT場面と暮らしの場面(特に食事)での対応の両面を考えることが求められます。

三輪書店さんのサイトから、1冊だけでも購入できます。
よかったらご参照ください。

本当は
もっと筋力強化に頼ることなく協調性や身体の働きを高めるということの重要性について
記述したかったのですが、ページ数の関係でそこまで踏み込めず。。。
残念ですが、書ききれなかった分は後日こちらのサイトにて掲載していければと考えています。

特別公演@認知症ケア学会2020年度関東ブロック大会

一般社団法人日本認知症ケア学会2020年度関東ブロック大会(web配信)において、特別講演を行っています。
配信期間は本日3月22日(月)14:00〜4月30日(月)24:00まで。

テーマは
「認知症のある方の食べるチカラを取り戻そう〜観察から始まるアセスメント〜」

視聴申込は、こちらから。

サイト更新:基本のスプーン・コップ操作

サイトを更新したのでお知らせします。

食事介助について>基本のスプーンテクニックとコップ操作
https://yoshiemon.info/meal-assistance/basis-2/

日総研オンラインセミナー再配信開始

  

 
日総研で
オンラインセミナー「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
始まりました。

前回、たくさんの方にご視聴いただき、ご好評にお答えして再配信されるとのこと。

してはいけないスプーン操作
基本となるスプーン操作
そしてそれらの理由が明確にわかります。

基本となるスプーン操作ができて初めて
目の前にいる方の本当の食べ方を観ることが叶います。

適切なスプーン操作ができて初めて
食べ方の評価の入口に立てるのです。

まだまだ多くの現場で
スプーンを口の中まで入れたり
一口量をスプーン山盛りにしたり
斜め上にスプーンを引き抜いたり
喉頭の動きを目で確認することなく
介助しているという現実があります。
しかも、自分がそうしているという自覚すらなく。

さらに
「口を開けてくれない」
「溜め込んで飲み込んでくれない」と
認知症のある方の食事介助の困りごととして挙げられますが
それらは認知症のある方が原因ではなくて
不適切な食事介助との相互作用の結果です。

前編では、食事介助の現場で起こっていることと操作の基本について明確に説明しました。
後編では、複数の事例をもとに、どのように観察し考え対応したのか具体的に説明しました。

目の前にいる方が
どうしたら安全にスムーズに美味しく食べられるようになるのか
困っている方には、職種を問わずきっとお役に立てていただけると思っています。

サイト記事更新しました

サイト記事更新しましたので
お知らせします。

「時間をかけて良くなっていく」

「Activity選択の考え方」

時間をかけて良くなっていく

当たり前のことですが
時間をかけて食べ方が悪くなってきたら
それ以上の時間をかけて良くなっていくものです。

ハウツー的思考回路をしている人や
「食べさせている」「飲ませる」ことしかしてこなかった人には
「食べることの援助」「飲むことの援助」との違いがわからないかもしれませんが。

誤介助にすら適応しようとした結果として
誤学習が生じた場合には
正の介助をすれば正の学習が生じ、その結果として食べ方が良くなってきます。

ただし
学習ですから、時間がかかる

誤学習が強固であればあるほど、時間がかかります。
食べ方が良くなってきても体力が消耗してしまえば
残念なことですが、生命が尽きてしまうこともあり得ます。

だからこそ
誤学習が生じないように
誤介助をしない方がよっぽどラクです。

また、現場あるあるですが
実は認知症のある方の食事介助の場面において、スプーンの適合の問題は大きくて
そこにきちんと介入して言語化している作業療法士はまだまだ少ないように感じています。

それは
再学習の過程において
必ずスプーンの使いにくさの訴えがあるということなんです。
適切なスプーンでも。
というか、適切なスプーンだからこそ、といってもいいかもしれません。

スプーンというのは、手指に密着して使う道具ですから
手続き記憶化しやすい道具です。
しかも毎日3食繰り返し遭遇する場面であり
食べようとする意欲が高ければ高いほど切実な場面となります。

認知症のある方は
たいてい、使いにくいスプーンであっても必死になって適応しようとして
代償動作を獲得します。

その時その状況で代償動作によって食べることができていた。
その動作パターンを違うパターンに切り替えるわけですから
しかも、手続き記憶化していて、遭遇頻度も高く、ニーズも高い場面において。。。
実際、強い違和感を抱いて当然なわけです。

ですが
その訴えが正当であるかというとそれは不当な訴えです。
ここで対象者の方の訴えを間に受けて
「対象者が使いにくいと言ってるから良くないスプーンだ」と受け止める職員もいますが
それはあまりに事実認識が乏しいと言えます。

スプーンを工夫する作業療法士は決してここでメゲてはいけません。

対象者の方の再学習が進展すれば
「使いにくい」と言う訴えは自然消滅してきます。
そこまでは説明をしつつも、対象者の方に頑張り続けられる努力を支えることが必要です。
そうすれば、いずれ必ず前のスプーンよりも自力摂取がスムーズになるという「結果」が現れます。

要するに
慣れるには時間がかかる
わけです。

私たちだって
いろんな決まり事が変わった時に完璧に即応できないことってあるでしょう?
つい、うっかりとか、あぁそうだったと言う過程を経て
完璧にできるようになっていくじゃありませんか。

ただし
その前提として
スプーンを工夫する作業療法士が「適切な工夫ができる」ということが問われています。

ここは作業療法士自身の問題で
どういう上肢操作能力があるから、どういう工夫をするのか
ということが明確に評価・洞察・判断できていて初めて適切なスプーンを工夫することが叶いますが
果たして果たして。。。
スプーンといえば、誰に対しても、単に太い握り手の思い自助スプーンを提示してしまう作業療法士もいるのが現状ですから、このことが問題をややこしくしています。

きちんとした評価のもとに提供された自助スプーンでなければ
使いにくくて当然ですから「使いにくい」という訴えは正当な訴えと言えます。

臨床最前線で
なんとか目の前にいる方をどうにかしたいと願うのであれば
まずは、自分自身の臨床能力を高めるしかありません。

自分の評価を明確にして整合性のある論理的な説明ができるように。


 よく「わかっているけど言葉にして説明できないだけで」っていう作業療法士もいるでしょう?
 それはあり得ません。
 本当にわかっていたら、きちんと言語化できるものです。


自分の見立てに確信があれば
仮に他職種に否定されたとしても、それは否定する人の問題であって自身の問題ではないと区分けすることができます。

 この問題には散々悩まされてきました。。。
 ナイーブといえばナイーブですが、私も幼すぎたので
 自己防衛のために他者を否定する人がいるとは思いもしませんでしたから
 かつて、ごむてつさんに「足を引っ張られたら喜ばなくちゃいけない」と

 教えてもらった時には心底驚いたものです。

仮に、対象者の方が「使いにくい」と言っても
その感情は今までとは異なる身体適応を要求されている戸惑いなので
当然の感情であり、慣れれば必ず使いやすさを実感できるようになるから
今、使い続けていただくことが重要なのだということがわかります。

そうすれば、単に「とにかく使って」というのではなくて
「あなたの今の戸惑いはもっともだけれど、慣れていないだけ。
 慣れれば必ず前のスプーンよりも使いやすくなって
 ラクに食べられるようになるから
 今、使いにくいと思うけど頑張って使い続けてみて」
と説明できるようになります。

この時に提供したスプーンに確信があるか、ないかが
説明する言葉とともに対象者の方に伝わります。

提供するスプーンについて
どこがどう良いのか、作業療法士自身が明確に把握できていることが全ての始まりです。

対象者の方は
時間をかけて新しいスプーンにも慣れていきます。

この再学習の過程をきちんと観察できていれば
その都度その都度的確な声かけを対象者の方に伝えることができるでしょう。

正の学習を促す、適切な介助方法や環境調整であったとしても
行動変容と学習効果にはそれ相応の時間が必要です。

「食べさせる」のではなく「食べる」ことの援助であれば
その時間の有用性を認識でき、待つことそのものの重要性もまた認識できます。

ですが
本来であれば、そのような時間とエネルギーを使わなくても済むように
最初から予防的対応として適切な介助方法や環境調整をしていれば
対象者の方にとっても
スタッフにとっても
最もコストパフォーマンスが良いのです。

一時的なひと手間を惜しんで
長期的な手間を増やすような関与は
誰にとっても良いことがありません。


サイト記事更新

サイト記事更新しました。

食事介助について>食事介助の基本的な考え方
https://yoshiemon.info/meal-assistance/basis/

オンライン研修会を終えて

 

本日、無事にオンライン研修会
「神奈川県作業療法士会制度対策部福祉用具班と認知症対策委員会とのコラボ研修会」を終えることができました。

参加された皆さま、お疲れさまでした。
講師を務められたNさん
準備から当日の役割を担当してくださったSさん、Mさん
お疲れさまでした。
本当にどうもありがとうございました。

オンライン研修会は、可能性があることを実感しました。
ただ、対面研修とは違う準備もやっぱり必要ですね。
録画配信とも違うし
当日オンラインでの共有研修会ならではの準備。

終了後の反省会も楽しかったです。
三人よれば文殊の知恵。
今後の展開も見えてきました (^^)