すぐ怒る方への対応その2


私が大好きな「ゲド戦記」
(映画じゃなくて原作の方です)
なかでも「帰還 ゲド戦記最後の書」は何回も繰り返し読んでいます。

ファンタジーなんだけど
驚くくらい現実を反映してもいます。
臨床心理学者の河合隼雄の本で紹介されていて
それから読み始めたのですが、もっと早く出会えていたら。。。と思った本です。

テナーとコケばばとのやりとりがものすごく深くて鋭くて。。。
テナーという女性は昔ある国の女王として奉られ深い闇の世界に暮らしていました。
コケばばは魔法使いではなく女まじない師として暮らしています。
この本では「知と力」の暗喩として「魔法」が登場します。
ちょっとコケばばの言葉を引用します。
 
・・・・・・・・・・・・・
p.81より
「(前略)
もし、わしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。もし、おかみさんがあの子みたいに一つしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(後略)」
・・・・・・・・・・・・・

言ってくれなきゃわからない

まさしく、まさしく!
見る目があるから相手のことがわかる。
見る目がなかったら相手に言ってもらわないとわからない。

認知症のある方のほうから
何を怒っているのか解説してくれることはありません。

認知症のある方のほうから
食事介助ではここが食べにくいのでこうしてくれたら食べやすくなると
解説してくれることもありません。

こちらに見る目があれば
何を怒っているのかがわかるし
どこが食べにくくなるかもわかるし
だから、どうしたら良いのかもわかるのです。

臨床能力を高めるうえで最も大切なことは、見る目を涵養することなんです。
検査やバッテリーや理論や論文の読み書きは観察の視点を増やすことはあっても
観察力を磨くことに直結はしていません。
観察力を磨くことに直結するのは基本的な知識の習得です。
ここで怠られがちなのが、概念の本質を理解する力です。

「構成障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「遂行機能障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「目標って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?

往々にして、専門用語を使ってはいるけれど
専門用語の概念の本質を理解していなかったりします。
だから、日頃の臨床場面で
五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしたり
トレイルメイキングテストをしているのに
端的に明確に即答できなかったりするのです。
目標を目標というカタチで設定できずに方針や治療内容を目標として設定してしまうのです。
HDS-RやMMSEをとっても
日頃の臨床場面で記憶の連続性がどの程度あるのかを根拠にした声かけができなかったりするのです。

端的に明確に答えられないということは
わかっていないということなので
わかっていないから目の前で起こっている事象からそれらの障害を観察することができないのです。
(時々、わかってはいるけど言葉にできないだけ。と言う人もいますが、それはあり得ません。
 わかった気になっているだけなので言葉にできないのです。)

目の前で怒っている方が何に怒っているのかを
観察できないのは、こちらの能力不足のせいで
認知症のある方が怒るには怒る必然性があって怒っています。
その必然性は、その時その場のその関係性の中にいるあなたにしかわからない。
私たちは専門家としてそれだけの責務があるのです。

「あの人はすぐに怒る」
確かにそうかもしれません。
でもそれって専門家でなくてもその程度のことはわかりますよね?
怒りという形で表現しているもの、怒りに反映されている能力と困難と特性を把握できるから専門家なのではないでしょうか?

認知症だから
能力が低下しているからすぐに怒る。とは限りません。
むしろ能力があるからこそ、すぐに怒る方だっています。
見当識と記憶が曖昧になると
現実の体験・感情と、過去の体験・感情が混同されてしまうことも起こり得ます。
そこを解きほぐさないと。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

たいていの場合に
専門家としてすべきことをすっ飛ばして
「どうしたら良いのか」悩んでいるわけです。。。
だから、適切な解を見出せるわけがない。

私は生活障害の場面から
反映されている能力と障害と特性を観察しています。

障害を観察するには認知症固有の知識が必要ですが
臨床家としての基本的な臨床態度は
どの障害・疾患・分野でも共通しているものだと考えています。

認知症に関する質問を受けて
私が危機意識を抱いているのは
これって本当に認知症限定のことなんでしょうか?ということです。
認知症はOTが対象としてから、まだまだ蓄積が少ない分野です。
だから表面化しているに過ぎないのではないでしょうか?

すぐ怒る方への対応


「すぐに怒る方がいてどうしたら良いのかわからない」
という質問をたくさんいただきます。

いくら専門家といっても
怒られたら嫌だし怖いですよね。
人として当たり前の感情は否定せずに受け止める。

でも、同時に、貴重な情報収集の機会として活用すべきです。

「怒る人がいる→怒らないようにするにはどうしよう」
というような表面的な対応を考えるのは、もう卒業しましょう。

怒る人は、いったい何に怒っているのかを情報収集することから始めます。

ここでいう情報収集とは
「〇〇に怒っていたのかも」
「△△に怒っていたのかも」
と勝手に考えるのではなくて
認知症のある方が怒った場面を振り返ります。

認知症のある方と自分がいる場面、周囲の環境は
どんな状態だったのか
認知症のある方が感受したであろう視覚情報や聴覚情報は何だったのか
自分は何をどんな口調でどんな風に伝えたのか
その時の距離や身体の動きはどのようだったのか

次に
認知症のある方の
記憶の連続性や見当識、言語理解力や言語表現力を把握できていれば
上記の環境情報をどのように感受し認識したのか推測できます。

そうすれば
回避すべき言葉や口調、表情や態度、場面設定が
自然と一本道のように浮かび上がってきます。

多くの場合に
認知症のある方の記憶の連続性や
言語理解力や言語表現力を把握できていないことが多々あります。

その方の特性も把握できていないので
踏んではいけない地雷を無自覚に踏んでいることもあります。

認知症のある方が怒りっぽいのではなくて
実はこちらの声かけを理解できないから起こっていることも多々あります。
身体的な疾患、つまり具合が悪くて自身の状態を的確に伝えられなくて
怒ってしまうことも多々あります。

怒らせないようにする方法がわからないのではなくて
認知症のある方が何に怒っているのかわからない
どうしたらよいのかわからないのではなくて
何が起こっているのかわからない
つまり、対応の問題ではなくて評価の問題であり
問題設定の問題なのです。

認知症のある方の困りごとを解決しようとするのではなくて
自分が認知症のある方に困らされていると無自覚に判断している
自分の困難を認知症のある方の問題として投影しているのです。

こういった専門家と呼ばれる人たちの現実は
潜在していて表面化していませんが
実は、いろいろな場面でカタチを変えてたくさん起こっています。

まずは
問題設定を変えてみましょう。
そうすれば、情報収集しようと自然と思えます。

喉頭挙上能は変動する


例えば、ALSをはじめとする神経筋疾患など疾患によっては
喉頭挙上の低下は確かに筋力低下として起こりえます。

ですが、そのような疾患のない、生活期にある方で
喉頭不完全挙上する方はたくさんいます。

ところが
食べ方を観察していない職員は見落としています。
開口が良かったりすると尚更です。

ほとんど喉頭が動かず
咽頭部に食塊が貯留しているのに
食べ方の危険性を把握できなかったりします。

ムセていないから

この、ムセへの過大評価はやめてほしいと思います。

それより
喉頭の動きをきちんと目で見て観察することの大切さを強調してほしい。

喉頭挙上能は、変動します。

姿勢によって
頭頚部の支持性によって
介助者のスプーンテクニックによって
食形態によって

私はかつて
silent aspiration(ムセることすらできない状態)の方に4名遭遇したことがあります。
そのうち3名の方は改善しました。

喉頭がほとんど動かない状態だったのに
介入を初めて3日目には、常にではありませんが、喉頭完全挙上するまでになりました。

この事実をどう考えますか?
筋力ってそんなに簡単につくものでしたっけ?

観察力を磨く


働いていれば
「どうしたら良いのだろう?」と悩むことはたくさんあります。

そのような時には
考えるのではなく
誰かに聞くのでもなく
観察に立ち戻ります。

食事介助でも
ポジショニングでも
BPSDへの対応でも
Act.の選択でも
どうしたら良いのか。。。ということは
評価さえできていれば、一本道のようにスーッと浮かび上がってくるものです。

〇〇という困難はあるけれど
△△という能力がある。
⬜︎⬜︎という状況を☆☆と認識しているだろうから
**という対応をする。というように

浮かび上がってこない時には
評価ができていないから
そして、そういう時にはたいてい観察ができていないんです。

認知症のある方の言動を見落としているか
自身の非言語を含めた言動を見落としているか
それらを見誤っているかのどれか、もしくは重複です。

じゃあ、どうしたら
見落としなく見誤ることなく観察力を磨くことができるのか
了解をもらって録画しましょう。
そして繰り返し繰り返し見返しましょう。
虚心に見返すことがポイントです。
そうすると知識がなくても違和感を覚える場面があるはずです。
知識があればハッと気がつくことができます。
意図していなかった自身の言動の不適切さに気づくこともあるでしょう。

観るということは、事実をありのままに観るということです。

専門家と呼ばれる人たちが陥りやすい罠は
事実をありのままに見るのではなくて
あらかじめよく耳にする言葉ですぐにくくってしまうことです。

よく使われているギョーカイ用語(専門用語ではない)でくくる
ということは
事実をありのままに観るのではなく
判断を交えて見ている、つまり思い込みをもって見ている
ということを表しています。

こういう人たちは本当に多いです。
OTも多いですけど他の職種の人たちも多い。
というか、そうでない人の方が少ないんじゃないかな?

考えてみれば
卒前卒後の養成過程において
観察をさせ言語化させる機会ってあんまりないんじゃないでしょうか。

専門家としての観察力ってとても重要な能力なのに
検査やバッテリーや論文や理論の重要性が語られることはあっても
観察の重要性って何故かあまり語られていません。
(本当に観察できてる人の少なさを示しているんじゃないかと思います)

グループワークの導入が進んでいますが
認知症のある方への対応を考えさせるようなグループワークは
百害あって一利なし。です。
観察よりも勝手な思い込みを助長させてしまうから。
 
もしも、グループワークをするなら
ある場面を見させて、観察・言語化しあう。
そして最後にきちんと解説できる人が解説する。
というような体験が必要だと思います。
(解説者が専門家としての観察力を持っていることが必須ですが)

養成の問題は養成の問題としてありますが
臨床での問題は待ったなしです。
誰かの助けを待つよりも自分で自分を育てる方が
手っ取り早いし確実でもあります。

先に挙げた観察力を磨く方法は
今すぐに自分一人でもできる方法です。

臨床能力を高めたいなら観察力を磨くべきです。
観察の解像度を上げることができれば
より細かくより明確に状態像が把握でき
より精密により適切な場面設定を含めた対応ができるようになります。
そのことは確実に認知症のある方に伝わります。
その結果、認知症のある方の本来の能力を目にすることになり
自身の努力を支えられることにもなります。

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「認知症のある方への声かけ・対応の工夫」
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入門編として
まず私たちがきちんと整理して対応すべき声かけの工夫について説明しています。
内容は障害と能力の観点から整理したもので他では聞くことができない内容となっています。
  
「摂食・嚥下5相で理解する食事中の観察ポイントとスプーンテクニック」
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基礎編として
「食べる」機能解剖をご説明し、その上でしてはいけないスプーン操作
望ましいスプーン操作とその意義を説明しています。
この基本ができて初めて個々の対象者の状態に合わせた工夫が成り立ちます。
諸学者はもちろん、後輩に指導する立場の方も今まで何となく行なってきたことの意味が
明確にわかるようになります。

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「ムセたらトロミ」はやめましょう!

対象者の方が
飲み物を飲んでいてムセたら
すぐにトロミをつけている人がとても多いという現実がありますが
それはもうやめましょう!

やめるべき理由は
1)その方がどのように飲んでいるのか観察していない
  その方の飲食の能力も困難も把握していない
2)ムセる人にはトロミをつけるべしと
  教わったことを漫然と実行しているだけ
3)トロミという粘性の高いものを摂取させられると
  かえってその方の摂取能力を阻害してしまう場合が多い
です。

確かに
トロミをつけた方が良い状態の方もいますが
トロミをつけるよりも先に修正すべき介助者の対応が
為されていないこともあります。

例えば
覚醒不良のまま摂取させている
口腔内が汚染されたまま介助している
痰がらみのまま摂取させている
頸部後屈位のまま摂取させている
足底設地為されていない
注意散漫なまま介助している
不適切なコップ介助をしている
不適切な1口量を摂取させている
オーラルジスキネジアの自己抑制のタイミングを見ずに介助している
などなど。。。

上記状態を改善させずに
ムセたらトロミ、さらにムセたらもっとトロミをつける。。。
現場あるあるですよね?

かつて
200ccのお茶にトロミ剤を大さじ2杯つけている場面に
遭遇したことがありますが
飲めませんよ?
同じ粘性で飲めるかどうか、飲んだ時の感覚を知るためにも
ぜひ、試していただきたいものです。

おくりこみにパワーはいるわ、
咽頭のあたりにこびりついた感覚がするわ、
嚥下した後も違和感がずっと続きます。

私たちは
その違和感を解消しようとして
唾液を繰り返し飲み込むことで解消することができますが
さて、該当する方々はそこまで実行できるのでしょうか?

寝たきりに近いと
口唇や舌、口腔内が乾燥してしまいがちです。
そのような方の咽頭付近にトロミのついた飲み物が
貯留し続けることで細菌感染の温床となる危険性はないのでしょうか?

誤解を招きたくないのではっきり言いますが
トロミ剤が悪いと言っているわけではありません。
必要な方には必要なトロミをつけた飲み物を提供すべきです。
悪いのは
「ムセたらトロミ」
「うまく飲み込めない方にはトロミ」
という漫然とした対応です。

例えば、認知症のある方は
睡眠導入剤や抗不安薬、抗精神科薬を処方されることも多々あって
オーラルジスキネジアのある方は少なくありません。
 
オーラルジスキネジアのある方の飲食介助は、実はとても難しいものです。
準備期や口腔期に問題が生じていますが、
咽頭期には問題がないことの方が圧倒的に多いのです。

ところが、オーラルジスキネジアがあることにすら気づかずに
「なんか食べにくそうだから、トロミをつけてみようか」
とトロミがつけられてしまい
口腔期に一層の負担をかけて、結果、
おくりこみができずにため込んでしまうというのは現場あるあるです。

  講演などの質疑応答で
  「ため込んでしまって飲み込んでくれない人がいるのですが
   どうしたら良いのでしょうか?」
  という質問をいただくことはよくあります。

  ためこむというのは、おくりこみ困難の結果として起こっていることですから
  本来は「送り込むのに時間がかかる」という事象として観察・判断すべきです。
  そのような問題設定ができれば
  「現在の食形態は口腔期に負担をかけている」
  「楽に送り込める食形態を選択しよう」と考え直すことができます。

  対象者自身の食べ方そのものを観察・洞察するのではなく
  介助者にとっての介助困難を対象者の問題と認識してしまう傾向がある
  という根本的な大きな問題が現場には存在しているのですが
  明確に把握し危機意識を抱いている人がどれだけいるのでしょうか。

ムセ→トロミ
という漫然とした根拠のない対応は、もう卒業しましょう。

立ち上がれない→筋力強化
という漫然とした根拠のない対応と、同じコトが違うカタチで起こっています。

エビ春巻


お休みの日によく作ります。

< 材 料 >
   むき海老 300gほど
   玉ねぎ  小さいものなら1/4個ほど
   はんぺん 1枚
   青しそ  10枚
   春巻きの皮 10枚
   片栗粉・ごま油・塩胡椒 適宜

1)むき海老を荒みじんに切ります。
2)玉ねぎは、みじん切り
3)はんぺんは、ビニール袋に入れて手で押しつぶします。
4)そこに、1)と2)と千切りにした青しそと片栗粉を入れて
  よく混ぜてから塩胡椒で味付け
  お酒や生姜を入れる時も。

私は、ごま油が好きなので
ごま油で揚げ焼きにします。

味がついているから、そのままでも美味しい(^^)
お好みでケチャップやソースをかけても。

* はんぺんは膨らむので量が多すぎると破裂してしまいます
  水気をよく切った豆腐でも作れます

心身の使い方は重度の認知症でも改善できる


人は生き物ですから
どうしても老化は起こります。

老化の一環として量的低下も起こります。
若い頃は記憶力が良かったのに
年をとるとめっきり落ちてしまったとか。
かく言う私も高校生の頃は部活の先輩も後輩も含めて
みんなのお誕生日と電話番号を覚えていたものですが
今は、とっても無理!
覚えることは選択肢にもあがりません。
まず、スマホを取り出しています。

老化は生き物としての宿命です。

アンチエイジングも一つの考え方ですが
それにしたって不老不死というわけにはいかないので
限界があるものです。

であるならば
なるべく心身の機能を維持できるように考えるだけでなく
衰えていく心身と上手に付き合う方策を考えても良いのではないでしょうか。

流動性知能が衰えても、結晶性知能は維持されやすい
とはよく言われていることです。

流動性知能をトレーニングするのではなく
結晶性知能を活用できるようにする

今や覚えていなくても
PCやスマホを開けば情報を得ることは容易です。
人に要請されるのは、情報の真偽や適否を見定めることです。

結晶性知能を活用する
まさしく、智慧や叡智が求められている。
その点において(背景は真逆であったとしても)
認知機能が低下しても暮らしていくことと
情報の海に溺れずに仕事をする、生きていくことに
大きな変わりはないように感じています。

鶴見俊輔は
「耄碌を濾過器として考える。
 大事なことだけ残してあとは忘れていく。」(要旨)
と言っていましたっけ。

それと同じことが身体にだって言えると思うのです。

筋力という量的低下はあっても
身体協調性を高めて対応力を維持していく

食べることに関しての協調性を維持できるような食事介助を意識する

喉頭挙上能は、介助によって相当変わります。
もちろん、対象者固有の病態による場合もありますが
生活期にある方の場合には多くは不適切な介助による誤学習が原因です。
だからこそ、介助を変えると食べ方が変わる
喉頭挙上できなかった方でも完全挙上できるようになります。

立ち上がりに関しても
なかなか立ち上がれずに生活が不便になってきたら
腰背部の同時収縮を使わない立ち上がり方に変えていく

もちろん、重力に負けない+体重を支えられるだけの筋力は必要ですが。
ボディビルダーにならないと暮らせないわけではありません。
MMTで5ないから立ち上がれないわけではありません。
どこまで筋力を鍛えなければいけないのか
その根拠もなしに、立ち上がり100回なんてやっていると
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

結果として起こっていることだけを見て
老化、筋力低下と判断するのではなくて
年老いたとしたら、その年老いた状態なりに、その時々に応じて
リ・ハビリス(再び適する)の援助となるように

高齢期において
筋力低下・廃用論が吹聴され流布していますが
本当にそうなんでしょうか?

立ち上がりにおいても
食事介助においても
筋力強化をしなくても
立ち上がれるようになる
喉頭挙上が改善するということに当たり前のように遭遇しています。

impairmentは治せないが、disabilityは改善できる。

身体はつながっている
解剖学的にも生理学的にも連続性があります。

連続性があるという身体の働きのメリットを活用できるような
リハビリテーションの実践が求められていると考えています。

 

ジャニーズ喜多川性的虐待と精神医療問題(ごむてつ)


廃人症候群とはずいぶんな言葉ですけど、そうした実体も少なからずあるのだと思います。私はこの言葉は知らなかったのですが、皆様はご存知でしたか?
いろいろ難しい問題がありますが、とりあえず皆が問題を隠蔽せずに取り組み、検討し解決の努力をすることは必要だと思います。


「薬害・廃人症候群」を知っていますか? 東洋経済ONLINE
連載が止まっているのが残念です。言葉の問題かな?

他にも精神医療問題はいろいろありここへ来ていろいろと表面化しつつありつます。(また後で加筆しますが)


私は小学生の時、初代ジャニーズの時から喜多川の性的虐待問題について知っていました。性的なことは全く知らず、もちろん具体的なことは知りませんが、週刊誌の見出しを見ただけでも何となくわかってしまいショックを受けたのです。
子供はそういった超能力者的なところがあるのは、私のように幼児期の記憶が鮮明な人や、子供を育てたことがある人はわかると思います。
大人は汚い、芸能界は汚いと思い、それ以降はグループサウンズやフォークソングのファンでしたが他の芸能には関心がなくなりました。人間不信にも繋がりましたが、反体制反権威主義にもなりました。

誰もが少なくとも噂レベルでは知っていたのに隠蔽され、60年も続き1,000人以上もの被害者を出したのか?
大きな理由の一つは精神科医なども含めて殆どの国民の性的虐待PTSDの理解があまりにも乏しかったからです。昔はもちろん今でもそうだと思います。もちろん他の虐待PTSDについても。
精神疾患の殆どは心理的虐待を含む虐待PTSDです。

性的虐待トラウマの影響は何十年も経ってから休火山のように噴火して、激しい症状を出現させることが多いです。もちろん自殺者も少なくないことは十分予測できます。他にはアルコールや薬物依存症になったり、症状は何でもアリです。
数年~数十年経つと危ないかもしれない、というより危ない人が殆どでしょう。

告発者の多くは性的虐待PTSDの激しい症状と戦いつつ薬を飲んだりしながら活動しています。その薬の副作用や離脱症状、後遺症もあるのでたいへんです。
既に向精神薬害など二次的な被害にあっている人もいるし、おそらく暴力団などの被害にあっている人もいます。もちろん何度も自殺未遂した人も多く、働けなくなり生保をもらっている人もいます。
彼らのうち何人かは「自分は加害者です(でした)」とも明言しています。

私は喜多川のことを知って以降は、ジャニーズ系なんかバカにしきっており関心もありませんでしたが、すっかり彼らのファンになってしまいました。

活躍中のジャニタレはノーテンキに笑顔で歌って踊ってお芝居をしていますが、それが症状という見方ももちろん可能です。精神の解離という防衛機制があり解離性健忘などPTSDの解離症状もあるので。
彼らの足元は薄氷かもしれないし、時限爆弾の導火線はもはや短いのかもしれません。
今後、アルコールや薬物依存症になったり、自殺する人も多いことが予測できます。

解離性健忘のため嘘を言うわけではないにしても、実際にはあったことを「知らない、覚えていない」という人も少なからずいると思います。過去のタレントもほぼ全てそうでした。一旦は虐待を認めても「そんなことはなかった、憶えていない」と戻ってしまいます。
未だに喜多川を賞賛、尊敬しているのはグルーミングやマインドコントロールの影響が続いているとも言えますが、ストックホルム症候群でもあるかと思います。

加害者を恨めば良いわけではもちろんありませんが、被害を受けているのにむしろ加害者に感謝している人がDVや虐待など他者に攻撃性を向ける傾向にあります。

やはり「事実の子たれよ、理論の奴隷となるなかれ」です。
事実を尊重しそれに基づいて考えなければ解決もしません。

一般に虐待被害者が虐待することが多く虐待は連鎖することや、犯罪者もまた虐待された人であること知られていますが、もちろん虐待しない人もいます。
一説によると虐待された人が虐待するのは7割だとか?

前者と後者の違いについて荒っぽく言えば、前者は虐待された苦しみに向き合わず克服の努力はせず誤魔化すために行動化する、後者はPTSDの苦しみを受けうつ病(と敢えて言っておく)などで苦しんでも、それを自分のこととして引受け、向き合わざるを得ないので何とか対処、克服しようとする、ということです。たとえ成果が得られなくても…
こうした意味では告発者よりも活躍中のタレントの方が危ないのかもしれません。

ジャニー喜多川自身もまたそういう人です。
彼は朝鮮戦争に従軍または軍属として関わりましたが米兵にレイプされたとかそれ以前に父親にも性的虐待を受けていたという話もあります。その妥当性や真実性はともかくとして何かそれに近いことがなければあんなに大規模な性加害者になるわけはありません。他のトラウマもあったのでしょう。

その父親もまたどうか?などと思うわけですが、私はこのような問題を長年追求しているので具体的ではなくともある程度のことはわかっています。
私の家系も精神病の家系であり語弊はありますが「呪われた家系」でもありましたが、700年も先祖を辿って大いに腑に落ちたことがありました。一応由緒ある家系でもあります。


ジャニーズはハッキリ言ってエンタメの進歩や質の向上も阻害してきたと思います。
もはやJPOPがKPOPに追いつくことは考えられません。

一つはここでは触れませんがリズムの基本が身についていないということ。これは楽曲提供者の山下達郎なども基本的には同じです。
やはり大事なことは彼は自分が受けた虐待の苦しみに向き合わず、それを誤魔化すために性加害を行い、それを行ってしまい「うまく行ってしまった」がために止めることもできず、老人になるまで続けたという事実です。金儲けはできてもこうした人間から価値のある芸術が生まれるわけはありません。

怒る人も多いと思いますが、ジャニオタと言われる人たちもまた、ストレスの原因となるような自分の問題や周囲の問題に向き合って解決しようとするのではなく、「輝く少年たちから夢と愛と勇気を与えられ」誤魔化しつつ頑張っているように思われます。それがあってはいけないとは言えませんが。

実際にテレビによく出たりCDが売れているからといって、ジャタレの人気はそれほどあったわけではなく、嫌いだとか関心がないという人が多いはずです。むしろ一部の人だけを対象にしていましたが、しコアなファンも少なからずいてかなりのお金も出すので事務所は儲かるしメディアやマスコミの支配も可能だったわけです。
もちろん私の友人知人にジャニーズが好きな人はいないし、何人かの女友達に聞いてみたら好きな人もいてその人は熱狂的だったけど殆どの人は好きじゃないし関心もない、ということでした。
言ってみれば人気も幻想だったわけです。多分に無自覚ですが事務所側はその幻想を上手く乗っかって支配するのが上手かった。そもそも性加害は皆さん知ってたのだからメディアやマスコミの方から拒否してテレビにも出さず、他のタレントを発掘して出せばその方が視聴率も上がったでしょう。

皆が共同幻想に支配されていたとも言えます。
幻想は条件が整えばあっさりと幻滅に変わりますが、そのためには隠蔽されていた事実を知るべきでしょう。

嘘をついて問題を隠蔽したり、見て見ぬふりをして無かったかのようにするからこそ悪質な幻想は大きく強固なものとなります。人を騙せば騙された人もまた人を騙します。

止めれば良いだけの話であっても、でも止められない、止められなかった。ウクライナを見ればわかるように戦争だって似たようなものです。もちろんイジメの問題なども。
基本的にはファシズムも同じだけど、多くの人を巻き込んでしまえばもう止められません。

新興宗教にも似た構図です。伝統宗教があるのに新興宗教は要らないと思う人も多いでしょうけど、伝統宗教は自分の内面と向き合い常々自分を顧みることでもあり敢えて自分に課題を課すことになりますが、新興宗教はまやかしであっても安易な救済や利益を与えます。
もちろん悪いばかりではないし新興宗教を全否定することもできませんが。

精神疾患も薬物で誤魔化すのは止むを得ない面もあるし、全否定するわけではないが害やリスクも高いし、やはり本質的な害のない治療を行ったほうが良いというのが私の立場です。


喜多川が死んでも、私が生きているウチにこの問題が表面化するとは思いませんでしたが、この機会に芸能界、メディア、マスコミだけでなく、日本の社会全体の浄化、適正化、正常化につながり社会全体が人権を尊重した精神的にも豊かなものになることを期待しています。
もちろん性犯罪や性的虐待だけでなく、他の犯罪や虐待を防ぐためにも必要なことです。

目先のことだけを考えるべきではありません。
ファシズムやスターリズムのようにこれから100年は問い続けていかなければならないと思います。
こうした問題に向き合い克服する努力を怠ったからこそ、毛沢東や北朝鮮の独裁の問題、ポルポトやチャウシェスク、プーチンとウクライナ戦争の問題も起こったと言っても良いと思います。

WW2が終わった時点で殆どのドイツ人はホロコーストを知らなかったそうですが、もちろん全然知らないわけではなく知ってて知らぬふりをしていたはずです。もちろん現場を見ていたわけではないし、そういう意味では知らなかったのですが。
大風呂敷を広げるのは私の悪い癖かもしれませが、そういう人は少ないし、いても良いだろうと思っています。

冷静に考えれば誰もそんなことしたくないし、全くする必要もないのに、絶対にすべての人がやらなければならないことになってしまう。しなければ殺される。

今後に役立てなければ喜多川の霊も(おそらく地獄から)浮かばれないと思います。
そうすれば彼の功績も反面はあったとこになるかもしれませんが、今のままでは彼の功績など認められません。基本的には有能なタレントやアーティストが出ることを阻害し、むしろエンタメの質の低下をもたらしたと思います。

暴力を使って(もちろん間接的に)告発者を攻撃したり殺害したり、政治家などの有力者に性的に上納をしたり、セクハラはもちろん枕営業をけしかた方ものった方もセクハラだし(お金よりもずっと悪質だし、売買春というより人身売買に近いか?)そういうことはもう止めるべきです。
「日本社会の闇」とか「心の闇」といった言葉で片付けているだけではいつまでも解決しない、そういうことは明るみに出して克服すべきであり、公序良俗に反することは違法ではなくても止めるべきであるということです。
そうしなければ進歩はありません。

とりあえずココでは、 J.ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房 をお勧めしておきます。
増補度版は高いので、古本でそうではない白い表紙の旧版を入手したほうが良いと思います。数ページ付け加えられただけで、本文は同じです。

こちらはたいへん参考になります。私もほぼ同意見です。もっと早く世の中が変わって欲しいけど。

以下の動画の石丸志門さんの話はとてもわかりやすく参考になると思います。
精神科に10年以上通った体験を詳しく語っています。

それにしてもハッキリ言って精神科医はバカすぎ。
普通は初診で聞けばわかるし分からなければ治療が進まないことを10年以上もかかっている。
全体的にレベルは低いしたいていはこんなもんでしょうけど。
PTSDの場合特に薬は合いません。

その間、薬で余計に悪化するし、自殺未遂を繰り返すし、仕事もできなくなり生活保護になってしまうし。
他の被害者も向精神薬害の二次被害に遭っている人が多いです。

被害者1,000人以上とも言われており、今後もそういう人がどんどん増えるはずで、今は元気に輝いて歌ったり踊ったりしているタレントも数年数十年後には危ないです。

具合が悪くても頑張っている当事者の会の皆様には頭が下がります。

初代ジャニーズは好きだったんですけどね。ちゃんとハモってたしダンスも上手かった。

科学的ケアの新たな地平をめざして


認知症のある方への対応について科学的なケアをめざしています。
常に実践できているわけではなく、まだまだ途上ではありますが
だいぶ言語化もできるようになってきました。

「科学的」という言葉から、ずいぶん誤解もあったのだということもわかるようになってきました。

人の人体構造という面に着目すれば
物質的な側面からの検討が行いやすく
データに基づいて確認もしやすいと言えると思います。

一方、人の存在としての全体性という面に着目すると
物質的な側面からの検討やデータに基づいて確認することは非常に困難となります。
そんなことは当たり前なのですが、
「科学的ではない」という批判を恐れ
かつての(今も?)作業療法士たちは
EBMや論文や理論によって科学的武装という戦略をとろうとしたのだと思います。

でも、それって「うまく」いったのかな?

一番重要なことは、結果を出すこと
結果を出してからモノ申せるのに結果を出さずに何をか言わんや

科学的な武装をするよりも、まず目の前にいる対象者の方をよくすること
そして、自身の実践のどこが有効でどこが有効でなかったのかを
明確化できていることが大切だと考えています。
ところが、多くの場合「良くなった!」で終わり。ではないですか?
実践が有効ではなかった時にも
どこが有効でどこが有効でなかったのか、どうしたら良かったのかを
明確化して次に活かすようにすることが大切だと考えています。
でもそうしない人って多いんですね。
  ある人からは「良くなった時に検討していなかった」
  別の人からは「失敗したケースは忘れる」
  と聞いたことがあります。

 
それらを怠って、単に表面的に
「〇〇というケースに△△をしたら良くなりました」みたいな論文を書いても
それらを Good Practice として集めても知見の集積にはならない。
いくら作業理論を声高に叫んでも
目の前にいる方の困りごとを改善するのに活用できなければ
本質とは言えないのでは?

そういった現状を超えて
人文科学としての作業療法の実践者として
その時その場のその関係性において
今、何が起こっているのかを感受し、認識し、判断し、関与を修正しつつ寄与する。

言語化、明確化ができるから、
わかろうとする人には伝えることができるし
その人が再現することを援助できる。

新たな科学的ケアを実践し、提案しています。

今はちょっと忙しいので
オンラインセミナーを開催することができなくて申し訳なく思いますが
もう少しお時間をください。
ぜひ、意欲のある人には伝えていきたいと考えています。