認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解 2


「何もしないと認知症が進行するから何かやらせないと」
こんな風に言う人って案外多いものです。
曰く、「歩かせないと歩けなくなる」「食べ方を忘れないように食べさせる」etc.etc.

こういう言葉を言える人の考え方の根底にあるのは
1)やることのデメリットを考えたことがない
2)認知症のある方の能力発揮を実感したことがない
のではないかと感じています。

私は、現場の最前線で働く人の善意を疑うものではありませんが
「善意で仕事はできない」という当たり前のことになぜ思い至らないのだろうと、常々疑問に思っています。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
「地獄は善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
というヨーロッパの諺があるそうですが、まさしくその通りだと思います。

Activityは暮らしに必須のものではありませんから
日々、暮らしていくだけで失敗体験や喪失体験を重ねている認知症のある方に
なぜ、わざわざ難しい、困るような場面を提供しなければならないのかは、とても疑問に思います。

今から20年近く前に
神奈川県作業療法士会公式ウェブサイトに掲載された
「私たち自身の在りようを見つめる」という記事があります。

そこで書いたように
対象者の方が活動的だと「良い方」と判断され
そのような施設だと「良い施設」と判断されるような傾向があります。
何かやっていることが是とされるわけです。
誤解のないように書き添えますが、私は何も「何もさせるな」と言っているわけではありません。
作業療法士を生業としてきているわけですから、当然「やることのメリット」は
他の職種よりもわかっているわけです。
そして、私は作業のプロですから、他の職種よりも「やることのデメリット」もわかっています。
つまり、なんでも良いからやれば良いとは、決して思っていないのです。
まして、認知症のある方の辛さや苦しみ、困難を聞き続けてきた者としては余計に。

ところが
20年近く経った今でも
「やらせること=是」として、結果として認知症のある方に対して
やったことによってやらないでいたよりも、もっと大きなデメリットを提供している人は
介護保険の事業所が増え、従事する職員が増えた分
当時よりももっと増えていて
しかも善意からの提供なので、デメリットに対して無自覚だったりするわけです。
人間だから失敗は仕方ないけれど、無自覚だと反省や自己修正が効かないのです。
そして、「認知症だから仕方ない」と言ったりするわけです。。。

「何もしないと認知症がひどくなる」から
「なんでも良いから何かやらせる」ことでメリットを感じるのは
いったい、誰なのでしょうか?

「何もしないと認知症がひどくなる」のではなくて
「適切な環境が提供できないと認知症がひどくなる」のです。

「認知症の人におすすめのレク」などの本もたくさん販売されていますが
それらを目の前にいる方に合わせて上手に活用するのなら良いと思いますが
十把一絡げにして、
「塗り絵は認知機能維持に効果があるので塗り絵をしてもらっています」などと言った
ある事業所の職員もいましたが、とんでもないことだと思います。
やんわりと意見しましたが
「説明しなくちゃわからないということは、説明したってわからない」
まさしく村上春樹状態でしたね。
「その人に寄り添ったケア」と口で言うなら
その人に塗り絵が、しかも提供したその下絵が、適切なのかどうか言語化できるはずと思うのですが
大抵の人は、「その人に寄り添ったケア」と言いながらも
大勢に対して一斉に塗り絵を提供したりしているわけです。
2−3種類の下絵を用意して選ばせる程度の配慮はあるにしても。
その上、提供した下絵そのものが幼稚な下絵だったりするわけです。。。

認知症のある方それぞれの障害像の把握ができずに
構成障害のある方に紙箱作りをさせたり、輪ぐさりを作らせたり
ピック病でHDS-R3点の方に折り紙をさせたり
若い頃の趣味活動をそのまま提供したりしているのです。

もちろん、善意からですが
善意が出発点でも知識のない人が疑問を抱くことなく「やって」しまうことほど
恐ろしいことはありません。。。

これは、養成の問題なんです。

Activity提供をどのように考えたら良いのか
という基本的な考え方、指針を明確に教えてもらったことのある人は
一体どれだけいるのでしょうか?

そういえば教わったことがない
と思った方はぜひ、5月24日の研修会にご参加ください。
詳細は ー こちら ー をご参照ください。

「やりたいことをやる」のが
認知症のある方には通用しないというのは
既に実際の現場では多くの人が体験しているはずなんです。

次回は
「やりたいことはない」と言われて困ってしまった
「やりたい」と言ったことを提供したが、全然できなかった
をテーマに書いていきます。

 





認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解


「何もしないと認知症が進行するから何かやらせないと」
「徘徊しないように何かできることない?」
希望を尋ねたら「やりたいことなんてない」と言われた
やりたいことを提供したらできなくなっていた
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

OTだったら、
これらの言葉は一度は経験のある、
他職種から言われたり、自身でも言ったりしたことのある言葉だと思います。

認知症=忘れてしまう
という知識は一般の人にも知られるようになりましたが
認知症の症状は記憶障害だけでなく、遂行機能障害や構成障害なども出てきます。

遂行機能障害や構成障害という言葉を聞いたことのある専門職は多けれど
実際のさまざまな場面の中でそれらの障害がどんな風に反映されているのかを
的確に観察・洞察できる専門職は残念ながら非常に少ないのが現状です。

「OTはActivity!」と公言している人も少なくありませんが
だったらちゃんと実践しようね。と思ってしまいます。。。

私の講演を聞いてくれた人の感想でよくあるのが
「評価しているつもりだったけど、全然できていないと思った」
「ちゃんとやってるつもりだったけど、まだまだだと思った」

というものです。
上には上がいる。ということを知らずにいたということなんです。。。

たぶん、身近に良きお手本がいないんだろうとも思います。
つまり、養成の問題なんですよね。。。

もしも、卒前養成できちんと教えてもらえていれば
良きお手本となる先輩がいない施設に就職しても自分自身で成長していける。
もしも、卒前養成できちんと教えてもらえなかったとしても
良きお手本となる先輩がいる施設に就職すれば自分も成長していける。
もしも、卒前でも卒後でもきちんと教えてくれる人に遭遇しなかったとしたら。。。?
過剰に理想論・抽象論を語ることで(「語り=騙り」と喝破したのは河合隼雄です)
自己防衛をするしかなくなってしまうのかもしれません。。。

私の講演は「いつも具体的で実践的なお話」と感想を寄せてもらいますが
理想は語るものではなく実現していくものです。
OTでも他職種でも理想を語りたがる人はいても
どのように具現化していくのかを具体的に伝えられる人はそうそういないものです。
  少なくとも私は高名な人たちの話も聞いてきましたが、勉強にはなりませんでした。
  他山の石としての学びはありましたが

その区別ができないのなら仕方ありませんけど。

理想を具現化するための基本的な考え方と事例をもとにした具体的な実践例
そして実践に際して気をつけるべきポイントについてもお伝えすることができます。
臨床現場で困っている人にぜひ聞いてほしいと思うのが
5月24日に開催される「Activityの研修会」です。

困っている渦中の人は辛いと思いますけれど
困るということは決して悪いことではなく成長への機会であって
困ることができるレベルにあるということでもあるんです。
OTの中には(他職種も同じですが)困ることすらできない人
自分が困らないように他者を貶める人(その中に対象者も含まれる)もいますから。

今回の研修会は対面研修ですから
(いずれオンラインでも開催するつもりですが)
遠方にいて参加できない方のためにも
こちらで、Activityの問題について書いていこうと思います。

 



第3回DCゼミ対面研修会「Activity」開催します!


大変お待たせしました!
来月5月24日(金)19:00〜20:30に対面研修会を開催します。
テーマは、Activity
場所は、小田原駅東口徒歩3分 おだわら市民交流センターUMECO 会議室7
定員 28名(先着順)
参加費 ¥500(会場代・資料代など)当日現金にてお支払いください。

認知症のある方にやりたいことを尋ねたけれど「何もない」って言われたり、
若い頃の趣味活動を提供したけど全然できなかったり、
これならできると思って塗り絵を提供したのに怒られてしまった…という経験はありませんか?
「OTはActivity!」と意気込んではみたものの、
種目選択と場面設定の工夫についてどのように考えたら良いのか
皆目見当がつかなくて困ってしまったことはありませんか?

認知症のある方へのActivity提供について実践的に役立つ考え方と工夫のいろいろや、
各種障害との関連性、Activityの持つパワーとだからこそ気をつけなければならない点について説明します。
研修会終了後には希望者への相談コーナーも設けます。
ご希望の方には講師の過去の論文の別刷も無料で配布します(部数に限りがあります)

認知症のある方への対応について
現行の常識的対応には、おかしなことがたくさんあります。
現行の常識的対応に限界や疑問を感じている方、
今のやり方ではよくないと思ってもどう改善したら良いのか
わからなくて困っている方にきっとお役に立てます。
職種・分野・経験年数問わず、どなたでも参加できます。

理想や抽象論を語るのではなくて
理想を具現化するための実践のための研修会です。

お問い合わせは、https://yoshiemon.info/contact/ へ
お申し込みは https://forms.gle/Dnsd2hH46GmvVmb59 に必要事項を入力してください。

久しぶりの対面研修です。
ご参加お待ちしておりますm(^^)m

カタチに反映されているハタラキを観る


見た目というカタチに反映されている機能ハタラキを観察できるためには
代償の意義を理解できるだけの知識の習得が前提要件となります。

ところが、
多くの人は、それらの過程をすっ飛ばして
「どうしたら食べてもらえるのか」
「どうしたら帰宅要求しなくなるのか」
と考えます。

そして、
食べてもらえず
帰宅要求はおさまらず
といったことになりがちです。

帰宅要求に関して対応の工夫で頑張っているところもあるでしょうし
表面的に抗精神薬を使用してしまうこともあるかもしれませんが
食事に関して、抗精神薬を使っても食べられるようにはなりません。
(他に問題があるので当然です)

まず、食べられなさをきちんと観察することから始まります。

食べられなさを観察せずに
その場の解決を目指して対応して、仮に問題が解決されたように見えても
それは真の解決ではなく、単に問題を先送りしているばかりか
余計に問題を拗らせる(代償に代償を重ねさせる)ことになります。

大声がひどく
自分で食べなくなってしまった方に
最低限の栄養と水分の摂取を要請して
単に食べさせていたケースでは
舌が硬くなり後方へ変位してしまい
送り込みができなくなってしまい
「溜め込んで飲み込んでくれない」という状態になってしまいました。。。
(私が関与してから自力摂取できるようになりましたが)

このような対応は現場あるあるです。
観察しないから
どう食べて、どう食べられないのか、洞察もできない
どのように代償していて、どのような能力発揮しているのかわからない
食べることの援助ではなく
食べさせることになっているから
食べる能力を落としてしまい
職員側の対応のまずさで食べられなくなっていることがわからない
(実は、無自覚には自分達の対応のまずさを感受していますが
 自覚的になると、自分達の行動を修正しなければならなくなるので
 そのような局面を回避しようとして自己防衛しようとして
 誰かのせい、認知症のせい、と現実を否認する人が出てきます)

食事介助でも
生活障害やBPSDの場面でも
観察・洞察できていないために適切な対応ができないというのは共通した課題です。

食事介助は、食べられるようになったか、食べられないままか
というのが、はっきりと現れますので
私たち介助者の自己反省・自己学習をするのにもってこいの場面でもあります。

見た目というカタチに反映されている機能ハタラキを観察することから
全ては始まります。

 

代償を表面的に修正してはいけない


代償の意義を見失うと対応を誤ります。

例えば、食事場面において
すすり食べは「食べ方が悪い」と誤解され修正しなければならないと誤解されがちです。
実は、すすり食べというのは「うまく取り込めないから何とかして食べようとする」代償
つまり、能力発揮なのです。

そこがわからず
すすり食べを表面的に修正しようとすることは
そして、わかっていないからこそ修正しようとするわけで
ろくなことにはならないのです。

もっとわかりやすい例を示すと
腓骨神経麻痺の下垂足に対して
股関節を過剰に屈曲させた歩行をすることで躓かないように代償しているわけですが
股関節を過剰に屈曲させるなと指摘したら足先が躓いて転んでしまいますし
足関節を背屈させて歩けと「言う」だけで背屈できるようになるわけがありません。

代償するにはするだけの必然があるので
代償しなくて済むような対応ができれば
結果として代償は無くなります。
そちらを目指すべきなのです。

ただし
なんでもそうなのですけど
対象者の困難の改善を目指す時に求められるのは
「適切な見立てと見立てを具現化できる技術」です。
多くの場合に、適切な見立てができる人はそんなに多くありませんし
見立てを具現化できる技術を持っている人はもっと少ないのが現実です。

代償できるだけの能力をより合理的に発揮できるように援助するのではなく
代償すらも抑圧させたり
別の代償を要請しているに過ぎないことも多々あります。。。
そして、そのことに気づくことすらできない。。。
短期的に「改善」と判断されてもその後でもっと大きな困難に遭遇しますが
「認知症の進行」と判断され、自身の対応の振り返りがなされない。。。
認知症あるあるです。

そんなことをしないで済むように
まっとうに仕事ができるように
まずは、観察をしっかり行える対人援助職になりましょう。
観察できずに適切な見立てができるわけがありません。
適切な見立てができないのに技術を磨けるわけがありません。

観察ほど重要なことはありません。
観察できれば代償の意義を見出せるようになります。


今年度の講演は終了


今年度の講演は
おかげさまですべて無事に終了しました。

アンケートを拝見すると
評価の重要性の再確認、観察・洞察の再確認ができたというご感想を多くいただけて
(そのことこそを伝えたかったので)
私も嬉しく思いました。

業務多忙により、研修会主催できず「やるやる詐欺」みたいになってしまい
大変申し訳ありません。。。

認知症のある方に限らず
現場あるあるなのは、安易なハウツーが蔓延していることです。
おそらく、「わからない」「できない」からこそ
ハウツーの提供にとどまり、ハウツー的対応の自覚がなく、高い理念との乖離にも気づかず
ご本人やご家族の困難が改善されにくいという現実を少しでも変えていきたいと考えています。


グループワークの功罪


認知症のある方への対応について
下記のように多々の問題があることは前述した通りです。
・実は介助者中心の視点になっている
・生活障害やBPSDだけを切り取って表面的に解消させようとしている
・ハウツーの集積はあっても高い理念を具現化させる思考過程を明確化していない

認知症関連の研修会も
様々な主催者によって多数開催されるようになりました。
昨今の流行でグループワークを導入するところも多く在ります。

世にグループワークは花盛り
もちろん、グループワークにはグループワークの良さがあります。
けれど、知識もないのに考えさせることのどこに意義があるのでしょうか?

道端で倒れている人がいたとして
どうしたら良いのかは、考えさせることではありません。
知識と技術のない人間が善意から行ったことで
かえって状態を悪化させてしまったことがあったからこそ
してはいけないこと、すべきことをきちんと救命講習として教えるようになったはずです。

教えるべきことは、きちんと教えられる人が教えるべきことなのです。

認知症のある方への対応について
最も重要なことで、現在、為されていないことは
生活障害やBPSDの場面そのものを観察し、何が起こっているのかを洞察することです。
勝手に考えたり、話し合ったりすることではありません。


本来は
錯綜した現実をきちんと観察する
その際に、認知症のある方を援助するという立場に立つことをブラさないようにする
ということからスタートします。

でも、「どうしたら良いのか」考えさせたり話し合わせたりすることによって
臨床で困った時には人に聞く
という誤った思考回路、メタ認識を定着させてしまう
そして、そもそも、考える・話し合う時の視点が下図のようになってしまっています。


表面的に、生活障害やBPSDだけを切り取って、
それらを解消させる魔法の杖を探させるような思考回路、メタ認識を定着させ
結果、認知症のある方の困りごとに向き合うのではなくて
認知症のある方の問題行動によって介助者側の困りごとを減らすためにどうしたら良いのか
を考える、すり替えを増長させる現実を拡大再生産させてしまっています。

そのような介助者中心の視点で
日々の困りごとに対処していながら
言葉としては「寄り添ったケア」を唱えるという、現行不一致を拡大再生産させてしまっています。

そして
「忙しいからできない」
の一言で片付けようとするのです。。。

幾重にも、問題のすり替えが起きているのです。。。

そして、現実を指摘する人を否定し排除しようとする。。。

おそらく、無自覚にはわかっているのです。
どこかおかしいと
自身ではできないと
本当に実践しようとしたらとてつもない努力しなくてはいけないことを
だからこそ、声高に高い理念を語りたがり、真実を指摘する人を否定する。
既存のパラダイムとは異なる知見を提示した人たちが
どれだけ否定され迫害されてきたか、
時間はかかっても正しさが証明されパラダイムの転換が図られたことは
歴史が証明しています。

グループワークにはグループワークの良さがあります。
産出物として
「多様な視点・考え方を知ることができた」
ということは多職種連携の時代において必要不可欠のものでしょう。

ですが
認知症のある方が、困りごとAをきたしているある場面に遭遇した時に
どうしたら良いのかは
いろいろな視点でいろいろな考え方で検討することではありません。
いろいろな視点・いろいろな考え方というのは介助者側のものであって
その時の認知症のある方のものではないからです。

困りごとAをきたしているある場面に遭遇した
その時その場のその関係性において遭遇した人にしかわからないものです。
遭遇したからこそ、どうしたら良いのか、どうしてはいけないのかが
自然と浮かび上がってくるものなのです。
浮かび上がってこない時には、観察し損ねているものがあるのです。

多職種連携において
もしも皆が集まることに意義があるとするなら
それは情報収集の段階です。
人は誰でも多面性多様性を持っています。
いろいろな場面でのいろいろな関係性へのいろいろな応答を集められれば
それだけ立体的に情報を集めることができます。
そして、もう一点は役割分担です。
どうしたら良いのか、どうしてはいけないのかを
多様な場面で具現化するに際して
自分ならこれができる!と提案することです。
その上で、誰が何をするか、別の誰は何をするかという役割分担を
明確化し、共有することです。
そして、結果、どうだったか、継続するか・修正するか・根本的に見直すかを
再検討することです。(ここをちゃんと実践しているところは少ない)

グループワークにはグループワークの良さがあります。
でも、用い方が問題です。
グループワークで検討した方が良いことと
きちんと教えられる人が教えるべきことは違うのです。

もう、ずいぶん昔のことですから書いても良いと思いますが
一般の初心者向けに認知症のある方への対応について講演することになりました。
大元の主催者の方でテキスト的なものが作られていて
そこに「徘徊している方に出会った時にどうしたら良いかグループワークで話し合うことを推奨」と書かれていたのです。
「え?」
 
当然、そんなことはせずに、「基本のき」を事例をもとに具体的に丁寧に説明しました。
そして、終了後には大元の主催者から講師の意見・感想を求められたので
(このこと自体は良いことだと思います)
どうしようかと考えた挙句、きっちりと意見提案をしました。

考えた、というのは
正直に意見提案をすることで次年度からは講師の依頼がなくなるかもしれないと考えました。
別に講演依頼が1件なくなることはどうでも良いのですが
そのことによって受講者に不利益が生じないかと考えたのです。
ですが、上記のような推奨を今後も繰り返しそうな立場の人だったので
「おかしなことはおかしい」と指摘することで不適切な指導を繰り返してほしくないと思いました。
メールでの提出だったので、実際にどう受け止められたのかは分かりません。
案の定、翌年からは当該講演の依頼は無くなりました。
もしかしたら、どこかで揉み消されてしまったかもしれないし
もしかしたら、当該者は理解できなくても
意見を目にした他の人で認識を改めてくれた人がいるかもしれません。


こんな状態で、どれだけ話し合ったって適切な答えが出るわけがありません。
まず、困りごとの場面そのものをきちんと観察するという意思
その時に援助の視点をブラさないようにする意図を持ち続ける
という在り方への自覚を促すことが重要ではなのに。。。
対人援助職として、その責務が私たちにはあるのです。

対人援助の根幹、養成の根幹に関わる問題だと考えています。


対人援助職の業(ごう)


認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が下の図のように誤解していると思います。


生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。


ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルは真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

  

潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。


  

口腔ケアを拒否する方への対応


食事介助と同様に
口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。
逆に言えば、適切な口腔ケアを続けることで拒否なく応じてもらえるようになります。

だとすると、
考えるべきは、侵襲的でない口腔ケアをどうしたら提供できるのかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。