心身の使い方は重度の認知症でも改善できる


人は生き物ですから
どうしても老化は起こります。

老化の一環として量的低下も起こります。
若い頃は記憶力が良かったのに
年をとるとめっきり落ちてしまったとか。
かく言う私も高校生の頃は部活の先輩も後輩も含めて
みんなのお誕生日と電話番号を覚えていたものですが
今は、とっても無理!
覚えることは選択肢にもあがりません。
まず、スマホを取り出しています。

老化は生き物としての宿命です。

アンチエイジングも一つの考え方ですが
それにしたって不老不死というわけにはいかないので
限界があるものです。

であるならば
なるべく心身の機能を維持できるように考えるだけでなく
衰えていく心身と上手に付き合う方策を考えても良いのではないでしょうか。

流動性知能が衰えても、結晶性知能は維持されやすい
とはよく言われていることです。

流動性知能をトレーニングするのではなく
結晶性知能を活用できるようにする

今や覚えていなくても
PCやスマホを開けば情報を得ることは容易です。
人に要請されるのは、情報の真偽や適否を見定めることです。

結晶性知能を活用する
まさしく、智慧や叡智が求められている。
その点において(背景は真逆であったとしても)
認知機能が低下しても暮らしていくことと
情報の海に溺れずに仕事をする、生きていくことに
大きな変わりはないように感じています。

鶴見俊輔は
「耄碌を濾過器として考える。
 大事なことだけ残してあとは忘れていく。」(要旨)
と言っていましたっけ。

それと同じことが身体にだって言えると思うのです。

筋力という量的低下はあっても
身体協調性を高めて対応力を維持していく

食べることに関しての協調性を維持できるような食事介助を意識する

喉頭挙上能は、介助によって相当変わります。
もちろん、対象者固有の病態による場合もありますが
生活期にある方の場合には多くは不適切な介助による誤学習が原因です。
だからこそ、介助を変えると食べ方が変わる
喉頭挙上できなかった方でも完全挙上できるようになります。

立ち上がりに関しても
なかなか立ち上がれずに生活が不便になってきたら
腰背部の同時収縮を使わない立ち上がり方に変えていく

もちろん、重力に負けない+体重を支えられるだけの筋力は必要ですが。
ボディビルダーにならないと暮らせないわけではありません。
MMTで5ないから立ち上がれないわけではありません。
どこまで筋力を鍛えなければいけないのか
その根拠もなしに、立ち上がり100回なんてやっていると
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

結果として起こっていることだけを見て
老化、筋力低下と判断するのではなくて
年老いたとしたら、その年老いた状態なりに、その時々に応じて
リ・ハビリス(再び適する)の援助となるように

高齢期において
筋力低下・廃用論が吹聴され流布していますが
本当にそうなんでしょうか?

立ち上がりにおいても
食事介助においても
筋力強化をしなくても
立ち上がれるようになる
喉頭挙上が改善するということに当たり前のように遭遇しています。

impairmentは治せないが、disabilityは改善できる。

身体はつながっている
解剖学的にも生理学的にも連続性があります。

連続性があるという身体の働きのメリットを活用できるような
リハビリテーションの実践が求められていると考えています。

 

ジャニーズ喜多川性的虐待と精神医療問題(ごむてつ)


廃人症候群とはずいぶんな言葉ですけど、そうした実体も少なからずあるのだと思います。私はこの言葉は知らなかったのですが、皆様はご存知でしたか?
いろいろ難しい問題がありますが、とりあえず皆が問題を隠蔽せずに取り組み、検討し解決の努力をすることは必要だと思います。


「薬害・廃人症候群」を知っていますか? 東洋経済ONLINE
連載が止まっているのが残念です。言葉の問題かな?

他にも精神医療問題はいろいろありここへ来ていろいろと表面化しつつありつます。(また後で加筆しますが)


私は小学生の時、初代ジャニーズの時から喜多川の性的虐待問題について知っていました。性的なことは全く知らず、もちろん具体的なことは知りませんが、週刊誌の見出しを見ただけでも何となくわかってしまいショックを受けたのです。
子供はそういった超能力者的なところがあるのは、私のように幼児期の記憶が鮮明な人や、子供を育てたことがある人はわかると思います。
大人は汚い、芸能界は汚いと思い、それ以降はグループサウンズやフォークソングのファンでしたが他の芸能には関心がなくなりました。人間不信にも繋がりましたが、反体制反権威主義にもなりました。

誰もが少なくとも噂レベルでは知っていたのに隠蔽され、60年も続き1,000人以上もの被害者を出したのか?
大きな理由の一つは精神科医なども含めて殆どの国民の性的虐待PTSDの理解があまりにも乏しかったからです。昔はもちろん今でもそうだと思います。もちろん他の虐待PTSDについても。
精神疾患の殆どは心理的虐待を含む虐待PTSDです。

性的虐待トラウマの影響は何十年も経ってから休火山のように噴火して、激しい症状を出現させることが多いです。もちろん自殺者も少なくないことは十分予測できます。他にはアルコールや薬物依存症になったり、症状は何でもアリです。
数年~数十年経つと危ないかもしれない、というより危ない人が殆どでしょう。

告発者の多くは性的虐待PTSDの激しい症状と戦いつつ薬を飲んだりしながら活動しています。その薬の副作用や離脱症状、後遺症もあるのでたいへんです。
既に向精神薬害など二次的な被害にあっている人もいるし、おそらく暴力団などの被害にあっている人もいます。もちろん何度も自殺未遂した人も多く、働けなくなり生保をもらっている人もいます。
彼らのうち何人かは「自分は加害者です(でした)」とも明言しています。

私は喜多川のことを知って以降は、ジャニーズ系なんかバカにしきっており関心もありませんでしたが、すっかり彼らのファンになってしまいました。

活躍中のジャニタレはノーテンキに笑顔で歌って踊ってお芝居をしていますが、それが症状という見方ももちろん可能です。精神の解離という防衛機制があり解離性健忘などPTSDの解離症状もあるので。
彼らの足元は薄氷かもしれないし、時限爆弾の導火線はもはや短いのかもしれません。
今後、アルコールや薬物依存症になったり、自殺する人も多いことが予測できます。

解離性健忘のため嘘を言うわけではないにしても、実際にはあったことを「知らない、覚えていない」という人も少なからずいると思います。過去のタレントもほぼ全てそうでした。一旦は虐待を認めても「そんなことはなかった、憶えていない」と戻ってしまいます。
未だに喜多川を賞賛、尊敬しているのはグルーミングやマインドコントロールの影響が続いているとも言えますが、ストックホルム症候群でもあるかと思います。

加害者を恨めば良いわけではもちろんありませんが、被害を受けているのにむしろ加害者に感謝している人がDVや虐待など他者に攻撃性を向ける傾向にあります。

やはり「事実の子たれよ、理論の奴隷となるなかれ」です。
事実を尊重しそれに基づいて考えなければ解決もしません。

一般に虐待被害者が虐待することが多く虐待は連鎖することや、犯罪者もまた虐待された人であること知られていますが、もちろん虐待しない人もいます。
一説によると虐待された人が虐待するのは7割だとか?

前者と後者の違いについて荒っぽく言えば、前者は虐待された苦しみに向き合わず克服の努力はせず誤魔化すために行動化する、後者はPTSDの苦しみを受けうつ病(と敢えて言っておく)などで苦しんでも、それを自分のこととして引受け、向き合わざるを得ないので何とか対処、克服しようとする、ということです。たとえ成果が得られなくても…
こうした意味では告発者よりも活躍中のタレントの方が危ないのかもしれません。

ジャニー喜多川自身もまたそういう人です。
彼は朝鮮戦争に従軍または軍属として関わりましたが米兵にレイプされたとかそれ以前に父親にも性的虐待を受けていたという話もあります。その妥当性や真実性はともかくとして何かそれに近いことがなければあんなに大規模な性加害者になるわけはありません。他のトラウマもあったのでしょう。

その父親もまたどうか?などと思うわけですが、私はこのような問題を長年追求しているので具体的ではなくともある程度のことはわかっています。
私の家系も精神病の家系であり語弊はありますが「呪われた家系」でもありましたが、700年も先祖を辿って大いに腑に落ちたことがありました。一応由緒ある家系でもあります。


ジャニーズはハッキリ言ってエンタメの進歩や質の向上も阻害してきたと思います。
もはやJPOPがKPOPに追いつくことは考えられません。

一つはここでは触れませんがリズムの基本が身についていないということ。これは楽曲提供者の山下達郎なども基本的には同じです。
やはり大事なことは彼は自分が受けた虐待の苦しみに向き合わず、それを誤魔化すために性加害を行い、それを行ってしまい「うまく行ってしまった」がために止めることもできず、老人になるまで続けたという事実です。金儲けはできてもこうした人間から価値のある芸術が生まれるわけはありません。

怒る人も多いと思いますが、ジャニオタと言われる人たちもまた、ストレスの原因となるような自分の問題や周囲の問題に向き合って解決しようとするのではなく、「輝く少年たちから夢と愛と勇気を与えられ」誤魔化しつつ頑張っているように思われます。それがあってはいけないとは言えませんが。

実際にテレビによく出たりCDが売れているからといって、ジャタレの人気はそれほどあったわけではなく、嫌いだとか関心がないという人が多いはずです。むしろ一部の人だけを対象にしていましたが、しコアなファンも少なからずいてかなりのお金も出すので事務所は儲かるしメディアやマスコミの支配も可能だったわけです。
もちろん私の友人知人にジャニーズが好きな人はいないし、何人かの女友達に聞いてみたら好きな人もいてその人は熱狂的だったけど殆どの人は好きじゃないし関心もない、ということでした。
言ってみれば人気も幻想だったわけです。多分に無自覚ですが事務所側はその幻想を上手く乗っかって支配するのが上手かった。そもそも性加害は皆さん知ってたのだからメディアやマスコミの方から拒否してテレビにも出さず、他のタレントを発掘して出せばその方が視聴率も上がったでしょう。

皆が共同幻想に支配されていたとも言えます。
幻想は条件が整えばあっさりと幻滅に変わりますが、そのためには隠蔽されていた事実を知るべきでしょう。

嘘をついて問題を隠蔽したり、見て見ぬふりをして無かったかのようにするからこそ悪質な幻想は大きく強固なものとなります。人を騙せば騙された人もまた人を騙します。

止めれば良いだけの話であっても、でも止められない、止められなかった。ウクライナを見ればわかるように戦争だって似たようなものです。もちろんイジメの問題なども。
基本的にはファシズムも同じだけど、多くの人を巻き込んでしまえばもう止められません。

新興宗教にも似た構図です。伝統宗教があるのに新興宗教は要らないと思う人も多いでしょうけど、伝統宗教は自分の内面と向き合い常々自分を顧みることでもあり敢えて自分に課題を課すことになりますが、新興宗教はまやかしであっても安易な救済や利益を与えます。
もちろん悪いばかりではないし新興宗教を全否定することもできませんが。

精神疾患も薬物で誤魔化すのは止むを得ない面もあるし、全否定するわけではないが害やリスクも高いし、やはり本質的な害のない治療を行ったほうが良いというのが私の立場です。


喜多川が死んでも、私が生きているウチにこの問題が表面化するとは思いませんでしたが、この機会に芸能界、メディア、マスコミだけでなく、日本の社会全体の浄化、適正化、正常化につながり社会全体が人権を尊重した精神的にも豊かなものになることを期待しています。
もちろん性犯罪や性的虐待だけでなく、他の犯罪や虐待を防ぐためにも必要なことです。

目先のことだけを考えるべきではありません。
ファシズムやスターリズムのようにこれから100年は問い続けていかなければならないと思います。
こうした問題に向き合い克服する努力を怠ったからこそ、毛沢東や北朝鮮の独裁の問題、ポルポトやチャウシェスク、プーチンとウクライナ戦争の問題も起こったと言っても良いと思います。

WW2が終わった時点で殆どのドイツ人はホロコーストを知らなかったそうですが、もちろん全然知らないわけではなく知ってて知らぬふりをしていたはずです。もちろん現場を見ていたわけではないし、そういう意味では知らなかったのですが。
大風呂敷を広げるのは私の悪い癖かもしれませが、そういう人は少ないし、いても良いだろうと思っています。

冷静に考えれば誰もそんなことしたくないし、全くする必要もないのに、絶対にすべての人がやらなければならないことになってしまう。しなければ殺される。

今後に役立てなければ喜多川の霊も(おそらく地獄から)浮かばれないと思います。
そうすれば彼の功績も反面はあったとこになるかもしれませんが、今のままでは彼の功績など認められません。基本的には有能なタレントやアーティストが出ることを阻害し、むしろエンタメの質の低下をもたらしたと思います。

暴力を使って(もちろん間接的に)告発者を攻撃したり殺害したり、政治家などの有力者に性的に上納をしたり、セクハラはもちろん枕営業をけしかた方ものった方もセクハラだし(お金よりもずっと悪質だし、売買春というより人身売買に近いか?)そういうことはもう止めるべきです。
「日本社会の闇」とか「心の闇」といった言葉で片付けているだけではいつまでも解決しない、そういうことは明るみに出して克服すべきであり、公序良俗に反することは違法ではなくても止めるべきであるということです。
そうしなければ進歩はありません。

とりあえずココでは、 J.ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房 をお勧めしておきます。
増補度版は高いので、古本でそうではない白い表紙の旧版を入手したほうが良いと思います。数ページ付け加えられただけで、本文は同じです。

こちらはたいへん参考になります。私もほぼ同意見です。もっと早く世の中が変わって欲しいけど。

以下の動画の石丸志門さんの話はとてもわかりやすく参考になると思います。
精神科に10年以上通った体験を詳しく語っています。

それにしてもハッキリ言って精神科医はバカすぎ。
普通は初診で聞けばわかるし分からなければ治療が進まないことを10年以上もかかっている。
全体的にレベルは低いしたいていはこんなもんでしょうけど。
PTSDの場合特に薬は合いません。

その間、薬で余計に悪化するし、自殺未遂を繰り返すし、仕事もできなくなり生活保護になってしまうし。
他の被害者も向精神薬害の二次被害に遭っている人が多いです。

被害者1,000人以上とも言われており、今後もそういう人がどんどん増えるはずで、今は元気に輝いて歌ったり踊ったりしているタレントも数年数十年後には危ないです。

具合が悪くても頑張っている当事者の会の皆様には頭が下がります。

初代ジャニーズは好きだったんですけどね。ちゃんとハモってたしダンスも上手かった。

科学的ケアの新たな地平をめざして


認知症のある方への対応について科学的なケアをめざしています。
常に実践できているわけではなく、まだまだ途上ではありますが
だいぶ言語化もできるようになってきました。

「科学的」という言葉から、ずいぶん誤解もあったのだということもわかるようになってきました。

人の人体構造という面に着目すれば
物質的な側面からの検討が行いやすく
データに基づいて確認もしやすいと言えると思います。

一方、人の存在としての全体性という面に着目すると
物質的な側面からの検討やデータに基づいて確認することは非常に困難となります。
そんなことは当たり前なのですが、
「科学的ではない」という批判を恐れ
かつての(今も?)作業療法士たちは
EBMや論文や理論によって科学的武装という戦略をとろうとしたのだと思います。

でも、それって「うまく」いったのかな?

一番重要なことは、結果を出すこと
結果を出してからモノ申せるのに結果を出さずに何をか言わんや

科学的な武装をするよりも、まず目の前にいる対象者の方をよくすること
そして、自身の実践のどこが有効でどこが有効でなかったのかを
明確化できていることが大切だと考えています。
ところが、多くの場合「良くなった!」で終わり。ではないですか?
実践が有効ではなかった時にも
どこが有効でどこが有効でなかったのか、どうしたら良かったのかを
明確化して次に活かすようにすることが大切だと考えています。
でもそうしない人って多いんですね。
  ある人からは「良くなった時に検討していなかった」
  別の人からは「失敗したケースは忘れる」
  と聞いたことがあります。

 
それらを怠って、単に表面的に
「〇〇というケースに△△をしたら良くなりました」みたいな論文を書いても
それらを Good Practice として集めても知見の集積にはならない。
いくら作業理論を声高に叫んでも
目の前にいる方の困りごとを改善するのに活用できなければ
本質とは言えないのでは?

そういった現状を超えて
人文科学としての作業療法の実践者として
その時その場のその関係性において
今、何が起こっているのかを感受し、認識し、判断し、関与を修正しつつ寄与する。

言語化、明確化ができるから、
わかろうとする人には伝えることができるし
その人が再現することを援助できる。

新たな科学的ケアを実践し、提案しています。

今はちょっと忙しいので
オンラインセミナーを開催することができなくて申し訳なく思いますが
もう少しお時間をください。
ぜひ、意欲のある人には伝えていきたいと考えています。

 

違いを体験する→認識できる


わかる ということには、果てがない。

わからないからできないし
わからないからやってしまう

昔、老健で勤務している時に
「なんでよっしーさんが食事介助すると点数(介護報酬)が取れて
 私が介助すると点数が取れないの?」
とあるスタッフが陰で言っているのを聞いたことがあります。

あぁ、この人は
自分と私の介助に違いがあるのがわからないんだなぁと思いました。

わかる、ということは
白と黒の間のグレーの色調の解像度がよりきめ細やかに認識できる
ということでもあります。

ムセさせずに食塊を口の中に入れることができる
という意味では、その人と私の介助に違いがないように
まさしく見えたのでしょう。

でも、私にはその人と私の介助の違いがわかります。
私が実践していること、意識しながら介助していることを
その人がしていないことがわかります。
その介助の違いによって、対象者の食べ方も違ってきていることを
摂食・嚥下5相のどこがどう違うのかと具体的に説明することもできます。
  
熱心な人であれば、直接私に聞いてきます。
「どうしたらよっしーさんみたいに介助できるんでしょうか?」
そう聞かれたらちゃんと答えます。

でも聞いてこない人に対して
いくら言葉で説明しても
自身の介助を修正してくれることにはつながりません。

その人の中では ちゃんと介助してるつもり だからです。

このような場合には
ちゃんと介助しましょうと言うのではなく
「ちゃんと介助する」体験と「ちゃんと介助していない」体験とを
対比させて体験させることが重要です。

違いがわかっていないから。

違うのだということを実感してもらわないと
お話の前提を共有できないからです。

技術職の強みは
違いを実感させられる体験学習を提供できる ことにもあります。

学ぶということは変わるということです。
卒後養成においては
その職場で対象者の方への対応が改善されることが目的です。

  ここでも往々にして
  卒後養成プログラムがあるから実施する
  というように、目的達成のための手段の適否の検討ではなく
  手段の目的化が起こりがちです。

  違いのわからない人が卒後養成の担当になると尚更です。。。

職場のスタッフの傾向が把握できていれば
提供すべき体験が自ずからわかります。
より効果的な体験の提供の仕方も自ずから浮かび上がってきます。
必要な準備も芋づる式に浮かび上がってきます。

職場でポジショニングの勉強会を開催した時には
担当者やポジショニングをきちんとできているスタッフに
「何が足りないか?」「何を言って欲しいか?」も確認しました。
私だけでは見落としていることもあるかもですし
私と同じ見解であれば、ふだん相当実践できていないことの確認ができます。

知識編では
現場あるあるの誤解と本当に起こっていることを明確に言語化し
実践編では
私の介入前後で対象者の身体の変化を実際に触って感じてもらいました。
その上で
どうしたら再現できるのか
手順とポイントについて明確に言語化し
再現しようとして、し損ねているポイントについても言語化しました。

あるスタッフは
「よっしーさんに言われた時には正直なところ「?」って思ったの。
 でも、やってみたら本当にその通りだった。
 ごめんなさい。」
と吐露してくれました。

まさしく、
「聞いたことは忘れる
 見たことは思い出す
 体験したことは理解する

今まで、違う教育を受け
長い間そのやり方を行なってきたという体験が誤認を蓄積させているのです。

多くの人は受けてきた教育を実践しても
効果がないという体験をしているはずなのですが
疑問を抱くことができません。

「こうすべき」と教わってきたし、
周囲の人がみんな同じことをしているから
目の前で起こっていることを「見れども観えず」にしている自覚が生まれにくいのかもしれません。

対人援助職の人は確かにみんな頑張ってはいるけれど
「する」ことばかり教わって、教わったことの意味を考えない
という行動パターンが定着しているから
自身の実践の結果、対象者の変化については観察していない人も少なくありません。
白と黒しか見ていないのでグレーの色調の変化を観ていない人も少なくありません。
だから、ハウツーが蔓延る。。。
どんなテーマの講演でも、どの職種でも、必ず出る質問です。
「〇〇という状態の人がいるのですが、どうしたらいいでしょうか?」
一生懸命なのはわかるけど、ハウツーはもう卒業しましょう。
その代わり、考え方や観察のポイントはこちらのサイトで公開してあります。

その時その場のその関係性において
答えは目の前の認知症のある方が示してくれています。
その答えをその場にいるあなたが見出すしかないのです。
 
それから連携あるあるですが
丁寧な組み立てをした勉強会を開催しても
そこで違いを実感しても
抵抗を示す人も出てきますが
的確な体験学習を提供できていれば
そこまで過剰に反応する必要はありません。
変化に抵抗するのは、その人固有の問題があります。
その人固有の問題は、その人とその上司が対応を検討することで
こちらには関係ないことです。

組織にはいろいろな人がいますから
時には足を引っ張る人が出てきたりします。
陰湿なことをやる人もいます。
有効な体験学習を提供できれば、普通は「ありがとう」ですが
有効だからこそケチをつける人もいます。
相手にしないのが一番ですが
あまりに失礼な時には論破した方が良いこともあります。
(足を引っ張る人の論理は破綻しているので論破も容易です。)

私も最近つくづくと、ようやくわかってきましたが
良いことをすれば喜ばれるとは限らず
良いことをしているからこそ否定されることもある
のです。。。

強固な常識として定着していることと異なる表明をすると
思いっきり叩かれ、否定されることは歴史が証明しています。
ガリレオ然り、ゼンメルワイス然り、小笠原登然り。。。
でも、真実は必ず後年日の目を見ることも歴史が証明しています。

わかることには果てがないし
科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。

私にできることは
その都度その都度最善を尽くし
本質を追求することで
何にエネルギーを使うかは、私自身が選ぶことができます。

本当に対象者の方のために働いていて困っている人に
有益な学びの機会を提供できるようになること
その人が少しでも再現しやすくなるように明確な伝え方をすること
勉強会をきっかけにその後の対象者の変化について
細かな情報交換ができるようにすること
プラスの方向性でできることはたくさんある!




口腔期のリハ:2項関係で実施

 

認知症のある方に対して
食事以外の場面で食べ方を練習することもあります。

介助に対して適応することが難しい方もいるのです。
自力摂取を目指す方が良い方もいます。
 
特に
前頭側頭型認知症のある方や
性格的に意思表示がきっぱりしていて
自主独立の生き方をしてこられた方は
介助というカタチで他者の介入をすることを嫌がります。

  特性の判断についても
  介助していればわかるものです。
  「もしかしてお若い頃からご自身の考えを明確に持った
   すごくしっかりした方でしたか?」
  「もしかして慎重な方でしたか?」
  とご家族に確認すると
  「えぇ、そうなんです」「その通りです」と驚かれることもよくあります。

  こちらの介助への反応の仕方
  例えば口腔ケアへの拒否の仕方も評価の根拠となる大切な情報です。
  「拒否=問題」として捉えたり
  「拒否=辛い、困った、嫌」としてしか受け止められないと
  大切な情報を取りこぼしてしまいます。

そのような場合に
食環境調整として、
イマ、ラクに、食べられる対象を適切に選択することが大切です。

認知症が進行すると
impairment面への直接的な抽象的なリハは難しくなります。
例えば、舌の突き出しや左右へ動かすなどの個別の動きを
セラピストの指示通りに動かすことが難しくなります。
だからといって、リハができないわけではありません。
disability面へのアプローチなら可能なのです。
結果として、舌の多様な動きが担保できるようになれば良いのです。

セラピストは直接介入せず
食べる対象を適切に選択することで
認知症のある方が対象に適切に対応することを促す
つまり、2項関係でのリハを行っているのです。
認知症のある方の食べ方のリハも身体的なリハもポイントがあって
それは「3項関係化しない」というものです。

  3項関係というのは
  「指さし・手さし」の記事 で説明してありますのでご参照ください。

食事とはまったく関係のない状況で
「舌を前に出してください」という指示に従って行動してもらう
ということは
「舌の動き」をその方の身体から切り離して対象化させる指示です。
「自分」と「舌の動き」と「セラピスト」という3つの対象、3項関係を認識・実行することは難しくなってくるのです。

自身の身体の動きには、敢えて着目させない。
手続き記憶を活用することがポイントなので
自然に、無意識に、身体を動かせるように
身体の動きは身体に任せられるように

手続き記憶の良い面を引き出せるように
エラーレスラーニング、誤りなし学習が大切です。
頑張らなくても食べられる!食べられた!という体験を積み重ねます。

そのために
「何を食べるか」の選択が重要です。

2項関係でリハを実施する
外から見ていると、ただ食べさせているだけ
って見えるかもですが
その裏にはたくさんの思考過程を踏んでいます。

私がよく使っているのは
「かっぱえびせんの小袋4連タイプ」と「アイスの実」
いずれもスーパーで100円前後で購入できます。
いざ必要な時にすぐに対処できるように
控室の冷蔵庫にストックしてあります。


口腔期の練習でソフト食前段階にある方には、「アイスの実」を使います。
その方に応じて、1口量を1粒の1/4カットにしたり、1/2カットにしたり、1粒へと段階づけます。

口腔期の練習でソフト食を卒業できそうな方には、「かっぱえびせん」を使います。
その方に応じて、1本を1/3 にしたり、1/2にしたり、1本そのままで提供したり段階づけます。

詳細に観察できれば
明確な洞察が可能となり
細かな食形態の選択ができるのです。

外から表面だけ見て
「ただ食べさせてるだけじゃん」
という人が私の行っていることを再現できないのは
観察の量的・質的な違いにあります。

わかる人にはわかるけど
わからない人には、どう説明したってわかりようがないのです。。。
「わっかるかなぁ〜?わっかんねぇだろうなぁ〜」
というわけです (^^;

今はまだ少数派のわかる人たちが
実践してその知見を蓄積し広めることで
何十年か後の対応が大きく変わることを確信しています。

スプーンテクニックという言葉がない30年以上前から私が提唱してきたことが
今、多くの人の手によって広がりを見せているのと同じように。

舌の硬さ:スプーンテクニックで予防・改善

スプーン操作を見直すべき兆候をまとめました。
もしも、対象者の方が下記のような食べ方をしていたら
介助者側の不適切なスプーン操作の結果ですから
ぜひ、ご自身のスプーン操作を見直していただきたいと思います。

・・・ スプーン操作を見直すべき兆候 ・・・・・・・・・・・

 
  <開口した時>
  ・舌が奥に引っ込んでいる
  ・舌が硬くなっている


  <食塊をとりこむ時>
  ・顎が上がっている
  ・上唇を丸めずに閉じている
  ・口角から食塊がこぼれ落ちる
  ・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
  ・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している


  <食塊が口腔内にある時>
  ・咀嚼・送り込みに時間がかかる


  <食塊を嚥下する時>
  ・喉頭が完全挙上しない
  ・喉頭が複数回挙上する

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


詳細は こちら で説明してありますのでご参照ください。

上記のような食べ方をしていないということを
最低限、担保して初めて、その上で
適切な食べ方を援助することが叶います。

現実には
卒前卒後を問わず、してはいけないスプーン操作について
そしてその理由についてもきちんと教えてもらっていないがために
美味しく食べていただきたいと願いながらも
結果として不適切なスプーン操作をしてしまい
対象者が食べづらそうにしていると漠然と思っても
どこがどうなっているのか、なぜそう感じたのかを言葉にできず修正もできず
悶々とした日々を送っている人も多いのではないでしょうか?

舌が後方へ引っ込んだり、板のように硬くなってしまうのは
介助者がスプーンを口の奥の方に突っ込んだり
上の歯や歯茎で食塊をこそげ落としたり
口の中に食塊を入れてしまうような
スプーン操作を行うことで引き起こされます。

ところが、食事介助の現場では
ムセの有無や大小は気にしても
自身の介助方法を気にする人は少数派です。
教えてもらっていないがために
不適切なスプーン操作をしていても自覚することができません。

生活期にある方は、食べにくいと感じても
その食べにくい介助に適応しなければなりません。
一日3回の食事+午前午後の水分補給と
不適切な誤った介助方法であったとしても適応するしかないのです。

舌が板のように硬くなっている方でも
前舌をしっかりと押してあげる操作を
食事介助の場面で毎回毎回繰り返し行うことで
しなやかさを取り戻すことができます。

前舌をしっかり押すと
作用反作用の法則で、押された反作用として舌尖の跳ね返りが起こります。
板状となってしまった舌にもう一度「動きの再学習」を伝えるのです。

喉頭挙上のタイミングが良い方で完全挙上ができる方であれば
自分自身のペースで摂取できるように
ストローで飲み物を摂取していただくと
綺麗に送り込みができて、ムセもなく喉頭完全挙上しながら
飲める場面を目にすることができるでしょう。

介助が必要であれば
口腔期の負担を減らせるように
ツルンとしたテクスチャーのゼリーなどを少量提供すると
スムーズに送りこめて、喉頭も完全挙上できる場面を目にすることができるでしょう。

このあたりの判断は
その方の口腔期と咽頭期の能力と困難の兼ね合いとなるので
一概にどうすべきかは言えません。
目の前にいる方の食べ方をきちんと観察し
食べ方に反映されている能力と困難を洞察すれば
適切な食形態と介助方法が自然と浮かび上がってくるものなのです。

咽頭期の問題、例えば
喉頭挙上のタイミングのズレ、遅延、挙上の可動域の少なさ
が咽頭期本来の問題のことは実は非常に少ないのです。
この辺り、現行の摂食・嚥下の知見が嚥下反射に囚われすぎていると思います。
おそらく、もともとはCVA後遺症をベースに知見が蓄積されてことに
関係していると思っています。
喉頭が不完全挙上しかできない方でも
適切なスプーン操作を繰り返すことで完全挙上できるようになったり
バラバラのタイミングで複数回挙上してようやく完全嚥下していた方の
タイミングが整ってきて〇〇秒ごとに〇〇回の挙上が起こって完全嚥下
と明確化できるようになったりします。

この時に大切なことは
相手の食べ方を尊重して、決して修正しようなどとはせずに
(相手の食べ方は今までの介助方法に対する誤学習なので
 誤介助にすら適応してきたという家庭を尊重します)
まずこちらの介助を適正化して反応の変化を待ちます。
 
適正化できるということは
冒頭に記載したような食べ方を引き起こさないことを最低限担保したうえで
その方固有の食べ方に合致させた介助ができるということです。

多くの場合に、食事介助をカンタンに考え過ぎなんです。
自分の介助に根拠不明な自信がある(苦笑)から介助したがる(苦笑)
「私の介助が下手なせいで食べにくい思いをさせたらどうしよう」
ともっと不安に思ってほしいと思います。

  安易な介助をする人の行動を修正することは難しいので
  的確に介助できる人を増やしていく
  話を聞いてくれる人を増やしていく方が結局は
  自分も疲弊することなく
  誰も傷つけることなく効果的だと考えています。
  
  (直属の上司の協力があっても難しいので
   上司の協力が得られなければまず無理です。

   逆にこちらが悪者にされてしまいます。
   自己防衛のために否認・攻撃をする人もいるからです。
   悪者にされても行動を修正してくれれば良いのですが
   それは非常に難しい。。。)

   「多職種連携の現実的課題」という記事や
   「連携について 1〜9」というシリーズ記事を書きましたので
    興味のある方はご参照ください。


  自力摂取を頑張っていただく方針をとることもあります。
  若年発症するアルツハイマー病や前頭側頭型認知症のある方や
  アルツハイマー型の方でも元来ご自身の意思が明確なきっぱりした方
  しっかりした方などの場合には自力摂取を目指したほうが
  混乱なく誤嚥性肺炎の再発もなくもう一度食べられるようになる
  ケースが圧倒的に多いです。
  もちろん、自力摂取を目指すにしても細かな段階づけは必須です。

ためこみや吐き出し、ムセなどの食べることの問題が生じた時に
ちゃんと観察もせずに、自身の介助を振り返ることもせずに、まず介助する
介助してうまくいかないことを体験して初めて
「どうしたらいいんだろう?」と考える。。。
そりゃーうまくいくわけないじゃん!

逆に言えば、ここに未来への希望があります。
ちゃんと観察する
自身の介助の適・非適を振り返る
ことができれば
今まで見えなかったもう一つの現実を目にすることができます。

「何がいいんだろう?」「どうしたらいいんだろう?」
と考えなくてはならないとしたら
それはまだ観察・洞察が不足しているということを示しているので
もう一度観察に立ち返れば良いのです。
というか、観察に立ち返るしかないのです。

  側臥位での食事介助も提唱されていますが
  確かに側臥位は、舌の送り込みに関しても喉頭挙上に関しても
  除重力位となるので負担を減らすことができますから
  その面では効果的だと言えますが
  介助における誤学習誤介助の側面を解決できなければ片手落ちとなりかねません。

介助方法を変えることによってもう一度安全に食べられるようになりますが
本来のその方の能力発揮を促しているので当たり前のことです。
適切に対処できれば、舌が硬くなることもないのに
適切に対応できないために、舌が硬くなり結果として喉頭の動きが悪くなり
低栄養や脱水を回避するために必死になって
介助者が口の中に飲食物を「入れよう」とした結果
喉頭不完全挙上やタイミングのズレによって誤嚥性肺炎のリスクは甚大になります。

善意に基づく行動であったとしても
知識と技術の伴わない行動によって真逆の事態を引き起こしてしまいかねません。

ムセの有無しか確認しない食事介助というのは本当に恐ろしいものなのです。

ムセの起こるパターン:舌の硬さ

ムセの起こるパターンは2つあります。
1つは、咽頭期そのものの働きの低下で
もう1つは、口腔期の働きの低下によって二次的に咽頭期の低下が起こる
ことの2つです。

生活期にある方の場合に
圧倒的に多いのが、2つ目の口腔期の働きの低下によって
二次的に咽頭期の低下が引き起こされているというケースです。

前の記事で書いたように
舌が板のように硬くなったり、後方へ引っ込んだりしていれば
(ひどい時には舌が硬く丸まった状態で
 上後方へ引っ込んでいるケースに遭遇したこともあります)
舌のしなやかな動きができなために
食塊の再形成や送り込みが困難になってしまいます。

ここで誤解が多いのが
重度の認知症のある方でも常に自身でなんとかしようとしている
ということを私たちが忘れてしまいがちなことです。
口腔期の低下があっても何とか食べようとすれば
協調性の低下をパワーで補う、力任せに過剰に頑張って飲み込もうとするしかありません。
最初はそうやって飲み込めていても
舌が硬いということは、内舌筋(固有舌筋群)だけでなく外舌筋群も硬くなっています。
その状態に加えて、さらに過剰な努力を要請されることで
頚部の筋も硬くなってしまいます。
その結果、喉頭が円滑に動けなくなってしまう。
そして、喉頭挙上に遅延が生じたりタイミングがズレたりしてしまう。
こんなに食べにくい状態でもムセがないから見落とされています。

ムセるようになって初めて食べ方に着目されますが
ここでは、喉頭の不完全挙上を目にしても
経過について見落とされているので言及されない。
その結果、老化による筋力低下によって喉頭挙上困難と判断されてしまいます。

  生活期にある方の立ち上がり困難という事象に対して筋力低下論が提唱されています。
  ですが、私は筋力低下は結果として起こる。
  身体協調性低下のために立ち上がり困難が生じる
  立ち上がり困難な方に対しては立ち上がりや筋力強化をするのではなくて
  身体協調性を高めるために座る練習をすることを提唱しています。
  カタチは違えど全く同じコトが食べることに関しても起こっているのです。

舌の硬さが主問題であって咽頭期の問題は二次的に起こる。
多くの人が見落としている、食事介助の現場で起こっていることです。
咽頭期そのものに問題があるというケースは実は少ないのです。

じゃあ、なぜ、舌そのものに病変があるわけでもないのに
舌が硬くなってしまうのか?

それは誤介助誤学習が起こっているのです。

誤介助、つまり、私たちのそうとは知らずにおこなってしまっている
不適切なスプーン操作のせいであり
不適切なスプーン操作という誤介助に対して、適切に対応しようとした結果
生活期にある方が自らの能力を落としてしまう誤学習が生じているのです。

適切なスプーン操作ができていれば
上記のような状態を予防することができますし
板のように硬くなっていても適切なスプーン操作によって
(特別のリハをしなくても)
もう一度柔らかい舌を取り戻すことができ、
結果として本来の咽頭期の働きも発揮できるようになります。

  もしも、本当に老化による筋力低下や認知症の重篤度のせいだとしたら
  改善されないですよね?

不適切なスプーン操作?
スプーンテクニックという言葉が定着するようになりましたが
ちょっとしたスプーンの扱い方によって
食べやすさ、食べにくさは大きく変わります。
次の記事でご説明します。

ムセの起こるパターン:前提

ムセの起こるパターンは
大きく分けて二つあります。

もともと、摂食・嚥下5相の咽頭期に問題がある場合と
本来の問題は口腔期にあって咽頭期は二次的に引きづられて能力低下をきたした場合の二つです。

そうはいっても
「何を言ってるんだ?」と思われるかもしれませんね。
まず、喉頭の動きをきちんと観察してみてください。

生活期にある方の場合
例え、ムセがなくても
喉頭の挙上はさまざまなパターンが見られます。
1回で完全に挙上することもあれば
2回目の完全挙上で完全嚥下する場合もあれば
3回目の挙上で完全嚥下する人もいます。
挙上と挙上の時間的間隔もバラバラだったり定期的だったり
不完全な複数回の挙上を繰り返す人もいますし
食べ始めと食べ終わりで変わることもよくあります。

次に
口腔期の動きを観察します。
開口した時に、舌が後方へ引っ込んでいませんか?
(通常は、開口した時に舌尖は下の歯のすぐ裏側に位置しています)
スプーンで前舌を押した時に、舌が硬くなっていませんか?

舌が後方へ引っ込んだり硬くなっている方は、思っている以上にたくさんいます。
実際に食事介助しているのに、
目で見て、手で感じているはずなのに気がつかないだけです。
自分の興味がないから注意を向けることができないために
「見れども観えず」になっているのです。

通常、舌はしなやかに動くものです。
しなやかに動けるから、口腔内に散らばった食塊を再形成して
咽頭まで送り込むことができるのです。

  講演の後などによく質問されるのが
  「ためこんでしまって飲み込んでくれないのですが、どうしたら良いでしょうか?」
  という質問です。
  ためこんでしまう というのは、結果として起こっていることで
  本来は 送り込みが困難 という事象の結果を見ているのです。

私の経験で
舌がかまぼこ板のように硬くなってしまっている方もいました。
舌も筋肉です。
筋肉が板のようになっては本来の多様な動きができません。

ふだん、食事介助している方の
口腔期と咽頭期をもう一度観察し直してみてください。
それから、もう一度この記事を読み直してみてください。

ムセって何?


食事介助の現場の多くで
ムセは、指標のひとつになっています。

食べる能力の指標だったり
食べることを中止すべきかどうかの指標だったり

現場あるあるなのが
食事中に強く激しくムセこんだら
「あー!ダメダメ!その人、もう食べさせないで!」
という声が飛ぶこともよくありますよね?

食事介助中も
ムセの有無を気にしている人は多くいますが
さて、「ムセって何?」って尋ねられて
きちんと答えられる人は圧倒的に少ないのが現実です。

  構成障害重度とか遂行機能障害があるとか
  言う人は多いけれど
  構成障害とはなんぞや?遂行機能障害とは何?
  って尋ねられて明確に答えられる人は案外少ないものです。
  専門用語として言葉は知っていても概念の本質を理解していない
  だから観察できないし、何が起こっているのかの洞察もできないから
  BPSDや生活障害に対して適切な対応ができないのと
  まったく同じコトが違うカタチで
  食事介助の場面でも起こっているのです。
  だから、どうしたら良いのかわからない。。。
  でも、これらは私たちの側の問題なので
  私たちが変われば違う現実が現前する可能性があるのです。

ムセは誤嚥のサインですと言うかもですが
身体のどこがどう機能してるから誤嚥のサインって説明できますか?

もう一度、お尋ねします。

ムセって何?

 

 

 

 

    

        

     

答えです。

ムセとは、
気管に食塊などの異物が侵入した時に
声帯を激しく内外転させ
呼気のパワーで喀出させようという働きです。

誤嚥のサインであると同時に異物喀出作用でもあるのです。

現場あるあるの誤解が
「強く激しいムセ=酷い誤嚥」という誤解です。
これはもうホントに根深い誤解です。

強く激しいムセ=異物喀出能力の高さ なので
強く激しくムセる方がいたら、ムセを手助けして
しっかりとムセ切っていただくことが大切です。
ムセ切った後に声の清明さを確認できれば食事を再開できます。

ムセにおいて
最も怖いのが、サイレントアスピレーション ムセのない誤嚥です。
運動もしくは感覚の障害でムセることができない状態です。
ムセないのか、ムセることができないのかはまったく違うのです。

ムセの激しさと誤嚥のひどさが比例しているわけではないのです。

ムセの激しい方よりも、気をつけなくてはいけないのは
弱々しくしかムセられない方のほうなんです。
弱々しいムセとは、異物喀出作用の弱さを示しています。
 
「弱々しいムセ=大したことのない誤嚥」という誤った認識で
食事介助を続けてしまう人は大勢いますが
異物をきちんと喀出しきれていない状態のまま食べさせている 
というとても危険な状態を作ってしまっていますし
そのことに自覚がないという二重の意味でとてもリスキーなんです。。。

言い換えれば
食事介助において
あまりにもムセの有無が過大視させられていて
もっと観察しなければならないことが見逃されてしまっているのです。

ムセは結果として起こっているので
どのような食べ方をしている結果としてムセたのか
というところをこそ、観察する必要があります。
(ところが、そうしていない人の方が圧倒的に多いのです)

ムセは、
喉頭挙上の能力低下で起こることも確かにありますが
生活期の臨床現場で最も多いのは
咽頭期の本来の能力は保たれているのに
口腔期の能力低下によって二次的に咽頭期の能力低下が起こる場合であり
しかも、この場合の口腔期の能力低下が
誤介助誤学習によって引き起こされるケースが圧倒的に多い
ということはほとんど知られていません。

CVA後遺症急性期などのケースでは摂食・嚥下リハは必須ですが
高齢者や生活期にいる方にとっては
摂食・嚥下リハよりも食事介助と介助中の観察の方が重要です。
そして、食事介助に気をつけるだけで食べ方が改善されるケースは
日常茶飯事、多数経験しています。
もっと言うと、摂食・嚥下リハをいくら頑張っても
漫然とした食事介助が為されれば、
効果が出ないどころか逆効果になってしまうことすら起こり得ます。

古くて新しい食事介助の問題について
問題は多数あって、しかも錯綜している現実を
これからの記事で解きほぐしていきます。


オクラのつけ焼き

オクラは板ずりして
(面倒な時は板ずりしなくても可)
ガクをとり、洗って軽く水気を切ります。

ビニール袋に
オリーブオイル、塩、胡椒を適宜入れ
そこにオクラを投入
よく揉み込んでから冷蔵保存

朝、ここまでしておけば
夜は、温めたフライパンにそのまま投入して焼くだけです。

オクラの甘みが美味しい♡

和風の味付けも美味しいけど
たまにはちょっと洋風の味付けでオクラの甘みを味わうのも良きかな良きかな。

本当は
スナップエンドウのレシピだけど
オクラでもいけるんじゃないかとやってみたら美味しかった♡