あなたの実践があなたの作業療法

なんでもっと早く気がつかなかったんだろう?って思いました。

「あなたの実践があなたの作業療法」

かつて
私が学生の頃に
高校の部活の友達に
「作業療法士ってどんな仕事?」と尋ねられて
うまく答えられずに作業療法の定義を答えたりして (^^;
言ってる私がそんなだから、聞いた友達も『?』な顔になっちゃって。
ってことがよくあったのを思い出しました。

学生だから
作業療法とは何ぞや?って答えられなくて当たり前なんです。
作業療法士として実践していないし、結果も出していないんだから。

ただ、臨床を何年もやってる作業療法士が
それじゃあマズイですけど (^^;

ごむてつさんが
「もっとはっきり言ったほうがいい」
とよく言いますが
「事実の子たれよ」
事実を明確に認識してもらうことから始めるのだ
という意味なのだと思います。

事実を認識することを回避している作業療法士は
無意識下も含めて、その人の選択でそうしているわけで
その人にとっての必然があるのだとは思うようにはなりました。

ただし、かつての私のように
そのような作業療法士の在りように疑問を感じつつも
どこがおかしいのかを具体的に指摘できないし
どうしたら良いのかを具体的に提案できないから
「作業療法は素晴らしい」
「作業療法の楽しさを語り合おう」
というような在り方に対して
違和感を感じつつも表明できずに困惑している作業療法士が
きっとたくさんいるはずなのだと思っています。
この記事は、そのような人たちへ向けて書いています。

「OTの不安への答え」
「作業療法は触媒」
という記事にも書きましたが
通常、語らないことを語る場合には
語ることによって何かを補償していると思っています。

  例えば
  飛行機のパイロットが内向きにパイロット同士で
  「パイロットは素晴らしい職業だ」
  なんて語り合っていると思いますか?

  (将来のパイロット確保のために外向きに言うことはあるでしょうけど)
  いつなんどき何が起こっても即応して
  安全に離着陸・飛行できるように訓練を重ねていると思います。

  本当に素晴らしかったとしたら
  毎回必ず素晴らしい実践ができているから
  自分には至極当然のこと、空気のようなものなので
  敢えて語る必要もないと思います。

  語りたいというニーズがあるということは
  当然の状態にはなっていない。
  ということを暗に表明していると思っています。

私はずっと
自分自身が大したことない、しがない作業療法士だという自覚があったので
まずは、自分が対象者にとって悪いことをしなくて済むように
できれば対象者にとって良いことができるように
と考えて実践を積み重ねてきました。

作業療法が一般的にどんなに素晴らしいものだとしても
私が「悪い作業療法」を提供してはいけない
私が未熟な故に作業療法全般を汚してはいけない
できれば私が「良い作業療法」を提供できるようにならないと
対象者の方に申し訳ないと思っていました。

抽象的な一般的な作業療法には興味関心がなく
常に自身の実践の正当性・適否を問題視してきました。
それは時には辛く、時には嬉しいこともありましたが。。。
そして良いにしても悪いにしても
常に実践した結果を分析し
任意の対象者に提供した実践の何がどう良かったのか何がどう悪かったのか、
分析し抽象化・一般化すべく言語化の努力を積み重ねてきました。
それは学会発表・論文執筆という機会があろうとなかろうと
そんなこととは無関係に臨床実践者としての責務として行ってきました。

その結果
作業療法とは何か
という抽象論を言語化できるようになり
認知症のある方・老年期の方に対しての実践を
かなり明確に言語化できるようになってきたと自負しています。

  「作業療法って何?」って考えて語り合ってる人が答えを出せず
  「作業療法」に焦点化せず自身の実践を検討してきた人が
  「作業療法とは」の答えをもってるって皮肉なものです。


   でも考えてみれば当たり前のことで
   料理とは何?って考えたり語り合うのも自由ですが
   肝心の料理を作ってみなければわからないし
   作った料理がまずかったら食べる気にもならないじゃん。

   その上で食べる人の好き嫌いという嗜好だってあるのに。
   (誰が食べるために作るかってこと)

「作業療法は理解してもらうのが難しい」
「作業療法は説明するのが難しい」
と言う人は大勢いますが
その人は本当は
「私は自身の実践を理解してもらっていない」
「私は自身が実践している作業療法を説明できない」
と言っているのと同じなんです。

結果を出していないから。

  聞いたことは忘れる
  見たことは思い出す
  体験したことは理解する


  という言葉があります。
  出典は諸説ありますが、世界各地に伝わっている言葉なんだそうです。
  体験したことは理解する
  のであれば、
  体験していないことは理解しにくいとも言えます。

対象者が良くなるという結果を出していない
少なくとも内心の実感としてはない
出た結果が良くても悪くても
自身の実践のどこがどう良くてどこがどう悪かったのか
確認していない

ならば、そこから始める。

具体的な事実一つひとつを対象化し分析し抽象化・一般化する努力をして初めて
総論的な抽象概念に落とし込むことが可能となるのではないでしょうか。
 
仕事をしていれば、いろいろな状況があるので、時には
今はこれだけやってもらおうということだってあるかもしれません。
それはそう自覚した上でやるならそういう時もありだと思うのです。

でも、そうではなくて
ただ単に漫然とした作業療法を続けてきた結果
初めは、こんな状態で良いのかと疑問を抱いたり自問していたはずなのに
いつの間にか、自問することもなくなり
漫然とした作業療法に対してもそれなりの言い訳ができるようになり
それ以外の道が見えなくなってしまった。。。
自覚すらできなくなってしまった。。。
そんな作業療法士の実践も説明も
受け手にはさっぱり理解できなくて当たり前だと思います。

表面的な実践を支えている
作業療法士としての努力の積み重ねの有無とその意図は
無言の説得力として滲み出ることもあれば
逆にどんなにキレイな言葉を使っていてもリアリティのなさが伝わってしまうことも
あるのではないでしょうか。
周囲の多職種や対象者にも。

あなたの実践があなたの作業療法

実践は、どちらの意味でもあなたを裏切ることはありません。


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