点と点が線になる

スティーブ・ジョブズの言葉に「Connecting the dots」という言葉があります。
2005年6月にスタンフォード大学の卒業式で
「将来を予想して、点(知識や経験など)と点をつなぐことはできない。
 後々の人生で振り返った時にしか、点と点をつなぐことはできない。
 今やっていることが、将来、自身の役に立つ(点と点がつながる)と信じて取り組みなさい。」
とスピーチしたそうです。

本当に点と点はつながるんです。

私が作業療法士として働き始めた当初
減ることなく日々増えていく「To Doリスト」を前にして
焦るばかりだった自分を覚えています。
後年になって「よっしーさんは仕事が早い」と言われるようになるなんて思えなかったし
ましてや、自分が人様の前でお話をしたり、本を上梓するようになるなんて
夢にも思っていませんでした。

もっと遡ると
高校生の時には児童文化部に所属していて
影絵や人形劇を作って市内の保育園を回って上演するという活動をしていました。
この時に先輩から口酸っぱく言われたのが
「演出は自分で動いちゃいけない。常に全体を見て指示を出せ。」
ということでした。
今思っても良い先輩やOBに恵まれ良き指導を数多く受けました。
それが後年OTになっても活用できる眼を涵養してもらったのだと
当時は知る由もありませんでした。

私が臨床1年目の頃は、今のような民間のセミナー団体なんて全然なくて
OT協会か県士会主催の研修会しかありませんでした。
どのように学んでいいかも自分でわかっていなかったので
手当たり次第に研修会に出たり、本を読んだり、論文を読んだりしていました。
給料は安かったし、古いけどアパートも借りてたし、県の奨学金も返済していたので
漫画みたいだけどパンの耳を食べていたこともあります (^^;
自宅で素ラーメンを食べていて、たまたま尋ねてきた知人に笑われたこともありましたっけ (^^;
そんな風でしたから、研修会に出席しても「モトはとるぞ」精神で
研修会の内容だけでなく、講師の講演の進め方や構成、事務局の運営の仕方なども
その場のすべてが勉強とばかりに見ていましたっけ。
(それができたのも高校時代の部活での体験があったからだと思います)
いつかは自分が講演する側に回るからとか、運営側に回るから
といった意識は皆無でしたけれど、得られるものはなんでも得る!精神でした。
でも、その蓄積が今、本当に自分が講演する側になり、運営する側にもなって
役に立っています。

私がブログを書き始めたのは今から15年以上前になります。
そのブログを読んだ人から講演を依頼されたこともありました。
その後、神奈川県作業療法士会のウェブサイト管理委員会のお仕事をするようになったり
県学会広報部や県士会理事の時に立ち上げた複数のコンテンツの作成を通して
情報発信を学べたことも大きかったと思います。
(失敗もたくさんしたけど)
当時は目の前にある為すべきことをただひたすらやっただけで
後年になって自分でサイトを作って公開する時が来るなんて思いもしませんでした。

いやー本当に何がどう役に立つか、わからないものです。

無駄なことなんて何ひとつありません。
どんなに努力したとしても願いが叶うとは限りませんが、

努力したことが無駄になることなんて決してありません。

点と点は、その時にはわからないくても
必ずや線になるし
その線もカタチを変えてより太い線になったり面になり立体になったりしていきます。

これからも
新たな点を作っていくことになるだろうし
新たな点と作られた多数の点を結んでどんな線ができるのか
ワクワクドキドキしていますし
作られた線の意味や点の意義を振り返って
思い出を味わったり、新たな発見を見出したりするのも
これから老いを迎える私個人としての新たな楽しみ方になるのかもしれません。

 

豆腐のサラダ


まだまだ暑い日が続いています。
そんな暑い時にぴったりの副菜です。
サッパリとパクパク食べられます (^^)

材料:
豆腐(3連包装を1個)
茗荷 1個
きゅうり 1/2本
塩昆布 ひとつかみ
めんつゆ 大さじ1
ごま油 大さじ1強

作り方:
豆腐は電子レンジで水切りします(600Wで1分ちょっと)
きゅうりを薄い輪切りにして塩もみしてから水気をしぼります。
茗荷は千切りします。
器にめんつゆとごま油と塩昆布を入れて混ぜ合わせます。
次に、水切りした豆腐ときゅうり、みょうがを入れてさらに混ぜ合わせ
冷蔵庫で冷やしておきます。

ネットで見つけたレシピです。
レシピでは、軽く火を通したオクラを使っていましたが
私はきゅうりのシャキシャキ感の方が好みです (^^)

サバ缶ご飯

夏も終わりですが
暑い日にぴったりのカンタンなサバ缶ご飯のご紹介(^^)

材料:
ごはん 1.5合
サバ缶 1缶
しその葉 10枚(お好みで加減を)
白ゴマ (プチプチ感が決め手)
梅干し 2粒
しょうがチューブ 2回しくらい
ごま油 適量
めんつゆ 大さじ1

作り方:
ごはんは、硬めに炊いておきます。
ごま油をフライパンに入れて熱し、サバ缶の汁ごと入れて身をほぐします。
ほぐした梅干し、めんつゆ、白ゴマ、しょうがを入れて煮詰めます。
水気がなくなったら、千切りしたしその葉を混ぜ合わせます。
最後にご飯をよく混ぜてできあがり!

サッパリしているけど、コクがあって栄養満点!


「QOL」と「その人らしさ」


今、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言うのが
「その人らしさを大切に」
「その人に寄り添ったケア」
という言葉です。

理念としては、とても重要な言葉だとは思いますが
「言うは易し、行うは難し」

言うのは、良いけど
じゃあ、実践にあたって
どのような思考や言動が、その人らしさを大切にしていることで
どのような思考や言動だと、その人に寄り添ったケアではなくなるのか
検討した上で、実践し、自己検証している人がどれだけいるのでしょうか?

リハの世界で30年以上も働いていると
世の中と同じで、リハの世界にも流行り廃りがあることをたくさん見聞きしてきました。

パワーリハや回想法や学習療法。。。
一時期業界を席巻しましたが、さて、今はどうでしょう?
これらは、ツールですから
対象者に合わせて上手に活用すれば良いのですが
当時は結論ありきのように、誰にでもどんな状態の人にでも奨励されていたような印象があります。

若い人はそれこそ聞いたことがない言葉かもしれませんが
今と同じように、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言っていたのが
「QOL」という言葉です。
「QOLを大切に」
「QOLを見据えて」
という言葉が席巻していました。
ところが、今や「QOL」という言葉は死語になってしまったかのようです。

いったい、どういうことなのでしょうか?
あるモットーやスローガンやツールが一気にわーっと広がるけれど
いつの間にか人口に膾炙することがなくなっているという状態。。。
まるで全肯定と全否定のような。。。

長崎浩の「動作の意味論 歩きながら考える」という本のp.255に
「これに対して、生活・人生の向上を最重要視するのが他の臨床医学と異なるリハビリテーション最大の特徴だといわれるが、いうところの最重要視はいまや医療全般の掛け声である。このような股裂き状態の中で、見失われているのはリハビリテーション医療に固有の理論であり、この意味での専門性だというべきである。」
という記述があります。


ICFとリハの発展に絡めての記述ですが、太字部分は「QOL」と言い換えても良いと思います。
思うに、「QOL」については具現化するところまでもっていくのが難しく宿題のままになっていた。
誰もが重要性を感じていて、ただ具現化するに至らなかった。
そこでもう一度、「その人らしさ」というコトバに変えて、
もう一度問いかけるようにして
浮かび上がってきた概念なんじゃないかなと思います。
「QOL」も「その人らしさ」も同じコトを違う側面から切り取って提起しているんじゃないかな。
ただ、かつても今も明確化と具現化ができなかっただけで
「QOL」運動が鎮静してしまったように、いずれ「その人らしさ」運動も鎮静していくと思う。
そして、第3のコトバ、第4のコトバで繰り返し浮かび上がる。。。。

おそらく、「その人らしさ」から派生してきたのが「意思尊重」で
「やりたいこと」「希望」を尋ねるという方法に流れてきている。。。
(今はむしろこっちの方が花盛りかも?)
でもそれはすり替えであって本質じゃない。
問題設定の問題に絡めとられてると思っています。

本質は、『生活・人生の質を最重要視する』ことで
ヒントは、『ICFの概念』で
ぼんやりとつかみかけているものをはっきりとカタチにしたうえで
どのように『具現化する』のかというところなんだと思う。

  ICFは相互関係論なので華厳経の縁起と通じる部分もあると思っています。
  (老後の楽しみとして数学と華厳経を勉強したいなと思っています)


 

ここまでは、わかるようになったし、できるようにもなったけど
(我ながらよくここまで自力で辿り着いたと思います。
 もちろん有形無形多数の人の援助や支えはありましたし
 幾多の先達の知見のおかげや影響も受けています。)
ここから先はどれだけ進めるだろうか。。。
もちろん、進むだけは進むつもりでいますが
今までみたいにひたすら前進!という年齢ではなくなりましたので
バトンを渡すことを諸々考えています。

そんなわけで
長らくお待たせしましたが
できれば11月くらいにDCゼミ主催の研修会開催を検討中です (^^)
詳細は今しばらくお待ちください m(_ _)m



第6回神奈川県臨床作業療法大会 事前参加登録開始されました!


2024年12月8日(日)に開催される
第6回臨床作業療法大会の事前参加登録が本日9月2日(月)12:00から開始されます !

詳細・お申込は
_大会公式サイトの参加登録_から。

事前申込の参加費は、¥2,000円です。

開催日程は、_こちら_をご参照ください。

第2講演として
「なんちゃって目標からの卒業〜自分自身に問い直す〜」というテーマ

お話させていただきます。

思えば
リハの分野は目覚ましい発展を遂げてきました。
私が高校生の時に進路指導の先生に尋ねられて
「リハビリテーションの学校に行きます」と答えたら
「リハビリテーション?それは何だ?」と言われました。
でも、今やリハを受けたことのない人はいても
リハビリという言葉を聞いたことのない人はいないと思います。

リハの知識も技術も蓄積され
対象分野も大きく広がり
従事するセラピストの数も大きく増えました。

一方で
私が学生の頃からあまり変わっていない課題もあります。
チームワークしかり
目標設定しかり。

なぜなんでしょうねぇ。。。

チームワークについては
一時期は飲ミュニケーションという言葉が席巻したこともありますし
目標設定についても
一時期OTの中でブームとなったアプローチもあります。
でも、飲ミュニケーションという言葉は定着しませんでしたし
今の若い人は聞いたこともない言葉なのではないでしょうか?
同様に、一時ブームとなったアプローチだって定着はしていません。
定着していない。。。ということは
結局、現場的に
使いづらさがあるとか、現実的ではない、つまり、本質ではない
ということだと思っています。

12月の臨床作業療法大会での講演では
目標設定の本質に迫るお話をしたいと考えています。

実は、目標設定で悩んでいる人はすごく多いはずなんです。
(自覚している人はまだしも、自覚できていない人も多い)
「目標をどんな風に設定したら良いのかわからない」
「これで本当に良いのかわからない」
と立案時に悩む人もいれば
「やりたいことを尋ねたら、そんなものはないと言われた」
「やりたいことを提供したら、全然できなかった」
と提供時になって初めて困る人もいますし
目標をちゃんと設定できていないのに困ることすらできない人もたくさんいます。
私が学生の時にも、そして今現在も。
60年もの間、変わることのない課題なのです。

どうしてなのでしょう?

本当は
目標の設定の仕方がわからない
のではなくて
目標とは何ぞや
ということがわかっていないのだ
と考えています。
問題の本質を吟味することよりも
表面化している問題を表面的に解決しようと
考えた方法論の限界が見えてきていると思います。
本来、対応すべきは目標の概念理解だったのですから
問題設定の問題に陥っていたことを自覚して
本来の問題に対応すべきだと考えています。
  
そもそも普通に考えて、
目標の概念理解ができていないのに目標設定の仕方を工夫する
って、すっごく変

コトは目標設定に限りません。
まったく同じコトが違うカタチで臨床現場で起こっているんです。
  
概念の本質を理解せずに対応をあれこれ考える。。。
食事介助でのムセ然り
ポジショニングでの過剰可動域の設定然り
認知症のある方に敬語や優しさを奨励すること然り。。。

極めつけが
どんなテーマで講演しても質疑応答で必ず出る、
「〇〇という状態の人がいますが、どうしたら良いでしょうか?」
というカタチの質問です。
この質問のカタチには、ふだんの思考回路が反映されています。

〇〇という時には、△△する
という思考回路です。
というか、単なるハウツーの当てはめですから思考ですらありません。。。

そして、そのような市場の要請に応じて
ハウツーを売りにした研修も
ハウツーを売りにした本も多数提供されています。。。

その一方で
「その人らしさを大切にする」
「その人に寄り添う」
というスローガンはどの分野、どの職種でも花盛りです。

本当に。。。?

どういった思考や言動がその人らしさを大切にすることで
どのような思考や言動がその人らしさに寄り添っていないことなのでしょうか?

本当に実践されていたら
ハウツーを求める質問は出てこないし
ハウツーを売りにする研修や本が提供されるはずがありません。
ハウツーは「その人らしさを大切にする」「その人に寄り添ったケア」と真逆の在り方ですから。

その反映の現れの一端が誰に対しても
「現状維持」「移動能力の維持・向上」「筋力強化」「可動域改善」「認知機能維持」
といった文言で「目標」として設定されていることもあります。

こんなにも実践と理念が乖離している現実に
疑問を感じる人がどうしてこんなに少ない
のでしょうか?

理学療法士・作業療法士という言葉が1965年に日本に誕生して来年で60年になります。
日本には還暦という言葉があります。
「産めよ、増やせよ」で国策としての養成がひとまわりするわけです。
このあたりで、第二の人生に生まれ変わるという還暦の意味に沿って
もう一度、根幹となるものを考え直しても良いのではないでしょうか?

知見の集積は必須でした。
でも、どんな物事であれ
物事は表裏一体、メリットもあればデメリットもあります。
リハの知見の集積が叶ったからこそ
蓄積された知見を対象者のために活用するのではなく
知見を対象者に当てはめるような在り方
が広まってしまった側面もあるのではないでしょうか。
知見の集積をどのように扱うのかは扱い手の問題です。
だからこそ、今一度、本質を見直すことが重要なのではないでしょうか。

目標を目標として設定できるということは
それ自体、重要な能力でありますが
それ以上に、臨床能力を下支えするメタ認識を涵養させるという意味でも重要です。

実際に現場で起こっている問題の本質について
言語化し、問題提起し、解決策を提案
している人は稀です。

日本のリハビリテーションの未来を担う人たちに向けて
他では聞けない、本当に貴重なお話を聞ける場にいたします。

どうぞ、ご参加をご検討ください。


本質はシンプル


「簡潔さとは複雑さを研ぎ澄ましたものである」
ルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの言葉だそうです。

スティーブ・ジョブズもシンプルなデザインにこだわっていました。

私の実践は
対象者の能力を見出し能力を活用する
というものです。

答えは対象者の中にあるということを確信しています。

どんな対象者のどんな状態像であっても適用可能な考え方です。
食事介助しかり、ポジショニングしかり、移動能力しかり、
生活障害しかり、BPSDしかり、Activityしかり。

シンプル過ぎて理論とは言えないかもしれませんが
私はそうやって結果を出してきました。
 
巷間言われているような理論を使ったことは一度もありません。
だって、手間ばかりかかる割に結果が出せないし
重度の認知症のある方に適用できないからです。

本当に有用なもの、本質的であればあるほど
除外要件が少ないはずです。

除外要件が多いものは本質ではないと考えています。
「認知症だから無理」「認知症だから適用困難」
と言って認知症のある方を除外しないでほしい。

認知症のある方はリハ対象者の中に相当数います。
急性期であれ、回復期であれ、生活期であれ
認知症のある方に出会わないセラピストはいないと言っていいと思います。
任意の理論が本当に認知症のある方に役立つかどうか
みんな心の中では本当のことをわかっている
と思います。
忖度して言わないだけで。
でも、それで本当に認知症のある方への対応が発展していくのでしょうか?

「理論が大事」という人は少なくありませんが
私に言わせれば、根拠こそが大事で
実践において、その根拠とは対象者自身です。
もちろん、過去からの知見の集積は活用はしていますが。

このサイトの_トップページ_に先人の金言を掲載してあります。

原点に立ち戻って
目の前にいる方に真摯に向き合うことから始めることが
真贋を見極める眼を磨くことにもつながると感じています。

トップダウン評価の実践


トップダウンアプローチなるものが一時、流行しましたが
最近ではあまり聞かなくなってしまいました。

リハに限らず、どの分野でも同じですが
その他にも、パワーリハ、学習療法など流行り廃りがあるものです。
意義はあるから上手に活用すれば良いもので本質ではないのだと思います。
本質でないものは時代に淘汰されていくのでしょう。

私自身は
実践ではなく評価こそボトムアップではなく、トップダウンで行う
と考えています。
正確に言えば、ボトムアップで検査をしてもそれだけでは評価にはならない。
必ずその方の困りごと、できそうでできないことの場面を自分自身で確認する。

生活の中の困りごとが起きている場面そのものを観て
イマ、ナニが起こっているのかがわかることが大事

だから、どうしたら良いのかが浮かび上がってくる。
それが食事介助であっても、
帰宅要求であっても、
Activityであっても、
移動能力であっても。

生活障害に反映されている機能障害の把握の順序は
先でも後でもどっちでもいいんです。
それは瑣末な問題
というか、機能障害の明確化や確認という過程は
遅かれ早かれ、目標を適切に設定しようとする過程において
必ず問い返される
ものです。

結果から状態を観察し必然を洞察する:食事介助


私が他の人と違うところがあるとしたら観察の深度だと思う。

例えば
「ためこんで飲み込んでくれない」と質問する人は多いけれど
ためこみって、結果として起こっていることなんです。

食事をためこんでしまう方は
食べたくないからためこむ訳ではなくて
食べたくて食べようとして、でも食べられないケースが圧倒的に多いものです。

なぜ
ためこんでしまうのか、食べようとして食べられないのか
というと、圧倒的に多いのが舌の硬さです。
まるで、かまぼこ板のように舌がガチガチに硬くなっていることが多々あります。

舌が硬くなっているという状態の結果、
スムーズに送り込みができなくなり、ためこみという結果となって現れているのです。
じゃあ、なぜ、舌がそんなに硬くなってしまうのかというと
これは、十中八九、誤介助が理由です。
対象者の方に本質的な問題があるわけではないのです。
だとしたら、正の介助を行えば正の学習が生じます。
私たちが適正な介助を行えば良いだけなのです。
  
ところが、多くの人が「ためこみ」に困ると言いながら
「ためこみ」につながるようなスプーン操作、たとえば
スプーンを口の中に突っ込んだり、
上の歯でこそげ落としたり、
多すぎる1口量を口の中に「入れてあげる」等の誤介助をしているのです。

対象者の方は
食べにくさを感受しながらも必死になって食べようとした結果
過剰努力によって舌が硬くなり、
舌のしなやかな動きがなくなるので食塊再形成や送り込みができなくなる
食べたくても食べられず、結果としてためこんでいるのです。

ところが、多くの人は
「ためこみ」という「結果」は見ても
舌の硬さという「状態」には気がついていません。
だから、誤介助にすら適応しようとして
必死になって食べようとした誤学習として
舌内筋の過剰緊張が起こってしまったという「必然」
洞察することができないのです。

そして結果だけ見て
「ためこんで飲み込んでくれない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
「口元までうまく運べない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
という質問をするのです。
状態を観ていないし、「イマ」「ナニが」起こっているのかを把握できていないから
どうしたら良いのかわかるはずがありません。。。

評価とは
「イマ」「ナニが」起こっているのかを洞察することです。
ここで、改訂水飲みテストをしても状態把握できるわけではないのです。

誤解が生じないように敢えて書きますが
私は改訂水飲みテストを否定しているわけではありません。
実際、必要であれば改訂水飲みテストを行なっています。
でも、改訂水飲みテストはあくまでも「食べ方の評価」を構成する1検査に過ぎません。
同じ意味で嚥下造影や嚥下内視鏡も「食べ方の評価」の下位項目としての1検査に過ぎません。
検査は必要で意義もありますが、すべてではないのです。
(MMTをしただけで歩行状態の評価ができるわけでないのと同じです)

その証拠に
上記の検査をしても、「どのように介助したら良いのか?」という問いが
解消されることはない
のではありませんか? 

どうしたら良いかと他人に尋ねるのではなくて
目の前にいる方の食べ方をもう一度きちんと観察すべきなのです。

 
そう言うと
「ためこんでることをちゃんと見てるよ」って言われるけど (^^;
いやいや、それは結果で状態じゃないから。
状態を観察しないと。
そう言っても知識がないから目の前に起こっていることを観られないので
わかってもらえないことも起こり得ます。。。
わかってもらえないならまだしも、
「いちゃもんつけてる」ってこっちが悪者にされることだってあります。。。(悲)
「どっちがいちゃもんだ!」って言いたいけど
そんなこと言ったって泥沼になるだけです。。。

  「知は力なり」は真実だと思うけど
   こと、人に対しては「無知は力なり」じゃないの?って
   何度思わされてきたことか。。。

同じ時に同じ場所で同じ人を見ても
観る人によって得られる情報は全然違ってくるのです。

旅先で同じ景色を見ても
地学の知識がある人とない人でも違うし
歴史の知識がある人とない人でも違うように
(ブラタモリで証明されてます)
  
摂食・嚥下5相の知識がある人とない人
認知症の知識がある人とない人
運動学の知識がある人とない人
障害の知識がある人とない人では観察の深度が違います。

結果だけ見ているから、ハウツーを当てはめることしかできないし
結果を引き起こしている状態を観察できたとしても、知識がなければ
状態を引き起こす必然を洞察することはできないのです。

逆に言えば
状態を観察できるように知識を習得し
イマ、ナニが起こっているのかを洞察できるように観察すれば良いだけです。

食べようとして食べられずに困惑して
必死になって食べようとしているのに
その努力を不合理としか判断してもらえなかったり誤認されるだけで
的確に援助してもらえる人に出会えず苦しい思いをしている方が
今もまだたくさんいるだろうと思います。
そういう人が一人でも少なくなりますように。

そして、コトは食事介助に限らないのです。

紹介!「スクラッチアート」

 


ダイソーで売ってる、スクラッチアートがオススメです!

下絵が描かれた黒い台紙を専用のペンで引っ掻くようにしたり、なぞることによって
黒い台紙の下から色味が表れます。

塗り絵とちぎり絵とスクラッチアート
種目が要請する能力と特徴は微妙に異なりますので
それぞれの種目と対象者を適切にマッチングさせることが重要です。

塗り絵は、自分で「色を作り出す」楽しみがあります。
ちぎり絵は、自分では色は作り出しませんが、色のついた和紙の配置を工夫することで
結果として「色を表現する」楽しみがあります。
スクラッチアートは、結果として「色が出てくる」楽しみがあります。

それぞれ、下絵に工夫することで多様な状態像の方に楽しんでいただくことが可能です。
数分前のことを忘れてしまう方でも、スクラッチアートなら集中して取り組むことができる方も少なくありません。
この、下絵に工夫をするということが最大のポイントです。
特に、塗り絵はリハやケアの分野で多用されているActivityですが
あんまり、工夫がされていないのはもったいないことだと感じています。

スクラッチアートも下絵の選び方が重要です。
今は無地の用紙も発売されているので、提供者側が下絵を描くこともできるので
難易度の調整がより容易となっています。

詳細は下記の記事をご参照ください。
「スクラッチアートが使える」
「スクラッチアートの良さ」
「オススメAct.『スクラッチアート』」





ムセた時は呼気の介助


ムセに関する誤解については
こちらでも記載しましたし、機会あるごとに述べていることですが
じゃあ、どうしたら良いのか

ムセたら、背中を叩いたりさすったりするのではなく呼気の介助をします。

ムセとは、呼気のパワーで異物を喀出する作用なので
その作用を高める補助をする
というわけです。

座位のままで背中を叩くと、逆に気管の奥に異物を落とし込んでしまう恐れがあります。
窒息時の対応として、ハイムリック法の他に背部叩打法というのがありますが
頭部を胸よりも下方に下げた位置で叩く方法です。
(成人であれば、机の上にうつ伏せにして頭を下げ肩甲骨の間を叩きます)

ムセられるということは気道が閉塞していない、つまり呼吸ができている状態です。
だから呼気の介助が有効です。
窒息というのは気道が閉塞しているために、呼吸ができていないので
この場合に呼気の介助をしても意味がありません。

異物を喀出する努力をするとともに
医師を呼ぶ、医師のいない施設であれば救急車を呼び
救急隊が到着するまでの間、心臓マッサージをして脳への血流を確保することが必要となります。

いずれにしても、そんな状態にならないように
日々の食事場面において、適切な介助を含めた食環境の提供を実践・継続する方が
対象者にとっても職員にとってもずっと心身の負担が少なくてすみます。

食事中に呼気の介助をする時には
肺の右上葉が一番換気量が多いと言われていますので
右鎖骨下に手掌面全体をぺったりと当て
各人によって膨らみやすい方向があるので、その方向に垂直に
呼気のタイミングで圧を加えるようにします。

私の本「_認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック_」
の34ページにも記載してありますので、ご参照ください。

以前に、
食事中に患者さんが
誤嚥によって気道狭窄を起こした時にも(ヒュー音がした)
呼気の介助で大事に至らずに済んだことがありました。
私は喘息患者さんに接したことはなくて
「喘息でヒューヒュー音がして呼吸が苦しくなることもある」
というのを何かで読んだ程度しか知りませんでしたし
その時には離れた場所で他の方の食事介助をしていましたが
その音を聞いてすぐに「これは危険!」と思いました。
2回目のヒュー音が聞こえた段階で飛んでいってすぐに呼気の介助を始めました。
すぐに喀出できてなんの問題もなかったので本当に良かったのですが
もしも「呼気の介助はムセた時」というようなハウツー的理解しか
していなければ対処できなかったと思います。
最悪、無理に食塊を除去しようとして
逆に奥に押し込んでしまっていたかもしれません。
「ヒューというような音→誤嚥によって気道狭窄が起きた
→呼吸はできている→呼気介助して喀出できればヒュー音がなくなる」
というように
概念の本質を理解していれば
何が起こっているのかがわかり緊急性の判断もできるから
対処も的確にできるのだと再確認
できました。

緊急時対応が的確に行えるということも重要ですが
普段から基本に忠実に介助することのほうが
ご本人にも対象者にとっても心身の負担が少ない最大のリスク対策となります。
食べ方(口唇の動き、舌の動き方、喉頭挙上の動き)をよく観察する
スプーン操作を適切に行う
「そんなことわかってるけど忙しいからできない」と言うのではなくて

  こう言う人は本当に多いけど、そう言う人で
  基本に忠実に介助している人に会った試しがありません。


忙しいから、大変だからこそ、ポイントを押さえる
時間がかかるのは不適切な介助をしているからと認識を改めましょう。

  事実、コロナ渦で感染対策をしながらベッドサイドを周り
  私ひとりで2時間に25人〜30人近くの水分補給をして
  その中で食塊を吹き出してしまうなどの食べ方を改善することもできました。


食事場面は生命に関わる場面だからこそ
普段から、覚醒、姿勢、喉頭の動きなどをきちんと観察し、
スプーン操作の基本に沿って介助する、

介助の基本を徹底するということが最大のリスク対策にもなります。