言葉にとらわれない


言葉にして尋ねることは大切なこと

でも、言葉にとらわれてしまうと身動きとれなくなることもあります。

認知症のある方に
「やりたいこと」
「好きなこと」
を直接言葉にして尋ねても
「そんなものはない」
「私は何もできない」
と言われて答えに窮してしまったことはありませんか?

そういった答えが返ってくればまだしも
言葉を理解し表現することが難しい疎通困難な方には
どうしたら良いのだろう?と困ってしまったことだってあるのではありませんか?

そんな時に
ご家族や周囲の職員に希望を尋ねて
そこから関与を始める。。。というのもテかもしれませんが
「やりたいことをやるから元気になれる」
というスローガンに相反するような気がしたり
認知症のある方を蔑ろにしているような気がして
もやもやした気持ちになったりしませんか?

希望を言葉で言えなくても
やりたいことや好きなことがないわけではありません。
そこを探れるから専門家なのではないでしょうか?

体験した時に
表情や態度や行動という、言葉にならないもう一つの言葉で
雄弁に語る場面に遭遇したことのある人は、実はとても多いんじゃないかと思います。

Aさんは、どんな体験を好むのか?
Bさんは、どんな体験をしたいのか?

体験を通して実感できること、理解できること、思い出せること
って、たくさんあります。

言葉でのやりとりが難しい方でも
体験のやりとりならできる方はたくさんいます。

体験を通して尋ねる、確かめることも大切で有効なツールです。

ただし、どんな体験が良いのか
イチから360度探るようでは、素人と一緒です。
 
ある程度絞り込むことができるから専門家なんじゃないかと思います。
こちらが探る過程を通して認知症のある方に辛い思いをさせない
そういった配慮が当たり前にできるから専門家なんだと思います。

それができるから、
プロとしての作業療法士が職種として成り立つんじゃないかな?

ポジショニングが的確に実施できるためには
言葉でどうして欲しいですか?
どうしたらラクですか?とは尋ねません。
全身のアライメントや筋緊張を観察・触診して
確認しながら設定していきます。

食事介助を的確に行えるために
言葉で何がお困りですか?
どうしたら食べやすくなりますか?とは尋ねません。
実際の食べ方を観察・洞察して
食環境(食形態・食具・場面設定・介助方法)を
確認・調整・選択しながら介助をしていきます。

言葉ではなく、身体と身体を通して交流しています。

なぜ、言葉を最大の根拠にするのか、疑問です。

なぜ、疎通困難な人の言葉にならない声を聞こうとするのではなく
周囲の人の言葉を根拠として優先するのか、疑問です。

最近の作業療法は、
あまりに言葉にとらわれすぎているように感じられてなりません。
海外の知見を最新の手法として導入するのも悪くはないかもしれませんが
余分な手数だけ増えて実際的ではないと感じたことはありませんか?

欧米では文化として言語を重要視して扱っていますが
日本人は古来から言葉だけでなく非言語なるものを大切に扱ってきました。
文化の違いをもっと考慮した方が良いのにと考えたことはありませんか?

言葉で意思確認をすることは大切だけれど
非言語的な体験の重層さ・複雑さから逃避するために
意思や希望を言質に取るような在り方や
作業療法を提供する理由づけになっているような気がして
心のどこかにモヤモヤした気持ちが
鬱積していくような感じになったことはありませんか?

多くのリハスタッフが
潜在的には目標設定に困難を抱えていますが
目標設定の難しさを自覚できるようには養成されているとは言い難く
(むしろ簡単だと思わされているし、
 設定できないことによる弊害について教育されているとも言えない。
 養成校の教授で目標を目標として設定できていない人すら
 複数いるのが現実です。)

学生や若手は、実践・対応の難しさに圧倒されてしまうものです。
 
また、目標設定を適切に指導できる指導者も少ないために
「目標=本人のやりたいこと」というすり替えが起こったと考えています。
一見正しそうであり、かつまた、目標設定の困難さから脱却できるために
多くの人が一気に飛びつきました。
短期的・表面的な利益のために、長期的・本質的な損失を選んだ
というわけです。
本質的な対応であるほど、除外要件は極めて限定的なものです。
これだけ認知症のある方を実際にはリハ対象にしているのに
除外要件にするという論理破綻に疑問を感じざるを得ません。

ジョハリの窓という言葉もありますが
自分で自分のことが常に明確にわかっているわけではありません。
思わぬ時に思わぬ発見をすることもあります。
何らかの危機に陥った時に、抑圧していたことを思い出すことだってあるでしょう。

スティーブ・ジョブズは
新商品開発にあたってマーケティングはしなかった
「人は形にして見せられるまで何が欲しいかわからない」
と言っていたそうです。
その代わり、開発した商品のユーザーからの感想は
とてもよくチェックしていたそうです。

非常に合理的・論理的な実践だと思いました。
今、欲しいと言語化できるものではなくて
言語化できていない、でも潜在しているニーズを掘り起こすことで
大ヒットが生まれる。

現状追認型の思考をしていれば
今は良くても
先はありません。

対人援助職だって
先手を打たなければ行動変容は起こらない。
現状追認型の対応をしていれば
トラブルは起こりにくいかもしれませんが。
(意図があって現状追認を選択すべき時もあるでしょうけれど)

かつて
ある医師が「作業療法は作業療法士によって潰される」と語っていたそうです。
その医師は、本当は作業療法の凄さをわかっているからこそ
作業療法士に期待しているからこそ、
現状改善のために、必死になって訴えていたのではないかと思います。

人は
自分が為している以上のことを語れません。
たとえ語ったとしても為してもいないことは説得力を持って伝わりません。

たくさんの講師の講演を聞いてきましたが
伝わってくるのは、言葉の向こうにある実践です。

私が心から尊敬しているのは、岩崎清隆先生です。
先生は、私とは分野違いではありますが
どれだけ丁寧にきめ細やかにこどもたちに接しているのかはわかります。
本質的な対応をしているからこそ
分野違いであっても胸打たれます。
決して御涙頂戴の内容でも話し方でもなく淡々と論理的に講演されているのに
涙がボロボロとこぼれて止まらなくなってしまったことがありました。
 
今、作業療法の奥深さを実感を込めて語れる作業療法士が何人いるのでしょうか。
語りたいけれど語るのが難しいと言う作業療法士はたくさんいるかもしれません。
本当は語るのが難しいのではなくて、語るに足る実践が難しいのです。

語るだけでなく
聴くためにも聴くに足る実践がないと
「聞けども聴き取れず」
になってしまいます。

言葉は大切だけれども
言葉を下支えしている体験も大切

その意味がわかる、活用できるからこそ
Occupational Therapy だと考えています。

 

開口したまま待っている方

認知症のある方で
食事場面で口を開けたまま食塊を入れてもらうのを
待っているような方の場合
頚部後屈していることが多いものです。

このような時に
介助しにくいからといって
決して上の歯でこそげ落とすような介助をしてはいけません。

その場では
ムセることがないからと問題視することができないかもしれませんが
「カタチに反映されるハタラキ」の記事でも説明したように
食べ方というカタチには
食べる能力と困難というハタラキが反映されているものです。

  食事介助ではムセの有無しか気にしていない人も多いのですが
  ムセの有無しか気にしていないと
  食べ方というカタチすら見ていないので
  ハタラキも観ることができようはずもありません。

この時点で
ハタラキには大きな問題が生じています。
にもかかわらず、上の歯でこそげ落とすような介助をすれば
食べ方の問題を増悪させてしまいます。

たとえ、その場ではムセていないとしても。

開口したまま待っているような方というのは
その前段階として、必ずそのような食べ方を
引き起こしてしまう不適切な介助があったはずです。
つまり、
上の歯で食塊をこそげ落としたり
口の奥にスプーンを入れたり
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしたり。。。

誤介助誤学習が起こっているのです。
不適切な介助にすら、適応しようとして
自らの食べ方を低下させてしまったのです。

自らのスプーン操作を振り返る介助者は少ない。
ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」をご確認いただきたいと思います。

口を開けたまま食塊が入ってくるのを待っているような方に
「口を閉じて」と言葉でいくら言ったとしても
開口するしかない介助(例えば、上の歯でこそげ落とす)を
介助者が行動として行なっていれば
自身の身体に直接作用する介助者の行動に対する応答を優先し
口を閉じることはないでしょう。
 
その表面的な表れだけを見て
「口を閉じてって言っても認知症だから口を閉じて食べてくれない」
「どうしたら良いだろう?」
などと問題設定をするのは、本末転倒でしかありません。

じゃあ、どうしたら良いのか

今を否定せず
より良い食べ方を促します。

口を開けたまま待っている状態を否定せずに
口を開けたまま待っている状態でも
より安全に食べられるように
箸を使って食塊を歯もしくは歯ぐきの上に置きます。

そうすれば、自然と口唇閉鎖しますから
タイミングを見計らって頚部前屈を動作介助します。

食べるという一連の動作の中で
自然と頚部前屈を伴う口唇閉鎖を促します。

ここでのポイントは
頚部前屈というハタラキを促すことで
頚部前屈というカタチに至らなくても良いということです。

頚部前屈というハタラキが出てくれば
口唇閉鎖というカタチが容易に現れるようになります。

箸を使った介助で口唇閉鎖が出てくれば
食塊をとりこむ時に口唇閉鎖を促せる食具と介助方法を導入します。

ここは、その方のそれぞれの状態に応じることになります。
すぐに、スプーンで下唇や前舌を押すだけで口唇閉鎖を促せる方もいれば
いったん、ストローを使って口唇閉鎖の強調体験をした方が
次のスプーンへの適応がスムーズに進む方もいます。

そこはきちんと観察・洞察して決定します。

不適切な介助への合理的適応の結果としての
不適切な食べ方をしていた期間が短ければ短いほど
行動変容はより容易により短期間で起こります。

逆に言えば
そのような期間が長ければ長いほど
適切な介助ができる人と遭遇できなかった場合には
誤嚥性肺炎になってしまったり
食べ方がわからなくなってしまって
食べる能力を持っていながらも
本当に食べられなくなってしまうことも起こり得るのです。

食事介助は本当に怖い

 

技術職という強み

作業療法士は技術職ですから
「やってみせる」ことができるのが強み
です。

ポジショニングしかり
食事介助しかり
認知症のある方への対応しかり

関わる人が違えば
対象者の状態も変わるという
異なる現実を現前させることができます。

そうすると、必ず
どうしたらそうできるのか?と
聞いてくる人が出てきます。

その時にもう一度
意図と注意点と望ましい方法としてはいけない方法を
原則とともに対象者の個別性について
説明しながら実演すれば明確に伝わります。

中には現実を目の当たりにしても
なんだかんだとこちらを否定するような人もまたいるものですが
それはその人自身の問題であって
(そのような人は同じ問題を所属組織でも抱えているはずなので
 その人と所属組織の管理者の管理運営の問題でもあって
 こちらが抱え込む問題ではありません。)
こちらの問題ではないのでスルーすればいいだけのことです。
(若い頃はここを切り分けることができずに必死になりすぎていて
 自分も消耗したし、相手にもストレスだったと思います)

多くの作業療法士が
説明を優先しているようですが
説明は二の次、順序は逆です。
まずは、やってみせられるようになることです。

やってみせ、異なる現実を現前させることが第一に必要です。
自分がやってみせられる技術を磨くことが第一に必要です。
自分が何をしているのかを明確に認識・言語化できることの方が大事です。
ここにゴールはありません。

過剰に説明にこだわったり、語りたがるという行為は
自身の実践の不足や未熟を補償(防衛機制)しているじゃないかと思います。
作業療法の素晴らしさを熱弁する人を私があんまり信頼できない理由も同じです。

仮に
誰からも「どうしたらそんなことができるのか」と
問われることがなかったとしても
黙々と異なる現実を現前させ続けていけば良いのです。

本当のプラスの変化は
周囲の状況がどうであれ
必ず良い方向に蓄積していきます。
HDS-Rの得点がゼロ
意思疎通困難な重度の認知症のある方でも
プラスに変化していきます。

見れども観えずの人には
その変化がわからないから変化がないと言われちゃうかもしれないけれど
「その人が『見ていない』『わからない』」ということと
「対象者に『変化がない』」ということは
まったく別のことです。
 
対象者の行動変容を本当に促すことができれば
変化の兆しと変化とその意味とを
明確に観察・洞察できるようになり
より深くより広く、対象者の行動の必然が認識できるようになり
他の状態像の方へのアプローチも変わってきます。

生きている限り
どのような状態であっても
どのような環境であっても
自身の現存する心身の能力を活用しようとして
能力を発揮しているのだということの再確認の体験ができます。

不合理な環境に対してすら適応しようとして
自身の能力を落としてしまう。。。
能力を不合理に発揮させて困難を助長させてしまうのか
能力の合理的な発揮の援助ができるか
環境因子としての援助者の関与の質が問われるのだということを
明確に再確認・再体験し続けることになります。

ポジショニングでも
食事介助でも
認知症のある方への対応でも
やってみせられるのがプロなのだから
語るのではなくて
その場で変化を実現できるように
自身の実践力を高め深める
臨床能力を磨く
ことに尽きると考えています。

プロとして
臨床能力を磨くことについては
議論の余地はないと思います。
ただし、どうしたら磨くことができるのか
という点については、現行では本質からズレてしまっていると感じています。

理論や研究や海外の論文を読むことも
しないよりはした方が良いでしょうけれど
実はそれらの方法論は臨床能力とは直結しません。
理論などなくても臨床能力を磨くことは可能です。
(実は、よっしー理論とでも言うべきものはある)

理論を否定するものではありませんが
理論はツールですから
活用すべきものであって拘泥されるものではありません。

理論に対象者を当てはめるのではなく
対象者の役に立てるように理論を活用すべきです。

本質に迫る理論であればあるほど
対象や場面を限定することなく適用できるはずです。

最初から
認知症を除外したり、生活障害やBPSDを除外するようであれば
それは本質的な理論とは言えないと考えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・                      ・
・  臨床能力を磨く一番の方法論は      ・
・  目の前にいる対象者の方への実践と    ・
・  自身の実践の適切さに関して       ・
・  常に自分自身で問い続ける臨床姿勢です。 ・ 
・  その時の根拠は対象者の目標です。    ・
・  (理論でもEBMでもありません)       ・
・                      ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちは技術職ですから
まず、第一に結果を出すことです。

結果が出せない時には
どんなにつらくとも
自身の実践の結果をきちんと見据え、自身の実践を修正し続けることです。

たぶん、
今までは辛い時に
本当に役に立つ実践の在り方について示唆してくれる先達が
身の回りにほとんどいなかったんだと思う。
だから、辛さに耐えきれず、語る方へ逃げたり、理論武装しようとしたり
するしかなかったんじゃないかな。。。
一時的には、自分の心を守るためには仕方ないとも思うけど
本末転倒になってしまったら技術職として成り立たなくなってしまいます。

私の実践は、ベストではないかもしれないけれど
対象者の行動変容をかなり促せる、ベターな在り方だとは言えます。
ADLでも、ポジショニングでも、食事介助でも
生活障害やBPSDでも、Activityでも一貫して適用できる考え方をもとに展開しています。

かつて
私が若くて本当に辛い時に
今の私と出会えていたら、こんなに遠回りをせずに済んだのに
と思っています。

今、本当に辛い思いをしている誰かに伝えたい。
技術とは、たった一人でも磨くことができるものです。
その道標もあります。
だから、本質からズレないで努力を重ねてほしい。

技術職の強みとは
たった一人でも研鑽し続けられることであり
その研鑽の過程からこそ、支えや励ましを得られる
ものなのです。

 

  

カタチに反映されるハタラキ

 


生活期にある方のポジショニングに関する誤解も
まだまだ根深いものがあります。。。

拘縮を悪化させないように
寝たきりの方の膝や股関節にクッションを当てる時に
全身のアライメントを確認せず
とにかく力まかせに最大可動域にまで広げてクッションを当てるという。。。

でも
時間が経つとクッションがズレてしまったり、はじけ飛んでいたり
クッションを外したとたんに、足がキューっと屈曲してしまうとか
現場あるあるではないでしょうか?

拘縮悪化防止の名のもとの実践が
拘縮悪化防止になっていないどころか
逆効果になることをしている。。。

そして
良かれと思っての行動の結果が
本当に良かったのかどうかの確認をしない
という職員の思考と行動の在り方も現場あるあるです。

自分が設定したポジショニングの結果が
適切かどうかは本来であれば、次に訪室した時の対象者の様子を見れば一目瞭然。
見ているはずなのに。。。
見れども観えず
ここでも起こっています。

ポジショニングしかり
食事介助しかり
認知症のある方への対応しかり。。。

カタチとハタラキ

構造は機能を規定する
一方で構造は働きを反映しています。

カタチを通して反映されているハタラキを観ることが大切

カタチを通して
ハタラキに働きかけることがポイント

拘縮の悪化を予防しようという意思・意図は良いことだけれど
その意図が適切に実行されるためには
知識と技術と、それらを支える観察・洞察力が必要です。

屈曲拘縮のある方に対して
最大可動域いっぱいにクッションを当てるという行動は
見た目のカタチだけ見て、カタチだけ整えようとしているだけで
ハタラキは何も見ていないし、観ようとすらしていないことを意味しています。
屈曲拘縮を全て対象者の問題として認識し、問題設定しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ポジショニングをしたら、その場で確認する習慣をつけると良いと思います。 ・
・ まず膝や股関節を触って                        ・
・ ちゃんとリラックスして可動域が維持されているのかどうか        ・
・ 適切に設定できれば                          ・
・ その場ですぐに効果はわかるものです。                 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ポジショニングしたのに
かえって膝や股関節が硬くなって、ビクともしなくなってしまったら
そのやり方は修正すべきというサイン
です。

対象者の方が身をもって示してくれているサインを
見落とすことのないように。。。

「絵描きになりたい人は絵描きに

 

  
「『絵描きになりたい人は絵描きになれず
  絵を描きたい人が絵描きになれる』
という言葉があって
それに従えば、
俳優になりたい人は俳優になれず
芝居をしたい人が俳優になれるんだと思ってるんですよ。」

この言葉は
「鎌倉殿の13人」比企能員を演じた佐藤二朗の言葉です。

なるほどなー
と思いました。

どんな世界でも
その世界を極めるのは大変なこと

極めるのは、自分が何を為すのか
ということだから
結果としての、表れとしての、絵描きや俳優を目指すと本質からズレる
絵を描く、芝居をする、という自身の行動そのものを極める
極めずにはおれない
ということなのかな?と思いました。

これ、作業療法士だって同じじゃん。。。

 

ご家族の言葉

2016年に放映されたNHKスペシャル
「私は家族を殺した ”介護殺人”当事者たちの告白」
を忘れたことはありません。

見るのは辛かったのですが
仕事だと思って最後まで視聴しました。

ショックだったのは
最後の一線を超えてしまった人たちの3/4が
何らかの介護保険サービスを利用していたということです。

介護保険が始まって
確かに良くなったところはたくさんあると感じています。
街に車椅子が当たり前のものとして見かけるようになりました。
従事するたくさんの人のおかげで
助かっている人たちは大勢いると思います。
それでも、どこか、何か、足りない部分がある
ということを示唆しています。
それはいったい何なのか。。。

調べてみるともっと以前から何冊もの本が出版されていたことを知り
そのうちの数冊を読んでみました。

そこに共通していたのは
決して孤立しているご家族だけが介護殺人を起こしてしまったわけではない。
近隣との交流もあり
介護保険も利用し
一生懸命介護している人たちでした。

読み進めていくと
ある本の中に
「認知症を理解したって私たち家族の介護が楽になるわけじゃない」
というご家族の言葉が書かれていました。

認知症の啓蒙は確かに進んできたと思います。
そこで触れられるのは、抽象論・総論・理想論的なものが多いように感じています。

「認知症のある方の言動を否定してはいけない」
「怒ってはいけない」
「褒めてあげることが大事」
「なじみの関係を作る」
などといった、一見正当のようでいて、
よくよく考えるとおかしな言説が、紹介されることもあるのではないでしょうか。

一方で、
ご家族の相談ごとで最も多いのは、対応の工夫であり
専門家の研修会でテーマの希望で最も多いのも、対応の工夫です。

つまり、抽象論・総論・理想論では
暮らしの困りごとを解決するのは難しいという現実があるのです。

私は全国各地でさまざまな主催団体からの講演依頼を受けてきました。
何のテーマの講演であっても必ず質問されることは
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いのでしょうか?」
というカタチの質問です。

それだけ困っているのだとも思いますが
講演の中で、そのようなカタチの質問・ハウツーを求める在りようへの
疑問を提示しているにもかかわらず
ハウツーを求める質問をされるということは
常日頃からハウツー的な対応しかしていないことの証左ではないかと思います。

例えば
食事介助において
常日頃から斜め上にスプーンを引き抜くような介助をしている人に
そのような介助はしてはいけない
〇〇という介助方法に切り替えるべきと伝えると
頭では「そうか。そうしよう。」と思っているのに
なかなか切り替えるのは難しい人は少なからずいるものです。
それとまったく同じコトが違うカタチで現れているのです。

養老孟司は
「人間に関することで、あぁすればこうなるなんてものはない」と述べ
河合隼雄は
「登校拒否を治すボタンがあればいいといった親御さんがいた」と述べていました。

だからこそ
専門家が求められているのだと思います。
理想を具現化できる知識と技術を携えている助力者として。

現実には
理想論はあって
「やってみたらよかった」というハウツーはあっても
その間をつなぐ「考え方」がない。

だから
一生懸命なご家族ほど消耗してしまうし
職員はハウツーを求めて研修会に参加する
という現実があるのではないでしょうか。

実際に、あるご家族から
「今までたくさんの相談機関を訪れて
 そこで言われることはもっともなことばかりだったけれど
 今、私が困っていることへ的確に答えてくれたところは
 どこにもなかった。
 ここにきて初めて納得のいく答えをもらえた。」
と言われたことがあります。

「認知症を理解したって私たち家族の介護が楽になるわけじゃない」

こんなことをご家族に感じさせてしまうのは
やはりおかしなことだと思っています。

知識と技術は
人間の暮らしに役立てるように扱われるものでありこそすれ
決してそれらに縛られてしまうものではないと考えています。

本当の知識と技術は、
認知症のある方だけでなく
同じようにご家族や介助する人に必ず役に立つものです。
楽になるものです。
日々の暮らしの困難がゼロになるわけじゃないけれど
余分な困難を少なくすることはできます。

1手間はかかるけれど
その1手前のおかげで余分な困難がなくなり
いつか1手間が0.5手前になるものです。

ご家族を追い詰めるのではなくて
ご家族にも認知症のある方にも役立てるように
知識と技術をオーダーメイドで適用できるように

私自身の実践で努力するのはもちろん
必ずいるはずの、今困っている、現行への対応に違和感を抱いている
専門家への啓蒙として発信を続けていきたいと思っています。

 

鯖のトマト炒め煮

 


鯖缶(水煮)
カゴメ基本のトマトソース
野菜(ナス、玉ねぎ、パプリカなど)
ニンニクチューブ
醤油少々

材料はこれだけ!

1)ナスをお好きに切って(乱切り、半月切り、輪切り)
  水に晒してから、レンチン

2)フライパンを熱して
  鯖缶を汁ごとあける

3)ニンニクチューブをお好みで入れる

4)野菜を炒め煮する
  野菜に火が通ったら鯖を荒くほぐす

5)基本のトマトソースを入れて煮詰める

6)最後に醤油をタラっと隠し味程度に回しかける

使う野菜も
キノコを入れたり
カボチャやインゲンを入れたり
味付けも油をまったく使わなくても美味しいけど
ごま油で炒めたり、オリーブオイルを仕上げに入れたり
隠し味も味噌を少量入れたりと
その時々の気分でいろいろとバリエーションをつけられそうです。

寄り添ったケアの実践とは

 


認知症のある方の食事介助でも生活障害でもBPSDでも
困った時に「どうしたら良いのか」を考えることって
たぶんたくさんあると思います。

ケースカンファをしたり
誰かに相談したり

本当は
対応を話し合って考えることをしてはいけないんです。
どうしたら良いのかは考えることではなくて
「 今、そこで、その方に何が起こっているのか 」
ということを確認し合う
べきなんです。

例えば
私の本の中 に
食事中の大声という状態像の方が3人出てきます。

「食事中の大声がある方にどうしたら良いのか」
を考えても不毛です。
大声というのは、結果として起こっているに過ぎない
表面的な事象なので
大声に反映されている本質的な課題=何が起こっているのか
大声に反映されている能力と困難について
確認することが課題解決のスタートラインに立つことなんです。

実際問題として
三者三様の状態像があって
それぞれにまったく異なる取り組みをして
3人とも大声が改善
して退院できたのです。

状態像が異なるのですから
対応が異なって当たり前です。

状態像=その時その場をどう感受し認識し対応しようとしていたのか
そこをこそ、きちんと観察することが大事で
観察に基づいて、どのような能力とどのような障害・困難が反映されているのか
そこをこそ、洞察すれば
どうしたら良いのかは自ずから浮かび上がってきます。
まさしく、
その方それぞれに、オーダーメイドで対応の工夫をすることになるのです。

詳細は
「 認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック 」
をご参照いただければと思います。
そうすれば、
「観察するとはこういうことか」
「観察しているつもりだったけど全然足りていなかった」
ということがはっきりとお分かりいただけると思います。

そして、食事介助の場面で起こっていることは
他の生活障害やBPSDの場面でも
カタチこそ違えど、まったく同じコトが起こっているんです。

困った時には、
どうしたら良いのかを考えるのではなくて
まず、その時その場でその方に起こっていることを観察します。
 
多くの場合、「見れども観えず」になっていて観察し損ねています。
自身が見たいように見ているだけの人も少なくありません。
「この病気は〇〇という症状が出るから」
「前に似た状態の人にこうしてみたらうまくいったから」
「優しくすれば言うことを聞いてくれるから」etc.etc.

そうではなくて
まず虚心に観察することです。
判断を留保して観察します。

その時に、援助の視点を揺るがせにしないことが最も肝要です。
認知症のある方に
言い聞かせようとする、コントロールしようとするような意思があると
その意思は、必ず自身の言動に反映されるものです。
そして、認知症のある方に感受されています。

  その上で、こちらに合わせてくれたり、
  屈服するしかなかったということもあり得ます。
  短期的には表面的に問題行動は修正されたように見えて

  その実、長期的には一層大きな問題となって表面化します。

表面的にどうしたら良いのかを考えるということは
寄り添ったケアという理念から遊離してしまいます。
そして、援助と強制、使役のすり替えに陥るリスクを増大させてしまうのです。

もし、私が他の人より優れている面があるとしたら、
援助と強制、使役のすり替えに自覚的であることと
観察・洞察の力だと思います。

その時その場において、観察・洞察するということが
寄り添ったケアという理念の実践のスタートラインです。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
そう問われたこともありました。

私がわかるんじゃなくて
その方がちゃんと表現しているということなんです。

言葉にならない、行動というもう一つの言葉で。

 

  

高知県口リハ研究会講演終了

 

 
7月24日(日)10:00〜12:00にオンラインで開催された
高知県口のリハビリテーション研究会主催の研修会
「認知症のある方への食事支援」が無事に終了しました。

代表の宮本先生からの
「ぜひ、今日のお話をしっかり聞いてほしい」
というお言葉を大変嬉しく思いました。

食事介助は
対象者と介助者の協働作業
介助者が変われば対象者も変わる

「食べる」という行動に反映されている
「環境感受ー認識ー関与」の能力と困難を観察・洞察・評価する

そのことが伝われば。。。

そして
食事介助の場面で起こっていることは
その他の生活障害やBPSDの場面でも
同じコトが違うカタチで起こっている。

食事介助が変わる
ということの意味は本当に大きいのだと感じています。

 

 

食事集中困難

 


認知症のある方で
食べることに集中できないという場合に
口腔器官の協調性が低下している
ということは多々あります。

そのようなケースでも
「認知症のせい」ではなくて
もともと持っている困難に拍車をかけてしまった「不適切な食事介助」のせい
ということも多々あります。

つまり、裏を返せば、集中できるようになり、協調性も改善して
食事介助がラクになる可能性がとても高い
ということを意味しています。

まず、基本となるスプーン操作を行います。

そして、必ず先行期の能力発揮を促します。

  食事介助の現場で疎かになっているのが
  先行期への対応です。

  多くの場合に
  食器から食塊をすくったら
  すぐに口の中に入れてしまう人がとても多いのが現実です。

  このような介助をされては
  食塊を視覚的に認知したり、開口のタイミングを図ろうとすることが
  非常に困難になります。

  食塊の取り込みを行うことが難しくなり
  その結果、廃用として準備期の能力が低下し
  ひきづられて口腔期の能力も低下してしまいます。

  人の身体は構造的にも生理的にも連続しているからです。

必ず、口元でいったんスプーンを停止させ
食塊を視覚的に認識してもらいましょう。

誤介助誤学習によって
口腔器官の協調性が低下してしまうと
今まで食べられていた食形態では食べられなくなってしまうこともあります。

決して焦らずに
今、ラクに食べられる食形態を提供してください。

  多くの場合、口腔期の働きが低下していても
  咽頭期の働きは保たれていることが多いものです。
  空嚥下(唾液の飲み込み方)を確認してください。
  喉頭が即時完全挙上して完全嚥下できていれば
  ストローを使ったり、ごく薄い粘性のトロミの液体を提供します。

その過程において
最初は、食塊認識が曖昧な方でも
だんだんと明確に食塊認識するようになり
「ラクに食べられた」
「美味しかった」
体験の蓄積ができる
ようになると
注意散漫が完全にゼロにはならなくとも
食事に支障はない程度に食塊認識し咀嚼・送り込みができるようになるものです。

食べ方が改善してくると同時に注意集中も改善してくるものです。

結果として、介助もラクになります。