「食べる」再学習:食具

自力摂取している方に
スプーンの工夫もしますが 


介助が必要な方に食具を選択することも
食べる能力を発揮していただくためには重要です。

「何を」「どんな風に」
の部分で言えば、「何を」という食形態に関して検討されても
「どんな風に」の介助方法の部分は意外と疎かにされがちです。

スプーン操作の基本を知らない人はとても多くいます。
「スプーン操作を見直すべき兆候」をご覧ください。
これらの兆候ひとつひとつを
「私はしていない」と言明できる人がどれだけいるでしょうか?
「そんなところ見ていなかった」という人の方が圧倒的に多いはずです。
ぜひ修正していただきたいと思います。
そうすれば認知症のある方や生活期にある方が
どれだけ食べるチカラを持っているのか
どれだけ誤学習を起こしているのか
どれだけ誤学習から正の学習へ切り替える能力を持っているのか
ということがはっきりとわかるようになると思います。

全介助の方に対しても
通常使っているスプーンにとらわれることなく
必要であれば、Kスプーンとまでいかずとも
小さな平らなスプーンも使いますし、箸も使います。


水分摂取の時も
幼児用のマグカップを使用したこともあれば
ストローを使うこともあれば
シリンジを使ったこともあります。

食具の選択には大きな意味があります。

準備期に直接的な影響を及ぼします。

臨床現場あるあるなのが
疎通困難な方の場合に
「食べる」協調性が低下しやすく
そのような時には、スプーンではなく
箸を使って介助した方が再学習が進展しやすい
ということなんです。

もっと言うと
そういったケースで食べられるようになってくると
疎通が改善されることも多々あるのです。

それはもっともなことなんです。

準備期において不適切な介助は
口腔期の能力発揮を妨げます。
口腔期は舌や顎の働きの反映でもあります。
話せるためには舌や顎が適切に機能することが求められます。

開口しなかった方が
開口してくれるようになると
それだけでホッとして(気持ちはわかりますが)
食べ方の観察・洞察なしに
スプーンでどんどん介助してしまうということもあるあるです。

食べ方をきちんと観察していれば
確かに開口はするけど上唇のとりこみが見られずに
上の歯でこそげるようなとりこみを代償として用いる場合もあります。

このような代償も誤介助誤学習の結果なのですが
そのことに気がつけずに漫然とした食事介助を続けていると
今は開口して食べられていても
早晩送りこめなくなってため込んだり、
また開口しなくなったり、
という状態になってしまいます。

食べ方の観察・洞察ができないと
今、表面的に結果として起こっている事象
しかも介助者にとっての不都合な事象しか見ていないために
短期的なメリットを追求し、かえって長期的な困難を惹起する
ということが食事介助の現場で起こっていることです。

摂食・嚥下5相の知識に基づいた観察をしながら介助することの重要性を
どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

準備期の能力発揮には段階がある ・・・・・・・・・・・・・・・・・
・上唇を丸めてとりこめる                    ・
・上唇を丸めてとりこめないが、とりこもうとする形にはなる    ・
・上唇でとりこもうとする形もみられないが、口唇閉鎖はできる   ・
・口唇閉鎖も不十分                       ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらの段階が
誤学習なのか、自身の代償も含んでいるのか
食塊の認識がどの程度可能なのか
といった観察・洞察のもとに
通常スプーンを使用するのか
小さくて平らなスプーンを使用するのか
箸を使用するのかを判断します。
水分摂取に関しても
ストローが良いのか、スプーンが良いのか、コップが良いのか
判断していきます。

脱水や低栄養で体力低下していると
通常のスプーンで「食べる」ことで
栄養補給よりも体力消耗してしまいがちです。
そのような時にも身体の負担の少ない
液体の栄養補助食品を使用したり
上唇でのとりこみをせずともラクに食べられるように箸を使用したりします。

関与の過程において
食べ方や飲み方の改善に伴い、食具も切り替えていきます。

準備期=食塊のとりこみ=食事介助
というのは、本当に怖い

経験を重ねるにつれ
認知症のある方の「食べる」チカラの凄さを知るとともに
食事介助の怖さを思い知らされています。

「食べる」再学習:食形態


今の能力でラクに食べられる食形態と言いました。

能力とは機能を意味しません。
機能はあっても誤介助のために能力として発揮しきれない場合や
機能はあっても協調性が低下してしまって能力が発揮しきれないことも
臨床あるあるです。

私の実践は機能を上げることを目的とはしていないので
間接訓練は基本的には行なっていません。

本来の機能を能力として発揮できるように
直接訓練として実際の食事場面や水分補給の場面で実践しています。

「食べる」ことは認知症のある方と介助者との協働作業ですから
「何を」「どのように」食べるのか、援助するのか
ということが問われます。

「何を」という面では
食形態は本当に選択肢が増えました。

当院では
ゼリー食・ミキサーペースト食・ミキサーソフト食・長刻み食・荒刻み食・軟菜と選べます。
お粥も全粥・ミキサー粥が選べます。

ゼリー食の中で
よく使うのが液体の栄養補助食品、ネスレ「アイソカル100」です。
(もちろん必要に応じてその他の栄養補助食品も使っています)

水分と栄養を同時に摂取できるのが良いところですし
大きさもコンパクトなので見た目の圧迫感もありません。
複数の味から選ぶことができます。

食べる困難を抱えている方に対して
液体の栄養補助食品はあまり選択されないようですが
現実には、
咽頭期に本質的な問題がある方は少なく、
口腔期に本質的な問題がある方の方が圧倒的に多いので
私は液体の栄養補助食品を多用しています。

このあたりの考え方は、
摂食・嚥下ピラミッドとは考え方が一部異なりますが
そもそも摂食・嚥下ピラミッドは
生活期の方ではなく急性期の障害の方に対して考案されたものですので、
状態像が異なる方に対して異なる考え方をして当然だと思っています。

また、
液体の栄養補助食品よりも
もう一段前の段階として活用しているのが
グリコの「アイスの実」です。
こちらもいろいろな味があります。

 

導入として、直径1.5センチほどの1粒を1/3〜1/4にカットして使ったこともありました。
  1粒そのままを咀嚼し送り込み嚥下できるようになると
  相当、口腔期の能力が戻ってきていることの証左となります。

上顎に押し付けると表面がすぐに押しつぶされて
じんわりと中身が溶けるのがとっても使い勝手が良いのです。

それから
小袋4つで発売されている「かっぱえびせん」
通常の味もありますし
塩分控えめの「1才からのかっぱえびせん」もあります。
(4連で¥100円くらいだったと思う)

食べ方の改善に合わせ
食形態も変化させていきます。

控室には、いつでも使えるように
かっぱえびせんとアイスの実が常備してあります (^^)

「食べる」再学習:基本

 


認知症がある方で「食べる」困難のある方でも
多くの場合、もう一度食べられるようになります。

なぜならば
「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「吹き出すほどムセる」
などの「食べる」困難は
多くの場合に、認知症という状態のせいではなくて
不適切な介助にすら的確に適応しようとして誤学習を起こした結果です。

クリスティーン・ブライデン氏は
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
と言いましたが
まさしく的を射た表現です。

誤介助によって引き起こされた誤学習なので
正の介助ができれば正の学習が起こります。

 正の介助ができるためには
 摂食・嚥下5相の知識があり
 認知症の知識があり
 それらの知識に基づいた「食べ方」の観察ができ
 「食べ方」に反映されている能力と困難を洞察することができる
 ことが前提要件その1です。

 前提要件その2は
 スプーン操作をはじめとする
 的確な食事介助を行える技術を持っていることです。

 現実には
 (残念なことですが)
 2つの前提要件をクリアできている人って
 そんなにいるものではありません。

 でも、この現実は裏を返せば
 2つの前提要件をクリアしさえすれば
 認知症のある方や生活期にある方の「食べる」困難を激減させることは
 可能だということを意味しています。
 (この問題については、別の記事で詳述します)

話を元に戻すと
正の介助、正の学習のために
イマ、ラクに、食べられるように食環境を調整します。

多くの場合に
いったんは、食形態を下げる必要があります。
再学習が起こりやすいように
今の能力でラクに食べられるように
「食べる」失敗体験をしないように。

このようなお話をすると
難色を示す人が大勢います。

たぶん
食形態を落とすともう二度と今までの形態が食べられなくなる
と心配するのではないかと推測します。

でも
そのような心配が起こるのは
「食べられなくなったのは認知症のせい」という考えが潜んでいるからです。
現実は違います。
「食事介助を受けている方が食べる」というのは
認知症のある方と介助者との協働作業に他なりません。

「食べられなくなったのは誤介助誤学習のせい」と知れば
食形態を落とすことへの心配よりも
自身の介助の適切さへの心配の方が先立つはずです。
そのような方は
「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
をぜひ読んでみてください。
具体的に明確に介助において気をつけるべきポイントを説明してあります。

 

それでは
食形態と介助する食具を工夫することで
より適切な食環境を段階づけしながら提供できる
ということについて次からの記事でご説明していきます。

ピーマンのじゃこ炒め

 

 
ピーマンを千切りにして
ごま油で炒めて火が通ったら
しらす干し、ごまを入れて混ぜ合わせて
できあがり!

調味料いらずですぐにできるし
夏場など少し塩分を摂りたい時には、塩昆布を追加投入しています。

 

関係性の中で能力が見出されていく

 

 
関係性の中で能力が見出されていく

目の前にいる方の困りごとをなんとか手助けしたい。
手助けしたいという意志を支えるためには知識と技術が必要です。
 
そして手にした知識と技術は
「相手を変える、コントロールする」ためではなく
「相手を助ける」ために援用
するのだという認識こそが重要です。
ここが入れ替わってしまっている人に遭遇することも多々ありますが
対人援助職として、
いくら自戒しても自戒し過ぎることのない難しい側面なのだと感じています。

能力が見出される体験を重ねるたびに
援助という在り方を磨かされるように感じています。

認知症のある方も関係性を感受しています。
相手を変える、コントロールしようとする人に対する反応と
相手を助けようとしている人に対する反応と異なっていて当たり前です。

関係性の中で能力は発揮され、見出すことができる
その逆もあり得ます。

イチ臨床家として思うことは
普段の臨床にこんなにも直結することなのに
どうしてリスク対策として触れる人がいないのだろう?ということです。

理論とか、OTは素晴らしいとか
学生や若手OTに対してそんなことを喧伝するよりも先に
臨床家として援助が的確に行えるように
対人援助職の厳しさと困難を伝えるべきなんじゃないかと考えています。

そうでないと
かつてある医師が
「作業療法は作業療法士によって潰される」
と言っていた未来が実現してしまいかねません。

その医師は、
作業療法のチカラを本当にわかっていたからこそ
作業療法士に期待していたからこそ
そう言っていたのだと思います。

その意味をわからない人たちが表面的に批判するという
なんとも言えない皮肉な様相が見られていました。。。

援助を具現化するためには
知識と技術が必要で
それらを適用する際には
援助の視点をぶらさない強さが求められるということの厳しさ
対人援助職の落とし穴、罠、表裏一体の困難
として実感の思いを深めるとともに
学生や若手OTにあらかじめ伝えておくことの必要性を強く感じています。

接遇とか客観性とか
それもいいけどそれらは、本質でも根本でもなくて
土台として、このことが分かった上での接遇であり、客観性であり。。。
もっと重要なことは、
対人援助というのは、援助の名のもとに使役やコントロールに容易にすり替わる
ということをわかっていることだと考えています。
ところが、現実には経験を重ねるごとに鈍感になっていく人も少なくないんですよね。。。
本来は経験を重ねるごとに、わかりかたが深まっていくはずなのに。。。


ADLは再認を強化しやすい場面

 

 
ADLは、特定の場所で特定の行動を繰り返し行うので
体験を通して再認を促しやすい
再認を強化しやすい場面とも言えます。

再認
プラスにもマイナスにも働きます。

チカラは同時に両方向には働かない
 
プラスならプラス、マイナスならマイナスの
必ずどちらかに働きます。

たとえ、重度の認知症があったとしても
視覚的刺激を通して、あるいは体験を通して、
再認することができる方はたくさんいます。

「認知症だから食べさせないと食べることを忘れる」
「認知症だから歩かせないと歩けなくなっちゃう」
などと言う人もいますが
私はそんなことはないと感じています。

むしろ、そのような誤認をもとに
無理矢理食べさせるから食べられなくなる
無理矢理歩かせるから歩けなくなるし
焦って誤介助をしたことによる誤学習の方が
よっぽど多いと考えています。

食べないには、食べないなりの必然があるし
歩かないには、歩かないなりの必然があります。

そこをきちんと観察・洞察せずに
表面的に無理矢理食べさせたり、歩かせたりするのは
人としてどうかと思いますし
合理的でもありません。

そして
表面的に無理矢理食べさせたり、歩かせたりするたびに
嫌な思い、辛い感情を繰り返し体験し
また、それらを体験を通して再認することになるので
二重の意味で不適切で良いことが何もありません。

ただし
体験を通して再認できるからこそ
介入当初は大変でも、
もう一度食べられるようになったり
もう一度歩けるようになったりする
のだと感じています。

硬く口を閉じて開口しようとしなかった方
ALB2.1の方
「もう歩くのは無理です」と言われた方。。。
他にもたくさんの方を担当してきました。
いずれも、介入当初の拒否はとても強かったけれど
その必然や意味がわかるので、どうすべきかも洞察できました。
 
体験を通して再認できる方だから
異なる介入に対して
その介入がまさしく「援助」なのだと実感してもらえると
介入を重ねるごとに「できる」体験を積み重ね
再学習が可能となります。

ALB2.1で食事介助への拒否が強かった方は
入院前の施設では
「ご自分の世界に入り込んでいる」「意思疎通は無理です」
って言われてきた方でした。
 
でも、食べられるようになってきた時に
(それでは失礼します)と退室しようとしたら
「どうもありがとう。気をつけて帰るんだよ。」と
声をかけて下さいました。

自身の世界に入り込んでいるのは、どちらなんだろう?
と思ったものです。

立ち上がりや食事介助、口腔ケアなどの場面での拒否は
対象者にとっての必然なのですが
その必然を観察・洞察せずに
表面的に、「拒否されないように介助しよう」という視点では
対象者のネガティブな再認を強化することになってしまいます。

「拒否されないように介助しよう」という視点は
すべてを認知症の病状のせいにしているからです。

拒否の強い方は
過去の不適切な介助を再認した結果の意思表示
ということが多々あります。

だからこそ
今、適切な介助を体験を通して再認の蓄積を図る意味があります。

ピンチはチャンス

修正すべきは
認知症のある方の言動ではなくて
私たちの関与のあり方だったりするのです。

関与のあり方とは
「優しく」
「否定しない」
などといった心理的な意味ではなく
(それらは対人援助職の基本ではありますが)
障害と能力を的確に洞察し援助しようとする臨床思考・態度のことです。

 

 

なんちゃって目標から脱却を

 

そんなことを考えていた時に
なんちゃって目標を掲げたサマリーを受け取りました。。。

明らかに「目的」「リハ内容」なのに「目標」として記載されています。。。

そうなんです。
なんちゃって目標に、本当によく遭遇するんです。。。
養成校の教授が
なんちゃって目標を記載してる論文を見たこともあれば
実習指導者説明会で
なんちゃって目標を記載した資料で説明されたこともあります。。。
「私は概念を明確に理解していません」って
公言してるのも同じことなのに。。。

だから、
「構成障害とは何ぞや?」って説明できないのに、
立方体透視図模写テストをしたり
「遂行機能障害とは?」って答えられないのに、
トレイルメイキングテストをしたりしてる。
障害の意味がわかっていないのに検査・バッテリーをとって〇〇と判断してる。。。

障害の意味がわからないから
目の前で起こっている事象を見ているのに見落としてしまう。
構成障害や遂行機能障害を観察・洞察できなくなってしまう。
だから
「評価=バッテリーをとること」って誤解が蔓延ることになるんじゃないかしら?

これはもう明らかに養成の問題です。
卒前、卒後ともに。

OTもカリキュラムが変わって教えるべき内容が深く広くなってきていることや
臨床実習においてもハラスメント防止の観点から
時間内に学生を帰らせないといけないので指導時間が限られていることや
実習形態も変更しなくてはならないから
教員の先生方も実習指導者も今までにも増してご苦労があるのだとは思います。

でも、最初に「目標とはなんぞや」ということを
はっきりと教えれば良いだけですし
目的や方法との違い、その見分け方もちゃんと教えれば良いだけです。
つまり、概念をきちんと教えれば良いだけです。 
 
実習地では、実際のケースをもとに
教えられた概念を個別に具現化していく作業なので
「うん、良い目標だね」
「これはね、目標じゃなくて目的だよ」「こう考えたら目標になるよ」
具体的に現実的に教えれば良いだけです。

目標の概念を学び、具現化した体験があれば
なんちゃって目標に遭遇した時にすぐにわかります。
なんちゃって目標を本物の目標に修正するための方策も
概念として学び、具現化した体験があれば実践できるようになります。

「骨董屋の丁稚には本物しか見せない」

本物を知らなければ
偽物と本物の区別をつけられない

なんちゃって目標から脱却できないと
漫然としたリハの提供から脱却することが難しくなります。
対象者に対して適切なリハを提供するための自己修正ができないからです。
自分の方針や目的、治療内容なのに
それらを目標として設定していれば
手段の目的化となり、その先にあるのは自己正当化です。

理論だ、OT科学だ、といろいろなことが言われていて
それらもOTの発展のために必要なことかもしれませんが
現場最前線で働いているイチOTとしては
もっと足元を見直すことが必要な気がしてなりません。

よくわかっていない指導者が発する言葉に
「頭の中ではわかってるんだよね。
 ただ言葉にできないだけだから気にしなくていいよ。」
「今は学生だから難しいけど、働けばそのうちわかるようになるよ。」
といったものがあります。

そんなことは決してあり得ません。
臨床に出て働き出せば、実習生の時にように
目標設定の適否について指摘してくれる人がいなくなるだけです。

困ることに直面させられる機会が減るだけです。
自分の目標設定の能力が向上したわけじゃない。
概念を明確に理解していないと
この違いにすら、自分のことですら、わからなくなってしまう。。。

だから
初めて新人を教育する立場や実習指導者の立場になった時に
目標設定の難しさや指導することの困難に遭遇するのではないでしょうか?
自分ができていないことは、本当の意味で他者に教えることはできません。

先輩や上司に相談しても
的確な答えを教えてもらえず
悶々とした気持ちを抱えつつも
どうしたら良いのかわからずにいるうちに日々の忙しさに流され
そのうちに悶々とした気持ちも忘れて
「それでいいんだよ」と言うしかなくなってしまった。
そんな自分に心の奥底でチクッと胸が痛みつつ。。。
違うかな?

誰もちゃんと答えてくれない
そういうものかな?と諦めかけてるとしたら、ちょっと待ってほしい。

困ることを回避しないでほしい。
困ることは嫌なことだけど、ピンチはチャンス、
成長へのチャンスでもあります。

「求めよ。さらば与えられん。」

目標とは何ぞや
なんちゃって目標からの脱却方法についての
ご提案をしています。
興味のある方はぜひご参照ください。

目標設定の研修会では
「今まで悩んでいたけれど、すごくわかりやすかった」
「明日から早速やってみます」
「実習や学校の先生よりもわかりやすい説明だった」
「初めてスッキリと理解できた」
などとご好評をいただいている内容です。

世にリハ関係、OT関係のセミナーや研修会は花盛り。
全国各地で多様な主催者がさまざまな内容で開催しています。
私が新人の頃とはまったく様相が異なっています。
それなのに、「目標とは何ぞや?」という
目標の概念に関する研修会ってまずないのが現状です。
こんなに大切な基本中の基本が疎かになっている。。。
概念を明確に理解するということがおざなりになっている。。。

現場でのニーズは確実にあるのに。。。
表面に見えることを追いかけるのも必要かもですが
砂上の楼閣にならなきゃ良いですけど。。。

理論とか、OT科学とか、OTは素晴らしいと語るとか、いろいろありますが
実践の科学、職人だったら、まずは結果を出さないとって思います。
結果を出せるようになるためには
知識と技術が必要です。
知識というのは概念を明確に理解することです。
 
目標の概念すら、曖昧だったり誤認しているのに
他の複雑な知識が明確なんてことがあるのかな?と思っています。

構成障害を言語化できないOTが立方体透視図模写テストをしたり
遂行機能障害を言語化できないOTがトレイルメイキングテストをしたり
そして、「〇〇障害重度」と判断するって何の冗談?って思ってしまいます。

「隗より始めよ。」
「求めよ。さらば与えられん。」
目標設定について学びたい方は こちら をクリックしてみてください。


イムスグループPT会研修会終了

 


6月17日(金)に開催された
イムスグループPT会さん主催のオンライン研修会が無事に終了しました。

終了後にはたくさんのご質問やご相談をいただきました。
質の高いご質問がとても多くて
ふだんの臨床に取り組む姿勢や臨床思考の高さに感じ入りました。

担当者の方も
開催当日までの打ち合わせや連絡で
いつも迅速にきめ細やかにご対応くださり
きっと臨床にも真摯に取り組んでおられるのだろうと頭が下がりました。

終了後の感想では
「知らなかった知識を学ぶことができた」
「認知症の知識の専門家ではなく、認知症のある方の専門家だと感じた」
「臨床知と知識を結びつけ包括的に捉える姿勢に感服しました」
「実際によく遭遇する事例の話を聞き、過去担当した患者様を思い出し反省した」
などのご感想をいただきました。

リハや介助というのは協働作業
ということを当日講演でもお伝えしましたが
改めて講演も協働作業なんだと実感しました。

そして
講演として語る私のふだんの実践・臨床姿勢が透けて伝わるし
講演を聞く受講者もふだんの実践・臨床姿勢によって理解の深度が異なってくる
その怖さを再確認しました。

ふだん、していない、できていないことを言語化することはできないし
仮に言語化したとしても、わかる人にはわかってしまう。。。

「真贋の眼」ということについて
岩崎清隆先生の文章を読んだ記憶があります。

「骨董屋の丁稚には真贋の違いを見分けられるように偽物は見せない」

といった内容だったと記憶しています。
本物だけが持つ品の良さがある。
本物にしか触れていなければ偽物に出会った時に違和感を抱くことができる。

どのように講演を構成するのかという工夫は講師の役目です。
伝え方はやはり大切。
でも伝える中身はもっと大切。
そして、何のために講演を引き受けるのかということが一番大切。

スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」
ということも再確認しました。

 

しまむらの「介護肌着」

 


知ってる人は知ってるかもですが
今まで私は知りませんでした。。。

「しまむら」で介護肌着が買える!

前開き、マジックテープ、しかも2枚で1,780円 !

写真は紳士用Sサイズですが
紳士用・女性用ともに、サイズ展開もS~XLと豊富です。

今はコロナ禍なので
施設・病院のレンタル着を着用になる場合が多いかもしれませんが
持ち込みが必要な場合にはきっと便利だと思います。

関節拘縮がある方の場合には
ゆとりがある前開きの方が介助が容易です。
上衣は一般の衣料品店でも選択肢がありますが
肌着はかぶり型が多いので困ってしまいますよね。
そんな時にぜひ!

ご家族との面談で工夫していること

 

コロナ渦のため
ご家族の方と直接お会いして
状態をご説明する機会は激減しましたが
どうしてもということは、やはりあります。

そのような時には工夫をしています。

言葉だけではなく
視覚情報を活用して伝える
イメージを伝える
リアルな実感を伝える
ということです。

一生懸命なご家族ほど
時に職員との行き違いがあったり
「理解不十分」と言われてしまうことも起こります。
そうやって職員が判断してしまうと悪循環になってしまいます。

ご家族にとっては
認知症のある方のお世話は初めての体験で
言葉での説明だけではイメージができない
ことが多々あります。

ましてや
コロナ禍で面会の機会がないので
ご家族がご本人と接する機会がない
体験を共有できない状態です。
体験を共有できないままに言葉で状態説明して
リアルに実感を伴って理解してほしいというのは高望みだと思います。

ご家族の側から
「こんな情報提供があれば私だって理解しやすいんです」とは言ってくれません。
心理的に遠慮があるものですし
ご家族自体、欲しい情報を求めてはいても
具体的にピンポイントではわからないし、言語化できない
だから、ご家族も困っているんです。

逆に言えば
状態の共有化の可能性がある
ご家族の理解改善の可能性がある
ということでもあります。

ポイントを絞って
介入場面の動画を撮影してみていただきます。

例えば、食事介助に関することであれば
食べているものも写真撮影して
「今はこちらをこんな介助をして〇〇分で食べ終わっています」と伝えます。
実際に食べている栄養補助食品の実物や
実際に使用しているスプーン、コップ類の実物を見ていただきます。

食べ方に関する
障害と能力を説明します。
ここを明確に説明できると
入院前にご自宅でお世話していたご家族であれば
その時の困難と通じる部分があるので
「あぁ」と納得してもらえます。

逆に
ご家族から「こんなことがあった」と言われた時に
その場面の意味を私たちが実感できる必要があります。
その困りごとにどんな障害と能力と特性が反映されていたのか
私たちがリアルに実感できることが必要です。

ご本人の状態を的確に把握できていれば
必ず起こった場面をリアルにイメージできるものです。

そして
私たちがリアルにイメージできたかどうかということが
ご家族に伝わっているということです。
暗黙のうちに。

ご家族との面接、状態説明も
コミュニケーションの一環です。

ご家族にはご家族の何らかの必然があって
職員側から見ると結果として「理解不十分」な状態に見える
と考えています。

よくあるのは
ご家族が
「(この病院・施設は)本当にちゃんとお世話してくれているのか?」という
内心の疑念を払拭できていないけれどそこは言えない
というケースです。

こちらが工夫した説明、準備を伴う説明をするということは
同時に、ご本人にもきちんと対応していますということも
暗に伝えることができます。

普段、ご本人に的確な対応をしていなければ
ご家族への説明も曖昧で抽象的総論的になるものですが
具体的でピンポイントであれば説得力が違ってきます。

そうすると
それだけで一気に形勢逆転し信頼感を表明してくださることも多々あります。
ご家族もきっと安心されるのでしょうし
理解不十分に見えていたご家族の必然が現れてきます。

そこをこちらが感受できれば
今後のコミュニケーションも一層スムーズとなります。

もう一つ
ご家族との面接の席で私が必ず実行していることがあります。

それは
ご家族にしかわからない、
ご本人の得意分野・好きなこと・趣味をお尋ねする
ということです。

尋ね方にも工夫しています。
具体的に、私が遭遇したご本人のエピソードを伝えてから
尋ねるようにしています。

辛い時期を過ごしているご家族に
総論的抽象的一般的に「趣味を教えてください」と尋ねても
生き生きとしたエピソードを思い出すことは難しいものです。

具体的なエピソードをもとに尋ねれば
(前提としてお互いが共有体験をしているので)
具体的な生き生きとしたエピソードとして思い出しやすくなるものです。

ご家族が教えてくださったエピソードは
リハ場面で参考になり活用できます。
必ず記録に残し、可能な限り直接看護介護職員とも話して共有します。

ご家族の情報、ご家族との暮らしが
ご本人の今とこれからを支えられたということを
ご家族にも機会を見つけてフィードバックもしています。

面接の場面では
厳しい現実をお伝えしなければならないこともありますが
その厳しさも含めて面接の場が豊かになるように
ご家族もご都合をやりくりされて面接に来られるのですから
一方的に話を聞かされたとか
説得されたといった感情を抱いてお帰りになることのないように

Occupationを武器とする私にできる工夫を実践しています。