キュウリのあえもの

 


写真は
キュウリ・ちくわ・長芋を切って
めんつゆ・鰹節・柚子胡椒で和えたものです。

味付けを
梅干し・ポン酢やごま油に変えても美味しいです。

柚子胡椒を入れすぎちゃった時には
クリームチーズを少し入れてごまかします (^^;
それもまた美味しい (^^)

研修会のお知らせ:県央地区リハ連絡会

 

  

 


神奈川県県央地区リハビリテーション連絡会さん主催の研修会が
2022年10月21日(金)19:00~21:00にかけて
「認知症 明日からの臨床にきっと役立つ知識・考え方・対応の実際 ~事例を通して~」
というテーマで開催されます。

詳細は
県央地区リハビリテーション連絡会さんのサイト「お知らせ」をご参照ください。

受講資格については、上記お問い合わせ先にご確認ください。

 


ためこんでしまう場合はスプーン操作を見直すべき

多くの人が
「ためこんでしまう」「飲み込んでくれない」とよく言いますが
実はそれらは結果として起こっていることです。
本当は「咀嚼や送り込みに時間がかかる」結果としてためこんでしまうのです。

ところが、多くの場合に
摂食・嚥下5相に沿った食べ方の観察が為されないので
結果として起こっている「ためこみ」を問題としてとらえます。

「ためこんで飲み込んでくれない」と問題設定をすると
認知症のある方の意思や気持ちの問題として捉えられてしまいがちです。
そうすると「ためこみ」を解消するために
「好きな食べ物を提供してみよう」という発想になりがちですが
さて、それで状態が改善することはほとんどないですよね?
 
つまり、本当は問題設定が適切ではないのに
そこに気づかず、どこかにある答えを探している。。。
現場あるあるです( ^^;

ところが
「咀嚼や送り込みに時間がかかる」と問題設定すると
食べ方をよく観察してみよう、口の中をよく観察してみよう
という発想をする人が出てきます。
(本当は順序が逆なのですが)

そうすると
舌苔がびっしりで、これじゃあ味なんかわからなかったんじゃない?とか
舌が板のようにガチガチで、これじゃあ舌が動かないから
送り込みたくても送り込めないよね?
といったことがわかるようになってきます。
舌がガチガチに硬い方はたいてい頚部もガチガチに硬くなっています。

つまり
食べようとしない
食べたくないから
ためこんでいる、飲み込まずにいる
という意思や気持ちの問題ではなく

食べようとしている
食べたいけれど
食べたくても食べられなくて困っている
という状態なのですから
どうしたら、食べられるようになるか、食べやすくなるか
という問題設定が必要
なのです。

私たちの問題設定のマズさが問題だったわけです。

だとしたら、問題設定を変えてみれば良いだけです。

「ちゃんと食べてね」
「頑張って飲み込んで」
と言うのではなくて
その状態でも食べられるようになるように
送り込みができて、飲み込みができるようになるように
「何を」「どのように」したら可能となるのか
ということを観察し、洞察できるようになることがプロなのだと思います。

そのためには
接食・嚥下5相の知識が必要です。
機能解剖って本当に大事です。

舌がガチガチに硬い方でも
スプーンで下唇や前舌を押したり
頚部前屈をサポートする介助を続けていれば
ちゃんと舌が柔らかくなってきます。
柔らかくなるから、舌本来のしなやかな動きが発揮できるようになってきます。

だから
ためこまなくなるし
飲み込みもスムーズになります。

舌がガチガチな時には構音不明瞭で何を言っているのか聞き取れなかった方が
舌が動くようになったので構音明瞭にお話しできるようになる
意思疎通困難と思われていた方が実は
ちゃんと理解できていて、ただ明瞭に発語することができなかったために
表現することができていなかっただけだ
ということが後になってわかったりします。

食事介助、スプーン操作って本当に怖い。

私たちのちょっとした介助の的・不適によって
認知症のある方の能力発揮を促すこともできれば阻害することもある。
しかもそれは食事介助にとどまらない。ということなんです。

 

喉頭不完全挙上はスプーン操作を見直すべき

 


食事介助の時には
必ず喉頭の動きを毎回眼でみて確認しています。

人によっては喉頭の複数回挙上もかなりありますし
喉頭の不完全な挙上でムセずに食べているケースもよくあります。

眼で見て確認せずに食事介助するなんて
とても怖くてできません。

喉頭挙上の動きは、何の働きを見ているのかというと
喉頭蓋反転の動きを観ているのです。

 

喉頭が完全に挙上していないということは
喉頭蓋が完全に反転できていないということを意味しています。
詳細は「 摂食・嚥下5相 」をご参照ください。

食事介助の現場では
ひどいムセがないのに痰がらみがひどくなったり
誤嚥性肺炎になったりする方が必ずいるものです。
 こういった現実からも
 ムセだけに過剰に反応するのは意味がないということに
 気がついてほしいものです。

喉頭蓋が完全に反転していない
気管が完全にふさがっていない状態で
どんどん食塊を口の中に入れられたら
いったいどうなってしまうのか。。。

「 ムセない=食べ方はOK 」という誤解から
脱却する人が1人でも多くなることを願っています。

身体は構造としても生理学的にも連続性がありますから
スプーン操作の基本
・下唇もしくは前舌をスプーンの背で押す
・上唇が丸めてとりこむのを確認
・スプーンを水平に引き抜く
を実行してもらえば、
喉頭の不完全挙上がなくなり、完全挙上するようになるケースに
きっと遭遇できるはずです。

また、
上の歯でこそげ落としたり
スプーンを斜め上に引き抜くと
どうしても顎が上がってしまいます。
下の写真のように頚部後屈してしまいます。

このような状態だと
喉頭の移動距離が長くなってしまい
結果として、完全挙上できないということも起こります。

適切なスプーン操作をしていても
対象者が頚部後屈した状態のままで食事介助をしていたら
同じように喉頭の移動距離が長いために喉頭が完全挙上できない
ということも現場あるあるなので
「 頚部後屈してしまう方の食事介助 」を参考に試してみてください。

たとえ、重度の認知症のある方でも
食べ方が改善されるケースの方が圧倒的に多いのです。
もし、改善がないとしたら
もう一度「 スプーン操作を見直すべき兆候 」を確認してみてください。

やり慣れた行動、動作を違う方法に切り替えるというのは
口で言うほど簡単なことではありません。
コロナ禍の前には、日本全国各地で講演をしていました。
食事介助の研修会では、お話するだけではなくて
できるだけ、参加者間の実技を導入するようにしていました。

私の説明をうん、うん、とうなづきながら聞いていた人でも
実際に実技となると、なかなか修正できない人は少なくありませんでした。
それだけ、やり慣れた行動を違うカタチに切り替えるということは
難しいものなのです。

でも、メゲずに継続してください。
必ず、切り替わります。
重度の認知症のある方でも切り替えられるのです。

介助者側に頚部回旋したらスプーン操作を見直すべき

 

食事介助をしていると
介助する人の方に顔を向ける対象者がいます。

対象者の隣90度の位置に座って食事介助をする時には
対象者の口元に真っ直ぐにスプーン先を向けるためには
介助する人が少し手首を曲げるようにする必要があります。

慣れてしまえばなんてことはない動作ではありますが
対象者の食べ方をきちんと見ようとしないと
介助者にとって楽なように動作をしてしまいがちです。

そうすると
対象者の方が斜めに向けられたスプーン先に適応しようとして
顔をスプーン先に向けた結果
頭部が介助者の方に回旋してしまうのです。

つまり、対象者が不適切なスプーン操作に合わせてくれている
ということが起こっているのです。。。

下の写真は、私が執筆した
「 認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック 」
という本の中で説明しているページです。

日総研出版「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」p.38より

重度の認知症のある方だって
「そんな介助は食べにくいからやめてよ」とは言わずに
ご自分にできることをしてその場が少しでも食べやすくなるように
適応しようとしているのです。

でも、片麻痺のある方で非麻痺側に頭部回旋してしまうと
危険な場合もあります。
(例えば、左片麻痺のある方に、介助者が右側から介助するような場合
 麻痺している側を主に使って飲み込むことを要求していることになってしまいます)

参照:おくちで食べる.com
  「第27回 横を向いた状態での飲み込みはどう変化するか?」


 

口角から食塊がこぼれ落ちたらスプーン操作を見直すべき

食塊をとりこんだ時に
対象者の口角から食塊がこぼれ落ちるようだったら
それは、次の二つのことを意味しています。

1口量が多すぎることと
口唇閉鎖が不十分なこと

まず、スプーンに山盛り食塊をよそったりせずに
せいぜいすりきり一杯程度に1口量を減らしてください。
そして、口角から食塊がこぼれ落ちなくなるのを確認してください。

また、口唇閉鎖の不十分さについては
本来、持っている口唇閉鎖能力を発揮しやすくなるように
下唇もしくは前舌をスプーンでしっかり押して
上唇を丸めて食塊を取り込んだのを確認してから
スプーンを水平に引き抜くようにしてください。

上記二つに気をつけたスプーン操作を徹底できれば
そのうちに口角から食塊がこぼれ落ちることがなくなってくると思います。

詳細は、「 食事介助について 」の各項目をご参照ください。

  

 

引き抜いたスプーンに食塊が残っていたらスプーン操作を見直すべき

 

食事介助をしていて
引き抜いたスプーンに食塊が残っている
ケースに遭遇したことのある人は少なくないと思います。

 
スプーンは、中央がくぼんでいますから
上唇を丸めてとりこむことができないと
くぼみの部分に食塊が残ってしまいます。
 
口唇は
ただ単に閉じたり開けたりしているわけではないのです。

じゃあ、なぜ、上唇を丸めてとりこめないのか?

私たちの不適切なスプーン操作に
適応しようとして自らの食べる能力を落としてしまったのです。

上の写真のように
スプーンを斜め上に引き上げたり
上の歯でこそげ落としたりすると
上唇を丸めてとりこめなくなってしまいます。

そして、このような介助を続ければ
頚部はどんどん後屈し、体幹も後傾してしまいます。

詳細は「 基本のスプーンテクニックとコップ操作 」をご参照ください。

下唇もしくは前舌を
スプーンの背でしっかりと押して
上唇が丸まるのを確認してから
スプーンを水平に引き抜くような介助を心がけてください。

見事に食べ方が変わるのを確認できると思いますし
お身体が硬い方でなければ
スプーン操作をした時に
頚部前屈の動きが出たり
体幹を前傾する動きが出てくるのを確認できるようになると思います。

  

舌が奥に引っ込んでいたらスプーン操作を見直すべき

 

スプーン操作を見直すべき兆候として
対象者の方が開口した時に
舌が奥に引っ込んでいるのは
介助のたびにスプーンを口の奥に入れ続けてきたからです。

通常、開口した時には
舌の先は、下の歯のすぐ裏側に位置しているものです。

ところが
スプーンを口の奥まで入れて食べさせるような介助を続けていると
対象者の舌が奥に引っ込んで
ひどい時には、丸まってしまって
さらにひどくなると
舌は奥の方で上の方にも上がっているという状態になってしまいます。。。

もっとひどくなると
舌が板のようにカチンコチンに硬くなってしまいます。
そんな舌でどうやって咀嚼や送り込みができましょうか。
舌は本来しなやかに動くものです。
しなやかに動くから送り込みがスムーズにできるのです。

「ためこんで飲み込んでくれない人にどう介助した良いか」
という相談をされることも多々あります。
このような言語表現を聞くと
「ためこんでしまう」
「飲み込もうとしてくれない」
という、認知症のある方の食べ方のせいにしている介助者の意識が透けて見えるようで
とても悲しくなります。

「ためこんでしまう」「飲み込もうとしない」
のではなくて
「食べたくても食べられない」のです。
舌がカチンコチンで板のように硬くなっているから。

どんなに重度の認知症のある方でも
最初からこんな食べ方をしていたわけではありません。

だから
このような状態の方でも
適切なスプーン操作を続けるだけで
ちゃんと舌は前に出てきて、丸まってしまうこともなくなります。
板のように硬かった舌が柔らかさを取り戻すことができます。

他の職員とおしゃべりしながら食事介助するなんてことはせずに
ムセの有無や食べこぼししか、気にしていないなんてことも卒業して
対象者の食べ方を摂食・嚥下5相に則って観察しながら介助してほしいと思います。

まずは、口を開けた時の舌の位置に注目してください。

 

観察力を磨くトレーニング

 

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。
サマリーや他職種への伝達で記録する時にも同様にします。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。

例えば
現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいが適正なゆっくりなのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント
どういう状態になったら次の介助をするかがはっきりと伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今まで自分がいかに「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時には
デイリーノートに対象者ごとに詳しく記録をすることが求められていました。
主観と客観を区別して書くように繰り返し指導されたものです。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要なことでしょう。
けれど、
「書く」ことによって「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しているのです。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 


  

 



他職種などがOTのことを「わかってくれない」(ごむてつ)

良枝さんのこちらの記事に触発されてコメントしようかと思ったけど、例によって長くなりそうなので俺もひとつの記事にしてみた。

OTの人はよく(他職種などがOTのことを)「わかってくれない」とか言ってたけど、今でもそうなんだろうか?

それに対して俺の答えは昔から決まっていて「結果を出せ、実績で示せ」である。
自分自身も怠け者とはいえ、それだけは自分に厳しく課し、実際にそう徹してきたつもりである。

プロの仕事がそう簡単にトーシローにわかってたまるか!
俺はOTの学校に行く前は精神病の患者だったから、少なくとも学生の時から全くの素人ではなかった。

正味の話、プロのやることがシロートにとって理解し難いのは当たり前で、だからこそわかりやすく正確な説明や伝える努力も必要だけど、聴く耳さえ持たないやつに何を言ってもわかるわけはない。
難しい哲学やら数学だのにしたって、先生がそういうことをよく知っているという前提があって、生徒も理解したいと思っているからこそ教授が成り立つわけで、いくら嫌いな先生であっても話は別だ。

日本人はホンネとタテマエの使い分け、綺麗事、社交辞令やお世辞など、宣伝文句やおだてやなだめや誤魔化しとか、取り繕うとか、忖度するとか、なあなあでやるとか、そういうのは得意だが、事実に基づいて正確にきちんと伝えたり、言葉を通してお互いに理解し合うということや、きちんと議論することは極めて苦手な人が多い。

批判を非難と受け取り、喧嘩腰になったり、その前に怒ったり不機嫌になったりして議論や話し合いが成り立たないことが多い。

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失言した政治家が「私の発言が誤解を招いたとしたら申し訳ありません」とか。
誤解されているわけではないのは自明で、誤解した上で不適切な発言をしたのは自分自身なのに、そう言って事実を捻じ曲げ謝罪にもならない謝罪をされたら二の句が告げなくなるし、これじゃ当人ではなく相手(国民など)に問題があるみたいなすり替えになっている。

すりかえを認める訳ではないにしても、もうそこを追求するわけにいかないし建設的でもないので、結局「しょうがねぇなコイツ」で有耶無耶になって終わってしまうが、しょうがないのはそいつだけでなく、政治家の殆ど、日本人の多くがそうかもしれない。

確信犯であれ、無自覚であれ、そういう政治家の真似をする奴も多いのが問題だが…、ハッキリ言って世の中を悪くする。
そういう社会にしてしまっている。
正しいことを追求すれば良いわけでももちろんないのだが。

話を戻して…

目的も結果がはっきりしているICUなどの場合、そうはいかないだろうが、慢性疾患の医療職の人はけっこうコミュニケーション不全は酷いかもしれない。
医療職に限ったことではないが弁が立つ人ほどそうかもしれない。

言うことがただのお題目やキャッチフレーズ、悪く言えばごまかし。
良枝さんの言うように自信のないことの不安の無自覚な防衛でもあるだろう。

OTはコピーライターかぁ!?

偽相互性か当たり前と思いこんでいる人が多数で、それが前提となっている社会では、伝えることだけでなく、当然のことながら、聴く、受け取る、理解することも下手なのにそのことに気づいていない人も多い。
そのため、話はなかなか伝わらない、と言っても話す方だって同様に正確な言い方をしてなかったりするし、実は「わかってくれない」のではなく、既に「わかられてしまう」「見透かされてる」ので話を真に受けても仕方ないし、うんざりされているのかもしれない。

得てしてお互い様だが、実はわかってもらったら困ったりして。わかって欲しいようにしか「わかって」欲しくないだけかも。
表現力や伝達力以前に言語の基本的な考え方ができておらず、現実認識からして基本ができていない人も少なからずいる。

例えば甚だしく顕著な例を挙げると某皇族と結婚した息子と母親とか。28ページもの文章を書いても、当人はちっとも理解してくれない、誤解されている、と思ったのだろうけど、国民の多くはそんなの読まなくても見え透いてしまっており、それを確認しただけだ。
当人が自分の認知の歪みや欠落に気付いておらず、それを他者に投影しているのが問題だ。

「初めにロゴス(言葉)ありき」
もちろん必ずしも西洋社会が良いわけではないし、察しの文化である日本の良さもあるけど。

概して言えば一般に欧米人は言っていないことは問題としないが、日本人は良くも悪くも言外の意味を推察する傾向がある。
それが事実に基づいており妥当で正しければ良いのだが、往々にしてただの主観的な憶測、悪く言えば邪推になりがちで、そうなると批判や訂正も相手の主観的な前提を覆す人格攻撃のように受け取られコミュニケーション不全となってしまう。

話す側もそのような状況を前提として、事実に忠実に思ったことや考えたことそのままを言うのではなく、良くも悪くも配慮、忖度して話すのが習慣になっている。
日本人が誠実でないと受け取られたり、議論が成り立ち難いのはこうした要因が大きいと思う。

言うことだけいくら正確で有益なことを言っても、ちっとも聞いてくれない、理解してくれないことはむしろ大いにあるのは当然だ。日常的にはやってもいないこと、考えてもいないことに対しての理解力は誰しも高くはない。
でも我々は良枝さんが言うように「やって見せること」ができる。精神科だって例外ではない。
もちろん眼の前で起こっていることを認識できない人も、否認する人もいるけど。

このような社会ではいくら発言の内容が正しく有益であっても尊重されるわけではなく、同じことを言ったとしても、誰が言ったかによって、尊重されたり逆にバカにして相手にされなかったりする。

「あなたのおっしゃるとおり、私は見ての通り」小林秀雄

誤解されるなんて普通のことだし、でもわかってくれる人はわかってくれる。
どう思われようが、どう言おうが相手の自由だし。

よく思われたい、よく言われたいのは当たり前だけど、それなら良いことをすれば良いだけだ。そう割り切るようにしてから、いくら人に悪口を言われても何と言われても気にならなくなった。

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どんなに愚かな人にとっても、やはり事実の重みというのはある。

例えば事実に基づいていない悪口を言われたら、とりあえず普通の人は世の中そんなに嘘つきや愚かな人がいるとは思わないから、当然真に受ける場合が多いけど、事実はだんだんと自ずから明らかになりそこから誰しも逃れることはできない。

いくら理解力や洞察力に乏しく、解離して認知の歪や欠落が激しく、事実を捻じ曲げ曲解する人でも、最後には事実を受け入れ認めざるを得ない。
いかなる人も100%事実を否認し続けることはできない。究極的には誰にとっても事実は事実だ。

「すべての事実はついに一大事実となりてあらわれるべし」
だったらなるべく事実をそのまま受け入れ、早く理解できるように努力するだけだ。

こんなこと言ったら例によって思い上がり、高慢とか怒られるけど、大抵の人は俺より人や物事を見る目がないし、洞察力や理解力も乏しい。
正直本音を言えばそう思っているので、自分に対する他人の評価より自分の評価の方が遥かに重要だ。もちろん自分じゃわからないこともあるけど。

学生の頃、皆が評価、評価と言うので、少なくとも同時に自分のやっていることの評価が大事だ、プロは自分で自分の評価が適切にできなくてはいけない、評価より洞察・理解が大事ななどと言っていたのだけどわかってくれる人は殆どいなかったと思う。
ちなみに一部流派を除いて、精神分析、心理療法、精神療法、カウンセリングなどのセラピーには「評価」という概念はない。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「相手と過去は変えられない」

話を戻して、もういちど繰り返して言おう。

「結果を出せ、実績で示せ」

お互い専門職だし、患者本人だって家族だってもちろんバカばかりじゃない。
良枝さんの言うように、認知症の患者だってこっちが思うより遥かにわかってくれる。わかっていないのは職員側だったりして。

賢い人でなくても専門的なことは知らなくても、患者のことを真剣に考える人であればわかってくれる可能性が高いし、それは関わる人の成長と実利ももたらすはずだ。
最初は一部の人しかわかってくれなくても、インフルエンサーになってくれる可能性も高い。

OTの学校を出て最初に勤めた精神科病院には短い間しかいなかったし、いわれのない非難攻撃もずいぶんされたし妨害もされたけど、仲間や味方になってくれる人は増えたし、俺に対するイメージや態度、評価は最低最悪から随分上がったと思う。

病院を辞めて大学に異動した時に、総婦長(当時)が直々に手紙をくれた。
「ごむてつ君はこんな所(田舎の山の中の精神病院)にいるような人ではないと思っていたので我がことのように嬉しいです」と書いてあった。
もちろん大学のセンセイが偉いわけでも必ずしも実力があるわけでもないのは皆さんご存知の通りだけど。

その総婦長と一緒だったのは最後の1年だけで、顔を合わせることも殆どなかったし一言二言しか言葉を交わしたこともなく、俺のことをそんなに知ってるわけではないけど。
わかってくれることはわかってくれるし伝わるものは伝わるのだと思った。
買いかぶり、過大評価としてもそう言ってくれるのはやっぱり嬉しかった。
辞めたことの後ろめたさもつのったが。

セラピストは人間相手の職人だ。地道に頑張れば結果は出せるし報われる。
どうせわかってくれないと思うよりずっとわかってくれるけど、わかるのが当たり前だろ、と思うよりもわかってくれないかもしれない。

でも矛盾するようだけど、言うべきことはハッキリ言うべきだ。
言うべきことをきちんと言わないで、「わかってくれない」もないだろ。

しかし、言いたいことと言うべきことは同じではない。
もちろん一致しているのに越したことはないし、それが本当に言いたいことなのかいつも検証し、一致するように心がけるべきだろう。

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まだ売れない頃2人時代のオフコースの曲、小田和正も20代半ばでよくこんな曲書いたなぁ。
NHKの「みんなのうた」からの依頼で自信はあったようだが、良い評価は得られずボツになったらしい。
当時は不遜にも聞こえただろうし、俺も違和感あったしそれも止むを得ないと思われるが、老人になりつつある今はむしろしっくりくる。
俺も歳をとんてホントにつくづく思うのだが。やっぱり伝えたことは良かったと思う。言わなかったことはやはり後悔がある。酷く傷ついたし随分引きずったけどね

https://www.youtube.com/watch?v=AhYmmtpJB5A

リードボーカルは堺正章ではなく井上順、彼のほうがこの曲には合っている。
キンキンしたリズムギターは釜范弘でテレキャスターではなくエスクワイヤー、ファルセットのコーラスも彼
オルガンは大野克夫、彼は元々ギタリストでスチールギターを弾いていた。ギタリストはかまやつと井上堯之の2人がいたし、井上も腕を上げてきたのでこの頃オルガンにコンバートしたのだが、アッという間に弾きこなせたらしい。
ドラムはその後芸能界の首領と言われた田邊昭知で、リズムが乱れまくるけど荒々しい個性や味はある。

ジュリーとは沢田のことではない。当時まだタイガースは出ていないしこの曲はメンバーではなく浜口庫之助の作詞作曲。
ジュディ・オングがジュリーという名の聾唖の役で主演映画が作られ、そのために作られた曲だけど、映画ではそぐわないので実際には使われていないはず。

財津和夫があべ静江のために書いた曲だけど、結局片思いで失恋したようだ。
俺も当時失恋したので、切なくささりまくった。
高校2年の頃、いつも隣の席にいたのに。
最初は「もっと早く仲良くなっていれば良かったのにね」と言ってくれたのだが、もうダメだった。
結局、心を閉ざしていたのは俺の方なんだけど仕方がない。
まだガキだったし対人恐怖症だったし。

でもやっぱりこう行きたいものだね。

というわけで、例によってお後がよろしいようで。