漫然としたリハ


認知症のある方に
「これならできるから」といって
根拠もなしに塗り絵をさせておくと
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

漫然としたリハの改善というと
必ず表面的に捉えて、毎回違うプログラムをする
という人が出てきますが
「A」というプログラムを「B ,C,D」に単に変えただけで
「漫然と」行っているにすぎません。
これも問題のすり替えにすぎません。

「漫然と」というのは
目標との関連性なく、達成の可否についても検討されることもなく
個別的な背景や経過への配慮や必然性についての検討もなく
という意味なのではないでしょうか。

ROM-Ex.や筋力強化を毎回行うことが問題ではなくて
ROM-Ex.や筋力強化のどこがどう
能力維持、暮らしの維持に結びついているのか
ということを明確化できないことが問題なのではないでしょうか。

必要なことであれば
毎回同じことを繰り返すべきですが
必要でなければ
同じことでも違うことでも
提供の質・意味と目標達成の手段としての適否が問われるべきなのではないでしょうか。

「漫然としたリハ」という言葉で問われていることは
リハ提供者の組み立て、思考であり
目標達成との関連性や可否についての検討の有無ではないでしょうか。

高齢者の場合
暮らしを維持していくことそのものが目標となることが多々あります。

時に
目標設定に関して
養成校の教員や実習指導者から
「維持は目標じゃない」と言われたという声をしばしば聞きます。

これも問題のすり替えであって
維持も立派な目標です。
問題は暮らしのどの部分を維持することがなぜ重要なのか
そのために何が必要なのか
リハ提供者が明確化できていないこと
が問題なのです。


声かけ再考:感覚ー判断ー行動

 


認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

私が「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の人が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
私が尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動
を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じるー尿意と判断できるー尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする ーおしっこ    ートイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる声かけの段階を踏まえて尋ねることが重要です。

そのかたが「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られてしまいます。

その方が再認できる方であれば
「もぞもぞする」のは「おしっこ」なんだ。
「おしっこ」の時は「トイレに行く」んだ。
ということを思い出せるようになります。

この時に大切なのは
「おトイレにご案内いたしましょうか?」
と敬語で尋ねることではないのです。

理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる
ということができるかどうかが重要なのです。

「帰りたい」と言われたご家族は

 


認知症のある方に「帰りたい」と言われたご家族は
得てして
「まだ帰れないのよ!」と言いがちですが
「まだ帰れないんだって」と穏やかに答えることを推奨しています。

「帰りたい」と言われると、
ご家族も困ってしまって、なんとか言って聞かせようと思うのか
「まだ帰れないのよ!」とお答えになるケースがとても多いです。

でも、言われた認知症のある方の立場に立つと
ご家族が施設・病院職員の側に立ってしまったように感じて
疎外感を感じてしまうんじゃないかなーと思っています。

「まだ帰れないんだって」という言葉は
ご家族の判断ではなく、帰れないのは施設・病院の判断というニュアンス

伝えることができます。
(実際に判断するのは施設・病院の側ですし)

認知症のある方が「ご家族は自分の味方」だと感じられるように
現実問題としてはご自宅に帰るのが難しかったとしても
「まだ帰れないんだって」と言うことで
気持ちは認知症のある方の側にあるのだと
暗黙のうちに伝えてほしいと思います。

グループワークの功罪

 

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼元におかしなことだと意見したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもので
こちらの思い込みで「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、仮の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確でファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
そうでないことも多々あります。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるようですが。。。

根本的な問題は
教えるべきことを教えられる人が少ないという現状があって
そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていなくて
心意気、真心、優しさなんてよくわからないことで対応できると思われていること
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと
があると思う。

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんですよねぇ。。。
  
それって、例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
(どうしたら良いのかを教えるのではなくて)
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、
学生も本質を理解することができなくて当然だろう
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
いくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、今、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハスタッフが要請されているのではありませんか?

かつて「恍惚の人」が与えた印象はとても強く
(確かに認知症のある方の一側面ではありますが)
忌避されるようになり
反動のように「優しく否定せずに」と言われるようになり
まだまだその渦中にありますが
認知症のある方にも適切な対応ができるように
真の専門家が要請される時がきっときます。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?
  

凄い!「国語力とは」


凄いサイトを見つけました!

「 ふくしま国語塾 」
なかでも「国語力とは?」というページはぜひ全文読んでみてほしい。

脱帽です。
見事に核心をついています。

私たちの分野とは全く違う分野ではありますが
技術の伝達、教育ということに関しておおいに目を開かされる思いをしました。

一見して、他とは一線を画していることが伝わってきます。
しっかり読み込んで理解を深めたいと思えます。

よかったら、ぜひお立ち寄りください!


筋力低下廃用論に惑わされない

 
高齢→筋力低下→廃用 といった論調は
一見正当のように見えるので
リハやケアの分野では流布している考え方ですが
疑問を抱いた方はいませんか?

高齢者に「立ち上がり」をリハプログラムとして提供している方は
本当にMMTをしましたか?
MMTがどの段階であれば筋力低下で、どの段階であれば筋力OKなのでしょうか?

私は過去に複数のALSの方を担当したことがありますが
筋力低下とは、まさしく力が入らない状態です。

CVA後遺症や認知症のある方など生活期にあって
「筋力低下」と判断された方々との状態は全く違います。

見た目、結果として「立てない」=筋力低下 ではありません。

生活期にある方の場合に
立ち上がり時に腰背部の筋肉が同時収縮を起こしてしまって
気持ちは立ちたくても、身体が立てないように機能している例は枚挙にいとまがありません。

筋力が低下しているのではなくて
筋力の使い方が下手になっているのです。

以前、老健に勤務している時に
担当のPTが個別リハをやっていましたが
立ち上がりが自力で行えず、ずっと介助されていました。
ところが、私が座る練習だけして、立ち上がりは全介助で行ったら
一人で立ち上がれるようになって「あれ?立てた?」と驚かれたことがありました。
同じようなケースはたくさんありました。

老健ですから、個別リハの他にも生活リハとして
食事やおやつや排泄介助の時にも立ち上がれるように援助がなされます。
一日何回になるでしょう?
廃用ではないんです。

身体の使い方を教えなければ

立ち上がり100回なんて、効果がないどころか逆効果になってしまいます。

リハやケアの分野では
一見正当そうに見えて、その実不適切なことが流布しています。
「立ち上がり100回」もその一つです。
今すぐにそんなことはやめて、「座る練習」を取り入れていただきたいと思います。

「座る練習」でのポイントは重心の移動方向を適切に導く ことです。
力を入れない、踏ん張らない、身体の動きと重さを活用することがポイントです。

 

周東選手のインタビュー


テレビ朝日の「緊急特報!侍ジャパンWBC世界一の熱狂」を見ました。

メキシコ戦で代走に出た時のインタビューに対する答えが
「村上選手がどっちに打つとどのくらい飛ぶのか
 わかってないといざという時に対応できないから
 それは練習の時からよく見るようにしていました」
でした。

代走に出る
ということは、一瞬のチャンスに賭けた時
チャンスを最高に活かすために
最適な判断ができるために
それだけの準備をしているのだろう。
たぶん、インタビューで語った以上のことも。
そして、おそらく当たり前に。

プロとしての凄みの一端に触れた思いがしました。

どうしても、人の目を引くのは
華やかな結果だったりするけれど
その結果を支えるどれだけの不断の努力があるのだろうと思った。

ポジショニングの工夫とココロ


私は仕事をする前に必ず電子カルテで対象者の方の経過を
確認するようにしています。

夜のうちに何かちょっとした体調不良があったかもしれないし
寝不足になっているかもしれない。
認知症のある方の方から
「実は昨夜。。。」と教えてくれることはないので
必ず確認しています。

モノゴトには、必ず経過と背景があるので

ポジショニングもそうです。

対象者の立場からしても
今までどのようなポジショニングを設定されてきたのか
その蓄積が今の姿勢に反映されていますし
職員の立場からしても
設定通りにできない場合には、それなりの経過と背景があります。

こちらが受け取った深みに応じて
対象者の方が反応してくれていると感じています。

対象者の方は、まさしく自分ごとですから

ポジショニングに限らず
Activityの選択と場面設定や身体面のリハに
状態像把握の深みが反映されるのと同じだと感じています。

ところで
看護介護職員の勤務体制は職場によってさまざまです。
デイや訪問系の職場であれば、日勤体制で曜日ごとに異なる対象者を担当しますが
病院では変則交代勤務となっています。
病院によってはウイング固定制の職場もあるかもしれませんが
日勤でも勤務日ごとに異なるウイングを担当する職場の方が多いのではないでしょうか。

一概には言えませんが
対象者の経過を把握しにくかったり
情報共有がしにくい背景、勤務状況があるのかもしれません。

リハスタッフと看護介護間の情報伝達や共有化が困難という場合には
必ず、看護介護間でのそれらの問題があるものです。

  そういった問題が少ないという職場では
  管理職が何らかの対策をしているものです。

  対策をしている管理職であれば
  こちらが伝達の工夫・配慮をしていることに気がついて
  声をかけてくれたりします。


看護介護の中での情報伝達の不徹底が
リハスタッフとの間で表面化するというのは
残念ながら現場あるあるの一面
ではないでしょうか?

そのような状況を踏まえて
リハスタッフとしてできることは
情報伝達において伝え方への配慮だと考えています。
情報伝達が徹底されにくいという現状を踏まえて
そのような状況でも適切なポジショニングが行われるように考える。

 
看護介護職が扱う対象そのものに
ポジショニングで言えばクッションそのものに
イマ、ココでの操作を語らせるという工夫です。

経過や状態や意義の把握ができていない職員であっても
結果として設定ができるように。

そのためには、何よりも設定者自身が的確にポジショニングできること
ポジショニングに際しては
個々の方に応じて、ポイントというのがありますから
そのポイントを把握できることが肝要です。

多くの他職種は全身のアライメントを確認せずに
自身の気になるところ(股関節の外転だったり膝の伸展だったり)を
操作しようとする傾向がありますから、それを踏まえて
そうはならないように予防的に対応するという意図を持っていることも必要です。

対象者の状態像と環境因子としての職員の状況を
経過や背景を含めて認識できていればいるほど
的確なポジショニングと的確な伝達が行えます。

対象者にとって
適切なポジショニングが行える職員を増やすことになり
対象者が安楽に過ごせ、能力発揮しやすくなる時間を増やすことになります。

さらに踏み込んで言えば
「対象に工程や操作を語らせる」「場面に語らせる」という手法は
認知症のある方に対して、様々な場面で通用する方策でもあります。

近時記憶障害によって、モノゴトにつきものの経過や背景を忘れてしまったとしても
遂行機能障害によって、適切な操作が行えなくなってしまったとしても
イマ、ココで為すべきことをできるように促すことができる

それは、普遍的な考え方だからだと考えています。
だからこそ、認知症のある方への
「敬語を使う」「なじみの関係」「褒めてあげることが大事」などといった
一見正しそうでいて、その実あまり役に立たないスローガンを普及させるよりも
本質的に役立つ考え方を広めていきたいと考えています。

ただし、
本質を実践するには、地道な日々のトレーニングが必要で
その過程において、自身の未熟を嫌というほど思い知らされます。
自身の鍛錬が求められる、安易ではない方策なので
耳に優しい言葉でもありません。

過去に
常識とされている概念に対峙する概念や
まったく新しい概念が提唱された時に
必ず全否定されてきました。
古くは、ガリレオに始まり、ゼンメルワイスしかり、小笠原登しかり。。。
けれど、提唱された概念が
本当に正当であれば必ずや歴史がその正当性を証明してくれます。

ということは、彼らだけでなく、彼らの周囲に
細々とであっても伝え続けてくれた人々の存在があったということです。
そこに未来への希望があります。



  

ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を紹介しました。


さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、次の記事で

  


指編みで作ったマフラー

 


100均で買った薄いベージュと生成りの毛糸を
指編みで編んで鎖状に仕上げたのがこちら ↑

仕上げ方を変えたのがこちら ↓

  
シックで素敵な仕上がりに
とても喜ばれて、仲の良い方のところまで小走りに走って見せに行きました。
見せられた方も「まぁ!素敵!」と満面の笑顔で仰って。
私もとても嬉しかったです。

  よく「褒めてあげることが大事」ってよく言うじゃないですか?
  一見正しそうでいて、その実よくよく考えるととてもおかしなことの一つです。

  だって、褒めるって目上が目下に向かって行う行為です。
  社長が社員を褒めることはあっても
  社員が社長に向かって「よくできました」と言うことはあり得ません。
  認知症のある方は年上のことが多いですよね?

  しかもなぜ「褒めることが大事」ではなくて
  「褒めてあげることが大事」なのでしょう?
  あげると言う文言に、無自覚のうちに本当は褒めるに値しないけれど褒めるのだ
  というニュアンスが含まれているのではないでしょうか?

  本来は
 「それで良い、大丈夫なのだと伝える」
 「ともに喜ぶ」

  だと思うんですよねぇ。。。

記念撮影をしたら
ササっと、3種類もポージング!
カッコいい!

素敵な方が素敵な作品を作るきっかけを作れて
最後の締めまで立ち会えて
私も本当に嬉しい。

認知症のある方でも
近時記憶障害が重度でもActivityを遂行できる方は少なくありません。

その代わり、構成障害や遂行機能障害をきちんと把握して
その上で持っている能力を活かした場面を設定できることが求められます。

認知症のある方の場合には、
若い頃やっていた趣味活動をそのまま適用できないことも多いけれど
その方の特性を把握できると、Activityの選択に活用できます。

「認知症でもできる」「認知症の方向け」ではなくて
「その方が楽しめる」「その方向け」のActivityを検討しています。


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