Act.を拒否された時:生活歴聴取

 

 
個別でのアプローチをしている場合に
「私は不器用だから」
「私は何にもできないから」
「私はバカだから」などと
Act.を拒否された時には
「一緒にやるから大丈夫」などと言って
工程の一部分を手伝うこともなくはありませんが
あまり良いテではないと考えています。

「一緒にやる」=「誰かの指示に従ってその通りに遂行する」
ということを好んでいた方の場合には有効かもしれませんが
そうでないと、私の脳みそが認知症のある方の手足を動かしている
ということになってしまう恐れが高いからです。

そんなリスクを冒すよりも
よっぽど有意義なのが
「生活歴を尋ねる」ということです。

どこで生まれて
どんな風に暮らしてきたのか
小さな頃どんな風に遊んで
若い頃の趣味や仕事はなんなのか

ここでもポイントがあって
何をしていたのか尋ねるだけではなくて
どんな能力を要求されていたことなのか
を意識しながら聞いています。

そうすると
今の若い人は「鍛冶屋」なんて職業を知らなかったりします。
(私だって、おわんやという職業があることを知りませんでした)
どんな職業かわからないとどんな能力を要請されるのかわかりません。
わからなければその場で尋ねることになりますが
知っていればその場での会話がより弾むことになります。

目の前にいる方がどんな風に暮らしてきたのか
イメージできることがポイントになります。
もちろん、誰だって最初から明確に具体的にイメージできるわけではなくて
その人を全面的にイメージできるわけでもなくて
ただし、その時その場のその関係性において
ありありとイメージできたことは確かな事実となります。

そのためにも事前に
当時の時代背景や風物詩、ニュースや流行していたものを
知識として知っているかいないか、ということは大きな違いになります。
まずは、それらを事前に調べておく
その方の出身の名所・名産品などを調べておく
そんな努力は今すぐにできます。
その上で尋ねると、具体的に尋ねることが可能となります。

今はネットで知りたい情報にアクセスするのが容易です。
「認知症のある方でもできるレク」
なんて情報を知るために努力するのではなくて
(一時凌ぎ、時間稼ぎとしては、アリかもしれませんが)
根本的な情報収集にこそ努力する方が
短期的には手間かもしれませんが、長期的にはよっぽど有効です。
そうやって調べた情報が回り回って他の方にも適用できたりします。
そのような努力を蓄積していけば多面的に知識を増やせることになり
さまざまな方への対応に有効活用できます。

対話に際して、伝わり具合の実感の差となって滲み出るものです。

認知症のある方に
「昔はそういうものだったじゃない?」
「みんな、そうだったよね?」
「なぁ?」
などと同意が返ってくることを確信されたようなお言葉を頂戴するたびに
(えー私はその時まだ生まれていないんだけど)
と思いつつも、内心ちょっとは嬉しかったものです。

その方のバックボーンに触れながら話を聞く
時には視覚的に情報を提供しながら話を聞く
(例えば、当時のニュース場面や風物の写真などを見せながら)
そうすると、いきいきと話をしてくださったり
広がりと深みのあるお話を聞くことが可能となります。

そして得られた情報は
今、この時、私自身が活用できる根拠となると同時に
認知症のある方が次に移る施設のスタッフにとっても有効活用できる根拠となります。

もしも、
認知症のある方にActivityを提供して拒否された時に
折り紙とか塗り絵とか手当たり次第に
漫然と「何かしている風」を装って「何かをさせる」のではなくて

人間としては、拒否されたことによるショックは受け止めても
プロとしては、拒否を情報収集の機会と捉えて次の手を打つ
ということが大切だと考えています。

何かする、していることが良いわけじゃない

していることに充実感を感じられるような
そして、することそのものに
自分が自分であることを再体験・再認識できるような
そんなActivityが提供できると
「できることをやらせる」
「徘徊しないようにできることを探す」なんてことはできなくなります。

そして
Activityの意味をその都度、対象化・抽象化・概念化する努力を重ねていると
作業療法とは何ぞや
ということを実感を伴って理解することができるようになっていきます。

  作業療法とは何だろう?
  それは考えることではなくて実践することです。
  結果を出してから、固有のケースごとに具体的に考えることです。
  誰かと語り合うものではありません。

  パイロットがパイロットとは何だろう?
  なんて考えているでしょうか?
  同僚と語り合っているでしょうか?
  それぞれの考えは考えですけど
  まずは、自分の技量を高めることに日々努力しているのではないでしょうか?

Activityは本当に大きなパワーを持っています。
大きなパワーを持つものは、逆効果となった時のマイナスの作用も大きいものです。

認知症のある方に良かれと思って提供したけれど
結果的にであったとしても傷つけてしまったということはありませんか?

どうしたらそのようなマイナスとなることを回避できるか
「まず第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの言葉の最初に書かれていると日野原重明は言っていました。
「患者は患者であるというだけで傷ついている」
そこから出発する。

認知症のある方に嫌がられたけど
この20分、どうしたらいいんだろう?
無理矢理させることはしたくない
でもどうしたらいいのか、わからない
先輩に聞いてもよくわからない
なんだか誤魔化されたような気がして納得できない

どこかでそんな悩みを抱えている人の力になれますように。。。
かつて一人でもがいていた過去の私が欲しかった答えです。

 


Act.を拒否された時:戦略的待機

 
Act.ができそうなのに拒否された時に
私がどうしているかというと。。。

まず、
「無理に誘ってごめんなさい。」
「また機会があったら」
「もし気が向くことがあったらその時にでも」
と言ってすぐに引き下がります。

でも、
拒否されてそれでおしまい。というわけではなくて
認知症のある方が拒否するには拒否するだけの必然があるので、そこを考えます。

多くの場合に
認知症のある方に私たちが出会った時点で
認知症のある方はすでにたくさんの失敗体験・喪失体験を重ねてきています。
同時に、日常生活においても失敗体験や混乱・不安にたびたび遭遇し続けています。

そんな中で
かつて得意だったことでも、やったことのないことでも
「やってみませんか?」と提示されたことに対して
不安に思ったり、心配な気持ちになるのは当然のことだと思います。

もしも、グループの中でAct.を提供する場であれば
代わりに「これならできる!」と確信していただけるものを提示します。

私は今、重度の認知症のある方を対象として働いているので
体操と音楽を評価の入り口として設定しています。
体操はラジオ体操第一とみんなの体操
音楽は懐メロの視聴です。

  その時点で
  この方は、こういう特性があるし、こういう能力があるし、こういう困難には
  こういった場面設定で工夫しようという私の側の判断があって
  あるAct.を第一候補として選択しています。
  詳細は「Activityの選択・工夫あれこれ」をご参照ください。

「これならできる!」と確信していただけるものを選択できるようになるのは
私たちの側の責務だと考えています。
ここは、特性に沿ったものを選択できるのが一番ですが
仮に、特性に沿ったものの判断ができず、能力に沿って選択したとしても
ここできちんと遂行の仕方を評価しておくことが重要です。

多くの場合に、「(認知症でも)できることがあった」ということで
職員の側が安心してしまい、それ以上の評価をしないことが多々あります。
だから往々にして、認知症のある方に塗り絵を提供してそれでよし
となる場合が多いのではないでしょうか。

目の前にいる方の適切なAct.選択の入口として
塗り絵を提供するのは良いと思いますが、
塗り絵なら座ってくれる。塗り絵ならやってくれる。
という安易な気持ちで漫然と塗り絵を提供するのはどうかと思います。

塗り絵が適切な方もそうでない方もいるからです。

塗り絵が適切な方は、
表現活動を楽しまれる方です。
色の塗り方をご自身で工夫しようという気持ちのある方
工夫をその方なりに見出し、実践する方です。

塗り絵が適切でない方は、
ただ、枠の中を塗りつぶすことが遂行目的となってしまいます。
もちろん、そのような遂行の仕方が間違いというわけではありません。
でも、「色を塗る=楽しむ」ではなくて「色を塗る=塗ることそのものが目的」
という場合には、他のAct.の方が適切だったりします。

Activityの選択というのは
良し悪し ではなくて適不適 なのです。
ましてや、可否ではありません。

作業療法の原語であるOccupy
その方がどんな風にOccupyしてきたのか
理解し、受け止め、今も変わらないということを
言葉ではなくActivityというカタチで媒介し伝え合うことができるから
Occupational Therapy なのです。

ちょっと脱線してしまいましたが
話を元に戻して

第一候補のAct.でなくても
遂行の仕方をきちんと観察・洞察することができれば
自分の判断の確認ができます。

認知症のある方も「できた!」「大丈夫だった!」という体験を積み重ねることで
やってみようかな?という気持ちが芽生えてきます。
そのサインを見逃さないことです。
チラチラと見ていたり
やたらと眼が合うような時は、チャンスです。

並行集団の良さは、こういうところにあります。
私はずっと課題集団と並行集団を使い分けてきています。
いろいろな人がいろいろなことをやっている
同じ時間と場を共有はしているけれど、することは人それぞれ異なる
というのが並行集団です。

いろんな人がいるんだな
いろんなことをやるんだな
ということを体験を通して実感できる場がある
ということを大切にしています。

その時を逃さずに声をかけることと
その時に失敗させないように工程を説明することがポイントとなります。
工程を説明する時には「言葉」と「実演という視覚的説明」を
意識して使い分けています。

私も若い時には、実演しながら「ここをこうしてこうやって」という説明をしていたことがありました。。。
ある時、ハッと気がついて以来そのような説明の仕方はやめています。

「ここをこうしてこうやって」
という説明は構成障害のある方には、かえってわかりにくい逆効果になってしまう説明です。
そして、実は、説明する本人が「ここをこうしてこうやって」という内容を
曖昧にしか理解していないという側面があります。
「ここ」がどこなのか
「こうして」とはどうすることなのか
「こうやって」とはどうすることなのか
明確化できていないから、なんとなくやっているから
「こう」としか言えないのです。

実演する過程で
「何を」「どのように」見ていただくのか
言葉にする時には
「何を」言うのか
ということを明確にして伝えています。

このあたりが曖昧になっている人って結構いるものです。
そのために認知症のある方が混乱している。
でも自分の曖昧さには気がつけないから
何が起こっているのかわからない
だから自己修正が効かない
だから認知症のある方も拒否してしまう
でも自覚がないから、それらすべてを「認知症のせい」にされてしまう

なんということでしょうか。。。

逆に言えば
私たちが自覚的になれば、今すぐに誰にでも修正できることです。
新たに論文を読んだり
研修に出かけたりせずとも
お金も時間もかけずに、自身の言動に明敏になることによってできることです。

  でもこういうことこそが、一番手を抜かれるところなんですよね。。。

話があちこちに飛んでしまいましたが
まとめると。。。
 
認知症のある方がAct.をできそうなのに拒否する時には
1)これならできる!と確信してもらえそうなAct.を次善の策として提案する
2)拒否なく応じてもらえたAct.の遂行の仕方を観察・洞察する
3)導入のタイミングを見逃さない
4)導入の仕方に注意する

もうひとつは
マンツーマンでの対応の仕方で
認知症のある方に話を聞く というものです。
これは次の記事でご説明します。

 

Act.を拒否された時:拒否は情報収集の機会

 


Activityができそうなのに拒否されることもありますよね?

拒否されるとメゲてしまうかもしれませんが
メゲてる場合じゃありません!
拒否は情報収集のチャンスなんです。

具体的にどのように対応するかは後述しますが
その前に。

Act.だけではなくて
認知症のある方へ対応しようとして
暴言や暴力や介護抵抗があると
正直、しんどいですよね。

そうすると
無意識の自己防衛から
「どうしたら暴言や暴力や介護抵抗を受けずに済むだろうか」
という観点に立って物事を考えようとしてしまいます。

でも、そうじゃない。
気持ちはよくわかるけど。

そのような観点に立って
為されたことが効果があるわけがない。
(だって、自己防衛の観点で対象者の観点ではないもの)
仮に短期的に効果があったとしても
長期的にはむしろ逆効果にしかならない。

ここで、私は決して
介助者が我慢すべき。などといっているわけではありません。

我慢することではないけれど
拒否された、その時その場にいる人が
一番よく状況をわかるのです。

どのような場面で
どのような状態像の方に
どんな関与をしたら
拒否されたのか

ここは、情報収集のチャンスなんです。

拒否は表面的な言動であって
必ず、拒否というカタチに現れている障害と能力があります。

そこを観察・洞察すれば
本質的な改善のミチがひらけてきます。

検査はするけど
貴重な情報収集の機会を逃している人って大勢います。
情報収集せずに「どうしたら良いか?」考えても
適切な介入方法が得られるわけがありません。

私たちは
客観性や科学的であるということを誤解させられてきたと思う。

人文科学に寄与する私たち対人援助職がすべきことは
科学的・論理的・合理的な観察ができるように
観察の精度を高めることであって
観察を否定することではない。
 
検査には検査の意義があるけれど
観察より検査の方が価値が高いわけではない。

観察とは
「ちゃんと関わっているのに拒否する」
といった表面的な言動ではなく
認知症のある方にとっての
環境の一因子としての私たち自身の言動も含めた「場」と
拒否という言動に反映されている能力と障害と特性を把握することです。

そうすると
回避すべき場面を明確に具体的に設定することができるようになります。


浮かび上がる一本道

 

 
認知症のある方が
良くなっていくのは
その方それぞれ固有の一本道を通っていくと感じています。

食事介助にしても
BPSDや生活障害への対応の工夫にしても
Activityの選択にしても
 
その一本道は、考えるものではなくて
自然と浮かび上がってくるもの

自然と浮かび上がってこない時には
その方のことがよく把握できていない時だから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
まずは、情報収集から始める
日々の暮らしぶりをきちんと観察することから始める

その方の障害と特性と能力が分かれば
自然と今何が起こっているのかがわかる
だから、どうしたら良いのかが浮かび上がってきます。

どうしたら良いのかと考えるというのは、私たちの頭の中の作業なんです。
観察するという行為は、私たちが認知症のある方から教えてもらうという行為で
答えは認知症のある方の言動の中にあります。
全然違う。

多くの人は困った時に、考えるけど観察が足りない

語弊がないように正確に言うと
観察が大雑把で
科学的に客観的に観察するよりも先に思い込みの判断が先にある
そういう人の方が圧倒的に多い

だから
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いでしょうか?」
という質問が蔓延るんだと思う

どうしたら良いのか、職員に対して質問するんじゃなくて
目の前にいる認知症のある方に尋ねなくちゃ
言葉で尋ねる時には、尋ね方に工夫して尋ねなくちゃ
言葉にならないもう一つの行動という言葉でも尋ねなくちゃ

現場あるあるなのは
尋ね方が不適切だから答えが返ってこないというケース

最初から何もかも全てがわかるわけじゃない
臨床とは、観察するという行為の積み重ねを通じて
より深くより広くより明確にわかるようになっていく過程

知識を広く深く習得していれば
同じ場面を観ていても得られる情報の量と質と的確さが増してくる

観察・洞察力を磨けば
フッと答えが先に浮かんでくることもある
その的確さに自分ながら驚くこともある

  ある小説の主人公の言葉に
  「カンというのは無意識下での論理的思考の発露」
  という言葉があって、まさしく!と膝を打ったものです

そんな時にも
あぁ良かったで終わらせずに
何がどう良かったのか、良かった意味を
抽象化して言語化する努力を重ねる

そうすると
経験が経験として蓄積していくから
一番の修行は、目の前の対象者の方への対応ってことになるんだよね
すると、また、経験の応用の意味がわかるという。。。
華厳経の縁起の図みたいになる。。。

自分の中にそういった眼がなければ
目の前にいる方の言動を見ることはできても観察はできない

「ためこんで飲み込んでくれない」
「すぐ怒る」
「何回も呼ばれる」
「身体が硬くてオムツ交換が大変」
「手を硬く握り込んで爪が食い込んでしまう」

確かにそうなんだけど
これってプロとしての観察?
これだったら親戚のおじさんおばさんでも言える(見える)ことじゃん

その時その場のその関係性の中で
全身を心身ともに総合的に観察できるから
何が起こっているのか洞察できて
どうしたら良いのかが一本道のように自然と浮かび上がってくる

だから良くなる

重度の認知症のある方でも変わる

それは
認知症のある方その方の能力の発揮であり
人間の脳の働きの可塑性の素晴らしさでもある

本来の作業療法は
生命への賛歌、応援歌なんだと思っています


 

NHKスペシャル「立花隆 最後の旅」を見た


今日の7:20〜9:00にNHK BSで放映されていた
「NHKスペシャル 立花隆最後の旅」を見た。

綿密な資料収集と取材をする立花隆の仕事への向き合い方を
NHKディレクターの視点から捉えた番組
立花隆と17年にわたって共に仕事をしてきた彼もまた
膨大な資料を丁寧に読み込んでいたことが伝わってきた
”知の巨人”から託されたもの〜立花隆との17年〜 
・NHK取材ノート
 立花隆さんと17年間一緒に番組を作ってきた私が、
 大量の段ボール箱を前に考えていること

印象的だった立花隆の言葉
 
竹藪を例にとって
「人間にとっての知的な営みも竹の地下茎のように実は地下でつながっている」
「人間の知識というのは、非常に深いところでいろんなかたちでつながっている」と

番組でこの言葉が紹介された時に
華厳経の縁起について説明された放射状の図を思い出しました。

エーゲ海での取材にて
「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体に比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどの微少なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に飲み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に飲み込まれてある。」

この言葉を聞いた時に
ふっと楽になりました。

記録として残されなかったものの方が圧倒的に多いが
残されなかったとしても存在しなかったわけでもなく影響が皆無というわけでもない
どんな微小なものであったとしても紛れもなく存在していた幾多の人々。。。

同時に
頑張ろうと思えました。

「意図こそが大事」
この言葉は、スティーブ・ジョブズの言葉です。
重みを持って響いています。

良い番組を見られて良かった。


日常生活や趣味を治療に活かす(ごむてつ)

むかし大学教師だった頃、時々学生と一緒にスキーに行った。もちろん最初はできないから経験者の学生に教えてもらったのだが。
生徒が先生に教えるわけで気後れもあるし仕方がないことだけど、ハッキリ言って教え方が下手なのである。質問しても殆ど応えられないし。

教えるのは当然面倒だし、そんなことより自分が行きたいコースで滑りたいように滑りたいのはよくわかるので「もういいから」と言って独りで練習することにした。初心者っぽい人の中でも自分よりは少し慣れていそうな人を見て真似したりして。

1回目は学生に教えてもらったけどそれからいろいろ考えて試して、2回目には全く初めての人には教えていた。1日中苦労しただけに文字通り一日の長があるのだ。
何かを習得する時にはそれを他の人に教えるにはどうしたらよいかをいつも考えている。

今は違うかも知れないけど当時は、初心者はボーゲンと言って足をハの字にして内側のエッジを立てるようにしてコントロールするのだが、これが最初はなかなか要領を得ずだいぶ苦労した。
股関節を股関節の内旋と足首の外反を同時に行うのは普段の生活には殆どないし初めてだと難しいので、どうしても内反しがちになってしまうし、外側のエッジを雪面に引っ掛けやすく、これが転ける原因にもなる。

学生には、
「とにかく慣れないうちは見た目を気にせずにとにかく大股開きにすると良い。そうすると足関節は自然に外反し内側のエッジが使えるので、制御しやすいので多少急な場所でもコントロールできるしすぐに止まれる」

「大股開きにすると脚がどんどん開いてしまい股裂きの刑になりそうな錯覚があるけど、実際には外転させると外旋にも内旋にも自由度が広がりむしろ内旋させやすくなるので自然にできると同時に足関節は内反するので、内側のエッジが立つので実際にはむしろ逆で股裂きにはならない」
「ついでにどの筋をどのように使っているか、どのように働いているかなども考えてやると良い」
てなことを話していたら、学生には怒られてしまった。

「せっかくこんなところまで遊びに来たのに勉強のことなんか考えたくないっ!そんなこと忘れて楽しむために来たのに!」などと宣う。
実演しながら教えているのだからわかり難いということはないはずだが。

俺としてはすっかり驚いてショックを受けてしまった。
趣味やスポーツや生活の身体の動きなど様々なことが仕事に生かせるし、また逆に専門的な知識や経験を日常にも活かせることがOTの魅力だし面白さだと思っていたので。

精神科でも基本的には同様だ。
どうも専門的な知識や臨床の実践と、日常生活や趣味や遊びは別と思っているか、統合できていない人が多いような気がする。

PTの人はスポーツをやっていた人や体育系の人が多いと思うけど、どちらかと言えばスポーツとリハビリの仕事は別と考えていたり、あるいはスポーツの方に軸足があり、その延長でリハビリを考えている人が多いように思う。それだと臨床的な理解や方法にはなり難いと思う。

スポーツの指導やコーチをするのとリハビリとでは全く別物だと思う。初心者どころか障害がある人が対象なので当然だろう。コーチや指導者は初心者に教えるのはまだ良いとしても、運動神経が極度に鈍い人に教えるのは苦手ではないだろうか?


ギターやベースをやっていると日常生活では殆どないような手指の使い方をすることが多い。
ギターの持ち方や構え方、姿勢なども手指の動きに随分影響するもので、始めた頃はもちろんそんなことがわからないので変な癖を身に着けてしまったり。いろいろ事情もあってそうならざるを得ないところもあったが、昔はビデオはなんかないし教則本なんかもろくなのが無かったし。

例えばギターを上から見て身体と平行に構えていたけど、むしろヘッドを前に突き出すようにして斜めに構えた方が指はだいぶ開きやすく動きやすい。
これでもOTの端くれでありながら、正直言って何十年も気づかず最近気づいたこともあるし、もちろんまだまだまだ発見することもあるはずだ。
他の楽器なんかでも良いかもしれないが、ハンドセラピーをやるような人ならむしろギターは必須にした方が良いかと思うくらいである。

ギターの弾き方には実にいろいろあるし、手の使い方のバリエーションはものすごく多く、日常的には使わないことも多い。
日常的に使わないことなら、他のことやら臨床には役立たないのでは?と思うかもしれないがそんなことはない。いろいろ体験してみて初めてわかることも多いはずだ。
だいぶ前にOTの重鎮の方が「手のかたち、手の動き」という本を書いていたが、ギターだけでももう一冊書けそうだ。


身体的なことに関しては、こうした趣味を治療に活かす、専門的な知識を趣味などに活かすという意味では、私はそもそも身体障害の治療はやっていないので必要性も乏しかったし、もう遅きに失するかもしれないけど。

というわけで唐突だが最近私はドラムを始めた。

今さらバンドをやったり人に聞かせるようなこともないだろうし、治療に活かせることもあまり無いだろうけど、目的は老化防止と精神・神経の健康のためである。
ガキの頃からギターやベースは一応弾いてたし、下手ながら一時期バンドをやってたこともあるけど、あまりに運動神経が鈍く不器用でリズム感が悪いので、畏れ多くもドラムには手を出さなかったのだ。
今から思うとだからこそやるべきだったのだが、長年そこまで思い至らず、もっと早く昔からやっておくべきだったとつくづく思う。

音楽をそれなりにやるとか歌を上手く歌いたいなら、メロディ楽器とコード楽器とリズム楽器はそれぞれ一応はやるべきだろう。

「だんだん良くなる法華の太鼓」

「心に太陽を、唇には歌を、体にはリズムを持て!」

精神疾患を発症したり老化が進むと顕著なのはリズム感が損なわれることである。
私の場合は両方が原因であるが、大抵の場合無駄に力が入ってしまいうまく抜くことが下手になっている。当然疲れやすいし。
ドラムは脱力に始まり脱力に終わると言ってもいいくらいだ。たぶんね。よく知らんけど。体力も必要と言えば必要だが、意外にそれほどでもなくむしろ中高年に向いた楽器だと思う。とりあえず練習用のパッドとスティックがあれば良いし、あまりお金もかからないので思ったより手軽に始められる。

ほぼいつでもどこでも練習できるので、歩きながら「くいだおれ人形」のように練習している。授業中でも音を出さないように手足を動かしているのがバレないように机の下でやれば練習できるぞ。頭の中だけでもイメージトレーニングができるが、そういうのがけっこう重要だったりする。
我ながら日々上達が見えるので面白いし、曲に合わせて手足を動かすだけでもけっこう楽しい。
やっぱりいろいろな手足の使い方をするし、全体の姿勢や呼吸なども関係するので勉強になる。
俺は無理だが、スティックのコントロールだけで分厚い本くらいは書けそうだし、実際にそういうのもある。

始めてみて直ぐにわかったことだが…
私は酷く運動神経が鈍く、不器用であることは重々自覚しており、中々改善せず半ば諦めてもいたのだけど、特に左手の使い方が極度に下手だ。もちろん右利きだからというのはあるが、それにしても、である。

左手はなぜこんなにも不器用で言うことを聞かないのか?改善するにはどうしたら良いか?ということは今まで殆ど考えたことがなかった、というかむしろ避けていたのだが…
日常生活では特に困るわけではないし、人間苦手なことはあまり認めたくないし克服するよりも無視したり避けがちである。疾病否認や病態否認もそうしたことの延長ではある。

具体的にはスティック(バチ)でドラムを叩く時、手首の動きに関しては、手首の屈曲、尺屈、それと回内を主に使うが、私の場合特に左手の回内回外の動きが極端に悪いことに気づいた。
スムーズに速く正確に回内回外させることができず、特に肘をほぼ90度の状態で肢位をほぼ保ったままやると、前腕部の筋に無駄な力が入ってしまい、共同収縮も多く動きを阻害しながら動かすことになってしまう。
要するに回内回外の分離運動が特に下手なのだ。もちろん統合的に動かす必要があるのだが、主な問題はそこだった。他の人にはどこまで当てはまるかわからなけど。
そこが克服できればまた別の問題がネックとなるのだが、でもそれで次のステップに進める。

そういうわけで、とにかく回内回外だけ訓練してみたら、左手の使い方は飛躍的に改善した。普段の動作も少し器用になり、手先の巧緻性もいくぶん改善しギターやベースも弾きやすくなったくらいである。
辞めたとは言えOTの端くれなのに、こんな簡単なことになんで今まで気づかなかったのか?と唖然としたけど、日常生活では特に困らないしドラムをやらなければ多分一生気づかなかったに違いない。

それでレギューラー・グリップ(ジャズなんかで使う持ち方で、回内を主に使う)でも下手だけど一応は叩けるようになった。そんな奇妙な?持ち方で叩くなんて最初はとても考えられなかったのだが。
たぶん最初からそこそこできる人と、私のようにとてもじゃないができない人がいると思う。
他の楽器に比べて「あんなの人間業じゃない!俺なんか出来るわけがない!」と思うことが意外にできたりして、イライラして嫌になったりすることは少ない。ギターを教えたがる人は多いが、ドラマーがあまり人に教えたがらないのは、多分ドラムが一番面白いからではないか?という気がする。

到底無理だと思うことでも、特に障害でもなければたいていのことはそこそこのレベルにはなれると思う。いきなりできるようになろうとしても無理でも、多少は時間はかかっても急がば回れで、なるべく基本からプロセスを踏んでやっていけば。
できる人がそれなりにいることなら、多少の向き不向きはあっても自分にはできない、無理だと思う必要はない。

と、偉そうなことを書いているが、実はまだ本物のドラムセットは触っていない。そのうちスタジオに行って練習してみるつもりだけど。
「講釈師、見てきたような嘘を言い」
昔、若い頃ちょっとばかりおイタしたことはあるけどな。

脳卒中右片麻痺の患者さんなんかに「利き手交換」と称して碁石の玉やら豆粒などお箸つまんでただ移動させる訓練など、今どきやるOTはたぶんいないだろうけど…
それが悪いというわけではなく必要もあるだろうけど、わざわざ訓練室に来てセラピーの時間を使ってやるものではなく、OTとしてやるならどうしたらそれが早く簡単に上手くできるようになるか、そのポイントを絞って指導・訓練するべきだと思う。

精神科の患者さんなんかは酷く不器用な人が多いが、ただActivityをやるのではなく、それが上手く出来るように基本から指導すべきだろうし、それが出来るのがOTの専門性というものだろう。
人によってはやはり苦手なことはやりたがらないし、抵抗を示す人もいるだろうけど、良い指導ができればわかってくれたり受け入れてくれる可能性が高いし、それで結果が出せれば精神的にも良い影響があるはずだ。
私はOTはもう辞めたけどセラピーでは神経そのものの状態や働き、使い方(というより無意識による使われ方)から改善できるように指導している。
ドラマーは基礎練習だけでなく、上達のために運動や体操をしたり、準備体操やウオーミングアップをするのが普通だ。

指導のポイントとは弱点・欠点を目ざとく見つけてそこを指摘してやらせるのではない。それだと下手ながらも一応できていたことが余計にできなくなってしまい、嫌になったりやる気がなくなりがちになる。
ポイントとはここを変えればあっちもこっちも良くなるからはるかに上達する、あるいはとりあえずここを改善すればこういうことができるので、その次にここを改善すれば…といったことであろう。

私は泳げなかったので中年の頃に教えてもらったり練習して何とか泳げるようになったのだがそうしたことを痛感した。結局教えてもらっても殆ど上達せず、自分でやり方を理解して訓練法を考えたことが上達につながったのだが、それも一応OTだから可能だったのかもしれない。

昔は体育や音楽や美術の教師などはロクに教えることができず、ただやらせるだけだった。酷いやつは水泳なんか棒で突っついたりなんかしやがって。今でも恨みが怒ってくるぞ!
今どきはきちんと教えてくれる先生が多いのだろうけど、それにしてもプロとして本当に教えることができる人はどのくらいいるだろうか。

だんだんわかってきたことは、自分が苦労して習得したことことや、大抵の生徒が苦手でも自分たちは得意なことを、生徒が簡単に上手くできてしまったら自分の立場やプライドが保ずむしろ困るわけで、自覚しているかはともかく差別化選別主義が根底にあるのだろうと思う。
そのためきちんとした指導法を考えたりすることを怠っていたのではないかと思う。
そういうつもりはないだろうが、殆どの先生がそうだったから。生徒にマウントとってもしょうがない。

俺なら上手く教えて生徒が皆、俺を楽々超えてしまうことにプライドを持つけどな。教師はできることより、教えることが仕事だ。音楽の先生はプロのミュージシャンじゃないし体育の先生はオリンピックや大会に出るわけではないし、もちろん殆どの生徒もそうだから、いかに上手く楽しめるか他のことにも役立てるかだ。

俺は優しく親切でサービス精神が旺盛なので、上述のようにスキーなんかも二回目には初めての人に教えたりなんかしていたわけだが。
ゴルフの練習場なんかでは教えたがり屋の嫌われるタイプでジジイである。ゴルフはやらないけど。

今は精神疾患の治療のことを教えたいのだが弟子はいないし、そもそも治療を教わる気がある人が殆どいないようなんである。これまた、だんだんわかってきたことは、精神科医や心理カウンセラーなんかになりたい人は掃いて捨てるほどたくさんいるけど、本当に治療をやりたい人は殆どいないということである。
それでメシが食えるとは限らないし、というよりとても難しいし。もっと言えば患者自身も本当に良くなる治療を求めていない。要するに『抵抗・防衛』ということだが、それを克服することを含めて治療なんだけど、それは患者側の問題でもあるがむしろ治療者自身の問題である。

今はそうでもないと思うけど、我々の世代だと音楽やスポーツや英語なんかも学校時代に何年もやっていたのに大抵の人は大してできるようにはならないし、できる人は自分がやりたくて教室に通ったり訓練や練習に励んだ人だ。

やっぱりリハビリの仕事もそうで学校は優秀な成績で卒業して資格をとっても、実際にできるようになるには自分から本を読んだり講習会に参加したり、学習して身につける姿勢や努力がないとダメだし、何事もセラピーに活かせるようにフル活用し、また専門的な知識を治療以外の様々なことに活かせるように心がけた方が良いと思う。

日々の臨床の中でも自分で自分を訓練し学習できる人と殆どできない人がいる。精神科なんかは特に経験が逆効果になっていることも多いから恐ろしい。

※追記

ところで最近、認知症のリハビリや評価に太鼓が使えるといったことがよく言われているようだ。
「認知症 太鼓」などで検索するといろいろ出てくる。
その辺は門外漢だし私としては何とも言えないのだが、何となく良さそうである。

実際にでかい音を出したほうがもちろん良いのだろうけど、当然のことウルサイのが難点である。ドラムの練習には一般に練習用のパッドを使うのだが、スネアドラムのスタンドにドラムの皮だけ固定して叩いたりもする。
それでもそれなりのお値段がするので、やはり100円ショップとかホームセンターで素材になるものを組み合わせて使うと良いかもしれない。スティックも一般的なものは1,500円くらいでそんなに高くはないのだが、Amazonなど探ると中華製の安いものも手に入る。

(92)嵐を呼ぶ男(石原裕次郎・笈田敏夫) – YouTube

いかりや長介の演技が秀逸でちょっと感動的
ドリフターズ加入前の志村けんもチラッと出てくる
ドラムすめには負けたくない。可愛いけど。目標は追いつき追い越せだ!

ごむてつ君に励ましのお便りを出そう!
auchida@msi.biglobe.ne.jp
もう禿げてるけどな
これ以上禿たら頭蓋骨が見えてしまう。

寒中お見舞い申し上げます

  


お久しぶりです。
みなさま、お変わりありませんでしょうか。

私は昨年は慌ただしい1年を過ごしました。
3月から父の入院・転院が続き、7月に逝去
その後、母の在宅療養を経て11月に看取り
付随するさまざまな手続きに
職場での2回のコロナ対応もあって
こちらへの書き込みをする心身のゆとりがありませんでした。

いろいろ体験してみて思ったことは
大変ではあっても体験してみてわかることもあり
直接的には関連していないことでも理解が深まることがある
ということでした。
このあたりのことについては、いずれ記事にしたいと考えています。

延期していた勉強会も再開を検討しています。
詳細が決まりましたらお知らせいたします。

寒さも厳しくなり
新型コロナとインフルエンザのW流行も増えているようです。
どうぞくれぐれもご自愛ください。


講演無事終了@全精栄神奈川県支部

 


12月3日に開催された
全国精神科栄養士協会神奈川県支部主催の研修会での講演を無事に終了することができました。

窓口になってくださったMさんはじめ
運営に携わられた皆さま
参加された皆さま
お疲れさまでした。
どうもありがとうございました。

食事介助とは
「何を」
「どんな風に」
食べていただくか
ということでもあります。

近年、「何を」という食形態の部分では
栄養士の皆さまのご尽力のおかげで
開発が進み、選択肢が広がったことをとてもありがたく思っています。

一方で
「どんな風に」という部分では
まだまだ誤解や従来の方法を漫然と踏襲している部分もあり
今後改善されていく余地も多々あると考えています。
講演では、その辺りについても少し触れました。

「食べることの援助」「食事介助」については
無関係な職種はない
と感じています。

一人でも多くの方が
余分な困難を抱えることなく
より楽に、よりスムーズに、より美味しく
食べられるようになり
誤嚥性肺炎で苦しむ方が少なくなるように願っています。

 

真の臨床家たる中井久夫

 

精神科分野で働く人はもちろん
そうでない人にとっても
中井久夫の言葉に支えられ励まされることは多いと思う。

中井久夫は徹頭徹尾、患者と並走する臨床家だった。

「医師は患者の弁護士」
と言明する医師を私は他に知らない。

初めて使う薬は、必ず自分で飲み心地を確認してから処方する
なんて医師を私は他に知らない。

DSMやエビデンスといった
身体疾患に関する現代医学の潮流とは別の側面に
個々の患者一人ひとりの経過とその時々の状態に
本当に寄り添っていたんじゃないかと思う。

患者への細心の気配りと
広く深い知見に基づく観察をどんなに丁寧に行なっていたのか
書かれた本の行間から滲み出てきます。

中井久夫のような実践は
現代医学の主流とは異なるのかもしれないが
歴史の必然の中で必ずや復活し見直される日が来ると思う。

中井久夫の実践に感動し学び直すことになるだろう。
看護や介護やリハ職に、多大なる影響を与えるだろう。

NHKが
4回の時間を割いて
心の病を普遍的な社会・文化の問題として読み解こうと設定した機会に
私ももう一度、中井久夫に学び直そうと思いました。

それにしても
中井久夫は晩年どんな思いでいたことだろうか。。。

 

医学書院のサイトから
中井久夫の鼎談記事を読むことができます。

https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2001dir/n2433dir/n2433_07.htm

NHKのEテレで中井久夫の特集番組(ごむてつ)

前回、中井久夫さんのことを書いたけど、NHKのEテレで中井久夫の特集番組をやるそうです。

精神科関係の人は特に見ると良いと思う。

名著125「中井久夫スペシャル」 – 100分de名著 – NHK

第1回は、2022年12月5日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
4週連続、100分×全4回なので結構充実しているかも。
再放送もあり

俺はテレビないので見られないけど、後追いでネット配信されるかも?

テキストも市販されているようです。

100分 de 名著 | 商品一覧| NHK出版 (nhk-book.co.jp)


最近になってこんな本も出版されています。

これは「精神科治療学」という雑誌に掲載された論文を集めたものです。

もちろん中井さんの本は著作集を始めいろいろ出ているのでお勧めです。もちろんサリヴァンなどの翻訳もぜひ読むべきです。

こちらは中井さん自身が書いたものではなく他の人の原稿を集めたもの
弟子だった?安克昌氏の著作も新たに出版されていました。

何と!2020年のことだけどNHKのドラマにもなっていた
主役のモデルは安克昌氏
土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」 | NHKドラマ
私は知らなかったけど見た人もいたのでは?

DVDが出ているので見られる。買うと高いけど
心の傷を癒(いや)すということ DVD 全2枚|国内ドラマ|DVD (nhk-ep.com)

劇場版もありネットで配信されている
心の傷を癒すということ 劇場版 : 作品情報 – 映画.com (eiga.com)


NHKに捧げる歌 早川義夫 
「ぶっ潰す!」ではありません。半世紀以上前のレコード

早川義夫さんは知らない人も多いだろうけど、極北の伝説?全然売れなかった幻のロックバンド?ジャックスの元リーダー

長らくレコードも廃盤だったけどその後再評価され、今は古い音源も発掘されてCDもいろいろ出ておりYou Tubeでも聴ける。これは1968年のファースト・アルバム

解散後は会員制のレコード会社、URC(アンダーグラウンドレコードクラブ)のディレクターで数々の名盤を残したが音楽的素養には乏しく、はっぴいえんどとはソリが合わずディレクターを降りている。

自分のソロ・アルバムはこの経費削減のため全曲ピアノまたはオルガンの弾き語り。
業界を抜けた後には長らく書店をやっていたが、1994年25年ぶりにソロで再デビューしているが現在は高齢のため活動停止