予防的対応を心がける

 


自分一人で重度の認知症のある方16名に対して
精神科作業療法として集団リハを実施しています。
2時間を課題集団と並行集団を組み合わせて実施していますが
円滑に、そして個々の方それぞれにより有意義な場となるように
頑張って運営・進行しています。

1分前のことも忘れてしまったり
帰宅要求のある方や
歩いたら転倒リスクがあるのに立ちあがろうとする方や
訴えの多い方や
飲食に特別の設定と見守りや介助が必要な方も対象です。

前半は音楽鑑賞と水分補給、体操という課題集団
後半は鑑賞とActivityを並行して実施
Activityも個々人によって、
毛糸モップ・指編み・塗り絵・書字・スクラッチアート・間違い探しなど
異なるActivityを提供しています。
つまり、二重の意味で並行集団を作っているわけです。

そこで
2時間円滑な進行と個々の参加者にとって意義ある場とを両立させる
ポイントとなるのは「段取り8割」の実践です。

上記のような方々が対象なので
何かコトが起こってから対応するとなると
集団の進行そのものが止まってしまうことになりかねません。
そうなると、集中できていた方もそわそわし出して収拾がつかなくなって
集団リハそのものが瓦解してしまいます。
ですので、そうならないように、予防的に対応するようにしています。

参加者お一人お一人の状態を見極めて
どのような状態の時にどのような言動が現れやすいのか
ということをきちんと把握できれば
生活障害や困惑させられる言動に反映されている能力を見出し
では、どうしたら良いのか
ということが明確化できます。

仕事はなんでもそうですけど
後手に回ったら良い仕事はできません。
先手を打たなければ。

座席配置にも工夫しています。
視覚的理解力の程度によって
正面が良いのか、多少外側の席でも理解できるのか
画面に近いほうが良いのか、遠くても大丈夫か
隣の他患との関係性はどうか等
より理解しやすい、集中しやすい、トラブルになりにくい座席配置を設定します。

よくある誤解が
体操や鑑賞などの最中に大声を出したり、落ち着かなくなる方がいると
集団から外に出ていただいたり
集団の後の席に移動していただいたりすると思います。

でも、そのような対応が
逆効果になる方って大勢います。

むしろ、進行をしている私の隣で大勢の方が体操しているのを
目で見られる席に移動していただいたり
私の真正面最前列に移動していただくと集中して体操を始めたりすることが多々あります。

大声や立ち上がりなどのBPSD=わからない人
という判断をしがちですが
実は、部分的にわかるけれど、全体像が明確にはわからないから
大声を出したり立ちあがろうとするケース
もあるのです。

「体操の場面」を「なんだか、大勢集まってワイワイしている」
と認識するように。
この「大勢集まっている状況」を
「みんながどこかに行こうとしているから遅れないようにしなくちゃ」
と思って立ち上がる方もいれば
「みんなが出かける前に念の為トイレに行ってこよう」
と思う方もいます。

このような認識をしている方に集団から外れていただいたり
後方の席に移動していただくと
「なんで邪魔するのよ」と制止されたと受け止めたり
一層全体像がわからなくなってしまうのです。

はっきりと「体操の場面」なのだ
「みんな体操しているのだ」
ということを、その方自身の目で見えるところに移動していただけば
集中して体操できたりするのです。

多くの人は言葉での説明に重点を置きますが
説明するということは
認知症のある方が見ている現実を補足するということに過ぎません。
この時に言語理解力を踏まえた説明ができなければ
「何か言われたけれど何を言われたかわからない」となってしまい
効果がないどころか逆効果になってしまいます。
見ている現実をすっきりとわかりやすく提示する場面設定の方が
混乱なく理解しやすかった
りするのです。

また、立ち上がりが頻回になる方の中には
単純にトイレに行きたいということもあり
ただ、「トイレに行きたい」と言えないので立ち上がる方や
(トイレに行きたいのですか?)という言葉の理解ができずに
「違う」と言うので尿意がないかと思いきや
(おしっこ、出る?)という言葉だと「出る」と言える方もいます。

その方それぞれに理解しやすい言葉がありますから
そこを把握しておきます。

個々のActivityも席に材料を一揃い用意しておきます。
人によっては、工程の理解となるように 下のイラストのように用意しておきます。

貸出用のメガネや手拭きタオルなどもあらかじめ濡らして絞って置いておきます。
今日の日付が必要な方には、こちらも用意しておきます。


実際に、集団リハが始まってから余分にバタバタ動くことのないように
あらかじめ机の上に必要な道具や材料一式を設置しているのです。

ご自身の席を覚えている方も忘れてしまう方もいろいろですが
作りかけの作品が置いてあると
説明する時も容易だし
座席を探す認知症のある方にも目印になるし
作りかけの作品を自分で探すという行動そのものが
再認を促し、Activityへの導入
ともなります。

段取り8割が事前に的確に行えるためには
個々の方の状態把握・能力と障害の把握が肝要です。
そして把握した状態像の情報を日々の関与にきちんと活用することが大切です。

どれだけ、検査・バッテリーをおこなっても
その結果を日々の関与に活用できないのであれば
なんのために検査・バッテリーをとり、状態把握をするのでしょう?

より良い関与ができるために
評価をする
そのための1手段として、検査やバッテリーをする

ところが
現場では、検査のための検査 になっているんではないでしょうか?

HDS-RやMMSEはとったけれど
その結果や検査過程に滲み出ていた特性が
その後の関与に活用されることがない。。。現場あるあるです。

かつて
実習に来る学生、来る学生が
まるで、ハンで押したかのように胸を張って
「HDS-Rは認知症のある方を傷つけるから行いません」
って言ってたことがありましたっけ。。。

私はそういう学生には、こう言いました。
「わかりました。
 あなたがHDS-Rをとらなくても、記憶の連続性について
 きちんと状態把握ができて、根拠を明確に誰にでも説明できるというなら
 とらなくてもいいです。
 それができないなら、記憶の連続性を明確にするためにとりなさい。
 そして、最も重要なことは、認知症のある方を傷つけるリスクを冒しても
 とったんだから、その結果をきちんと日々の対応に活用しなさい」

誰かが言ってるんですよねぇ。。。学生に。
自身の中で、すり替えていることに無自覚なままに。
検査のための検査になっていることを表明している。

認知症で記憶の連続性を把握することはとても重要なことなのに。
HDS-Rをとることが全てではないけれど
とらないのであれば代替手段を教えてあげなければ。
(その代替手段を習得することは、学生では非常に困難なことです)

「HDS-Rは認知症のある方を傷つけるから行いません」
これは、一見、優しそうでいて
その実、現状把握をしないで接するということを体験させてしまう。
本末転倒な臨床態度を未来ある学生に伝えてしまっています。

先手を打った仕事ができるようになるために
認知症のある方の状態像を的確に把握する
把握した情報を日々の対応に活用する
だから、予防的対応ができるようになります。

評価と治療は車の両輪

状態像が把握できれば
何をすべきか
何を為さざるべきかが
浮かび上がってくる

だから
その方固有の望ましい声かけ
言わない方が良い言葉も
浮かび上がってくる
 
予防的対応を心がけることも可能となります。

漫然としたリハ


認知症のある方に
「これならできるから」といって
根拠もなしに塗り絵をさせておくと
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

漫然としたリハの改善というと
必ず表面的に捉えて、毎回違うプログラムをする
という人が出てきますが
「A」というプログラムを「B ,C,D」に単に変えただけで
「漫然と」行っているにすぎません。
これも問題のすり替えにすぎません。

「漫然と」というのは
目標との関連性なく、達成の可否についても検討されることもなく
個別的な背景や経過への配慮や必然性についての検討もなく
という意味なのではないでしょうか。

ROM-Ex.や筋力強化を毎回行うことが問題ではなくて
ROM-Ex.や筋力強化のどこがどう
能力維持、暮らしの維持に結びついているのか
ということを明確化できないことが問題なのではないでしょうか。

必要なことであれば
毎回同じことを繰り返すべきですが
必要でなければ
同じことでも違うことでも
提供の質・意味と目標達成の手段としての適否が問われるべきなのではないでしょうか。

「漫然としたリハ」という言葉で問われていることは
リハ提供者の組み立て、思考であり
目標達成との関連性や可否についての検討の有無ではないでしょうか。

高齢者の場合
暮らしを維持していくことそのものが目標となることが多々あります。

時に
目標設定に関して
養成校の教員や実習指導者から
「維持は目標じゃない」と言われたという声をしばしば聞きます。

これも問題のすり替えであって
維持も立派な目標です。
問題は暮らしのどの部分を維持することがなぜ重要なのか
そのために何が必要なのか
リハ提供者が明確化できていないこと
が問題なのです。


声かけ再考:感覚ー判断ー行動

 


認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

私が「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の人が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
私が尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動
を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じるー尿意と判断できるー尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする ーおしっこ    ートイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる声かけの段階を踏まえて尋ねることが重要です。

そのかたが「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られてしまいます。

その方が再認できる方であれば
「もぞもぞする」のは「おしっこ」なんだ。
「おしっこ」の時は「トイレに行く」んだ。
ということを思い出せるようになります。

この時に大切なのは
「おトイレにご案内いたしましょうか?」
と敬語で尋ねることではないのです。

理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる
ということができるかどうかが重要なのです。

「帰りたい」と言われたご家族は

 


認知症のある方に「帰りたい」と言われたご家族は
得てして
「まだ帰れないのよ!」と言いがちですが
「まだ帰れないんだって」と穏やかに答えることを推奨しています。

「帰りたい」と言われると、
ご家族も困ってしまって、なんとか言って聞かせようと思うのか
「まだ帰れないのよ!」とお答えになるケースがとても多いです。

でも、言われた認知症のある方の立場に立つと
ご家族が施設・病院職員の側に立ってしまったように感じて
疎外感を感じてしまうんじゃないかなーと思っています。

「まだ帰れないんだって」という言葉は
ご家族の判断ではなく、帰れないのは施設・病院の判断というニュアンス

伝えることができます。
(実際に判断するのは施設・病院の側ですし)

認知症のある方が「ご家族は自分の味方」だと感じられるように
現実問題としてはご自宅に帰るのが難しかったとしても
「まだ帰れないんだって」と言うことで
気持ちは認知症のある方の側にあるのだと
暗黙のうちに伝えてほしいと思います。

グループワークの功罪

 

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼元におかしなことだと意見したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもので
こちらの思い込みで「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、仮の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確でファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
そうでないことも多々あります。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるようですが。。。

根本的な問題は
教えるべきことを教えられる人が少ないという現状があって
そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていなくて
心意気、真心、優しさなんてよくわからないことで対応できると思われていること
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと
があると思う。

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんですよねぇ。。。
  
それって、例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
(どうしたら良いのかを教えるのではなくて)
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、
学生も本質を理解することができなくて当然だろう
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
いくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、今、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハスタッフが要請されているのではありませんか?

かつて「恍惚の人」が与えた印象はとても強く
(確かに認知症のある方の一側面ではありますが)
忌避されるようになり
反動のように「優しく否定せずに」と言われるようになり
まだまだその渦中にありますが
認知症のある方にも適切な対応ができるように
真の専門家が要請される時がきっときます。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?
  

凄い!「国語力とは」


凄いサイトを見つけました!

「 ふくしま国語塾 」
なかでも「国語力とは?」というページはぜひ全文読んでみてほしい。

脱帽です。
見事に核心をついています。

私たちの分野とは全く違う分野ではありますが
技術の伝達、教育ということに関しておおいに目を開かされる思いをしました。

一見して、他とは一線を画していることが伝わってきます。
しっかり読み込んで理解を深めたいと思えます。

よかったら、ぜひお立ち寄りください!


筋力低下廃用論に惑わされない

 
高齢→筋力低下→廃用 といった論調は
一見正当のように見えるので
リハやケアの分野では流布している考え方ですが
疑問を抱いた方はいませんか?

高齢者に「立ち上がり」をリハプログラムとして提供している方は
本当にMMTをしましたか?
MMTがどの段階であれば筋力低下で、どの段階であれば筋力OKなのでしょうか?

私は過去に複数のALSの方を担当したことがありますが
筋力低下とは、まさしく力が入らない状態です。

CVA後遺症や認知症のある方など生活期にあって
「筋力低下」と判断された方々との状態は全く違います。

見た目、結果として「立てない」=筋力低下 ではありません。

生活期にある方の場合に
立ち上がり時に腰背部の筋肉が同時収縮を起こしてしまって
気持ちは立ちたくても、身体が立てないように機能している例は枚挙にいとまがありません。

筋力が低下しているのではなくて
筋力の使い方が下手になっているのです。

以前、老健に勤務している時に
担当のPTが個別リハをやっていましたが
立ち上がりが自力で行えず、ずっと介助されていました。
ところが、私が座る練習だけして、立ち上がりは全介助で行ったら
一人で立ち上がれるようになって「あれ?立てた?」と驚かれたことがありました。
同じようなケースはたくさんありました。

老健ですから、個別リハの他にも生活リハとして
食事やおやつや排泄介助の時にも立ち上がれるように援助がなされます。
一日何回になるでしょう?
廃用ではないんです。

身体の使い方を教えなければ

立ち上がり100回なんて、効果がないどころか逆効果になってしまいます。

リハやケアの分野では
一見正当そうに見えて、その実不適切なことが流布しています。
「立ち上がり100回」もその一つです。
今すぐにそんなことはやめて、「座る練習」を取り入れていただきたいと思います。

「座る練習」でのポイントは重心の移動方向を適切に導く ことです。
力を入れない、踏ん張らない、身体の動きと重さを活用することがポイントです。

 

周東選手のインタビュー


テレビ朝日の「緊急特報!侍ジャパンWBC世界一の熱狂」を見ました。

メキシコ戦で代走に出た時のインタビューに対する答えが
「村上選手がどっちに打つとどのくらい飛ぶのか
 わかってないといざという時に対応できないから
 それは練習の時からよく見るようにしていました」
でした。

代走に出る
ということは、一瞬のチャンスに賭けた時
チャンスを最高に活かすために
最適な判断ができるために
それだけの準備をしているのだろう。
たぶん、インタビューで語った以上のことも。
そして、おそらく当たり前に。

プロとしての凄みの一端に触れた思いがしました。

どうしても、人の目を引くのは
華やかな結果だったりするけれど
その結果を支えるどれだけの不断の努力があるのだろうと思った。

ポジショニングの工夫とココロ


私は仕事をする前に必ず電子カルテで対象者の方の経過を
確認するようにしています。

夜のうちに何かちょっとした体調不良があったかもしれないし
寝不足になっているかもしれない。
認知症のある方の方から
「実は昨夜。。。」と教えてくれることはないので
必ず確認しています。

モノゴトには、必ず経過と背景があるので

ポジショニングもそうです。

対象者の立場からしても
今までどのようなポジショニングを設定されてきたのか
その蓄積が今の姿勢に反映されていますし
職員の立場からしても
設定通りにできない場合には、それなりの経過と背景があります。

こちらが受け取った深みに応じて
対象者の方が反応してくれていると感じています。

対象者の方は、まさしく自分ごとですから

ポジショニングに限らず
Activityの選択と場面設定や身体面のリハに
状態像把握の深みが反映されるのと同じだと感じています。

ところで
看護介護職員の勤務体制は職場によってさまざまです。
デイや訪問系の職場であれば、日勤体制で曜日ごとに異なる対象者を担当しますが
病院では変則交代勤務となっています。
病院によってはウイング固定制の職場もあるかもしれませんが
日勤でも勤務日ごとに異なるウイングを担当する職場の方が多いのではないでしょうか。

一概には言えませんが
対象者の経過を把握しにくかったり
情報共有がしにくい背景、勤務状況があるのかもしれません。

リハスタッフと看護介護間の情報伝達や共有化が困難という場合には
必ず、看護介護間でのそれらの問題があるものです。

  そういった問題が少ないという職場では
  管理職が何らかの対策をしているものです。

  対策をしている管理職であれば
  こちらが伝達の工夫・配慮をしていることに気がついて
  声をかけてくれたりします。


看護介護の中での情報伝達の不徹底が
リハスタッフとの間で表面化するというのは
残念ながら現場あるあるの一面
ではないでしょうか?

そのような状況を踏まえて
リハスタッフとしてできることは
情報伝達において伝え方への配慮だと考えています。
情報伝達が徹底されにくいという現状を踏まえて
そのような状況でも適切なポジショニングが行われるように考える。

 
看護介護職が扱う対象そのものに
ポジショニングで言えばクッションそのものに
イマ、ココでの操作を語らせるという工夫です。

経過や状態や意義の把握ができていない職員であっても
結果として設定ができるように。

そのためには、何よりも設定者自身が的確にポジショニングできること
ポジショニングに際しては
個々の方に応じて、ポイントというのがありますから
そのポイントを把握できることが肝要です。

多くの他職種は全身のアライメントを確認せずに
自身の気になるところ(股関節の外転だったり膝の伸展だったり)を
操作しようとする傾向がありますから、それを踏まえて
そうはならないように予防的に対応するという意図を持っていることも必要です。

対象者の状態像と環境因子としての職員の状況を
経過や背景を含めて認識できていればいるほど
的確なポジショニングと的確な伝達が行えます。

対象者にとって
適切なポジショニングが行える職員を増やすことになり
対象者が安楽に過ごせ、能力発揮しやすくなる時間を増やすことになります。

さらに踏み込んで言えば
「対象に工程や操作を語らせる」「場面に語らせる」という手法は
認知症のある方に対して、様々な場面で通用する方策でもあります。

近時記憶障害によって、モノゴトにつきものの経過や背景を忘れてしまったとしても
遂行機能障害によって、適切な操作が行えなくなってしまったとしても
イマ、ココで為すべきことをできるように促すことができる

それは、普遍的な考え方だからだと考えています。
だからこそ、認知症のある方への
「敬語を使う」「なじみの関係」「褒めてあげることが大事」などといった
一見正しそうでいて、その実あまり役に立たないスローガンを普及させるよりも
本質的に役立つ考え方を広めていきたいと考えています。

ただし、
本質を実践するには、地道な日々のトレーニングが必要で
その過程において、自身の未熟を嫌というほど思い知らされます。
自身の鍛錬が求められる、安易ではない方策なので
耳に優しい言葉でもありません。

過去に
常識とされている概念に対峙する概念や
まったく新しい概念が提唱された時に
必ず全否定されてきました。
古くは、ガリレオに始まり、ゼンメルワイスしかり、小笠原登しかり。。。
けれど、提唱された概念が
本当に正当であれば必ずや歴史がその正当性を証明してくれます。

ということは、彼らだけでなく、彼らの周囲に
細々とであっても伝え続けてくれた人々の存在があったということです。
そこに未来への希望があります。



  

ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を紹介しました。


さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、次の記事で