
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
ますます良い年になりますように!
12月 23

中井久夫の言葉で
「病気になる前より良くならないと」っていう言葉があったと思います。
「病気になる前はどこか不安定さがあったんじゃないか
そんな不安定さのあった病気前よりも
もっと良くなることが本当に良くなったってことじゃないか」
というような趣旨だったと思います。
前の記事で紹介した、かきこまないトレーを使っていた方は
もともとは、かきこみ食べをしていたので
1口量を減らそうとして小さなスプーンを提供したようですが
かきこみ食べは良くならず、誤嚥性肺炎になってしまいました。
誤嚥性肺炎からのリカバリーで単に食べられるようになるだけでなく
病気になる前よりもっと良くなる
かきこみ食べをせずに自力摂取できるようになる
ということが本当に良くなったことだと思っていますし
重度の認知症のある方でも現実に前よりももっと良くなった方を多数経験しています。
ほとんどの人は
「認知症→能力低下→不合理な食べ方・誤嚥性肺炎」
という認識をしていますが
事実は違います。
「認知症→過剰努力・過剰適応→不合理な食べ方・誤嚥性肺炎」
なのです。
ここで、なぜ、過剰努力や過剰適応せざるを得ないのか
というところが最も問題だと考えています。
ほとんどの人は、まず何が起こっているのかの判断ができていない
説明しても、判断を理解できなかったり受け入れなかったりします。
少数の人が理解できたり受け入れてくれますが
次に必要なのは、適切な判断を具現化するための技術です。
技術が伴わなければ、正当な判断をカタチにして見せることができません。
判断の問題、具現化する技術の問題と二段階の問題が混在しているのですが
解きほぐして目の前でやって見せても
ごく少数のわかる人には感服してもらえますが
わからない人にはわからないものです。
ここでまた自分がわからない、できないとは認めずに否定してくる人もいます。
仕方ありませんねー。
河合隼雄は「そう」って答えてたそうです。
なるほど。なるほど。
このようなことは現場あるあるなので
認知症のある方の過剰努力や過剰適応を解消・改善できる人というのは
ごくごく少数派です。
講演やサイトを訪れてくれた人の感想で
「モヤモヤした気持ちを明確にしてくれた」
という感想をいただくことがしばしばありますが
現実に起こっていることの「判断」レベルで
無自覚でも問題意識を抱いている人は確実に増えていると感じています。
あとは「技術」レベルで具現化できる人が増えていけば!
重度の認知症のある方でも
誤嚥性肺炎の前よりもっと良くなることは可能です。
逆に言えば
良くなるはずの方がそうなっていない現実もあるということです。
12月 09

認知症のある方でかきこむようにして食べる方っているでしょう?
器を口につけてスプーンは使うけど補助的な使用になっていて、
ほとんど器を傾けて口の中に流し込んでいるような食べ方をする方。
そのような時に誤嚥防止として小さなスプーンを提供するのも現場あるあるですが、
それでは効果がないどころか逆効果になっていませんか?
認知症のある方が「これでは1口量が少ない」ということがちゃんとわかって
もっと食べようとしてますますかきこみ食べをしてしまうという。。。
根本的には、
かきこみ食べという表面の事象のみ観察して
小さなスプーン提供という表面的な改善を考える、
その思考過程そのものが問題なのですが、
このような思考過程は現場あるあるです。。。(^^;
かきこみ食べをする方には、
その方にとっての必然がありますから、まずはそこを観察しないと。
スプーンを使って食塊をすくうというのは難しいものです。
すくうことができるだけでなく1口量の調整ができなければなりません。
ところが、上肢操作能力が低下していると
代償として器を口元に持っていき口で取り込むようにして食べたがります。
ある意味、自身の上肢操作能力の不十分さを感受・自覚しているからこそ
上記のような代償をするわけです。
能力の不合理な発揮になっています。
能力を合理的に発揮してもらえるためには、
さほど「不十分でなく上肢操作ができた!」という体験が必要です。
ところが、たいていの人は「スプーンで食べてね」と言うだけです。
私たちの仕事は「スプーンで食べて」と言うことではなく
「スプーンで食べられるようにする」のが仕事です。
そこで写真のトレーを作ってみました!

食事の場面で「器を置いたまま食べて」と言うのではなく
「器は置いたまま食べるように」対象に語らせる。
器は置いておくのだということが視覚的に伝わるような設定です。
自助食器がすっぽり収まるようにお菓子の空き箱をくり抜きます。
箱は防水加工されている包装紙(ダイソーで購入しました)で包みます。
多少の食べこぼしがあってもおしぼりで拭き取ればきれいになります。
箱が潰れないように裏側はスポンジで固定しました。
これで、「すくって食べる」という体験学習を重ねることができます。
すくう動作が改善すればするほど器を持ち上げる必要はなくなりますので、
上肢操作能力が改善され、結果として、かきこみ食べの防止が行えます。
口腔機能が保たれている方であれば全粥の方が1口量の調整がしやすいのですが
そうでなければミキサー粥を選択します。
ミキサー粥は塊となっているので、そのまま提供すると塊のままこぼれてしまいます。
そこで事前にミキサー粥を細かくクラッシュしてから提供するようにしています。
これで多すぎる1口量をすくっても、ミキサー粥の方がスプーンに適正量残ってくれます。
おかずは、ペースト食にすると1口量をすくいやすいものです。
食形態は、口腔機能だけで選択するのではなく
上肢操作能力も含めて選択するようにしています。
11月 25

ポジショニングや食事介助は
適切に行えれば効果がその場で出ることはもちろんですが
次の機会にも良い影響を与えるものです。
例えば
ポジショニングを朝適切に設定できれば
次に体位変換をする時にも身体はリラックスしていて
スムーズにポジショニングが設定できます。
逆に
ポジショニングを適切に設定できなければ
次に体位返還をする時に身体の筋緊張が亢進したままなので
余分な力を必要としたり
上手く設定できなくて修正も大変で時間がかかってしまいます。
食事介助や口腔ケアにおいても
適切な介助ができれば
対象者の持っている能力が発揮されるので
対象者も食べやすくなり
介助者も負担が減って楽になります。
その能力発揮は次の介助場面でも発揮されるので
どんどんと楽になっていくものです。
ポジティブな体験送りを認知症のある方とスタッフの協働で行えるようになります。
逆に言えば
無理矢理食べさせたり、歯ブラシを口の中に入れたりするような
介助者の行為は、その場では仕方ないと言う人もいるかもしれませんが
感情記憶は蓄積していきますし
重度の認知症のある方でも再認できる方は大勢います。
(たとえ、言語表現力が限定していて言葉にしなくても
感受している可能性は大いにあります。)
歯ブラシを口の中に入れるという特定の場面で
前回の苦痛な感情を伴う体験を再認できるからこそ拒否する
という方もいるのです。
この局面だけを切り取って、拒否するのは認知症で理解できないから仕方ない
拒否しても口腔ケアはせねばならないと考えて無理矢理口腔ケアをしていては
いつまで経っても口腔ケアに協力してもらえないどころか
ますます悪循環になって口を開けてくれなくなったり、
口腔ケアをしようとするスタッフの指を噛んでしまうことすら起こりえます。
ネガティブな体験送りをスタッフがしてしまっているのです。
その方それぞれに苦痛でない方法、受け入れやすい口腔ケアの模索を考えるべきです。
「わかっちゃいるけど、時間がないからできないのよ」
と言う人は時間があってもできない人です。
その場の3分を惜しんで長期的に10分の時間を所用することに
なっていることがわからずに「大変」「忙しい」と言う人です。
適切なポジショニングを実現できて、
その意義も実感できている人はきちんと実行しないではいられません。
適切なポジショニングをできれば設定に必要な時間は短縮されます。
どんどん短縮されるものなのです。
食事介助でも口腔ケアでもまったく同じコトが違うカタチで起こっています。
「ちゃんと介助したいけど時間がないから難しいのよね」
と言う人は、本当は発言した人自身が時間の有無に関わらず
「私はちゃんとした介助ができないんです」と公言しているも同然なのです。
そのような人は
自身の不適切な介助への自覚がなく、自覚がないから自己修正もできないので
次の人にマイナスの体験を送ってしまうことになります。
対象者と次の人が大変な思いをしながら
もう一度食べる再学習を促すことができれば
プラスの良循環が起こります。
つまり適切な介助ができない人のツケを
対象者と適切に介助できる人が払わされるという構図になっているのです。
食事介助もポジショニングも生活期の初期にはさほど目立ちません。
対象者自身のレジリエンスが高いからです。
軽度の方が短期的に利用する施設ではなく
特養(介護老人福祉施設)や長期入院・入所が可能な施設において
当初はそうでもなかったのにレジリエンスの低下とともに表面化してくることがわかると思います。
逆に言えば
「そんな人はいないから関係ないもん!」ではなくて
予防的に適切な対応ができるようにきちんと申し送りができることが大切です。
きちんと申し送る。。。というのは再現性を担保できる
ということです。
つまり、自分自身で常に適切に対応できるからこそ
ポイントが把握できていて
なおかつ、他職員が対応し損ねてしまいがちなポイントも把握できている
そこを明確に言語化したり視覚化することができる
ということを意味しています。
11月 11

リハやケアの分野で
「その人らしさ」という言葉を聞いて
プラスのイメージを抱く人は多いと思いますが
さて、「その人らしさ」って何ですか?
「その人らしさを大切にする」「その人らしさを尊重する」
とは、リハやケアの分野でよく聞く言葉ではありますが
私たちのどういう言動がその人らしさを大切にすることで、
どういう言動がその人らしさを尊重していないことなのでしょう?
リハやケアの分野あるあるなのは
なんとなく喧伝されていることに乗っかってしまいがちなことです。
具現化する努力よりも唱え合うことで満足してしまいがちなことです。
本来、「その人らしさ」にプラスもマイナスもありません。
「その人らしさ」がプラスに働くかマイナスに働くのかを
決定づけるのは、その時の状況です。
認知症のある方の場合に
物事をきっちり遂行するタイプの方が
きっちり遂行するよりも優先すべきことを判断できずに
周囲にとってちょっと困った行動に見えることもあります。
例えば、集団でのActivityの後に
自身が座っていた椅子をきちんと机の中に入れてくださり
その隣の椅子も同様に片付け、さらにその隣の椅子も。。。と
「きちんと片付ける」ことに集中してしまい
なかなかお部屋に戻れなくなってしまったり。
例えば、他者への気遣いを行動で示すタイプの方が
自分が座るように促された席に職員を座らせようと思って
違うところに移動して何をどうするのかわからなくなってしまったり。
その人らしさがあるがために
動作干渉となってしまい、近時記憶の低下によって
そもそもの目的、何をする予定だったのかがわからなくなってしまう
他者に助けを求めることができなかったり
周囲に誰もいなければ自分でなんとかしようとしてドツボにハマってしまう
。。。ということもよくあることです。
その人らしさは諸刃の剣となって現れる
「その人らしさを大切にする」
「その人らしさを尊重する」
と言う人は多いですが
私には具体的に現実的に何をどうすることを意味しているのかがわかりません。
だから私はこれらの言葉を使ったことはありません。
そのかわり、その方自身が大切にしていることは何なのか
普段の場面から観察・洞察するようにしています。
長年大切にしてきたであろうことがプラスに働くようにActivityを選択したり
長年大切にしてきたであろうことがどのように生活障害というマイナスのカタチで
反映されているのかを観察するようにしています。
そうすれば、生活障害を援助するにあたり
より適切な介助を、より適切な言葉を選び、より円滑に
大切にしてきたこととイマ、ココですべきことを両立させる働きかけが可能となります。
さて、あなたに質問です。
「その人らしさって何ですか?」
端的に明確に答えられますか?
その人らしさって何?
そう尋ねられて端的に明確に言語化できる人は少ないものです。
その人らしさとは、特性のことです。
その人が繰り返し使ってきた行動のパターンのことです。
行動のパターンなので
パターンが良い結果となることも
そうでないこともあります。
認知症のある方の場合
すでに書いてきたように
特性が裏目に出ると生活障害というカタチに見えるので
単に判断力低下と職員が誤認してしまい適切に対応できない
しかも、職員がそのことを自覚できていない
認知症のある方が疑問を抑圧せざるを得ず
本当の問題が表面化しにくい
認知症のある方は表面的に職員の指示に従っても
本当の信頼関係が構築できにくい
というケースがかなりあります。
「その人らしさを大切に」と唱えている場合じゃありません。
繰り返し唱えることで事態が改善されることはありません。
唱える前に、まず概念の本質を理解することが大切です。
概念の本質を理解できれば観察・洞察への道が開けます。
10月 22

メディカル・マークスターさん主催で
オンライン講演が開催されます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024年2月15日(木)19:00〜21:00
「認知症のある方へのリハビリテーション
基礎編〜声かけを視聴覚情報の視点で捉え直し工夫する〜」
2024年2月29日(木)19:00〜21:00
「認知症のある方へのリハビリテーション
事例編〜生活障害やBPSDへの対応の工夫〜」
2024年3月14日(木)19:00〜21:00
「認知症のある方へのリハビリテーション
臨床編〜骨折後のリハ・ポジショニング・Activity・食事介助〜」
参加費は各日2,000円
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
認知症のある方への対応の工夫について
現行踏襲されている方法論の何が問題なのか
どうしたら良いのか
認知症のある方に本当に役にたつことがしたいと思う人に
きっと助けになる内容です。
他では聞けない思考過程を実際の体験談を通してご説明いたします。
抽象論を唱えたい人には向きません。
今、本当に困っている人にこそお役に立てる内容です。
詳細・お問い合わせ・お申し込みは
こちら へ
10月 21

私が大好きな「ゲド戦記」
(映画じゃなくて原作の方です)
なかでも「帰還 ゲド戦記最後の書」は何回も繰り返し読んでいます。
ファンタジーなんだけど
驚くくらい現実を反映してもいます。
臨床心理学者の河合隼雄の本で紹介されていて
それから読み始めたのですが、もっと早く出会えていたら。。。と思った本です。
テナーとコケばばとのやりとりがものすごく深くて鋭くて。。。
テナーという女性は昔ある国の女王として奉られ深い闇の世界に暮らしていました。
コケばばは魔法使いではなく女まじない師として暮らしています。
この本では「知と力」の暗喩として「魔法」が登場します。
ちょっとコケばばの言葉を引用します。
・・・・・・・・・・・・・
p.81より
「(前略)
もし、わしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。もし、おかみさんがあの子みたいに一つしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(後略)」
・・・・・・・・・・・・・
言ってくれなきゃわからない
まさしく、まさしく!
見る目があるから相手のことがわかる。
見る目がなかったら相手に言ってもらわないとわからない。
認知症のある方のほうから
何を怒っているのか解説してくれることはありません。
認知症のある方のほうから
食事介助ではここが食べにくいのでこうしてくれたら食べやすくなると
解説してくれることもありません。
こちらに見る目があれば
何を怒っているのかがわかるし
どこが食べにくくなるかもわかるし
だから、どうしたら良いのかもわかるのです。
臨床能力を高めるうえで最も大切なことは、見る目を涵養することなんです。
検査やバッテリーや理論や論文の読み書きは観察の視点を増やすことはあっても
観察力を磨くことに直結はしていません。
観察力を磨くことに直結するのは基本的な知識の習得です。
ここで怠られがちなのが、概念の本質を理解する力です。
「構成障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「遂行機能障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「目標って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
往々にして、専門用語を使ってはいるけれど
専門用語の概念の本質を理解していなかったりします。
だから、日頃の臨床場面で
五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしたり
トレイルメイキングテストをしているのに
端的に明確に即答できなかったりするのです。
目標を目標というカタチで設定できずに方針や治療内容を目標として設定してしまうのです。
HDS-RやMMSEをとっても
日頃の臨床場面で記憶の連続性がどの程度あるのかを根拠にした声かけができなかったりするのです。
端的に明確に答えられないということは
わかっていないということなので
わかっていないから目の前で起こっている事象からそれらの障害を観察することができないのです。
(時々、わかってはいるけど言葉にできないだけ。と言う人もいますが、それはあり得ません。
わかった気になっているだけなので言葉にできないのです。)
目の前で怒っている方が何に怒っているのかを
観察できないのは、こちらの能力不足のせいで
認知症のある方が怒るには怒る必然性があって怒っています。
その必然性は、その時その場のその関係性の中にいるあなたにしかわからない。
私たちは専門家としてそれだけの責務があるのです。
「あの人はすぐに怒る」
確かにそうかもしれません。
でもそれって専門家でなくてもその程度のことはわかりますよね?
怒りという形で表現しているもの、怒りに反映されている能力と困難と特性を把握できるから専門家なのではないでしょうか?
認知症だから
能力が低下しているからすぐに怒る。とは限りません。
むしろ能力があるからこそ、すぐに怒る方だっています。
見当識と記憶が曖昧になると
現実の体験・感情と、過去の体験・感情が混同されてしまうことも起こり得ます。
そこを解きほぐさないと。
どうしたら良いのかは、その次の話です。
たいていの場合に
専門家としてすべきことをすっ飛ばして
「どうしたら良いのか」悩んでいるわけです。。。
だから、適切な解を見出せるわけがない。
私は生活障害の場面から
反映されている能力と障害と特性を観察しています。
障害を観察するには認知症固有の知識が必要ですが
臨床家としての基本的な臨床態度は
どの障害・疾患・分野でも共通しているものだと考えています。
認知症に関する質問を受けて
私が危機意識を抱いているのは
これって本当に認知症限定のことなんでしょうか?ということです。
認知症はOTが対象としてから、まだまだ蓄積が少ない分野です。
だから表面化しているに過ぎないのではないでしょうか?
10月 18

「すぐに怒る方がいてどうしたら良いのかわからない」
という質問をたくさんいただきます。
いくら専門家といっても
怒られたら嫌だし怖いですよね。
人として当たり前の感情は否定せずに受け止める。
でも、同時に、貴重な情報収集の機会として活用すべきです。
「怒る人がいる→怒らないようにするにはどうしよう」
というような表面的な対応を考えるのは、もう卒業しましょう。
怒る人は、いったい何に怒っているのかを情報収集することから始めます。
ここでいう情報収集とは
「〇〇に怒っていたのかも」
「△△に怒っていたのかも」
と勝手に考えるのではなくて
認知症のある方が怒った場面を振り返ります。
認知症のある方と自分がいる場面、周囲の環境は
どんな状態だったのか
認知症のある方が感受したであろう視覚情報や聴覚情報は何だったのか
自分は何をどんな口調でどんな風に伝えたのか
その時の距離や身体の動きはどのようだったのか
次に
認知症のある方の
記憶の連続性や見当識、言語理解力や言語表現力を把握できていれば
上記の環境情報をどのように感受し認識したのか推測できます。
そうすれば
回避すべき言葉や口調、表情や態度、場面設定が
自然と一本道のように浮かび上がってきます。
多くの場合に
認知症のある方の記憶の連続性や
言語理解力や言語表現力を把握できていないことが多々あります。
その方の特性も把握できていないので
踏んではいけない地雷を無自覚に踏んでいることもあります。
認知症のある方が怒りっぽいのではなくて
実はこちらの声かけを理解できないから起こっていることも多々あります。
身体的な疾患、つまり具合が悪くて自身の状態を的確に伝えられなくて
怒ってしまうことも多々あります。
怒らせないようにする方法がわからないのではなくて
認知症のある方が何に怒っているのかわからない
どうしたらよいのかわからないのではなくて
何が起こっているのかわからない
つまり、対応の問題ではなくて評価の問題であり
問題設定の問題なのです。
認知症のある方の困りごとを解決しようとするのではなくて
自分が認知症のある方に困らされていると無自覚に判断している
自分の困難を認知症のある方の問題として投影しているのです。
こういった専門家と呼ばれる人たちの現実は
潜在していて表面化していませんが
実は、いろいろな場面でカタチを変えてたくさん起こっています。
まずは
問題設定を変えてみましょう。
そうすれば、情報収集しようと自然と思えます。
10月 14

例えば、ALSをはじめとする神経筋疾患など疾患によっては
喉頭挙上の低下は確かに筋力低下として起こりえます。
ですが、そのような疾患のない、生活期にある方で
喉頭不完全挙上する方はたくさんいます。
ところが
食べ方を観察していない職員は見落としています。
開口が良かったりすると尚更です。
ほとんど喉頭が動かず
咽頭部に食塊が貯留しているのに
食べ方の危険性を把握できなかったりします。
ムセていないから
この、ムセへの過大評価はやめてほしいと思います。
それより
喉頭の動きをきちんと目で見て観察することの大切さを強調してほしい。
喉頭挙上能は、変動します。
姿勢によって
頭頚部の支持性によって
介助者のスプーンテクニックによって
食形態によって
私はかつて
silent aspiration(ムセることすらできない状態)の方に4名遭遇したことがあります。
そのうち3名の方は改善しました。
喉頭がほとんど動かない状態だったのに
介入を初めて3日目には、常にではありませんが、喉頭完全挙上するまでになりました。
この事実をどう考えますか?
筋力ってそんなに簡単につくものでしたっけ?
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