啓蒙と善意の先

今年はcovid-19のために自粛が相次いだとはいえ
昨今いろいろな団体がいろいろなところで認知症啓蒙活動を開催しています。

世の中にはまだまだ誤解と偏見が残っていますから
啓蒙活動はこれからも必要だと思います。
ただし、啓蒙すれば良い、一件落着とはとても思えません。
啓蒙の先にこそ必要なことがあると考えています。

例えば、啓蒙によって
「認知症があってもなくても人に親切にすることは当たり前のことだ」
という普遍的なことの再確認ができるようになった人たちが
認知症のある方に優しく接してみた結果、
怒られたり怒鳴られたり抵抗されたり、
あるいは日々の暮らしを援助しようとしたのに
抵抗されて援助できなかったりする
というケースも水面下では増えてきているのではないでしょうか?

正確に言えば
今までは偏見に基づいた対応をしていた人たちが
普通に接するようになったけれど状況はたいして変わらない
という現実を再確認している人たちが増えているのではないでしょうか?

実際、専門家と称する人たちだって対応に困らない人はいないと思います。
私は複数の機関で研修会を企画・運営する立場でもありますが
研修会終了後のアンケートをとってみると
研修会開催テーマの希望は、「対応について」が圧倒的に多いという現実があります。

つまり、認知症のある方に対して基本的態度を守って
優しく接するだけでは対応の困りごとが減るわけではない。
ということです。

また、啓蒙の場でよくあるパターンが
「認知症のある方を理解しよう」
というものですが
その通りに実践してみた介護ご家族の本音として
「理解したって私たち家族の困りごとが減るわけではない」
という声を見聞きしたことが何回もあります。

それは本当にその通りだと思うんです。
ただ、要請された理解の方向性が違うんだと感じています。

仕事として従事している人にもできないようなことを
介護家族に要請することが間違っているんだと考えています。

本当の理解は
仕事として従事している人にとっても
ご家庭でケアしているご家族にとっても
役立つことはあっても無意味なことなんて決してありません。

気持ちの先に求められているものは
本当に役立つ理解と実践なんだと感じています。

本当に役立つ理解と実践が提示できなければ
「挑戦してみよう。やってみよう」と思った
善意ある人たちの意思をくじいてしまいかねず
善意の気持ちが強ければ強いほど無力感に苛まれ
自分の心を守るために反転してしまうということは容易に起こり得ます。
その矛先が自分に向かえば、介護うつやバーンアウトといった形で現れ
その矛先が相手に向かえば、心身の虐待となって現れます。
虐待について表面的に悪いこと、してはいけないこととして認識・対応されるだけでは
水面下での隠蔽された虐待が増えてしまうのではないでしょうか。
最悪のケースとして、究極の虐待であり、加害者と被害者の立場に同時に立たされる
介護殺人という形になって現れるケースが増えてしまうのではないでしょうか。

善意を支えるためには
他者とのつながりだって必要でしょうけれど介護者の特性によっても異なります。
他者からの励ましによってエンパワメントを受けやすい人もいれば、そうではない人もいます。
後者にとっては、自身の無力感に直面するような日々は一層厳しく感じられると思います。

啓蒙も必要でしょう。
善意の気持ちだって必要でしょう。
でも、それだけで解決できるわけがありません。

これからは
啓蒙と善意の先にあるべきもの
そして現状ではまだ明確化されていないものが
切実に求められるようになってくると確信しています。

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