ポジショニングの工夫とココロ


私は仕事をする前に必ず電子カルテで対象者の方の経過を
確認するようにしています。

夜のうちに何かちょっとした体調不良があったかもしれないし
寝不足になっているかもしれない。
認知症のある方の方から
「実は昨夜。。。」と教えてくれることはないので
必ず確認しています。

モノゴトには、必ず経過と背景があるので

ポジショニングもそうです。

対象者の立場からしても
今までどのようなポジショニングを設定されてきたのか
その蓄積が今の姿勢に反映されていますし
職員の立場からしても
設定通りにできない場合には、それなりの経過と背景があります。

こちらが受け取った深みに応じて
対象者の方が反応してくれていると感じています。

対象者の方は、まさしく自分ごとですから

ポジショニングに限らず
Activityの選択と場面設定や身体面のリハに
状態像把握の深みが反映されるのと同じだと感じています。

ところで
看護介護職員の勤務体制は職場によってさまざまです。
デイや訪問系の職場であれば、日勤体制で曜日ごとに異なる対象者を担当しますが
病院では変則交代勤務となっています。
病院によってはウイング固定制の職場もあるかもしれませんが
日勤でも勤務日ごとに異なるウイングを担当する職場の方が多いのではないでしょうか。

一概には言えませんが
対象者の経過を把握しにくかったり
情報共有がしにくい背景、勤務状況があるのかもしれません。

リハスタッフと看護介護間の情報伝達や共有化が困難という場合には
必ず、看護介護間でのそれらの問題があるものです。

  そういった問題が少ないという職場では
  管理職が何らかの対策をしているものです。

  対策をしている管理職であれば
  こちらが伝達の工夫・配慮をしていることに気がついて
  声をかけてくれたりします。


看護介護の中での情報伝達の不徹底が
リハスタッフとの間で表面化するというのは
残念ながら現場あるあるの一面
ではないでしょうか?

そのような状況を踏まえて
リハスタッフとしてできることは
情報伝達において伝え方への配慮だと考えています。
情報伝達が徹底されにくいという現状を踏まえて
そのような状況でも適切なポジショニングが行われるように考える。

 
看護介護職が扱う対象そのものに
ポジショニングで言えばクッションそのものに
イマ、ココでの操作を語らせるという工夫です。

経過や状態や意義の把握ができていない職員であっても
結果として設定ができるように。

そのためには、何よりも設定者自身が的確にポジショニングできること
ポジショニングに際しては
個々の方に応じて、ポイントというのがありますから
そのポイントを把握できることが肝要です。

多くの他職種は全身のアライメントを確認せずに
自身の気になるところ(股関節の外転だったり膝の伸展だったり)を
操作しようとする傾向がありますから、それを踏まえて
そうはならないように予防的に対応するという意図を持っていることも必要です。

対象者の状態像と環境因子としての職員の状況を
経過や背景を含めて認識できていればいるほど
的確なポジショニングと的確な伝達が行えます。

対象者にとって
適切なポジショニングが行える職員を増やすことになり
対象者が安楽に過ごせ、能力発揮しやすくなる時間を増やすことになります。

さらに踏み込んで言えば
「対象に工程や操作を語らせる」「場面に語らせる」という手法は
認知症のある方に対して、様々な場面で通用する方策でもあります。

近時記憶障害によって、モノゴトにつきものの経過や背景を忘れてしまったとしても
遂行機能障害によって、適切な操作が行えなくなってしまったとしても
イマ、ココで為すべきことをできるように促すことができる

それは、普遍的な考え方だからだと考えています。
だからこそ、認知症のある方への
「敬語を使う」「なじみの関係」「褒めてあげることが大事」などといった
一見正しそうでいて、その実あまり役に立たないスローガンを普及させるよりも
本質的に役立つ考え方を広めていきたいと考えています。

ただし、
本質を実践するには、地道な日々のトレーニングが必要で
その過程において、自身の未熟を嫌というほど思い知らされます。
自身の鍛錬が求められる、安易ではない方策なので
耳に優しい言葉でもありません。

過去に
常識とされている概念に対峙する概念や
まったく新しい概念が提唱された時に
必ず全否定されてきました。
古くは、ガリレオに始まり、ゼンメルワイスしかり、小笠原登しかり。。。
けれど、提唱された概念が
本当に正当であれば必ずや歴史がその正当性を証明してくれます。

ということは、彼らだけでなく、彼らの周囲に
細々とであっても伝え続けてくれた人々の存在があったということです。
そこに未来への希望があります。



  

ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を紹介しました。


さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、次の記事で

  


指編みで作ったマフラー

 


100均で買った薄いベージュと生成りの毛糸を
指編みで編んで鎖状に仕上げたのがこちら ↑

仕上げ方を変えたのがこちら ↓

  
シックで素敵な仕上がりに
とても喜ばれて、仲の良い方のところまで小走りに走って見せに行きました。
見せられた方も「まぁ!素敵!」と満面の笑顔で仰って。
私もとても嬉しかったです。

  よく「褒めてあげることが大事」ってよく言うじゃないですか?
  一見正しそうでいて、その実よくよく考えるととてもおかしなことの一つです。

  だって、褒めるって目上が目下に向かって行う行為です。
  社長が社員を褒めることはあっても
  社員が社長に向かって「よくできました」と言うことはあり得ません。
  認知症のある方は年上のことが多いですよね?

  しかもなぜ「褒めることが大事」ではなくて
  「褒めてあげることが大事」なのでしょう?
  あげると言う文言に、無自覚のうちに本当は褒めるに値しないけれど褒めるのだ
  というニュアンスが含まれているのではないでしょうか?

  本来は
 「それで良い、大丈夫なのだと伝える」
 「ともに喜ぶ」

  だと思うんですよねぇ。。。

記念撮影をしたら
ササっと、3種類もポージング!
カッコいい!

素敵な方が素敵な作品を作るきっかけを作れて
最後の締めまで立ち会えて
私も本当に嬉しい。

認知症のある方でも
近時記憶障害が重度でもActivityを遂行できる方は少なくありません。

その代わり、構成障害や遂行機能障害をきちんと把握して
その上で持っている能力を活かした場面を設定できることが求められます。

認知症のある方の場合には、
若い頃やっていた趣味活動をそのまま適用できないことも多いけれど
その方の特性を把握できると、Activityの選択に活用できます。

「認知症でもできる」「認知症の方向け」ではなくて
「その方が楽しめる」「その方向け」のActivityを検討しています。


私が行っている集団リハ

 


私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

先の記事 「オススメ音楽鑑賞の進行方向」 でご紹介したように
最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では集団凝集性を高めることに注意しています。

音楽鑑賞の後半には、鑑賞しながら水分補給をしていただきます。
この時に私は進行もしながら飲み物の準備や配膳・下膳も行っています。
お一人お一人のペースで水分摂取できるのはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
水分摂取後にもう一度集団凝集性を高めるために全員で体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一をみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み等)

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
常に同時並行課題を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「HELP」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
巷では「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる
ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、HDS-R3点で1分前のことも忘れてしまうような方でも
遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることも少なくありません。

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
場面設定の工夫の余地は生まれます。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案を頑張ってきたことが下地となって役立っていると感じています。

脱線してしまったので
話を元に戻して。。。(^^;
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な課題を提供することは決してありません。

記事へのコメントから考えたこと

 

県士会サイト 「よっしーずボイス」に書いた記事へのコメント を読んで
考えさせられたことがあります。
 
私が返したコメントは
 望ましい臨床思考を明確に言語化してこなかったツケを
 若い人たちが払わされるという構図になっている気がします。
 臨床力を高めるためには、理論や論文の読み書きよりも
 もっと重要なことがあるのに、ここでもすり替えが起こったと考えています。
というものです。

抽象論総論理想論を語るのではなくて、
理想を具現化するために、こうすればいいよ、こうやって考えるんだよと
実践を通して指導できる人があまりに少ないように感じています。

理論の勉強や論文の読み書きは
しないよりはしたほうが良いでしょうけれど
臨床能力を高めることには役立ちません。

ある研究者も下記のように述べています。https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21

科学では、まず「観察」が最重要。理論が観察の邪魔をするようなら、その理論はいったん忘れた方がよい。観察する際の「目のつけどころ」を教えてもらうものとして理論を利用するなら構わないが、あくまでそれは目のつけどころの一つしか示してくれない、という限界もわきまえる必要がある。

ちなみにこの人は、部下や子どもを褒めないそうで、そのあたりの記述も勉強になります。

さて、
話をもとに戻しますが。。。

作業療法士ならずとも
対人援助職あるあるなのが、モノゴトのすり替え・目的と手段の混同です。

「多訴の方への対応」でも書きましたが
対象者の困りごとなのか、自分の困りごとなのか、いつの間にか混同やすり替えが起こります。

食事介助の講演での質問あるあるが
「口を開けてくれない
「いつまでもモゴモゴしていて飲み込んでくれない

言葉には発する人の意思が反映されます。
「〇〇してくれない」
つまり、〇〇してもらえないくて困っているのが介助者だと自分で言っているわけです。

食事介助が
「食べることの援助」ではなくて
「食べさせる」ことになっているから
上手く食べさせられなくて「私(介助者)が困っている」から助けてほしい。と
目の前にいる○さんが上手く食べられるようにどのように関与したら良いのか教えてほしい
ではなくて。

このような混同・すり替えは
安易な気持ちの職員だけでなく、対人援助職の宿命のようなもので真摯な人にも起こりえます。

「実習は楽しく」「仕事は楽しく」「OTは楽しく」
などと言う人は少なくありませんが、ある意味すごいなーと思います。

「精神科作業療法は作業療法士によって潰される」
と言った精神科医の言葉を思い出します。

その医師はおそらく、作業療法のチカラをわかっているからこそ
そう言うしかなかったのだろうとも思います。


ポジショニングの思考過程

  


生活期にある方に対して
ポジショニングを設定する場合に
どのように考えているのかというと

まず、最初にポジショニングを設定していない状態での
全身のアライメントを確認します。

そこで初めてポジショニングを設定する際の
優先事項が明確化される場合もあるし
最初に優先事項が決定していることもあります。

例えば
手指の拘縮が強くてハンドケアが行えないとか
頚部後屈が強くて誤嚥のリスクが高いとか
褥瘡治療のためとか

身体は解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
身体は繋がっているので
必ず全身のアライメントを確認します。

その上で
判断・決定・合意・共有化された優先事項に則って
ポジショニングを行います。

現場あるあるなのが
設定する人が気になっているところだけ見てしまい
全身の関係性へ配慮なく設定してしまうことです。

  よくあるのが、
  膝関節の屈曲拘縮を予防しようとして
  頑張って過剰にクッションを入れて膝を伸ばしてしまうとか。
  あるいは、
  股関節の内転を予防しようとして両足の間に過剰にクッションを入れて
  足を広げてしまうとか。

  手指の拘縮が強いと、手指だけ見てなんとかしようとしてしまうとか。
  自分が気になる部分だけを修正しようとして対応する人がとても多いのです。
  一見するとクッションで修正されているように見えて
  その実クッションを外した瞬間にバーンと一気に手足の拘縮が元通り
  いやそれ以上になってしまう経験をしたことのある人はたくさんいるはずです。

  ここでの問題点、職員側の問題点はふたつあります。
  1)全身のアライメントを観ていない
  2)姿勢・肢位というカタチに反映されている筋緊張というハタラキを観ていない
    表面的にカタチだけ外力的に整えているだけ
    

手指の拘縮が強く、なかなか手を広げることができず
上肢も下肢も伸展位で空中に突っ張ってしまうほど筋緊張亢進が顕著な方でも
全身のポジショニングをきちんと設定してから
手指にスポンジを装着すると上肢も下肢も手指も筋緊張が緩和され
股関節も膝関節の屈曲も容易になり
上腕を外転させることも容易となり
手指を開排させることも容易となります。

ポジショニングを設定する時には
必ず個々の対象者にとってのキーポイントがあります。
人によって
股関節の屈曲位確保だったり
側臥位設定だったり。。。
そこを明確化し、外さないようにします。

その上で
身体と身体、身体とベッドの隙間を無くすように
クッションや古タオルなどを設置します。
つまり、身体の姿勢・肢位保持する筋の機能を代償するのです。
そうすると筋の過剰収縮を防ぐことができ
結果としてリラックスした姿勢を設定できるようになります。

最後に手指にスポンジを装着すると
手指の筋緊張緩和も為され
そのことが同時に筋の近位部である上肢帯の筋緊張緩和にもなり
悪循環を脱却し、良循環が始まっていきます。

生活期の方のポジショニングとは
よく為されているように
良い姿勢を作るために
無理矢理足を広げたり伸ばしたりすることではありません。

その方の本来の可動域、本来の随意性が出現しやすいように
余分な筋緊張を緩和させること
ラクな姿勢を作ることなのです。

つまり
ここでも、改善・修正するのではなく援助する
という視点に依拠した対応をしているのです。

ポジショニングについても
今年度開催予定の勉強会でのテーマのひとつとしたいと思っています。

 


「認知症のある方が食べられるようになるスプーンテクニック・観察・評価」のお知らせ

 

 
日総研出版さんのオンラインセミナー
「認知症のある方が食べられるようになるスプーンテクニック・観察・評価」が配信されます。

2023年4月7日(金)から視聴可能とのことです。
詳細・お申込は こちら へ。

食事介助に関する知見の集大成のつもりでまとめました。

介助に役立つ基礎知識と
評価・実践の一連の思考過程を
ケースを紹介しながらまとめてあります。

眼からウロコの話もあります。

食事介助に困っている方
食事介助を見直したいけれどどうしたら良いのか困っている方
ぜひご覧ください。

食事介助の奥深さと怖さと
認知症のある方の能力について
ぜひ知っていただきたいと思います。


オススメ音楽鑑賞の進行方法

並行集団を運営する工夫
同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

私がしている進行は、まず最初に
こちらからいろいろな曲を提示します。
有名どころの懐メロや演歌を中心に組み立てます。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)

その上で
歌手一覧を作っておいて
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?と問い掛けます。
具体的に選べるように視覚情報として提示するわけです。

「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけるのです。

歌手名から曲名を検索して
3曲くらい言葉で提示すると選んでいただけることが多いです。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に提示できるように取り入れます。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生できる方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70最代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多いと
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
再認に働きかけています。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
  近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
  曲のイントロや終了直後に伝えると
  再認できることの幅が増えるという良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、ただ聞いているだけでもいいし
手拍子してもいいし、口ずさみながら聞いてもいいし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

私としては、こういった意図を持って
音楽鑑賞の場面を運営しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
運営を変わってもらったことがあります (^^;
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた(当時はコロナ渦ではないので)
方たちがまったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。

前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。
このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して自身の能力を発揮することを援助したいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は一緒ですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
視点が自分ごとにすり替えられてしまっています。
このことは、対人援助職にとって必ずぶち当たる当然の壁なんです。
あなたが悪いわけじゃない。
誰もがぶち当たる壁に対する解決の仕方を教えてくれる人がいないことを
理不尽に思うかもしれませんが、これが現実なので仕方ないのです。

「あなたがこの世で見たいと願う変化にあなた自身がなりなさい」
「You must be the change you want to see in the world.」

マハトマ・ガンジーの言葉です。

  

梅の実が!

 


まだ、3月なのに
梅の実が成長していました!

びっくり、びっくり

 

卒後養成の課題

 

  
実習がクリニカルクラークシップ(CCS)に移行したことに伴い
今後ますます就職先での卒後養成をどう組み立てていくかということが
ますます問われるようになると考えています。

資格のない学生が
安心して安全に体験学習が行えるようにするために
卒前の実習がCCSへ移行するのは理の当然なのでしょう。

一方で
従来型の実習に比し、
どうしても主体的な取り組みとはなりにくい構造でもあります。
つまり、学生としての体験学習はしたが
一人の療法士としての体験学習をしていない人を
どのように職場で従事させるか、養成していくかという問題が
起こってはいないでしょうか。

職場によっては
かなりシステマチックに卒後養成に取り組んでいる施設もあるようですが
今後卒後養成の充実度のばらつきが顕在化してくるのではないでしょうか。

今はどの分野の人も忙しい日々を送っている人ばかりだと思います。
一方で働き方改革が進められ(このこと自体はもっともなことですが)
皮肉にもより一層時間的制約が厳しくなったと感じている人もいるのではないでしょうか。

私が就職した頃に比べると
論文をオンラインで読めるようになったり
本も多数出版されるようになり、動画も付属していたり
研修会も協会や士会以外の民間の研修会主催団体が多数あるし
職種横断的な勉強会もたくさんあります。
学ぶ環境はものすごく豊かになってきたと感じています。

学ぼうとする人はどんどん学べるような環境が整ってきている一方で
そうでない人もますます増える構造にある。。。

  どんな世界もピンキリですし
  2:6:2の法則もありますし
  自己責任ですから言ったってキリがないし
  
組織として、専門職としての最低限担保したいラインをどこに置くのかが
問われるようになってきたのではないでしょうか。
もう既に作業療法士は居てくれればありがたいという職種ではなくなっています。

大きな規模の施設にも、小規模の施設にも
個々それなりの課題が顕在化されつつあるのではないでしょうか。

あちこちで開催される研修会の大多数が机上の知識伝達型です。
専門職として、知識の習得は必須ではありますが
「聞いたことがある」レベルにとどまってしまうようでは
臨床家として実践に活用できているとは言えません。

臨床家は
結局のところ、OJTで育っていくものと感じています。
知識と技術は、その時々で深め広げていくもの。

問題設定の問題に絡め取られずに
手段と目的の混同やすり替えに自覚的になれるようにするために
どうしたら良いのか

私が
どの分野にも共通する、臨床家として
最低限これだけは絶対に習得しておくべきと考えているのは
目標設定です。

目標設定さえ目標というカタチで設定できれば
なんちゃってOTにならずに
自分で自分を育てていける
対象者の不利益を回避することができると考えています。

目標設定については、こちら にまとめてありますので
どうぞご参照ください。