喉頭挙上が確認しにくい時は


いろんな方向から確認します。

私は右利きなので
通常は対象者の方の右側から右手にスプーンを持って介助します。

口頭の動きが見にくいなぁという時には
正面から確認したり、対象者の左側から確認したりします。
見る位置が違うだけですっごく見やすくなることがよくあります。

  非利き手側から介助するのは大変ですが
  (介助者が大変だと、食べさせられる対象者も食べにくいものです)
  なにごともトレーニング
  積み重ねていくと非利き手でスプーンを持って介助することも可能になります。

  食事介助の選択肢が広がります。

こういうケースは案外多いものです。
自分が右利きだと対象者の右側から介助することの適否について
自問したり検討することなく
「喉頭の動きが見えにくい方」とレッテルを貼ってしまいがちです。

自身の関与の適否という
対象者の方の言動の前提となっている要件について
疑う、自問する、修正する
という過程は、認知症のある方の環境因子のひとつとしての
関与の適正化という意味でとても大切です。

 

認知症本人発:希望のリレーフォーラムが開催されます


「認知症本人発:希望のリレーフォーラム」が開催されるとのことでお知らせいたします。

クリスティーン・ブライデンと国内の当事者が登壇されるそうです。
詳細・お申込は こちら↓ をクリックしてください。

https://www.dcnet.gr.jp/info/detail/INFORMATION.php?ID=4601

開催日時 2023年10月5日(木)13:00〜16:00
会 場  有楽町朝日ホール
参加費  無料・事前申込制
申込期間 2023年8月1日(火)〜9月8日(金)

忘れられがちな1手間:視覚障害


目が見えない認知症のある方に対して
声をかける時には、毎回必ず名乗るようにしています。

「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 ラジオ体操の時間です。」
「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 そろそろお食事の時間です。」

トイレや着替えや食事など
何を介助されるにしても
誰だかわからない人にされるのは不安だと思います。

視覚障害がなければ
名乗らなくても「こんにちは」だけでも
相手は私を見て「私→どんな人」を察知します。
認知症が重度だと私の名前を覚えられなくても
「私→どんな人」というのは覚えられることが多いようです。
曰く、体操の先生、歌の先生、(毛糸)モップの先生etc.。。。

でも、視覚障害があると、その手がかりがない。。。
だから、名乗ります。
名前を伝えるだけではなくて、
伝える過程を通して「声」と「話し方」を伝えます。

大声を出したり介護抵抗のある方でも
「俺は顔がわかんないからさ、わかるのは声だけだから」
とおっしゃっていたことがあります。

BPSDが激しいと
「認知機能が相当低下している」と誤認されやすいようですが
これらに相関はありません。
むしろ、認知機能障害が軽度の時ほど不安感が強いのでBPSDが激しくなる
ということはよくあります。

BPSDや生活障害が重度だと
職員の側がつい、「大声がひどい〇〇さん」のように
BPSDや生活障害を形容詞化してしまいがちですが
そうすると〇〇さんの能力やBPSDや生活障害を起こしていない状態を
見落としてしまいがちです。

  言葉には無自覚の意識も反映されます。
  例えば食事介助で
 「Aさんは100%入りました」という言葉を聞いたことがあります。
  入った。。。なるほど、口の中にどう入れるかという観点で介助していれば
 「100%入った」「食事が入りません」という言葉が口をついて出てくるのも
  うなづけます。。。
  「大声がひどい〇〇さん」という言葉を使ってしまうことで
  〇〇さんが大声を出さずに過ごせている場面を見落としたり
  大声は出すけれど
  発揮している能力に目が向きにくくなってしまう恐れがあります。

言葉と概念は密接に結びついています。

視覚障害を持つ認知症のある方に
毎回その都度、名乗ることは確かに1手間かもしれませんが
たった3秒でこちらの配慮を伝えることができるとしたら
その3秒を惜しむ理由が他にあるとは思えません。

ちなみに
「声しかわからない」とおっしゃった方は
大声や介護拒否もありましたが
ラジオ体操や個別リハ、食事介助など何かすると
必ず「どうもありがとう」「お疲れさま」とおっしゃる方でした。
私が名乗ると必ず「はい、よっしーさん」と復唱される方でもありました。

忘れられがちな1手間:帰宅要求


以前の記事で
ポイントほど見落としたり見間違える
と書きましたが
実際の対応についても
ポイントほど忘れられがち、実践され損なうものです。

認知症のある方が
「家に帰りたいんです。帰してください。」
と言った時に
私は基本的には復唱しています。

「家に帰りたいんですね」
復唱することで、あなたの気持ちを確かに受け止めました
と伝えることができます。

復唱するための所要時間は3秒ほどですが
復唱しないですぐに話を逸らそうとして
話題を切り替える人の方が圧倒的に多いと思います。

「家に帰りたいんです。帰してください。」
(でも外は雨が降りそうだし)
(もう遅いから明日にしませんか?)
(ちょっと待ってて。今お茶を入れますから。)

文字にされたものを見ると
話を逸らされた、誤魔化された
訴えたことを聞いてもらえない。。。
という印象を持ちませんか?

認知症のある方は
ただでさえ、不安になって困惑して必死になって帰宅要求をしています。
そこで話題を切り替えられたら
もっとちゃんと聞いてもらおうと思って
言語能力が高ければ、
あの手この手で帰らなければならない理由を訴えるでしょうし
言語能力が低下していれば、
もっと大きな声で繰り返し訴えるようになるでしょう。

つまり
帰宅要求のある方に対して
すぐに話題を切り替える対応は
火に油を注ぐようなものなのです。
そして
無自覚にしているから自身の対応が油を注いでいるとは考えられず
もっと上手に話をそらせようと必死になって油を注ぎ続けるのです。。。

その上
自身の対応の結果として起こっていることがわからない職員は
「帰宅要求がひどい」「執拗な帰宅要求」とレッテルを貼るのです。。。

悪循環になっています。。。
 
認知症のある方も職員も
どちらにとってもストレスにしかならず辛いだけで良いことがありません。

「家に帰りたいんです。帰してください。」と言われたら、
(家に帰りたいんですね?)
まず、復唱してみてください。

この一言で
「あ、自分の話を聞こうとしてくれてる」
ということが伝わります。

その方にとっての
帰りたいと思った必然を聴く入り口に立つことができます。

その方の障害や困難、能力と特性を踏まえて
その時のその方の感情を観察・洞察しながら
「何を」「どんな風に」尋ねようかその都度判断していきます。

  ハンス・オフトの言う「状況把握・判断・行動」の実践です。

気をそらせる対応というのは
帰りたい必然を聴く入り口から遠ざけているのです。
認知症のある方だけでなく、自分自身をも。

帰りたいと思った必然を聴く
中がどうなっているのかわからない入り口のドアを開けるのは
勇気がいることです。
心身のエネルギーも使います。
そして何よりも難しい。。。
だから、回避したり否定したりして
その代替としての気をそらせる対応が
ケアの常識のように継承されてしまったのでしょう。
前の記事で書いたように、気をそらせる対応が必要な場面はあるでしょう。
でも、本質的な対応ではあり得ません。

本質的な対応ができるようになるためには
時間がかかります。
技術ですから。
でも、技術であれば習得可能です。

まずは、復唱してみませんか?
そこから観察の道が始まります。

技術の習得には時間がかかる


先週
サッカーのオフトの指導 についての記事を書きました。

人間の目と耳と手って
とてつもなく精巧なインプットもアウトプットも可能なんだと思っています。

こちら↓ の番組を見ていたら
金型に文字を押し込むと文字と金型の隙間がまったく見えなくなる
という紹介があってびっくり仰天!
ものすっごい技術ですけど
「鉄の状態を見極められるようになるまで10年かかる」って言ってて
それはそうでしょうと思いました。

技術がすごいからこそ、習得までの時間がかかる。
時間はかかっても、技術であれば習得できる。

継承されてきた技術と習得の過程を思うと、リスペクトせざるをえません。

世の中では、タイパとかいう言葉もあって
効率が優先されるそうですが
短時間で効率よく知ることはできても、
そんなのごくごく表層的なもので本質とは違うんじゃないかと思います。。。

ただ、タイパから入っても奥深さに気づける人だっているかもしれないから
間口を広くしておくことは必要だと思っています。

こんなの見つけたけど皆知ってた?(ごむてつ)

俺も考えたことはあるけど、専門でもないし実現に至るほど考えたわけではない。

高価ではなく手軽なのが良いよね。

皆、金儲けばっかり考えるけどな。

資本主義だから仕方ないけど。

俺はなるべく金をとらずに、金がかからないことをやるのも考えるのも好き
だからこういうのもとっても好きだ。
金のかからない医療を目指している。日本も貧困化が必至だし。

実際にどこまで有効かはわからないし問題もあるかも?
だけど、試してみるのも簡単だろうし、障害に合わせて工夫すれば良いのでは?

歩行が困難な人も劇的にラクになる!「futto」が実現する自分の力で歩ける喜び|@DIME アットダイム


余談だけど最近はレヴィ・ストロースなど構造主義にちと凝ってます。
昔もちょっと読んだし、それなりに影響も受けてるけど。

前からOTは「実験科学ではなく観察科学だ」なんて言ってたけど。
これからは「野生の思考」「ブリコラージュ」とか「具体の科学」を提唱しようかな?

「奇跡のレッスン 男子サッカー ハンス・オフト答えはすべて基礎の中に」を観た


私は、7月9日の再放送で見たのですが、感動的でした。。。
ハンス・オフトは終始冷静で勝手に私が感動しただけですけど。

以下、オフト語録です。

「シンプルにパスを出したらすぐフォロー」
「トライアングルを意識しながらフォロー」

「シンプルなプレー?わかっているよ。と言いつつも
本当は基礎の大切さをわかっていないことがある。」

オフトの指導は、とても参考になりました。

サッカー以外のトランプで特性を把握したり
基礎を説明した後に、実際に活用させる場面設定の工夫
狭い空間の中でのパス回しから広い場所、大人数でのパス回しへという段階づけ
混乱したら前の場面設定へ戻って再体験

意図が明確で子供たちをよく観てる。
場面設定に工夫があるから、
短時間でも頭と身体を使うハードトレーニングになってる。

常に状況を把握する。
全体を把握した上で判断・行動する。
ボールコントロールの技術があれば、それだけ注意を状況把握に向けることができる。
フェイントとかドリブルとか華麗なテクニックは注目されやすいけれど
基礎があってこそ有効に発揮される。
動きのある場面で発揮することが要請される能力は
動きのある場面でトレーニングしていく。
基礎の反復トレーニングは、要素を分割して行うのではなく
実践の要素を少なくしたカタチの中で基礎を繰り返しトレーニングしていく。

「時間がかかるでしょう。でもそれで良いのです。」
「自分で考えることが明日につながる。」
「シュートはパスと一緒なんだ。」

オフト自身が基礎の大切さを本当によく理解しているから
基礎の活用の段階づけがきめ細かい。
確かに「習得」には時間がかかるし
自分で考えなければ行動変容は起こらない。

  私がバリデーションを学んだのは
  ビッキー・デクラーク・ラビンというオランダ人だったけど
  (オフトもオランダ人だとのこと)
  受講者全員のバリデーションの実践をビデオで見あうという機会もあった。
  任意のテーマを異なる対象者に対して異なる受講者が実践するから
  現れ方は違ってもテーマの意味や目的を繰り返し観察することによって
  理解が深まることを体験学習したことを思い出しました。

卒業試験?としての意味もあったのでしょう。
昨年負けた強豪校との試合が設定されていました。
前半で2得点。
後半は押されたけれど辛抱してもう一度自分たちのリズムを取り返していました。

たった1週間でもこんなに変わる。
そして、これからも変わり続けるのでしょう。

指導者によってこんなにも子供たちが変わるんだ。。。

  かつて、肢体不自由児施設で紀伊先生や古澤先生のデモンストレーションを
  見た時のことを思い出しました。

すごい技術とかすごい指導を見ると
本当に勇気づけられます。


対応で困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に強いられてしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
果たして本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?

  実際には、
  検査・バッテリーは実施はしても、
  その結果を対応に活用することは少ない。
  検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
  検査は検査、実践は実践と乖離していることの方が多い。

  検査のための検査、バッテリーのためのバッテリーとなり
  実践に活かすための検査とはなっていないことが多々ある。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
そう言う人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
観察・洞察力を磨くよりは
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力を
まさしく観て推察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を抜きにして
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。
 
「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、そういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということが無自覚のうちに主眼となり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

これって、あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではあり得ません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てくるから
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深める機会なんです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

今日から視聴可能「オンラインセミナー」


今日から
日総研さんのオンラインセミナーが視聴可能となっています。
 
「【80分で速習】認知症のある高齢者への声かけ・対応」
  https://www.nissoken.com/s/175630/index.html
 「優しく」「否定しない」という言葉は誰もが聞いたことがあると思います。
  でも、それだけでは対応しきれないという現実があるのではありませんか?
  善意からであったとしても「優しく」「否定しない」というのは
  私たちの視点での「スローガン」「モットー」を実践しているに過ぎません。
  「声かけ」を認知症のある方の立場に立って考えてみると
  聴覚情報と視覚情報に他なりません。

  聴覚情報と視覚情報を整理して考え直してみると
  今まで無自覚に使ってきた数々の声かけに気がつきます。
  実際のケースをもとにご説明しています。
  
 
「【80分で速習】
 摂食・嚥下5相で理解する食事中の観察ポイントとスプーンテクニック」
  https://www.nissoken.com/s/175620/index.html
  知っているようで知らない、
 「こんな食べ方をしていたらスプーン操作を見直すべき
  摂食・嚥下5相にそってご説明しています。
  認知症のある方の食べ方は、スプーンテクニックを磨けば大きく変わります!
  認知症がなくても大切なことです。
  全然見ていなかった、気がつかなかった、そういうことだったのか。。。
  きっと見つかると思います。

興味のある方、今現場で困っている方はぜひご視聴ください。
できれば養成に関わっている人に視聴していただければと思います。

クローズアップ現代「追跡 精神科病院でなにが」が放送されます

 


今日の19:30から
NHKのクローズアップ現代で「追跡 精神科病院でなにが」が放送されます。

スタジオには
都立松沢病院の名誉院長の齋藤正彦先生も登場されるそうです。