本は日総研HPから購入できます

「認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック」ですが
1月16日から「一時的に在庫切れ入荷時期は未定です」表示となっています。

お急ぎの方は
日総研出版さんのサイトから購入できます。

研修申込受付開始

2月27日(土)のオンライン研修会の参加申込の受付を開始しました。

主催は神奈川県作業療法士会認知症対策委員会&制度対策部福祉用具班で
福祉用具や市販品を活用して、認知症のある方の暮らしの支援をしていこう
そのためには評価・状態把握・アセスメントが重要という内容です。

詳細は
神奈川県作業療法士会の公式ウェブサイトの「研修会」の
「オンラインセミナー認知症のある方の暮らしの支援」をご参照ください。

今年は梅の開花が例年になく早いです。
年明け仕事始めの日には写真のようにたくさんの蕾がほころび何輪か花開いていました。

寒さは本番となっていますが
春の足音も近づいてきていることを感じました。

みなさま、どうぞくれぐれもご自愛ください。

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。
こちらは快晴が続いています。
寒いけど冷たい空気がひんやりと肌に心地よい。。。

今年は
起こった変化の良い側面を良い方向へ活かせるように
努力していこうと思います。

無自覚の脅し文句ではなくて

 

 

月刊よっしーワールド
「ご家族に苦行をさせない」という記事を書きました。

悪気があるわけじゃなくて
善意からだろうとは思いますが
「ちゃんと食べさせないと体が弱っちゃうからしっかり食べさせて」
「ちゃんと水分を摂らせないと脱水になっちゃうからしっかり飲ませて」
という言葉は実は無自覚の脅し文句です。

リハの場面でもあるあるなのが
「歩かないと歩けなくなっちゃうよ」
「動かないと動けなくなっちゃうよ」
という良かれと思っての無自覚の脅し文句です。

歩かないには歩かない必然が
動かないには動かない必然が
食べようとしないには食べない必然が
水分を摂ろうとしないには必然があるのに
その必然に対処しようとせずに
表面的に歩かそう、動かそう、食べさせよう、飲ませようとする。。。

そのような発想ができるウラにあるのは
やればできるのにやろうとしない、甘えている、という
根本的に相手を信頼していない、という考え方です。
だから、そんなことが言えたりできたりするのだろうと思います。

歩きたくても歩きにくい
動きたくても動きにくい
食べたくても食べにくい
飲みたくても飲みにくい。。。
一番しんどいのは、目の前にいる対象者です。
そして、そばにいるご家族です。

無自覚で悪気があるわけじゃない
むしろ善意からの言葉とわかるから
抗議もしにくい。。。

今の状態は良くない
このままだともっと悪くなる
だから頑張れ

そうじゃなくて

今の状態は本来のあなたではない
でもそうしかできない必然がある
その必然を乗り越えるために一緒に頑張りましょう
そうしたら今より楽になって少しずつ良くなっていく

私はそんな伝え方の方が事実に即していると確信しています。


オンライン研修会のお知らせ

  

オンライン研修会のお知らせです。

2月27日(土)午後に
神奈川県作業療法士会認知症対策委員会&制度対策部福祉用具班のコラボ研修会がZoomを利用したオンラインで開催されます。

「認知症のある方の暮らしの支援」というテーマで福祉用具やアイデアを活用して暮らしを支えていくための評価について、具体的な福祉用具や市販品の紹介やアイデアについてお話します。

詳細は神奈川県作業療法士会のサイトの研修会情報からご確認ください。
https://kana-ot.jp/wp7/lecture/8005/

自分の内を科学的に

 

科学的な態度とは
論文を多数読むことでも
学会で発表することでも
理論に従うことでも
検査をしまくることでもなくて

自分の観察・洞察・思考が
科学的で論理的なものであるように努めることだと思う。

つまり、
自分の外側を科学的なるもので固めるのではなくて
自分の内なるものを科学的であるように努めること
なんじゃないかな。

作業療法が非科学的だと批判された時に
作業療法士がまず第一に為すべきことは
結果を出すことであり
出した結果を明確に言語化できること
今までとの違いを含めて説明できることなんだと考えています。

ちなみに
「カン」というのは
確かにあると思うけれど
「カンというのは無意識下での思考の発露」
というある本の主人公の言葉の通りだと思っています。



観察の解像度を上げる

単に、出来たか、出来ないかを観察しているだけでは
後手に回った対応しか出来なくなってしまう。

自分で食べられたか、食べられないか
むせたか、むせないか
立ち上がれたか、立ち上がれないか
怒ったか、怒らないか
介助に協力してくれたか、してくれないか

それしか観ていないと
今何が起こっているのか分からないから
認知症のある方と環境・場面との相互作用に
後追いして対応することしかできなくなり
行動変容を促すことは難しくなる。

認知症のある方が
環境・場面をどんな風に感受・認識しているのか
推測ができると
先手を打った対応ができるようになる。
先手を打った対応が
認知症のある方の能力をより合理的に発揮しやすいものであれば
行動変容は起こってくる。

仕事はなんであれ
後手に回ったら苦しいだけだから
先手を打っていかないと。
先手を打とうと思うなら
打てるだけの知識を持った観察が必須です。

よりきめ細やかに
解像度の高い観察ができることが
すべての始まり。

臨床能力の基礎は観察力にあり。です。


評論家ではなくて援助者

 


評価=検査ではありません。
ここは、本当に誤解が多いところですが
検査だけをたくさん行っても
それだけでは、認知症のある方の状態像を把握したことにはなりませんし
どのように対応したら良いかは導き出せません。

今は教科書的に
〇〇という疾患には、△△という検査を行う
という蓄積がなされているので
そうするものだ、と思い込まされているのではないでしょうか?

「認知症はわからない」「難しい」「苦手だ」という声をよく聞きますが
通常の身体障害のようには各種検査ができないから
という側面もあるように感じられてなりません。

検査しなくてはわからないことはありますから
すべき検査はきっちりと検査すべきです。
一方で、検査をすれば、状態像が把握できるとは言い切れません。

統合・解釈が困ってしまうのは
評価の一手段として検査しているからではなくて
すべき検査項目だから検査しているという側面もあるのではないでしょうか。

MMSEでもHDS-RでもTMTでも
必要であれば検査すべきではありますが
何点だったかという結果が重要なのではなくて
得られた結果を普段のリハやケアの場面に活用することの方がよっぽど重要で
そのための検査だと考えていますが、どのくらいの人がそのような対応をしているでしょうか?
現実には、検査は検査、対応の工夫は対応の工夫と
分断されていることの方が多いのではないでしょうか?

例えば
「認知症のある方への対応−能力と障害の把握」
 作業療法ジャーナルVOL.51 NO.2 2017
において記述したように
近時記憶が低下している方に
骨折後のリハで立ち上がりの練習をする時には
認知症のある方から尋ねられなくても
「骨折して手術したから立ったら痛いかもしれないが、心配はいらない」
と説明してから立ち上がりの練習をするようにしています。

そして、その頻度は
その方の近時記憶の連続性がどのくらい保たれているのか
を根拠に判断しています。
人によっては立ち上がりの都度説明をしますし
人によってはリハの開始時に1回のみ説明することもあります。

検査をすることが評価ではありません。 
より良い対応をするための 状態像把握が評価 です。
検査はそのための一手段に過ぎません。

病名から想定される障害に沿って検査をもれなく行うことよりも
その時その場で認知症のある方に何が起こっているのかが把握できること
そして、どのような場面で困難が起きやすいのか
それを回避するためにはどのように工夫したらよいのかが
事前に想定できること
そして、それらの根拠について明確に説明できることの方がずっと重要です。

これらができるようになるためには
たくさんの検査を知っていることや実施できることではなくて
その時その場を観察・洞察できることが求められます。

そのためには知識を習得していることが前提であり
観察力・洞察力を磨くことにゴールはありません。

私たちは、評論家ではなくて援助者なのですから




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一見すると
不合理に見える言動の中にも
能力が反映されています。
その能力を見出すことが肝要です。