見通しが立たないからこそ目標を設定する


目標設定が難しいのは、
「対象者の状態像がよくわからない」とか
「やってることの見通しが立たない」から
と言う人もいるようですが、それはまったくの誤解です。
  
「よくわからない」
「確信が持てない」
だからこそ、目標を設定するのです。

目標こそが羅針盤なのですから

予算を立てるのと一緒なんです。

私はかつて
神奈川県作業療法士会の県学会の広報部長をしたことがあります。
そこで、まず最初に予算案を立案するように言われました。
それを聞いてまず思ったことは
「学会の仕事なんてやったこともないのに予算なんて立てられない」でした。
でも、それは間違いだったんです。
やったことがないからこそ、予算を立案するんです。
(別に記事にしますが、通常、納期と予算のない仕事はありません)
  
予算を立てるためには「このくらいかな?」というような当てずっぽうではなくて
ちゃんと正当性のある見立てが必要です。
学会そのものの目標として参加者数の設定がありましたから
それだけの方に来ていただくために
どんな広報活動を展開するか、
どこでどんなことをするか、
その活動に必要な人数と物品は何か
具体的に考えて、一つ一つを確認して
(例えば活動してくれる人の交通費を確認する)
具体的に明確化していく作業が必要です。
これって、カタチは違えど、まさに目標設定の過程そのものです。
突発的なこと、新たに新規活動を組み込む必要が生じた場合などは修正予算を組みます。
想定外で状態像や環境の変更が生じた場合には目標を設定しなおすのと同じです。

つまり
適切に目標を設定しようとする過程において
自分がするべきことが明確化され、実践することが要請される

ということなのです。

目標とは
その人に「必要」で「達成可能」であり「行動」で示される
ものです。


必要」なことを明確化することは難しくないと思いますし
(身体面なのか認知面なのか情緒面なのか環境設定の工夫なのか)
行動」で表現するということは明らかにセラピスト側の技術の問題ですので
これはセラピスト側がトレーニングによって解決すべき部分です。
問題は「達成可能」というところです。
ここは、『現在の』障害と能力を明確化できないと判断できません。

誤解している人が多いのですが
いくら検査をしてもそれだけでは『現在の』障害と能力を把握することはできません。
検査と評価は違うのです。
ところが、「検査=評価」と誤認している人はヤマほどいます。

適切に目標を設定しようと意図した時に
あるいは、目標を適切に設定できているかどうか確認しようとした時に
根拠となるのは目標の定義であり
目標というカタチになっているかということになります。

 
必要なことを行動で表現しようと意図すれば
達成可能かどうか、現在の障害と能力を把握する上で
自信が未確認な箇所や曖昧にしていた箇所が浮かび上がってきます。

予算を設定する時とまったく同じなのです。
あとは、浮かび上がってきた曖昧な箇所を明確にすれば良いだけです。

適切に目標設定することができないという場合
「なんとなくわかってるんだけど言葉にするのは難しくて」
という言い方をする人は多いのですが
本当は、「言葉にするのが難しい」のではなくて

「対象者の現在の障害と能力がなんとなくしかわかっていない」
「自身がわかっていない箇所がわかっていない」のです。
だから、先へ進めない。
だとしたら、曖昧な箇所を明確化すれば良いだけです。
その時に力になるのが、目標という『カタチ』で設定することなのです。

   このような現状を招いた一つとして
   皮肉なことに「やること」の知見が集積されてきたことの

   マイナスの側面があると思います。
   脳血管障害後遺症の方には、〇〇と△△をやる
   大腿骨頸部骨折術後の方には、〇〇と△△をやる
   廃用の方には、〇〇と△△をやる
   といったような言説は巷にあふれています。
   そしてまた、それらの結果、

   できなかったことができるようになったりするので
  「やってよかった」という判断になり、

   振り返りが為されにくいという状況が生まれます。
   だから、ハウツー的思考回路、方法論に対象者を当てはめるような思考回路
   評価と治療が乖離している現状が生まれるのだと思っています。

『現在の』障害と能力を明確化するところで
自身が行き詰まっているということがはっきりしたのだから
自身の行き詰まりを明確化する
わかっていることとわかっていないことを明確化し
わかっていないことをわかるようにすれば良いだけです。

   余談になりますが
   現在の実習指導CCSで最も欠けているのがこの過程です。
   臨床で最も重要なメタ過程とでもいうべき
   自身の思考過程の明確化という体験学習ができない
   という点が非常に大きな問題だと考えています。

ところが、多くの人はその過程に立ち戻ることをせずに
(実習で体験していないからできようはずがないとも言えます)
放置したり(目標と方針と治療内容が同じ文言)
対象者のせいにしたり(認知症のために目標の共有困難)
言い訳をするのです(そのうちわかるよ)

でも、本当は
そのような自分自身に内心忸怩たる思いを抱えているのではないでしょうか。
ただ、どうしたら良いのかわからなくて
次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、なんちゃって目標を設定するというのは
相当辛いことだと思います。
辛いからこそ、今度は「目標なんて臨床ができさえすれば関係ない」とばかりに
表面的に為すとされたことだけしていく
現行流布している方法論にしがみつく
という在り方に舵を切るしかないのかもしれません。。。

だけど、それは砂上の楼閣なんです。
ことは目標設定にとどまらない。
セラピストとしての在り方の根幹に関わる
ことなんです。
困難に遭遇した時に
「そのような状態は対象ではない」
「認知症が重度だから無理」
「言動に迎合し再学習に向き合わない」
といった対応をするということと全く同じです。
概念の本質を理解しようとせずに表面的な対応に終始する。
どの分野でも「個性尊重」「その人らしさ」を声高に唱えながら
やってることは誰でも一緒、一律にハウツーに当てはめてるだけ。。。
まさに、一事が万事というわけです。

目標設定そのものが適切に行えるということ自体、重要なのですが
その過程を通して、下支えしているメタ認識のトレーニングにもなっている
という二重の意味で重要なのです。

目標は「その人がやりたいこと」を設定すれば
目標設定の困難さが解消されるわけではありません。
(やりたいことを尋ねることには意義がありますが)
むしろ、問題の本質をすり替えられ抑圧され
短期的には問題が軽減したように見えて
長期的にはさらなる困難を作ってしまった
ように思えます。
  
事実、認知症のある方の場合に
「やりたいこと」を言語化できなかったり
「やりたいこと」ができなくなっているケースは多々あります。
   疾患特性から「同じコトを違うやり方でする」工夫は
   成立しないどころか更なる混乱を引き起こしますし
   表立った混乱がなかったとしても
   「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」という
   事態を引き起こすことは多々あります。

   結果として「できた」かもしれませんが
   本当に「意味のある」体験だと言えるでしょうか?

   
目標設定で悩んでいるセラピストは本当はたくさんいるはずなんです。

卒前の養成過程では提供すべきとされた知見が激増し
卒後の養成過程では報酬請求と書類記載と出席すべき会議の量に忙殺され
資格取得をゴールと考える人たちが増えてきている状況において
現状改善のためにどうしたら良いのか?
と真摯に悩む人もまた人知れずいるのだと思います。

目標設定で悩んでいる方は、_目標設定_ をご参照ください。
必要であれば、_お問い合わせ_から、研修会講師をご依頼ください。

  

目標設定は技術である


目標設定は技術です。
技術なので、トレーニングが可能ですし、習得も可能です。

「目標設定をうまく教えられない」という人は
1)概念が理解できていない
2)技術をトレーニングするために必要な要素を明確に認識できていないのだと思います。
だとすれば、明確に認識するようになれば良いだけですし
自分でトレーニングしようとする人は意識すれば良いだけです。

1)については、_前の記事_で示したので
ここでは2)について記載していきます。

ポイントは、段階づけと反復学習です。

骨折術後の人に歩行練習をするに際して
いきなり、杖歩行を練習したりはしないと思います。
段階を踏んだ、リハプログラムを提供すると思います。
子どもに料理を教えようとして
いきなり、材料を提示して「ほら、作ってみな」とは言わないと思います。
まずは、工程の少ない献立を選んで
一緒に作るという場を共有し説明しながら作ると思います。

まず、最初に
「目標設定は思っていた以上に難しいものだ」
「自分はちゃんと設定できていない」
という事実に向き合うこと、認識を共有化する
ことから始めます。
 
次に、概念の理解を細かく段階づけしながら体験学習をしていきます。
判断の根拠は、目標の定義
です。

   「周囲の人がそう言うからそうだと思う」
   「以前に先輩がそう言っていたから」ではなくて
    自らが納得して判断できるように根拠としての定義を示すことが大切です。

 
その都度、目標の定義に立ち戻って体験学習を進めていきます。
教える過程において、細かく段階づけができるということは
教える側がどれだけ概念を明確に理解しているかということと関連
します。
概念の本質を理解するということは大切で大変なことだと認識している人は
これらの一連の過程を丁寧に提供することができると思います。
逆に、概念の本質を理解することをすっ飛ばして
手っ取り早く実際的な事例をもとに目標設定させようとする人は
教える側が「自分はよくわかっていない」と言っているも同然なのです。
そして、そういう人が目標と目的と方針と治療内容を混同させて設定したりするのです。
それを聞いた人は、頭の中が「?」マークでいっぱいになっても
どこをどう尋ねたら自身の疑問が解消されるのかがわからないから
質問することもできず、わからないからわかるように教えて欲しいと言えず
次のステップに進まされ表面的に課題をクリアすることを考えるようになってしまいます。
これが現状なのではないでしょうか?

  先日、とても面白いYouTubeを見ました。
  「バレーボールでレシーブの技術を磨く」
  「どうしたら素早くボールの下に入れるか」
  というテーマで、課題分析とトレーニング方法について説明していました。
  知識提供→できることのステップアップ→遂行困難→一つ前の課題をトレーニング
  という展開でとても納得できる説明でした。
  新規事象の学習において、あるいは再学習において
  頭でわかったつもりでも実行できないということは必ず起こります。

  私たちは対象者の行動変容を促すことが仕事なので
  この過程を自身でも体験しておくことは有意義なことだと思います。
  知るー理解するーできる は違います。
  納得できたからといって、すぐに習得できるわけではなく
  地道な反復練習が必要ですが
  「そうだったのか!」「やってみよう」と希望を抱くことができる内容でした。
  コメント欄も「知らなかった」「すごくわかりやすかった」「やってみる」
  というコメントであふれていました。

  バリデーションを学んだ時にも反復練習の重要性を体感しました。
  課された課題を自身と対象者で実践、ビデオに撮ったものを
  受講生で観ながら講師のコメントを聞くという展開がありました。
  同じテーマを異なる対象者と異なる実践者で幾つものパターンを観ることで
  テーマの理解が深まることを実感しました。

 

目標設定のトレーニングも同じです。
概念を明確に言語化して提示
概念を知る→理解する→使える と段階づけて体験学習
していきます。
最初から、リハのケースを使ってトレーニングしない方が良いです。
概念を明確に理解できた後で、実際にリハでよく遭遇する事例をもとに体験学習していきます。
すると、この過程において、実際的な疑問が生じます。
実際的な疑問は、実は概念をより深く理解することと関連していますので
(例えば、基準と条件がどう違うのか?など)
その観点に立って、説明し体験学習するように促します。

詳細は、_目標設定_のページをご参照ください。

つまり、
目標設定を適切に行える
目標を目標というカタチで設定できる
ということは、徹頭徹尾、目標の概念理解ができているかどうか
が問われるので
段階づけてトレーニングすることが必要
ということを意味しています。

行動のカタチで表現できるようになるためには
行動とは何かという概念理解が必要で
その上で段階づけたトレーニングが必要
です。

言い換えれば
段階づけたトレーニングができるためには概念の明確な理解が必要で
概念を明確に理解するためには段階づけたトレーニングが必要なのに
現状では
これら一連の過程をすっ飛ばして
目標の定義を伝え
次に仮想事例で目標を設定させ
当然、的確なフィードバックがなされない。。。
問題の本質は、技術をどう習得させるか、という『トレーニングの問題』でもあります。
つまり、『対象者の行動変容の促し方」そのもの、『リハの臨床能力そのものの土台』の問題でもあります。

目標設定が適切にできるということは、二重の意味でも重要なのです。

目標設定は本来「ちゃんとできる」人が教えるべきですが
残念なことに臨床家でも教育家でも
ちゃんと目標設定できる人は非常に少ないのが現実です。
ですが、自己学習も可能です。
_目標設定_のページで自己学習の方法も展開していますし
必要であれば、_研修会の講師要請_をご検討ください。

対象者の状態の見通しがわからない、ということとは別問題
むしろ、わからないからこそ、目標設定することに意義があります。
これは次の記事で述べていきます。

  
   

目標を目標というカタチで設定する


目標設定について
養成校でも臨床指導者からも
概念理解と技術面の両面をきちんと教えてもらったことのある人の方が少ないのではないでしょうか。

目標を目標というカタチで設定できることが非常に重要なのに
目標設定なんて簡単とか
目標設定が曖昧でも臨床をちゃんとやってれば問題ないとか
思われてるんじゃないかなーと思います。

たとえば
・「活動に参加を促す」
・「現状維持」
また、下記のような実施計画書を見たこともありました。
・「目標:関節可動域の改善・筋力の改善 
  方針:関節可動域の改善・筋力の改善  
  治療内容:関節可動域訓練・筋力増強訓練」
・「認知症だから目標を共有できない」として目標の欄が空欄

これら「なんちゃって目標」がまかり通っているのは、現場あるあるです。
「あ、自分もそうだ」と思った方は
後輩や学生に指導するときに説明できなくて内心困ったことがあるのではありませんか?

でも、ちゃんと説明できなくて
「言葉にするのは難しいけどそのうちだんだんわかってくるよ」とか
「だいたい良いんじゃない」とか
言ってしまったことがあるのではないでしょうか?

内心、モヤモヤとした気持ちを抱きながらも
日々の忙しさに紛れて後回しになってしまい、そのままになってしまったとか
職場の先輩や友人に相談したけれど納得のいく答えがもらえなかったこともあって
そのままになってしまったということだってあるのではないでしょうか。

「冒頭のなんちゃって目標のどこが悪いのか、わからない」という人は
ちゃんと教えてもらえる機会がなくて
「目標とは何ぞや?」ということをわかっていないのです。

ぜひ、こちらのサイトの_目標設定について_を読んでみてください。
きっとお役に立てると思います。

少なくとも
「これは目標だ」「これは目標じゃない」と
目標とそうでないものの区別がはっきりとつくようになります。
つまり、目標の概念を明確に理解できるようになります。
概念の本質を理解する体験ができるのです。

この体験はとても重要です。

臨床で最も重要な観察・洞察を的確に行えるようになるために
それら自身の内なるものを科学的であるように涵養していくための
最初の出発点は概念の本質を理解することだからです。

誤解している人が多いなーと思うことは
「科学的=多数の論文を読む」
「科学的=最新の知見を多数知っている」
「科学的=理論を使用している」
ことだと思っている人の多さです。
もちろん、それらの努力を否定はしません。
しないよりはした方が良いです。
でも、多数の論文をいくら読んだって、
最新の知見をいくら知っていたって
いくら理論武装したって、
肝心の目の前にいる対象者の方が良くならなければ意味がありません
 
ここが重要なんです。
私たちは臨床家ですから臨床能力を高めるための手段として、
論文を読んだり最新の知見に触れたり理論を学んだりするのであって
それらが目的ではありません。
(私がよく言う、手段の目的化が起こっているのです)

かつて、「OTは科学的じゃない」という批判を受けた時に
おそらく、焦ってしまって努力の方向を間違えてしまったのだと思う。

だから、多数の検査をしても
目の前にいる対象者の方の言動から障害と能力を観察・洞察し損ねてしまう臨床家や
検査はしても、その結果を対応や治療に活用できない臨床家が
多いのではないでしょうか?
 
その証拠に
HDS-Rをとっても、その結果を声かけの工夫に活かせない臨床家が多すぎです。
HDS-Rをとることが目的化してしまい、どのように日々の臨床に活用するのかという
観点が欠落し、肝心の実践が為されていないことが多々あります。

立方体透視図模写テストや五角形模写課題をしても
「構成障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったり
トレイルメイキングテストをしても
「遂行機能障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったりします。
そんな状態で認知症のある方に
何が起こっているのか観察も洞察も出来ようはずがありません。
だから「〇〇という人にどうしたら良いの?」というカタチの質問が
あふれかえる。。。
 
評価と治療が乖離している

ハウツー的対応が跋扈するわけです。

その方に対して何をどうしたら良いのかは
その方に今、何が、起こっているのかを洞察できれば
自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。

どうしたら良いのかと
考えたり、悩んだりする時点で
状態像を把握できていないということを示しています。

この時すべきことは
状態像の把握に立ち戻ることです。
状態像の把握ができるためには観察・洞察することです。
観察・洞察ができるためには知識が必要です。
知識というのは
「構成障害という言葉を聞いたことがある」
「構成障害は立方体透視図模写テストをして確認する」
ということではなく、
構成障害という概念の本質を理解できていることが求められます。

目標設定もまったく同じなんです。
 
「目標とは何ぞや?」ということが理解できていないのに
適切に目標設定ができるわけがない。
よく言われる誤解が
「学生や若手だと経験がなくて将来像がわからないから目標が立てられない」と
目標の中身・内容の問題にすり替えられてしまうことですが
ここでも「問題設定の問題」が起きています。
だから、いつまで経っても適切に目標設定できるセラピストが増えてこない。
将来像がわからない、確信が持てないからこそ、目標を設定することに意義があるのです。
(このことについては別の記事で述べたいと思います)

目標設定の基礎は3時間あれば習得可能です。
基礎さえ教えてもらえたら、後は自分自身で蓄積・修正ができるようになります。

そして
今まで曖昧にしていた目標の概念理解が可能となると
リハ領域で今まで曖昧にしていた知識の概念理解を
自己修正しようとする意思が働くようになります。
仮に、多忙のために先送りしていたとしても
機会が巡ってきた時に「これだ!」ということがピンとくるようになります。

まさに、一事が万事

ひとつの表面的な事象を理解するということは
同時にその表面的な事象を下支えしているメタ認識の理解も行う
ことになるからです。

これらの過程は
まさに、私たち自身の Re-Habilis(再び適する) です。


非麻痺側のベタ足歩き


本当に久しぶりに思い出しました。
CVA後遺症片麻痺のある方の 非麻痺側のベタ足歩き 問題

老健に勤務している時に
麻痺側は足関節を装具で固定されていたり、
足関節を背屈するように指導されたりするせいか
麻痺側の足関節は踵接地〜爪先接地の動きがみられても
非麻痺側の足関節には、背屈の動き:踵接地〜爪先接地へという動きがみられず
足底全体をベタッと床面接地して歩く

非麻痺側なのに歩行時の通常の動きが出ていない
非麻痺側なのに能力低下している

というケースが圧倒的に多かったのです。
(非麻痺側ですから、当然、座位で非麻痺側の足関節はきちんと底背屈できます)

実際、それで悩んでいる当事者の方もいました。
「修正しようと気をつけてもできない」と。
この点に関して、過去にウェブリブログで記事にしていたのですが
サービス終了してしまったので、備忘録的にこちらにもきちんと書いておこうと思います。
県士会の_「よっしー」には簡単に記載_していました。

なぜ、非麻痺側にベタ足歩きが起こるのか
それは、身体は身体を守っている、身体はつながっている ということ
必要以上に(機能レベルで能力が高まっていないのに)
麻痺側下肢の動きを外側から修正しようと意識的に表面的に動きを変更させようとすると
身体全体を守る無意識レベルの作用によって
非麻痺側下肢の能力をいったん落としてまで
歩行時の身体全体の安定性を守ると同時に、過剰な要請に応じようとしている
環境適応の現れなのではないかと考えました。

  これについては、
  是非ボバース系セラピストか優秀なセラピストに尋ねてみたいです。
  ROM訓練・筋力増強・立ち上がり・歩行訓練といった

  通りいっぺんの展開をしている人ではなくて。

PTに限らず、OTに限らず、どの職種でも
自分の気になるところだけ見て、自分の意図に沿って表面的に行動を修正しようと
関与する対人援助職って本当に多いのが現実です。

そのような視点、在り方がマズイのですが
食事介助しかり、ポジショニングしかり、Activityしかり、歩容改善しかり。。。

  今、書いていてビックリ!  
  点と点がつながった! 
  線になった!
  ベタ足歩き問題は自分で書いてたのにずっと忘れていました。


平行棒で歩行練習する時にも
「前を向いて歩いて」「顔上げて歩いて」って声かけする人は多いけど、
私はそれはしませんでした。
下を向いて歩く必然があるから、
もしも前を向いて顔を上げて歩くように修正したいなら
その必然に対してアプローチしなければって考えました。
「顔を上げて歩いて」と『言う』のではなくて
「顔を上げて歩けるように」『する』のが仕事
だと考えていました。
このことも_県士会の「よっしー」_で記事として取り上げています。

この記事を書いたずいぶん後で
坐骨神経痛で2ヶ月休職したことがあります。
その時にあるスポーツマッサージの人に治療してもらいました。
その人は某競技のトレーナーとして日本代表に帯同したこともある人なのですが
肉厚の私の大腿部でも(^^;
「これが〇〇筋」「これが神経」「これが血管」と触診できる人で
いろいろなことを教えていただきました。

その人は、表面的に動きを修正しようとするような声かけは決してしませんでした。
「良くなれば自動的に身体が動けるようになる」って言っていたような気がします。
本当にその通りだと思う。当時も今も。

  やっぱり、こうやって出会えてるんだって思い出せた。。。

機能、はたらきを観るって、とっても大事。
でもここで言う機能って、単にROMや筋力のことじゃありません。
ROMやMMTを測定することや
可動域訓練や筋力増強訓練をすることも重要で欠かせないこともありますが
それだけが機能面のすべてではない。
出力としてまとまったカタチで現れる能力に反映されている、プラスマイナス両面の機能のこと。
その下位項目としてROMや筋力があるのに過ぎません。
筋力の問題ではなくて身体の使い方、ハタラキの問題ってことも多々あります。
(その際たるものが_「立ち上がり」_です)
  
「食事を溜め込んで飲みこんでくれない」という見た目に反映されている
舌の硬さや可動性や随意性について観ることと同じだと思う。
現実には「溜め込んで飲みこんでくれない」という
単なる見た目を見ることが観察だと思い込んでる人が多いし
「ちゃんと食べて」って言う人はたくさんいても
「ちゃんと食べられるようにするできる」人は決して多くはありません。
だから、困っている人がたくさんいます。
   
私たちの仕事は「言う」のではなくて「できるようにする」のが仕事なのではないでしょうか。
  

  

2本足で立つ・歩く体験が必要


重度の認知症のある方でも身体的なリハは成立するケースが多々あります。
HDS-Rが1ケタの方でも実施できます。
  
  得点できたということは、
  質問が理解でき質問の枠組みに沿って回答
できたということですから、
  こちらが工夫すればかなり細かな場面設定の中でリハ実施が可能です。
  HDS-R3点で介護拒否・介護抵抗の強い方で急性期ではリハ拒否もあった方が

  きちんとリハを実施できようになったケースもありました。

PTでもOTでも他職種でも
認知症に関する実際的な知識がないと
遂行機能障害や構成障害、観念失行などを観てとることができず
大雑把に「疎通困難」「短期記憶低下」と誤認している場合が多いように思います。
(ちなみに、私は短期記憶という言葉は誤解のもとになるので使用せずに
 近時記憶という言葉を使用していますし、推奨しています)

認知症があると、とにかく歩かせることが優先されてしまい、
また、実際それで介助歩行ができるようになったりするので
なかなか認識を修正しにくいのだろうとも思いますが
実は、立位体験をきちんと提供することの方が重要です。
急性期病院で「歩行獲得は困難、車椅子レベル」と判断された方が
骨折前の移動能力を再獲得できたケースが多々あります。

平行棒や歩行器に両手でつかまって歩くのは、
誤解を恐れずに言えば4本足で歩いている状態です。
とにかく歩けた!ということはすごいことではありますが
4本足で歩くだけでは、先の展開がありません。
平行棒内歩行をいくら繰り返しても安全な独歩ができるようにはなりません。
(時々、自主リハをしていつの間にか安定した独歩をするようになる方もいますが
 それだけの能力があったということです)
4本の足で身体を支えバランスをとるに足る、身体のハタラキを発揮させているだけだからです。

脳卒中後遺症片麻痺のある方のご希望で多いのが
「杖なしで歩けるようになりたい」
というものですが
杖歩行で毎日4キロ歩く練習をしても(その練習を続けること自体、素晴らしいことですが)
それだけでは杖なしで歩けるようにはなりません。
杖歩行というのは、3本足で歩いている状態です。
3本足で長距離歩けるのはすごいことではありますが
2本足で立ち、歩く、体験をしないと2本足で歩けるようになるのは難しいことです。

杖歩行する。。。ということは
杖で身体を支え、バランスをとる、という杖あることを前提とした身体のハタラキ
杖ありという環境に適応した身体のハタラキ
を発揮しているということです。

独歩可能。。。ということは
2本の足だけで、身体を支え、バランスをとる、という身体のハタラキ
杖なしという環境に適応した身体のハタラキがあってこそ、
可能なことです。

人はすべからく
周囲の環境にあわせて心身の働きを発揮しています。
たとえ、重度の認知症があろうが、なかろうが。

だから、環境の一因子としての
介助、対応の工夫の適否
が問われるのです。
正邪ではなくて。
(このあたりをわかってる人は本当に少ない。。。いずれ、記事にしたいと思います)

_「身体障害を合併する認知症に対する上肢機能アプローチ」_で一部、触れていますが
認知症のある方の移動能力に対するアプローチにおいて
丁寧に段階づけされた立位訓練の提供が必要なのに
現場ではあまり実践されていないように感じています。

この理由は、主に、セラピスト側に
認知症に関する実際的な知識がないことによって
大雑把に「疎通困難、短期記憶低下→段階づけされたリハ実施困難」と
誤認していることだと考えています。

認知症に関する研修で多いのが
「言動を否定しない」「優しく親切に」といった注意を提供するというものですが
それだけで認知症のある方に対して実際のリハ場面が改善されることはありません。

現行のリハのどこがどうマズイのか
どう修正したら良いのか
よくある場面を提示して何が起こっているのか

どうしたら良いのかという説明が必要です。

ただ、少数ながらネガティブな感想をいただくこともあります。

前者は、自身の変化を厭わずに良いと説明された方法論をまずやってみようとする人であり
後者は、自身の変化へ抵抗を示す、変わりたくない人です。

学ぶ、ということは、変わることです。

変わりたくないというのなら、なぜ研修に参加するのでしょうか?
他者から「それで良い」と承認してもらいたいくて研修に出ているのでしょうか?

人の受け取り方は、さまざまですし
100人いれば100通りの受け止め方があるでしょう。
それは当然のことです。
その人が拠り所としている方法論や
現行常識化しているパラダイムを
大きく揺さぶるような内容であればあるほど
強く大きな抵抗を示す人も出てきます。
これは_前述_しています)

私は全国各地でさまざまなテーマで多数の講演を行なっていますが
同時に多数のテーマの研修会に受講者の立場でも参加しています。
いろいろな講師がいますが
実例・事例の提示にとどまらず、
受講者が汎化・応用できるように考え方も同時に提供する
講師は非常に少ないと感じています。

本当に必要なのは、実践と理想をつなぐ考え方なのに
単なるハウツーを求める風潮に応じて
単なるハウツーを提供しているに過ぎないケースが圧倒的に多いと感じています。

コスパ、タイパの名のもとに
「こうしたら、あぁなる」
「こういう時には、こうする」
といった、ハウツーに目の前の方を当てはめるような在り方って
「その人に寄り添ったケア」という理念に対して真逆
の在り方ではありませんか?

いろいろな考え方や理論や方法論は
目の前にいる対象者の方の利益のために活用するものであって
考え方や理論や方法論に対象者を当てはめるものではないはずです。

耳障りの良い言葉を声高に唱えながら
実践は真逆のことをしているという、このとんでもない乖離に
心ある人は強く葛藤し
明確に認識できなくてもモヤモヤ感に苛まれている人は、だからこそ余計にしんどくなり
対象者の方の笑顔が嬉しいはずなのに
その笑顔が辛く感じる自分に疑問を抱いている人がたくさんいるんじゃないかと思います。

   

認知症施策に関するパブリックコメント


厚生労働省から
認知症施策推進基本基本計画(素案)及び基本的施策(素案)に関する
パブリックコメントが募集中となっています。
締切は、8月8日23時まで。

詳細は_こちら_をご参照ください。

画面を下方にスクロールすると、素案の内容と関係者会議での主な意見を確認できます。

 

ADL低下予防を実践する時の心構え

 


皮肉だなーとは思いますが
本当に予防できた時って、その効果を誰にもわかってもらえなかったりします。
起こると予測されたことを未然に防げた、つまり、現実には起こらなかったことだから。

私は認知症のある方の
一見、できないというカタチで現れる行動に反映されている能力を見出し活用する
ということをとても大切にしてきました。

そして同時に
一見、できるというカタチで現れる行動に反映されている困難を見出し最小化する
ということもとても大切にしてきました。

わかりやすいのが食事場面です。
食事を自力摂取できている方だと
どんな風に自力摂取可能なのかという質的側面を見落としてしまいがちです。
ものすごい把持の仕方をしていても、
代償的な取り込みをしていても、
「今、自分で全量食べられる」という状態だと「問題なし」と認定され
現在の過剰代償という認識も
将来起こるかもしれない困難があると予測することも
将来起こるかもしれない困難を最小化するための手立てを今とっておくことも
いずれも「何言ってんの?」「ちゃんと食べてるじゃない」としか認識されずに
対応が後手に回ってしまいがちです。
そして、思った通りの事態が生じても、
過去に指摘したことについては忘却の彼方となっていて
議論が進まず、いちゃもんをつけられたとしか受け止めてもらえなくなったりということも
現場あるあるです。

特に食事介助というのは
ご本人にとっても介助者にとっても大変な場面ですから
できるだけ自力摂取を推奨したいものです。
こんな時に説得力があるのは、過去にいた対象者の方の状態像を引き合いに出して説明することです。

  研修会では「事例があるとわかりやすい」のは
  テーマ問わず職種問わず、共通してよくいただく感想でもあります。
  抽象的な説明を具体的にイメージすることが容易となるからです。
  写真や動画があるとわかりやすい、納得感があるというのも同じ理由です。
  ましてや、文化の変容で本を読まない人が増え
  文字情報から視覚的情報を自身で構築するという体験が乏しい世代にとっては尚更です。
 (当人は体験したことがないので説明してもわからないという
  暗黙の前提要件を共有化できないところを踏まえた説明が必要となります)

  
〇〇が起こることを未然に防ぐために△△するというのは、抽象的説明です。
しかも〇〇が起こる恐れがあるということすら知らない人にとっては余計です。
具体的にイメージできないので、「理屈ばっかり言って」と受け止められかねません。
そこで、共通体験として共有できている事例を引き合いに出して状態像を説明すると
聞く耳を持ってもらえることがあります。
  
「Aさんは最初食事自力摂取できていたけど、だんだん食べこぼしが増えたじゃない?
 あれってスプーンと手指のフィッティングの問題で、
 フィッティングの問題を解決すれば自力摂取が続いていた可能性が高いの。
 今、BさんがAさんと同じ状態だからスプーンの柄にこういう工夫をしてるんだ。」
そうすると必ずスプーンの柄に工夫をした時としない時とで食べ方が違うということに
気がついてくれる人が出てきます。
   
このような体験の繰り返しをすると
「よっしーさんの言うことには必ず意味がある」
 (この言葉を言われた時にはすごく嬉しかったです)
ことをわかった上で実行してもらえるようになります。
  
でも、みんながみんなそうじゃないことだって現場あるあるですよね。
そうなるとここで温度差が出てきてしまいます。
工夫したスプーンを使わないから食べこぼしが増えたのに
食べこぼしが増えたのは「認知症のせい」「認知症が進行したから」
という理由づけをされてそれでおしまい。ということも現場あるあるです。
食環境の重要性の認識がなければそのような思い込みに一層の拍車がかかります。
そのような職場環境だと、予防するために為した
さまざまな実践の意味も効果もわかってもらえることはほぼないと言えるでしょう(^^;

でも、諦めないでほしい。
大切なことは、あなた自身の言動を通して世界に表明することだから
誰にわかってもらえなくても
助けた対象者自身にすら理解してもらえなくても
あなたの実践には意味がある。
今は誰にも理解されず辛い気持ちはよくわかるけど
この体験は必ず後になって、線を結ぶことにつながる
だから自身の実践の確度・精度を高めることの方がずっと重要

  点と点がどんな線を結ぶかは、後になってからでないとわからない
  ということはあちこちで言われていますし
  まさにそうだと思う。

ADL低下予防に取り組む時には
本当に効果的な実践ができた時には
そして周囲の人の理解が及ぼない時には一層
効果があったからこそ誰にもわかってもらえないものだという心構えをしておくこと
皮肉なことに
本当に大切で有効な予防策を実践できた時ほど理解してもらえないものなのだと
予め心構えをしておくことが
自身の心を守ることにもつながります。



拒否?食べたくても食べられない!

  


認知症のある方の食事介助にあたって
介助する人の悩みでダントツに多いのが
「口を開けて(食べてくれない)」
「ためこんで(飲み込んでくれない)」
「介助を拒否して(食べてくれない)」
つまり「食べて欲しいのに食べてくれない」という悩みです。

これは本当によくわかります。
普通に考えて、たとえば家庭でも
我が子のためにいろいろと工夫して作ったものを
「いらない!」「食べたくない!」って言われたりしたらショックですよね。
でも、同時に心配になりませんか?
具合が悪いのかな?って。

認知症のある方や生活期にある方もまったく同じで
具合が悪くて食べられないってことも相当数あるのです。
食べられない方は、まず、健康チェック!
どこか具合が悪いんじゃないか?
医師でなければわからないことも多数あります。
きちんと症状を観察して報告する必要があります。

その上で
本当は食べたいのに食べられない
食べようとしているのに食べられない

ということもまた、相当数あるのです。

コップを噛んでしまって水分摂取ができない
スプーンを噛んでしまって食べさせてあげられない
口を開けてくれない
ためこんで飲み込んでくれない
大声が続いて食べてもらえない
開口した時に舌が硬口蓋(上あご)に張り付いていて介助できない
介助しようとすると顔を背けてしまう etc.etc.。。。
そのような方が食べられるようになったケースをヤマほど体験しています。

    先日のネスレ日本さんのオンラインセミナーで紹介した
    3例の事例はごくごく一例に過ぎません。
    「見立てを間違うととんでもないことになる」
    「評価が大事、観察・洞察が重要」ということをお伝えするために
    伝わりやすいと思った事例を選んで紹介しただけです。

どのケースでも、
食べてくれない、食べようとしない のではなくて
本当は食べたいのに食べられなかった のです。

認知症のある方や生活期にある方で
食べることに困難がある場合に
「食べようとするんだけど〇〇になってしまって食べられないんです」
「食べようとするんだけど△△という介助では食べにくいんで⬜︎⬜︎という介助をしてほしい」
言ってくれることはありません。
そこをこちらが観察して洞察しなければ。

スティーブ・ジョブズは「意図こそが重要」と言いました。
本当にその通りだと思います。
意図によって観察から得られる結果は大きく変わります。

「食べてくれない」方に対して
「どうしたら食べさせることができるのか?」という意図のもとでは
いくら観察しても、その方が食べられるような洞察を得ることは叶いません。
その方には、食べたくても食べられない、食べようとしても食べられない必然があるからです。

問題設定の問題が起こっているのです。
逆に言えば、問題設定を変えれば良いだけです。

特別な研修を受けずとも、お金をかけずとも、今すぐにどんな人にでもできることです。

でも、多くの人が問題設定を変えようとしません。

変化への抵抗が起こるのです。

    古くはガリレオに始まり、ゼンメルワイスや小笠原登
    みんな当初は否定され、迫害と言っていいような抵抗を受けました。
    でも、最終的には彼らの正当性・先見性を歴史が証明しています。

ここで2通りに分かれます。
変化への抵抗を乗り越えて自身の問題設定を変更する人と
変化への抵抗に向き合いたくないために問題設定の変更を要請した提案そのものを否定する人と

私たちは対象者の利益のために働いているのですから
対象者が食べられるようになるための方策を選択すれば良いだけです。

科学は過去の知見の修正の上に成り立つ学問です。

修正を恐れることはないのです。

新たな知見
常識化していて誰も疑問に思わないくらい定着していることに
異議申し立てをすることは大変なことです。

   シュレディンガーの言葉に
  「大事なのはまだだれも見ていないものを見ることではなく
   だれもが見ていることについてだれも考えたことのないことを考えることだ」
   という言葉があります。

納得できる、新たな視点を持った知見を提示することは大切です。
ただ、ゴリ押しはできません。
否定されたら、その時はいったん引き下がりましょう。
でも、大丈夫。状況は必ず変わります。
職場の潮目の変化を感受して、そのタイミングでもう一度提示してみましょう。
その時に、口先だけでなく、自身が効果を体現できるように
まずは、自身の観察・洞察力と実践力を磨いておくことが肝要です。

言うだけじゃ、説得力がありません。
変化を起こして見せられる人にならなければ。

認知症のある方、生活期にある方が
食べる困難を乗り越えて、もう一度食べられるようになる体験を積み重ねると
食べたくても食べられずにいる
食べようとして食べられずにいる
その努力を合理的な方向に変換してくれる
協働者の存在が欠かせない
ことが身に沁みてわかるようになります。

今もなお、たくさんの方があちこちで
協働してくれる人の存在を声にならない声で
一見不合理に見える言動で必死になって訴えているのです。

  

ネスレオンラインセミナー「認知症の方への食支援アプローチ」再上映会 開催 !


6月26日に開催された、ネスレ日本さん主催のオンラインセミナー「認知症の方への食支援」の再上映会開催が決定いたしました!

お申し込みは
https://forms.office.com/pages/responsepage.aspx?id=I6-jEmmnVEaEf5WPPUefSltAa4v1PEdLnePI3frYq_RUNjQxNTVTNzIxWkRUWFM0MktJUzlGVUdMSi4u 
から、どうぞ ⭐︎

おかげさまで
前回のオンラインセミナーでは、
「わかりやすかった」「勉強になった」など大変ご好評をいただきました。

もう一度視聴したい方
視聴した方のご感想を聞いて「視聴したかったな」と思った方
どうぞお申し込みください m(_ _)m

実習指導CCSの総括も必要では?


実習指導について
今は、CCSクリニカルクラークシップが導入されるようになっています。
でも、一度総括をして軌道修正することも必要なんじゃないかと考えています。

なぜ、OTの卒前養成過程に実習が組み込まれているのか
なんのために、学生時代に実習をする必要があるのか
そこをもう一度再確認することも必要だと思う。

かつて、私が実習指導に関与していた時には「楽しい実習」の大合唱でした。
どの養成校の教員も「実習は楽しく」
どの指導者も「実習は楽しく」
もしかして、学生も「実習は楽しく」って思ってるとか?

???

私はずっと前から異議申し立てをしていますが
将来、OTとして一人前に働けるようになるための体験学習だから
結果として「楽しかった」と思ってもらえるならそれは良いことだけれど
最初から楽しい実習を目的とするのはどうなんだろう?
教えるべき、体験させるべきことはきちっと教え、体験させる必要があるのではないかと考えています。

  飛行機のパイロットの養成過程で
  「楽しい養成を」なんて合言葉になっているんだろうか?
  もちろん、ハラスメントはいけないけれど
  どんな状況に陥っても、突発的な事態になっても
  安全に飛行機を飛行させ目的地に着陸させることができるようになるために
  相当厳しいトレーニングがなされているのではないでしょうか?
  明確な基準をクリアして初めて操縦桿を握ることが許されるのではないでしょうか?

「楽しい実習」が大合唱されるようになった背景として
多分、以前の実習のハードワークや理不尽さに対する反動もあるのだとは思う。
私自身は、(できない学生だったけど)実習で過剰に追い詰められることもなかったし
重箱の隅をつつくような指導をされたこともなかったし
夜遅くまで実習地に残されることもなかったし
理不尽な課題を要求されることもありませんでした。
ただ、上記のような体験をした人には、多数出会っていて体験談をたくさん聞かされました。
それはやっぱり良くないことだと思うし、改善されるべきだと思う。
だけど、旧来の実習の良い面もあったと思うし、必要不可欠な要素もあったとは思う。
それは、体験学習ができること
自分のできなさという事実に直面できること。
指導者がいるという安全な環境
多少の失敗(致命的な失敗は許されませんが)も試行錯誤も許容されること。

CCSも本来はそうだったんだと思うけど
導入の段階で微妙なすり替えが起きたんじゃないかと思っています。
それは、EBMを導入した医師が現在の取り扱われ方について異議申し立てをしているのと同じように。

実習に来た学生が見違えるように変わっていく姿、過程を見ることができるのは
指導者にとっても大きな喜びです。
でも、それは結果だから、常に得られるとは限らない。
ここで、いつの間にか、結果の目的化が起こったんじゃないかな?

目の前にいる対象者に対しての関与という、紛れもない事実・体験から虚心に学ぶ
事実だから、都合の良い事実だけが生じるわけがない。
その時に、学生も指導者もどう対峙するかが問われる。
でも、そんなの働いていればヤマほど遭遇することです。

お膳立てされた体験とは、まったく違う。

もちろん、臨床家養成の1ステップとして
お膳立てされた体験も必要かもしれないけれど
問題は、それだけしか体験できないことだと思う。
今の実習指導の形態では
就職してから、いきなり、お膳立てされていない体験に直面することになっています。

以前だったら、指導者のいる安全な実習期間中に体験できたことを
今は、入職して初めて、一人の国家資格者として周囲のOTと同等の立場にありながらも、
未知の体験に直面することになります。

言い方を変えれば
学生が実習で体験すべきことを先延ばしにして就職先に丸投げしている
とも言えるような状況が生まれてきています。
体力のある就職先や卒後養成が確立されている就職先に入職できれば
体験学習を受けながらフォローしてもらいながら働いてもらう猶予期間を設定できます。
でも、昨今の厳しい診療報酬や介護報酬の中では、そのような就職先は限られているんじゃないでしょうか。

国家資格者としての責務を負いながらも
わからないことだらけの中でどう「在る」のか、ふたつに分かれます。

    今春放映されたTBSの「アンチヒーロー」の最終回で主人公の明墨が語ります。
   「人は2とおりに分かれる。真実と向き合うものとそこから目を背けるものと。」

自分自身のできなさを正視し愚直に努力する人と
その場を取り繕うことはしても技術職のプロとしての努力をしない人と

どちらのOTに担当されても
対象者とそのご家族は、同じ時間とエネルギーとお金を国家資格者への対価として支払います。
美容師の世界のように一般のスタイリストとトップスタイリストで支払う金額に差があるわけではありません。
厳然とした技術差があっても。

将来、医療や介護保険の受け手に回ることがあれば
自分や家族はちゃんとした人に担当してもらいたいと思う。

ちゃんとした人を養成できる仕組みになっているんだろうか?

OTの世界でも、ホワイト化が進んでいます。
それはとても良いことだと思う。
終業後に残って勉強会を開催することは難しくなり定時で帰ることが要請される。
それ自体は良いことだと思う。
でも、カタチとしてのホワイト化が進む一方で
職場の後輩指導や実習指導にあたる人たちは、どう時間を捻出するか
そこから悩んでいるんじゃないでしょうか?
そして、ようやく捻出した限られた時間で教えようとしても
自分自身のできなさに直面する意思も体験もしてこなかった人たちは
果たして、真摯に教えようとしてくれる人に感謝することができるのでしょうか?
関係ない職場であれば、国家資格者なんだから自己研鑽、個人の問題と切り離せるのでしょうけれど
職場として最低限の質の担保をしようと考えた場合にその重責は一気に養成担当者にのしかかります。

「こうすればああなる」というハウツーを要求し
自分が困らないことを暗黙の優先事項として対応していることすら自覚できない人に対して
ハラスメントに注意し後輩の背景や気質を尊重した上で
職場の底上げを考えた時に、共有できるメタ認識の少なさに愕然とすることだってあるのではないでしょうか。

OTの志望動機として「家族・知人に勧められたから」という人が圧倒的に増えています。
お金を稼ぐ1つの職種としての認識だと資格を取ったらゴールと考えて当たり前かもしれません。
養成過程において成功体験だけを蓄積され、自身の困難に向き合う体験ができなければ
回避しようとするのも必然の防衛機制なのかもしれません。
 
本来は、資格をとったということは、
OTとしてのスタート地点に立つ資格を得たに過ぎないんですけどね。

ゴールと考えている相手とスタートと認識している人とでは、お話にならない。
双方にとってのストレスですが
この場合、スタートと認識している人の方が心身のエネルギーを削がれます。
(ゴールと考えている人には、そんなことすら想像もできません)

そういったことは、すでにあちこちで起こっているんじゃないでしょうか?

もうそろそろ、このあたりで
より良いOTを育成するために、
いったんCCSの功罪について、
そしてその取り扱われ方についても検討する時期なのではないでしょうか。