リハビリで筋力強化訓練は必要か?(ごむてつ)

私は民間療法家として精神疾患のセラピーをしており、精神疾患には詳しいが元OTでありながら身体障害のリハビリはほぼやったことがない。
元々関心がなかったわけではなく、むしろリハビリ専門学校に入ってからすっかりやる気をなくしたのだが、そのことについてはいずれまたの機会に触れたい。
しかし、精神疾患のセラピーをしていると身体的問題も避けることはできない。実際に問題が大きい人があまりに多いのである。

心身症や自律神経失調症は基本的には精神療法をやれば良くなるし、肩こりや腰痛などの問題も随分良くはなるのだが、実際に椎間板ヘルニアや脊椎間狭窄症、顎関節症など器質的な病変が起こっている人も多い。これらは精神疾患の合併症と言っても良いくらいであり、一般的には「身体表現性障害」には含まれないが、要するに精神的な緊張が身体に現れ、継続すると器質的な病変をもたらし障害になるわけである。
OTとしては身体障害からは逃げまくっていたけど、そういった疾患への対処もせざるを得ないのは、病院や整体などどこに行ってもどうにもならないどころか却って悪化させている人も多いからである。

「義を見てせざるは勇なきなり」
結局のところ自分の課題からは逃げてもまた追われるのだろう。

たまには精神疾患ではなく中枢神経疾患の人も来る。そうした疾患についてもある程度わかるのはOTになったおかげだけど、学校の勉強よりも実習もあるけどボランティアなどでそうした疾患の人をいろいろ見たことが大きい。病院の中だけで見ていたのではわからないこともある。

もちろん明らかに中枢疾患の人は神経内科などの受診を勧めるけど(心療内科じゃないぞ!って念を押して)そうした病院に行っても診断もつかなかったり、治療はどうにもならない場合もあり、先日もそういう患者が私の所に来た。

とりあえず結論から言えば、新形コロナワクチンの後遺症であろう。
やはりどこの病院に行ってもワクチンの後遺症とは認めないが、神経内科医の一人はやはりおそらくワクチンの後遺症だろうと診断したということだ。
精神科や他の神経内科でも、そんな後遺症が起こるはずはない、メンタルの問題だ、転換/解離症状だと主観だけで根拠もなく決めつけていた。

幸いにして薬漬けにはされていなかった。転換/解離症状ならストレスの軽減などにより変化しやすいし、向精神薬が有効ではないことくらいは精神科医でも知っているだろうけど。

2回目のワクチンを打った翌朝、身体が動かず歩けなくなったのだが、それからいろいろな病院に行って2カ月ほど経って私の所に来た。
いくぶん回復し、甚だ奇妙な歩き方だが数メートルはなんとか歩くことは可能で、立ち上がりも腕の力を使うが危なっかしい。
上肢にも同様な問題は出ており書字は可能だが、腕は自由に動かせないので自力での車椅子の操作は困難。結局、家族が2人がかりで介助して病院や学校に行くようだ。

ワクチンの副反応や後遺症は若年者に強く出やすいようで、後遺症と考えられるものにはギラン・バレー様の症状が多いようだが、それとは全く違う。他の少なくともメジャーな中枢神経疾患とも似ていなし、もちろんメンタルの問題による転換/解離症状でも似たような状態にはならない。

昔、OTの大学教官をやっていたとき、たいていは臨床実習への適応困難が要因であるが、転換/解離症状の運動麻痺で歩行困難になる学生も時々いた。もちろん今の臨床でもそういう人は来るのだが、そういった症状とは全く異なり、明らかに中枢の問題がある。
よく見ていると、チック症状も重なっていることもわかってきた。その症状もまた、それが起こるだけの背景や要因があるのだが。

当人はリハビリ訓練も受けており、PTの指導を受けているのだが、とにかく目標が「筋力強化」のようなのだ。
それを聞いた家族も、せっせと励まし自宅でも訓練を勧めていたのだが。
2カ月ほどでいくぶん回復したものの「甚だ奇妙な歩き方」と書いたが、そうなったのは疾患のせいばかりではなく不適切な「筋力強化訓練」も影響していると思われた。

それでは悪い運動パターンが身についてしまい却って良くない、動かすことは大いに必要だが力を入れるよりは無駄に入れずにうまくなるべく軽く適切に入れる、むしろなるべく力は抜くほうが大事だ、などと家族に言ったら、すぐに納得したようで、「そうですか、私は専門の理学療法士の先生が言うのだから正しいものだと信じ込んで…」と愕然としていた。
何かおかしい、これじゃまずいのでは?と薄々とは感じていたのだろう。

人間、新たなことを習得するより、間違った悪い癖を直すほうが遥かに難しい。
もちろん「患者だけでなく治療者側も」だ。身体面だけでなく思考や行動パターン精神面もね。

ここで書くことはOTよりもむしろPTに言いたいことだが…

元々体育系の人が多く、その延長で考えてしまうのだろうか?根性論が好きな人は未だに多いのでは?とも思う。そうでなくとも、そうした発想から抜けられない人も多いのでは?
スポーツでも楽器を弾くなど身体を使うことは、力を入れるよりも抜くほうが大切で難しいことではないだろうか?無駄な力は入れず必要な力だけ上手く使うのが運動や動作の基本だと思う。

股関節や膝関節が伸ばせない、立ち上がれないといった問題を「筋力低下」と考える人が多いと思う。もちろん立ち上がりや歩行にもある程度の筋力は必要だが、歩行など日常生活の殆どの場面では筋力は大して必要ではなく、リハで筋力強化訓練が必要なことは少ないのでは?

それが必要な場合もあるだろうが、そういう人はリハビリではなくジムに行けば良いのでは?ジムの方が器具もそろっているかもしれないし、指導者だっている。
むしろ動作や運動が行えるようになるとある程度の必要な筋力は自然につくはずである。

わかりやすい例を挙げれば…、
見たことがない人はイメージが沸かないかもしれないけど。

昔は田舎に行くとよく見かけたものだが、農家のお婆さんなどで腰(というか股関節か)が90度近くも曲がっており、姿勢がまっすぐにならない人がいた。もちろん寝ている時は腰を伸ばしているのだが。
都会のお婆さんは姿勢が悪くてもそんなふうにはならないし、農業も機械化されたので農村でもそういうお婆さんは絶滅した。

素人ならこうした姿勢の人を背筋などの筋力が低下したためと思ってしまうだろうし、医者でもPTでも整体なんかの人もでもそう言う人がいる。
上体を上げて姿勢を伸ばすにはもちろんは筋力は必要だがそういう問題ではない。

ああいう人は筋力低下どころかものすごく背筋や臀部などの筋力が強いのである。長年、農作業で鍛えているから歳をとってもあまり衰えず、そうやって歩いて生活しているのでいつも鍛えていることになる。
あれはむしろ背筋や臀部の筋力に頼って曲がった姿勢を保ってしまい、真っ直ぐにすることができないのであり、筋力ではなく神経の使い方の問題である。
椅子からの立ち上りが難しいのも殆の場合、筋力の問題ではなく、運動企図や身体の使い方、神経の使い方の問題だ。

精神疾患の人はほぼ例外なく姿勢も悪く、猫背で背中の上部を丸めて顎を突き出すか下を向いたような姿勢の人が多い。本人はむしろそうした姿勢のほうが楽で、短時間はともかく背中を伸ばして良い姿勢を保つのが難しいのだが。
本来は良い姿勢のほうが楽なはずだし、楽な姿勢の方が良い姿勢なのだが、それができない。

あれも精神的な緊張が体にも現れており、背中や頸の緊張が強くて力が抜けず、むしろ背中や頸を伸ばして頭を載せているよりも、頭部を前にぶら下げるようにした方がむしろ無駄な力が入らず楽に感じるのである。
緊張が強く無駄な力が抜けないのでリラックスできることが大事だ。
私は姿勢を保つのはバランスだから力はなるべく抜いて、積み木を積み重ねたように、あるいは子供やジャグラーが傘や棒などを掌の上でバランスを保って立たせるように、などと説明している。

私も幼稚園くらいから姿勢が悪くよく言われたもので、小学校では背中に物差しを突っ込まれたりして、もちろんそんなことをしても良くならない。
どうしたら姿勢が良くなるのか、運動神経が良くなるのかを研究し解明しようかと思い、中高の時には体育学部へ進学も考えたくらいである。
選手養成よりも皆の、特に鈍い人の運動能力が上がり、不器用さを直せたほうが良い。
しかし、やはり極度に運動が苦手な俺が行くような所ではないし、行ってもしょうがなかっただろうと思う。セラピストになって結局、その目的も一応達成できたので良かったけど。

姿勢が悪いと親にも口うるさく言われたが、はっきり言えば原因はその親である。姉なんかは「お前は顔色が悪い」となじられていた。女の子だから容姿を気にするのだろうけど。
顔色も姿勢もどうしたら良くなるのかわかったのは、大学4年の時にとあるセラピーを受けたからであり、明確になったのは今のセラピーをやるようになってからだ。

というわけで身体障害は専門でもなく知識も乏しく、特に経験もないしリハビリ器具もないのだが、観察しているとどういうことはしない方が良い、どういう訓練をした方が良いということはだんだんわかったきた。
新型コロナワクチンの後遺症で脳がどうなっているかなんてもちろん知らんけど。

もちろん訓練だけではそうそう良くならないので、神経系の状態や働きを良くしてから行う。この辺りは私の専門領域であり十八番の得意技、他の追従を許さない圧倒的な実力がある。

あとは本人が理解し自宅でも自分なりに訓練しつつ、日常生活にも活かせれば良いと思う。幸いにして家族も協力的で熱心だ。短時間でも幾分改善したし、たぶんこれでかなり良くなるとは思う。

やはり臨床は観察と洞察・理解が大事で、それと共に関与することだ。
サリヴァンの言う「関与しながらの観察」は精神科医よりもむしろOT・PTに有効であり必要な概念ではないだろうか。評価は「関与しながらの観察」、治療は「観察しながらの関与」と考えても良いと思う。

昔学生の頃、中枢は難しい、不適切な訓練をしたら却って良くないし、自分には恐れ多くてとても手が出せない、と思ったものだが、何でも直ぐにわかるわけではないし、冷静に観察しながらこうしたら良いと理解できたことからやれば良いし、結果を見て良い効果が現れれば良いので、そんなに畏れることもなかったなという気もする。

不勉強な自分が悪いのだが、そういうことは教官もSVもあまり教えてくれなかった気がする。
身障をやるならやっぱりボバースとか勉強すべきだったと思うけど、精神科に行きたかったしすっかり関心もなくした。

上述のような畏れをOTPTになった人はあまり持たないのだろうか?
学生の時はあったと思うけど慣れるにつれて薄れてしまい、SVや先輩を見ても疑問を持つより、あれで良いなら自分も真似すれば良いと思ったりして?

「赤信号、皆で渡れば怖くない」ビートたけし

ノウハウを求める気もわかるし、実際に私も学生の時はそうだったけど、安易にノウハウを得てその時はうまく適用できても応用が効かないし、適用するためには様々な配慮が必要で、ちょっとしたことでも悪い適用になってしまう。
少なくともそれが良いなら何故どのように良いのかよく理解すべきであり、似たような症例であっても不適切な場合があることも理解すべきだろう。

しかし臨床の基本的な姿勢や考え、方法を身に着けていれば、未熟なセラピストでもそれなりのことはできるし、やりながらいろいろ応用も効くし、徐々に向上していくこともできる。
しかし間違った考えや理論にとらわれて、それを修正できずにいつまでも支配されてしまうと、経験値が上がるどころか年数が経てば経つほど「悪いセラピスト」にもなりかねない。人間相手の職業の恐ろしいところだ。

「事実の子たれ、理論の奴隷たるなかれ」内村鑑三

サリヴァンの「関与しながらの観察」については、こちらを参照して欲しい。
読んでも理解できないヤツが多いので★3つ半だけど。

OTの不安への答え

 

先日、ある研修会に受講者の立場で参加して
そこで若い作業療法士の
「自分のやってることがこれでよいのか不安」
「見通しが立たない中で日々仕事をしている」
という声をたくさん聴きました。

思ったのは
これって「実習は楽しく!」という方針の弊害じゃない?ということでした。
養成校の先生も指導者も「楽しく」って本当によく言葉にしますよね。
結果として楽しい実習だった。なら良いと思いますが
楽しい実習を目指すのは本末転倒で
実習の時に体験すべきことは体験しておかないと
何よりも本人が就職してから大変な思いをすることになるし
課題の先送りをしてしまうと今は問題が表面化しなくても
卒後養成を本格的に整備・充実できずにいたら
今、本当に必要なのは
 理論や学会発表や論文執筆ではなくて実践力を高めることでは?)
「なんちゃってOT」が増えてしまって
OTの質が問われかねなくなり
結局は自分達で自分達の首を絞めることになりかねないと危惧しています。

私は実習の時に
「今は指導者がいるけど、将来は自分自身がこの選択・決定の責任を負うんだ」
ということに身も震えるような怖さを感じました。
自身の知識と技術のなさに直面させられ
習得への思いを新たにしたものです。
だから、実習は楽しいどころか、辛い思いをたくさんしました。

それは自分が未熟だったから仕方ないことだと受け入れるしかありませんでした。
そういうものでしょう?
事実に向き合い、乗り越える努力をする。
乗り越え方には幾多の方向性も方法もあるとしても。
仮に私が優秀な学生だったら、楽しく実習をすることができたかもしれませんが。。。

卒業してからも不安な気持ちは変わらず必死になって勉強しました。
片っ端から本を買い、研修会に出ていたので
パンの耳をかじり、素ラーメンを食べ、突然尋ねてきた知人に笑われたものです (^^;
同期と勉強会を立ち上げましたが、そこで思ったのは
どんぐりの背比べじゃダメだ。良い指導者からちゃんと教えてもらわないと。
ということでした。

私が就職してすぐに勤めていた施設には
ボバースアプローチの世界的権威の
紀伊克昌先生や古澤正道がきてくださり
デモンストレーションを目の前で見たことがあります。

普段誰もできなかったことを
いつの間にか子供達ができるようになっていました。

ダメなのは子供たちじゃなくて私(たち)じゃん!
と痛切に思い知らされたものです。

デモンストレーションで何が起こっているのか皆目わからず
当然再現することもできず
教えてもらうにも教えてもらうに値するだけのレベルに到達しないといけないと
強く思いました。

また、天と地ほどの技術の差がこんなにもあるにもかかわらず
診療報酬上は、同じ時間のリハを受け同じお金を親御さんは払わなくちゃいけない
ということを思い知らされました。

今のままじゃいけないと思っても
当時は自分で自分をどうやって育てていけば良いのかわからなくて(^^;

だから
「自分のやってることに自信が持てず不安」
「見通しが立たない中でやっていて不安」
という気持ちは、参加者の本当に正直な気持ちの吐露だと感じたし
かつての自分を思い起こしても共感できます。

でも
そういった気持ちを抱いているという時点で
結果が出てないことの表明だし
状態把握、評価が曖昧ということの表明でもあります。

360度の試行錯誤は、プロのお仕事じゃありません。
限界があったとしても、範囲を狭められる試行錯誤がプロのお仕事です。

かつて、試行錯誤という名の360度広角対応しかできなかった私でも
地道に研鑽を積むことで
本来の試行錯誤ができるようになってきました。
そしてほとんど試行錯誤せずに結果を出せるようになってきました。

大切なことは、観察・洞察です。
確かな知識に基づいた観察・洞察であり
観察・洞察に基づいた確かな技術の適用です。
そして何よりもまずは結果を出すことです。

臨床実践において理論は必要不可欠なものではありません。
ここは断言できます。
私は、いわゆる作業療法領域で紹介される理論を使っていませんが
重度の認知症のある方に対して
骨折後のリハや食事などのADL面でも
Activityの領域でも
生活障害やBPSDへの対応に対しても結果を出せるようになりました。
(もちろん対象者の状態によっては限界もあります)

そしてここが大切なところですが
なぜ結果を出せたかの言語化もできます。
つまり、今何が起こっているのかわかるようになったし
これからどうなるかという見通しのもとで関与できるようになった
ということです。

逆に言えば
何をどうしたらマズイ。ということもはっきりわかるようになりました。
一般的抽象的なレベルではなくて
具体的現実的に
固有の〇〇さんのその時の状態の中で。という意味です。

私が臨床の現場で抽出してきたことは
「対象者の埋もれている能力を見出し
 より合理的に発揮できるように援助する」
「対象者の能力を信頼する」
「対象者の特性の良い面が良い方向に発揮できるように援助する」
「自分を含めたその時その場の状況・関係性の中で
 対象者の言動が表現されている」
「関与しながら観察する」
これらの概念を指針として大切にしているということです。

でも最初はまったくできませんでした。
本当に何も分かっていなかったと思う。。。
私はまだまだ未熟だけれど、少なくとも方向性を確立できた今になって
かつて、自分がいかにわかっていなかったかということは
はっきりとわかるようになりました。

  できない時には、できないからこそ
  「できる」ことがまったく認識できない
  できるようにならなければ、できない人とできる人との違いがわからない

  できるようになって初めて、
  できない人とできる人との違いがわかるようになるのだ
  ということもよくよくわかるようになりました。

私ができるようになったのは観察と
その観察を支えた知識のおかげで理論は無関係です。

バリデーションは有効なツールだと感じていますが
私は作業療法士として実践し、
バリデーションを適用することもありますが
バリデーションありきの実践をしているわけではありません。

理論はツールですから、活用するものに過ぎません。
実践力は理論とは別に実践力として涵養すべき種類のもので
そのために必要なのは解剖学・運動学・症候学などの基礎知識の習得と
自身の観察力・洞察力を磨くことです。

今日、Twitterで同じことを言っている研究者のツイートを見かけました。
https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21
ぜひ、前後のツイートも読んでみてください。

冒頭に紹介した研修会では
ビデオも見せていただいて
講師が対応した時の対象者の表情と行動と
他のスタッフが対応した時の対象者の表情と行動は
まったく違っていたのです。

地道な研鑽の蓄積と
それを支えたその人の在りようは
無意識レベルでにじみ出て対象者にも伝わるんじゃないかな。
そんな風に感じました。

 

帰宅要求のある方に対して(2)

 

 

「説明より納得」と言われると
もっともな気がしてしまいがちですが
必要な人にはきちんと説明することによって再認を促すことが大切
ということを前の記事でご説明しました。

ところが、説明しても状況を再認できない方もいらっしゃいます。

そのような時には
1)バリデーションを行う
  個別リハの実施中にはこちらに切り替えます。

2)バリデーションを行えない時
  例えば、集団でのリハを実施中の時には
  あるいは、バリデーションなんて知らないという人は
  こちらの方法をご参照ください。
  
  まず、認知症のある方の状況把握の仕方をよく観察します。

  周囲の状況把握をどのようにしているか
  ということが観察のポイントです。

  帰りたいという理由
  例えば、子供がお腹を減らしている、母親の具合が悪い、バスに乗らなきゃ
  などなどの理由がその方にとってあまりに切実だと
  こちらの声が届かないことが多々あります。
  「うるさい!」と怒鳴られて逆効果になってしまいます。

  そのような時には、安全確保を最優先におこないます。
  (その方自身はもちろん
   周囲にいる他の方の安全確保も図ります)

  認知症のある方の言動を否定せず
  表出した言葉の感情の側面に焦点化してよく聴きます。

  じっとしていられず歩き回ってしまう場合には
  行動を否定せずに安全に配慮しながら見守ります。
  
  周囲の状況が見えていないので
  椅子に乗ったり机に座ったり、
  他の方が座っている車椅子を動かそうとしたり、
  狭いところを歩こうとすることがよくあります。
  危ない行動をしそうな時は、必ず制止します。
  声の調子はその時々で
  ゆったりした口調の時もあれば、きっぱりとした口調を使う時もあります。
  危険度とその方の状態によって使い分けます。

  よく観察していると
  そのうちに、ご様子が変わってくるのがわかります。
  周囲の状況を見ていたり
  表情の険しさが減ってきたり
  口調の荒々しさが減ってくるのを感じることができます。

  そこで
  感覚に焦点化した言葉を使って声をかけます。
  「寒くないですか?」
  「喉が渇いていませんか?」
  「足がかったるくありませんか?」

  これらの言葉に返答してくだされば、一歩前進、誘導可能なサインです。
  誘導可能とはいっても焦ってしまってはいけません。
  焦ると、元の木阿弥になってしまいます。

  大抵の人は
  焦って早く座らせようとか、早く〇〇させようとして
  その方の受け入れ準備状態ができているかどうかの観察をせずに
  一方的にこちらの声かけをしてしまいがちで
  そのために悪循環から抜け出せずにいる。。。というパターンが多いです。

  きちんと観察して
  その方が感じているだろう感覚を言語化した声かけができるかどうか
  が大切なことです。
  そのためにもきちんと観察せねば。  

  それから
  その方が感じている感覚に対応する行動に繋げます。
  寒いと言われたら、膝掛けを貸したり上着を着ていただいたり。
  喉が渇いたと言われたら、飲み物を召し上がっていただく。
  足が疲れたと言われたら、椅子に座っていただく。。。

  「イマ、ココ」という現実に戻っていただくために
  感覚の表現と表現された感覚に基づく行動をする

  その後に、他の方も参加されている集団でのリハに再参加を促したり
  個別リハに再参加を促します。

  この誘導可能性
  「自身の気持ちの中だけにいる状態から
  今の現実の状況を認識しつつある状態への変化」を確認しないで
  最初から集団でのリハ(個別リハ)に参加することを促しても
  決してうまくはいきません。

    ここで提供される集団でのリハあるいは個別リハで
    「やる」ことが、その方にとって明確にわかることである必要があります。

    誘導された時に「何を」「どうするか」が曖昧だと混乱して
    また徘徊を誘発することすら起こり得ます。

  その方の状態
  どんな風に状況を感受・認識しているのか
  を観察・洞察することと
  その変化を感じとれるようになること
  が最も重要なポイントです。

知識がなければ適切な観察・洞察ができません。
変化に合わせて即応できる確かな技術がなければ的確な対応もできません。

まずは、地道にそれらを習得する、表にでない努力こそが必要で
「徘徊する人がいるんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
「高齢の女性だったら、タオルたたみがいいです」
などというやりとりが示している
ハウツー的思考態度は、大問題だと考えています。

  誤解のないように書き添えますと
  タオルたたみそのものを否定しているわけではありません。
  暮らしに近い場面であるほど、手が離せなくて
  ちょっと待っていて欲しいという場面は必ずあるものです。
  そのような時に「しのぐ」ためにタオルたたみが有効であることもあります。
  ただし、「しのぐ」ことと「適切な対応」とは異なります。
  専門家であるなら、「しのぐ」しかないから「しのぐ」対応を選択する
  というように自覚しながら「しのぐ」べきだと考えています。

安易なハウツーを求め
安易にハウツーを対象者に当てはめようとする思考態度は
専門家としての本当に必要な地道な努力を
養成・醸成することを放棄させてしまう恐れがあり
認知症のある方ご本人にとっても
真の対人援助を志している人にとっても
弊害以外の何ものでもないからです。

 

参考:「帰宅要求への対応」よっしーずボイス


  
  

塗り絵の工夫:幼稚に見せない

 

 
シンプルな下絵を幼稚に見せない工夫です。

幼稚な下絵の問題点は下記をご参照ください。
「Activityの提供:本当にあったこと1」

シンプルな構図の下絵を提供する必要がある時には
幼稚な印象を与えないようにひと工夫しています。

下絵の線を筆ペンでなぞります。
筆圧の強弱を調整しながら、なぞっていきます。

筆ペンがない時には
普通のペンで線の太さを調整しながらなぞっていきます。

上の図の左側が普通の下絵。右側がひと工夫した下絵です。
ちょっと和風な感じが強調されて水墨画みたいな雰囲気に近づいて
あんまり幼稚な感じにはならないと思います。

 


帰宅要求のある方に対して(1)

 

 

認知症のある方が帰宅要求を訴えた時に
私は、その方の状態像に基づいて対応しています。

「家に帰りたい」という同じ言葉でも
そこに含まれる意図は異なります。

例えば
HDS-R7点の方がいましたが、再認は可能な方でした。

  近時記憶の程度について確認するだけでなく
  再生・再認の可否について確認する必要があります。
  私の実感ですが、
  近時記憶の程度を把握した上でケアに活用している人は少なく
  再生・再認の可否について確認した上でケアに活用している人はさらに少ないと感じています。

「家に帰りたい」

この方はすぐに帰りたい理由を教えてくれました。
「お父さんに会いたい」

  余談ですが
  認知症のある方が「お父さん」「お母さん」と言った場合には
  父親なのか、夫なのか、母親なのか、妻なのか

  親を指しているのか、配偶者を指しているのかを
  確認しないととんでもない誤解のもとになってしまいますので要注意
です。

この方は夫に会いたいということでしたので
「〇〇さん、お父さんに会いたいんですね」
「〇〇さんのお気持ちはわかるけど、〇〇さんは今入院中なんです。」
「お父さんは施設に入って元気で暮らしているそうですよ。」

「あぁ、そう。それなら良かった。
 でもお父さんに会いたい。」

その後しばらく涙をこぼされてから
「ごめんなさいね。またあなたの前で泣いちゃって。」
とおっしゃいました。

体験を通して再認していることを再認していることがわかります。

 

よく講演後の質問で
「帰宅要求のある人がいるんです。どうしたら良いでしょうか。」
と尋ねられたり
「帰宅要求のある人に対して
 話を逸らす・違うことをして気を紛らわせる・お茶を飲む・タオルたたみをする」
という人がたくさんいます。

そのように言う人たちは
「帰宅要求がなくなる=良いこと」という暗黙の前提があって
帰宅要求をしなくなるためにはどうしたら良いかという考え方をしているのがわかります。

実際、そのような対応をして帰宅要求をしなくなった人たちがいた
と言う体験をもとにして言われているのだろうと推測できます。

ここで
そのような対応が何をしているのか
ということを明確にしておきたいと思います。

違うことをして気を紛らわせる・お茶を飲む・タオルたたみをする
ということは「動作干渉」をしています。
近時記憶が低下している方は、異なる動作を行う「動作干渉」によって
「帰宅要求」という自身の気持ちを忘れていただくことを意図しています。

話を逸らすということは、話題転換という時間干渉(時間の経過)によって
自身の気持ちを忘れていただくことを意図しています。

でも
冒頭に提示した再認できる方に
動作干渉や時間干渉をしたら、どうなるでしょう?

HDS-Rが低くても体験を通して再認可能な方は大勢います。
感情記憶は残りやすいとも言われています。

自身が夫に会いたいという切実な訴えをした時に
動作干渉や時間干渉を使って
「訴えを受け止めてもらえなかった」という体験を蓄積すればするほど
「私が必死になって言っても聞いてもらえなかった」という
体験を繰り返し認識することになりはしませんか?

認知症のある方がそのような体験をさせられて
「どうせそうやってまた私を誤魔化そうとしてるんだから!」
「どうせ私のことを馬鹿だと思ってるんでしょう!」
と必死に訴えている姿を見たこともあります。

その方は今はまだ言葉にすることができているけれど
病状進行して、自身の感情を言語化することが難しくなった時に
「ちゃんと私の話を聞いてほしい」と言えない代わりに
大きな声を出したり
「やめて」と言ったり
身体全体で抵抗する。。。ことだってあり得るのではないかと考えています。

今のためにも
将来のためにも
再認可能な人には再認しやすい対応をすることって大切だと思います。

現実には、何かしらの理由で即応できないことも多々あると思います。
そういう時には
「ごめんなさい。今すぐにはお話を聞けません。」と正直に言います。

例えば
「今、体操中で私が進行役なのでお話を聞けません。
 体操が終わったらお話を聞きますのでお待ちください。」
「ごめんなさい。〇分だけ待ってください。」

そして、体操終了後や〇分後には
「さっきはお時間が取れなくてごめんなさい。」
「お待たせしました。」
「〇〇とのことでしたけれど。。。」
と言ってこちらから話しかけます。

じゃあ、再認できない人にどうしているか
それは、次の記事で。

 

参考:「帰宅要求への対応」よっしーずボイス

 




Activity提供に際して@「よっしー」

 

 

「よっしーずボイス」に記事投稿をしました。

認知症のある方に
Activityを提供する際の困りごとって、とても多いものです。

それは実は
1)認知症があってもなくても、Activity提供の考え方の混乱
2)認知症のある方の状態像把握ができていない
というふたつが反映されていると考えています。
 
決して認知症だから難しいというものではなく
1)そもそも論としてのActivity提供の考え方の再検討が必要
2)状態像把握のために必要なのはバッテリーや検査ではなく観察・洞察力を磨くこと
であり、いずれも問題は私たち作業療法士をはじめとするActivity提供者側にあります。
だからこそ、改善可能なのです。

よっしーずボイスに下記の記事を投稿しました。

「Activityの提供:現状共有」
「Activityの提供:問題提起」

 

オススメ民謡

 

 

歌は世につれ人につれ

歌の好みは人それぞれですが
私の経験上で
90〜60歳代と幅広い年代の方が知っている(聞いたことがある)
馴染みやすい かつ 盛り上がる(聞いてるだけでも元気がもらえる)
民謡をご紹介したいと思います。

  • ソーラン節
  • 花笠音頭
  • 北海盆歌
  • 斎太郎節
  • 佐渡おけさ
  • 東京音頭
  • 炭坑節
  • 会津磐梯山
  • ノーエ節

  民謡じゃないけど
  盆踊り繋がりで
  ・好きになった人(都はるみ)
  
  歌謡曲では
  ・365歩のマーチ(水前寺清子)
  ・函館の女(北島三郎)
  も盛り上がります。

今は新型コロナ対策で
大人数が集まって歌唱するのは望ましくないけれど
状況が変わったら
画面を見て歌ってもよし
歌わなくても手拍子だけしててもよし
合いの手を入れてもよし

幅広い参加の仕方が許容されるのが良いところです。
新型コロナの1日も早い収束を願っています。

 

「よっしーずボイス」記事投稿しました

 

 

神奈川県作業療法士会の公式ウェブサイトの
「月刊よっしーワールド」に記事投稿しました。

「観察・洞察から始まる対応の工夫」

今まで
食事介助や生活障害やBPSDへの対応の工夫、Activityの選択など
さまざまなテーマで講演のご依頼を受けてきました。

対象職種はさまざま
開催場所も日本全国さまざまですが
どのテーマでも必ず
観察の重要性、評価の重要性を伝えています。
考え方と対応の工夫を結びつけた説明もしています。

「観察の重要性がわかった」
「評価しているつもりだったけど、まだまだだと思った」
というご感想をいただくと本当に嬉しく思います。
 
それでも
講演終了後の質問の時に
「〇〇という状態像の人がいるんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
という質問が出てくることもまた多いのが現状です。。。

それだけ
ふだんの臨床現場で
「〇〇という人には〇〇する」
というハウツー的な在り方、パターン化した対応で実践しているのだと思います。

また
それ以外の在り方を養成過程において
学べなかった人が少なくない
ということをも示しているのだと考えています。

  以前に、初心者向けの研修会テキストで
  「帰宅要求のある人にどう対応するかグループワークしましょう。」
  という記載を見たことがあります。

  初心者ー認知症のある方をよく知らない人に対して
  教えるべきことを教える。。。
  「帰宅要求のある方の状態を

  観て・聴いて・洞察・把握して検討・判断することを教える」
  。。。のではなくて
  「帰宅要求=どうする」というハウツー的対応、パターン化された対応を
  知識もない、技術もない人同士で考えさせる
  という最も不適切な「学習態度」を教えてしまっています。

  最初が肝心。
  初心者にこそ、きちんと「学習態度や実践の思考回路を教える」べきです。
  グループワークの効用は多々ありますが、これは最もまずい。

  効果がないどころか逆効果となってしまっています。

教員経験もあるごむてつさんは
「ちゃんと教えられないから、グループワークでお茶を濁す人もいる」
と言っていましたが (^^;;
さもありなん。。。

ちゃんとグループワークをしようと思ったら
かなりの時間を使います。
私だったら、その時間を使って「教える」「伝える」ことがたくさんありますもの。

ありがたいことに
ちっぽけな一人の人間でも
「声を上げる」ことができる世の中になりました。

岸田総理は
アフリカの諺を引いて
「早く行きたければ一人で行け。遠くまで行きたければみんなで行け。」
と言いました。

かつては私もそう思っていましたが
本当に本質からブレずに進むためには
ひとりでも進んで行くしかないこともあります。

組織には組織だからこそ発揮できるチカラがある。
同時に、組織を作ったら組織維持のために必ずチカラを用いなければならない。
状況によっては、組織を作って達成したい目的と組織維持がすり替わってしまうことも起こり得ます。

このサイトと
よっしーワールドと
ふたつの「場」を得て
本質からブレずに、まずは自分が進む。

いつか
硬直した組織ではなくて
目的達成のために、自由で緩やかな、それでいて力強い連帯が実現しそうな気がする。

そのために
まずは、私自身ができることを着実に一歩一歩。



  
  

予告:オンライン勉強会

 

 

まだ具体的な日時も概要も決めていませんが
今年度中にオンラインでの勉強会を開催すべく準備中です。

まずは
平日夜間に短時間の勉強会開催を考えています。
職種は限定せず、どなたでも参加できるようにと思っています。

テーマについて
ご希望があればコメント欄もしくはお問合せからお知らせください ☆

オンラインであれば
遠方の方でも
家事育児で自宅を離れにくい方でも
受講できる機会が増えます。

対面研修ならではのメリットもありますが
今はまだ難しい状況です。
状況が変わるのを座して待つのではなく
今、できることをできる時に。
オンラインならではのメリットを活用できるように。

 

詳細が決まり次第、こちらのサイトにてご案内いたします!

 

 

認知症は脳の病気で心の病気ではない

 

 

概念を明確に理解すること
本質を把握すること
ここからスタートすれば、自身の考えをスッキリ整理させることは可能だと考えています。

ある研修会で講師が受講者に尋ねました。
「作業療法で認知症の中核症状が良くなると思う人?」
たくさんの受講者が手を挙げました。。。(^^;

認知症という状態像を引き起こす疾患において
impairmentは不可逆的に進行していくという定義になっています。

こういうところは、作業療法士は大いに反省して修正する必要があるところだし
作業療法で何をしているのかということをもっと明確化すべきだと考えています。
逆に言えば、ここに作業療法の今後の可能性もあると考えています。

見た目として、「生活障害やBPSDが良くなる」ということは可能だと思いますが
それは、impairmentが改善されたわけではなく、disabilityが改善された結果です。

また
「認知症のある方に寄り添ったケア」とは、よく聞く言葉ですし
ケアの理念として大切だと思います。
でも、どういった言動が寄り添ったケアで、どういった言動がそうでないのか
具体的にはあまり検討されていませんよね?
検討されているとしても、心理社会的な側面に偏っていませんか?

認知症は脳の病気です。
同じ脳の病気である、脳血管障害後遺症片麻痺の方を想定して比較すると
明確になってくることも多々あると感じています。

例えば
片麻痺のある方に対して
「なぜ、その手が動かないのよ!」とは言わないけれど
認知症のある方に対して
「なぜ、同じことを繰り返し言うのよ!」と言いたくなることはあるかも?

例えば
片麻痺のある方に対して
「気持ちに寄り添う」ことをしても
優しく、言動を否定しないで接しても
麻痺が改善するわけでもなく、ADLが改善するわけでもありません。
ただ、人として、対人援助職として、当たり前のこととして行うだけです。

ところが
同じ脳の病気なのに
認知症のある方に対しては
優しく、言動を否定しないということが強調されすぎていませんか?
人として、優しく、言動を否定しないように接しても
認知機能障害が改善することはありません。
生活障害やBPSDが直接的に改善することはありません。

ただし、認知症のある方の余分な不安や混乱をきたさないように
という側面はあると思いますし
人として、対人援助職の基本として必須の態度だと思います。
そのような側面は、片麻痺のある方に対しても同様なのに
なぜ、こんなにも心理社会的側面が強調されて
本来の障害を把握するということが疎かにされてしまうのか。。。

HDS-RやMMSEをとる人は多いけれど
その結果を活用して対応を工夫している人は少ないものです。
検査結果の違いによって対応の工夫を変えている人は少ないですよね?

本来、検査は対応に活用するために行うものなのに
検査は検査
対応は対応
として切り離され
「認知症のある方に寄り添ったケア」という抽象論・総論になってしまう。
抽象論・総論だからこそ、声が大きくなることはあっても
具体的な検討が疎かになる。

「認知症のある方に寄り添ったケア」という理念を
唱えれば実践できるわけではありません。

理念をどのようにしたら具現化できるのか
ということを日々の臨床現場で具体的に検討することが必要です。

片麻痺のある方それぞれに
できること、できないことがあり
その方それぞれにお気持ちの揺れがあります。

認知症のある方も同じです。

認知症は脳の病気であって気持ちの病気ではないのだから
気持ちに寄り添うことは必須だけれど
気持ちに寄り添うだけでは
片麻痺やADLの改善に直結はしないのと同じように
認知機能障害や生活障害やBPSDにも直結はしない
ということを明確に再認識する必要があると考えています。

片麻痺のある方に
着替えをする時にはポイントがあります。
そのポイントを知らないで着替えをさせて
「着替えが大変で困っちゃう」という余分な困りごとが減るように
ポイントを知っていることには意義があります。

同じように
認知症のある方に
さまざまな対応をするポイントがあり
伝えていくことの意義があると考えています。

臨床現場で困った時に
「〇〇という状態の人がいるんですけど
 どうしたらいいでしょうか?」
というカタチの質問をしなくて済むように

自分自身で困りごとを解決する思考回路を構築することができるように