骨折したことを忘れる

 

近時記憶障害のある方が骨折して手術を受けリハを開始する際に
よく遭遇する「リハ拒否」とよくしてしまう「対応あるある」について説明します。

骨折の手術後のリハで
平行棒歩行を導入しようとして
立ち上がろうとした時に認知症のある方が痛みを感じることはよくあります。

ここで
近時記憶障害があると
ご自身が転んで骨折して手術したことを忘れてしまっている場合もあります。

そうすると
「立ったから痛い」→「痛いから立ちたくない」と
誤認して立とうとしなくなることがよくあります。

ここで「立とうとしない」という表面だけを見て
「意欲低下」「リハ拒否」などとセラピストが誤認してしまうこともまたよくあることです。

このような場合には
「立とうとしない」という表面の事象だけを見て
なんとか立ってもらおうと考えて
懇切丁寧にお願いをしたり
笑顔で場を盛り上げたり
強引に立たせようとしたり
といったこともあるのではないでしょうか?

そして一生懸命立たせようと、あの手この手で対応しているのに
一向に立ってくれる気配がないと
一層「意欲低下」「リハ拒否」「認知症だから」とレッテルを貼ってしまう
。。。かつてはそのようなセラピストも少なくありませんでした。

 これは、そのセラピストの人間性の問題ではなくて
 HDS-RやMMSEという検査をしても
 その検査結果から導き出される近時記憶障害の程度、記憶の連続性の状態の意味を
 セラピストが明確には認識しておらず、対応に活用できていない
 ということを意味しています。

 評価を対応に活かす
 対応に活かすために評価する
 評価できるために検査する
 というのではなくて、認知症だからHDS-RやMMSEをする
 という思考回路になってしまっているのだと考えています。

 より的確な対応ができるように状態像を的確に把握する
 そのための評価であり、検査であるべきです。

話を本題に戻すと
「立ったから痛い」→「痛いから立ちたくない」と誤認しているのですから
事実を伝えるべきです。
「立つと痛いかもしれません。
 転んで骨折して手術したからです。
 だんだんと痛みも軽くなってきますから、頑張って立つリハビリをしましょう。」と

そしてその伝える頻度は
対象者の記憶の連続性に基づいて判断します。
(評価を対応に活かす)

リハの開始時に一度説明すれば大丈夫な方もいれば
立ち上がりの練習をする直前にその都度伝えたこともありました。

「立ち上がろうとしない」
「立ち上がりの時に拒否をする」
という表面的な事象には、
その方の障害(近時記憶障害)とともに
その方の能力(即時記憶は維持)もともに反映されています。

障害と能力のスペシャリストとして
とりわけ、暮らし・生活と医学の橋渡しの専門家として養成された作業療法士であるなら
表面的な事象に反映されている障害と能力を観察・洞察できるようになること
そのために知識の習得と活用が求められていると考えています。

「ここにいていいんですか?」

 

 

 

近時記憶障害の現れ方の一例をご説明します。
たとえばこんな風に現れます。

敷地内で開催されているお祭りを認知症のある方と一緒に見学に行きました。
「ここでしばらくお祭りを見物しましょう」と声をかけました。
が、しばらくして不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいていいんですよ」と答えました。
ホッとした表情で「それなら良かった」とおっしゃいました。
けれど、5分もしないうちに不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいていいんですよ」
「お祭りを見物しに来たんですよ」と答えました。
ホッとした表情で「それなら良かった」とおっしゃいました。
けれど、5分もしないうちに不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいてもいいんですけどお部屋に戻りましょうか?」と言うと
うなづいたのでお祭りの見学を途中で切り上げて帰ってきました。

その場その場での言われた言葉の意味は理解できますが
時間が経つと忘れてしまいます。(時間干渉)
不安そうな表情を浮かべていたことから
おそらく「見慣れない場所だ」「いつもいる所とは違う場所だ」ということは
認識できていたのだと推測します。(能力)
だから「ここはどこ?」「なぜここにいるのだろう?」と不安になった。
そしてそのことを言葉にして尋ねることもできます。(能力)
答えてもらえれば理解することもできますが
時間が経つと忘れてしまう。
記憶の連続性が低下している。

即時記憶は保たれているけれど
数分前のことは忘れてしまうという近時記憶障害が現れています。

「さっき言ったのに同じことを何回も言わせないでよ!」
と怒っても状況は変わりません。
認知症という状態像は「覚えたくても覚えられない」のです。
 
「さっき言ったのに同じことを何回も言わせないでよ!」という言葉は
例えて言うなら、脳卒中後遺症の片麻痺のある方に
「どうしてその手は動かないのよ!」と言ってしまうのと同じことを意味します。
そんなことは誰も言いませんよね?

 

 



「オススメAct.&工夫」追加しました

 

 

オススメのActivityや工夫について追加しました。
https://yoshiemon.info/activity/program/

ほんのちょっとした1工夫をするだけで
認知症のある方が混乱せずにActivityを遂行しやすくなります。

その1工夫をしたほうが良いか否かも
状態像の把握、評価を根拠に決定します。

 

本質を希求

  

このサイトは
本質を希求するサイトです。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。

 

事実の子たろうとし
本質を追求しようとする人は必ず存在する。

周囲と軋轢なく過ごすニーズのある人は
今、周囲にいる人と同調することが必要でしょう。

商売をしている人は
時代より一歩先の商品の提供が必要でしょう。

でも
事実の子たろうとしている人にとって
大切なものは他にある。

自分の眼で観て自分の頭で考える。

 「もののけ姫」で
  アシタカが「曇りなき眼で見定め決める」って言った

  エボシは笑ったけど。

ドイツの「たった一人でも反対できる人材を育てる教育」って
本当にすごいと思いました。
その発想と発想を支える根底にある信頼。

最前線は目の前にいる対象者の方

声の大きな人や
露出の多い人の話に耳を傾けても
現実を見据えるとどうしてもそうは思えない
でも、どこがどう違うのか明確に言葉にはできないから
言えないけれど、もやもやした違和感を感じている
必ずどこかにいるはずのそのような人たちへ向けて

「人あるところに人なし。
 人なきところに人あり。」
 
本質を追求したい。
そして、本当に役に立つ実践を展開したい。

 

 マハトマ・ガンジーの言葉
『 You should be the change that you want to see in the world. 』
  あなたがこの世界に望む変化にあなた自身が成りなさい。 

 

かつて
私が必死に追い求めていたけれど見当たらなかったものだから
今、私の手にあるものを次の世代へ手渡しておきたい。

 

 

Act.提供時にまず考えること

 

「まず第一に患者を傷つけないように」
ソクラテスの誓いは、この言葉から始まるそうです。

私は医師ではありませんが
この言葉は戒めとして心がけている言葉です。

作業療法は素晴らしいと言う人は少なくありませんが
プラスのパワーが強いものは、反転に転じた時に大きなマイナスをもたらします。
どうしたらその素晴らしさを実現できるのか
どうしたらマイナスをもたらさずに済むのか
その具体的な考え方や方法論について言及しているのを聞いたことがありません。

過去に意図していなかったとしても結果的に
対象者の方を傷つけてしまったことは私にもあります。

脳みそ預かり事件もその一つですし
「こんなに下手くそになってしまった」と言わせてしまったこともあります。
何かをする」ことの意味を考えさせられたこともあります。

そこから、どうしたら良かったのか必死になって考え続けました。

まず、最初から大当たりを狙わないことだと考えています。
大当たりを狙うより前に、まず、外さないこと。
外さない実践を続ける中で
対象者の言葉、言葉にならない行動というもう一つの言葉に
注意深く耳を傾けていくことで
段々とピンポイントでActivityを選択・提供できるようになる。

外さないためには
まず、特性にあったActivityの傾向を考えることから始めています。
詳細は、こちらの記事をご参照ください。

 

OTどこでズレたのか:観察

 

 

先の記事で書いたように
かつてのOTは臨床で結果を出すことを第一義としていたと思います。

ところが
いつからか、科学的でない、客観性がないなどの批判を受けて
方法論と結果の客観性、数値化が求められ
エビデンスという言葉が席巻するようになりました。

私は最初のズレがここで起こったと考えています。

そもそも
作業療法は薬物療法とは異なる実践の科学であり、人文科学、観察科学でもあります。
この時に、対象者は unique であるのだから、方法論も千差万別で当たり前だと
はっきりと言明すべきだったのではないかと考えています。

シングルケースデザインは
もっと後になって導入された方法論ですが
症例検討という方法論はすでにありました。

 河合隼雄は症例検討の重要性を強調していました。
 良い症例検討は、症例を超えて分野を超えて学びがあると。
 個の追求が普遍に通じるという記載を読んだことがあります。

実践の科学、観察科学であるからこそ
症例検討をきちんと導入できれば、意義があったように考えています。
ただし、症例検討が有意義に行われるためには
症例の状態像の共有化が為される必要があり
そのあたりが難しかったのではないでしょうか。
(動画で治療場面を撮影するのはもっと後になって導入されたと思います)

観察力って本当に人によって異なります。
さらに、見てはいても知識がないと別の判断をしてしまいがちです。
共有化が為されないままに検討が進むと議論が空中分解してしまいます。

また優秀な指導者がいないと
症例検討を効果的な実践に活かすことが難しいという側面もあります。

そこで
観察力・洞察力を磨くのではなく
数値化された結果の客観性の方向に進んでしまった。
そして、そのためにバッテリーの使用が求められるようになった。
そこから「評価の検査化」が進んでしまったようにも感じています。

もう一つのズレは目標設定です。
これについては次の記事で。

 




評価と治療は車の両輪

 

 

「評価と治療は車の両輪」
「評価が広がり深まるほどに
より的確な治療ができるようになる。」

私が学生の頃に
どの外来講師もみんな声を揃えて言っていました。

本当にその通りなんですよね。

 

困難事例に対して
ブレークスルーを見出せた時には
上の言葉の後半のくだりに相当することが本当に現れます。

そしてそれは大抵の場合に
「困難」と私たちが判断した場面そのものの対象者の言動に
ちゃんと解決策が反映されているものです。
それを私たちが観察・洞察できるかどうかが問われている。

「広く深く評価できるほど、より的確な治療ができる」

そして今は
「評価と治療は車の両輪」という言葉には
同時性ということも含まれていると感じています。
評価ができるということは治療的対応をしていることでもあり
治療的対応をしているからこそ評価ができるとも言えます。

ただ、今思うに
どの講師も具体例を出して説明してくれたわけではないので
たぶん当時流行していた言葉なのかも?
誰かに言われたことをそのまま合言葉のように言い合っていたのかも?
と思ってもいます。

例えそうだとしても、
学生は素直だから
言われたことはそのままそういうものだと信じます。

教わった「言葉」を
「概念」としてどれだけ理解するか
「実践」にどれだけ役立てるかは
個々の学生に委ねられるわけですが
「教わった」ということは
入り口、ドアの前に立てる、ドアを開く鍵をもらった
ということを意味します。

作業療法は実践の科学なのですから
こういった実践に役立つことを学生の時に教えてもらえて
本当に良かったと感じています。

私が幸運だったと思うことは
学生時代に「作業療法は素晴らしい」などと
唱える講師や実習指導者は一人もおらず
学院の教員には「君たちのような若造が人様を助けるなんで無理だ」
「だからこそ最善を尽くしなさい」と言ってもらったことです。

 

 

サイト更新しました

 

講演情報にPOSTさんに掲載された記事一覧を追加しました。

 

相手が使う表現を使う 

 

 

声かけの工夫>聴覚情報>声 のところでも書きましたが
私はいつも認知症のある方が使っている声の大きさやトーンに合わせて
自分の発する声を同調させるようにしています。

大きな張りのある声で話す方には
私も張りのある大きめの声で
ゆっくり穏やかな声で話す方には
私もゆっくりと穏やかな声で

それと同じように
認知症のある方がよく使う表現に合わせた声かけをするようにしています。

冗談で返してくる方には
私も冗談を多用し
丁寧に接する方には
私も礼節表現を多用します。

例えば
場所の移動の促しって
結構、抵抗される場合が多いかと思います。

使う言葉質的側面( 援助の言葉・意思表明の言葉目的の言葉・手段の言葉 )
を踏まえて移動を促す声かけをするだけでなく
認知症のある方の特性、よく使う表現にそって声かけします。

冗談を好む方には冗談を交えて
丁寧な方には礼節表現を強調して

そうすると
移動の促しをしても
あんまり拒否されることってないんです。


 拒否されるとしたら
 その方が拒否する何らかの必然があります。
 そこを探らないと。。。

つまり
認知症のある方への対応の工夫は
生活障害やBPSDで困った時にだけ行うものではなく
関わる時には常に認知症のある方の能力と困難(障害)と特性を踏まえて
対応しています。

いつも
評価をもとにした関わりをしています。
常に意識的・意図的に。
その方それぞれに。

記憶の連続性、近時記憶障害の程度については
HDS-RやMMSEをとらなくても
ふだんから意図的に関わっていれば
かなりの程度で把握することが可能です。
(HDS-RやMMSEをとることを否定しているわけではありません)

そして最も重要なことは
把握した情報は関わりに活用することです。

私たちが暮らす上では
普段無自覚に参照している経過や状況・背景といった前提要件があるわけですが
近時記憶障害があると、それらの前提要件を忘れてしまいます。
認知症のある方に対して関わる時に
それらの前提要件について触れてから「今必要な話」をするのか
触れなくてもすぐに「今必要な話」をして良いのか判断して会話しています。

 おそらくですが
 多くの人がこういった、やろうとすれば誰でも今すぐにできる工夫
 といったことをしていないんじゃないかと感じています。
 〇〇法とか〇〇理論とか、何か効果的な特別なものがあると思っている。。。

認知症のある〇〇さんが
受け取りやすく、受け入れやすい、言葉や対応を選択して使う。

それは
〇〇さん固有のもの。

△△さんには、△△さんが受け取りやすく、受け入れやすい、別の対応をする。

そのためには
〇〇さんの状態、△△さんの状態を的確に把握しなければ。

 

対応の工夫は、オーダーメイド かつ 何の問題も起こっていない時から日常的に
 

 


 

サイト更新しました

サイト更新しましたのでお知らせします。
プロフィールに過去のインタビューを追加掲載しました。

10年前の県士会ニュース
地域リハ部から依頼されたインタビューです。

  一般社団法人神奈川県作業療法士会ニュース 2011vol.147 p.8〜9
  シリーズ「認知症のある方への作業療法」ベテランOTへのインタビュー
  「認知症のある方への作業療法<前編> 成功と失敗」

  一般社団法人神奈川県作業療法士会ニュース 2011vol.148 p.10〜11
  シリーズ「認知症のある方への作業療法」ベテランOTへのインタビュー
  「認知症のある方への作業療法<後編>OTへのメッセージ」

「脳みそ預かり事件」を検索していて発掘しました。
改めて読み直してみて、10年も前のことですが、内容は全く古びていないし
我ながら良いこと言ってる。。。と思いました (^^;

もう一つ思ったことがあって
インタビューとは協働作業なんだということです。
インタビュアーとインタビュイーの協働作業。

この時の聴き手の河村先生には
きっと私と通底するような「体験」があったのではないかと今思っています。

当時の私には(今もですが)
臨床家として、なんとか現状をどうにかしたい、
伝えていきたいという気持ちと考えがあり
河村先生には良い作業療法士を育成したいというお考えと実践があり
違う方向から同じ部分を深掘りできたような実感があったことを覚えています。

ちなみに
検索していた「脳みそ預かり事件」は前編に出てきます。
善意からの「一緒にやるから大丈夫」という言葉にある落とし穴について
こちらが認識しておくべきだと今も考えています。