「現場で本当に役立つ認知症研修会」終了!


ただいま、第1回目の勉強会が終了しました!
covid-19対策で大変な中、また年度末でお忙しい中、
ご参加くださいました方、お疲れさまでした。

アンケートをざっと拝見したのですが
「わかりやすい」「うん、うんとうなづきながら聞いていた」「評価の重要性を再確認できた」などの
お声をたくさんいただきました。

開催時間についても「ちょうど良い」というお声が多かったです。
平日夜間の勉強会に参加したということは、参加可能だったということなので
(都合悪い方は参加できない)
そこを差し引くにしても
夜間に1テーマ限定で臨床現場で役立つ知識を提示するという勉強会への
ニーズもありなんだということは実感できました。

これってオンラインにぴったりじゃん!とも思いました。

わざわざ出かけるのに、40分の研修会じゃあ。。。と思っても
ご自宅でリラックスした雰囲気の中で40分なら参加してみようと思えるかも。

ただ、話している方としては、40分は本当にあっという間で
本当に内容を絞らないとすぐに時間超過しちゃうなぁーとも思いました。

有益なアドバイスは具体的2


NHKのスポーツ✖️ヒューマンという番組を見て
なるほど!と思いました。

スキージャンプの小林陵侑選手のお話で
葛西紀明チーム監督が
踏切の時に、スリップしていることを見抜いて
真下に力を加えるようにというアドバイスのもと練習してから
飛距離が伸びたそうです。

その練習というのが
坂道をローラースケート靴を履いて障害物をジャンプしながら
バランスを取って降りる練習

なるほど!
確かに真下に荷重しないと滑ってしまいます。

身体の働きを変えるために
必要な要素のある場面設定をして繰り返し身体に動きを叩き込む

有効なアドバイスは具体的

場面設定の意図も明確

なるほどーと唸ってしまいました。


しのぐ ≠ 適切な対応

 

「しのぐことと適切な対応とは違う」
ということを具体的に事例を提示しながらよくお話しています。

そうすると
講演後のアンケートなどで
「普段していることをしのぐと言われて傷ついた」
「ディスってる」
と書かれたりしたことがあります (^^;

私はその場をしのぐことを否定してはいません。
しのぐしかない時には、しのぐという意識を持って堂々としのぐべきだと言っています。
ただし、しのぐことと適切な対応との区別はするべきだと
具体的なケースの障害と能力を元にお話をしています。

下記の記事にも記載してありますので
よかったらご参照ください。

つまり
帰宅要求のある方の状態把握ー再生・再認の可否とその程度ーをせずに
表面的に
タオルたたみをしていただいたり
お茶を飲んでいただいたり
気を逸らす何かに誘ったり
「今日はもう遅いから」
「外は雨が降っているから」
などと時には事実と違うことを言ったり。。。

そのような対応をしている自分の胸がチクンと痛んだことはありませんか?

暮らしの場面に近いほど
しのぐしかない状況は山ほど出てきますが
適切な対応としのぐということは天と地ほどの差があります。

だって
しのぐことが適切な対応だとしたら
どれだけ認知症のある方を言いくるめることができるか
どれだけ上手にウソをつくことができるか
ということが大切で
言いくるめ方やウソのつき方が上手いほど良い対応
ということになってしまいます。

そんなバカなことがあるはずありません。
そんな実践をしながら「寄り添ったケア」をしているとどうして言えるのでしょうか?

かつて
帰宅要求をしていた方が落ち着いた時に
「あんたと話してると頭の中がスッキリしてくるよ」
と言われたことがあります。
とても嬉しかった。。。
その方がご自分を取り戻している。
そしてその援助ができた。。。本当に嬉しかった。

しのぐことを良い対応と思い込める人は
認知症のある方の能力
生活障害やBPSD(例えば帰宅要求)に
反映されている能力を観察・洞察したことがないんだと思います。

認知症のある方が
「またそんなことを言って私を騙そうと思って」
「私がバカだと思っていい加減なことを言って」
と必死になって叫んでいるのを見たこともあります。

そこしか見ていないので実際に何があったのかはわかりません。
もしかしたら、今言いくるめられたり、いい加減なことを言われたのかもしれないし
そうではなくて、今はちゃんと応対しているのに
かつて騙そうとしたり言いくるめられたりしたことが蘇ってきて
叫んでしまったのかもしれません。

認知症のある方は
初期や中期には介助者の言いくるめやウソをそうと知った上で
騙されてくれることもありますが
こちらを慮ってわざわざ同じ土俵に乗ってくれているだけなので
職員が言いくるめたり、ウソをついたりしても、付き合ってくれている。
 
その場で困ったことが生じない、その場が収まった=良い方法とは限らないのです。

後年、施設や病院が変わって
新しい職員が真摯に応対してくれているのに
過去の抑圧した感情をぶつけてしまうということも起こってきます。
しかも、そういうことが起こっていることを前の不適切な対応をしていた人は
知らずに済んでいるから自覚が起こらない。。。

食事介助で、上の歯でこそげ落としたり、スプーンを口の中に突っ込んでも
大抵の場合直後にひどいムセが起こることはありません。
それだけの対応力を対象者自身が持っているからです。
そのことがわからない介助者は自身のスプーン操作を改めることはありません。
今、ムセていないし、表面化する問題がないから自身の関与を疑えない。
でも段々と能力低下してくると対象者が対応しきれなくなってくる
そこで大きな問題が生じてくるけれど、
先の介助者にはその問題に自分が関与していたという自覚が生まれない。

短期的な結果を求めて、長期的な困難を助長させている
 
同じコトが違うカタチでいろいろな場面で現れています。

対象者ご本人にとっても
真摯な職員にとっても
余分な困難を抱えるだけだし
信頼関係を作っていく阻害因子になってしまいかねません。
そんな対応が本当に良い対応でしょうか?

ごむてつさんに
以前にアンケートで
「自分が普段やってることを『しのぐ』って言われてショックだった」
と書かれたことを話したら
「ショックを受けてよかったじゃないか」
「そこからどうするかが大事じゃないか」

って言われたことがあります。

事実を指摘されたら
学び直すチャンスだし、そのための研鑽
なんじゃないのかな?

事実の指摘をディスるって言う人もいますが
その人自身のディスる傾向を私に投影しているだけなんですよね。。。

半ば常識化している不適切な対応は自覚しにくいものです。

食事介助でのスプーン操作でも
上の歯でこそげ落としたり、奥に入れるようなスプーン操作をしていても
大半の人は自己修正できません。
他の操作方法があることを知らない。
他の操作方法と比べることができないから違いがわからない。
違いの意味を考えることもなかったし、教えてもらったこともないからです。
ところが、実技講習で実際に上記のような不適切な介助と適切な介助を両方とも受けると
その違いを明確に感受できます。

帰宅要求のある方への対応も全く同じで
半ば常識化している誤った対応と適切な対応を併記して説明されて
初めて、両者の違いとその意味に気がつける人はたくさんいます。

「反省した」
「目からウロコだった」
「明日からやってみます」
「もう一回頑張ろうと思った」
アンケートにそのような記載をしてくれる人もたくさんいて
本当に良かったと思います。

より広がりと深みのある実践の一端に触れて
もっと高みを目指して実践するためのきっかけが
研鑽としての研修会への参加じゃないのかな?

そうでないとしたら何のために研修会に来るんだろう?
誰かに肯定してもらうため?
私はそんなことを考えたことがなかったから
私もある意味でショックでしたけど
そういう人もいるんだということがわかってからは
なおさら事実に基づいて考え対応する
事実を事実として観察し洞察することの重要性と
それは現実に実践が可能なのだと伝える重要性を痛感しています。

「あそこへ行く!」対応と解説

前の記事「あそこへ行く!」の答え、
どう対応するのか、そして、その解説です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」

 郵便局に行こうとしていたんですね?
 郵便局に行って何をしたいんですか?

「郵便局には〇〇さんがいてね。
 前に〇〇さんのことをいろいろお世話したんだよ。

 〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
 洋服がたくさんあるんだ。」

 〇〇さんにちゃんとやって欲しいことがあるんですね。
 (両手を太ももの下に入れているのを見て)
 ところで、今、寒いですか?

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

 服を取りに行きたかったんですね。
 それでは、洋服のあるところにご案内します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上着は、その方のお部屋のベッドの上にちゃんと畳んで置いてありました。
 その後上着を車椅子の後ろにかけて食堂に戻りましたが
 立ち上がることはありませんでした。

いかがでしたか?

それでは、私が何を意図して何をしていたのか
解説をしていきます。

この方は、最初から「手段(方法)の言葉」を使っています。

 「あそこに行く!」

あそこに行って、何をしたいか ということは言っていません。
そこで、まず最初に目的を尋ね返しました。

  あそこに行って何をしたいんですか?

それに対する答えが
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と
もう一度、「手段(方法)の言葉」で答えられました。

そこで、再度、目的を尋ね返しました。

  郵便局に行きたいたんですね?
  郵便局に行って何をするんですか?

  ここは、口調に気をつけないと。
  詰問しているような口調にならないように気をつけながら
  語尾は小首をかしげるようにして尋ねました。

そこで、ようやく、この方がしたいことを答えてくれました。

  〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
  洋服がたくさんあるんだ。

ちゃんとやってほしい。
その気持ちを受け止めたことを言葉にして伝えます。

  〇〇さんにちゃんとしてほしいことがあるんですね。

何をちゃんとして欲しいのか、尋ねてみないとわかりませんが
洋服に関係あることだと言っています。

ここでその方の様子を確認すると、両手を太ももの下に入れています。
この方は寒がりだし、両手を太ももの下に入れてるのは寒いからかな?
と思って具体的に尋ねてみました。
イマ、ココでのその方の感覚を確認する言葉です。

  ところで、今、寒いですか?

ここで、ようやく 目的の言葉 が出てきました。

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

この方が
あそこに行きたかった
郵便局に行きたかった
本当の理由は、上着を手元に置いておきたかった
ということがわかりました。

このように
認知症のある方が
何かしたいと思った時に
直接的にしたいこと(目的)を言葉にせずに
したいことを達成するための手段(方法)の言葉で表現することは
よくよくあります。

そのことを職員が認識せずに
表現された言葉だけを切り取って
「あそこへ行きたい」
「郵便局へ行きたい」と言われた時に
「郵便局なんてここにはない」
「今は寒いから郵便局には出かけないほうがいい」
「あそこはパントリーでその向こうは廊下。よく見て」
「そんなことより、お茶でもいかが?」と言ったり
あるいは
「じゃあ、あそこへ行ってみましょう」と車椅子を押して行って
「郵便局はありませんよね?」などと言っても
かえって大声で怒鳴られまくって立ち上がり続けて
ほとほと困り果ててしまう。。。ということも現場あるあるです。

でも、よくよく考えてみて下さい。

上記のような職員の対応は
「立っちゃダメ」「立たないで」と言われても、
それでも
、なおかつ
どうしても郵便局へ行きたいと思う、あなたにとっての必然を教えて下さい。
ではなくて
  あなたが何をしたいのかは感知しない
  あなたの言っていることはおかしなことだ
  おかしなことを言っているとわかってね
と言っているのと同じなんです。

だから
「やっぱりあんたは私の話を聞いてくれないじゃないか」
「だから〇〇さんじゃなきゃダメなんだ」
「郵便局に行くって言ってるのに違うところに連れてきただろう」
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」
「そうやって私を言いくるめようとして!」
「私のことをバカだと思っているんでしょう!」
と怒り出してしまう。。。

それに対して
この方は最近怒りっぽいから認知症が進行したのかな?と
認知症のせいにして、自身の関与を吟味検討することなく終わってしまう。。。

でも
この方の怒りはもっともなこと、正当な怒りではないでしょうか?

この方が本当は何をしたいと思っているのか
困っていることは何なのか
答えることができるのは、その方だけ
対象者の方だけです。

対象者の方は答えている
答えを聴くためには工夫が必要
です。
私たちは聴けている?

 

答えを聴くために必要なのは
知識の明確な認識であり、
その知識をもとにした観察・洞察であり、
自身の意図を的確に実現できる技術です。

 

詳細は
「声かけの工夫の考え方」
に説明してありますので、ぜひご参照ください。

この記事で説明している
「手段(方法)の言葉と目的の言葉」を理解しておくと
認知症のある方とのコミュニケーションの質が上がり
ケアの質、対応の工夫の質が格段に上がると思います。
(ただし、適切に実践できるためには反復練習が必須です)

もうひとつ
大切なことは「声」です。
「何」を言うか考えても
口調に無頓着だったりすると
認知症のある方は口調のキツさに反応して怒ってしまうことがあります。

認知症のある方への声かけ、コミュニケーションにおいて
What、言葉だけでなく
How、声もcontrol して選択しながら関与できることが大切です。

認知症のある方の答えを聴かずに
表面的な困りごとをどうやって収めるのか考える風潮もあります。
もちろん、私たちの手は2本しかないから
気持ちがあっても収める、しのぐしかない時だってあります。
そのような時には、しのぐ自覚のもとに正々堂々としのげば良いと思います。
ただし、決して「しのいでいることと適切な対応の混同をしない」ことが重要です。
だって、違うんですから。

今はどの職種も忙しい。
時間も人手も限りがあります。
だからと言って
事実と内心の要請とを混同するから話がややこしくなってしまいます。
課題解決において、この混同も現場あるあるではないですか?

本当に適切な対応は時間もかかりません。
適切な食事介助をすれば15~20分程度の通常時間内で食べられるようになるのに
適切なスプーン操作ができないから
対象者の食べるチカラが混乱・低下し、
結果として食事に要する時間が40分もかかってしまう。。。

同じコトが違うカタチで
認知症のある方への対応全般に関しても起こっているだけです。

まず、考えるべきは適切な対応、食事介助ができることであって
それは可能なのだということを実践し伝えることが
このサイトでの役目のひとつだと考えています。

「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

キノコと冬野菜は冷凍

 

キノコ類が冷凍できるって知らなかったんです。
冷凍したほうが旨味も栄養もアップすると知ってから
椎茸、舞茸、エリンギ、エノキ、しめじ等
いつも冷凍しています。

その他にも
長ネギ、白菜、にんじん、里芋も冷凍常備中
良い長ネギが手に入ったら、緑の部分を細かく刻んでこれも冷凍

具沢山汁が簡単にできます。
キノコからも野菜からも出汁が出ておいしいお味噌汁がすぐにできます。

鍋の時も
白菜に火が通るまで時間がかかったけど
冷凍白菜ならあっという間に火が通るので調理時間も短縮できます (^^)

 

総合的に情報収集


私は認知症治療病棟に勤務しているので
病棟にいる時間が長いというメリットを最大限活かすことができます。

自分が関与するリハの時間以外に
対象者の方がどんな風に過ごしているのか
時間帯によっての変化などを
すぐに自分の眼で確認することができます。

電子カルテは本当に便利で
採血結果などもすぐに確認することができます。

確かに
生活障害やBPSDには
対象者の能力と障害と特性が反映されていますが
障害が本当に障害なのか
自身が判断した障害なのか
ということに関して、きちんと確認をしています。

  30年以上も前に
  実習に行った時にものすごく怖かったことは
  「自分が対象者の状態像を判断する責任を持つ」
  ということです。

  見立てを間違えたら、申し訳ない。
  他人様の状態像を間違えて把握したら、とんでもなく失礼なこと。

  自分は幼少の頃にそろばんを習っていたのと家庭環境から
  検算する、確認するということは習い性となっていましたが
  それでも、強く感じたことです。

見立てた障害であるならば
特定の場面だけでなく
いろいろな場面に影響が現れるから
ある特定の場面だけでなく、他の場面での現れもきちんと確認しています。
病棟にいる時間が長いとその確認が容易に行えます。

一番、良いのは
自然な場面での対象者の方同士の関係性を観察できることです。

 職員に対しては
 職員だということがわかって気を使った対応をする方も大勢いるからです。

 何か問題が表面化してから観察するのではなくて
 普段から観察していれば、普段との違いを明確に感受することができます。

例えば
普段は誰に対してもニコニコして穏やかに応対する方なのに
何をどう言っても怒りっぽくなる方がいます。
身体の不調がないか、電子カルテで体温表を確認すると
便秘で排便が3日ないことがわかります。
当然、看護介護スタッフは排便援助をしていますから
排便後の言動変化を観察していると穏やかになったことがわかります。

一度、そういうことがあれば
排便間隔を頭の中に入れておいて観察を重ねる
あぁ、便秘の時に怒りっぽくなる方だということがわかります。

この方への対応としては
結果として起こっている「易怒性」への対応を考えるのではなくて
排便コントロールをすることが大切だと判断できます

また
認知症のある方では水分量が管理されていたとしても
低ナトリウム血症や脱水が起こりやすいものです。
今まで食事を自力摂取していた方が
急にスプーンをうまく扱えなくなり食べこぼしが増えるということも起こります。

結果として起こっている
スプーンをうまく扱えないという表面的な困難を見て
自助具を作って提供しても食べこぼしは改善されにくいものです。

低ナトリウム血症であれば
食事以外の場面でも倦怠感や覚醒低下などが現れているものです。
この時に普段のその方の暮らしぶりを認識できていれば
今、起こっていることとの違いを判断できます。
元来、血中ナトリウムが低めの方は要注意。
主治医と相談して、採血、低ナトリウム血症への対応をすることが最優先となります。

これらのケースは非常にわかりやすい例ですが
「何をどう言っても怒る人がいるんですけど、どうしたら良いでしょうか?」
「食べこぼしが多い人がいるんですけど、どうしたら良いでしょうか?」
という表面的にハウツーを求める質問や
そのような質問に反映されている臨床思考が役に立たないことの証左でもあります。

状態把握、評価、アセスメントが重要とは
繰り返し強調していることですが
的確な状態把握のためには、その前提として総合的な情報収集が必須です。

総合的な情報収集とは何か
普段の対象者の能力と障害と特性を把握していること
全身状態とその傾向と経過を把握していること
何か普段と違う状態があれば、該当場面だけではなくその他の場面での言動を確認すること

総合的な情報収集がないと状態像を見誤ります。

非常によくあるのが
「口の中に溜め込んでしまって飲み込んでくれない人がいるんですけど
 どうしたら良いでしょうか?」
という質問です。

覚醒状態はどうですか?と確認すると
「大丈夫です」という答えが返ってきます。
食べる時に目を閉じていませんか?
食べ始めは飲み込んでくれるけど後半になると溜め込みが目立ちませんか?
食事以外の場面でも目を閉じていることが多くありませんか?
声をかけても返事がないことが多くないですか?
と確認すると「その通りです」と言われたりします。
「それを覚醒不良と言います。溜め込みよりもそちらの方が問題です。」
と答えることがよくあります。

食事の場面での困りごとは
なんとか食べていただこうとして
「食べる」ということに限局して
表面的に見える問題を本質的な課題として捉える人が多くいます。

このような臨床思考は食事場面に限りません。
該当場面での職員の無自覚な要求が認知バイアスとなって
対象者の状態像把握が的確に行えないということは現場あるあるです。

このような臨床思考は
問題を見誤らせ、誤認させ、対応を誤らせたり、後手に回ることになりかねません。

事実を事実として観察できる
事実に反映されている能力と障害と特性を洞察できる
その担保として、総合的な情報収集の必要性を痛感しています。

 

 

誤謬の罠


OTが陥りがちな誤謬の罠

立方体透視図模写テストや五角形模写課題を検査することはできても
構成障害とは何ぞや?と問われた時に答えられなかったり
トレイルメイクングテストの検査方法を知っていても
遂行機能障害とは何ぞや?ということを言語化できない人は少なくありません。

検査のための検査、テストのためのテストになっている。
この障害にはこのバッテリーをする。と教わったからやっている。
でも
概念を明確に認識することなく行っているから
結果を日々の行動観察と結びつけ、洞察することができない。

だとしたら
まずすべきことは
構成障害とは何ぞや?
遂行機能障害とは何ぞや?
という概念を明確に認識することから始めるべきです。

もしかしたら
養成校や各種研修会で
訳のわからない長い定義みたいなものを教えられて
わかったようなわからないような気持ちになって
でも「もっとわかりやすく、はっきりと教えてください」なんて言えるわけがなく
もやもやした気持ちを抱えながらも、
テスト対策のために言われた言葉を覚えるのに精一杯で
そのうち忘れてしまって
なんとなく心のどこかでマズイかも。。。と思いつつも
それとなく同僚や先輩に聞いてもちゃんとした答えが返ってこなくて
いつの間にかそのままになってしまっていた。。。
なんてことがあるんじゃないかしら?

OTは確かにさまざまな分野で
多種多様な知識と技術を蓄積・発展させてきましたが
一方で本質的な課題については
いまだに私が学生の頃と同じような状況が続いているようにも感じています。

たとえば
目標とは何?

今、即答できなかった人は
目標を目標という形で設定できていない人です。

そんなの別に大したことじゃない。
目標なんてどうでも臨床と関係ない。
そう思わされているかもしれませんが。。。

たぶん
目の前の臨床に追われていたということもあるのでしょうけれど
目の前のできごとには必ず本質も反映されているものです。
そういうことがわかる人って少ないものです。

今までは
概念の本質的な把握
明確に認識するということがどういうことなのか
曖昧な認識で臨床に向き合うとどのような弊害が起こるのか
言語化して説明できる先輩があまりに少なかった
実際のケースをもとに説明してくれる先輩が少なかったのではないかと考えています。

本質的な課題を改善・解決できないから
一層、表面的な対応に注力されてしまった。。。
理論、論文作成・発表、EBM、バッテリー、やりたいことをやる、OTの素晴らしさを語るetc. etc.

本当は自身の臨床能力を高める、結果と出すために
対象者の能力と障害と特性を見極め、観察・洞察を磨き
オーダーメイドの展開ができるように注力すべきだったと考えています。

いろいろな分野の中でも
認知症のある方に検査はできないから
「何をしたらよいのか、わからない」
「認知症は難しい」
という感想になるんだと思うけど
本質がわかっていないから認知症のある方への対応に困る
というカタチで現れているだけで
どの分野においても共通した問題が潜在しているんだと感じています。

もっと地道に
概念の本質を把握する、明確に認識するということを一人一人が始めるべきだったんです。
そうすれば、事実に基づいて観察することができるようになります。
観察ができれば、今その方に何が起こっているのかということを洞察できるようになります。
だから、結果として起こっている生活障害やBPSDに対してどうしたら良いのかということが
自然と浮かび上がってくるのに。。。

何事も始めるに遅くはなし

ひとりでも多くの人が
結果が出せる
臨床能力を高められるように
観察・洞察を磨けるように

養成校の教員も臨床家も
ともに手を携えて初心に返ってリスタートする
良い時期なんじゃないかな?

 

概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

ピンチはチャンス

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。
そのお手伝いができればと思って
こちらのサイトを立ち上げましたし
研修会も継続開催するつもりですし
今の自分でできることを実行していきたいと思っています。

 

有益なアドバイスは具体的

NHKの「王者のジャンプ」を見て
なるほど!と思いました。

宇野昌磨は、サルコージャンプの成功率を上げるために
コーチのステファン・ランビエールから
「踏切の感覚を掴むにはリンクの同じ場所でジャンプの練習をすると良い」
とアドバイスされたそうです。

有益なアドバイスって具体的

と改めて感じました。

私がご家族にお話する時や
他職種への伝達、退院先の施設へのサマリー記載など
いつも気をつけていることです。

具体的に言える、書けるためには
明確にわかっていることが大前提です。

以前にあるご家族から
「いろいろなところへ介護相談に行った。
どこでも抽象論を言われ、それはそうだとは思ったが
肝心の相談したことに対しては具体的な答えをもらったことがなかった。
あなたから初めて具体的に明確に説明されて答えをもらえた。
こんなことならもっと早く来ればよかった。」と

昔に比べれば相談機関、相談できる場所は増えています。
でも、ご家族が認知症のある方を誰かにお願いして
相談に出かけるのは容易なことではありません。

やっとのことでお願いして
作った時間で行ってみたら
抽象論、総論、理想論ではぐらかされたような感じがしたら
もう困った時に相談に行こうとは思わなくなってしまうのではないでしょうか?