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11月 23
11月 23
食べ始めの方によく使うのが
「かっぱえびせん」です。
適用可能な方は
1)痰がらみがない
2)喉頭が完全挙上できている
ここで大切なことは
ムセの有無ではなくて喉頭の挙上の動きです。
3)歯がある
4)嚥下5相の個々の能力は保持されているが協調性が低下している
「かっぱえびせん」の良いところは
1)なじみのあるパッケージ
2)ほど良い塩味
3)噛んだ後で唾液でほど良く溶ける
4)咀嚼を促しやすい
5)送り込みは少量でパワーがいらない
6)指でつまみやすい形状
7)ミニパックも発売されていて食べ残しても保存が容易
実際に使う時には
自力摂取できる方には
お皿からつまんで食べていただく
自力摂取困難な方には
前歯か犬歯の隣の歯の上に置きます。
口腔内に貯留が多少あったとしても
大多数は送り込み−嚥下できていれば
次の段階に進めます。
11月 23
食べ始めの方によく使うのが
ネスレの「アイソカル100」です。
適用可能な方は
1)痰がらみがない
2)喉頭が完全挙上できている
ここで大切なことは
ムセの有無ではなくて喉頭の挙上の動きです。
3)冷水3ccで喉頭完全挙上して飲み込める
「アイソカル100」の良いところは
1)水分と栄養を同時に摂取できる
2)1回量が100mlと少量から摂取できる
3)なじみの味がそろっている
4)複数の味が選択できる
5)ごくうっすらと粘性がある
6)ストローがついているので自力で吸って飲みやすい
7)紙パックなので押して介助も可能
実際に使う時には
たいていの方は自力摂取できるので
無理な連続飲みをしない限りは
その方のペースで飲んでいただけるように
紙パックを手に持って飲んでいただきます。
自分で摂取するのが一番安全です。
食事や水分の介助というのは、本当はとても難しいものです。
難しくないという人は、実は対象者の方に合わせてもらっているので
難しさを感じないで済んでいるだけです。
飲食するペースというのは
究極の手続き記憶でもありますので
現場あるあるの「早食いの人」を遅くゆっくり食べてもらうように行動変容を促すことは非常に難しいものです。
この場合には早食いでも安全に食べられるように食事形態や食具などの環境設定するという方策を検討することになると思います。
認知症のある方や生活期にある方の中には
喉頭の複数回挙上によって完全嚥下している方も少なくありません。
ご自分のペースで摂取していれば自然と身体が調整できているものですが
介助者が喉頭の動きを観察確認せずに介助してしまうと誤嚥・窒息の恐れがありますし、その場では何の問題も感じられなかったとしても(問題が存在しないわけではない)長期的には食べ方の混乱・低下を来す要因となってしまいます。
「食べる」「飲む」という
その方の行為をその方なりのループで完結できるように援助する。
直接的な介助だけが介助ではありません。
間接的な介助、食形態や食環境の設定が適切にできるということも、とても重要な介助です。
(現場あるあるとして、適切に間接的な介助をできるということは案外難しいのではないかと感じてもいます)
認知症のある方に限らず、生活期にある方の中には
嚥下ピラミッドが当てはまらない、逆効果となってしまうケースがあります。
咽頭期そのものには実は問題がなく
口腔期に問題があるというケースです。
その多くは
体力低下などによって起こる舌の易疲労です。
このようなケースで
粘性の高い食形態を提供すると
かえってうまく送り込みできず
持っている本来の咽頭期の能力を発揮できないということが起こってきます。
「ムセたらトロミ
トロミをつけたのにムセがあれば、もっとトロミ」
という形式化された対応が為されていることが現場あるあるです。
きちんと嚥下5相にそって観察していれば
「ごくうすいトロミをつけて提供する」という方法を選択できるようになります。
11月 23
食べ始めの方によく使うのが
グリコの「アイスの実」です。
適用可能な方は
1)痰がらみがない
2)喉頭が完全挙上できている
ここで大切なことは
ムセの有無ではなくて喉頭の挙上の動きです。
3)0.5㎤ほどの小氷片を咀嚼−送り込み−飲み込みが可能
「アイスの実」の良いところは
1)味が明確で複数の味が選べる
2)馴染みのある味がそろっている
3)食感が良く咀嚼の練習が安全にできる
最初に噛んだ時の歯切れの良さと
口の中で溶けながら味を感じることができる
ごく軽い粘性を伴いながら半液体状となる
4)一度に全部食べきれなくてもジッパーがついているので保存が容易
実際に使う時には
「アイスの実」1粒を箸で1/3〜1/4に切ってから提供します。
歯のある方には
前歯か犬歯の隣の歯の上に乗せます。
歯のない方には
下唇の上か舌の先端に乗せます。
取り込み−咀嚼−送り込み−飲み込みがきちんとできていれば
1口量を1/2〜2/3へと多くしていきます。
2/3粒でもスムーズに摂取できるのであれば
次の段階を目指します。
11月 17
11月 16
この本は大好きなとても大切な本で
折につけ繰り返し読んでいる本なので
だいぶ年季も入っていますが (^^;
その都度新たな発見もあり、私の宝物です。
「 ゲド戦記 IV 帰還 」の中で、
コケばばは、確かに魔法使いではないけれど
魔法使いとそうでない人を見分ける目は持っていたし
村の人たちを助けてもいた。
テナーとテハヌーとゲドも助けていた。
かつて大魔法使いとして
たくさんの人々を救い導いてきたゲドが
魔法使いとしての力を失い
ただ一人の人として生きることの困難を乗り越える過程で
テナーとともに、テハヌーとカレシンに命を救われる。
「帰還」の最後では
ゲドとテナーとテハヌーが
今度はコケばばの命を助けます。
ゲドはコケばばを助けながら
同時に周囲の人をも助けることを考えます。
そこで呟く言葉があります。
「なぜ、わたしたちはこんなことをするんだろう?」
この言葉は若い時の私にはわからなかった。
でもなぜか心に残った言葉で
最近になってようやく意味がわかるようになってきました。
本の最後はテナーの言葉で締めくくられます。
「わたしたち、あそこで暮らしていけるわ、きっと。」
暮らそう、ではなくて
暮らして「いける」
私はこの本のラストシーンが大好きです。
朝日の中でテナーが静かに呟くこの言葉。。。
すべての人への応援歌になっていることを感じます。
日々の暮らしが
時間という縦軸と
人との関わりという横軸とで
紡ぎ出され織り合わされていく。。。
今日は久しぶりにゆっくりできそうな休日だから
これから読み直してみよう (^^)
11月 15
「深きは深きを知るもので」
この言葉は
私が大好きな「 ゲド戦記 IV 帰還 」に登場するコケばばの言葉です。
ヒロインのテナーが
「魔法使いは、どうして相手が魔法使いだとわかるの?」
と尋ねた時のコケばばの答えです。
私はこの言葉に触れた時に
本当にその通りだと感じ、
以来大切にしてきた言葉でもあり、支えられた言葉でもあります。
ちなみに
私が大好きなのは原作の「ゲド戦記」で、映画の「ゲド戦記」ではない
ということを申し添えておきます。
コケばばの言葉は続きます。
「だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。」
昨今の研修会では
認知症のある当事者の方の講演や介護ご家族の講演が増えています。
当事者やご家族の言葉から学べることは多々あることは強く実感できます。
でも、「とても良いお話だった」で終わってしまうのは、すごくもったいないと感じています。
講演という場で聞いたことと同じことは
他の認知症のある方と自身との間でも起こっていることです。
講演を聞いたことをきっかけに
目の前にいる認知症のある方やご家族からも学べるようになったら
どんどん輪が広がっていくと思います。
言葉にして語ってくださった方の思いと努力は
その方固有のものではあるけれど
同時に他の人だってそれぞれに固有の思いと努力をしていらっしゃる。
言葉にして言わなかったとしても。
認知症のある方の状態を観察・洞察できれば
その方がどんな風に頑張っていらっしゃるのかが
身に染みてわかるようになります。
対人援助職のプロとして
適切な援助ができれば
同時に
もうひとつの言葉である行動から
その人それぞれの思いと努力を聴きとれる。
その人のすごさが身に染みてくる。。。
援助することが励まされることにもなる所以だと感じています。
11月 14
今年はcovid-19のために自粛が相次いだとはいえ
昨今いろいろな団体がいろいろなところで認知症啓蒙活動を開催しています。
世の中にはまだまだ誤解と偏見が残っていますから
啓蒙活動はこれからも必要だと思います。
ただし、啓蒙すれば良い、一件落着とはとても思えません。
啓蒙の先にこそ必要なことがあると考えています。
例えば、啓蒙によって
「認知症があってもなくても人に親切にすることは当たり前のことだ」
という普遍的なことの再確認ができるようになった人たちが
認知症のある方に優しく接してみた結果、
怒られたり怒鳴られたり抵抗されたり、
あるいは日々の暮らしを援助しようとしたのに
抵抗されて援助できなかったりする
というケースも水面下では増えてきているのではないでしょうか?
正確に言えば
今までは偏見に基づいた対応をしていた人たちが
普通に接するようになったけれど状況はたいして変わらない
という現実を再確認している人たちが増えているのではないでしょうか?
実際、専門家と称する人たちだって対応に困らない人はいないと思います。
私は複数の機関で研修会を企画・運営する立場でもありますが
研修会終了後のアンケートをとってみると
研修会開催テーマの希望は、「対応について」が圧倒的に多いという現実があります。
つまり、認知症のある方に対して基本的態度を守って
優しく接するだけでは対応の困りごとが減るわけではない。
ということです。
また、啓蒙の場でよくあるパターンが
「認知症のある方を理解しよう」
というものですが
その通りに実践してみた介護ご家族の本音として
「理解したって私たち家族の困りごとが減るわけではない」
という声を見聞きしたことが何回もあります。
それは本当にその通りだと思うんです。
ただ、要請された理解の方向性が違うんだと感じています。
仕事として従事している人にもできないようなことを
介護家族に要請することが間違っているんだと考えています。
本当の理解は
仕事として従事している人にとっても
ご家庭でケアしているご家族にとっても
役立つことはあっても無意味なことなんて決してありません。
気持ちの先に求められているものは
本当に役立つ理解と実践なんだと感じています。
本当に役立つ理解と実践が提示できなければ
「挑戦してみよう。やってみよう」と思った
善意ある人たちの意思をくじいてしまいかねず
善意の気持ちが強ければ強いほど無力感に苛まれ
自分の心を守るために反転してしまうということは容易に起こり得ます。
その矛先が自分に向かえば、介護うつやバーンアウトといった形で現れ
その矛先が相手に向かえば、心身の虐待となって現れます。
虐待について表面的に悪いこと、してはいけないこととして認識・対応されるだけでは
水面下での隠蔽された虐待が増えてしまうのではないでしょうか。
最悪のケースとして、究極の虐待であり、加害者と被害者の立場に同時に立たされる
介護殺人という形になって現れるケースが増えてしまうのではないでしょうか。
善意を支えるためには
他者とのつながりだって必要でしょうけれど介護者の特性によっても異なります。
他者からの励ましによってエンパワメントを受けやすい人もいれば、そうではない人もいます。
後者にとっては、自身の無力感に直面するような日々は一層厳しく感じられると思います。
啓蒙も必要でしょう。
善意の気持ちだって必要でしょう。
でも、それだけで解決できるわけがありません。
これからは
啓蒙と善意の先にあるべきもの
そして現状ではまだ明確化されていないものが
切実に求められるようになってくると確信しています。
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