私は作業療法は触媒のようなものだと考えています。
対象者ご本人の良くなろうとする意思と努力があってこそ
( 言葉にならなかったとしても重度の認知症のある方にもあるし
抵抗と防衛は対人援助職にも生じる )
行動変容は生み出されるもので
「私が良くしてやった」わけではありません。
ただし、対象者の良くなろうとする過程において、私の実践が適切に働いた
ということは言えると思うのです。
逆にそうならない場合も起こり得る。。。
かつて
「私がよくしてやった」
「俺が歩かせてやった」
などと言ってのけるセラピストに複数遭遇したものですが
たぶん、そう言うことで何かを補償していたんじゃないかなーと
ある会見を見て感じました。
「作業療法は素晴らしい」
「作業療法は楽しい」
と語りがたるのも同じことで、語ることで補償してるのかなーと。
もしも
素晴らしい実践、楽しい実践が当たり前で毎回確実にできているのだったら
その人にとって至極当然のことなんだから
あえて言葉にする必要はないんじゃない?
むしろ、素晴らしくない実践、楽しくない実践の方が気になって
どうしたらいいのか考えるし、言葉にするんじゃないかな?
どうしても「作業療法は素晴らしい」「作業療法は楽しい」と言いたいなら
どうしたら100%作業療法を素晴らしく楽しく実践できるのか
ということを明確に言語化したり具体的現実的に検討した方が有益だと思うけど。
かつて
ごむてつさんが
「患者が良くなるのは当たり前だから
良くなった人のことは忘れても
うまくいかなかった人のことは覚えている」
と言ったことがあって、なるほどなーと思ったものです。
2 個のコメント
岡山の老健でOTしています。
いつも先生のブログを拝見しております。
数年前から「よっしーボイス」もふくめ先生のファンで、研修会にも何度か参加しました。
ファンであってストーカーではありませんのでご安心ください。
私は3年前、くも膜下出血を発症しまして、約半年の入院生活、その後半年の自宅療養を経て、職場復帰しました。幸いにも大きな麻痺や高次脳機能障害も残らず、自家用車通勤でフルタイムの職場復帰ができております。(若干、右足の脱力と構音障害、味覚障害が残存しておりますが・・・)
入院中、作業療法士が作業療法、理学療法、言語聴覚療法を受けるという貴重な体験をしました。その中で一番に感じたことが、「心が動かなければ、体は動かない」と言うことです。
心を動かす、対象者のお尻をちょんちょんと刺激してその気にさせる、そんな作業療法士になりたいと思いました。
結局、「作業療法」っていう明確なものが存在するのではなく、対象者と本気で関わって、対象者の力や思いを引きだすのが作業療法士の力の見せ所なのかな?と感じました。
そういう意味では、「作業療法は触媒」なんでしょうかね?
先生の投稿内容とは少しずれたかと思いますが、少し自分の体験を交えてコメントさせて頂きました。
これからもブログを楽しく拝見します。
Author
津島利彦さん
研修会への参加やサイトへのお立ち寄り、コメントもどうもありがとうございます。
大変な体験を乗り越えて完全職場復帰されたとのこと、いろいろなご苦労もおありだったかと思いますが、本当に良かったですね。
おめでとうございます。
もしかしたら、私の意図が伝わりにくかったのかもと思いまして
追加の記事を書くつもりです。
ご参照いただければと思います。
引き続きのお立ち寄りをお待ちしています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。