
観察に必要な知識>ケアの幅が広がる知識を更新しました。
今回、更新したのは「再生と再認」です。
8月 09
作業療法の世界でも
知識と技術の蓄積が進んだからこそ
ハウツー的思考も蔓延しているんだと感じています。
その一つが
検査・バッテリーの偏重です。
研修会に行くと
「評価」という項目があるので、期待して聞いていると
バッテリーの紹介がされて終わり。ということによく遭遇するようになりました。
科学的ということを誤解していると感じています。
なるほど、医師は診断するのが役目ですから
検査・バッテリーをきちんと行うことになるでしょう。
その時の状況で「何ができないのか」「何が標準から乖離しているのか」
を明確にすることが求められています。
ところが
私たち作業療法士の役目は援助です。
そして
認知症のある方はその疾患の定義上、新しいことは覚えられないのですから
できること、能力を見出し、より合理的に発揮できるように援助することが求められます。
検査・バッテリーを取ることを否定はしません。
必要な検査・バッテリーは取るべきだとも考えていますが
取って終わりではなく、取った結果をきちんと解釈し評価に統合すべきです。
検査やバッテリーからは、援助の方向性を導き出すことは叶いません。
できないことをどれだけ詳しくわかったとしても
できるように援助することはできないのです。
新しいことを覚えられないのですから。
検査やバッテリーは、評価過程の元となる情報収集にすぎません。
そのことを混同している作業療法士があまりに多いように感じて残念に思っています。
つまり、評価とは何ぞやということを言葉にして教えてくれる人
体験学習を促してくれる人が少ないのだろうということを示唆しているからです。
だから
ハウツー的思考回路で対処しようとするしかないのだろうと感じています。
だから
過剰に「作業療法は素晴らしい」と語ることで自己武装しているのかも。
同時に
検査・バッテリーを偏重することで
科学的な評価だと自己武装しているのかも。
本当は
科学的なるもので武装するのではなく
自らの観察・洞察という内面を科学的であるように努力することが大切なのに。
「千里の道も一歩から」
まずは
認知症のある方の能力を見出せるように
見出せるために観察できるように
観察できるために知識を習得できるように
このサイトは
日々の臨床に誠実に向き合う人を応援するためのサイトです。
それは
かつて若い頃の私が切実に求めていたものでもあります。
8月 09
いまだに聞く言葉です。
「あぁも考えられる。こうも考えられる。」
これは評価過程とは真逆の思考過程です。
通常は
まず、考えられない面を否定していきます。
「これは違う」
「これも違う」
同時に
事実を虚心坦懐に観察していれば
自ずと可能性は限定的に絞られてくるものです。
実習生には邪推はするな
確信を持って言えない時には、判断を留保するように教えています。
そして、確認を持って、言い換えれば根拠をもとに明言できない時には
情報不足なんだから、まずは情報を集めなさい。と指導しています。
私は実習にいった時に
判断の責任を負うことの怖さと
自分のことをよく知りもしない人に勝手に邪推されたら嫌だろうな
と思ったものです。
私は決して優秀な学生ではありませんでしたが
今思えば根っこの大切なところは押さえていたんだ
そういう学び方を援助してもらえていたんだと感じています。
対応がわからない時には
評価に立ち返る
評価が明確でない時には
情報収集に立ち返る
情報収集で最も重要なことは観察です。
観察できるように
知識を習得する。
同じ場面を見ても
そこから得られる情報の質と量は、
プロとそうでない人とでは雲泥の差が生じてしまいます。
8月 09
8月 08
8月 07
神奈川県作業療法士会の公式ウェブサイトにある
「絵本でみる作業療法<解説編>」において「冬の麦わら帽子」を解説しました。
ウェブサイト管理委員会からのご依頼で
対象は一般の人、特に進路を検討している高校生に向けての解説ということでしたので
そのあたりを念頭に置いて
できるだけ専門用語を使わずに
対象者の立場と作業療法士の意図の両方について記載するようにしました。
よかったらお立ち寄りください m(_ _)m
8月 04
認知症のある方が突然立ち上がって
歩けないのに歩き出そうとすると
大抵の人は「立っちゃダメ」「立たないで」って言うと思います。
それは
「立たないで座っていて」「歩かないでじっとして」
と言う意味で言っています。
でも
認知症のある方は言外の本当の意味を忖度してくれないので
そのように言われても立とうとして歩き出してしまいます。
それをみて
(認知症だから何を言ってもわかってくれない)
という気持ちになるのかもしれません。
本当は
認知症のある方には伝わらない声かけをしていて
認知症のある方が行動修正できないのだとしたら
修正すべきは、こちらの声かけです。
認知症のある方に伝わる声かけを模索すべきではないでしょうか。
例えば
「止まって!」「ストップ!」
安全を確保してから
「どうしたんですか?」「どこに行こうとしていたのですか?」と尋ねます。
同じ意味で
「そっちに行っちゃダメ」
も伝わりにくい言葉です。
そっちに行かないで、どこになら行っても良いのでしょうか?
それがわからないと行動を変えてもらえません。
だとしたら
例えば
「こちらに来て」
こちらに来てもらえれば、結果として、そちらには行かずに済みます。
言葉は相手に伝わってこそ言葉です。
8月 03
私は、重度の認知症のある方のActivityとして折り紙は難しいと考えています。
七夕などでお馴染みの輪くさりを作ることも難しい方が多いです。
詳細は上の記事をご覧いただきたいのですが
折り紙を上手に仕上げるためには
・角と角、縁と縁をズレないように合わせて折ることができる
という能力が必須です。
けれど、アルツハイマー形認知症のある方は
定義上高齢者なので手指の巧緻性が低下している場合が多くあります。
ズレないように合わせて折ろうと思っても
身体が思う通りに動かないので
綺麗にできない、場合によっては折り進めることが難しくなってしまいます。
また、アルツハイマー型認知症以外の認知症でも
構成障害があると
折り方を説明する時に
隣の職員が一緒に折って「ここをこうしてこうやって」という説明を認識・再現することが困難です。
できないことをやってもらい
仮にできなかったとしても、刺激になるからやった方が良い
とは私にはどうしても思えません。
立場を変えて自分に置き換えてみて
刺激になるから
「数学は論理的思考力のトレーニングに良いから」
「外国語を学習するのは文化の違いを知るのに良いから」
と言われて行う人がどれだけいるのでしょうか?
日々の暮らしだけで
失敗体験・喪失体験を積み重ねていく認知症のある方に対して
不必要に余分にそれらの体験をしてほしくはありません。
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