「家に帰る!」

 

 

病状が進行すると
自分の家にいるのに「家に帰る!」と言うこともあります。

「ご自身の実家=自分の家」なので、
「今の家=自分の家ではないという意味になります。

症候学的には
場の見当識が混乱しているということの現れです。

このような状態像が常時起こるわけでもなく
一度現れたからといって継続するとも言い切れません。

  こういった混乱の機序について思うところはありますが
  もう少し整理してから別のところで記載する予定です。
  おそらくキーワードとしては
  不安感、投影、意識の階層性ということだろうと考えています。

対症療法的には
お茶を出して一息ついていただくとか
一緒に歩いて納得を待つ、動作干渉・時間干渉によって忘れていただくと
いう対応が為されることが多いのだろうと思いますが
根本的には
バリデーションが一番有効だろうと思っています。

混乱を納めるためにバリデーションをするのではなくて
混乱するくらい不安な気持ちを安全に表出することを援助することによって
結果として混乱が治まっていくということが大切なのだと考えています。

 

椅子に座ることができない

 

 

即時記憶障害の現れ方の一例について、ご説明します。

たとえば
診察室に認知症のある方が来られて
椅子に座るように勧められた時に
目の前に椅子が見えるので「この椅子に座る」ということを認識できます。

ところが
椅子に座るためには身体の向きを変えなければならず
この「身体の向きを変える」という動作をすると(動作干渉)
椅子は視界から消えています。
 
即時記憶が低下していると
「椅子に座る」ということを動作干渉のために忘れてしまいます。
また、視界に椅子が見えないので「椅子に座る」ということを再認することもできません。

この時にドアが見えれば
ドアに影響されてそちらに向かって歩き出してしまう場合もあります。

また、そこまでいかずとも
「座ってください」と言われても
この方にとってみたら、椅子は存在しない(見えないから認識できない)のですから
いくら言葉を重ねて説明されても座ろうとはしないでしょう。
何もないところに座ったら、ひっくり返ってしまうと思うからです。

このような時には
「認知症だから椅子に座ることもできない」と
表面的な事象にとらわれずに
表面的な事象に反映されている障害と能力を観察・洞察すると
適切な対応をとることができます。

椅子は見えなくて認識できなくても
お背中に手を当て
膝裏に椅子を当てると
触覚から「支えられている」「後に何かある」と感じることができます。
その上で「ご着席ください」と言われれば座ることを試みることができます。

  ここで大切なことは順番です。
  「座って」という言葉よりも
  触覚刺激としての背中に手を当てること、膝裏に椅子を当てることを
  先に行ってから、言葉で伝えます。

即時記憶は低下していても
五感や体性感覚といった環境刺激を感受する能力は保たれています。

言葉だけに頼るのではなくて
能力に働きかける。

そのためにも
表面的な事象だけをみて、表面的に対応を考えるのではなく
表面的な事象に反映されている障害と能力を観察・洞察することが大切です。

 


旧姓を名乗る

 

 

 

遠隔記憶障害の現れについて説明します。
たとえば、こんなふうに現れます。

初対面の時に自己紹介をした後に
必ずお名前を尋ねるようにしています。(当然知っていますが)

  この時のやりとりから
  言語理解力・表出力、即時記憶や特性のスクリーニングの場として
  活用できるからです。
  ただの自己紹介で終わらせてしまってはもったいないです。
  このことについては別の場所で(^^)

「ところでお名前を教えていただけますか?」
この時に旧姓を名乗る方がいらっしゃいます。
「お住まいはどちらなんですか?」と尋ねると
実家の住所を答えたりする場合もあります。

結婚したこと、転居したこと
昔のことを忘れてしまっています。

数日以上前の記憶の障害、遠隔記憶障害が反映されています。

 



骨折したことを忘れる

 

近時記憶障害のある方が骨折して手術を受けリハを開始する際に
よく遭遇する「リハ拒否」とよくしてしまう「対応あるある」について説明します。

骨折の手術後のリハで
平行棒歩行を導入しようとして
立ち上がろうとした時に認知症のある方が痛みを感じることはよくあります。

ここで
近時記憶障害があると
ご自身が転んで骨折して手術したことを忘れてしまっている場合もあります。

そうすると
「立ったから痛い」→「痛いから立ちたくない」と
誤認して立とうとしなくなることがよくあります。

ここで「立とうとしない」という表面だけを見て
「意欲低下」「リハ拒否」などとセラピストが誤認してしまうこともまたよくあることです。

このような場合には
「立とうとしない」という表面の事象だけを見て
なんとか立ってもらおうと考えて
懇切丁寧にお願いをしたり
笑顔で場を盛り上げたり
強引に立たせようとしたり
といったこともあるのではないでしょうか?

そして一生懸命立たせようと、あの手この手で対応しているのに
一向に立ってくれる気配がないと
一層「意欲低下」「リハ拒否」「認知症だから」とレッテルを貼ってしまう
。。。かつてはそのようなセラピストも少なくありませんでした。

 これは、そのセラピストの人間性の問題ではなくて
 HDS-RやMMSEという検査をしても
 その検査結果から導き出される近時記憶障害の程度、記憶の連続性の状態の意味を
 セラピストが明確には認識しておらず、対応に活用できていない
 ということを意味しています。

 評価を対応に活かす
 対応に活かすために評価する
 評価できるために検査する
 というのではなくて、認知症だからHDS-RやMMSEをする
 という思考回路になってしまっているのだと考えています。

 より的確な対応ができるように状態像を的確に把握する
 そのための評価であり、検査であるべきです。

話を本題に戻すと
「立ったから痛い」→「痛いから立ちたくない」と誤認しているのですから
事実を伝えるべきです。
「立つと痛いかもしれません。
 転んで骨折して手術したからです。
 だんだんと痛みも軽くなってきますから、頑張って立つリハビリをしましょう。」と

そしてその伝える頻度は
対象者の記憶の連続性に基づいて判断します。
(評価を対応に活かす)

リハの開始時に一度説明すれば大丈夫な方もいれば
立ち上がりの練習をする直前にその都度伝えたこともありました。

「立ち上がろうとしない」
「立ち上がりの時に拒否をする」
という表面的な事象には、
その方の障害(近時記憶障害)とともに
その方の能力(即時記憶は維持)もともに反映されています。

障害と能力のスペシャリストとして
とりわけ、暮らし・生活と医学の橋渡しの専門家として養成された作業療法士であるなら
表面的な事象に反映されている障害と能力を観察・洞察できるようになること
そのために知識の習得と活用が求められていると考えています。

「ここにいていいんですか?」

 

 

 

近時記憶障害の現れ方の一例をご説明します。
たとえばこんな風に現れます。

敷地内で開催されているお祭りを認知症のある方と一緒に見学に行きました。
「ここでしばらくお祭りを見物しましょう」と声をかけました。
が、しばらくして不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいていいんですよ」と答えました。
ホッとした表情で「それなら良かった」とおっしゃいました。
けれど、5分もしないうちに不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいていいんですよ」
「お祭りを見物しに来たんですよ」と答えました。
ホッとした表情で「それなら良かった」とおっしゃいました。
けれど、5分もしないうちに不安そうな表情で
ここにいていいんですか?」とおっしゃいます。
「ここにいてもいいんですけどお部屋に戻りましょうか?」と言うと
うなづいたのでお祭りの見学を途中で切り上げて帰ってきました。

その場その場での言われた言葉の意味は理解できますが
時間が経つと忘れてしまいます。(時間干渉)
不安そうな表情を浮かべていたことから
おそらく「見慣れない場所だ」「いつもいる所とは違う場所だ」ということは
認識できていたのだと推測します。(能力)
だから「ここはどこ?」「なぜここにいるのだろう?」と不安になった。
そしてそのことを言葉にして尋ねることもできます。(能力)
答えてもらえれば理解することもできますが
時間が経つと忘れてしまう。
記憶の連続性が低下している。

即時記憶は保たれているけれど
数分前のことは忘れてしまうという近時記憶障害が現れています。

「さっき言ったのに同じことを何回も言わせないでよ!」
と怒っても状況は変わりません。
認知症という状態像は「覚えたくても覚えられない」のです。
 
「さっき言ったのに同じことを何回も言わせないでよ!」という言葉は
例えて言うなら、脳卒中後遺症の片麻痺のある方に
「どうしてその手は動かないのよ!」と言ってしまうのと同じことを意味します。
そんなことは誰も言いませんよね?

 

 



「オススメAct.&工夫」追加しました

 

 

オススメのActivityや工夫について追加しました。
https://yoshiemon.info/activity/program/

ほんのちょっとした1工夫をするだけで
認知症のある方が混乱せずにActivityを遂行しやすくなります。

その1工夫をしたほうが良いか否かも
状態像の把握、評価を根拠に決定します。

 

本質を希求

  

このサイトは
本質を希求するサイトです。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。

 

事実の子たろうとし
本質を追求しようとする人は必ず存在する。

周囲と軋轢なく過ごすニーズのある人は
今、周囲にいる人と同調することが必要でしょう。

商売をしている人は
時代より一歩先の商品の提供が必要でしょう。

でも
事実の子たろうとしている人にとって
大切なものは他にある。

自分の眼で観て自分の頭で考える。

 「もののけ姫」で
  アシタカが「曇りなき眼で見定め決める」って言った

  エボシは笑ったけど。

ドイツの「たった一人でも反対できる人材を育てる教育」って
本当にすごいと思いました。
その発想と発想を支える根底にある信頼。

最前線は目の前にいる対象者の方

声の大きな人や
露出の多い人の話に耳を傾けても
現実を見据えるとどうしてもそうは思えない
でも、どこがどう違うのか明確に言葉にはできないから
言えないけれど、もやもやした違和感を感じている
必ずどこかにいるはずのそのような人たちへ向けて

「人あるところに人なし。
 人なきところに人あり。」
 
本質を追求したい。
そして、本当に役に立つ実践を展開したい。

 

 マハトマ・ガンジーの言葉
『 You should be the change that you want to see in the world. 』
  あなたがこの世界に望む変化にあなた自身が成りなさい。 

 

かつて
私が必死に追い求めていたけれど見当たらなかったものだから
今、私の手にあるものを次の世代へ手渡しておきたい。

 

 

Act.提供時にまず考えること

 

「まず第一に患者を傷つけないように」
ソクラテスの誓いは、この言葉から始まるそうです。

私は医師ではありませんが
この言葉は戒めとして心がけている言葉です。

作業療法は素晴らしいと言う人は少なくありませんが
プラスのパワーが強いものは、反転に転じた時に大きなマイナスをもたらします。
どうしたらその素晴らしさを実現できるのか
どうしたらマイナスをもたらさずに済むのか
その具体的な考え方や方法論について言及しているのを聞いたことがありません。

過去に意図していなかったとしても結果的に
対象者の方を傷つけてしまったことは私にもあります。

脳みそ預かり事件もその一つですし
「こんなに下手くそになってしまった」と言わせてしまったこともあります。
何かをする」ことの意味を考えさせられたこともあります。

そこから、どうしたら良かったのか必死になって考え続けました。

まず、最初から大当たりを狙わないことだと考えています。
大当たりを狙うより前に、まず、外さないこと。
外さない実践を続ける中で
対象者の言葉、言葉にならない行動というもう一つの言葉に
注意深く耳を傾けていくことで
段々とピンポイントでActivityを選択・提供できるようになる。

外さないためには
まず、特性にあったActivityの傾向を考えることから始めています。
詳細は、こちらの記事をご参照ください。

 

OTどこでズレたのか:観察

 

 

先の記事で書いたように
かつてのOTは臨床で結果を出すことを第一義としていたと思います。

ところが
いつからか、科学的でない、客観性がないなどの批判を受けて
方法論と結果の客観性、数値化が求められ
エビデンスという言葉が席巻するようになりました。

私は最初のズレがここで起こったと考えています。

そもそも
作業療法は薬物療法とは異なる実践の科学であり、人文科学、観察科学でもあります。
この時に、対象者は unique であるのだから、方法論も千差万別で当たり前だと
はっきりと言明すべきだったのではないかと考えています。

シングルケースデザインは
もっと後になって導入された方法論ですが
症例検討という方法論はすでにありました。

 河合隼雄は症例検討の重要性を強調していました。
 良い症例検討は、症例を超えて分野を超えて学びがあると。
 個の追求が普遍に通じるという記載を読んだことがあります。

実践の科学、観察科学であるからこそ
症例検討をきちんと導入できれば、意義があったように考えています。
ただし、症例検討が有意義に行われるためには
症例の状態像の共有化が為される必要があり
そのあたりが難しかったのではないでしょうか。
(動画で治療場面を撮影するのはもっと後になって導入されたと思います)

観察力って本当に人によって異なります。
さらに、見てはいても知識がないと別の判断をしてしまいがちです。
共有化が為されないままに検討が進むと議論が空中分解してしまいます。

また優秀な指導者がいないと
症例検討を効果的な実践に活かすことが難しいという側面もあります。

そこで
観察力・洞察力を磨くのではなく
数値化された結果の客観性の方向に進んでしまった。
そして、そのためにバッテリーの使用が求められるようになった。
そこから「評価の検査化」が進んでしまったようにも感じています。

もう一つのズレは目標設定です。
これについては次の記事で。

 




評価と治療は車の両輪

 

 

「評価と治療は車の両輪」
「評価が広がり深まるほどに
より的確な治療ができるようになる。」

私が学生の頃に
どの外来講師もみんな声を揃えて言っていました。

本当にその通りなんですよね。

 

困難事例に対して
ブレークスルーを見出せた時には
上の言葉の後半のくだりに相当することが本当に現れます。

そしてそれは大抵の場合に
「困難」と私たちが判断した場面そのものの対象者の言動に
ちゃんと解決策が反映されているものです。
それを私たちが観察・洞察できるかどうかが問われている。

「広く深く評価できるほど、より的確な治療ができる」

そして今は
「評価と治療は車の両輪」という言葉には
同時性ということも含まれていると感じています。
評価ができるということは治療的対応をしていることでもあり
治療的対応をしているからこそ評価ができるとも言えます。

ただ、今思うに
どの講師も具体例を出して説明してくれたわけではないので
たぶん当時流行していた言葉なのかも?
誰かに言われたことをそのまま合言葉のように言い合っていたのかも?
と思ってもいます。

例えそうだとしても、
学生は素直だから
言われたことはそのままそういうものだと信じます。

教わった「言葉」を
「概念」としてどれだけ理解するか
「実践」にどれだけ役立てるかは
個々の学生に委ねられるわけですが
「教わった」ということは
入り口、ドアの前に立てる、ドアを開く鍵をもらった
ということを意味します。

作業療法は実践の科学なのですから
こういった実践に役立つことを学生の時に教えてもらえて
本当に良かったと感じています。

私が幸運だったと思うことは
学生時代に「作業療法は素晴らしい」などと
唱える講師や実習指導者は一人もおらず
学院の教員には「君たちのような若造が人様を助けるなんで無理だ」
「だからこそ最善を尽くしなさい」と言ってもらったことです。