理屈で考える:ひどくムセたら食事中止


ものすっごく誤解している人が多いと思います。
食事中に強く激しくムセたら食事を中止させていませんか?

そのような判断をする人は
強く激しいムセ=ひどい誤嚥 と誤解しています。
ムセとは何か?がわかっていないのです。

確かに誤嚥すればムセは起こりますが
ムセとは異物喀出する生体防御反応です。
強く激しくムセたということは、異物をしっかり喀出しようとする能力があることを示しています。

ムセたら食事を中止するのではなくて
ムセたら呼気の介助をしてしっかりとムセきってもらいます。
落ち着いたら声を確認して清明な声であれば異物を喀出できたので食事を続けてもらいます。

ところが
ムセとは何か?を知らずに
周囲が行っているから
今までそうしていたから
という理由にもならない理由で
漫然とムセたら食事中止という対応がまだまだ多いのが現実です。

むしろ、中止すべきなのは異物喀出能力の低下を示唆するムセ方です。
弱々しくしかムセられない
痰がらみのムセ
遷延するムセ。。。

これらの方は要注意ですけど
概念の本質が理解できていないと
弱々しくしかムセられない、異物を喀出しきれていないのに目立たないから
そのまま食事を継続させられたりしてしまいます。
逆なんです。

そして
ムセとは異物喀出作用なのに
なぜかムセの有無が食べ方の指標になってしまっています。

曰く
「ムセることなくお食事を全量召し上がられました」。。。
「今日は途中でムセたのでお食事を半量ほど摂取したところで終了しました」。。。

あちこちで何回も書き、機会あるごとにお話していますが
ムセは異物喀出作用なので食べ方の指標にはなり得ません。
摂食・嚥下5相に則って、きちんと食べ方を観察しましょう。
その方の本来の食べるチカラを見出せるように、きちんと介助できるようになりましょう。

上唇を丸めて食塊を取り込めているか
舌で食塊の際形成ができているか
送り込みが円滑にできているか
喉頭は完全挙上できているか
など、観察すべきポイントがたくさんあります。


理屈で考える:「認知の人」「認知がある」


ギョーカイ用語となっていますが(^^;
「認知の人」「あの人は認知があるから」
って言う人、案外多いですよね〜。

もちろん、状況から「認知症のある方」を指して言っているんだということはわかります。
でも、「認知の人」「認知があるから」って、とてもおかしな言葉です。
実際に一般の方から指摘を受けたこともありました。
ある機関の依頼で公民館に行って認知症関連の講演をした後で
「ちょっと質問してもよろしいでしょうか?」
「最近、認知の人、認知のある方って言葉をよく聞きますが
 それって変な言葉ですよね?」と言われたのです。

まさしく、まさしく!
認知あって良いじゃないですか?
認知なかったら困りますよ。
言葉と概念が真逆になっているのに疑問を感じることができないから言える言葉だと思います。

この話をした時に
ある養成校の教員は「学生が実習から帰ってくると高次脳の人、高次脳のある方って言い始める」
って教えてもらったこともあります。。。
CVAの人、骨折の人、なんで形容詞化するかなぁ。。。

言葉を大切に扱う、ということは
概念を大切に扱う、ということでもあります。
実際、「認知の人」「認知のある方」という言葉を話す人で優秀な人に会ったためしがありません。

だから、五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしても
構成障害を明確に説明できなかったり
トレイルメイキングテストをしても
遂行機能障害を明確に説明できなかったりするんだろうなーと思ったものです。
それじゃあ、テストはできても目の前に起こっていることを見ても
構成障害がどんな風に反映されているか
遂行機能障害がどんな風に影響しているか
観察できるわけがない。。。

英語は「人」と「病気」をちゃんと分けてるんですよね。
People who have Dementia
People with Dementia

ギョーカイ人だと、結構、形容詞化して使っている人多いです。
「認知症高齢者」
「徘徊する人」
「BPSDの激しい人」
「溜め込んで(食事を)飲み込んでくれない人」

有効な答えを求めるには
実は適切な問いを立てることが必
要で
どうしたら良いかわからなくて困っている場合に
問いが適切でないから答えが出てこない
と言うケースが圧倒的に多いものです。

概念の取り扱い方、本質を理解するって
地道な一つ一つのことがちゃんとつながっています。

だから、逆に言えば
何か、一つ、きちんと考え直すことによって
臨床実践がガラッと変わることも起こり得るんじゃないかな?

もう一回、基本に立ち返って
組み立て直す時期が来ているんじゃないかと考えています。

理屈で考える:「食事の時にティルトを起こす」

  


現行のケアやリハの在り方で常識のように行われていることでも
理屈で考えてみると、とてもおかしなことってたくさんあります。

たとえば
ふだん、股関節90度屈曲した座位がとれないために
ティルト型車椅子に座っている方ってたくさんいると思います。
その方達を食事の時にティルトを完全に起こして食事介助する。。。

大昔は老年看護の教科書に90度の法則として、
食事は股関節90度屈曲膝90度足90度屈曲の「良い」姿勢で食べるように
という記載があったとのことですが
そもそも「良い」姿勢がとれない、股関節90度屈曲位をとれない方に対して
見た目だけ「良い」姿勢を取らせることにどんな「良い意味」があるのでしょうか?

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。
きちんと論理的に考えて不合理な常識はアップデートしていきましょう。

理屈で考えてみれば
安静時でさえ、股関節90度屈曲座位がとれないのに
食べる(たとえ、全介助であっても)という、運動をする時にティルトを起こされたら
姿勢が崩れてしまいます。

もともと、仙骨座りの人だからティルトを倒して座っているのに
ティルトを起こされたら、ますます仙骨座りになってしまいます。
座面が平らだと前に滑り落ちそうになってしまいます。
その不安定さをなんとかしようとすると
使えるところを使うしかないので頸部の伸筋群を過剰収縮させることになります。
頸部の筋は、姿勢保持と嚥下と呼吸に関与しています。
姿勢保持に使う割合が増えれば、その分嚥下と呼吸の働きが疎かになりかねません。

また、仙骨座りを助長するような座り方をさせるので
剪断力が働き褥瘡発生のリスクが高まってしまいます。

何回も書いていますが、
褥瘡の原因は垂直方向の圧迫だけではありません。
ここを誤認している人がいまだに多いことに驚きますが
横や斜めのズレ、剪断力も褥瘡の原因の一つですから
思い込みを卒業し、仮に現行のケアやリハの常識とされていたとしても
論理的に考えて適切かどうかを判断したいものです。

「 First,Do No Harm. 」がPDCAをも促す


「まず、第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの誓いは、この言葉で始まるそうです。
患者は患者であるということで、既に傷ついているのだから
と、日野原重明氏の著書に書かれていました。

自分の関与によって
対象者に悪い結果にならないように
という意識を持つことで
自分の関与による結果を見直す姿勢を身につけることができます。

対象者にとっての悪いこと、というのは
人により、その時によっても異なるものなので
実践しようとすれば、
目の前の対象者と対象者の暮らしの事実を確認しようとする意識が働きます。

一方、良いこととして喧伝されているものは
大多数の人にとって良しとされているからこそ喧伝されるので
目の前の対象者と対象者の暮らしの事実を確認しようとする意識が働きにくいものです。
養老孟司の言うように「あぁすれば、こうなる」ものだと盲信してしまいます。

業界的に「為すべきこと」と教わったことを提供するだけの思考回路だと
自分の関与を疑うことができず
結果として、逆効果になっていることに気がつくことができなくなります。

善意に基づく実践でも
結果として悪手になってしまうことは多々あるし
短期的な効果はあるように見えても
長期的な逆効果になることも多々あります。

まさに
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
「地獄には善意が天国には善行が満ちている」
というわけです。

Every-things will be all light


私には大切にしている言葉があります。
_トップページにも掲載_してありますが
(画面を下方にスクロールしてください)
その他にも辛い時に支えてもらってきた言葉がたくさんあります。
  
捨てたものは見つからないが、落としたものはきっと見つかる」(るろうに剣心)

誰も見たことのないものを見るのではなく、誰もが見ているものの中に
 誰も考えたことのないことを考えることが大事

  (エルヴィン・シュレディンガー)

意図こそが重要」(スティーブ・ジョブズ)

聞いたことは忘れる。見たことは思い出す。体験したことは理解する
  (各国の伝承)

はかりしれない謎に対して、理にかなった思考を寄せる
  (西のはての年代期II ヴォイス)

わたしたちの求めるのは真の答えではない。
 われわれの探す迷子の羊は真の問いだ。
 羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる。

 (西のはての年代期II ヴォイス)

あなたの心の中の神が石の中に神を見る
(西のはての年代期II ヴォイス)

深きは深きを知るもので」(ゲド戦記最後の書 帰還)

曇りなき眼で見定め決める」(もののけ姫 アシタカ)
  
などなど。。。

苦しい時にたくさんの言葉に励まされてきました。

求めていたからこそ、出会うことができたのだと思う。

それらの言葉に出会うことができたのも
_バリデーション_に出会うことができたのも
_沼野一男先生の資料_に出会うことができたのも
すっかり忘れていたけれど、_ベタ足歩きの問題_
_治療していただいたK先生の言動_

かつて、若い時に
松井紀和先生主催のグループダイナミクスに参加したことがあります。
感動的な体験でした。
その時に言われた言葉を「本当にその通りだな」と
久しぶりに思い出したりもしました。

結局は、人は生きたいように生きているのだと思う。
意識レベルじゃなくて無意識レベルで。
出会う人全員に理解してもらえるとは思わないけれど
人にはそれぞれ選択と責任の自由がある。
同時に、私にもあります。
良い人と一緒に働きたいし
真摯に困っている人がいて、私の知見が役に立つのなら手を差し伸べたい。
そのためにこのサイトを開設しました。
かつて、私がたくさんの場や人や言葉に助けられ励まされてきたように。

時には
もう歩けないと思って座り込んでしまう時だってあるだろうし
来た道を引き返したり
選ばなかった他の道のことを考えたり
あまりに壁が高く感じて呆然としたり
潜り抜けたり、ぶち破ったり、遠回りしたり
お世辞にもかっこいいとは言えなくても
諦めなければ、何らかの形で支えられる場や人や言葉に出会うことができる。

真摯な人ほど悩んだり困ったり辛い思いや理不尽な思いをすることがあると思う。
口先人間ばかりだと思ったり
声の大きな人や認識の浅い人たちにテキトーなことを言われたり

でも負けないでほしい。
思いもかけずに状況が変わることだってあるし
良き出会いがあったり
突然、ブレークスルーの道が開けたりすることもある。

   

あなたがこの世で見たいと願う変化にあなた自身がなりなさい。」 
You must be the change you want to see in the world.」  (マハトマ・ガンジー)

  

   

解決策は困りごとの中にある


「口を開けてご飯を食べてくれない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
「口の中に食事をためこんで飲み込んでくれない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
「歩けないのにすぐに立ち上がる人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
「ちゃんと声かけをしているのにすぐに怒る人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」

真摯にお仕事に向き合っているからこその、悩みだとは思います。
世の中には自分が困らないように立ち回る人も少なからずいますから
困ることができるというのは、それ自体尊いのだと感じるようになりました。

でも
困った時に誰かに聞いて、ちゃんと役にたつ解決策を提示されたことがありますか?

たいていの人は、表面に現れる困りごとをそのまま受け取り
修正しよう、改善しようとして、ハウツーを当てはめる方法論をとっています。(下図)

でも、本当は
一見、困りごとに見えるその言動にこそ、障害や困難だけでなく能力も反映されています。
それらを観察し、何が起こっているのかを洞察できれば
どうしたら良いのか、は自然と一本道のように浮かび上がってくるものなのです。
(下図)

だから、本当に困りごとを解決できるのは
その時その場のその関係性の中にいる、あなただけです。

観察するためには知識が必要です。
知識とは単に聞いたことがあるという程度ではなくて
概念の理解ができていることが必要です。
案外、疎かにしている人が多いということに私はずっと気がつきませんでした。
(目標を目標というカタチで設定できていないのに平気だったり
 検査はしても構成障害とは何か、遂行機能障害とは何か、
 答えられなくても平気な人の方が多いのだということに気がついた時には愕然としました)

「その人に寄り添ったケア」という理念は素晴らしいものですが
理念は唱えれば実行できるものではありません。
声高に「その人に寄り添ったケア」を語るよりも
どうしたら高邁な理念を具現化できるのか、
その思考過程を明確化・言語化することが必要だと考えています。

知識があるから
その方の言動に反映されている障害を観察することができる。
障害を観察することができるから
その裏返しとしての能力を見出すことができる。
だから
困りごとという結果としての表れに反映されている、その方に何が起こっているのか
イマ、ココをどんな風に感受・判断しているのかを洞察することができるのです。

観察は非科学的だから検査やバッテリーが必要と言う人も少なくありませんが
困りごとの場面と検査をしている場面とでは場面そのものが異なります。
当然見ている場面が違うのですから
発揮される能力も障害も異なりますから、検査やバッテリーをいくら行ったとしても
対応の工夫に役立つことがないのです。
また、観察が非科学的なのではなくて
非科学的な観察しかできないことがプロとして問題なのです。

検査や最新の理論を紹介している人はたくさんいますが
そのような人で認知症のある方への対応に関して
納得のいく対応をしている人に出会った試しがありません。

人文科学としてのプロをどうやって養成するか、という問題なのです。

現行のケアやリハの在り方では、もう既に行き詰まっていると思います。
違いますか?
なぜ、行き詰まっているのか
じゃあ、どうしたら良いのか
それは、なぜなのか
ということを実践をもとに提案しています。

それが私に課せられたお役目だと考えています。
きっと探している人がいることと思います。
きっと受け止めてくれる人がいることと思います。

興味のある方は、このサイトの色々をお訪ねください。

もしよろしければ
オンライン研修「認知症のある方へのリハビリテーション」
対面研修「食べるチカラを活かす食事介助」
にご参加ください。


対応に役立つHDS-Rの工夫

認知症のある方の評価として、HDS-RやMMSEをとる人はたくさんいると思います。
一時期、「認知症のある方を傷つける恐れがあるからHDS-Rはしません」
という学生に複数遭遇しました。
そんな時に私は
「HDS-Rをとらなくても
記憶障害について根拠を元に明確に説明できるくらいに状態把握できるなら
HDS-Rをとらなくてもいいよ。
でも、それができないならHDS-Rをとって状態把握をしなさい。」
と指導してきました。

認知症という状態像を引き起こす疾患の中で圧倒的に多い
アルツハイマー型認知症の主要な障害は記憶障害です。
記憶障害の状態を把握できずにどうやって評価ができるのでしょうか?

学生の「相手を傷つけたくない」という気持ちは尊いものですが
状態を把握できなければ
的確な対応が行えるはずがありません。

確かに
HDS-Rをとる過程において
怒り出してしまう方や途中で拒否する方もいます。
でも、それはそれで大切な情報の一つなんです。

もっと重要なことは
相手を傷つけるかもしれないリスクを知った上で
とったHDS-Rの結果を日々の対応に活用すべきなのです。

HDS-RやMMSEをとっても
その結果を声かけや対応の工夫に生かしているセラピストは
まだまだ少ないのが現状です。

検査は検査、治療は治療、対応の工夫は対応の工夫と
バラバラになってしまっていて
個々の認知症のある方の状態を根拠に対応の工夫を考える
といった展開にはまだまだ至っていないのが現状です。
だから
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたらいいでしょうか?」
という質問をする人が絶えないのだと感じています。

本当に状態像を把握できれば
どうしたら良いのか、という対応の工夫は
自ずから一本道のように浮かび上がってくるものなのです。

作業療法は人文科学として
根拠を目の前にいる方の状態像に置いた展開ができるはずです。
そのために必要なことは医学的知識を元にした科学的な観察と洞察です。
(観察は科学的でないという人がいますが、
 非科学的な観察しかできないことが問題なのであって
 観察が非科学的なわけではありません。)
その一方で、観察と洞察の技術を磨くには経験が必要です。
時間がかかるのです。
(技術を磨こうと意思して努力する時間が必要なのであって
 漫然と経験年数を積み重ねるだけでは技術を磨くことは叶いません。)
  
初学者は理想を語るのではなくて、
理想を具現化するための過程として検査もすべきです。
相手を傷つける検査が嫌なのであれば検査をせずとも
状態像を明確化できる技術を磨くべきです。
理想を語るだけですべきことをしないのは本末転倒です。

誤解のないように付け加えると
障害を明確化するのは能力を明確化するためです。
できないことのできなさをどれだけわかっても
認知症のある方の役に立つことはできません。
できること、埋もれていて表面には見えない能力をこそ
見出し、活用することが望まれます。

そこで、その工夫の一例として
HDS-Rをとる際に私がしているちょっとした工夫をお伝えします。

検査は本来実施方法が決められているものですが
一方で治療や対応に役立てるためにするものでもあります。
方法としては少し逸脱してしまいますが
研究資料として使用するのでなければ
このような工夫をするのは実際的でその後の対応に非常に役立つ情報を得ることができます。

一番最初に、年齢を尋ねます。
そこで答えられなくても生年月日や生まれ年の干支を尋ねます。
認知症が進行すると自身の生年月日も干支も答えられなくなりますが
一方で実生活において年齢を答えるという必要性がないために答えられないだけ
という方もいます。

次に
遅延再生の可否を尋ねる質問の時に
ここで3問全問正解できなかった場合に
正解を伝えてその時の反応を見ます。
つまり、聴覚情報を提供して再認できるかどうか見ているのです。

5つの物品の提示の質問で
5問全問正解できなかった時には
5つの物品を目の前に提示してその時の反応を見ます。
つまり、視覚情報を提供して再認できるかどうかを見ています。

最後の語想起課題で
全て答えられなかった場合には
検査を終える前に
その方が答えた野菜を使った献立や好きな調理方法について尋ねます。
まず、オープンクエスチョンで尋ねて答えられればそのままお話を聞きます。
答えられなければ、クローズドクエスチョンで尋ねます。
すると大抵の方は再認できて「おう」「好きだよ」「そうそう」などと
お話を始めてくれます。
HDS-Rを終える前に「できた」体験をしていただく配慮をしています。
だからと言って、不全感や困惑や困った体験をさせてしまったことを帳消しにはできませんが
こちらのマナーとしてそのような工夫をしています。

HDS-Rの得点結果だけを見るのではなくて
上記のように聴覚情報で再認できるのか、視覚情報で再認できるのか
ということは日々の場面でも同じようなことが起こっていますので
対応の工夫に直結する情報を得られます。

そして、答えられなかった時の反応を見ておくようにしています。
わからなかった時に怒ってしまう方は
日々の場面で困った時に怒ることが多いし
わからなかった時に思いついた言葉を並べるような方は
実際の生活場面でも自身でなんとか対処しようとすることが多いし
逆に俯いて硬い表情になってしまう方は困った時に他者に尋ねて解決することができない
といったようなことが起こります。

HDS-RやMMSEを
単にとるべき検査項目の1つとして設定するか
貴重な情報を得ることができる機会として捉えるか
検者の在りようによって、得られる情報の量も深度もまったく変わってくるのです。

靴下の工夫いろいろ


これは _徳武産業さんのあゆみシリーズ_ から _「あゆみが作った靴下のびのび2」_
お年寄りだと足がむくんでしまう方ってとても多くて
普通の靴下だときつくて履けないこともあるかと思います。
そんな時の救世主がこちらです。
「ギプスの上からでも履けます」というキャッチフレーズの通り
本当によく伸びます。
前後の向きを気にせず履けるところもポイント高し!

続いては認知症のある方で
自分で着たり脱いだりする動作能力はあるけれど
前後を間違えたりといった認知面の問題で
更衣が一部介助になってしまうケースに対して
本人にトレーニングするのではなくて
環境調整として靴下の選択を工夫することで
更衣というADL能力の改善を目指す時の考え方と靴下の紹介です。

まずは、こちらから。
_「無印良品」_さんの _「足なり直角靴下」_ です。


商品の本来の特性としては
踵が直角に足の形状に合わせて作ったことでズレにくい
というものですが
足の形状に合わせて作られたカタチから
こちらがつま先、ここが踵、と靴下のカタチが履き方を誘導してくれます。
いわば、履く前の認知面、足に靴下を合わせる段階で有効なのです。

一方で、色無地の商品なので
履いている最中に靴下をうまく履けずに靴下がズレてしまったりすると
つま先や踵の視覚情報がありませんので修正するのは大変になってしまいます。

そんな時には、普通の靴下でもデザインによって履きやすいデザインを見つけることができます。

例えば、普通に ↑ のようなデザインの靴下も市販されています。
この色のデザインだと、つま先と踵が色情報として視覚的に区別しやすくなっています。
履いている途中でもつま先が足背部とは異なる色なので混乱しにくくなります。

あるいは、こんな風に 足袋型の靴下も市販されています。
親指とその他の指の区別が見た目でわかりやすいので
左右の区別がしやすくなるし、
親指が視覚的に強調されているので
履きながら親指に合わせて修正する。
修正しながら靴下を履く、ということが容易になります。

環境調整というのは
詰まるところ、マッチングです。
本人の能力と障害を明確に把握できれば
どんな靴下(環境)であれば、履ける履けない。ということがわかります。

能力というのは、環境によりけり、程度によりけり発揮されるものです。
環境調整が的確に行えるために必要なのは、引き出しの多さではなくて
対象者の評価・状態把握であり、能力と障害・困難の把握と
環境が伝える情報を明確化できるというセラピストの能力です。

答えは目の前の事実にある


リハやケアの分野で常識とされていても逆効果となっていることって
実はたくさんあります。

たとえば
立ち上がりの介助をするに際して
身体を前傾させ足で踏ん張って床反力を使って立ち上がる
というものですが
実は、事実を確認すれば、立ち上がれるはずがない
立ち上がるためには腰を痛めてしまう
ということが起こっています。

今回はテーマが異なりますので
詳細は記載しませんが、興味のある方は_立ち上がり_をご参照ください。

ここでは
なぜ、そのことに私が気がついたか、ということを記載していきます。

上記の立ち上がり方を研修で学んだ若き日の私はその通りに実践していました。
でもだんだん違和感が募ってきます。
立ち上がりに改善が見られないどころか、
だんだんと立ち上がれなくなる、介助量が増える方が続出したのです。
同時に、どうして片麻痺の方に腰痛のある方がこんなに多いのだろうとも疑問に思っていました。
  
もしかして立ち上がり方の練習方法がどこかおかしいのではないかと思い始めました。
でも当時私の周囲にいる人に相談してもまともな返事が返ってこないだろうなとも思っていたので
自分で考えることにしました。
そしてやはり上記の立ち上がり方を指導していては、効果がないどころか逆効果になる
ということがわかりました。


床半力を利用するために足底で踏ん張っても
写真を見ればおわかりいただけるように重心の位置は黄色い線よりも後方にありますから
臀部を浮かせて立ち上がることはできずに後にひっくり返ってしまいます。

臀部を浮かせて立ち上がるためには
腰背部を過剰に収縮させる必要があります。

頑張って強く踏ん張れば踏ん張るほど
大きな床半力が働き
臀部を浮かせるためにいっそう腰背部に過剰な収縮を生じさせる必要があります。
だから、頑張れば頑張るほど立ち上がりの練習をすればするほど
腰痛になるんじゃないかと思いました。

高齢者でよく見かけるのが
立ち上がった時に股関節も膝関節も屈曲位になってしまって
抗重力伸展活動ができなくなっている方。
たくさんいますよね?
その姿を見て、人は「筋力低下」と言いますが
腰背部の過剰な収縮という立ち上がり時の誤用によるものと考えています。
腰背部を触ってみてください。
筋肉ガチガチですから。
「立ち上がり100回」なんて、とんでもないです。

じゃあどうしたら誤用を生じさせずに立ち上がれるのか
どうしたら善いのか
対象者の方の立ち上がりの改善方法を考え始めました。
その結果、効果的な立ち上がり方を見出し、
実際に対象者の方に確実に効果を出せるようになりました。
その結果をまとめて、2009年に開催された第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表しました。
(それ以前から県西地区の勉強会では発表していました)

現行の方法論で良しとされている対応で
理屈で考えてみればおかしなことってたくさんあります。
多くの人は、「良しとされていること」「やるべきとされていること」をしますが
「本当に良かったのか」という確認と
「どこがどう良かったのか」という一般化・抽象化
をしないのです。

だから、現実には不都合が生じていても気がつくことができないし
不都合が生じていることに気がついても
自身の対応の悪さではなく対象者の状態像のせいにしてしまうのです。

私は幼少期に算盤を習っていました。
現在のスイミングや英会話のように、当時は算盤を習うことが流行っていたのです。
そこで繰り返し言われたことが「検算をする」ことです。
自分の計算が正しかったかどうか、確認するということを
当時はその意味も本当にはわかっていませんでしたが、身体に覚え込まされました。
今では「検算する」ことを体得できていて本当に良かったと思っています。

たとえ、100人のうち99人に有効な方法でも
目の前の1人に有効かどうかは、やってみなくてはわからない。
確認しなくてはいけないのです。

残念なことですが
そして、皮肉なことですが
リハやケアの知見が蓄積されてきたからこそ
目の前の対象者の状態像を把握せずに
単なるハウツーの当てはめをする考え方が蔓延しています。

目の前の対象者の状態像を把握するためには、知識が必要です。
概念の本質を理解しなければ、状態像を把握する
目の前の事実を観察し、対象者に何が起こっているのか洞察することが叶いません。

この過程は、一夕一丁にできることではありません。
個々の人が長いキャリアの中で蓄積していくものです。
でも、その努力をする人って少ないんですよね。。。
最新の論文や理論を読んだり学ぶ人はいても、地道な自己検証にエネルギーを注がない。。。

OTの世界で「科学的」であることを自他ともに要請された時に
道を誤ったのだと考えています。
観察は非科学的であるから他の機械や臓器と同様に科学的とされる数での検証に歩を進めた。
でも、OTの対象は「人」なんです。
人文科学の新たな地平を切り開くのは
「人」に対して新たな科学の可能性を提示することではないでしょうか。

人の視覚・聴覚・皮膚感覚や運動覚などの感覚は
磨くことが可能で習熟も可能なことは日本の伝統工芸の職人の技の凄さが証明しています。

観察や洞察が非科学的なのではなく
非科学的な観察や洞察しかできないことが問題なのです。
人文科学としてのOTは観察や洞察を科学的に高めることができるはずです。

「科学は嘘をつかない」  (服藤恵三)
「科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問」

今の常識が将来にわたって常識であるとは限りません。
これから先、人類の叡智でどんな地平が築かれるのか今は誰も知らないのです。

多くの先人によって
科学は幾多の分野で目覚ましい発展をしてきました。
歴史に名を残す天才の存在によるものだけでなく
市井の人々の地道な実践が人知れずその発展を支えてきたのだと思います。
日々目の前にいる人たちの健やかな日々のための実践がそれらを支えてきたのだと思います。

目の前の事実に答えはある。
答えを聴くためには正しく問うことが必要です。

「書かれた医学は過去の医学である。
 目前に悩む患者の中に
 明日の医学の教科書の中身がある」
   ( 沖中重雄 )

「情報化社会と教師の仕事」を読んで


臨床大会での講演をきっかけに
教育工学の沼野一男先生の著書を久しぶりに読み直しました。
初版の刊行が1986年ですから40年近く前の本ですが
内容は全く古びていません。

ティーチングマシンが導入されて
個々の子どもの習熟度に合わせたプログラミングが為されるとなると
人間である教師ができること、すべきことは何か?
という問いが為されます。
まさに、教育とは何か?教師の仕事とは何か?
ということを否が応でも突きつけられるのです。

ティーチングマシン導入以前は
教授目標の妥当性については内容に関する議論・検討が主だったが
導入以降は目標の明確性が議論・検討されるようになってきたとのこと。

リハの世界では、目標の、内容の妥当性について提唱・議論されていますが
教育界では既に数十年も前に経験済みの事象だったんだ。
まさしく、私が目標設定において従来から提唱しているカタチの重要性について、
教育界でのお墨付きをもらったような気持ちになりました。

  目標の内容の妥当性を提唱・議論する人たちは
  「目標とは何ぞや」という概念が理解できていない現状について
  認識できていない人たちが多いと感じています。
  目標とは何であって何でないのか、
  明確に言語化できる人の本当に少ないことを認識できるためには
  目標の概念理解ができることが必須という、皮肉な現実があります。
  目標の内容の妥当性の吟味検討ができるためには
  最低限、目標を目的や方針や治療内容ではなくて
  目標を目標というカタチで設定できて初めて
  内容の妥当性を検討できる土俵に乗ることが可能となります。
  大多数のセラピストは、目標を目標というカタチで設定できていないのに
  内容の妥当性の吟味検討提案をするという、意味のないことをしているのです。

この本の真髄は
後半の「問う」授業の展開にあります。

まさに、ソクラテスの意図を見事に具現化していたのでしょう。
著者の凄みを感じました。

「問う」授業を展開するためには
教師にも学生にも準備とエネルギーを要求されます。

考えてみれば、本質的なことを実践するために
事前の準備が必要なのは言うまでもないことです。

最先端の論文を読んだり
海外の理論を学び実践することも悪いことではありませんが
本質に触れる経験がないと上滑りするんですよねぇ。。。

私たちセラピストも
長年の蓄積がある教育界から学ぶことって多々あると思います。

表面的なことに流されるのではなくて
本質に触れる・向き合う機会が必要なんだということを深く感じました。


さてさて
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

今年が皆様にとって
ますます善い年でありますように。。。

既存の常識とは相容れないような提案がなされた時に
否定され提唱者が迫害を受けるのは枚挙にいとまがありません。
古くはガリレオ、ゼンメルワイス、小笠原登。。。
同時に後世になって彼らの正当性が認められたこともまた歴史が証明しています。
勇気を持ってファーストペンギンの立場に立った彼らは素晴らしいと思いますが
同時に彼らの周囲で実践をし続け、継承し続けた名もなき人たちがいたからこそ
彼らの正当性が後世になって認められたのだとも思っています。

「科学は嘘をつかない。科学は多数決ではない」
「科学は過去の修正の上に成り立つ学問」

この言葉を胸に
今年も実践を続け、志ある人たちの勇気を支えられるようなサイトを目指していきます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。