「QOL」と「その人らしさ」


今、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言うのが
「その人らしさを大切に」
「その人に寄り添ったケア」
という言葉です。

理念としては、とても重要な言葉だとは思いますが
「言うは易し、行うは難し」

言うのは、良いけど
じゃあ、実践にあたって
どのような思考や言動が、その人らしさを大切にしていることで
どのような思考や言動だと、その人に寄り添ったケアではなくなるのか
検討した上で、実践し、自己検証している人がどれだけいるのでしょうか?

リハの世界で30年以上も働いていると
世の中と同じで、リハの世界にも流行り廃りがあることをたくさん見聞きしてきました。

パワーリハや回想法や学習療法。。。
一時期業界を席巻しましたが、さて、今はどうでしょう?
これらは、ツールですから
対象者に合わせて上手に活用すれば良いのですが
当時は結論ありきのように、誰にでもどんな状態の人にでも奨励されていたような印象があります。

若い人はそれこそ聞いたことがない言葉かもしれませんが
今と同じように、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言っていたのが
「QOL」という言葉です。
「QOLを大切に」
「QOLを見据えて」
という言葉が席巻していました。
ところが、今や「QOL」という言葉は死語になってしまったかのようです。

いったい、どういうことなのでしょうか?
あるモットーやスローガンやツールが一気にわーっと広がるけれど
いつの間にか人口に膾炙することがなくなっているという状態。。。
まるで全肯定と全否定のような。。。

長崎浩の「動作の意味論 歩きながら考える」という本のp.255に
「これに対して、生活・人生の向上を最重要視するのが他の臨床医学と異なるリハビリテーション最大の特徴だといわれるが、いうところの最重要視はいまや医療全般の掛け声である。このような股裂き状態の中で、見失われているのはリハビリテーション医療に固有の理論であり、この意味での専門性だというべきである。」
という記述があります。


ICFとリハの発展に絡めての記述ですが、太字部分は「QOL」と言い換えても良いと思います。
思うに、「QOL」については具現化するところまでもっていくのが難しく宿題のままになっていた。
誰もが重要性を感じていて、ただ具現化するに至らなかった。
そこでもう一度、「その人らしさ」というコトバに変えて、
もう一度問いかけるようにして
浮かび上がってきた概念なんじゃないかなと思います。
「QOL」も「その人らしさ」も同じコトを違う側面から切り取って提起しているんじゃないかな。
ただ、かつても今も明確化と具現化ができなかっただけで
「QOL」運動が鎮静してしまったように、いずれ「その人らしさ」運動も鎮静していくと思う。
そして、第3のコトバ、第4のコトバで繰り返し浮かび上がる。。。。

おそらく、「その人らしさ」から派生してきたのが「意思尊重」で
「やりたいこと」「希望」を尋ねるという方法に流れてきている。。。
(今はむしろこっちの方が花盛りかも?)
でもそれはすり替えであって本質じゃない。
問題設定の問題に絡めとられてると思っています。

本質は、『生活・人生の質を最重要視する』ことで
ヒントは、『ICFの概念』で
ぼんやりとつかみかけているものをはっきりとカタチにしたうえで
どのように『具現化する』のかというところなんだと思う。

  ICFは相互関係論なので華厳経の縁起と通じる部分もあると思っています。
  (老後の楽しみとして数学と華厳経を勉強したいなと思っています)


 

ここまでは、わかるようになったし、できるようにもなったけど
(我ながらよくここまで自力で辿り着いたと思います。
 もちろん有形無形多数の人の援助や支えはありましたし
 幾多の先達の知見のおかげや影響も受けています。)
ここから先はどれだけ進めるだろうか。。。
もちろん、進むだけは進むつもりでいますが
今までみたいにひたすら前進!という年齢ではなくなりましたので
バトンを渡すことを諸々考えています。

そんなわけで
長らくお待たせしましたが
できれば11月くらいにDCゼミ主催の研修会開催を検討中です (^^)
詳細は今しばらくお待ちください m(_ _)m



第6回神奈川県臨床作業療法大会 事前参加登録開始されました!


2024年12月8日(日)に開催される
第6回臨床作業療法大会の事前参加登録が本日9月2日(月)12:00から開始されます !

詳細・お申込は
_大会公式サイトの参加登録_から。

事前申込の参加費は、¥2,000円です。

開催日程は、_こちら_をご参照ください。

第2講演として
「なんちゃって目標からの卒業〜自分自身に問い直す〜」というテーマ

お話させていただきます。

思えば
リハの分野は目覚ましい発展を遂げてきました。
私が高校生の時に進路指導の先生に尋ねられて
「リハビリテーションの学校に行きます」と答えたら
「リハビリテーション?それは何だ?」と言われました。
でも、今やリハを受けたことのない人はいても
リハビリという言葉を聞いたことのない人はいないと思います。

リハの知識も技術も蓄積され
対象分野も大きく広がり
従事するセラピストの数も大きく増えました。

一方で
私が学生の頃からあまり変わっていない課題もあります。
チームワークしかり
目標設定しかり。

なぜなんでしょうねぇ。。。

チームワークについては
一時期は飲ミュニケーションという言葉が席巻したこともありますし
目標設定についても
一時期OTの中でブームとなったアプローチもあります。
でも、飲ミュニケーションという言葉は定着しませんでしたし
今の若い人は聞いたこともない言葉なのではないでしょうか?
同様に、一時ブームとなったアプローチだって定着はしていません。
定着していない。。。ということは
結局、現場的に
使いづらさがあるとか、現実的ではない、つまり、本質ではない
ということだと思っています。

12月の臨床作業療法大会での講演では
目標設定の本質に迫るお話をしたいと考えています。

実は、目標設定で悩んでいる人はすごく多いはずなんです。
(自覚している人はまだしも、自覚できていない人も多い)
「目標をどんな風に設定したら良いのかわからない」
「これで本当に良いのかわからない」
と立案時に悩む人もいれば
「やりたいことを尋ねたら、そんなものはないと言われた」
「やりたいことを提供したら、全然できなかった」
と提供時になって初めて困る人もいますし
目標をちゃんと設定できていないのに困ることすらできない人もたくさんいます。
私が学生の時にも、そして今現在も。
60年もの間、変わることのない課題なのです。

どうしてなのでしょう?

本当は
目標の設定の仕方がわからない
のではなくて
目標とは何ぞや
ということがわかっていないのだ
と考えています。
問題の本質を吟味することよりも
表面化している問題を表面的に解決しようと
考えた方法論の限界が見えてきていると思います。
本来、対応すべきは目標の概念理解だったのですから
問題設定の問題に陥っていたことを自覚して
本来の問題に対応すべきだと考えています。
  
そもそも普通に考えて、
目標の概念理解ができていないのに目標設定の仕方を工夫する
って、すっごく変

コトは目標設定に限りません。
まったく同じコトが違うカタチで臨床現場で起こっているんです。
  
概念の本質を理解せずに対応をあれこれ考える。。。
食事介助でのムセ然り
ポジショニングでの過剰可動域の設定然り
認知症のある方に敬語や優しさを奨励すること然り。。。

極めつけが
どんなテーマで講演しても質疑応答で必ず出る、
「〇〇という状態の人がいますが、どうしたら良いでしょうか?」
というカタチの質問です。
この質問のカタチには、ふだんの思考回路が反映されています。

〇〇という時には、△△する
という思考回路です。
というか、単なるハウツーの当てはめですから思考ですらありません。。。

そして、そのような市場の要請に応じて
ハウツーを売りにした研修も
ハウツーを売りにした本も多数提供されています。。。

その一方で
「その人らしさを大切にする」
「その人に寄り添う」
というスローガンはどの分野、どの職種でも花盛りです。

本当に。。。?

どういった思考や言動がその人らしさを大切にすることで
どのような思考や言動がその人らしさに寄り添っていないことなのでしょうか?

本当に実践されていたら
ハウツーを求める質問は出てこないし
ハウツーを売りにする研修や本が提供されるはずがありません。
ハウツーは「その人らしさを大切にする」「その人に寄り添ったケア」と真逆の在り方ですから。

その反映の現れの一端が誰に対しても
「現状維持」「移動能力の維持・向上」「筋力強化」「可動域改善」「認知機能維持」
といった文言で「目標」として設定されていることもあります。

こんなにも実践と理念が乖離している現実に
疑問を感じる人がどうしてこんなに少ない
のでしょうか?

理学療法士・作業療法士という言葉が1965年に日本に誕生して来年で60年になります。
日本には還暦という言葉があります。
「産めよ、増やせよ」で国策としての養成がひとまわりするわけです。
このあたりで、第二の人生に生まれ変わるという還暦の意味に沿って
もう一度、根幹となるものを考え直しても良いのではないでしょうか?

知見の集積は必須でした。
でも、どんな物事であれ
物事は表裏一体、メリットもあればデメリットもあります。
リハの知見の集積が叶ったからこそ
蓄積された知見を対象者のために活用するのではなく
知見を対象者に当てはめるような在り方
が広まってしまった側面もあるのではないでしょうか。
知見の集積をどのように扱うのかは扱い手の問題です。
だからこそ、今一度、本質を見直すことが重要なのではないでしょうか。

目標を目標として設定できるということは
それ自体、重要な能力でありますが
それ以上に、臨床能力を下支えするメタ認識を涵養させるという意味でも重要です。

実際に現場で起こっている問題の本質について
言語化し、問題提起し、解決策を提案
している人は稀です。

日本のリハビリテーションの未来を担う人たちに向けて
他では聞けない、本当に貴重なお話を聞ける場にいたします。

どうぞ、ご参加をご検討ください。


本質はシンプル


「簡潔さとは複雑さを研ぎ澄ましたものである」
ルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの言葉だそうです。

スティーブ・ジョブズもシンプルなデザインにこだわっていました。

私の実践は
対象者の能力を見出し能力を活用する
というものです。

答えは対象者の中にあるということを確信しています。

どんな対象者のどんな状態像であっても適用可能な考え方です。
食事介助しかり、ポジショニングしかり、移動能力しかり、
生活障害しかり、BPSDしかり、Activityしかり。

シンプル過ぎて理論とは言えないかもしれませんが
私はそうやって結果を出してきました。
 
巷間言われているような理論を使ったことは一度もありません。
だって、手間ばかりかかる割に結果が出せないし
重度の認知症のある方に適用できないからです。

本当に有用なもの、本質的であればあるほど
除外要件が少ないはずです。

除外要件が多いものは本質ではないと考えています。
「認知症だから無理」「認知症だから適用困難」
と言って認知症のある方を除外しないでほしい。

認知症のある方はリハ対象者の中に相当数います。
急性期であれ、回復期であれ、生活期であれ
認知症のある方に出会わないセラピストはいないと言っていいと思います。
任意の理論が本当に認知症のある方に役立つかどうか
みんな心の中では本当のことをわかっている
と思います。
忖度して言わないだけで。
でも、それで本当に認知症のある方への対応が発展していくのでしょうか?

「理論が大事」という人は少なくありませんが
私に言わせれば、根拠こそが大事で
実践において、その根拠とは対象者自身です。
もちろん、過去からの知見の集積は活用はしていますが。

このサイトの_トップページ_に先人の金言を掲載してあります。

原点に立ち戻って
目の前にいる方に真摯に向き合うことから始めることが
真贋を見極める眼を磨くことにもつながると感じています。

トップダウン評価の実践


トップダウンアプローチなるものが一時、流行しましたが
最近ではあまり聞かなくなってしまいました。

リハに限らず、どの分野でも同じですが
その他にも、パワーリハ、学習療法など流行り廃りがあるものです。
意義はあるから上手に活用すれば良いもので本質ではないのだと思います。
本質でないものは時代に淘汰されていくのでしょう。

私自身は
実践ではなく評価こそボトムアップではなく、トップダウンで行う
と考えています。
正確に言えば、ボトムアップで検査をしてもそれだけでは評価にはならない。
必ずその方の困りごと、できそうでできないことの場面を自分自身で確認する。

生活の中の困りごとが起きている場面そのものを観て
イマ、ナニが起こっているのかがわかることが大事

だから、どうしたら良いのかが浮かび上がってくる。
それが食事介助であっても、
帰宅要求であっても、
Activityであっても、
移動能力であっても。

生活障害に反映されている機能障害の把握の順序は
先でも後でもどっちでもいいんです。
それは瑣末な問題
というか、機能障害の明確化や確認という過程は
遅かれ早かれ、目標を適切に設定しようとする過程において
必ず問い返される
ものです。

結果から状態を観察し必然を洞察する:食事介助


私が他の人と違うところがあるとしたら観察の深度だと思う。

例えば
「ためこんで飲み込んでくれない」と質問する人は多いけれど
ためこみって、結果として起こっていることなんです。

食事をためこんでしまう方は
食べたくないからためこむ訳ではなくて
食べたくて食べようとして、でも食べられないケースが圧倒的に多いものです。

なぜ
ためこんでしまうのか、食べようとして食べられないのか
というと、圧倒的に多いのが舌の硬さです。
まるで、かまぼこ板のように舌がガチガチに硬くなっていることが多々あります。

舌が硬くなっているという状態の結果、
スムーズに送り込みができなくなり、ためこみという結果となって現れているのです。
じゃあ、なぜ、舌がそんなに硬くなってしまうのかというと
これは、十中八九、誤介助が理由です。
対象者の方に本質的な問題があるわけではないのです。
だとしたら、正の介助を行えば正の学習が生じます。
私たちが適正な介助を行えば良いだけなのです。
  
ところが、多くの人が「ためこみ」に困ると言いながら
「ためこみ」につながるようなスプーン操作、たとえば
スプーンを口の中に突っ込んだり、
上の歯でこそげ落としたり、
多すぎる1口量を口の中に「入れてあげる」等の誤介助をしているのです。

対象者の方は
食べにくさを感受しながらも必死になって食べようとした結果
過剰努力によって舌が硬くなり、
舌のしなやかな動きがなくなるので食塊再形成や送り込みができなくなる
食べたくても食べられず、結果としてためこんでいるのです。

ところが、多くの人は
「ためこみ」という「結果」は見ても
舌の硬さという「状態」には気がついていません。
だから、誤介助にすら適応しようとして
必死になって食べようとした誤学習として
舌内筋の過剰緊張が起こってしまったという「必然」
洞察することができないのです。

そして結果だけ見て
「ためこんで飲み込んでくれない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
「口元までうまく運べない人がいるんです。どうしたら良いでしょうか?」
という質問をするのです。
状態を観ていないし、「イマ」「ナニが」起こっているのかを把握できていないから
どうしたら良いのかわかるはずがありません。。。

評価とは
「イマ」「ナニが」起こっているのかを洞察することです。
ここで、改訂水飲みテストをしても状態把握できるわけではないのです。

誤解が生じないように敢えて書きますが
私は改訂水飲みテストを否定しているわけではありません。
実際、必要であれば改訂水飲みテストを行なっています。
でも、改訂水飲みテストはあくまでも「食べ方の評価」を構成する1検査に過ぎません。
同じ意味で嚥下造影や嚥下内視鏡も「食べ方の評価」の下位項目としての1検査に過ぎません。
検査は必要で意義もありますが、すべてではないのです。
(MMTをしただけで歩行状態の評価ができるわけでないのと同じです)

その証拠に
上記の検査をしても、「どのように介助したら良いのか?」という問いが
解消されることはない
のではありませんか? 

どうしたら良いかと他人に尋ねるのではなくて
目の前にいる方の食べ方をもう一度きちんと観察すべきなのです。

 
そう言うと
「ためこんでることをちゃんと見てるよ」って言われるけど (^^;
いやいや、それは結果で状態じゃないから。
状態を観察しないと。
そう言っても知識がないから目の前に起こっていることを観られないので
わかってもらえないことも起こり得ます。。。
わかってもらえないならまだしも、
「いちゃもんつけてる」ってこっちが悪者にされることだってあります。。。(悲)
「どっちがいちゃもんだ!」って言いたいけど
そんなこと言ったって泥沼になるだけです。。。

  「知は力なり」は真実だと思うけど
   こと、人に対しては「無知は力なり」じゃないの?って
   何度思わされてきたことか。。。

同じ時に同じ場所で同じ人を見ても
観る人によって得られる情報は全然違ってくるのです。

旅先で同じ景色を見ても
地学の知識がある人とない人でも違うし
歴史の知識がある人とない人でも違うように
(ブラタモリで証明されてます)
  
摂食・嚥下5相の知識がある人とない人
認知症の知識がある人とない人
運動学の知識がある人とない人
障害の知識がある人とない人では観察の深度が違います。

結果だけ見ているから、ハウツーを当てはめることしかできないし
結果を引き起こしている状態を観察できたとしても、知識がなければ
状態を引き起こす必然を洞察することはできないのです。

逆に言えば
状態を観察できるように知識を習得し
イマ、ナニが起こっているのかを洞察できるように観察すれば良いだけです。

食べようとして食べられずに困惑して
必死になって食べようとしているのに
その努力を不合理としか判断してもらえなかったり誤認されるだけで
的確に援助してもらえる人に出会えず苦しい思いをしている方が
今もまだたくさんいるだろうと思います。
そういう人が一人でも少なくなりますように。

そして、コトは食事介助に限らないのです。

紹介!「スクラッチアート」

 


ダイソーで売ってる、スクラッチアートがオススメです!

下絵が描かれた黒い台紙を専用のペンで引っ掻くようにしたり、なぞることによって
黒い台紙の下から色味が表れます。

塗り絵とちぎり絵とスクラッチアート
種目が要請する能力と特徴は微妙に異なりますので
それぞれの種目と対象者を適切にマッチングさせることが重要です。

塗り絵は、自分で「色を作り出す」楽しみがあります。
ちぎり絵は、自分では色は作り出しませんが、色のついた和紙の配置を工夫することで
結果として「色を表現する」楽しみがあります。
スクラッチアートは、結果として「色が出てくる」楽しみがあります。

それぞれ、下絵に工夫することで多様な状態像の方に楽しんでいただくことが可能です。
数分前のことを忘れてしまう方でも、スクラッチアートなら集中して取り組むことができる方も少なくありません。
この、下絵に工夫をするということが最大のポイントです。
特に、塗り絵はリハやケアの分野で多用されているActivityですが
あんまり、工夫がされていないのはもったいないことだと感じています。

スクラッチアートも下絵の選び方が重要です。
今は無地の用紙も発売されているので、提供者側が下絵を描くこともできるので
難易度の調整がより容易となっています。

詳細は下記の記事をご参照ください。
「スクラッチアートが使える」
「スクラッチアートの良さ」
「オススメAct.『スクラッチアート』」





ムセた時は呼気の介助


ムセに関する誤解については
こちらでも記載しましたし、機会あるごとに述べていることですが
じゃあ、どうしたら良いのか

ムセたら、背中を叩いたりさすったりするのではなく呼気の介助をします。

ムセとは、呼気のパワーで異物を喀出する作用なので
その作用を高める補助をする
というわけです。

座位のままで背中を叩くと、逆に気管の奥に異物を落とし込んでしまう恐れがあります。
窒息時の対応として、ハイムリック法の他に背部叩打法というのがありますが
頭部を胸よりも下方に下げた位置で叩く方法です。
(成人であれば、机の上にうつ伏せにして頭を下げ肩甲骨の間を叩きます)

ムセられるということは気道が閉塞していない、つまり呼吸ができている状態です。
だから呼気の介助が有効です。
窒息というのは気道が閉塞しているために、呼吸ができていないので
この場合に呼気の介助をしても意味がありません。

異物を喀出する努力をするとともに
医師を呼ぶ、医師のいない施設であれば救急車を呼び
救急隊が到着するまでの間、心臓マッサージをして脳への血流を確保することが必要となります。

いずれにしても、そんな状態にならないように
日々の食事場面において、適切な介助を含めた食環境の提供を実践・継続する方が
対象者にとっても職員にとってもずっと心身の負担が少なくてすみます。

食事中に呼気の介助をする時には
肺の右上葉が一番換気量が多いと言われていますので
右鎖骨下に手掌面全体をぺったりと当て
各人によって膨らみやすい方向があるので、その方向に垂直に
呼気のタイミングで圧を加えるようにします。

私の本「_認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック_」
の34ページにも記載してありますので、ご参照ください。

以前に、
食事中に患者さんが
誤嚥によって気道狭窄を起こした時にも(ヒュー音がした)
呼気の介助で大事に至らずに済んだことがありました。
私は喘息患者さんに接したことはなくて
「喘息でヒューヒュー音がして呼吸が苦しくなることもある」
というのを何かで読んだ程度しか知りませんでしたし
その時には離れた場所で他の方の食事介助をしていましたが
その音を聞いてすぐに「これは危険!」と思いました。
2回目のヒュー音が聞こえた段階で飛んでいってすぐに呼気の介助を始めました。
すぐに喀出できてなんの問題もなかったので本当に良かったのですが
もしも「呼気の介助はムセた時」というようなハウツー的理解しか
していなければ対処できなかったと思います。
最悪、無理に食塊を除去しようとして
逆に奥に押し込んでしまっていたかもしれません。
「ヒューというような音→誤嚥によって気道狭窄が起きた
→呼吸はできている→呼気介助して喀出できればヒュー音がなくなる」
というように
概念の本質を理解していれば
何が起こっているのかがわかり緊急性の判断もできるから
対処も的確にできるのだと再確認
できました。

緊急時対応が的確に行えるということも重要ですが
普段から基本に忠実に介助することのほうが
ご本人にも対象者にとっても心身の負担が少ない最大のリスク対策となります。
食べ方(口唇の動き、舌の動き方、喉頭挙上の動き)をよく観察する
スプーン操作を適切に行う
「そんなことわかってるけど忙しいからできない」と言うのではなくて

  こう言う人は本当に多いけど、そう言う人で
  基本に忠実に介助している人に会った試しがありません。


忙しいから、大変だからこそ、ポイントを押さえる
時間がかかるのは不適切な介助をしているからと認識を改めましょう。

  事実、コロナ渦で感染対策をしながらベッドサイドを周り
  私ひとりで2時間に25人〜30人近くの水分補給をして
  その中で食塊を吹き出してしまうなどの食べ方を改善することもできました。


食事場面は生命に関わる場面だからこそ
普段から、覚醒、姿勢、喉頭の動きなどをきちんと観察し、
スプーン操作の基本に沿って介助する、

介助の基本を徹底するということが最大のリスク対策にもなります。

   

検査結果を対応に活かす


目標設定の記事で
評価と治療の乖離
検査結果を対応に活かせていない という内容を書きました。

せっかくですので
もうちょっと具体的に書きますと
HDS-R18点の方とHDS-R3点の方に同じ声かけをしているとか
構成障害のある方に折り紙を提供して
「ここをこうしてこうやって」と説明している
といったことは、認知症のある方や高齢者を対象とした現場でよくよく行われています。

しかも
それで指示通りに実行できないと
簡単に「疎通困難」とか「認知症だから」と言ったり
折り紙のほとんどをセラピストが仕上げて「頑張りましたね」と言ったり
認知症のある方の手をセラピストが動かしている状態にしていたり
というのも現場あるあるです。。。

本当にそれで良いのかなぁ。。。?
 
うまく言語化できないけど
「どこか違う」「何か良くない」と
漠然とした違和感を抱いている人も少なからずいると思います。

HDS-R18点であれば、遅延再生に一部得点できたりヒントで答えられることが多いでしょうし
HDS-R3点であれば、遅延再生はヒントを出しても答えられないケースが多いと思います。
つまり、近時記憶障害の程度が違う、記憶の連続性が異なるので
リハ場面で諸々の説明をする時には配慮が必要です。
HDS-R18点の方には、最初に1回説明するだけで「何をどうやるのか」覚えていられても
HDS-R3点の方には、動作干渉や時間干渉によって説明を忘れてしまうので
ひとつ工程を実践し終えるたびに説明を繰り返す配慮が必要なことがよくあります。

構成障害とは
全体と部分、部分と部分の位置関係を認識し再現する能力の障害
のことですから、隣にいるセラピストの折り方と自身の折り方を照合させながら動作する
というのは、できないことをさせていることにもなりかねません。
再現できなくても認識できる方も大勢いますから
「自分がやろうとしてもできない」体験を反復強調していることにもなりかねません。

もちろん、このような対応をしているセラピストに悪意があるわけではなく
単に知識がなかったり、思考過程そのものについて学んできていないことによって
本当は適切な対応でないことを自覚できていないに過ぎません。
だから、厄介とも言えますが。。。

HDS-RやMMSEをすることが評価でもなければ
立方体透視図模写テストや五角形模写課題をすることが評価ではありません。
検査=評価ではないのです。

HDS-Rや立方体透視図模写テストなどの検査は、
普段能力低下に直面せずに暮らせている人に対して
「できない、わからない、困った」ことに直面させる体験でもあります。
そのような辛い体験をさせてまで得た結果なのだから対応に活用しましょう。

評論家なら、
「HDS-Rが1桁で重度の認知症」
「立方体透視図模写テストが全然できなかったから構成障害重度」
と宣って終わりで良いでしょうけれど
私たちは評論家ではなくて、援助者なのですから。

それら検査結果を踏まえて
「じゃあ、どうするのか」が問われているのです。
そして
「じゃあ、どうするのか」を具現化できるためには
能力を見出し活用することが必須です。

そして
それって、実は認知症のある方に限らないと思うのです。

 

必要なのは過程における自己承認


学ぶということは変わるということ
変わり方は人それぞれ、その時それぞれであっても

一人前のセラピストとは
過程において自己承認ができて
結果において目標達成できる

ことだと考えています。

だから極論すると
臨床経験1年目から一人前のセラピストになることも可能だし
臨床経験30年の人でも一人前のセラピストとは言えない人だっていると思います。

多くの場合に
私たちは過程において自己承認ができるようには教わっていないから
一時的に他者承認が必要な時期もあると思う。
でもそれは将来、自己承認ができるようになるための前段階として。

いつまで経っても自身の考え方や実践に
「見通しが持てないなかでやってる」
「これで本当に良いのか不安」
と言ってるようではプロとは言えないと思う。
それってカタチを変えれば
予算立案の際に
「このくらいの予算でいいんじゃないかと思うんだけど自信がない」
って言ってるのと同じだからです。

予算立案と目標設定の類似性については
_前の記事「見通しが立たないからこそ目標を設定する」_に記載しました。

漠然と根拠もなしに「このくらいかな?」では自信がなくて当たり前です。
自信がないのは、「予算の確かさ」ではなくて
「予算の根拠」なので、ある意味自信がなくて当たり前です。
テキトーな根拠に自信を持たれたら困ります。
一つ一つの事柄をきちんと調べて確認してから
必要経費を計上していれば
「このような活動をこれだけの人数で行えばこのくらいの予算が必要」
と明確に言えるものです。

自分の実践に見通しが持てなかったり、不安ばかり募るというのは
結果的に生じている
ことで
本来、フォーカスすべきは、状態像の把握ができていないということなんです。
  やるべきことをやっていないのですから、不安で当然です。
  やるべきことをやっていないのに自信を持てる人は傲慢であり
  そのようなあり方は科学的態度から最も遠い在り方です。
  不安や困難を自覚している人はまだ成長の可能性があります。
  自身の不安や困難を否認して自身が困らないことを優先する人は

  どうしようもありません。
つまり、論点のすり替えが起こっていることに無自覚なことが問題なんです。
だから、自己修正ができない。
問題設定の問題なのです。

予算を立案するために、一つ一つの事柄をきちんと調べて確認するのと同様に
対象者の状態像を把握するために、障害と能力を一つ一つ明確化していけば良いだけなのです。

ところが、
障害と能力の明確化という過程を
案外、ちゃんと教わってこなかった、学んでいなかった
 ということに
ここにきて初めて気がつく人もいるでしょう。
いくら、すべきと教わった検査をしても
それだけでは状態像の把握に結びつかないことに直面する
からです。
愕然とすると思います。
じゃあ、どうしたら良いのか?

障害に関する基礎知識を学び直し
今、できていないことがどんな風に困難なのか
今、できていることがどんな風にできているのかを
よく観察することです。
  状態像の把握ができていない人は十中八九、観察ができていません。
  できていると思っている人でも実はポイントほど見逃しているものです。
今は良いデバイスがありますから、
対象者と職場の許可を得て録画しましょう。
そして何回も繰り返し見直すのです。

本当は、ここでちゃんと教えてくれる人がいると良いのですが。。。
 この行為は、こういう能力があるからできる
 一方で、こういう障害を代償している側面もある
 この発言は、こういう能力があるからこそ出てくる
 一方で、こういった障害の恐れもある
などとちゃんと解説してくれる人がいると一番良いのですが
近くにいなければ、覚悟を決めて自分でやるしかありません。
「読書百遍義自ずから通ず」は、本当です。
繰り返し録画を見て観察しましょう。

最初は「何を」「どこまで」観察するのか皆目見当もつかないかもしれません。
自分が何に困っているのかわからないから観察のポイントもわからないのです。
そんな時に助けになるのが目標設定です。
目標を目標というカタチで設定できるまで観察します。
その過程において確認すべきポイント、
今まで自分が曖昧にしていたのに気がつけないでいたポイントに
自分で気がつけるようになります。

観察できるようになれば
目の前にいる対象者の方に「イマ」「ナニが」起こっているのかを
洞察することができるようになります。
障害がどのように現れ、その障害を代償しようとした結果
能力が不合理に発揮されていることが手に取るように分かるようになります。
だから、どうしたら良いのかが「結果として」浮かび上がってくるのです。
過程をすっ飛ばして「結果」が得られることはありません。
無意識には本当はわかっているからこそ、不安になるのではないでしょうか。

真摯に向き合っているからこそ
「対象者の方に」どうしたら良いのかという悩みが出てくると思います。
でも本当は
「自分が」どうしたら良いのか悩むべきなのです。
ここでも問題設定の問題が起こっているのです。

目標設定について
定義や自己トレーニングの方法について
_目標設定のページ_にまとめてあるので良かったらご参照ください。

遠回りになるかもしれませんが
逆に言えば、遠回りしたからこそ深く知見を習得することも可能と言えます。
逆に、教えてくれる人がいたとしても、
その人の技量が未熟であれば不適切な知見を得る恐れだってあります。

「ちゃんと教えてくれる人」って実はそうそういないのが現状でもあります。
もし身近に「ちゃんと教えてくれる人」がいたら
その人は本当に良い人です。
良い人に出会えたことを感謝して大切にしてください。

そうでない人は
「ちゃんと教えてくれる人」がいないのが通常だと思って
覚悟を決めて自分で自分をトレーニングしていきましょう!
そして自分自身が誰かに「ちゃんと教えられる人」になれるようになりましょう。

曖昧な部分を自分が自覚できるからこそ
曖昧な部分の明確化が可能になります。
(まさしく、予算立案と一緒です。)

一つ一つの明確化、地道な努力の積み重ねによって
根拠の確からしさを説明できるようになれば
結果として、過程における自己承認ができる
ようになってきます。

繰り返しますが
手段と結果として起こることを混同してはいけないのです。
自身の実践に見通しを持てなかったり、不安を抱いている場合に
実は問われるべきは実践の確からしさではなくて実践に至る過程での明確化なのです。

より良いOTになるために
より良いOTを育成するために
最も重要なメタ過程というべきこれらの過程を
卒前卒後でどのようにして連携しながら養成していくのか
(私たちは大人ですから、個々の課題だとも言えますが)
そうも言っていられない現状もあるのではないでしょうか?

見通しが立たないからこそ目標を設定する


目標設定が難しいのは、
「対象者の状態像がよくわからない」とか
「やってることの見通しが立たない」から
と言う人もいるようですが、それはまったくの誤解です。
  
「よくわからない」
「確信が持てない」
だからこそ、目標を設定するのです。

目標こそが羅針盤なのですから

予算を立てるのと一緒なんです。

私はかつて
神奈川県作業療法士会の県学会の広報部長をしたことがあります。
そこで、まず最初に予算案を立案するように言われました。
それを聞いてまず思ったことは
「学会の仕事なんてやったこともないのに予算なんて立てられない」でした。
でも、それは間違いだったんです。
やったことがないからこそ、予算を立案するんです。
(別に記事にしますが、通常、納期と予算のない仕事はありません)
  
予算を立てるためには「このくらいかな?」というような当てずっぽうではなくて
ちゃんと正当性のある見立てが必要です。
学会そのものの目標として参加者数の設定がありましたから
それだけの方に来ていただくために
どんな広報活動を展開するか、
どこでどんなことをするか、
その活動に必要な人数と物品は何か
具体的に考えて、一つ一つを確認して
(例えば活動してくれる人の交通費を確認する)
具体的に明確化していく作業が必要です。
これって、カタチは違えど、まさに目標設定の過程そのものです。
突発的なこと、新たに新規活動を組み込む必要が生じた場合などは修正予算を組みます。
想定外で状態像や環境の変更が生じた場合には目標を設定しなおすのと同じです。

つまり
適切に目標を設定しようとする過程において
自分がするべきことが明確化され、実践することが要請される

ということなのです。

目標とは
その人に「必要」で「達成可能」であり「行動」で示される
ものです。


必要」なことを明確化することは難しくないと思いますし
(身体面なのか認知面なのか情緒面なのか環境設定の工夫なのか)
行動」で表現するということは明らかにセラピスト側の技術の問題ですので
これはセラピスト側がトレーニングによって解決すべき部分です。
問題は「達成可能」というところです。
ここは、『現在の』障害と能力を明確化できないと判断できません。

誤解している人が多いのですが
いくら検査をしてもそれだけでは『現在の』障害と能力を把握することはできません。
検査と評価は違うのです。
ところが、「検査=評価」と誤認している人はヤマほどいます。

適切に目標を設定しようと意図した時に
あるいは、目標を適切に設定できているかどうか確認しようとした時に
根拠となるのは目標の定義であり
目標というカタチになっているかということになります。

 
必要なことを行動で表現しようと意図すれば
達成可能かどうか、現在の障害と能力を把握する上で
自信が未確認な箇所や曖昧にしていた箇所が浮かび上がってきます。

予算を設定する時とまったく同じなのです。
あとは、浮かび上がってきた曖昧な箇所を明確にすれば良いだけです。

適切に目標設定することができないという場合
「なんとなくわかってるんだけど言葉にするのは難しくて」
という言い方をする人は多いのですが
本当は、「言葉にするのが難しい」のではなくて

「対象者の現在の障害と能力がなんとなくしかわかっていない」
「自身がわかっていない箇所がわかっていない」のです。
だから、先へ進めない。
だとしたら、曖昧な箇所を明確化すれば良いだけです。
その時に力になるのが、目標という『カタチ』で設定することなのです。

   このような現状を招いた一つとして
   皮肉なことに「やること」の知見が集積されてきたことの

   マイナスの側面があると思います。
   脳血管障害後遺症の方には、〇〇と△△をやる
   大腿骨頸部骨折術後の方には、〇〇と△△をやる
   廃用の方には、〇〇と△△をやる
   といったような言説は巷にあふれています。
   そしてまた、それらの結果、

   できなかったことができるようになったりするので
  「やってよかった」という判断になり、

   振り返りが為されにくいという状況が生まれます。
   だから、ハウツー的思考回路、方法論に対象者を当てはめるような思考回路
   評価と治療が乖離している現状が生まれるのだと思っています。

『現在の』障害と能力を明確化するところで
自身が行き詰まっているということがはっきりしたのだから
自身の行き詰まりを明確化する
わかっていることとわかっていないことを明確化し
わかっていないことをわかるようにすれば良いだけです。

   余談になりますが
   現在の実習指導CCSで最も欠けているのがこの過程です。
   臨床で最も重要なメタ過程とでもいうべき
   自身の思考過程の明確化という体験学習ができない
   という点が非常に大きな問題だと考えています。

ところが、多くの人はその過程に立ち戻ることをせずに
(実習で体験していないからできようはずがないとも言えます)
放置したり(目標と方針と治療内容が同じ文言)
対象者のせいにしたり(認知症のために目標の共有困難)
言い訳をするのです(そのうちわかるよ)

でも、本当は
そのような自分自身に内心忸怩たる思いを抱えているのではないでしょうか。
ただ、どうしたら良いのかわからなくて
次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、なんちゃって目標を設定するというのは
相当辛いことだと思います。
辛いからこそ、今度は「目標なんて臨床ができさえすれば関係ない」とばかりに
表面的に為すとされたことだけしていく
現行流布している方法論にしがみつく
という在り方に舵を切るしかないのかもしれません。。。

だけど、それは砂上の楼閣なんです。
ことは目標設定にとどまらない。
セラピストとしての在り方の根幹に関わる
ことなんです。
困難に遭遇した時に
「そのような状態は対象ではない」
「認知症が重度だから無理」
「言動に迎合し再学習に向き合わない」
といった対応をするということと全く同じです。
概念の本質を理解しようとせずに表面的な対応に終始する。
どの分野でも「個性尊重」「その人らしさ」を声高に唱えながら
やってることは誰でも一緒、一律にハウツーに当てはめてるだけ。。。
まさに、一事が万事というわけです。

目標設定そのものが適切に行えるということ自体、重要なのですが
その過程を通して、下支えしているメタ認識のトレーニングにもなっている
という二重の意味で重要なのです。

目標は「その人がやりたいこと」を設定すれば
目標設定の困難さが解消されるわけではありません。
(やりたいことを尋ねることには意義がありますが)
むしろ、問題の本質をすり替えられ抑圧され
短期的には問題が軽減したように見えて
長期的にはさらなる困難を作ってしまった
ように思えます。
  
事実、認知症のある方の場合に
「やりたいこと」を言語化できなかったり
「やりたいこと」ができなくなっているケースは多々あります。
   疾患特性から「同じコトを違うやり方でする」工夫は
   成立しないどころか更なる混乱を引き起こしますし
   表立った混乱がなかったとしても
   「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」という
   事態を引き起こすことは多々あります。

   結果として「できた」かもしれませんが
   本当に「意味のある」体験だと言えるでしょうか?

   
目標設定で悩んでいるセラピストは本当はたくさんいるはずなんです。

卒前の養成過程では提供すべきとされた知見が激増し
卒後の養成過程では報酬請求と書類記載と出席すべき会議の量に忙殺され
資格取得をゴールと考える人たちが増えてきている状況において
現状改善のためにどうしたら良いのか?
と真摯に悩む人もまた人知れずいるのだと思います。

目標設定で悩んでいる方は、_目標設定_ をご参照ください。
必要であれば、_お問い合わせ_から、研修会講師をご依頼ください。