他職種などがOTのことを「わかってくれない」(ごむてつ)

良枝さんのこちらの記事に触発されてコメントしようかと思ったけど、例によって長くなりそうなので俺もひとつの記事にしてみた。

OTの人はよく(他職種などがOTのことを)「わかってくれない」とか言ってたけど、今でもそうなんだろうか?

それに対して俺の答えは昔から決まっていて「結果を出せ、実績で示せ」である。
自分自身も怠け者とはいえ、それだけは自分に厳しく課し、実際にそう徹してきたつもりである。

プロの仕事がそう簡単にトーシローにわかってたまるか!
俺はOTの学校に行く前は精神病の患者だったから、少なくとも学生の時から全くの素人ではなかった。

正味の話、プロのやることがシロートにとって理解し難いのは当たり前で、だからこそわかりやすく正確な説明や伝える努力も必要だけど、聴く耳さえ持たないやつに何を言ってもわかるわけはない。
難しい哲学やら数学だのにしたって、先生がそういうことをよく知っているという前提があって、生徒も理解したいと思っているからこそ教授が成り立つわけで、いくら嫌いな先生であっても話は別だ。

日本人はホンネとタテマエの使い分け、綺麗事、社交辞令やお世辞など、宣伝文句やおだてやなだめや誤魔化しとか、取り繕うとか、忖度するとか、なあなあでやるとか、そういうのは得意だが、事実に基づいて正確にきちんと伝えたり、言葉を通してお互いに理解し合うということや、きちんと議論することは極めて苦手な人が多い。

批判を非難と受け取り、喧嘩腰になったり、その前に怒ったり不機嫌になったりして議論や話し合いが成り立たないことが多い。

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失言した政治家が「私の発言が誤解を招いたとしたら申し訳ありません」とか。
誤解されているわけではないのは自明で、誤解した上で不適切な発言をしたのは自分自身なのに、そう言って事実を捻じ曲げ謝罪にもならない謝罪をされたら二の句が告げなくなるし、これじゃ当人ではなく相手(国民など)に問題があるみたいなすり替えになっている。

すりかえを認める訳ではないにしても、もうそこを追求するわけにいかないし建設的でもないので、結局「しょうがねぇなコイツ」で有耶無耶になって終わってしまうが、しょうがないのはそいつだけでなく、政治家の殆ど、日本人の多くがそうかもしれない。

確信犯であれ、無自覚であれ、そういう政治家の真似をする奴も多いのが問題だが…、ハッキリ言って世の中を悪くする。
そういう社会にしてしまっている。
正しいことを追求すれば良いわけでももちろんないのだが。

話を戻して…

目的も結果がはっきりしているICUなどの場合、そうはいかないだろうが、慢性疾患の医療職の人はけっこうコミュニケーション不全は酷いかもしれない。
医療職に限ったことではないが弁が立つ人ほどそうかもしれない。

言うことがただのお題目やキャッチフレーズ、悪く言えばごまかし。
良枝さんの言うように自信のないことの不安の無自覚な防衛でもあるだろう。

OTはコピーライターかぁ!?

偽相互性か当たり前と思いこんでいる人が多数で、それが前提となっている社会では、伝えることだけでなく、当然のことながら、聴く、受け取る、理解することも下手なのにそのことに気づいていない人も多い。
そのため、話はなかなか伝わらない、と言っても話す方だって同様に正確な言い方をしてなかったりするし、実は「わかってくれない」のではなく、既に「わかられてしまう」「見透かされてる」ので話を真に受けても仕方ないし、うんざりされているのかもしれない。

得てしてお互い様だが、実はわかってもらったら困ったりして。わかって欲しいようにしか「わかって」欲しくないだけかも。
表現力や伝達力以前に言語の基本的な考え方ができておらず、現実認識からして基本ができていない人も少なからずいる。

例えば甚だしく顕著な例を挙げると某皇族と結婚した息子と母親とか。28ページもの文章を書いても、当人はちっとも理解してくれない、誤解されている、と思ったのだろうけど、国民の多くはそんなの読まなくても見え透いてしまっており、それを確認しただけだ。
当人が自分の認知の歪みや欠落に気付いておらず、それを他者に投影しているのが問題だ。

「初めにロゴス(言葉)ありき」
もちろん必ずしも西洋社会が良いわけではないし、察しの文化である日本の良さもあるけど。

概して言えば一般に欧米人は言っていないことは問題としないが、日本人は良くも悪くも言外の意味を推察する傾向がある。
それが事実に基づいており妥当で正しければ良いのだが、往々にしてただの主観的な憶測、悪く言えば邪推になりがちで、そうなると批判や訂正も相手の主観的な前提を覆す人格攻撃のように受け取られコミュニケーション不全となってしまう。

話す側もそのような状況を前提として、事実に忠実に思ったことや考えたことそのままを言うのではなく、良くも悪くも配慮、忖度して話すのが習慣になっている。
日本人が誠実でないと受け取られたり、議論が成り立ち難いのはこうした要因が大きいと思う。

言うことだけいくら正確で有益なことを言っても、ちっとも聞いてくれない、理解してくれないことはむしろ大いにあるのは当然だ。日常的にはやってもいないこと、考えてもいないことに対しての理解力は誰しも高くはない。
でも我々は良枝さんが言うように「やって見せること」ができる。精神科だって例外ではない。
もちろん眼の前で起こっていることを認識できない人も、否認する人もいるけど。

このような社会ではいくら発言の内容が正しく有益であっても尊重されるわけではなく、同じことを言ったとしても、誰が言ったかによって、尊重されたり逆にバカにして相手にされなかったりする。

「あなたのおっしゃるとおり、私は見ての通り」小林秀雄

誤解されるなんて普通のことだし、でもわかってくれる人はわかってくれる。
どう思われようが、どう言おうが相手の自由だし。

よく思われたい、よく言われたいのは当たり前だけど、それなら良いことをすれば良いだけだ。そう割り切るようにしてから、いくら人に悪口を言われても何と言われても気にならなくなった。

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どんなに愚かな人にとっても、やはり事実の重みというのはある。

例えば事実に基づいていない悪口を言われたら、とりあえず普通の人は世の中そんなに嘘つきや愚かな人がいるとは思わないから、当然真に受ける場合が多いけど、事実はだんだんと自ずから明らかになりそこから誰しも逃れることはできない。

いくら理解力や洞察力に乏しく、解離して認知の歪や欠落が激しく、事実を捻じ曲げ曲解する人でも、最後には事実を受け入れ認めざるを得ない。
いかなる人も100%事実を否認し続けることはできない。究極的には誰にとっても事実は事実だ。

「すべての事実はついに一大事実となりてあらわれるべし」
だったらなるべく事実をそのまま受け入れ、早く理解できるように努力するだけだ。

こんなこと言ったら例によって思い上がり、高慢とか怒られるけど、大抵の人は俺より人や物事を見る目がないし、洞察力や理解力も乏しい。
正直本音を言えばそう思っているので、自分に対する他人の評価より自分の評価の方が遥かに重要だ。もちろん自分じゃわからないこともあるけど。

学生の頃、皆が評価、評価と言うので、少なくとも同時に自分のやっていることの評価が大事だ、プロは自分で自分の評価が適切にできなくてはいけない、評価より洞察・理解が大事ななどと言っていたのだけどわかってくれる人は殆どいなかったと思う。
ちなみに一部流派を除いて、精神分析、心理療法、精神療法、カウンセリングなどのセラピーには「評価」という概念はない。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「相手と過去は変えられない」

話を戻して、もういちど繰り返して言おう。

「結果を出せ、実績で示せ」

お互い専門職だし、患者本人だって家族だってもちろんバカばかりじゃない。
良枝さんの言うように、認知症の患者だってこっちが思うより遥かにわかってくれる。わかっていないのは職員側だったりして。

賢い人でなくても専門的なことは知らなくても、患者のことを真剣に考える人であればわかってくれる可能性が高いし、それは関わる人の成長と実利ももたらすはずだ。
最初は一部の人しかわかってくれなくても、インフルエンサーになってくれる可能性も高い。

OTの学校を出て最初に勤めた精神科病院には短い間しかいなかったし、いわれのない非難攻撃もずいぶんされたし妨害もされたけど、仲間や味方になってくれる人は増えたし、俺に対するイメージや態度、評価は最低最悪から随分上がったと思う。

病院を辞めて大学に異動した時に、総婦長(当時)が直々に手紙をくれた。
「ごむてつ君はこんな所(田舎の山の中の精神病院)にいるような人ではないと思っていたので我がことのように嬉しいです」と書いてあった。
もちろん大学のセンセイが偉いわけでも必ずしも実力があるわけでもないのは皆さんご存知の通りだけど。

その総婦長と一緒だったのは最後の1年だけで、顔を合わせることも殆どなかったし一言二言しか言葉を交わしたこともなく、俺のことをそんなに知ってるわけではないけど。
わかってくれることはわかってくれるし伝わるものは伝わるのだと思った。
買いかぶり、過大評価としてもそう言ってくれるのはやっぱり嬉しかった。
辞めたことの後ろめたさもつのったが。

セラピストは人間相手の職人だ。地道に頑張れば結果は出せるし報われる。
どうせわかってくれないと思うよりずっとわかってくれるけど、わかるのが当たり前だろ、と思うよりもわかってくれないかもしれない。

でも矛盾するようだけど、言うべきことはハッキリ言うべきだ。
言うべきことをきちんと言わないで、「わかってくれない」もないだろ。

しかし、言いたいことと言うべきことは同じではない。
もちろん一致しているのに越したことはないし、それが本当に言いたいことなのかいつも検証し、一致するように心がけるべきだろう。

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まだ売れない頃2人時代のオフコースの曲、小田和正も20代半ばでよくこんな曲書いたなぁ。
NHKの「みんなのうた」からの依頼で自信はあったようだが、良い評価は得られずボツになったらしい。
当時は不遜にも聞こえただろうし、俺も違和感あったしそれも止むを得ないと思われるが、老人になりつつある今はむしろしっくりくる。
俺も歳をとんてホントにつくづく思うのだが。やっぱり伝えたことは良かったと思う。言わなかったことはやはり後悔がある。酷く傷ついたし随分引きずったけどね

https://www.youtube.com/watch?v=AhYmmtpJB5A

リードボーカルは堺正章ではなく井上順、彼のほうがこの曲には合っている。
キンキンしたリズムギターは釜范弘でテレキャスターではなくエスクワイヤー、ファルセットのコーラスも彼
オルガンは大野克夫、彼は元々ギタリストでスチールギターを弾いていた。ギタリストはかまやつと井上堯之の2人がいたし、井上も腕を上げてきたのでこの頃オルガンにコンバートしたのだが、アッという間に弾きこなせたらしい。
ドラムはその後芸能界の首領と言われた田邊昭知で、リズムが乱れまくるけど荒々しい個性や味はある。

ジュリーとは沢田のことではない。当時まだタイガースは出ていないしこの曲はメンバーではなく浜口庫之助の作詞作曲。
ジュディ・オングがジュリーという名の聾唖の役で主演映画が作られ、そのために作られた曲だけど、映画ではそぐわないので実際には使われていないはず。

財津和夫があべ静江のために書いた曲だけど、結局片思いで失恋したようだ。
俺も当時失恋したので、切なくささりまくった。
高校2年の頃、いつも隣の席にいたのに。
最初は「もっと早く仲良くなっていれば良かったのにね」と言ってくれたのだが、もうダメだった。
結局、心を閉ざしていたのは俺の方なんだけど仕方がない。
まだガキだったし対人恐怖症だったし。

でもやっぱりこう行きたいものだね。

というわけで、例によってお後がよろしいようで。

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