グループワークの功罪


認知症のある方への対応について
下記のように多々の問題があることは前述した通りです。
・実は介助者中心の視点になっている
・生活障害やBPSDだけを切り取って表面的に解消させようとしている
・ハウツーの集積はあっても高い理念を具現化させる思考過程を明確化していない

認知症関連の研修会も
様々な主催者によって多数開催されるようになりました。
昨今の流行でグループワークを導入するところも多く在ります。

世にグループワークは花盛り
もちろん、グループワークにはグループワークの良さがあります。
けれど、知識もないのに考えさせることのどこに意義があるのでしょうか?

道端で倒れている人がいたとして
どうしたら良いのかは、考えさせることではありません。
知識と技術のない人間が善意から行ったことで
かえって状態を悪化させてしまったことがあったからこそ
してはいけないこと、すべきことをきちんと救命講習として教えるようになったはずです。

教えるべきことは、きちんと教えられる人が教えるべきことなのです。

認知症のある方への対応について
最も重要なことで、現在、為されていないことは
生活障害やBPSDの場面そのものを観察し、何が起こっているのかを洞察することです。
勝手に考えたり、話し合ったりすることではありません。


本来は
錯綜した現実をきちんと観察する
その際に、認知症のある方を援助するという立場に立つことをブラさないようにする
ということからスタートします。

でも、「どうしたら良いのか」考えさせたり話し合わせたりすることによって
臨床で困った時には人に聞く
という誤った思考回路、メタ認識を定着させてしまう
そして、そもそも、考える・話し合う時の視点が下図のようになってしまっています。


表面的に、生活障害やBPSDだけを切り取って、
それらを解消させる魔法の杖を探させるような思考回路、メタ認識を定着させ
結果、認知症のある方の困りごとに向き合うのではなくて
認知症のある方の問題行動によって介助者側の困りごとを減らすためにどうしたら良いのか
を考える、すり替えを増長させる現実を拡大再生産させてしまっています。

そのような介助者中心の視点で
日々の困りごとに対処していながら
言葉としては「寄り添ったケア」を唱えるという、現行不一致を拡大再生産させてしまっています。

そして
「忙しいからできない」
の一言で片付けようとするのです。。。

幾重にも、問題のすり替えが起きているのです。。。

そして、現実を指摘する人を否定し排除しようとする。。。

おそらく、無自覚にはわかっているのです。
どこかおかしいと
自身ではできないと
本当に実践しようとしたらとてつもない努力しなくてはいけないことを
だからこそ、声高に高い理念を語りたがり、真実を指摘する人を否定する。
既存のパラダイムとは異なる知見を提示した人たちが
どれだけ否定され迫害されてきたか、
時間はかかっても正しさが証明されパラダイムの転換が図られたことは
歴史が証明しています。

グループワークにはグループワークの良さがあります。
産出物として
「多様な視点・考え方を知ることができた」
ということは多職種連携の時代において必要不可欠のものでしょう。

ですが
認知症のある方が、困りごとAをきたしているある場面に遭遇した時に
どうしたら良いのかは
いろいろな視点でいろいろな考え方で検討することではありません。
いろいろな視点・いろいろな考え方というのは介助者側のものであって
その時の認知症のある方のものではないからです。

困りごとAをきたしているある場面に遭遇した
その時その場のその関係性において遭遇した人にしかわからないものです。
遭遇したからこそ、どうしたら良いのか、どうしてはいけないのかが
自然と浮かび上がってくるものなのです。
浮かび上がってこない時には、観察し損ねているものがあるのです。

多職種連携において
もしも皆が集まることに意義があるとするなら
それは情報収集の段階です。
人は誰でも多面性多様性を持っています。
いろいろな場面でのいろいろな関係性へのいろいろな応答を集められれば
それだけ立体的に情報を集めることができます。
そして、もう一点は役割分担です。
どうしたら良いのか、どうしてはいけないのかを
多様な場面で具現化するに際して
自分ならこれができる!と提案することです。
その上で、誰が何をするか、別の誰は何をするかという役割分担を
明確化し、共有することです。
そして、結果、どうだったか、継続するか・修正するか・根本的に見直すかを
再検討することです。(ここをちゃんと実践しているところは少ない)

グループワークにはグループワークの良さがあります。
でも、用い方が問題です。
グループワークで検討した方が良いことと
きちんと教えられる人が教えるべきことは違うのです。

もう、ずいぶん昔のことですから書いても良いと思いますが
一般の初心者向けに認知症のある方への対応について講演することになりました。
大元の主催者の方でテキスト的なものが作られていて
そこに「徘徊している方に出会った時にどうしたら良いかグループワークで話し合うことを推奨」と書かれていたのです。
「え?」
 
当然、そんなことはせずに、「基本のき」を事例をもとに具体的に丁寧に説明しました。
そして、終了後には大元の主催者から講師の意見・感想を求められたので
(このこと自体は良いことだと思います)
どうしようかと考えた挙句、きっちりと意見提案をしました。

考えた、というのは
正直に意見提案をすることで次年度からは講師の依頼がなくなるかもしれないと考えました。
別に講演依頼が1件なくなることはどうでも良いのですが
そのことによって受講者に不利益が生じないかと考えたのです。
ですが、上記のような推奨を今後も繰り返しそうな立場の人だったので
「おかしなことはおかしい」と指摘することで不適切な指導を繰り返してほしくないと思いました。
メールでの提出だったので、実際にどう受け止められたのかは分かりません。
案の定、翌年からは当該講演の依頼は無くなりました。
もしかしたら、どこかで揉み消されてしまったかもしれないし
もしかしたら、当該者は理解できなくても
意見を目にした他の人で認識を改めてくれた人がいるかもしれません。


こんな状態で、どれだけ話し合ったって適切な答えが出るわけがありません。
まず、困りごとの場面そのものをきちんと観察するという意思
その時に援助の視点をブラさないようにする意図を持ち続ける
という在り方への自覚を促すことが重要ではなのに。。。
対人援助職として、その責務が私たちにはあるのです。

対人援助の根幹、養成の根幹に関わる問題だと考えています。


対人援助職の業(ごう)


認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が下の図のように誤解していると思います。


生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。


ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルは真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

  

潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。


  

口腔ケアを拒否する方への対応


食事介助と同様に
口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。
逆に言えば、適切な口腔ケアを続けることで拒否なく応じてもらえるようになります。

だとすると、
考えるべきは、侵襲的でない口腔ケアをどうしたら提供できるのかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。

  

食事介助の根本的な問題


認知症のある方が食事場面において
口を開けてくれない
ためこんで飲み込んでくれない
誤嚥性肺炎になってしまう
というのは現場あるあるです。

実は、認知症のある方の食べることに関する困難というのは
巷間言われていることとはまったく違って
老化による喉頭挙上能の低下による咽頭期の問題よりも
圧倒的に多いのが、舌の硬さや舌体変形などの口腔期の問題で
咽頭期は二次的に能力低下が起こるというものです。

食べ方をきちんと観察しさえすれば
喉頭挙上能は非常に変動しやすく
筋力強化などせずとも完全挙上できるようになるケースは非常に多くなることを体験できるはずです。
しかも、舌の硬さや舌体変形も容易に元に戻ることも体験できるはずです。

このような食べることの困難は
多くが誤介助誤学習によるものなので
適切なスプーン操作をすれば容易に正の学習が生じ本来の食べ方を再学習できます。

食事介助の現場で起こっていることは
介助・援助とはなんぞや?という本質的な問いかけでもあります。

連続してこの問題をときおこしていきたいと思います。


「認知・認知の人・認知のある方」

ギョーカイ用語のようになっていますよね。
「認知・認知の人・認知のある方」
文脈から認知症や認知症のある方のことを言っているのはわかりますが
これって、とってもヘンな言葉です。

私は地域の公民館に伺って講演をすることもありますが
ある時、講演終了後に一人の方が近寄ってきて
「すみません。質問があるんですけど」と言われました。
「認知とか認知の人、認知のある方っていう言葉がありますが
 これって変な言葉ですよね?」と尋ねられました。

まさに!まさに!

お気づきの方もいるかもですが
私はいつも「認知症のある方」という表現をしています。
だから、尋ねてくださったのだと思います。
この表現は、英語の「People with Dementia」「People who have Dementia」の直訳です。
英語表現のすごいところは、ちゃんと「人+認知症」として明確に区分けしているところです。
そもそも「人」がいて「認知症」になったということが明確に表現されています。

ところが、日本で一般的に使われる認知症高齢者という言葉だと
「人と病気が混在・一体化」「人が形容詞化」「病気に修飾された人」として
表現されています。

「認知・認知の人・認知のある方」って日本語としても成立していませんし。
認知という精神機能と生きている人間とを並列表現するのもおかしいし
認知があって良いじゃないですか。認知が無ければ困るじゃないですか。
英語にするともっとハッキリわかると思います。
「cognition・People of cognition・People with cognition」
もはや、何を言いたいのかわかりません。。。

言葉は概念を表すものなので
こういう言葉を使っていながら「人として接する」というのは論理矛盾しているんじゃないかしら。

言葉を大切にするということは、概念を大切に取り扱うということです。
医療・保健・福祉従事者が「認知・認知の人・認知のある方」と言うのは
「私は概念をきちんと取り扱えません」と公言しているも同然なんですけどね。。。

目標を目標として設定できず、目的や方針や治療内容と混同している。とか
構成障害や遂行機能障害の各種検査をしても
「それってどういう障害?」と尋ねられると明確には答えられない。とか
現場あるあるの実情と根底は一緒だなーと思っています。
そりゃー、日々の臨床場面から観察なんてできないでしょうし
無自覚にまずさを感受しているから、ますます検査をして理論を振り翳して
補償(防衛機制)するしかできないのでしょう。

私は常々、目標設定の大切さを説いていますが
目標を目標というカタチで設定できることが臨床の質を担保するという実際的な面だけでなく
目標の概念を明確に理解するということはメタ認識としての概念の明確化をも要請することになるので
臨床能力全般に汎化していくからです。

現実には、「なんちゃって目標」が蔓延していますし
それでも、現場は回るし
最新の理論やバッテリーに比べると、目標設定なんてすっごく地味だし
「なんちゃって目標」が蔓延しているという事実にすら気がつかない人が圧倒的に多いのが現実です。

そんな中で先日、目標設定の重要性について共有できる人たちから連絡をもらい
とても嬉しく思いました。


謹賀新年

 

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ますます良い年になりますように!

「病気になる前より良くなる」


中井久夫の言葉で
「病気になる前より良くならないと」っていう言葉があったと思います。
「病気になる前はどこか不安定さがあったんじゃないか
 そんな不安定さのあった病気前よりも
 もっと良くなることが本当に良くなったってことじゃないか」
というような趣旨だったと思います。

前の記事で紹介した、かきこまないトレーを使っていた方は
もともとは、かきこみ食べをしていたので
1口量を減らそうとして小さなスプーンを提供したようですが
かきこみ食べは良くならず、誤嚥性肺炎になってしまいました。
誤嚥性肺炎からのリカバリーで単に食べられるようになるだけでなく
病気になる前よりもっと良くなる
かきこみ食べをせずに自力摂取できるようになる
ということが本当に良くなったことだと思っていますし
重度の認知症のある方でも現実に前よりももっと良くなった方を多数経験しています。

ほとんどの人は
「認知症→能力低下→不合理な食べ方・誤嚥性肺炎」
という認識をしていますが
事実は違います。
「認知症→過剰努力・過剰適応→不合理な食べ方・誤嚥性肺炎」
なのです。
ここで、なぜ、過剰努力や過剰適応せざるを得ないのか
というところが最も問題だと考えています。

  ほとんどの人は、まず何が起こっているのかの判断ができていない
  説明しても、判断を理解できなかったり受け入れなかったりします。
  少数の人が理解できたり受け入れてくれますが
  次に必要なのは、適切な判断を具現化するための技術です。
  技術が伴わなければ、正当な判断をカタチにして見せることができません。

  判断の問題、具現化する技術の問題と二段階の問題が混在しているのですが
  解きほぐして目の前でやって見せても
  ごく少数のわかる人には感服してもらえますが
  わからない人にはわからないものです。
  ここでまた自分がわからない、できないとは認めずに否定してくる人もいます。
  仕方ありませんねー。

  河合隼雄は「そう」って答えてたそうです。
  なるほど。なるほど。

このようなことは現場あるあるなので
認知症のある方の過剰努力や過剰適応を解消・改善できる人というのは
ごくごく少数派です。
講演やサイトを訪れてくれた人の感想で
「モヤモヤした気持ちを明確にしてくれた」
という感想をいただくことがしばしばありますが
現実に起こっていることの「判断」レベルで
無自覚でも問題意識を抱いている人は確実に増えていると感じています。
あとは「技術」レベルで具現化できる人が増えていけば!

重度の認知症のある方でも
誤嚥性肺炎の前よりもっと良くなることは可能です。

逆に言えば
良くなるはずの方がそうなっていない現実もあるということです。



「かきこまずにすくって食べるトレー」

認知症のある方でかきこむようにして食べる方っているでしょう?
器を口につけてスプーンは使うけど補助的な使用になっていて、
ほとんど器を傾けて口の中に流し込んでいるような食べ方をする方。

そのような時に誤嚥防止として小さなスプーンを提供するのも現場あるあるですが、
それでは効果がないどころか逆効果になっていませんか?
認知症のある方が「これでは1口量が少ない」ということがちゃんとわかって
もっと食べようとしてますますかきこみ食べをしてしまうという。。。

根本的には、
かきこみ食べという表面の事象のみ観察して
小さなスプーン提供という表面的な改善を考える、
その思考過程そのものが問題なのですが、
このような思考過程は現場あるあるです。。。(^^;

かきこみ食べをする方には、
その方にとっての必然がありますから、まずはそこを観察しないと。

スプーンを使って食塊をすくうというのは難しいものです。
すくうことができるだけでなく1口量の調整ができなければなりません。
ところが、上肢操作能力が低下していると
代償として器を口元に持っていき口で取り込むようにして食べたがります。
ある意味、自身の上肢操作能力の不十分さを感受・自覚しているからこそ
上記のような代償をするわけです。
能力の不合理な発揮になっています。
能力を合理的に発揮してもらえるためには、
さほど「不十分でなく上肢操作ができた!」という体験が必要です。
ところが、たいていの人は「スプーンで食べてね」と言うだけです。
私たちの仕事は「スプーンで食べて」と言うことではなく
「スプーンで食べられるようにする」のが仕事です。

そこで写真のトレーを作ってみました!


食事の場面で「器を置いたまま食べて」と言うのではなく
「器は置いたまま食べるように」対象に語らせる。
器は置いておくのだということが視覚的に伝わるような設定です。

自助食器がすっぽり収まるようにお菓子の空き箱をくり抜きます。
箱は防水加工されている包装紙(ダイソーで購入しました)で包みます。
多少の食べこぼしがあってもおしぼりで拭き取ればきれいになります。
箱が潰れないように裏側はスポンジで固定しました。

これで、「すくって食べる」という体験学習を重ねることができます。
すくう動作が改善すればするほど器を持ち上げる必要はなくなりますので、
上肢操作能力が改善され、結果として、かきこみ食べの防止が行えます。

口腔機能が保たれている方であれば全粥の方が1口量の調整がしやすいのですが
そうでなければミキサー粥を選択します。
ミキサー粥は塊となっているので、そのまま提供すると塊のままこぼれてしまいます。
そこで事前にミキサー粥を細かくクラッシュしてから提供するようにしています。
これで多すぎる1口量をすくっても、ミキサー粥の方がスプーンに適正量残ってくれます。
おかずは、ペースト食にすると1口量をすくいやすいものです。

食形態は、口腔機能だけで選択するのではなく
上肢操作能力も含めて選択するようにしています。

体験送り@ケア

ポジショニングや食事介助は
適切に行えれば効果がその場で出ることはもちろんですが
次の機会にも良い影響を与えるものです。

例えば
ポジショニングを朝適切に設定できれば
次に体位変換をする時にも身体はリラックスしていて
スムーズにポジショニングが設定できます。

逆に
ポジショニングを適切に設定できなければ
次に体位返還をする時に身体の筋緊張が亢進したままなので
余分な力を必要としたり
上手く設定できなくて修正も大変で時間がかかってしまいます。

食事介助や口腔ケアにおいても
適切な介助ができれば
対象者の持っている能力が発揮されるので
対象者も食べやすくなり
介助者も負担が減って楽になります。

その能力発揮は次の介助場面でも発揮されるので
どんどんと楽になっていくものです。
ポジティブな体験送りを認知症のある方とスタッフの協働で行えるようになります。

逆に言えば
無理矢理食べさせたり、歯ブラシを口の中に入れたりするような
介助者の行為は、その場では仕方ないと言う人もいるかもしれませんが
感情記憶は蓄積していきますし
重度の認知症のある方でも再認できる方は大勢います。
(たとえ、言語表現力が限定していて言葉にしなくても
 感受している可能性は大いにあります。)
歯ブラシを口の中に入れるという特定の場面で
前回の苦痛な感情を伴う体験を再認できるからこそ拒否する
という方もいるのです。
この局面だけを切り取って、拒否するのは認知症で理解できないから仕方ない
拒否しても口腔ケアはせねばならないと考えて無理矢理口腔ケアをしていては
いつまで経っても口腔ケアに協力してもらえないどころか
ますます悪循環になって口を開けてくれなくなったり、
口腔ケアをしようとするスタッフの指を噛んでしまうことすら起こりえます。

ネガティブな体験送りをスタッフがしてしまっているのです。

その方それぞれに苦痛でない方法、受け入れやすい口腔ケアの模索を考えるべきです。

  「わかっちゃいるけど、時間がないからできないのよ」
  と言う人は時間があってもできない人です。
  その場の3分を惜しんで長期的に10分の時間を所用することに
  なっていることがわからずに「大変」「忙しい」と言う人です。
  適切なポジショニングを実現できて、
  その意義も実感できている人はきちんと実行しないではいられません。
  適切なポジショニングをできれば設定に必要な時間は短縮されます。
  どんどん短縮されるものなのです。
  食事介助でも口腔ケアでもまったく同じコトが違うカタチで起こっています。

「ちゃんと介助したいけど時間がないから難しいのよね」
と言う人は、本当は発言した人自身が時間の有無に関わらず
「私はちゃんとした介助ができないんです」と公言しているも同然なのです。

そのような人は
自身の不適切な介助への自覚がなく、自覚がないから自己修正もできないので
次の人にマイナスの体験を送ってしまうことになります。

対象者と次の人が大変な思いをしながら
もう一度食べる再学習を促すことができれば
プラスの良循環が起こります。
つまり適切な介助ができない人のツケを
対象者と適切に介助できる人が払わされるという構図になっているのです。

食事介助もポジショニングも生活期の初期にはさほど目立ちません。
対象者自身のレジリエンスが高いからです。
軽度の方が短期的に利用する施設ではなく
特養(介護老人福祉施設)や長期入院・入所が可能な施設において
当初はそうでもなかったのにレジリエンスの低下とともに表面化してくることがわかると思います。

逆に言えば
「そんな人はいないから関係ないもん!」ではなくて
予防的に適切な対応ができるようにきちんと申し送りができることが大切です。
きちんと申し送る。。。というのは再現性を担保できる
ということです。

つまり、自分自身で常に適切に対応できるからこそ
ポイントが把握できていて
なおかつ、他職員が対応し損ねてしまいがちなポイントも把握できている
そこを明確に言語化したり視覚化することができる
ということを意味しています。