日本のOTは遅れている?!(ごむてつ)

日本の産業経済の凋落ぶりは著しく、ほとんどの日本人が思う以上に、表面から見えるよりもかなり激しいようで貧困化は必至だ。

モノづくり、デジタル・テクノロジーばかりではなく、いくつかのアジア国々にいろいろな面ですっかり追い越されてしまったようだ。
中国製品が粗悪なのは既に過去のこと、日本の有名メーカーの名前を付けた家電製品やデジタル物も殆ど日本では作っていないし、それらは既に二流三流で一流のものは値段が高くなってしまうのでむしろ入ってこない。

最近知ったことでちょっと驚いたのは、大学進学率で日本は60%程度であるが、台湾や韓国は90%以上らしい。我々が大学に進学した頃は確か25%位だったと思う。
日本の若い人も英語ができる人は増えたが、アジアの他国ではむしろできて当たり前である。
その中でエリート称されるような、米国など海外の大学院を出るような人は中国も韓国や台湾も日本の100倍以上はいるらしい。

おそらく、日本のEランやFランと称するような大学はあっても少ないと思われる。
アジアの多くの国は日本よりもはるかに受験戦争も過酷だ。日本の「ゆとり教育」みたいに、その反動や揺り戻しもあるようだけど。

そういうわけで、製造業やIT関連産業だけでなく医療その他の分野も立ち遅れが目立ち、リハ分野も日本は近年まで先進国だったはずだがアジア諸国の中ですっかり取り残されているのではないだろうか?
バブル以降、様々な分野で追いつかれ追い越されたことを日本は見て見ぬふり、知って知らぬふりをしてきたと言えるだろう。

アジア諸国の中では欧米流の作業療法を最も早く取り入れたのは日本で、韓国や台湾その他のアジア諸国はそれに追従したようだが、今となっては質的な差ベルはOT後進国にとっくに抜かされてしまったのでないだろうか?
OT辞めたしそうした事情については、よくわからないけどそんな気がする。

もう30年近く前、1991年か92年だったと思う。当時勤めていた大学の教授が日本のOTの歴史について書くなどと言って資料を集めていた。
日本の初期のリハ、OT教育がとのようなものであったのか、古い人の話を聞いたり、資料を取り寄せて調べていた。(実際に書いたかどうかは知らない)

御存知の通り、日本で最初のリハビリの専門学校、Kリハ学院が開校したのは1963年なので今から60年近く前で、その時点より30年近く前である。

その教授もKリハ学院の教官をやっていたことがあったが、昔のカリキュラム、シラバスなどの資料も閲覧することができたようだ。

当時は日本人ではわずか2~3人の既に米国でOTの資格をとっていた人がいたくらいで、他には米国から講師を呼び寄せて授業が始まったようだ。
もちろん日本語もできないし、熱意はあってもまだ学校を出たばかりで駆け出しのOTが教えに来たようだ。

資料を見てその教授曰く、ROMやMMT、ブルンストロームやボバースも既に取り入れており今(その時点の1990年代の初め)とあまり変わらない先進的な教育をやっていたと感激していた。

これに対して私の感想はむしろ反対であり、何だ!30年経っても大して進歩していないのか…、そんなものかと落胆したのだが。
何のことはない、当時もしくはそれ以前の米国の作業療法を取り入れてそれからあまり変わっていないようだった。

それ以降、新しく日本のOTに取り入れられたのは80年代の初め頃に感覚統合と、もう少し後の80年代の半ばころから作業行動理論/人間作業モデルが入ってきた位ではないだろうか?
両者とも米国からの輸入で、日本のOT独自のものは殆どないのでは?

感覚統合は昨今はOTよりも障害児保育など他職種で盛んのようだが、後者はどうだろうか?「作業療法の理論」を称える人が多くなり、学校でも採用されるようになったのは事実だが。
私見ではいずれも臨床の技能や能力のレベル向上にはあまり貢献していないような気がする。

初期から「ボバースを取り入れていた」といっても、我々の頃もそうだったがもちろんさわりだけで、既に有能な臨床家も何人かいたが少数派であった。今でもあまり変わっていないか?

60年代当時ボバースは広まったばかりで、確かに先進的だったのだろうけど、ボバースが良いならもっと重点的に力を入れて学校でも教えれば良いはずだ。(私は良いと思うけど)
それに代わるような臨床的な技法、技能があればそれでも良いけど、そういうのはあるのかな?

例えば革細工なんかは、米国南部などでは普通の家庭の主婦が馬具などを作るために実際に行っており、それは既に廃れていたが、OTが治療的に役立つだろうとActivityとして取り入れて復活させたというのが事実のようだ。
日本なら裁縫とか我々の親の代くらいまでは和裁とか、ゆたかや着物など縫うのが当たり前で、日本なんだしそういうのを復活させた方が有用ではないか?
陶芸や木工、機織なども作業療法ではむしろ使い難い作業であり、実際にやっている所も少ないのではないだろうか。

その頃、OTの専門教育のカリキュラムの見直しがあって、〇〇の作業療法ではなく、作業治療学とか、基礎作業学とか、名前だけはかっこよくなったけど決して進歩とは言えないような…

私はむしろ手工芸的なものよりも、ヨガ、太極拳、エアロビクスなど全身活動を取り入れたほうが良いのでは、と思って提案したのだが、他の先生は(そう言えば皆K学院出身だったな)何を言ってるのだ!と怒りだす。昔からのいかにもOTを金科玉条のごとく考えているようであった。

作業療法の作業はありとあらゆる活動を含み、何でもあって良いと言うくせに、新しい有意義なものをあまり取り入れようとはしない。
精神科ならウオーキングとか、会話やおしゃべり、雑談だって作業だからそれも良いと思うけど。

結局のところ、学校の設備などの問題もあるけど、文科省で決められた(OTの意見を取り入れているはずだけど)カリキュラムや、厚労省で決められた施設基準に入っているものは外すことはできないだろうけど、それが本当に必要なのか?今となっては甚だ不適切なものが多いのではないか?
縦割り行政や忖度社会の弊害もあって日本は改革が難しい。

私の友人に1980年代の初めころに米国の大学院に留学し、OTの資格をとった人がいる。
彼が言うには、向こうではROMやMMT、ブルンストロームなんか見たことも聞いたこともない、何でそんなことやるのか?ということだった。

革細工、陶芸や木工、機織などOTらしいActivityも昔やっていただけではないか?実際にはやっていなかったと言っていた。
たぶんその頃既に米国の作業療法も1960年代からだいぶ進歩し変化していたのだろう。

海外のOTは進歩しているのに日本ばかりが因習にとらわれ、旧態依然としているのではないのだろうか?
我々の頃に比べるとOTの数は何十倍にも増え「数の時代」から「質の時代」、質の向上を図るべきと言われて久しいけど、実際に質的に向上したのだろうか?
臨床的な能力が優れた人は未だに決して多くはないのではなかろうか?

日本ではOT養成の大学は増えすぎるほど増えたし、研究もそれなりに盛んなのだろうけど…、本当に有用な意義のある研究はどれほどされているのだろうか?

業績のための研究、自分の地位や立場のための研究になっていないか?

本当に優れた臨床的な能力を持つOTは今でも極めて少数派ではないだろうか?
少なくともそうした人と同等くらいの人が多数を占めるようにならなくは…、と思うのだが。

大学教官もむしろ臨床能力が身につかず、大学院に逃げ研究に逃げて、大学教師になった人もいるのではないか?それでは当然、あまり臨床的な教育はできないのではないか?それでも学生は育つのは良いような悪いような…
「親はなくても子は育つ」

私は大学にも研究にもとっくに見切りをつけてOTも辞めたけど、自慢のつもりはないが、精神疾患のセラピーに関しては間違いなく世界最高レベル、最先端をいってるはずである。

それにはやはり天才的な優れた治療能力を持つ人のセラピーを受け、何年もかかって教えを請うたからこそ達成できたことである。
実際にはあまり教えてくれず、自分で考え実践を積み上げてきたのだが。

若い頃は重症患者から始まっているので、我ながらよくやってきたという気もする。パワハラやらずいぶん酷い目にも遭ったけど…
「師に遇わざるを不遇と言うなら私は不遇ではなかった。」
皆さんはどうだろうか?

「作業療法の理論」は臨床の役に立つのか?

昔に比べて確実に変わったのは「作業療法の理論」を提唱する人が増え広まったことだと思うが、本当に役に立つ理論なのだろうか?
それは臨床能力の向上をもたらすものだろうか?
わかったような気になるだけの理論になっていないだろうか?

もっと言えばレポートや論文を書くための理論であったり、大学教師がもっともらしいことを言ったり授業で使うための理論になっていないか?
実際の臨床にどれほど使われているのか?役に立たなければ使われなくなるのは当たり前だ。理論があってもなくても実践は同じだったりして。
極論かもしれないが、単なる合理化になってはまずいが理論は後付でも実践で示せればよい。無言実行

実践のための理論であるよりも理論のための理論、臨床能力の乏しさを合理化正当化し、言い訳するための理論なんてことはないよな?
それは作業療法について外から見た理論であり、実践し結果を出すための理論ではないのではなかろうか?

「事実の子たれよ、理論の奴隷たるなかれ」内村鑑三

あまり大きな声では言えないだろうが「作業〇〇理論が日本の作業療法の発展を30年阻害した」なんて言うOTさえいるようだ。
大学~大学院で哲学をやっていた友人OTは「あの人たち(OTの大学の先生達)は簡単なことを難しくするのが学問だと思っている。難しいことを簡単にするのが学問なのに逆だろ」と言ってた。

「作業療法の理論」以前に、臨床に必要な学問や理論、解剖学や生理学など基礎医学、症候学、運動学など十分に身につけているだろうか?
もちろん知識を詰め込んでいるだけでなく、それらを実際に即して理解し統合し、応用し活用し実践できているだろうか?

俺が大学を辞めて一人になってセラピーの仕事を始めた時、上述の教授は(その頃は別の大学)「君は臨床ができるから良い。やっぱり臨床をやるのが一番だ」と喜んでくれた。10年くらいして会ったときにも「臨床ができるのが一番強い。たいていは臨床ができないやつが教官になる。臨床的な能力はたいしてないのに、お互い先生、先生と持ち上げるばかりでいい気になってるヤツが多い」などと言ってたけど。
じゃ、自分はどうかと言うことにもなるだろうけど、ずっと気にはしていたようだ。その先生も決して臨床をやっていなかったわけではない。もうとっくに現役を退いているけど。

屁理屈言うより、やはり臨床できちんと結果を出せることが最も大事だろう。役にも立たない理論なら勉強する余裕はないはずだ。
もっとも俺の場合は臨床と言ってもOTは辞めて、独自のセラピーをやってるわけだけど。

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話は変わるけど…

私は小学校高学年の頃からグループサウンズやフォークソング、ビートルズなどに憧れてギターを弾き始めた。
その頃はギターを弾ける人は少なく、ピアノなど他の楽器が弾ける人も少なかった。ろくな教本もなく、もちろんビデオもないし、教えてくれる人も周りにはいないし、もちろんほとんど我流である。

ギターは中学の頃から兄貴にも友人たちにも随分教えたけど、俺より年上の人はなかなか上達しないが、俺よりも年下の人はすぐに俺なんか追い越してしまう。
カラオケはもちろんないし、大人はたいてい音痴だった。今でも私よりも年上の人はたいていあまり上手くないし、上達するのか難しい。

今の若い人たちはその頃とは比較にならないほど歌も楽器もダンスも上手いし、初心者でも短時間で上達する。
プロもアマチュアも数十年で全体的なレベルは遥かに向上し、初心者と言っても当時とは雲泥の差がある。

それにはいろいろな背景があり、機材の進歩もあり楽器も安くても良いものが手に入るようになったし、音楽が手軽に聞けるし、そもそも小さい頃から身近に音楽を耳にしている。
幼少期から洋楽的なリズムが身につているかという差が大きいことはだんだんわかってきたけど。赤ちゃんの頃から耳に入っていれば催眠術のように脳に染み込んでいるのだろうけど、昔はそんなのなかった。

ビートルズやロック、モダン・フォークなどが登場し、日本に入ってきたのは1960年代の前半で、OTが日本に入って来た頃とほぼ同時期である。
それから半世紀ほどの間にギターの奏法やテクニックは比較にならないほど進歩しており、もちろんギターだけでなく他の楽器に関しても、ポピュラー音楽全般のレベルの向上は激しく多様化も著しい。

英語だって私より年上の人でできる人は少ないが、若い人は随分できる人が増えたと思う。
戦前に高等教育を受ける人はごく一部だし、戦争中は英語なんて禁止で、戦後になって義務教育に取り入れられても教えられる人は殆どおらず、進駐軍の米兵以外に外国人と触れる機会も殆どなかったので仕方のないことだった。

そうしたことを考えるとOTだって半世紀もすれば進歩著しく、数十年前とは雲泥の差があって然るべきだと思うのだが、実際にはどうだろうか?
音楽やスポーツなんかに比べて熱意のある人、レベル向上に熱心な人は少ないのだろうか?
いや決して少なくはないのだろうけど、どっちを向いているか?何を求め目指しているのか?が問題である。

私のギターに関しては、時々思い出したように弾くだけでロクに練習もしないし、途切れ途切れにしかやらないから、結局、半世紀以上たっても万年初心者レベルである。
むしろ悪い癖ばかり身についてしまったかも知れず、およそ人に聞かせるようなシロモノではない。
ギターや音楽には結局のところ、大した情熱はなかったということだろう。
そのような万年初心者レベルのOT・PTも少なくないのではないだろうか?

もちろん音楽にも理論があるし、精神疾患の治療にも理論があり、私も臨床分野に関してはそれなりに必要な理論は身につけた上で実践しているつもりである。実践はさらなる理論的発展をもたらす。
極論だが理論がなくても実践は不可能ではない。有害なことはもちろんやるべきではないが。

私の専門分野に関して言えば、DSMは無視である。記述精神医学は所詮外から見た患者に関する医学でしかない。分類してわかった気になるのは愚かなことだ。幸いにして診断などしなくても良い立場だし。

そもそも私は精神病に関しては疾患単位を認めていないし、元々が患者出身だから外から見ることはむしろ苦手だ。
脳科学や大脳生理学などもほぼ完全に無視している。
力動派、分析派でありながら、例えばラカン派やポスト構造主義的な精神分析にも関心はない。
それらが学問として有意義であり価値のあることは認めるけど、精神疾患の治療のためには殆ど役立たないからである。

もっともラカン派などの彼らにしてみれば俺が言うような治療は全くおかしなことで笑止千万だろうけど、俺は彼らの考えも及ばないことも知り、逆立ちしてもできないことを実践し、もちろん結果も出している。
どういう考えや理論的実践的な立場か、敢えて言うならポスト新フロイト派である。そんなの俺しかいないだろうけど。

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やはりきちんと改善できる結果が出せるための理論を身につけ実践するべきである。理論はむしろ道具であり、実践を導き臨床の後ろ盾となるが、「臨床の知」とは理論に基づいて実践するのとは違うと思う。
ユングは確か「理論はできるだけ理解し身につける必要があるが、患者を前にしたらそれらは忘れるべきである」といったことを言ってたと思う。

これからの時代を作るのはもちろん若い人たちだ。
一時は介護や看護、セラピーなどの分野で輸出国になるべきなんて話もあったが現状ではお寒い限りだろう。
人類の健康と幸福、人類の平和と進歩に貢献することがセラピストには求められている。ともかく理屈より結果を出すことだと思う。

俺は12歳の時に重症な精神病となり、22歳の時に治療を受けて劇的に改善した。もちろんそれで治ったわけではなく、その後も改善の努力はしているけど。
病院に行っても薬漬けになったり、電パチ(電気ショック)をかけられるなど恐ろしいことはされたくないし、絶対に害されたくはなかった。とても病院など行けないので、病気だと思われないようになるべく問題は起こさず何とか学校は行ってた。もちすん良くなりたかったがその可能性には絶望的にならざるを得なかった。

「情熱の薔薇」 ブルーハーツ

♪見てきたものや聞いたこと 今まで憶えた全部
 デタラメだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう♪ 甲本ヒロト
 ※メゲてる時に聞くと勇気が湧いてくる曲です。涙ちょちょぎれる。

「青空」ブルーハーツ

最近の若い人も知ってるのかな?
彼らの曲とパフォーマンスは30年の時を経て反ヘイトの歌として海外でも広まり、多くの感動を与え物議を醸し続けているらしい。
歌詞に出てくるバスは1955年公民権運動の発端となったローザ・パークスが乗ったバスのことだろう。その車両そのものがフォードの博物館に現存している。

ローザ・パークス – Wikipedia

1 個のコメント

  1. ごむてつさん
    記事投稿ありがとうございます。

    野口悠紀雄がテレビで「日本はもう先進国じゃない」って言ってましたっけ。
    バスのことは遥か昔に聞いたことがあったのを思い出したけど、「青空」という歌がそのバスを歌ってたとは知りませんでした。

    さて、OTのことですけど
    なんでもかんでも外国の、舶来モノをありがたがる心性はどうなんだろう?
    ベースの文化が異なるのに、丸のまま適用というのはどうなんだろう?って思います。

    宮大工とか古武術とか、日本古来の実践に信じられないようなすごいものがあります。
    大陸から伝えられた建築技術をそのまま援用するのではなくて高温多湿な日本の気候に合わせて応用したり、マッチョになるのではなくて身体の働きを巧妙化させたり。。。

    アメリカは言語化の文化ですから、リハでも言語化となるのでしょうけれど、
    日本はそこまで言語化を追求はしていない文化なのに、言葉で尋ねる、言葉にすることをそのままリハでも用いるのってどうなんだろう?って疑問です。
    そういう齟齬は現実にもうあちこちで現れてるのに。。。

    欧米の良いところは積極的に取り入れるにせよ、丸ごとマネするんじゃなくて日本文化に合わせて活用することが大切だと思うし、逆に日本文化を踏まえて。というか日本だからこそ発信できるものもあるんじゃないのかな〜。
    私のActivity論はバリデーションの日本流応用編みたいな位置付けもあります。

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