評価と治療は車の両輪

 

 

「評価と治療は車の両輪」
「評価が広がり深まるほどに
より的確な治療ができるようになる。」

私が学生の頃に
どの外来講師もみんな声を揃えて言っていました。

本当にその通りなんですよね。

 

困難事例に対して
ブレークスルーを見出せた時には
上の言葉の後半のくだりに相当することが本当に現れます。

そしてそれは大抵の場合に
「困難」と私たちが判断した場面そのものの対象者の言動に
ちゃんと解決策が反映されているものです。
それを私たちが観察・洞察できるかどうかが問われている。

「広く深く評価できるほど、より的確な治療ができる」

そして今は
「評価と治療は車の両輪」という言葉には
同時性ということも含まれていると感じています。
評価ができるということは治療的対応をしていることでもあり
治療的対応をしているからこそ評価ができるとも言えます。

ただ、今思うに
どの講師も具体例を出して説明してくれたわけではないので
たぶん当時流行していた言葉なのかも?
誰かに言われたことをそのまま合言葉のように言い合っていたのかも?
と思ってもいます。

例えそうだとしても、
学生は素直だから
言われたことはそのままそういうものだと信じます。

教わった「言葉」を
「概念」としてどれだけ理解するか
「実践」にどれだけ役立てるかは
個々の学生に委ねられるわけですが
「教わった」ということは
入り口、ドアの前に立てる、ドアを開く鍵をもらった
ということを意味します。

作業療法は実践の科学なのですから
こういった実践に役立つことを学生の時に教えてもらえて
本当に良かったと感じています。

私が幸運だったと思うことは
学生時代に「作業療法は素晴らしい」などと
唱える講師や実習指導者は一人もおらず
学院の教員には「君たちのような若造が人様を助けるなんで無理だ」
「だからこそ最善を尽くしなさい」と言ってもらったことです。

 

 

2 個のコメント

  1. 確かに学生の頃は「作業療法は素晴らしい」なんて聞いたことはなかったですね。自分が「素晴らしいこと」ができるのか不安でしょうがなかった。

    後に紋切り型の決り文句のように聞くようになったけど、出処はどこなんでしょうか?Kリハ学院の誰かかな?
    ホントに素晴らしいと思っているなら、そんなこと言う必要もないし、言う気にもならないと思うんですけど。そういう人に限って本気で素晴らしいと思っているわけでもないし、素晴らしさを伝えることもできないような…

    学生時代に教師も学生もやたらと評価と言うので、違和感ありまくりでした。
    精神分析には評価という概念はないし。

    私はリハビリの学校に入る2~3年前の大学4年の時に精神分析を基本としたセラピーを受けており、随分良くなりました。それ以前にも精神分析についての入門書程度の知識はありましたが、もちろんホントに分かっていたわけではなく、治療を受けている時に一晩にしていろいろなことが劇的に「わかってまいりました」というより確信が持てるようになった、んだったかな?

    んなわけで、評価という言葉というか概念は受け入れ難く、当初は「患者の評価なんて烏滸がましい事はするべきではない。評価ではなく理解するべきだ。」なんて言ってましたけど、評価という概念は受け入れざるを得ないので…

    「患者の評価と同時にOT自身が自分のやっていることの評価が必要だ、患者の評価よりもその方が大事だ」なんて言うようになりましたけど、やはり同級生には通じなかったと思います。

    やはり多くのOTは評価する能力も十分でないと思うけど、自分の治療の評価はもっとできていないのでは?と思います。端的に言えば独善的な自画自賛が多い。裏を返せば不安や自信のなさの現れなんでしょうけど、悪く言えば自己欺瞞。

    というわけで、私は患者の評価はせず理解に努め、自分の治療の評価をいつも考えているつもりです。なかなか気づかないことも多いと思うんですが。

    確かに「評価と治療は車の両輪」であり、治療は同時に評価であり、評価は同時に治療であるとも思うんですが、そうではなく評価してその結果に対して治療としての介入や働きかけを行い、ある程度やったらまた評価して…と考えるOTが多いような気がします。実際にどこまできちんとやってるかはともかくとして。

    そういうのは実験心理学的な考え方というか手法なんでしょうかね?
    作業療法は科学的であるべし、は良いとしても、「OTは実験科学ではなく観察科学であるべし」、というのが私の持論です。

  2. ごむてつさん、コメントありがとうございます。

    私は中学時代にバドミントン部に所属していました。
    3年間やっているとシャトルを打った瞬間に「ダメだ。上げちゃった。」とか「ネットにかかる」とか「アウト」なことはわかるようになりました。
    このことはすごく印象に残っていて、後年、自分と環境、それらをつなぐ道具の意味などを考える土台になっていると感じたことがあります。

    話を本題に戻すと、対象者の方と相互交流(関与しながらの観察)ができると、自分の言動のアウトな部分は即座に感じるものです。
    言葉はどんなに丁寧でも内実が強制や迎合だとおそらくそういったことは起こり得ないと思っています。
    (強制や迎合はベクトルこそ真逆ではありますが、相互交流ではないという意味では共通しています)

    私は日々その時その場での自己評価、確認だけでなく、ある程度まとまった時間経過を踏まえた評価を行うことそのものは悪いことではなくて、むしろ必要だと考えています。OT自身が冷静に振り返りをできる機会になるからです。問題は評価した後にどうするのか、というところで、ここが形骸化していることが良くないと考えています。
    改善しないのは障害のせいにしたり、現状維持としても漠然としていて、現状の何の項目のどの部分を維持することが必要なのか明確化できなかったり。。。OTに参加することは何かを達成するための手段であるのに、いつの間にか参加そのものが目的にすり替えられている。。。評価の形骸化は非常に大きな問題だと考えています。

    さらに言うと、現行のOTの問題は、情報収集も検査も評価も目標も治療・実践もそれぞれが単独に切り離されてしまっているところだと考えています。
    残念なことに、知識と技術が集積されてきたことが悪い面にも反映されていて、〇〇という疾患には検査すべき項目の一覧があり、為すべきとされる治療・実践が列記されています。キツい言い方をすれば、教科書にそって実施すれば「やっている」ように見えるし思えるわけです。(ここが、ごむてつさんの言う自己欺瞞に重なると思います)

    本来、最も重要なのは、対象者の状態把握・評価であり目標設定です。
    ところが、現実には評価の検査化が進んでいて、検査や観察結果の統合が浅いレベルにとどまっているのではないでしょうか。
    多種の検査やバッテリーをとることが科学的・客観的であるように誤認している。
    知識に基づいて関与しながらの観察が行えない。あるいは養成・指導できないから検査やバッテリーに逃げている。
    (もちろん検査やバッテリーを否定しているわけではありません。必要な検査・バッテリーはとるべきだと考えていますが、検査・バッテリーは評価ではないということを明確化しておきたいだけです)

    目標が目標というカタチで設定されず、目的や治療内容との混同は枚挙にいとまがありません。実は困っている学生も指導者もとても多いのに的確な修正がなされないまま半世紀が過ぎたと言っても過言ではないと感じています。
    このような現状では、ごむてつさんの言う自画自賛に陥ることは必定となります。

    たぶん、OTは必死になって知識と技術を集積してきたと思います。でも最も本質的なこと、根幹に関わることに対しては結果として回避されてきてしまったと感じています。
    このあたりは大切なことなので別の記事にまとめて記載する予定です。

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