防げるシリーズ:下垂足

  
たまに見かける下垂足
足関節を背屈しようとしてもできません。
圧迫による腓骨神経麻痺による場合は
長時間の横坐りや椅子で足を組んだまま長く座っている方に起こることがあります。

認知症が重度になると
ご本人は下垂足の自覚がなくとも
無意識に股関節や膝関節を過剰に屈曲する代償歩行をしています。

認知症が軽度までの方なら
プロフッター を装着してもらうことも可能ですが
重度になると説明した意義を忘れて外してしまい装着継続が困難になったりします。

代償歩行ができるとはいえ、歩行時の転倒リスクはありますから
予防できるに越したことはありません。

ただし
足を組んで座るという座り方の癖を直すというのは
これもまた難しいものですから
長時間、足組み座位が連続しないように
体操やトイレ誘導など、立ったり足を動かす機会を作ることで
腓骨神経の長時間の圧迫による麻痺を回避させる工夫をする方が現実的だと思います。

  

防げるシリーズ:下垂手


移乗動作や寝返りが全介助でも食事は自力摂取している方が
突然、下垂手になってしまうこともあります。
手関節を背屈しようとしてもできなくなってしまいます。

このようなケースで圧倒的に多いのが
完全側臥位による橈骨神経麻痺です。
  
「褥瘡予防のために仙骨部を除圧しなきゃ」という善意かもしれませんが
完全側臥位は非常に危険です。

体位交換・ポジショニングに関する誤解もまだまだ多いようですが
1)完全側臥位はとらせない
2)側臥位で下になった上肢は必ず体幹から引き出す
3)肩甲帯〜骨盤帯をクッションで支える
という側臥位設定時の注意を守っていただきたいと思います。

橈骨神経麻痺は、圧迫の程度や持続時間によって回復までの時間は様々です。

一番、問題になるのが食事摂取です。

食事は、ご自身で自力摂取できていた方なのに
下垂手になると摂取困難になってしまいます。
認知症がないか、あっても軽度であれば
一時的に非利き手を使用したり
手にカフを巻きつけて代償的に食べたりもできますが
認知症が重度になってくると
食べ方を変更することは困難になり
下垂手の状態で以前と同様に食べようとして食べられず
辛い思いをされることになります。

高齢者の下垂手は
橈骨神経麻痺は完全側臥位が原因のことが多く
(もちろん、その他の原因によっても起こりますが)
その場合は職員の側にありますので予防可能なことが多いのです。

上肢圧迫がないのに橈骨神経神経麻痺が起きていたら
すぐに整形外科を受診していただきたいものです。

透明のコップ


ダイソーさんで購入した、透明のコップです。

認知症があると、いろいろなことを忘れてしまいますが
目で見てわかるチカラは、かなり保たれています。

ところが
高齢者施設や病院では不透明なコップを使用していることが多いですよね。

近時記憶が低下していると
水分摂取を促しても不透明なコップだと
飲み残しがあるということを忘れてしまいます。

透明なコップだと、コップにまだ飲み物が残っているということが一目瞭然
飲み残しがある→飲む という
環境認識→判断→行動の一連の過程を職員の声かけではなく
認知症のある方の視覚理解を活用する
環境調整によって援助することが叶います。

「水分摂取に促しが必要」な方の中には
「飲みたくない」のではなくて
「飲んでいたことを忘れてしまう」
「飲み終わっていないことを忘れてしまう」
「コップの中に飲み物が残っていることを忘れてしまう」
というケースも多々あります。
そのようなケースに有効なのが、視覚理解に働きかけるという環境調整による工夫です。

 


繰り返しわかり直す


同じコトを繰り返しわかり直す
理解の深度が深まっていくということを何度も何度も実感しています。

食事介助において
スプーン操作の重要性を私が訴え始めたのは30年以上前になります。
その考えは今もなお変わることはありませんが
当時よりももっと深くその意義が理解できるようになりました。

当時から講演では体験学習を提案していて
その体験学習のキモは今も変えてはいませんが
細かな配慮や環境設定の工夫を積み重ねて
より良い体験学習が提供できるようになってきていると自負しています。

講演での伝え方も
より印象に残る伝え方や
より明確な伝え方の工夫ができるようになってきていると自負しています。

どのように場面設定をするのか
どんな言語的説明、視覚的説明を提示するのか
それらを考える過程において
フッとパワーワードが浮かぶこともよくあります。
でも、「ここでパワーワードが欲しいな。どんな言葉にしようかな。」
と考えたことは一度もありません。

確かに「書く」機会は多かったと思います。
日々の辛さにやむにやまれず15年以上個人のブログを書き続けてきたことや
神奈川県作業療法士会のウェブサイト管理委員会のお仕事や
県学会広報部や県士会理事の時に立ち上げた複数のコンテンツの作成を通して
培われてきた部分もあると思う。

明確な言語化は明確な認識と関係しています。
実習指導の時に「わかっているけど書けないだけだから気にしないでいいよ」
と学生に声をかける人にたくさん出会いましたが
内心、それは違うと思っていました。

わかっているつもりになっているだけだから書けないのだと。

若い頃に
転倒している方を発見して、ひやりハットを書こうとして
体幹のどちらが下になっていたのか
下肢はどういう状態だったのか
書けなくて困ったという体験をしたことを覚えています。

見れども観えず
になっていたのだと。

もちろん、究極、言葉にできない部分もあると感じていますが
それは、言語化を突き詰めていった人がようやく言えることだと思います。
わかっているつもりから卒業しようと今でも心がけています。

そうすると
わかっていたつもりだったことが
確かにそうなんだけれど、もう一段明確に深くわかり直す機会に遭遇したりします。

たとえば
食事介助において
上の歯でこそげ落としたり、スプーンを口の中に差し入れてしまうことの弊害が
準備期の機能を廃用に陥れるだけでなく
口腔期の機能をも廃用に陥れてしまうことを深くわかるようになったことがあります。

不思議なもので、タイミングがあるんですね。

ずっと探し求めていた言葉や概念にふっと遭遇する
私にとって必要な体験ができるような状態像の方に出会う
見れども観えずになっていたことが明確に観えるようになる
一般化・抽象化の深度が深まる

もしかしたら、実は、タイミング自体はずっとあって
それこそ、私が気づけていなかっただけかもしれないのですが
私が実感できるタイミングで起こるように感じています。

繰り返しわかり直すことを通して
観察の深度が深まるし
観察の範囲も広がります。

  時には
  表面的に不合理な思いをする体験にも遭遇しましたが
  後になって振り返ってみると
  思いもよらないメリットを享受する機会だったことがわかったりします。
  その後の展開も大きく変わりました。
  一見、悪いことに見える良いことだったというわけです。
  そして、良いことに見える悪いこともありました。

  「Connecting the dots」「塞翁が馬」本当にそうだなぁ。。。と思います。

  知や力の問題もずっと考えさせられてきました。
  結局は、扱い方の問題で
  知や力に引きずられることなく自分がしっかりしていれば良いけれど
  知や力の持つパワーの底知れなさに
  抗いきることの困難も少しはわかるようになりました。
  (お金持ちや名声が高まると、ここにお金や名声のパワーも加わるのでしょう)
  このことについては、いずれ記事にしたいと思います。

繰り返しわかり直す体験をしていると
(良い意味でも悪い意味でも)五十歩百歩なのかな?と思ったり
志さえ曲げなければ、
必ず自身の成長につながる機会に出会うことができることを実感でき
一見、悪いように見える体験に遭遇しても
過剰に落ち込むことなく(落ち込む自分を否定はせず)
その体験の意味を活用しようという気持ちになれますし
現実的にも神様からのプレゼントと思えるような体験が巡ってきたりします。

点と点が線になる

スティーブ・ジョブズの言葉に「Connecting the dots」という言葉があります。
2005年6月にスタンフォード大学の卒業式で
「将来を予想して、点(知識や経験など)と点をつなぐことはできない。
 後々の人生で振り返った時にしか、点と点をつなぐことはできない。
 今やっていることが、将来、自身の役に立つ(点と点がつながる)と信じて取り組みなさい。」
とスピーチしたそうです。

本当に点と点はつながるんです。

私が作業療法士として働き始めた当初
減ることなく日々増えていく「To Doリスト」を前にして
焦るばかりだった自分を覚えています。
後年になって「よっしーさんは仕事が早い」と言われるようになるなんて思えなかったし
ましてや、自分が人様の前でお話をしたり、本を上梓するようになるなんて
夢にも思っていませんでした。

もっと遡ると
高校生の時には児童文化部に所属していて
影絵や人形劇を作って市内の保育園を回って上演するという活動をしていました。
この時に先輩から口酸っぱく言われたのが
「演出は自分で動いちゃいけない。常に全体を見て指示を出せ。」
ということでした。
今思っても良い先輩やOBに恵まれ良き指導を数多く受けました。
それが後年OTになっても活用できる眼を涵養してもらったのだと
当時は知る由もありませんでした。

私が臨床1年目の頃は、今のような民間のセミナー団体なんて全然なくて
OT協会か県士会主催の研修会しかありませんでした。
どのように学んでいいかも自分でわかっていなかったので
手当たり次第に研修会に出たり、本を読んだり、論文を読んだりしていました。
給料は安かったし、古いけどアパートも借りてたし、県の奨学金も返済していたので
漫画みたいだけどパンの耳を食べていたこともあります (^^;
自宅で素ラーメンを食べていて、たまたま尋ねてきた知人に笑われたこともありましたっけ (^^;
そんな風でしたから、研修会に出席しても「モトはとるぞ」精神で
研修会の内容だけでなく、講師の講演の進め方や構成、事務局の運営の仕方なども
その場のすべてが勉強とばかりに見ていましたっけ。
(それができたのも高校時代の部活での体験があったからだと思います)
いつかは自分が講演する側に回るからとか、運営側に回るから
といった意識は皆無でしたけれど、得られるものはなんでも得る!精神でした。
でも、その蓄積が今、本当に自分が講演する側になり、運営する側にもなって
役に立っています。

私がブログを書き始めたのは今から15年以上前になります。
そのブログを読んだ人から講演を依頼されたこともありました。
その後、神奈川県作業療法士会のウェブサイト管理委員会のお仕事をするようになったり
県学会広報部や県士会理事の時に立ち上げた複数のコンテンツの作成を通して
情報発信を学べたことも大きかったと思います。
(失敗もたくさんしたけど)
当時は目の前にある為すべきことをただひたすらやっただけで
後年になって自分でサイトを作って公開する時が来るなんて思いもしませんでした。

いやー本当に何がどう役に立つか、わからないものです。

無駄なことなんて何ひとつありません。
どんなに努力したとしても願いが叶うとは限りませんが、

努力したことが無駄になることなんて決してありません。

点と点は、その時にはわからないくても
必ずや線になるし
その線もカタチを変えてより太い線になったり面になり立体になったりしていきます。

これからも
新たな点を作っていくことになるだろうし
新たな点と作られた多数の点を結んでどんな線ができるのか
ワクワクドキドキしていますし
作られた線の意味や点の意義を振り返って
思い出を味わったり、新たな発見を見出したりするのも
これから老いを迎える私個人としての新たな楽しみ方になるのかもしれません。

 

豆腐のサラダ


まだまだ暑い日が続いています。
そんな暑い時にぴったりの副菜です。
サッパリとパクパク食べられます (^^)

材料:
豆腐(3連包装を1個)
茗荷 1個
きゅうり 1/2本
塩昆布 ひとつかみ
めんつゆ 大さじ1
ごま油 大さじ1強

作り方:
豆腐は電子レンジで水切りします(600Wで1分ちょっと)
きゅうりを薄い輪切りにして塩もみしてから水気をしぼります。
茗荷は千切りします。
器にめんつゆとごま油と塩昆布を入れて混ぜ合わせます。
次に、水切りした豆腐ときゅうり、みょうがを入れてさらに混ぜ合わせ
冷蔵庫で冷やしておきます。

ネットで見つけたレシピです。
レシピでは、軽く火を通したオクラを使っていましたが
私はきゅうりのシャキシャキ感の方が好みです (^^)

サバ缶ご飯

夏も終わりですが
暑い日にぴったりのカンタンなサバ缶ご飯のご紹介(^^)

材料:
ごはん 1.5合
サバ缶 1缶
しその葉 10枚(お好みで加減を)
白ゴマ (プチプチ感が決め手)
梅干し 2粒
しょうがチューブ 2回しくらい
ごま油 適量
めんつゆ 大さじ1

作り方:
ごはんは、硬めに炊いておきます。
ごま油をフライパンに入れて熱し、サバ缶の汁ごと入れて身をほぐします。
ほぐした梅干し、めんつゆ、白ゴマ、しょうがを入れて煮詰めます。
水気がなくなったら、千切りしたしその葉を混ぜ合わせます。
最後にご飯をよく混ぜてできあがり!

サッパリしているけど、コクがあって栄養満点!


「QOL」と「その人らしさ」


今、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言うのが
「その人らしさを大切に」
「その人に寄り添ったケア」
という言葉です。

理念としては、とても重要な言葉だとは思いますが
「言うは易し、行うは難し」

言うのは、良いけど
じゃあ、実践にあたって
どのような思考や言動が、その人らしさを大切にしていることで
どのような思考や言動だと、その人に寄り添ったケアではなくなるのか
検討した上で、実践し、自己検証している人がどれだけいるのでしょうか?

リハの世界で30年以上も働いていると
世の中と同じで、リハの世界にも流行り廃りがあることをたくさん見聞きしてきました。

パワーリハや回想法や学習療法。。。
一時期業界を席巻しましたが、さて、今はどうでしょう?
これらは、ツールですから
対象者に合わせて上手に活用すれば良いのですが
当時は結論ありきのように、誰にでもどんな状態の人にでも奨励されていたような印象があります。

若い人はそれこそ聞いたことがない言葉かもしれませんが
今と同じように、どの分野でもどの職種でも口をそろえてみんな言っていたのが
「QOL」という言葉です。
「QOLを大切に」
「QOLを見据えて」
という言葉が席巻していました。
ところが、今や「QOL」という言葉は死語になってしまったかのようです。

いったい、どういうことなのでしょうか?
あるモットーやスローガンやツールが一気にわーっと広がるけれど
いつの間にか人口に膾炙することがなくなっているという状態。。。
まるで全肯定と全否定のような。。。

長崎浩の「動作の意味論 歩きながら考える」という本のp.255に
「これに対して、生活・人生の向上を最重要視するのが他の臨床医学と異なるリハビリテーション最大の特徴だといわれるが、いうところの最重要視はいまや医療全般の掛け声である。このような股裂き状態の中で、見失われているのはリハビリテーション医療に固有の理論であり、この意味での専門性だというべきである。」
という記述があります。


ICFとリハの発展に絡めての記述ですが、太字部分は「QOL」と言い換えても良いと思います。
思うに、「QOL」については具現化するところまでもっていくのが難しく宿題のままになっていた。
誰もが重要性を感じていて、ただ具現化するに至らなかった。
そこでもう一度、「その人らしさ」というコトバに変えて、
もう一度問いかけるようにして
浮かび上がってきた概念なんじゃないかなと思います。
「QOL」も「その人らしさ」も同じコトを違う側面から切り取って提起しているんじゃないかな。
ただ、かつても今も明確化と具現化ができなかっただけで
「QOL」運動が鎮静してしまったように、いずれ「その人らしさ」運動も鎮静していくと思う。
そして、第3のコトバ、第4のコトバで繰り返し浮かび上がる。。。。

おそらく、「その人らしさ」から派生してきたのが「意思尊重」で
「やりたいこと」「希望」を尋ねるという方法に流れてきている。。。
(今はむしろこっちの方が花盛りかも?)
でもそれはすり替えであって本質じゃない。
問題設定の問題に絡めとられてると思っています。

本質は、『生活・人生の質を最重要視する』ことで
ヒントは、『ICFの概念』で
ぼんやりとつかみかけているものをはっきりとカタチにしたうえで
どのように『具現化する』のかというところなんだと思う。

  ICFは相互関係論なので華厳経の縁起と通じる部分もあると思っています。
  (老後の楽しみとして数学と華厳経を勉強したいなと思っています)


 

ここまでは、わかるようになったし、できるようにもなったけど
(我ながらよくここまで自力で辿り着いたと思います。
 もちろん有形無形多数の人の援助や支えはありましたし
 幾多の先達の知見のおかげや影響も受けています。)
ここから先はどれだけ進めるだろうか。。。
もちろん、進むだけは進むつもりでいますが
今までみたいにひたすら前進!という年齢ではなくなりましたので
バトンを渡すことを諸々考えています。

そんなわけで
長らくお待たせしましたが
できれば11月くらいにDCゼミ主催の研修会開催を検討中です (^^)
詳細は今しばらくお待ちください m(_ _)m



第6回神奈川県臨床作業療法大会 事前参加登録開始されました!


2024年12月8日(日)に開催される
第6回臨床作業療法大会の事前参加登録が本日9月2日(月)12:00から開始されます !

詳細・お申込は
_大会公式サイトの参加登録_から。

事前申込の参加費は、¥2,000円です。

開催日程は、_こちら_をご参照ください。

第2講演として
「なんちゃって目標からの卒業〜自分自身に問い直す〜」というテーマ

お話させていただきます。

思えば
リハの分野は目覚ましい発展を遂げてきました。
私が高校生の時に進路指導の先生に尋ねられて
「リハビリテーションの学校に行きます」と答えたら
「リハビリテーション?それは何だ?」と言われました。
でも、今やリハを受けたことのない人はいても
リハビリという言葉を聞いたことのない人はいないと思います。

リハの知識も技術も蓄積され
対象分野も大きく広がり
従事するセラピストの数も大きく増えました。

一方で
私が学生の頃からあまり変わっていない課題もあります。
チームワークしかり
目標設定しかり。

なぜなんでしょうねぇ。。。

チームワークについては
一時期は飲ミュニケーションという言葉が席巻したこともありますし
目標設定についても
一時期OTの中でブームとなったアプローチもあります。
でも、飲ミュニケーションという言葉は定着しませんでしたし
今の若い人は聞いたこともない言葉なのではないでしょうか?
同様に、一時ブームとなったアプローチだって定着はしていません。
定着していない。。。ということは
結局、現場的に
使いづらさがあるとか、現実的ではない、つまり、本質ではない
ということだと思っています。

12月の臨床作業療法大会での講演では
目標設定の本質に迫るお話をしたいと考えています。

実は、目標設定で悩んでいる人はすごく多いはずなんです。
(自覚している人はまだしも、自覚できていない人も多い)
「目標をどんな風に設定したら良いのかわからない」
「これで本当に良いのかわからない」
と立案時に悩む人もいれば
「やりたいことを尋ねたら、そんなものはないと言われた」
「やりたいことを提供したら、全然できなかった」
と提供時になって初めて困る人もいますし
目標をちゃんと設定できていないのに困ることすらできない人もたくさんいます。
私が学生の時にも、そして今現在も。
60年もの間、変わることのない課題なのです。

どうしてなのでしょう?

本当は
目標の設定の仕方がわからない
のではなくて
目標とは何ぞや
ということがわかっていないのだ
と考えています。
問題の本質を吟味することよりも
表面化している問題を表面的に解決しようと
考えた方法論の限界が見えてきていると思います。
本来、対応すべきは目標の概念理解だったのですから
問題設定の問題に陥っていたことを自覚して
本来の問題に対応すべきだと考えています。
  
そもそも普通に考えて、
目標の概念理解ができていないのに目標設定の仕方を工夫する
って、すっごく変

コトは目標設定に限りません。
まったく同じコトが違うカタチで臨床現場で起こっているんです。
  
概念の本質を理解せずに対応をあれこれ考える。。。
食事介助でのムセ然り
ポジショニングでの過剰可動域の設定然り
認知症のある方に敬語や優しさを奨励すること然り。。。

極めつけが
どんなテーマで講演しても質疑応答で必ず出る、
「〇〇という状態の人がいますが、どうしたら良いでしょうか?」
というカタチの質問です。
この質問のカタチには、ふだんの思考回路が反映されています。

〇〇という時には、△△する
という思考回路です。
というか、単なるハウツーの当てはめですから思考ですらありません。。。

そして、そのような市場の要請に応じて
ハウツーを売りにした研修も
ハウツーを売りにした本も多数提供されています。。。

その一方で
「その人らしさを大切にする」
「その人に寄り添う」
というスローガンはどの分野、どの職種でも花盛りです。

本当に。。。?

どういった思考や言動がその人らしさを大切にすることで
どのような思考や言動がその人らしさに寄り添っていないことなのでしょうか?

本当に実践されていたら
ハウツーを求める質問は出てこないし
ハウツーを売りにする研修や本が提供されるはずがありません。
ハウツーは「その人らしさを大切にする」「その人に寄り添ったケア」と真逆の在り方ですから。

その反映の現れの一端が誰に対しても
「現状維持」「移動能力の維持・向上」「筋力強化」「可動域改善」「認知機能維持」
といった文言で「目標」として設定されていることもあります。

こんなにも実践と理念が乖離している現実に
疑問を感じる人がどうしてこんなに少ない
のでしょうか?

理学療法士・作業療法士という言葉が1965年に日本に誕生して来年で60年になります。
日本には還暦という言葉があります。
「産めよ、増やせよ」で国策としての養成がひとまわりするわけです。
このあたりで、第二の人生に生まれ変わるという還暦の意味に沿って
もう一度、根幹となるものを考え直しても良いのではないでしょうか?

知見の集積は必須でした。
でも、どんな物事であれ
物事は表裏一体、メリットもあればデメリットもあります。
リハの知見の集積が叶ったからこそ
蓄積された知見を対象者のために活用するのではなく
知見を対象者に当てはめるような在り方
が広まってしまった側面もあるのではないでしょうか。
知見の集積をどのように扱うのかは扱い手の問題です。
だからこそ、今一度、本質を見直すことが重要なのではないでしょうか。

目標を目標として設定できるということは
それ自体、重要な能力でありますが
それ以上に、臨床能力を下支えするメタ認識を涵養させるという意味でも重要です。

実際に現場で起こっている問題の本質について
言語化し、問題提起し、解決策を提案
している人は稀です。

日本のリハビリテーションの未来を担う人たちに向けて
他では聞けない、本当に貴重なお話を聞ける場にいたします。

どうぞ、ご参加をご検討ください。


本質はシンプル


「簡潔さとは複雑さを研ぎ澄ましたものである」
ルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの言葉だそうです。

スティーブ・ジョブズもシンプルなデザインにこだわっていました。

私の実践は
対象者の能力を見出し能力を活用する
というものです。

答えは対象者の中にあるということを確信しています。

どんな対象者のどんな状態像であっても適用可能な考え方です。
食事介助しかり、ポジショニングしかり、移動能力しかり、
生活障害しかり、BPSDしかり、Activityしかり。

シンプル過ぎて理論とは言えないかもしれませんが
私はそうやって結果を出してきました。
 
巷間言われているような理論を使ったことは一度もありません。
だって、手間ばかりかかる割に結果が出せないし
重度の認知症のある方に適用できないからです。

本当に有用なもの、本質的であればあるほど
除外要件が少ないはずです。

除外要件が多いものは本質ではないと考えています。
「認知症だから無理」「認知症だから適用困難」
と言って認知症のある方を除外しないでほしい。

認知症のある方はリハ対象者の中に相当数います。
急性期であれ、回復期であれ、生活期であれ
認知症のある方に出会わないセラピストはいないと言っていいと思います。
任意の理論が本当に認知症のある方に役立つかどうか
みんな心の中では本当のことをわかっている
と思います。
忖度して言わないだけで。
でも、それで本当に認知症のある方への対応が発展していくのでしょうか?

「理論が大事」という人は少なくありませんが
私に言わせれば、根拠こそが大事で
実践において、その根拠とは対象者自身です。
もちろん、過去からの知見の集積は活用はしていますが。

このサイトの_トップページ_に先人の金言を掲載してあります。

原点に立ち戻って
目の前にいる方に真摯に向き合うことから始めることが
真贋を見極める眼を磨くことにもつながると感じています。