見た目というカタチに反映されている機能ハタラキを観察できるためには
代償の意義を理解できるだけの知識の習得が前提要件となります。
ところが、
多くの人は、それらの過程をすっ飛ばして
「どうしたら食べてもらえるのか」
「どうしたら帰宅要求しなくなるのか」
と考えます。
そして、
食べてもらえず
帰宅要求はおさまらず
といったことになりがちです。
帰宅要求に関して対応の工夫で頑張っているところもあるでしょうし
表面的に抗精神薬を使用してしまうこともあるかもしれませんが
食事に関して、抗精神薬を使っても食べられるようにはなりません。
(他に問題があるので当然です)
まず、食べられなさをきちんと観察することから始まります。
食べられなさを観察せずに
その場の解決を目指して対応して、仮に問題が解決されたように見えても
それは真の解決ではなく、単に問題を先送りしているばかりか
余計に問題を拗らせる(代償に代償を重ねさせる)ことになります。
大声がひどく
自分で食べなくなってしまった方に
最低限の栄養と水分の摂取を要請して
単に食べさせていたケースでは
舌が硬くなり後方へ変位してしまい
送り込みができなくなってしまい
「溜め込んで飲み込んでくれない」という状態になってしまいました。。。
(私が関与してから自力摂取できるようになりましたが)
このような対応は現場あるあるです。
観察しないから
どう食べて、どう食べられないのか、洞察もできない
どのように代償していて、どのような能力発揮しているのかわからない
食べることの援助ではなく
食べさせることになっているから
食べる能力を落としてしまい
職員側の対応のまずさで食べられなくなっていることがわからない
(実は、無自覚には自分達の対応のまずさを感受していますが
自覚的になると、自分達の行動を修正しなければならなくなるので
そのような局面を回避しようとして自己防衛しようとして
誰かのせい、認知症のせい、と現実を否認する人が出てきます)
食事介助でも
生活障害やBPSDの場面でも
観察・洞察できていないために適切な対応ができないというのは共通した課題です。
食事介助は、食べられるようになったか、食べられないままか
というのが、はっきりと現れますので
私たち介助者の自己反省・自己学習をするのにもってこいの場面でもあります。
見た目というカタチに反映されている機能ハタラキを観察することから
全ては始まります。
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