「認知・認知の人・認知のある方」

ギョーカイ用語のようになっていますよね。
「認知・認知の人・認知のある方」
文脈から認知症や認知症のある方のことを言っているのはわかりますが
これって、とってもヘンな言葉です。

私は地域の公民館に伺って講演をすることもありますが
ある時、講演終了後に一人の方が近寄ってきて
「すみません。質問があるんですけど」と言われました。
「認知とか認知の人、認知のある方っていう言葉がありますが
 これって変な言葉ですよね?」と尋ねられました。

まさに!まさに!

お気づきの方もいるかもですが
私はいつも「認知症のある方」という表現をしています。
だから、尋ねてくださったのだと思います。
この表現は、英語の「People with Dementia」「People who have Dementia」の直訳です。
英語表現のすごいところは、ちゃんと「人+認知症」として明確に区分けしているところです。
そもそも「人」がいて「認知症」になったということが明確に表現されています。

ところが、日本で一般的に使われる認知症高齢者という言葉だと
「人と病気が混在・一体化」「人が形容詞化」「病気に修飾された人」として
表現されています。

「認知・認知の人・認知のある方」って日本語としても成立していませんし。
認知という精神機能と生きている人間とを並列表現するのもおかしいし
認知があって良いじゃないですか。認知が無ければ困るじゃないですか。
英語にするともっとハッキリわかると思います。
「cognition・People of cognition・People with cognition」
もはや、何を言いたいのかわかりません。。。

言葉は概念を表すものなので
こういう言葉を使っていながら「人として接する」というのは論理矛盾しているんじゃないかしら。

言葉を大切にするということは、概念を大切に取り扱うということです。
医療・保健・福祉従事者が「認知・認知の人・認知のある方」と言うのは
「私は概念をきちんと取り扱えません」と公言しているも同然なんですけどね。。。

目標を目標として設定できず、目的や方針や治療内容と混同している。とか
構成障害や遂行機能障害の各種検査をしても
「それってどういう障害?」と尋ねられると明確には答えられない。とか
現場あるあるの実情と根底は一緒だなーと思っています。
そりゃー、日々の臨床場面から観察なんてできないでしょうし
無自覚にまずさを感受しているから、ますます検査をして理論を振り翳して
補償(防衛機制)するしかできないのでしょう。

私は常々、目標設定の大切さを説いていますが
目標を目標というカタチで設定できることが臨床の質を担保するという実際的な面だけでなく
目標の概念を明確に理解するということはメタ認識としての概念の明確化をも要請することになるので
臨床能力全般に汎化していくからです。

現実には、「なんちゃって目標」が蔓延していますし
それでも、現場は回るし
最新の理論やバッテリーに比べると、目標設定なんてすっごく地味だし
「なんちゃって目標」が蔓延しているという事実にすら気がつかない人が圧倒的に多いのが現実です。

そんな中で先日、目標設定の重要性について共有できる人たちから連絡をもらい
とても嬉しく思いました。


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