リハへの誘導に際して困っているという場合には
実は、認知症のある方の状態が把握できていないという
職員側の問題が「認知症のある方が誘導に応じてくれない」というカタチで
現れているというケースが圧倒的に多いのです。
認知症のある方の
体調(睡眠、疲労、覚醒リズム)はもちろん
近時記憶、見当識、視空間認知、言語理解力、特性などなどの把握
最も重要なのは言語理解力です。
そして案外現場で確認されていないのも言語理解力です。
言語理解力には量的側面と質的側面があります。
量的側面とは、一度に受け取る言語の多さ・長さ
質的側面とは、「援助の言葉と意思表明の言葉」の違いであり
「目的の言葉と手段(方法)の言葉」の違いです。
目の前にいる認知症のある方が
どんな言葉であれば理解しやすいのか把握したうえで
意図的に言葉を選び、使い分けることが必要です。
当然のことながら
声をかける時には、どちらの耳が聞き取りやすいのか確認する
そして、聞き間違いも多いので明瞭に発音する
ことに気をつけるのは言うまでもないことです。
また、何を言うかだけでなく
その時の口調や声の大きさ、視線などのノンバーバルな表出もコントロールすべきです。
そのうえで
先の記事でご説明したように
その方が再認しやすいように
キーとなる言葉を探したり、視覚的情報を提供します。
つまり、誘導時の声かけとは
すべてがその方の状態に応じて
評価にもとづいて選択されるものです。
「認知症のある方がリハへ行くための援助」だからです。
決して、「リハへ行かせるための援助」ではありません。
さすがに、このご時世で認知症のある方への誘導に関して
無理矢理連れていくなんてことをしている人は少数派でしょうけれど
逆に「褒めておだてて言いくるめる」ようなやり方は増えているし
いまだに「毎朝訪室して挨拶してなじみの関係を作る」人も少なくないようです。
そのような対応は、もう卒業しましょう。
「なじみの関係を作る→誘導に応じてもらえる」
「顔見知りになる→言うことを聞いてもらえる」
というような実践は
認知症のある方の状態像を把握していないからできる
実は大雑把な方法です。
リハへ行かせるための表面的な方法にすぎません。
しかも、この時にどんな言葉を選び、どんな風に伝えるのか
意図的に選択したうえで使い分けていなければ逆効果になってしまいます。
「何か言ってるけど何言ってるかわからない」
このような体験として再認した方は「うるさいからもう来るな!」と言うかもしれません。
そして易怒的とレッテルを貼られる。。。
リハを拒否すれば「意欲低下、やる気がない」とレッテルを貼られる。。。
認知症のある方の状態も改善されず
一生懸命毎朝訪室していた職員もガックリして落ち込んでしまう。。。
誰にとっても良いことがありません。
ただし、長い年月
漫然と為されていた方法論が継承されてしまったのには
それなりの理由があったのだろうと思います。
例えば「なじみの関係を作る」であれば
軽度だから職員に配慮できる方で効果があったように見えた、ザイオンス効果という論拠がある、情報収集や評価に手間をかけずにすむ、、、などなどの。
でも
認知症のある方にとっても、職員にとっても、もっと良い方法があるのだから
リハへの誘導のために毎朝訪室して挨拶するなどの漫然とした方法は
もう卒業しましょう。
「認知症のある方をうまくノセる」方法なんてないんです。
仮にあったとして、プロとして嫌じゃありませんか?
それって本当に援助と言えるでしょうか?
仮にあなたが「なじみの関係を作ったら誘導に応じてもらえた」としても
その意味を検証せず、あぁ良かったで終わりにしてしまう
単なるハウツーとして用いるのであれば
短期的には良くても長期的には望ましいことはありません。
認知症のある方にとっても、あなたにとっても。
一事が万事
他の事象に対してもハウツー的な表面的な対応をする思考回路になってしまいます。
認知症のある方は表面的な拒否というカタチに
反映されている意思や能力や困難を読み解いてもらえず
表面的に従うように要請されることを受け入れることになってしまいます。
きちんと状態を把握することに慣れていないうちは時間がかかります。
それは仕方のないことなのです。
今までやったことのないことをやるんですから。
モノゴトは何であれ誰であれ、習熟するには時間が必要です。
ここでいう時間とは、単なる経験年数のことではなくて
意図的に過ごす時間のことです。
その間、自分のできなさから目を背けないことです。
近くにいる先達は
ちゃんとできるよ!ということをやってみせることです。
そのうえで何をどうしていたのか言語化してあげることです。
未熟な時は辛いけど
その時にきちんと一つ一つをおろそかにせず
経験を経験として積み上げていけば
必ず自分自身の評価の能力すなわち観察力も洞察力も
量的にも質的にも高まっていきます。
(ここをはしょると、なんちゃってOTになる)
知識は必要だし、検査やバッテリーも必要だけど
対人援助職として生涯をかけて研鑽すべきは観察力であり洞察力です。
ナイチンゲールの言葉です。
「経験をもたらすのは観察だけなのである。
観察をしない女性が、50年あるいは60年
病人のそばで過ごしたとしても
決して賢い人間にはならないであろう」
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