良くなるとはどういうことか

「良くなる」という言葉には、誤解も伴うと感じています。

例えば
食事介助において
「次々と口の中に食塊を入れられる介助をされても
すぐに開口することができるようになった」
という状態は、「良くなった」と言えるのでしょうか?

摂食・嚥下5相の機能解剖を頭に入れて食事介助をしている人なら
上の文章を読んだだけで胸が痛くなってしまうと思いますけれど (> <)

「良く咀嚼するので口腔期が長めの方」や
「喉頭を2回挙上することで完全嚥下する方」が
すぐに開口するようになったら
今、その場ではムセることもなかったとしても
数ヶ月後にはムセやすくなってしまうことが多々あります。

短期的には良くても長期的には良くない、どころか逆効果、かえって悪くなってしまう。ということは、食事介助の場面をはじめとしてさまざまな場面で良く遭遇する、現場あるある問題のひとつです。

ところが、
「短期的に良い、その場では問題ない、その上介助がしやすくなった」
という場合には「良くなった」と認識されやすい傾向がある
しかも、その結果として長期的に悪くなった時に
対象者の病状悪化と誤認され、介助の適切さについて振り返りが為されにくい
と感じているのは私だけではないと思うのですが、いかがでしょうか?

この考え方の典型例は
登校拒否のお子さんに、とにかく学校に来るようにあの手この手で登校を促すという、一時期よくあった対策?です。さすがに今のご時世ではもうないでしょうけれど。。。

「介助者の都合に合わせてくれる=良くなった」
というのは、本末転倒で危険な感じ方だと考えています。

本当に良くなるということは
「能力を合理的に発揮できるようになり、結果として介助もラクになった」
ということではないでしょうか。

先ほどの登校拒否のお子さんの例で言えば
登校拒否する必然が解消された結果として、学校に行けるようになった
というのが、本来の良くなったという意味に当たると考えています。

「自分の介助に従ってくれる=良くなった」
というのは、援助ではなく使役に基づく感じ方です。
本質的なところがズレている。
真逆になっています。

認知症のある方への対応の工夫で
ハウツー本が売れたり、ハウツーを伝える講演やサイトに集客が多い現状は
それだけ対応に悩む人の多さを反映してもいるのでしょうけれど
根本的に、本当に怖いと感じています。

援助と使役や尊重と迎合の違いについて
実習や新人の時に悩まなかったのでしょうか?

理念は唱えるものではなく
自身の実践と照合しながら模索するのだと学ぶことがなかったのでしょうか?

対人援助職でありながら
ハウツーを当てはめる在りように疑問を抱くことがなかったのでしょうか?

この広い日本に
悩みながらも悩みを共有できず、苦しんでいる人はきっといると思います。

かつての私もそうでした。
現行の在りようや提唱されている方法論に違和感を感じても
どこがどうマズいのかは、わからない
どう変えたら良いのかも、わからない
その時は、とても苦しかったです。

今、悩んでいる、困っている人は、どこかにきっといる。

だからこそ、
このサイトを公開する意義があるし
このサイトを読むに値すると感じてもらえるように頑張らねば。と思います。

コメントを残す

Your email address will not be published.