介護ポストセブンに掲載されました!


食事介助についての私の提案が
介護ポストセブンに掲載されました!

こちらから ご覧ください。
https://kaigo-postseven.com/199883

内容はいつも言っていることですが
こうして世に広まる機会を作っていただけたことに感謝します。

多くの人は
食べ方の困難を自身の介助・関与から切り離し、対象者のせいにしてしまっています。
ところが、実際には、介助者の不適切な介助にすら
必死になって適応しようとして自らの能力をも低下させてしまっているのが現実です。
もちろん、対象者自身が抱える口腔関連のウイークポイントはあります。
ですが、適切な介助ができれば
ちょっとしたウイークポイントはウイークポイントのままで
食べ方を維持することが可能となります。

勇気を持って
今、目の前に起こっている事実にきちんと向き合いましょう。
先入観を捨てて、食べ方をそのまま観察しましょう。

すべては、そこから始まります。




「その人らしさを大切にする」提案(1)

 


「その人らしさを大切にする」という言葉をよく聞きますが
よくよく考えるととても難しいことです。
  
そもそも、「その人らしさ」って何でしょうか?
どういう言動がその人らしさを大切にすることで
どういう言動だとその人らしさを大切にしないことになるのでしょうか?

ここを明確にできなければ
「その人らしさを大切に」と「言う」ことはできても「する」ことはできません。

私は
「その人らしさ」とは、その方が繰り返し使ってきた言動のパターンと捉えています。
「その人らしさを大切にする」とは、その方が繰り返し使ってきた言動のパターンに沿って応対するようにしています。

たとえば
人には解決のパターンがあります。
・明るく前向きに
・論理的
・周囲への同調
などなど。
その人固有の解決のパターンに沿って説明したり対応したりするようにします。

再認可能な帰宅要求をした方には説明をしていますが
その説明の仕方もその方に応じて変えています。
明るく前向きに考える方には、明るく「今日はお泊まりなんですって」
論理的な対処をされる方には、「ご自宅では十分なお世話が難しくなったのでここに入られました」
周囲への同調という対処をしてこられた方には、「ここにいる他の皆さんも一緒にお泊まりされます」などなど。
その方固有の対処パターンに沿った説明だと再認しやすくなります。

「その人らしさを大切にしましょう」と「言う」のではなく「する」提案(2)は次の記事で。



開口してくれない方の口腔ケア:じゃあどうするか?


関与の適切さが担保されていれば
開口してくれない、開口できない、という行動には
口唇を開けてくれない、開けられない、
もしくは、
歯を噛み締めていて開けてくれない、開けられない
と大きく分けると2つのパターンがあることに気がつくと思います。
  
まず、、
口唇を開けることと顎を開くことのどちらが困難なのかを把握します。
この時に同時に頸部や体幹、上肢などのアライメントと筋緊張も把握します。
口を開けてくれないのではなくて
開けたくても開けられない
姿勢の問題、ポジショニングで対処すべき問題もあるからです。

意外に多いのが
顎の開閉は可能でも口唇閉鎖のままというケースです。
口輪筋に力が入ってしまっているので開口したくてもできない状態です。
そのような時には、口輪筋の緊張緩和を図ります。
たとえば、介助者の示指を口唇中央にそっと当てて円を描くように動かします。
この時穏やかな口調で「くちびるが楽になります」と語りかけます。
すると口唇閉鎖が緩んできますから
「そうです。いいですね。その調子です。」と語りかけます。
   
口輪筋が十分に緩めば、すぐにその方の手続き記憶を確認しながら(前記事参照)
前歯もしくは奥歯からブラッシングを始めます。
口輪筋がまだ硬くて少ししか開口しない場合には
緩んだ部分から介助者の示指を口唇の内側にいれて
決して無理やりはしないで、可能な範囲で円を描くようにマッサージを行います。
すると、だんだん口輪筋が緩んでくるので口角や下唇の裏側など
まだ緩んでいない部分のマッサージを行います。
(この時に 口唇小帯 の部分は避けるようにしましょう。)
口輪筋が十分に緩んだことを確認できたらブラッシングが可能となります。

次に
口唇は開いても歯と歯を噛み締めてしまっていて開口できない
顎がしっかり閉じてしまっている場合の対応について記載していきます。
口唇を開くことはできるので一部でも歯を見ることは可能です。
その見えている可能な範囲で(無理に範囲を広げずに)歯をブラッシングします。
穏やかな口調で
「歯を磨きますよ」「歯が綺麗になります」「お口の中がさっぱりします」
などの感覚や感情に働きかける声かけをしながらブラッシングをします。
すると、前歯からだんだんと横に歯ブラシを移動させることが可能となります。
奥歯の表側をブラッシングできたら十分に時間をかけると緩みを感じられると思います。
緩みを感じたら奥歯の上側をブラッシングします。

相手の身体とのノンバーバルコミュニケーションをとりながら介助するのです。
感受:緩んでいない→判断:まだなのね、じゃあこれ以上は無理やりはしない→行動:介助
という言葉ではない行動というもう一つの言葉を通して相手に伝える
口腔ケアという介助というを通して
相手の身体反応という行動と自身の行動という
両者の行動を介してコミュニケーションを行うのです。

当然、昨日はすぐに緩んだのに今日はなかなか緩まない
ということだって起こり得ます。
人間ですから。
逆に自身の介助だって、昨日はきちんと感受できたのに今日はちょっと強引だったかも。
ということだって起こり得ます。
人間ですから。
状況だって違うでしょうし。

  大切なことは
  常に毎回100%の完璧な実践が為されることではなくて
  常に毎回自身の関与を自覚できていること。
  少なくとも自覚しようと意思することです。
  その時起こった事実をきちんと感受し自身の認識を自覚しようと意思することです。
  この過程にゴールはありません。
  イマ、ココでの言動には
  カコ、タシャとの関係が顕在的にも潜在的にも反映されるものだからです。

奥歯の上側をブラッシングできるということは
わずかであっても歯と歯の噛み締めが減少し、顎が開いたことの証左ですから
そうなれば、もう大丈夫です。
決して焦らずにここできちんと時間をかけて
「いいですね。歯がすごく綺麗になります。」「ご協力ありがとうございます。」
と声掛けしながらブラッシングすると
もっと大きく開口できるようになりますから
奥歯の裏側もブラッシングできます。

噛み締めがきつくて上述の対応でも困難な時にはKポイントを刺激します。
いきなり指を口の中に突っ込もうとすると噛まれてしまいますから
緩んでいる口唇の間から示指を入れて
下の歯の表側と頬の間を通って顎の突き当たりまで指を入れ
歯ぐきの内側に示指を入れて該当箇所を押します。
すると開口してもらえます。
これは最後の手段として、できるだけ他の方法で
開口してもらえるように関与していきます。

口腔ケアに協力してもらえない、開口してもらえない
時には、必ずその方にとっての必然があります。(理由や原因ではなくて必然)
その必然を教えてもらいましょう。
行動を介してその方に尋ねるのです。
   
まず、開口してもらえない場面そのものをきちんと観察する情報収集から始めましょう。
「開口してもらえない時には〇〇する」というようなハウツーは卒業しましょう。
その時その場でのその関係性において関与していくことができるようになるために
まず、今、その方に何が起こっているのかを洞察できるように
そのために自身の「行動」というもうひとつの言葉(自覚的に選択された行動)で働きかけ
対象者の「反応行動」というもうひとつの言葉をきちんと聴くことから始めましょう。

開口してくれない方の口腔ケア:介助の問題


開口してもらえないと口腔ケアが難しくなります。
すると、往々にして「どうしたら開口してもらえるか?」
という問いが立てられます。

そうではなくて
まず、口腔ケアを促した時にどのような反応が返ってくるのか
どんな風に口を開けてもらえないのか
どんな風に拒否をするのかを
きちんと観察することから始めることが必要です。

驚くべきことに、この部分をきちんと観察している人は
ものすごく少ないと言っていいでしょう。
逆に、きちんと観察している人は
所属組織の中での現状把握の乖離の大きさに
とても困っているのではないでしょうか。
  
言葉にならないもうひとつの言葉、行動をきちんと観察しましょう。
何が起こっているのかを観察し
習得してきた知識をもとに洞察しましょう。
 
同時に、有効な情報を得るためには
まず、こちらが適切な促しをできていることが必要です。
臨床でおろそかになりがちなのは
・声はかけてもアイコンタクトはしていない
・歯ブラシをきちんと見せることなく口の中に歯ブラシを突っ込む
というような関わりです。
このような介助では、口腔ケアを拒否して当たり前だと思いますし
仮に、今は口腔ケアを受け入れてもらえたとしても
後になって対象者の「相手に合わせる」能力が低下した時に
蓄積した「感情記憶『嫌だな』」を想起して拒否することになっても当然だと思います。
そしてその経過への配慮なく問題視してしまう。。。

口腔ケアをする時には
必ずアイコンタクトを促してから、次に声かけ
歯ブラシを見せて、
対象者がきちんと歯ブラシを見たことを確認してから
歯ブラシを横に数回動かします。
この動作は、言葉という聴覚情報だけではなく視覚的情報を提示することで
「歯磨きをする」ということはどういうことなのか、再認を促しています。
それから「あー」と言ったり「いー」と言ったりします。
歯磨き→「大きく開口する」ことが
その方の「歯磨き」という手続き記憶であれば「あー」と声をかけ
口腔内に歯ブラシを入れて奥歯から磨き始めます。
歯磨き→「前歯から磨き始める」ことが
その方の「歯磨き」という手続き記憶であれば「いー」と言って
前歯からブラッシングを始めます。

以前に「再生と再認」の可否を確認する
という説明をしましたが
再生と再認の可否の確認しておくと、対応の工夫にものすごく活用できます。
重度の認知症のある方でも再認可能な方はとても多いものです。
(そしてこのことは、あまり知られていない)
また、手続き記憶は残りやすいと言われていますが
ADLはまさしく手続き記憶の宝庫です。
だからこそ、介助者が対象者の手続き記憶ではなく
自身の手続記憶で対応してしまいがちで、しかもそのことに無自覚なのです。
介助者の手続き記憶と対象者の手続き記憶の違い
(たとえば、歯をどこから磨くか)は手続き記憶だからこそ自覚しにくい
(違って当たり前なのに)ということはもっと強調されて然るべきものです。
そして手続き記憶のズレは強烈な違和感を生じさせるものですが
介助者自身は「手続き記憶のズレ」という体験を
受けたことがないのでさらに自覚しにくい。
その結果、自身の手続記憶を押し付けてしまい
「拒否」や「介助に協力してもらえない」と判断しがちです。
自身の関与を振り返ることができないと
対象者に「介護抵抗」「介助拒否」というレッテルを貼って
「関係性の中で生じている問題」を「対象者の問題」にすり替えてしまう。。。
本当に現場あるあるです。

「認知症のある方に寄り添ったケア」という理念を具現化するとは
声高に唱えることなんかではなくて
こういう日々のケアひとつひとつに誠実に向き合うことです。
介助者自身の手続き記憶を自覚する
対象者の手続き記憶を模索することから始めましょう。
「あなたの歯磨きの手順はこうですか?」
と言葉ではなく動作介助というもうひとつの言葉で尋ね
対象者が開口するか、もっと強く拒否をするのか、
言葉ではない、反応行動というもうひとつの言葉を聴きとります。

適切な関与とは
決して、単に敬語を使うことをはじめとする接遇にとどまりません。
もちろん、接遇の重要性を否定するものではありませんが
認知症は脳の病気ですから
もっと障害や能力という観点での対応が必要です。
そして、再認という能力発揮を促せるようになるためには
生活歴や手続き記憶、特性という情報収集が本当に必要です。
  
でも、実際の現場では
「その人らしさを大切に」
「その人に寄り添ったケア」
と声高に唱えられることはあっても
実際にそれらの情報の活用の仕方について具体的に説明を受けたことは
あんまりないのではありませんか?
だから、認知症の普及啓発がこれだけ進んできているのに
講習の内容が旧態依然とした理念の提示や
スローガンの提示程度にとどまってしまっていて
現場で必死になって本当に「認知症のある方の役に立てるように」働こうとしても
じゃあ、どのように考えたら良いのか
本当に役立つような指針が得られなくて、辛くて、あまりに辛いからこそ、
そのうち初心に目をつぶって目の前の現実に押し流されてしまうことを
選ぶしかなかった人だっているのではないかと思います。

そんな人に向けて
このサイトがあります。
_研修会も開催_します。
  
次の記事では、じゃあどうしたら良いのか
開口してくれない方への口腔ケアについて
具体的に記載していきます。

「脱・ハウツー」のススメ


私がすごく疑問に感じるのは
「その人らしさを大切に」「認知症のある方に寄り添ったケア」と唱えていても
実際の実践は、単にハウツーの当てはめをしているだけというケースが多いことです。
「〇〇という時には△△する」
これのどこが、その人らしさを大切にしていることなのか、寄り添っているのか
私にはさっぱり理解できません。

たとえば
帰宅要求がある方に対して
「お茶を飲んでいただく」「タオルを畳んでいただく」
などの気をそらす対応が為されています。

諸般の事情で、そうするしかない時だって、もちろんあるとは思います。
そのような時には、望ましい対応でも適切な対応でもないことを自覚した上で
気をそらせる対応をするしかないからするのだと自覚しつつ行えば良いのです。
けれど、実は、
「気をそらせる=良い対応」と思い込んで為されているのではないでしょうか?
帰宅要求に対して、気をそらせるような対応は
決して望ましい対応でも適切な対応でもありません。
だって、もしも上述の対応が良い対応だとしたら
どれだけ上手く気をそらせられるか、どれだけ上手く誤魔化せるか
ということが良い対応ということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症と人権擁護がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求を訴えている人はいない。みんな必死だ。」
とおっしゃっていました。
本当にその通りだと思います。

この問題はとても根深くて
「帰宅要求→気をそらせる」は表面的な表れに過ぎず
実はもっと根本的な問題があって、それは
「帰宅要求→どうしたらおさめることができるか」
という発想のもとに対応が展開されてきたことにあると考えています。

それって、下図のような思考過程(本当は思考ですらない)
で為される対応です。
帰宅要求だけを切り取って、どうしたら帰宅要求がなくせるか
考える。という対応です。


私が実践し提案してきていることは、まったく違うことです。


上図の通り、まず、きちんと情報収集をします。
目の前に起こっている、一見すると不合理な言動、
たとえば、帰宅要求をしている場面そのものをきちんと観察します。
知識があれば、その場面に反映されている、
その方の能力と障害と特性を見出すことができます。
見出すことができれば、その方に今、何が起こっているのかを洞察することができます。
洞察することができれば、どうしたら良いのかを判断することができます。
それは、自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは、その判断を具現化できる技術があれば良いだけです。

錯綜した現実を解きほぐす
そのためには、知識が必要です。
知識がなければ、単に「何度も繰り返し帰りたいと言う」ことしかわかりません。
知識があれば、近時記憶障害があっても再認可能だから説明しよう。
という判断ができますし
説明する時には口調に気をつけて、伝わりやすい言葉を選択しよう。
といった、その方の特性も理解できているからこそ可能な判断ができます。

観察の解像度を上げる

きめ細やかに現実を解きほぐせるほど
より的確な対応がその時々、その方それぞれに可能になる所以です。

ポジショニングの現状とまったく同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

どうしたら良いのかがわからないのではなくて
何が起こっているのかがわからないのです。
だとしたら、「自分にはわからない」という事実にきちんと向き合って
錯綜した現実を解きほぐせるように
情報収集からやり直せば良いだけです。
その繰り返しで、パッと観てパッと洞察できてパッと対応できるようになります。
知識を習得しようとしない人や情報収集の過程をすっ飛ばす人には
結局、何が起こっているのか皆目わからないでしょうし
その人ができていなくて、私がやっていることとの違いもわかりません。
本当に違うのは、実際にやっていることではなくて
実践を下支えしている観察・洞察なのです。

今、本当に問われているのは
どう対応するか、ではなくて
観察、洞察、評価が不十分だという、私たちの側の問題なのです。
だからこそ、今すぐにでも改善可能なのです。

「その人らしさを大切にする」
「寄り添ったケア」
という高邁な理念は唱えているだけでは決して実現できません。
理念は唱えるものではなく、実践の際のもう一つの指針となるものです。

第9回勉強会「生活歴とその人らしさがなぜ重要か?」


認知症のある方への対応をテーマとした研修会に出席すると
「生活歴が重要」
「その人らしさを大切に」
という言葉によく出会うと思います。

でも
なぜ生活歴が重要なのか?
その人らしさを大切にするとはどういうことなのか?
どういう言動がその人らしさを大切にしていて
どういう言動がその人らしさを大切にしないことになるのか?
明確に言葉で説明してもらったことがありますか?
理念的に言われることはあっても
どのように評価の根拠となるのか、
どのように対応の工夫に活かすのかという説明を受けたことのある人は
非常に少ないのではないでしょうか?
生活歴やその人らしさを対応の工夫にこんな風に活用していますと
具体的に明確に言語化して説明できる人がどれだけいるでしょうか?

今回の勉強会では
生活歴を聴取する意義やその活用の仕方
その人らしさを把握する意義やその活用の仕方
聴取困難な方への把握の仕方についてご説明します。
(その一端を次の記事とその次の記事で記載していきます)

私の話は
どのテーマでも理念を語って終わりではありません。
理念をどのようにしたら具現化できるのかというところまで深掘りしています。
認知症のある方に本当に役に立てるようになりたいと願っている方には
他では決して聞くことのできない貴重な内容を提供していると自負しています。
タイパやコスパを優先する人にはピンとこないかもしれませんが
本質を追求したい人にはきっとご満足いただけると思います。
職種問わず、どなたでもご参加いただけます。

2025年11月1日(土)19時〜20時30分
おだわら市民交流センターumeco(小田原駅東口徒歩3分)第7会議室
https://umeco.info/use/access/
参加費:500円
事前申込:https://forms.gle/x4Z16wt3KsH62s8r6 からお申し込みください。
     


ICD11を意識して会話する


会話も大切な情報源ですが
ただ、なんとなく会話しているだけだと
大切な情報をどんどん見落としてしまいます。

「お話ができるから認知症じゃない」
なんて安易な言葉を聞くことがなくなる日が1日も早く来ることを祈っています。

そうならないためには
2022年に発効された、 _ICD11_ の7兆候を意識すると良いと思います。
・記憶
・遂行機能(実行機能)
・言語
・注意
・社会的認知・判断
・視覚的理解・認知
・精神反応速度

記憶については
近時記憶を意識するのはもちろんですが
再生と再認の可否についても意識して質問することも大切です。
対応の工夫に直結するからです。



真の問いには答えがついてくる


アーシュラ・K・ル=グウィンの
「西のはての年代記 II ヴォイス」p.177に
「わたしたちの求めるのは真の答えではない。
 我々の探す迷子の羊は真の問いだ。
 羊の体のあとにしっぽがついてくるように
 真の問いには答えがついてくる。」
という言葉があります。

この本はファンタジーですが
リアルな世界で現実に起こっていることを
仮想の物語として教えてくれます。
難解な神のお告げを人々に伝える、優れた「読み手」の言葉として記されたのが冒頭の言葉です。

この言葉に触れた時に、衝撃を感じました。
あまりに端的に明確に言い当てられたように感じたからです。

私は常々、評価・状態把握・アセスメントの重要性を説いています。
_「車椅子で前傾してしまう方への対応」_ にも記載してありますので
もしよかったらご参照ください。

私は過去に
様々な主催者から様々なテーマで多数の講演依頼を受けてきました。
講演後の質疑応答で良くあるのが
「〇〇という状態の方がいるんですけど、どうしたら良いのでしょうか?」という質問です。
講演内で「表面的に問題を捉えるのではなく、どんな障害と能力が反映されているのかを捉える」
ことの必要性を事例をあげて強調したにもかかわらずです。
それだけ、「〇〇という時には△△する」というハウツーを当てはめる思考過程(思考ですらないと思いますが)が現場では蔓延しているのだと思います。
「対応の引き出しを増やす」という言い方で
多くのハウツーを知ることが奨励されたりしています。。。
そして、あてはめたハウツーが適切かどうかもわからないので
効果があったかどうかも確認することすらできないでいるのです。。。

どうしたら良いのか分からずに困っているのではなくて
実は、その方に何が起こっているのかわからなくて困っているのだから
何が起こっているのかをわからなくてはなりません。
そして、何が起こっているのかがわかっていないという自分自身にきちんと向き合い
どうしたら、何が起こっているのかをわかることができるようになるのだろう?
と自分自身に問いかけなければなりません。

ところが、多くの人はこれらの過程をすっ飛ばして
「どうしたら良いのか?」と他者に尋ねるのです。
あるいは、カンファレンスとして皆で相談・検討しあうのです。

どうしたら良いのかは
何が起こっているかがわかれば
自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは浮かび上がってきたものを具現化すれば良いだけです。
(その技術にも熟練が必要ではありますが)
ここをすっ飛ばしてしまえば
誰に聞いても
どんなにたくさんの人と相談したり考えたりしても
「結果が出ない」「有効な方策とならない」
のは当たり前の話です。

何が起こっているのかは
その時その場にいるその人にしかわからないのに。
関与する人の在り方が変われば、認知症のある方の能力をどこまで引き出せるかも変わります。
(そんなことは自分自身を振り返れば当たり前にしていることではありませんか?)
認知症のある方自身の中でも、障害と能力は変動します。

その場にいない人にわかるわけがないのに
一番わかるはずの自分自身に問いかけるのではなく
他の人に尋ねるのです。

答えは
その時その場にあるのに
どこか他にあると思っているのです。

たぶん
養成過程や卒後の就職先や研修でも
そのような臨床姿勢しか知ることがなかったのだと思います。
かく言う私だって、教えてもらえたことはありませんでした。
そして、長い試行錯誤の果てに、ようやく臨床姿勢こそ重要なのだとわかるようになったのです。

でも、
今まで問い方を間違えていたのなら修正すれば良いだけです。
ズレた問いだから、ちゃんとした答えが返ってこずに結果も出なかった。
だとしたら、真に問うことができるようになれば
ちゃんとした答えが返ってくるし結果も出せるようになります。

自分自身の臨床姿勢、在り方こそが問われているのです。

一度、問い直す道を選ぶことができたなら
2度とハウツーの当てはめなどできなくなります。
それがどれだけ不毛なものか、よくわかるからです。
そして、問い直しの道は生涯続きます。
わかったと思ったことでも
時を経て、状況を変えて、同じことは何度も形を変えて繰り返し起こります。
そのたびごとに何回もわかり直します。
より深くより実感を持ってわかり直すことができるようになります。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。
今、本当に問われているのは、基本的な臨床姿勢なのです。


HDS-RとMMSEの扱い方


HDS-Rを施行すると、怒り出してしまう方がたくさんいます。

検査は大事ですが
検査しなくても観察から検査と同等の洞察ができれば
認知症のある方の心身の負担を減らすことができるとずっと思っていました。

そのため
HDS-Rやかなひろいテストをする一方で
日常生活や会話の質的内容や行動との照合をずっと行なってきました。

HDS-Rの項目の意義や生活場面への反映について
それなりに洞察ができるようになり
ある時から、観察だけでもかなりHDS-Rの予測がつくようになり
生活場面への反映がわかってきたので
HDS-Rの検査場面でちょっと1工夫することも始めました。
詳細は 「対応に役立つHDS-Rの工夫」 をご参照ください。

ところが、これだけ認知症の普及啓発がなされている現状でも
実際に働いている職員の中には
「リハに支障がない」「従命可=認知症じゃない」「会話が弾む」「気遣いができる」
という程度の根拠で
「認知症じゃない」「年相応の物忘れ」
などと、安易に無責任な判断をする人がまだまだ多いという現実にびっくりしています。

年相応の物忘れと判断された方のHDS-R10点でしたし
認知機能低下に言及もされなかった方のHDS-Rは5点ということもありました。

その場の会話が成り立って、礼節表現が多かったり冗談を言えたりすると
明らかに生活に影響が生じているはずなのに、認知機能低下が見落とされてしまう。。。
ご家族や生活の支援をする介護職は困っているのに
一部のリハ職はまったく気づいていないという。。。

ひとつには
認知症、認知機能低下という概念の理解ができていない職員側の問題がありますし
他方
他者に合わせようとして生きてきた方、他者に合わせるタイプの方は
生活場面で認知機能低下が目立ちにくいという傾向があります。
たとえば、困った時わからない時には誰かに尋ねて返ってきた答えの通りに対応する方や
自分から何かしようとはせず指示があるまではじっと待っている方は
生活場面では「穏やかな方」「良い方」といった判断がなされがちで
近時記憶低下があったとしても生活場面で表面化しにくいので見落とされてしまいます。
また、俗に言う地頭の良い方、元来認知機能が高かった方は
記憶が低下してもその場限りのことはできる部分が多いのでこれまた見落とされがちです。
  
職員がMMSEをとった場合に
(HDS-Rは標準化されていないので検査するならMMSEが良いと主張する人もいます)
MMSEはHDS-Rとは違って、検査項目が記憶だけでありません。
得点結果だけで判断してしまうと状態を見誤ります。
同じ30点満点でも、その意義、どの項目で失点してどの項目で得点したかは全く異なります。

実際に
他院でMMSEが10点代後半、疎通も良好で礼節も保持されていた方で
他院からのリハサマリーに認知機能低下への言及がまったくなかった方とお話をしていたら
1分前にした説明を忘れてしまうくらい近時記憶が低下していたので
HDS-Rをとったら10/30点だったということがありました。
遅延再生も見当識も0点でした。
そのかわり計算や語想起は満点でした。

得点結果だけで判断してはいけないのです。

HDS-RとMMSEの違いを認識した上で使い分ける
そして、失点項目と得点項目に着目し
わからない時はどんな風に対応するのか
ということを観察しておくと
日常生活で困難に遭遇した時の行動パターンが予測できて
対応方法を明確化することに役立ちます。

嬉しかったこと


ある理由があって
Amazonの私の本を検索してみたところ
直近で__レビューを投稿__ してくださった方がいて
びっくりして読んでみたら
私がこの本で届けたかったことが
真正面から受け止められたことを知って、とても嬉しく思いました。

「認知症だから」という言葉でくくられてしまい
介助者側の不適切な関与を見直されることが少ない現状や
一見すると不合理な言動は、認知症による能力低下によって引き起こされるのではなくて
むしろ、介助者側の不適切な関与にすら適応しようとした結果
認知症のある方の能力低下を引き起こすことすらあるという現状にまず向き合ってほしい。
 
そして、介助者側の善意であったとしても知識と技術の不足や誤った判断は
教えてもらっていない、知らないことによってもたらされているのだから
まず、知ってほしい、学んでほしい、
その上でもう一度目の前で起こっていることをありのままに見つめてほしいと強く願っています。