「脱・ハウツー」のススメ


私がすごく疑問に感じるのは
「その人らしさを大切に」「認知症のある方に寄り添ったケア」と唱えていても
実際の実践は、単にハウツーの当てはめをしているだけというケースが多いことです。
「〇〇という時には△△する」
これのどこが、その人らしさを大切にしていることなのか、寄り添っているのか
私にはさっぱり理解できません。

たとえば
帰宅要求がある方に対して
「お茶を飲んでいただく」「タオルを畳んでいただく」
などの気をそらす対応が為されています。

諸般の事情で、そうするしかない時だって、もちろんあるとは思います。
そのような時には、望ましい対応でも適切な対応でもないことを自覚した上で
気をそらせる対応をするしかないからするのだと自覚しつつ行えば良いのです。
けれど、実は、
「気をそらせる=良い対応」と思い込んで為されているのではないでしょうか?
帰宅要求に対して、気をそらせるような対応は
決して望ましい対応でも適切な対応でもありません。
だって、もしも上述の対応が良い対応だとしたら
どれだけ上手く気をそらせられるか、どれだけ上手く誤魔化せるか
ということが良い対応ということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症と人権擁護がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求を訴えている人はいない。みんな必死だ。」
とおっしゃっていました。
本当にその通りだと思います。

この問題はとても根深くて
「帰宅要求→気をそらせる」は表面的な表れに過ぎず
実はもっと根本的な問題があって、それは
「帰宅要求→どうしたらおさめることができるか」
という発想のもとに対応が展開されてきたことにあると考えています。

それって、下図のような思考過程(本当は思考ですらない)
で為される対応です。
帰宅要求だけを切り取って、どうしたら帰宅要求がなくせるか
考える。という対応です。


私が実践し提案してきていることは、まったく違うことです。


上図の通り、まず、きちんと情報収集をします。
目の前に起こっている、一見すると不合理な言動、
たとえば、帰宅要求をしている場面そのものをきちんと観察します。
知識があれば、その場面に反映されている、
その方の能力と障害と特性を見出すことができます。
見出すことができれば、その方に今、何が起こっているのかを洞察することができます。
洞察することができれば、どうしたら良いのかを判断することができます。
それは、自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは、その判断を具現化できる技術があれば良いだけです。

錯綜した現実を解きほぐす
そのためには、知識が必要です。
知識がなければ、単に「何度も繰り返し帰りたいと言う」ことしかわかりません。
知識があれば、近時記憶障害があっても再認可能だから説明しよう。
という判断ができますし
説明する時には口調に気をつけて、伝わりやすい言葉を選択しよう。
といった、その方の特性も理解できているからこそ可能な判断ができます。

観察の解像度を上げる

きめ細やかに現実を解きほぐせるほど
より的確な対応がその時々、その方それぞれに可能になる所以です。

ポジショニングの現状とまったく同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

どうしたら良いのかがわからないのではなくて
何が起こっているのかがわからないのです。
だとしたら、「自分にはわからない」という事実にきちんと向き合って
錯綜した現実を解きほぐせるように
情報収集からやり直せば良いだけです。
その繰り返しで、パッと観てパッと洞察できてパッと対応できるようになります。
知識を習得しようとしない人や情報収集の過程をすっ飛ばす人には
結局、何が起こっているのか皆目わからないでしょうし
その人ができていなくて、私がやっていることとの違いもわかりません。
本当に違うのは、実際にやっていることではなくて
実践を下支えしている観察・洞察なのです。

今、本当に問われているのは
どう対応するか、ではなくて
観察、洞察、評価が不十分だという、私たちの側の問題なのです。
だからこそ、今すぐにでも改善可能なのです。

「その人らしさを大切にする」
「寄り添ったケア」
という高邁な理念は唱えているだけでは決して実現できません。
理念は唱えるものではなく、実践の際のもう一つの指針となるものです。

第9回勉強会「生活歴とその人らしさがなぜ重要か?」


認知症のある方への対応をテーマとした研修会に出席すると
「生活歴が重要」
「その人らしさを大切に」
という言葉によく出会うと思います。

でも
なぜ生活歴が重要なのか?
その人らしさを大切にするとはどういうことなのか?
どういう言動がその人らしさを大切にしていて
どういう言動がその人らしさを大切にしないことになるのか?
明確に言葉で説明してもらったことがありますか?
理念的に言われることはあっても
どのように評価の根拠となるのか、
どのように対応の工夫に活かすのかという説明を受けたことのある人は
非常に少ないのではないでしょうか?
生活歴やその人らしさを対応の工夫にこんな風に活用していますと
具体的に明確に言語化して説明できる人がどれだけいるでしょうか?

今回の勉強会では
生活歴を聴取する意義やその活用の仕方
その人らしさを把握する意義やその活用の仕方
聴取困難な方への把握の仕方についてご説明します。
(その一端を次の記事とその次の記事で記載していきます)

私の話は
どのテーマでも理念を語って終わりではありません。
理念をどのようにしたら具現化できるのかというところまで深掘りしています。
認知症のある方に本当に役に立てるようになりたいと願っている方には
他では決して聞くことのできない貴重な内容を提供していると自負しています。
タイパやコスパを優先する人にはピンとこないかもしれませんが
本質を追求したい人にはきっとご満足いただけると思います。
職種問わず、どなたでもご参加いただけます。

2025年11月1日(土)19時〜20時30分
おだわら市民交流センターumeco(小田原駅東口徒歩3分)第7会議室
https://umeco.info/use/access/
参加費:500円
事前申込:後日お知らせします。
     今すぐに予約したい方は_お問い合わせ_からご連絡ください。


ICD11を意識して会話する


会話も大切な情報源ですが
ただ、なんとなく会話しているだけだと
大切な情報をどんどん見落としてしまいます。

「お話ができるから認知症じゃない」
なんて安易な言葉を聞くことがなくなる日が1日も早く来ることを祈っています。

そうならないためには
2022年に発効された、 _ICD11_ の7兆候を意識すると良いと思います。
・記憶
・遂行機能(実行機能)
・言語
・注意
・社会的認知・判断
・視覚的理解・認知
・精神反応速度

記憶については
近時記憶を意識するのはもちろんですが
再生と再認の可否についても意識して質問することも大切です。
対応の工夫に直結するからです。



真の問いには答えがついてくる


アーシュラ・K・ル=グウィンの
「西のはての年代記 II ヴォイス」p.177に
「わたしたちの求めるのは真の答えではない。
 我々の探す迷子の羊は真の問いだ。
 羊の体のあとにしっぽがついてくるように
 真の問いには答えがついてくる。」
という言葉があります。

この本はファンタジーですが
リアルな世界で現実に起こっていることを
仮想の物語として教えてくれます。
難解な神のお告げを人々に伝える、優れた「読み手」の言葉として記されたのが冒頭の言葉です。

この言葉に触れた時に、衝撃を感じました。
あまりに端的に明確に言い当てられたように感じたからです。

私は常々、評価・状態把握・アセスメントの重要性を説いています。
_「車椅子で前傾してしまう方への対応」_ にも記載してありますので
もしよかったらご参照ください。

私は過去に
様々な主催者から様々なテーマで多数の講演依頼を受けてきました。
講演後の質疑応答で良くあるのが
「〇〇という状態の方がいるんですけど、どうしたら良いのでしょうか?」という質問です。
講演内で「表面的に問題を捉えるのではなく、どんな障害と能力が反映されているのかを捉える」
ことの必要性を事例をあげて強調したにもかかわらずです。
それだけ、「〇〇という時には△△する」というハウツーを当てはめる思考過程(思考ですらないと思いますが)が現場では蔓延しているのだと思います。
「対応の引き出しを増やす」という言い方で
多くのハウツーを知ることが奨励されたりしています。。。
そして、あてはめたハウツーが適切かどうかもわからないので
効果があったかどうかも確認することすらできないでいるのです。。。

どうしたら良いのか分からずに困っているのではなくて
実は、その方に何が起こっているのかわからなくて困っているのだから
何が起こっているのかをわからなくてはなりません。
そして、何が起こっているのかがわかっていないという自分自身にきちんと向き合い
どうしたら、何が起こっているのかをわかることができるようになるのだろう?
と自分自身に問いかけなければなりません。

ところが、多くの人はこれらの過程をすっ飛ばして
「どうしたら良いのか?」と他者に尋ねるのです。
あるいは、カンファレンスとして皆で相談・検討しあうのです。

どうしたら良いのかは
何が起こっているかがわかれば
自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは浮かび上がってきたものを具現化すれば良いだけです。
(その技術にも熟練が必要ではありますが)
ここをすっ飛ばしてしまえば
誰に聞いても
どんなにたくさんの人と相談したり考えたりしても
「結果が出ない」「有効な方策とならない」
のは当たり前の話です。

何が起こっているのかは
その時その場にいるその人にしかわからないのに。
関与する人の在り方が変われば、認知症のある方の能力をどこまで引き出せるかも変わります。
(そんなことは自分自身を振り返れば当たり前にしていることではありませんか?)
認知症のある方自身の中でも、障害と能力は変動します。

その場にいない人にわかるわけがないのに
一番わかるはずの自分自身に問いかけるのではなく
他の人に尋ねるのです。

答えは
その時その場にあるのに
どこか他にあると思っているのです。

たぶん
養成過程や卒後の就職先や研修でも
そのような臨床姿勢しか知ることがなかったのだと思います。
かく言う私だって、教えてもらえたことはありませんでした。
そして、長い試行錯誤の果てに、ようやく臨床姿勢こそ重要なのだとわかるようになったのです。

でも、
今まで問い方を間違えていたのなら修正すれば良いだけです。
ズレた問いだから、ちゃんとした答えが返ってこずに結果も出なかった。
だとしたら、真に問うことができるようになれば
ちゃんとした答えが返ってくるし結果も出せるようになります。

自分自身の臨床姿勢、在り方こそが問われているのです。

一度、問い直す道を選ぶことができたなら
2度とハウツーの当てはめなどできなくなります。
それがどれだけ不毛なものか、よくわかるからです。
そして、問い直しの道は生涯続きます。
わかったと思ったことでも
時を経て、状況を変えて、同じことは何度も形を変えて繰り返し起こります。
そのたびごとに何回もわかり直します。
より深くより実感を持ってわかり直すことができるようになります。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。
今、本当に問われているのは、基本的な臨床姿勢なのです。


HDS-RとMMSEの扱い方


HDS-Rを施行すると、怒り出してしまう方がたくさんいます。

検査は大事ですが
検査しなくても観察から検査と同等の洞察ができれば
認知症のある方の心身の負担を減らすことができるとずっと思っていました。

そのため
HDS-Rやかなひろいテストをする一方で
日常生活や会話の質的内容や行動との照合をずっと行なってきました。

HDS-Rの項目の意義や生活場面への反映について
それなりに洞察ができるようになり
ある時から、観察だけでもかなりHDS-Rの予測がつくようになり
生活場面への反映がわかってきたので
HDS-Rの検査場面でちょっと1工夫することも始めました。
詳細は 「対応に役立つHDS-Rの工夫」 をご参照ください。

ところが、これだけ認知症の普及啓発がなされている現状でも
実際に働いている職員の中には
「リハに支障がない」「従命可=認知症じゃない」「会話が弾む」「気遣いができる」
という程度の根拠で
「認知症じゃない」「年相応の物忘れ」
などと、安易に無責任な判断をする人がまだまだ多いという現実にびっくりしています。

年相応の物忘れと判断された方のHDS-R10点でしたし
認知機能低下に言及もされなかった方のHDS-Rは5点ということもありました。

その場の会話が成り立って、礼節表現が多かったり冗談を言えたりすると
明らかに生活に影響が生じているはずなのに、認知機能低下が見落とされてしまう。。。
ご家族や生活の支援をする介護職は困っているのに
一部のリハ職はまったく気づいていないという。。。

ひとつには
認知症、認知機能低下という概念の理解ができていない職員側の問題がありますし
他方
他者に合わせようとして生きてきた方、他者に合わせるタイプの方は
生活場面で認知機能低下が目立ちにくいという傾向があります。
たとえば、困った時わからない時には誰かに尋ねて返ってきた答えの通りに対応する方や
自分から何かしようとはせず指示があるまではじっと待っている方は
生活場面では「穏やかな方」「良い方」といった判断がなされがちで
近時記憶低下があったとしても生活場面で表面化しにくいので見落とされてしまいます。
また、俗に言う地頭の良い方、元来認知機能が高かった方は
記憶が低下してもその場限りのことはできる部分が多いのでこれまた見落とされがちです。
  
職員がMMSEをとった場合に
(HDS-Rは標準化されていないので検査するならMMSEが良いと主張する人もいます)
MMSEはHDS-Rとは違って、検査項目が記憶だけでありません。
得点結果だけで判断してしまうと状態を見誤ります。
同じ30点満点でも、その意義、どの項目で失点してどの項目で得点したかは全く異なります。

実際に
他院でMMSEが10点代後半、疎通も良好で礼節も保持されていた方で
他院からのリハサマリーに認知機能低下への言及がまったくなかった方とお話をしていたら
1分前にした説明を忘れてしまうくらい近時記憶が低下していたので
HDS-Rをとったら10/30点だったということがありました。
遅延再生も見当識も0点でした。
そのかわり計算や語想起は満点でした。

得点結果だけで判断してはいけないのです。

HDS-RとMMSEの違いを認識した上で使い分ける
そして、失点項目と得点項目に着目し
わからない時はどんな風に対応するのか
ということを観察しておくと
日常生活で困難に遭遇した時の行動パターンが予測できて
対応方法を明確化することに役立ちます。

嬉しかったこと


ある理由があって
Amazonの私の本を検索してみたところ
直近で__レビューを投稿__ してくださった方がいて
びっくりして読んでみたら
私がこの本で届けたかったことが
真正面から受け止められたことを知って、とても嬉しく思いました。

「認知症だから」という言葉でくくられてしまい
介助者側の不適切な関与を見直されることが少ない現状や
一見すると不合理な言動は、認知症による能力低下によって引き起こされるのではなくて
むしろ、介助者側の不適切な関与にすら適応しようとした結果
認知症のある方の能力低下を引き起こすことすらあるという現状にまず向き合ってほしい。
 
そして、介助者側の善意であったとしても知識と技術の不足や誤った判断は
教えてもらっていない、知らないことによってもたらされているのだから
まず、知ってほしい、学んでほしい、
その上でもう一度目の前で起こっていることをありのままに見つめてほしいと強く願っています。

ポジショニングあるある:座位で体幹前傾

上図のように
車椅子上で体幹が前傾してしまう
背もたれに寄りかかるように動作介助しても
身体が硬くてすぐに前傾してしまう方っていますよね?
ティルト型車椅子に変更してもやっぱり前傾してしまう
食事も自力摂取できるけど
摂取しているとどんどん前傾が強くなってしまう
そのような場合、どうしていますか?

カットアウトテーブルでお食事していただいても
前傾を防ぐことは難しいですよね?

車椅子上での姿勢について
車椅子上で対処しても
臥床時の姿勢、ポジショニングの見直しはされにくいのではないでしょうか?

人によりますが
実は、上述のような方の場合
骨盤と体幹の分離が不十分というケースが圧倒的に多いものです。

臥床介助の時に
立ち上がり時の動作を確認すると
腰背部を伸張した前傾ではなくて
骨盤も一緒に浮き上がってしまう。
なんなら、下肢も屈曲位のまま、浮き上がってしまい
足底接地が難しい。。。ということもあります。

臥床時は
体軸内回旋が乏しく
骨盤を動かすと下肢も体幹も一緒にゴロンと転がってしまいます。
運動麻痺があるわけでもないのに(運動麻痺があることも多々ありますが)
全身がガチガチに硬くなってしまっているのです。
そして、このガチガチの硬さに対応せずに
座位でのポジショニングしかしていない人がとても多いのです。。。

こんなにガチガチだと寝ても寝た気がしないと思いますし
おむつ交換も大変です。
臥床はしていても、臥床本来の目的である身体をゆっくり休めることができないのではないでしょうか。

こんなにガチガチに硬くなってしまうのには理由があって
1)ポジショニングをまったくされてこなかった
2)不適切なポジショニングをされてきた
どちらでも起こり得ます。

筋緊張緩和目的のポジショニングは
過剰な筋緊張をせずとも臥床できるように環境調整することが肝要です。

まず、個々人のキーポイントを見つけられるように観察します。

臨床上、最も多いのは、
骨盤の傾きや肩甲帯の不安定さを見落とされているケースです。
そこを対応するだけで身体柔軟性が発揮されるようになります。
また、下肢の伸展パターンに対しては
骨盤後傾と股関節の屈曲位を引き出すような設定をすると
伸展パターンの抑制が可能となることも多々ありますし
側臥位設定することで伸展パターンの抑制が可能となることもあります。

どうしたら良いか、途方に暮れてしまう、という人は
まず、全身のアライメントを観察してください。
ベッドの足元側から観察し、
次にベッドの右側から、左側からも観察してください。
観察が難しければ、許可を得た上で臥床時の姿勢を写真に撮り、
各関節がどうなっているのか、一つひとつ確認してください。

全身の一つひとつの関節の状態がどうなっているのかがわかり
筋緊張も把握できれば
どうしてそうなっているのかが自然と一本道のように浮かび上がってきます。
この繰り返しでアライメントを即座に観察することができるようになります。

どうポジショニングしたら良いかわからない
と言う人に限ってこの過程をすっ飛ばしていますが
「自分がわからない」という事実にきちんと向き合って
どうしたら自分自身でわかるようになるのかを考え対処しない限り
永遠にわからないままです。
だから、安易にハウツーに頼るしかなくなってしまうのです。
その方にとって、ハウツーが適切だったかどうかの確認もできなくなってしまうのです。

次に設定の基本を記載します。

側臥位の基本
1)肩甲帯と骨盤帯をクッションできちんとサポートする
2)下側の上下肢はきちんと引き出す
3)頭部のアライメントが適正に保持できているか、枕の高さを確認する

仰臥位の基本
1)骨盤の傾きの確認と対応
2)肩甲帯の安定性の確認と対応
3)股関節は過剰に(安静時の最大可動域以上に)外転・伸展させない
4)膝関節は過剰に(安静時の最大可動域以上に)伸展させない
5)下肢の重さを面できちんと支える
6)上記1)から5)が担保できていれば基本的には
  足部は挙上位設定(褥瘡予防のための設定)しなくても大丈夫です。
  そのかわり、足底全体がベッドに接地するように設定します。

   変形拘縮があるけれど褥瘡ができていない方に対して
   褥瘡予防という名のもとに
   変形拘縮を増悪させるようなポジショニングをしていると

   本当に褥瘡が発生してしまいます。
   そこだけを切り取って「やっぱり褥瘡予防が必要」と判断するのは本末転倒です。
   変形拘縮のある方に対しては
   筋緊張緩和を目的としたポジショニングをすべきです。
   問われるべきは、その適切さなのです。
   適切にポジショニングできれば、結果として褥瘡も発生しにくくなります。
   問題は筋緊張を緩和させるようなポジショニングを
   適切に設定できる人が少ないことなのです。   

そして、最も重要なのに、多くの人がしていないことは
ポジショニング設定後の確認です。

ポジショニングを設定したら
肘や膝を動かして、筋緊張が緩和していることを必ず確認してください。

適切に設定できていれば
設定直後から筋緊張は緩和しますから、その変化を実感できるはずです。
ガチガチだった膝を他動的に抵抗感なく左右に動かせるようになったり
体幹にピッタリくっついて動かせなかった腕を抵抗感なく体幹から離して動かせるようになります。
   
設定後に筋緊張の緩和がみられない、抵抗感を感じる場合は
設定が不適切であることの証左ですから
もう一度、全身のアライメントを確認し、設定し損ねている部分を見つけます。
設定を忘れているのか、過剰なのか、不十分なのか
見つけた部分を修正して、再設定すれば良いだけです。

臥床時に筋緊張緩和の変化を確認できれば
離床介助時の抵抗感の減少や車椅子座位時の姿勢の変化が目で見てはっきりとわかるようになります。
車椅子上で体幹が前傾して背もたれに寄りかかることができなかった方が
背もたれに身体をストンと預けて座れるようになります。
そうなればカットアウトテーブルも不要になります。
本来の上肢機能を発揮できるようになるので
適切なスプーンの選択・提供(ここがまた問題ですが)によって、
スムーズに食事を自力摂取できるようになってきます。

車椅子座位姿勢の問題は、座位だけで対処を考えるのではなくて
車椅子座位姿勢には、その方の困難も能力も反映されているので
本来の能力発揮を阻んでいる環境を変更することによって
本来の能力を発揮した状態で過ごせるようになる。
その環境調整の手段の一つが臥位でのポジショニングであり

臥位で能力が発揮できるようになった結果の現れが
車椅子座位姿勢の変化ということになります。

ポジショニングあるある:座位で頸部後屈

頸部後屈したまま、食事介助するのは危険です。
ここまでは、よく知られています。

ところが、じゃあどうしたら良いのか?ここは、あまり知られていません。
たいていの人は、後頭部にクッションを当てたり、頸部を中間位方向に動かします。
その結果、どうなったかというと、クッションを当てても頸部は後屈したままだし
他動的に頸部を中間位方向に動かしても「作用ー反作用の法則」でかえって後屈がひどくなってしまいます。

実は、下の図1のように、頭部を支えれば良いのです。

<図1>

支える場所は、通称「盆の窪」と呼ばれる場所です。
頭頂部に手を当ててそのまま後方へずっと手をさすりおろしていくとひっこんでいる場所があります。そこを支えるととても安定します。
試しに少し上や少し下に手を当ててみてください。
違和感を感じると思いますが、盆の窪では違和感を感じることはないと思います。

そこに手を当てるだけです。
この時点ではまだ頸部を前に向かって、前屈方向に(見た目としては中間位に)動かしてはいけません。

手を当ててしばらくすると頭の重さを軽く感じる瞬間があります。
軽く感じるということはつまり、頸部中間位方向への動きをご本人が行なえたということを意味します。
拘縮はあってもガチガチに固まっているわけではないのです。
頭の重さを支えつつ動かすことは大変でも重さを支えてもらえたので動かせるようになるのです。

<図2>

そこで、ご本人が動かせる範囲まで頭の重さを支えながら頸部中間位まで動かすと、またガチっと動かないことを感じます。
そうしたらそこで頭を支えたまま待つのです。
するとしばらくするとまた頭の重さを軽く感じるようになるので再び可能なところまで動かします。

   このエピソードは実はとても重要な意味を持っています。

  「修正するのではなく助けるという視点に立つことがポイント」なのです。
   どの職種も見た目の表面だけを見て、
   あるべき理想から差し引きマイナスで現状を捉えて
   理想に近づけるように修正しようとします。

   私が提案しているのは、
   現状という見た目から埋もれている能力を見出すということです。
   埋もれている能力を発揮しやすいように助けるということです。
   修正するか助けるか、外からは同じように見えるかもしれませんが、

   関与者の意図は真逆であり、この意図こそが対象者に伝わるのです。

話を元に戻します。
対象者の頭部の重さを支えながら食事介助をするのは大変なことです。
そんな時には支えている側の手で対象者の肩に触れることで腕の負担を軽くすることができます。(図3)

<図3>


そして忘れてはいけないことは、
座位で頸部後屈してしまうような方は臥床時の姿勢にも問題を抱えているということです。
たいていの人はどの職種であれ、
臥床時のポジショニングと座位時のポジショニングの関連性と
その意味を観察・洞察できていません。
本論のようなケースでは頸部後屈が改善できてよかったで終わりにしてしまいがちです。
そうではなくて、頸部後屈を引き起こすような身体の状態がある。
座位では頸部後屈という見た目で現れるが、
臥位ではどのように現れているのかを把握し対処すべきなのです。

図1〜3は「認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック」(日総研出版)より

と同時に
臥位でのポジショニングも見直します。



ポジショニングあるある:仰臥位で頸部前屈

高齢者施設での
現場あるあるのよくある誤解と適切な対応策についてご説明します。

臥床介助をすると
頭が持ち上がっていて枕につけることができない、頸部前屈してしまう
というケースによく遭遇します。

このような時にどのような対応がなされるかというと
そのひとつが
こんな風に頭を下に押すようにして
「頭を枕につけてくださいね」という方法です。
ところが、実際には頭を枕につけてくれるどころか
もっと頭を持ち上げられてしまって諦めた。。。という場面に遭遇したことのある人は多いはずです。
なぜなら表面的に頭を枕につけてもらおうとして頭を押すと
「作用ー反作用の法則」によって逆向きの力、頭を持ち上げようとする力が働くからです。

そこで、諦めた人が次にするのが、
下の図のように枕を高くしたり、枕の上にクッションを重ねたりして
持ち上がっている頭部に合わせた対応をしてしまうことです。

ここで、ちょっと思考実験をしていただきたいと思います。
もしよかったら、実際に体験していただくことをオススメします。

仰向けに寝ます。
頭を空中にもちあげるように、頭部挙上します。
そのままの姿勢を保ってみてください。

いかがですか?
腹筋がプルプルしてきませんか?
全身に余分な力が入ってしまっています。
そして、この状態が慢性的に続くと全身がより一層固くなってしまいます。
このような状態を放置されると
離床しても、「臥位で頭部挙上」と同じ状態つまり頸部前屈してしまいます。
そうすると食事介助も大変になってしまうんですよね。。。

じゃあ、どうしたら良いのか?
下の図のように
挙上している頭部に、介助者が枕を持って押し当てるようにします。

そして、枕を頭部に押し当てて少しだけ上に持ち上げるようにしてから
「頭を下げます」と声をかけ
ごく弱い力で少しだけ頭を下に向かって押しながら枕を持った手も下げていきます。
ここで、もしも頭を持ち上げてしまうようなら
下げるのはいったん止めて
「大丈夫ですよ」と言いながら枕をしっかりと頭部に押し当てます。
3秒くらいそのまま待ってから、もう一度
いったん頭部に押し当てた枕を手にしたままで少しだけ上に持ち上げた後で
軽く頭を下に向かって押してから枕を持った手も下げていくと
頭を枕につけて臥床することが可能となります。

つまり、一見、頸部前屈という拘縮を示しているように見えても
実は可動域制限ではなくて、筋緊張の問題、勝手に力が入ってしまっている問題
というケースの方が圧倒的に多いのです。

(もちろん、中には本当に頸部前屈位に拘縮してしまっているケースもあります。
 そんな時には、頭部とベッドの隙間を埋めるように枕を重ねる対応が適切となります。)

問題は臥床介助時に頭が持ち上がってしまうということは、常時、頸部前屈方向に力が入ってしまっているということです。
頸部前屈するように力が入り続けているから臥床させても同じ状態になってしまうのです。
そこで、そんなに力を入れなくても大丈夫なのだと伝える、どうしたら力を抜くことができるのかを伝えることが求められているのです。

ところが、見た目の頸部前屈を拘縮と誤認して
単に頭部と枕のスペースを埋めるようにクッションを当てているだけでは、
筋緊張を緩和させることができないどころか、
離床時に頸部前屈するように力を入れて座っているという不自然なあり方を増悪させてしまうことになりかねません。

そもそも、なぜ離床時にそんなに力を入れて座らざるを得ないのか、そこをきちんと評価・アセスメント・状態把握することが必要です。

よくあるのは、安楽に座れていないから頸部前屈するしかないので、
安楽に座れるように座位のポジショニングを見直すべきです。

まず股関節に着目します。
股関節の90度屈曲位を取ることが難しく臀部が前ズレしてしまうので、
滑り落ちないようにバランスを取ろうとして頸部前屈させているということが多々あります。

このようなケースでは
ティルト型車椅子を用いて、背部でも体重を支えられるようにすることで
臀部への負担を減らし、股関節を屈曲しやすい状態を作ることが可能となります。
また、クッションの前方の下に
タオルを巻いたものを滑り止めネットでくるんでから設置すると
前座高を少し上げることができますから前ズレしにくい状態を作ることができます。
この時のクッションは、少し柔らかめの素材を選ぶと
沈み込みが生じて股関節の屈曲を促しやすくなります。

  私が推奨するのは_ジェルトロン_で、いろいろな商品があります。
  デモ機器として2週間ほどのお試し使用も可能ですし
  在宅生活している方向けに、福祉用具としてレンタルも可能な商品もありますので
  ぜひ一度ご検討いただきたいと思います。
  褥瘡予防効果も高く、尿便失禁しても丸洗いできるのでとても使い勝手が良い商品です。

前ズレしなくなれば、
頭部の余分な前屈をしなくて済むようになり、
結果として臥床介助時に頭部挙上することが見られなくなるのです。

同時に臥床時のポジショニングももう一度見直します。
頭部挙上せずに寝られるようになったのですから、その状態で全身のアライメントを確認します。

ポイントは2つ

1つは
骨盤が傾いていないかどうか

2つ目は
股関節の屈曲を引き出せるかどうか
です。

仰臥位で股関節屈曲位が難しい場合は、側臥位を設定します。
そのほうが下肢の筋緊張が緩和しやすいからです。
設定後には下肢を他動的に動かして
筋緊張が緩和していることを確認します。
もし、力が抜けずに下肢を動かしづらいのであれば、
設定のどこかに無理がある証拠ですから、もう一度設定し直しましょう。

介助とは何か?

そもそも、介助とは何か
食事介助を例にとって説明します。

食事介助とは
食べさせてあげることでも、口の中に入れてあげることでもなく
目の前にいる方が食べることを援助することです。

「食べる」という行為には
その方の能力も障害も特性も反映されています。
一見障害に見える能力の不合理な発揮である代償も反映されています。

「食べる」という行為は
ある任意の環境に対する働きかけです。
その環境には、
そこがどのような場所なのか
どのような姿勢にあるのか
どのような食具(箸、スプーン、食器)で
どのような形態(常食、刻み食、ソフト食、ゼリー食)で
どのような介助方法で
どのような言葉かけで
どのような口調や態度で
提供されているのかということが含まれています。

「食べる」ことは上記環境への働きかけなので
環境が変われば発揮される能力も変わりますから
 成長とは、能力が高いとは、どのような環境でも対応できる能力があるということ
 逆に言えば、能力低下とは限定した環境でなら発揮できる能力があるということなので
 その限定した環境を見出せるかどうかが問われるということでもあります。
目の前にいる方の「食べる」ことを援助しようとすれば
その方の能力と障害と特性を把握するということは
任意の環境も明確に把握するということを意味しています。
「〇〇という環境でこの方はこんな風に食べることができる」という風に。

   だからこそ、目標を目標として設定できる
   良い目標(行動、条件、基準)を設定できる意味があるのですが
   目標設定の能力と臨床能力の相関性について認識している人は本当に少ないのです。。。

ところが、現実には
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作をしているのに
自身の操作がどうよくないのか認識できず修正もできないので
問題を相互関係の中にあると認識できずに
一方的に認知症のある方だけの問題として認識してしまう。。。
食環境を明確に把握しないままに
結果として起こっている目にみえる困難(代償を困難と誤認する)だけを切り取って
問題として設定し、どうしたらよいかと考える。。。という職員の行動パターンもよくあります。

代表的なものは、すすり食べです。
「すすって食べるのは誤嚥の恐れがるから、すすらないように食べてもらうにはどうしたらよいか?」という風に問題として設定し、どうしたらよいか検討会を開いたりします。

多くの場合に、すすり食べをするのは
うまく上唇で食塊をとりこめない、その代償として、頑張って食べようとしてすするのです。
うまく上唇で食塊をとりこめないのは
往々にして職員が上の歯でこそげ落とすような介助方法をしているというケースが多々あります。
上唇を丸めて取り込めるようになれば
代償としてのすすり食べをする必要がなくなるので
結果として、すすり食べが見られなくなる、改善されるのです。
だとしたら、まず為すべきは、職員の側がきちんとしたスプーン操作で提供できるようになることです。


ところが、現実にはご説明したように
結果として起こっている代償を含めた障害について問題として設定してしまい
その他諸々の把握しておくべき事柄について適切な把握が為されず
障害をきたしている環境因子の明確化という過程をすっ飛ばしてしまいがちです。
すすらないで食べて欲しいという善意での関与であっても
結果として、すすり食べをなくすことができない、
その時に、自らの関与の不適切さを疑うことなく
認知症が重度だから仕方ない。。。となってしまうのです。
そして、このような在り方は、食事介助に限ったことではなく
認知症のある方のBPSDや生活障害についても起こっていることです。

なぜ、そのような思考過程で対応してしまうのか、
その理由は下記のことを知らない、教えてもらっていないからだと思います。
・人は誰でも生きている限り、現行の環境において能力発揮しながら生きている
・人は誰でも環境適応しようとして生きている
・「異常な環境には異常な反応が正常だ」(クリスティーン・ブライデンの言葉)
・能力は状況と程度によって発揮される
・認知症のある方の目に見える困りごとは能力の不合理な発揮であることが多い

   新しい認知症観として
「認知症があってもできることはある」
と提示されていて、確かにそうだと思いますが、一方で
単に、Canのレベルで「できない→できる」という見方はあまりに表層的だとも思います。
なぜなら、疾患の定義上、認知症という状態像は慢性・進行性に低下していくので
今できていることでも、いつかはできなくなる時を迎えるからです。
「認知症でもできることがある」として為されている事業で
ある程度の年月が経ったところでは「以前にできていたことができなくなった」「ここでは難しくなってきた」というケースに遭遇しているはずなんです。
「できなくなったらダメなのか?」と問い返されている事態に直面しているはずなんです。
  
その答えを私は提示しています。
たくさんの認知症のある方から教えてもらってきたことです。
一見不合理に見える言動は能力の不合理な発揮でもあると。
より合理的に能力を発揮できるように環境調整が必須なのだと。
そのために、環境を明確に把握することと認知症のある方の能力も障害も特性も把握するのだと。

的確に把握できるためには、知識が必要で、知識をもとにした観察・洞察が必須なのだと。

  また、身体はつながっています。
  解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
  私の父が胃の摘出手術を受けるにあたって主治医から
  「胃を摘出しても下部食道が胃の代わりをするし、十二指腸が胃液の働きもする」
  と説明を受けた時に、人体の凄さを感じいったものです。

どのような食塊の取り込み方をするのかが
その後の咀嚼・送り込みに影響を与えないはずがありません。
事実、スプーン操作を変えることで
ガチガチだった舌が柔らかさを取り戻し、送り込みも円滑になり、喉頭が完全挙上できるようになったケースを多数経験しています。
でも、多くの人は、喉頭の不完全居城を見て「老化による喉の筋力の低下」と判断しているのです。。。

「食べる」ことが環境への働きかけであるならば
「食べる」ことに関係している身体の個々の器官も協調しあい連携しあって機能しているはずです。
身体はつながっているのですから
個々の器官が相互に影響を与え合っている、その影響をより合理的なものになるように
援助するのであって
個々の器官の影響、関係性に対して
侵害的な働きかけをしてしまってはいけないのだと感じています。

身体は外的環境に対しても内的環境に対しても適応しようとしている

だから、
その場の、環境との相互作用や身体の個々の器官との相互作用に
目には見えないものだけれど、発しているサインに鋭敏になろうとすれば
感受することができる。。。
感受した事柄の適正さを確認し続ける。。。
そのような過程の必要性を切実に実感しています。