第7回DCゼミ研修会「食事介助事例編」


来月5月31日(土)19:00〜20:30に
小田原市民交流センター第7会議室において
第7回DCゼミ主催研修会「食事介助事例編」を開催いたします。
参加費は¥500円

食事中の大声という共通するBPSD3事例に対して
まったく異なる困難と能力が反映されている状態像を踏まえた
3事例それぞれに異なる対応
の紹介はじめ
食事拒否などのいわゆる介助困難事例への「評価ー思考ー対応」の一連の過程の説明を通して、
観察から困難と能力を洞察することの重要性についてお話します。

困りごとの場面そのものに
解決へのヒントもあるということをお伝えしたいと思います。

食事拒否、口を開けてくれない、ためこんで飲み込んでくれないなどの
表面には必ずその時その方の食べることの困難と能力が反映されています。
表面だけを切り取ってどうしよう?と考えるのではなく
表面に反映されている困難と能力を洞察できるように
まず食べ方そのものを観察するところから始める人が一人でも多くなることを願っています。

お申込みは、https://forms.gle/3AeQdZhk4hT4SDaz7 からどうぞ。
お問い合わせは、_こちら_からどうぞ。


理屈で考える:「敬語を使わねばならない」


「おみ足を上げてくださいませ」

フットプレートに足を乗せて欲しいと思った職員が認知症のある方に告げた言葉です。
さて、その方は足をフットプレートに乗せられたでしょうか?
その方の生活歴の中に「おみ足」という言葉があったのでしょうか?

認知症のある方に対して敬語を使うように強く推奨する施設もあると聞きます。
たぶん敬語を使うことで敬意を表するという態度を涵養したいのかな?と思いますが
敬語って、言語表現が長くなりがちだし、婉曲表現が多いんですよねぇ。。。
認知症という状態像だと言語理解力が低下しているケースって非常に多いんですよねぇ。。。
そしてまたそのことを理解していない職員も非常に多いんですよねぇ。。。

ICD-11では認知症の定義として
記憶だけを突出して扱わずに他の6つの障害と併記されるようになりました。
そしてその全7障害の一つに「言語」があるのです。

認知症のある方に敬意を示そうとして敬語を使うことは理解はできますが
言葉は相手に伝わってこそ言葉
こちらの意図がどんなに崇高でも相手が理解できない言葉を使うのは
効果がないどころか逆効果にすらなってしまいます。
職員側のモットーやスローガンの実践はできても
目の前にいる認知症のある方の立場に立った声かけとは言い難いものです。
私が以前から提唱している声かけの工夫については_こちら_をご参照ください。
障害と能力の観点に立って視聴覚情報を整理して使い分けることを提唱しています。

敬意は非言語でも伝えることはできます。

もっというと、感情は伝わるものです。

敬意をどう示すか考える以前に
敬意を抱かざるを得ないくらいに認知症のある方の能力と特性を把握できるようになるのが先なんじゃないかな?と思いますし
認知症のある方の能力と特性を把握できないのに
表向きに敬語だけ使っても敬意は伝わらずに言行不一致を一番察するのは
当の認知症のある方だと思います。
認知症のある方の感性の鋭さは、ちゃんと接している人ならみんな実感していることだと思います。

理屈で考える:かきこみ食べ→小さなスプーン?


かきこみ食べをしている方に対して
きちんと観察をせずに
食器に小分けにして
小さなスプーンや箸を提供する。。。というのも現場あるあるです。

その結果がどうかというと
確かに1口量は少なくなったかもしれませんが
「かきこんで食べる」というパターンは変わらず
むしろ人によっては、1口量が少ないために
かえって「かきこみ食べ」というパターンが増悪してしまうことも多々あります。

この時にどう考えるか、ということが最も重要です。
  
良かれと言われている方法で対応して
その結果、逆効果となってしまったら
本来は、対応の見直しをすべきなのに
方法の再検討や見直しをどのように考えて良いのか
わからないために行うことができず
モヤモヤした気持ちを抱えながらも問題をスルーしてしまう。。。
そんな人もいるのではないでしょうか。

実は、「かきこんで食べる」という見た目のパターンには
もともと早食いだった方の食行動習慣が反映されているケースもあれば
上肢操作能力が低下していて食塊をすくいあげることが困難なために
すくわずに食べられるように「かきこむ」代償が反映されているケースもあるし
上唇でうまく取り込めないために代償としてかきこむことで食塊を取り込むケースもあります。

食塊をすくいあげることが困難なためにかきこみ食べをしていた方には、
冒頭の写真のような食器を提供しました。


すくいやすい自助食器を提供しますが
それだけでは自助食器ごと持ち上げてかきこみ食べをしてしまいますので
トレーの大きさほどの菓子箱に穴を開け、
自助食器がすっぽりと収まるようにして提供します。
そうすると見た目から
「持ち上げられない」「持ち上げるものではない」ということが認識できます。

作り方は 「かきこまずにすくって食べるトレー」 をご参照ください。

また、食行動習慣として、早食いの方には


こちらの写真のような、大きめのプレート式の食器に変更することで
「持ち上げるものではない」ことが認識でき
「スプーン操作だけで食べる」体験を提供することができて
やや早めの食べ方ではありますが、かきこんで食べるという行動は変容されました。

上唇でうまく取り込めないために代償としてかきこみ食べをしている方には
全介助で取り込みの練習をすることから始めました。

いずれも
認知症のある方の「かきこんで食べる」という行動をよく観察し
「かきこみ食べ=悪い→修正する」という考え方ではなく
「書き込み食べ」に反映されている困難と埋もれている能力を見出し
能力に働きかける環境を提供するという実践例です。

かきこみ食べをする人→小分けにして提供、小さなスプーンを提供
というパターン化した対応だと本質を見誤る恐れが非常に高く
また、そのことに気がつけないために
結果として対象者の方の食べ方はいつまでたっても改善されないどころか
かえって食べ方を増悪させたり
潜在していた別の問題を引き起こしてしまうということも起こってきます。
そして、また、そのことに気がつけないでいるので
問題が起きているのに問題を認識できず
いよいよ大きな問題となって、ようやく認識できた時には対応困難
ということも起こりえます。

パターン化した対応は、個別性の尊重とは真逆の臨床態度です。
私たちは、もう一段ステップアップして、次の段階へ進むべき時期に来ているのだと思います。

理屈で考える:褒めてあげる


「褒めてあげることが大事」って、とてもよく聞く言葉のひとつですが
よくよく考えると、これもとても変な言葉です。

そもそも、褒めるって目上の人が目下の人に対して行う行動です。
社長が社員を褒めることはあっても社員が社長を褒めることはありません。
仮に、私が所属する施設の施設長から褒められることがあったとしても
私が施設長を褒めるなんてことはあり得ません。
皆さんが所属する病院なり施設なりのトップから褒められることはあったとしても
皆さんが病院長や施設長や理事長を褒めるなんてことはあり得ません。

認知症のある方は多くの場合、関わる人よりも実際の年齢は上の方がほとんどだと思います。
長く生きてこられたということは、それだけでもう十分すぎるくらいに
幾多の困難をその人なりに、乗り越え、対処し、くぐり抜けて来られたということです。
若い人たちがこれから直面することを既に経験しているわけです。
そのような人たちに対して、どうして「褒める」なんてことができるのでしょうか?

しかも
「褒めることが大事」ではなくて、たいてい「褒めてあげることが大事」と
「あげる」という文言がついています。
なぜ、わざわざ「あげる」と言うのでしょうか?
言外のニュアンスとして「褒める必要がなくても褒めた方が良い」
といった操作的なニュアンスを感じてしまいます。

たぶん、認知症のある方がどんなに大変でどんなに頑張っているか
能力と特性を知らないんじゃないかな?と思います。
表面的な「問題行動」を「解決してあげる」側の立場に立っているんじゃないかな?
と思います。
でも、それだと本質的な改善は難しいんですよね。。。
短期的に改善したように見えても、長期的に逆効果になったりするんですよね。。。

徹頭徹尾、助けるという視点に立って
不合理な発揮をしている能力を合理的に発揮できるような環境調整をする
(この環境調整には人的環境という意味で声かけの工夫も含みます)
ということを繰り返していれば、埋もれていて見えなかっただけの能力が
たくさんあることに気がつくことができるようになるし
認知症のある方の行動変容の凄さ、人間の脳の働きの可塑性の凄さを実感できるようになるし
そのたびに、こちらにも行動変容が起こってきます。
今まで見落としていたことに気がついたり
もう一段深く理解することができたり。。。

褒めてあげる なんて操作性のある言葉ではなくて
ともに喜ぶ 体験が起こると思うんですけど。

理屈で考える:立ち上がりは前傾して踏ん張る


生活期にある方への立ち上がりの介助や指導で
身体を前傾させ踏ん張り、床反力を利用して立ち上がる
というものがありますが、理屈で考えるとおかしなことです。

上の写真のように身体を深く前傾させても身体の重心は
足裏からまっすぐ上に伸ばした黄色い線よりも後方にありますから
床反力を使っても後にひっくり返ってしまって立ち上がることはできません。
というか、床半力を使えば使うほど後にひっくり返ってしまいます。
ひっくり返らないように、身体は腰部の筋の過剰な同時収縮を起こして離臀させるしかありません。

だから、腰を痛めてしまう方が多いのではないか?
だから、初めは立ち上がりが自立できていた方でもだんだんと困難になるのではないか?
と考えています。

実際に移乗動作を介助している人は
離臀の瞬間に後方へ引かれるようなガチンとした硬さを感じているはずなんです。
本当に腰部の筋力低下が起きている場合にはガチンとした硬さではなく
ダランとして沈み込むような感じがするはずなんです。
ところが、多くの人はその違いを感じているはずなのに注意を向けずに
「見た目腰を浮かせられない=筋力低下」と図式を当てはめているだけなんです。
実際には筋力はあっても有効に使えないという状態になっているので
筋力強化をするのではなくて筋肉の使い方の再学習が必要だと考えています。

踏ん張る立ち上がりは
仮にその場で可能になったとしても
誤った身体の動かし方、誤った筋肉の使い方を再学習させてしまうことになり
頑張っているのに立ち上がりができなくなってしまいます。
そして股関節や膝関節の屈曲拘縮を増悪させてしまいます。

頑張りどころ、努力の方向性が違うのです。

私が提唱している方法論は
身体の前傾方向への動きを止めないようにする、慣性の法則を活用したものです。
筋力強化をせずとも立ち上がり自立できるようになってきますし
「重心の前方移動なおかつ転ばない」という歩行の本質体験をしているので
直接歩行練習をせずとも歩行が安定してきます。

理屈で考える:なじみの関係


「毎朝訪室して挨拶してなじみの関係になって信頼関係を作る」
という言葉をいまだに見聞きすることがあってびっくりしています。

自分のことを考えてみればわかると思いますが
毎日顔を合わせているから信頼関係ができるわけではありませんよね?
職場の同僚や先輩や上司にも、いろいろな人がいますよね?
その人が信頼に足るから信頼しているのであって
毎日挨拶したって信頼できない人は信頼できないじゃないですか。
仕事だから自分の感情は傍に置いておいて普通に接しているだけで。

認知症のある方に信頼してもらえるかどうかは
認知症のある個々の方の価値観に反した言動をしていないか
認知症のある方の困りごとを解消しようと努力しているか
ということが認知症のある方に伝わった結果として起こることです。
まずは、自分が認知症のある方の信頼に足る存在になれるように努力することが先なんです。

結果として、信頼関係ができるのであって
それを目的化するのは本末転倒だし
そもそも看護介護職員は、なじみの関係になっていなくても
入院入所の当日からケアをしなくてはならないのです。
なじみの関係になってから排泄介助をします、なんて言っている看護介護職員に会ったことはありません。

「なじみの関係になる」ことを目指すというのは
結果として起こることを目的化したり
手段を目的化してしまうということを意味しています。

私は常々、何か良いとして提唱されたツールでも
最初から除外要件が大きいものは本質ではないと考えています。
その一つが、なじみの関係です。

せっかく毎朝訪室するなら
なじみの関係になることを目的化するのではなくて
一定の時間帯でその方の言語理解力や言語表現力に変動があるかないか
あるとしたらその変動の幅を把握することを目的化した方がずっと有益だと思います。

理屈で考える:手引き歩行


30年以上前からずっと言い続けていますが
手引き歩行撲滅作戦!

お年寄りの前に向き合うように介助者が立って
お年寄りの両手を引いて歩かせる方法がいまだに為されています。。。

もちろん、狭いところでも介助歩行ができるというメリットはありますが
手引き歩行のデメリットを考慮することなく
「歩行介助=手引き歩行」周囲の人がみんなそうやっているから、
手引き歩行を行っている人の方が多いのではないでしょうか?

手引き歩行のデメリットを下記に挙げます。
1)介助者もご本人も移動先の前方を見ることができない。
  前方の安全確認をしようとするとご本人に背を向けなければならない。
2)ご本人がいざバランスを崩して倒れそうになった時に
  介助者との距離があるので助けにくい。
  無理に手を引っ張ると腕神経叢麻痺を起こす恐れもある。
3)手を通してご本人の動きをコントロールしようとしても
  複数の関節があるのでコントロールの力が伝わりにくい。
4)歩行の本質(重心の前方移動)と
  真逆の身体反応(重心の後方移動)を引き起こしてしまうので
  いつまで経っても介助から脱却できないどころか
  ますます歩きにくさを助長してしまう。
5)「前から引っ張る方法」なので、心理的にも「寄り添う」のではなく
  介助者に依存させてしまう恐れが高い。

というわけで
私は側方から骨盤を支える介助歩行をしています。
(たぶん、リハスタッフで似たような思いをしている人はきっと多いのではないでしょうか。。。)

骨盤からの側方介助であれば
1)ご本人も介助者も同じように前方を見ることができます。
2)ご本人がバランスを崩しても骨盤を支えているので転倒防止が容易です。
3)複数の関節をまたぐことなく直接骨盤から介助するので
  途中でコントロールが抜けてしまうことがないし
  繊細なコントロールも可能です。
4)歩行の本質に沿った介助が行えるので
  段階的に介助量の調整も可能です。
5)横に立って歩行介助するので
  文字通り見た目も心理的にも「寄り添った」介助の実践ができます。

歩幅が狭く下肢が前に出にくい方に
骨盤からごくわずかに重心移動を介助することで
スムーズに足が前に出て歩幅も広く歩けるようになった方の経験もあります。

理屈で考える:帰宅要求には気を逸らす


「家に帰りたい」「早く帰らなきゃ」と帰宅要求や帰宅願望があった時に
たいていの人は気をそらせるような対応をしようとします。
「お茶でもいかが?」
「タオルでもたたんでいただけますか?」
「外は寒いし」
「明日にしましょうか」

他の方の介助があったりして、
そうするしかない時もあるかとは思いますが
いざ、時間があってしっかりその方に向き合える時にも
実は同じような対応をしていませんか?

気をそらせるような対応というのは
時間干渉や動作干渉によって「訴えを忘れてもらう」ことを期待した対応です。
確かにそのような対応が功を奏するように見えたからこそ
今まで連綿と受け継がれてきたのだと思います。

でも、それって本当に
認知症のある方に寄り添ったケアのあり方なのでしょうか?

多くの人は心のどこかで
「帰宅要求→おさめる」
「帰宅要求→話を聞いたら収拾がつかなくなる→気をそらせる」
という予期不安にとらわれているから、気をそらせるような対応をするのだと思います。

齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求する認知症の人はいない」
と言っていました。必死になって訴えていると。

表面的に帰宅要求をなくさせようとする対応は
言葉にはしていなくても
「あなたの訴えを聞くつもりはありません」と態度で伝えてしまっています。

認知症のある方に、相手に合わせるという能力があれば
「いつも良くしてくれるこの人の言う通りにしないと申し訳ない」
「この人には言ったって仕方ない」などと、
表面的に訴えをおさめる協力をしてくれるかもしれません。

こちらに合わせてくれる能力があるから「帰宅要求をしなくなった」ように見えるだけですが
帰宅要求をおさめることを目的としていた人にとっては「成功」と思えるのも理解できます。
実際には単に我慢を要請していただけなので長期的には逆効果となってしまいます。
認知症の進行に伴い、相手に合わせる能力が低下した時に
過去の体験を再認して、一層大きな怒りとなって表出します。
「どうせ、あんたたちは聞く気もないんだろう!」
「そんなことばっかり言って!」
「私をバカにしてるんだから!」
認知症のある方がそう言っているのを何回聞いたことでしょう。
そしてまた、そこだけを切り取って「帰宅要求顕著」「易怒的」と私たちは判断してしまいがちです。。。

帰宅要求があった時に
「何があったのか?」
「どうしてそこまで帰ろうとするのか」
「もし帰らないと何が起こるのか」
もう一段踏み込んで話を聞くだけで自然と帰宅要求が収まることも多々あります。
ただし、聞き方には配慮が必要です。
まず第一に「あなたの困りごとを一緒に解決したい」
という気持ちが伝わらなければ
認知症のある方も目の前にいる固有の人に話してみようとは思わず
自身の気持ちを表明するだけになってしまいます。
なぜなら過去に散々気をそらせる対応、すり替える対応をされてきたからです。

どんなに重度の体験を通して再認できる方はたくさんいます。
そのことを知らない人が多すぎなんです。

帰宅要求がで困っているのは認知症のある方なのに
帰宅要求を表面的に収めようとするあり方は誰の困りごとに対する姿勢なのでしょう?
認知症のある方の困りごとが解決するから結果として職員の側の困りごとも解消するのに
最初から職員の側の困りごとを解決しようとして対応を考えているのではないでしょうか?

帰宅要求があったら
まず第一に認知症のある方のお顔を見ましょう。
本当に困った表情、必死になった表情をしています。
その顔を見ても、気をそらせるような対応ができますか?

「食べるチカラを活かす食事介助:実技編」


第6回DCゼミ研修会「食べるチカラを活かす食事介助:実技編」を
2025年4月18日(金)19時〜20時30分に
小田原市民交流センターUMECOの第7会議室にて開催いたします。

実技がありますので
ご自身で使う、ティースプーン・カレースプーンとヨーグルトorゼリーorムースなどを忘れずにご持参ください。
参加費は¥500円です。

前回、摂食・嚥下5相に基づいた食べる機能解剖のお話をいたしました。
そのご説明に基づいた食事介助の基本についてご説明します。
冒頭の写真は、現場あるあるのやってはいけないスプーン操作の場面です。
なぜ、いけないのか。
じゃあ、どうしたら良いのか。
多くの人は明確に言葉で教えてもらったことがありません。

このようなスプーン操作の違いがどれだけ食べにくくなるのか
介助、被介助と身体の動きを観察する役目という体験を通して学ぶことができます。

お申し込みは下記のURLからお願いいたします。

https://forms.gle/GkfUKLKYdXyzS8YXA

前回の知識編を受講していない方でもご参加いただけます。
お申込をお待ちしています。
お問い合わせは、https://yoshiemon.info/contact/ へお願いします。

理屈で考える:ムセたらトロミ


ムセたら食事を中止する人も多いけど
ムセたら飲み物にすぐにトロミをつける人もとても多いですよね。

確かに、
トロミは飲み物の粘性を高めてゆっくり通過するので
喉頭挙上のタイミングが遅い人には有益だったりします。

ですが、
ムセたからトロミをつけたのに、まだムセる方もいます。
そうするとすぐに、もっとトロミをつけていませんか?
「トロミ剤を大さじ3杯入れるように」って言った人もいましたけど
トロミ剤大さじ2杯でも結構ベッタリと口腔内や咽頭にへばりついて違和感バリバリです。
介助に従事する人は是非トロミ剤を入れた飲み物を飲んでみていただきたいものです。

誤解のないように付け加えると
私が若い頃に比べるとトロミ剤はとても進化しています。
昔は変な匂いと味がしてもっとベッタベッタにへばりつく感じがしましたが
最近のトロミは変な匂いや味はほとんどしなくなって
へばりつきもずっと少なくなってきていると感じています。
トロミ剤があるから、水分を安全に飲める方がたくさんいます。

ただし、どんなに良いものでも扱い方が不適切であれば
効果があるどころか逆効果になることすら起こり得ます。

それが、口腔期に問題があって二次的に咽頭期の能力低下が起こっているケースです。
実は、そのようなケースは生活期にある方や認知症のある方にとても多いのです。

不適切なスプーン操作によって誤介助誤学習が生じ
舌が後方へ引っ込んでしまったり
板のようにガチガチに固くなってしまうと
舌のしなやかな動きが損なわれてしまって
スムーズに食塊を再形成したり送り込んだりする働きが低下してしまいます。
その結果、喉頭挙上の動きまで損なわれてしまうのです。

舌の動きが低下しているのに
トロミをたくさんつけて粘性を高めれば
ただでさえ動きの悪い舌にもっと負担をかけることになってしまいます。
だから送り込みがうまくできなかったり
喉頭挙上の動きが阻害されたりするのです。

摂食・嚥下5相にそって食べ方を観察すると
本来の困難が咽頭期にあるのか、口腔期にあるのか、観察することができるようになります。
口腔期に本来の困難があって咽頭期の能力が保たれている場合には
むしろトロミの粘性は下げて、必要最低限にしてから、
食べ方・飲み方の再学習を行うと
誤嚥することなく安全にスムーズに食べたり飲んだりすることができるようになります。

ムセたらトロミ、というパターン化した対応はもう卒業しましょう。
ムセてもムセていなくても食べ方をきちんと観察するようにしましょう。