介助とは何か?

そもそも、介助とは何か
食事介助を例にとって説明します。

食事介助とは
食べさせてあげることでも、口の中に入れてあげることでもなく
目の前にいる方が食べることを援助することです。

「食べる」という行為には
その方の能力も障害も特性も反映されています。
一見障害に見える能力の不合理な発揮である代償も反映されています。

「食べる」という行為は
ある任意の環境に対する働きかけです。
その環境には、
そこがどのような場所なのか
どのような姿勢にあるのか
どのような食具(箸、スプーン、食器)で
どのような形態(常食、刻み食、ソフト食、ゼリー食)で
どのような介助方法で
どのような言葉かけで
どのような口調や態度で
提供されているのかということが含まれています。

「食べる」ことは上記環境への働きかけなので
環境が変われば発揮される能力も変わりますから
 成長とは、能力が高いとは、どのような環境でも対応できる能力があるということ
 逆に言えば、能力低下とは限定した環境でなら発揮できる能力があるということなので
 その限定した環境を見出せるかどうかが問われるということでもあります。
目の前にいる方の「食べる」ことを援助しようとすれば
その方の能力と障害と特性を把握するということは
任意の環境も明確に把握するということを意味しています。
「〇〇という環境でこの方はこんな風に食べることができる」という風に。

   だからこそ、目標を目標として設定できる
   良い目標(行動、条件、基準)を設定できる意味があるのですが
   目標設定の能力と臨床能力の相関性について認識している人は本当に少ないのです。。。

ところが、現実には
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作をしているのに
自身の操作がどうよくないのか認識できず修正もできないので
問題を相互関係の中にあると認識できずに
一方的に認知症のある方だけの問題として認識してしまう。。。
食環境を明確に把握しないままに
結果として起こっている目にみえる困難(代償を困難と誤認する)だけを切り取って
問題として設定し、どうしたらよいかと考える。。。という職員の行動パターンもよくあります。

代表的なものは、すすり食べです。
「すすって食べるのは誤嚥の恐れがるから、すすらないように食べてもらうにはどうしたらよいか?」という風に問題として設定し、どうしたらよいか検討会を開いたりします。

多くの場合に、すすり食べをするのは
うまく上唇で食塊をとりこめない、その代償として、頑張って食べようとしてすするのです。
うまく上唇で食塊をとりこめないのは
往々にして職員が上の歯でこそげ落とすような介助方法をしているというケースが多々あります。
上唇を丸めて取り込めるようになれば
代償としてのすすり食べをする必要がなくなるので
結果として、すすり食べが見られなくなる、改善されるのです。
だとしたら、まず為すべきは、職員の側がきちんとしたスプーン操作で提供できるようになることです。


ところが、現実にはご説明したように
結果として起こっている代償を含めた障害について問題として設定してしまい
その他諸々の把握しておくべき事柄について適切な把握が為されず
障害をきたしている環境因子の明確化という過程をすっ飛ばしてしまいがちです。
すすらないで食べて欲しいという善意での関与であっても
結果として、すすり食べをなくすことができない、
その時に、自らの関与の不適切さを疑うことなく
認知症が重度だから仕方ない。。。となってしまうのです。
そして、このような在り方は、食事介助に限ったことではなく
認知症のある方のBPSDや生活障害についても起こっていることです。

なぜ、そのような思考過程で対応してしまうのか、
その理由は下記のことを知らない、教えてもらっていないからだと思います。
・人は誰でも生きている限り、現行の環境において能力発揮しながら生きている
・人は誰でも環境適応しようとして生きている
・「異常な環境には異常な反応が正常だ」(クリスティーン・ブライデンの言葉)
・能力は状況と程度によって発揮される
・認知症のある方の目に見える困りごとは能力の不合理な発揮であることが多い

   新しい認知症観として
「認知症があってもできることはある」
と提示されていて、確かにそうだと思いますが、一方で
単に、Canのレベルで「できない→できる」という見方はあまりに表層的だとも思います。
なぜなら、疾患の定義上、認知症という状態像は慢性・進行性に低下していくので
今できていることでも、いつかはできなくなる時を迎えるからです。
「認知症でもできることがある」として為されている事業で
ある程度の年月が経ったところでは「以前にできていたことができなくなった」「ここでは難しくなってきた」というケースに遭遇しているはずなんです。
「できなくなったらダメなのか?」と問い返されている事態に直面しているはずなんです。
  
その答えを私は提示しています。
たくさんの認知症のある方から教えてもらってきたことです。
一見不合理に見える言動は能力の不合理な発揮でもあると。
より合理的に能力を発揮できるように環境調整が必須なのだと。
そのために、環境を明確に把握することと認知症のある方の能力も障害も特性も把握するのだと。

的確に把握できるためには、知識が必要で、知識をもとにした観察・洞察が必須なのだと。

  また、身体はつながっています。
  解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
  私の父が胃の摘出手術を受けるにあたって主治医から
  「胃を摘出しても下部食道が胃の代わりをするし、十二指腸が胃液の働きもする」
  と説明を受けた時に、人体の凄さを感じいったものです。

どのような食塊の取り込み方をするのかが
その後の咀嚼・送り込みに影響を与えないはずがありません。
事実、スプーン操作を変えることで
ガチガチだった舌が柔らかさを取り戻し、送り込みも円滑になり、喉頭が完全挙上できるようになったケースを多数経験しています。
でも、多くの人は、喉頭の不完全居城を見て「老化による喉の筋力の低下」と判断しているのです。。。

「食べる」ことが環境への働きかけであるならば
「食べる」ことに関係している身体の個々の器官も協調しあい連携しあって機能しているはずです。
身体はつながっているのですから
個々の器官が相互に影響を与え合っている、その影響をより合理的なものになるように
援助するのであって
個々の器官の影響、関係性に対して
侵害的な働きかけをしてしまってはいけないのだと感じています。

身体は外的環境に対しても内的環境に対しても適応しようとしている

だから、
その場の、環境との相互作用や身体の個々の器官との相互作用に
目には見えないものだけれど、発しているサインに鋭敏になろうとすれば
感受することができる。。。
感受した事柄の適正さを確認し続ける。。。
そのような過程の必要性を切実に実感しています。

  

   


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