代償の意義を見失うと対応を誤ります。
例えば、食事場面において
すすり食べは「食べ方が悪い」と誤解され修正しなければならないと誤解されがちです。
実は、すすり食べというのは「うまく取り込めないから何とかして食べようとする」代償
つまり、能力発揮なのです。
そこがわからず
すすり食べを表面的に修正しようとすることは
そして、わかっていないからこそ修正しようとするわけで
ろくなことにはならないのです。
もっとわかりやすい例を示すと
腓骨神経麻痺の下垂足に対して
股関節を過剰に屈曲させた歩行をすることで躓かないように代償しているわけですが
股関節を過剰に屈曲させるなと指摘したら足先が躓いて転んでしまいますし
足関節を背屈させて歩けと「言う」だけで背屈できるようになるわけがありません。
代償するにはするだけの必然があるので
代償しなくて済むような対応ができれば
結果として代償は無くなります。
そちらを目指すべきなのです。
ただし
なんでもそうなのですけど
対象者の困難の改善を目指す時に求められるのは
「適切な見立てと見立てを具現化できる技術」です。
多くの場合に、適切な見立てができる人はそんなに多くありませんし
見立てを具現化できる技術を持っている人はもっと少ないのが現実です。
代償できるだけの能力をより合理的に発揮できるように援助するのではなく
代償すらも抑圧させたり
別の代償を要請しているに過ぎないことも多々あります。。。
そして、そのことに気づくことすらできない。。。
短期的に「改善」と判断されてもその後でもっと大きな困難に遭遇しますが
「認知症の進行」と判断され、自身の対応の振り返りがなされない。。。
認知症あるあるです。
そんなことをしないで済むように
まっとうに仕事ができるように
まずは、観察をしっかり行える対人援助職になりましょう。
観察できずに適切な見立てができるわけがありません。
適切な見立てができないのに技術を磨けるわけがありません。
観察ほど重要なことはありません。
観察できれば代償の意義を見出せるようになります。
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