観察・洞察は臨床能力として最も必要な能力だと考えています。
評価とは観察・洞察であり
その観察・洞察を補い明確にするためにテスト・検査があると考えています。
ところが、現実には観察・洞察よりも客観的とされ、各種テストの実践が重要視されています。
でも、その結果、いったい何が起こっているのでしょうか?
五角形模写課題や立方体透視図模写テストをするOTは多いけど
「構成障害とは何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTは少ないものです。
トレイルメイキングテストをするOTは多いけど
「遂行機能障害って何ぞや?」と尋ねられて
明確に即答できるOTがどれだけいるでしょうか?
これって、本末転倒ですよね?
概念の理解ができていないのに、テストだけできたって、
テストの結果は出せても、対象者の状態把握にはなりませんよね?
かくいう私も、学生時代には教科書に書いてあることを丸暗記していただけで
概念の本質を全く理解できていませんでした。
臨床家になってから、必然として
そのような自分の傾向が問題だと明確化することができるようになりました。
そうすると
わかってきたこともあって
そもそも、学生時代に概念の本質を理解することの重要性を教えてもらったか?
概念の本質を理解するように促してもらえるような教育だったか?
と考えた時に答えは NO だったんです。
もちろん、当時はまだリハもOTも黎明期だったので
教員だって手探りだったこともあるでしょう。
でも、だから、むしろ、本当は必要だったと思うんです。
本質を学ぶことが。
本質を学ぶということが疎かになった弊害
本末転倒、主客転倒、ってたくさんあるように感じています。
その一つが
テストはしても障害の概念を理解できていない。という表れであり
人は環境との相互作用の中で能力を発揮するものだという認識の欠如となっていると思います。
具体的に言うと
生活期において身体の使い方を再学習できるように援助できない
介助の問題なのに
立ち上がれないお年寄りや食べられなくなっていくお年寄りに対して、
原因を廃用と鵜呑みにして
立ち上がり100回やらせたり漫然とした筋力強化をやらせたり
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作を続けながら「パタカラ」と言わせたり
etc.etc.
問題の現れ方として
ハウツーを求める臨床思考になってしまうし
組織の課題解決に際しても前例踏襲になってしまうのだと思う。
その場しのぎができるのも能力のひとつだとは思うし
その場しのぎが必ずしも悪いわけじゃないとは思う。
悪いのは、その場しのぎなのに本質的な対応だと誤認していること
その場しのぎの臨床思考と本質的な臨床思考とそれに基づく対応は
見た目同じように見えることがあったとしてもまったくの別物
なんだから、それを踏まえた上でその場しのぎをすればいいと思っています。
でも、そうはなっていないような。。。
養成校の教員は
昔に比べて卒前に教えなければならない知識の膨大さに
大変なご苦労をされていることと思います。
でも、卒前の教育が学生に与える影響はとてつもなく大きいので
教員にも本質を伝え学ぶことの重要性を再確認していただきたいものです。
例えば
目標設定について
私の講演を聞いた学生や臨床家は「とてもわかりやすかった」という感想を寄せてくれます。
その中に聞こえてくるのが
「臨床で使える」「目標とは何かがよくわかった」「維持は目標じゃないと言われて困っていた」「自分の今までの目標はなんちゃって目標だった」という声です。
また、複数の養成校の教員のレジメや論文に
「目標」という文言を用いながら
実際には、目標ではなく目的や治療内容が記載されている例も散見されます。
目標の概念がわからない人が教えているのだから
当然学生はわからない、誤認してしまいます。
目標設定でさえ、このような状況だとすれば他も推して知るべしでしょう。
(もちろん全ての養成校の全ての教員がそのような状態にあるとは思っていません)
また、すべてが卒前の養成課程にあるわけではなく
個々の職場での卒後の臨床教育の問題もあるでしょうし
何よりも本人自身の自覚と態度が一番の問題だと思いますが
「チームジャパン」という掛け声はあちらこちらで聞くようになりましたが
本当に総動員でなんとかしないといけないのは
「本質を学ぶ」「本質を伝える」
ということなんじゃないのかと感じる今日この頃です。
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