「食事をためこんで飲みこんでくれない」
「どうしたら飲みこんでくれるようになるでしょうか?」
そういうカタチの問いをしている限り
答えを手にすることは難しいと思っています。
「ためこみ」という一部分しか見ていないから。
観察というのは
自分が見たいように見ることではなくて
事実を事実のままに観ることだし
洞察というのは
観察された事実という状態像が
何を意味しているのか
障害と能力と特性がどのように反映されているのかを見出すこと
表面的に見えることだけを見る
自分の引き出しの中にある思い込みを投影させて見ることとは全く違います。
例えば
冒頭に提示した食事介助での「ためこんで飲みこんでくれない」という「問題」は
認知症のある方を対象とするケアやリハの分野では非常に多く見受けられる「問題」です。
ですが
「ためこんで飲みこんでくれない」という表現そのものに
問題の一端は現れています。
無意識のうちに「くれる」ことを前提に考えて
差し引きマイナスで見ています。
自身の介助の適不適を省みることなく
『介助に「合わせてくれる」ことができない=問題』
という思考過程はケアやリハの分野に限らず、あちこちで散見される課題だとも感じます。
この課題については折を見て記事にしていきます。
今日はもっと他に書きたいことがあります。
食事介助において
「ためこみ」は散見される大きな課題の一つではあります。
でもためこみの前後も含め、摂食・嚥下5相にそった観察をしている人は少ないものです。
認知症という状態像を引き起こす疾患に関する知識と
食べることに関する基本的な機能解剖の知識を
両方持っている人はもっと少ない。
だから
「ためこんで飲みこむことができない」という現れに
反映されている固有の〇〇さんの障害・困難と能力と特性を
明確に洞察できる人が非常に少ないという現実が起こっているのです。
だから
適切な介助ができなくて当然ということになります。
多くの場合に
ためこみたくて、ためこんでいるのではなくて、どうしようもなくて
ためこむしかない。という方の方が圧倒的に多いのです。
そんな時に
「ためこまないで」
「ちゃんと食べて」
って言われたら、どんなに辛いでしょう。
私たちの仕事は
ちゃんと食べてって「言う」のではなくて
ちゃんと食べられるように「援助する」ことです。
そのためには
まず、私たちがちゃんと観察できるようにならなければ。
「ためこみ」という現れには
いろいろな状態像が反映されています。
例えば
覚醒不十分
オーラルジスキネジア
口腔周囲筋の過剰な同時収縮etc.etc.
状態像が異なるのですから、当然対応はまったく異なります。
「〇〇の時には△△する」
世にそのようなハウツー本は溢れていますが。。。
たまたま「当たる」ことはあるかもしれませんが
下記のような説明はできません。
どうして今まで食べられなかったのか
どうして今は食べられるようになったのか
どんな困難があってどんな能力があるのか
今後の見通しと対応について
これからは
本当のプロが求められる時代になる。
やってみせられる人が必要とされる。
求められるのは
資格じゃない。
資格は入口に過ぎない。
そう感じています。
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