体験を対象化・分析し役立てる

 

最近、思い出したことがあります。
今でこそ、ガンは死の病とは限らなくなりましたが
かつては、ガンの告知=死の宣告のような時もありました。

多分、時期を同じくしてだと思うのですが、
医師や看護師が闘病記を上梓することが続いて
書店にはたくさんの闘病記が並んでいました。
そのうちのいくつかを読みましたが
「今なら患者さんにもっと優しくできる」
という記述があふれていたことを記憶しています。
 
死を前にした人に対して、そして私が読んだ時にはすでに亡くなっていた人に対して
厳しい言葉かもしれませんが
それらの本を読んだ時には率直に
自分がなった立場で辛さを感じて優しさの意義を切実に感じたと言ってるのだから
 違う状況にある人たちに対しては優しくはできないだろう」と感じました。
主語が自分だから、です。
病気になる前も病気になってからも。
目の前にいる方の気持ちを斟酌しての感情ではないから。

そして
その人にとっては体験して「強く感じた」ことで
そしてそれはその人にとっては意味深いことであったでしょうけれど
感想に過ぎず、読んだ人が共感することはあるかもしれませんが
個人の感想が汎化されて他の医療者の実践に役立てることにつながるのでしょうか?

患者の立場で切実に必要な優しさが
なぜ、医療者側になると実践できなくなるのかという踏み込んだ分析があれば
忙しい日々にあって、やらねばならぬことが山積みであったとしても
患者さんに優しくできるようにしたいと願いながらも実践できないと言っている
他の医療者の役に立ったかもしれないのに。。。

専門家と当事者と
二つの視点を手にしたという、大変ではあっても貴重な体験をしたわけですから
そしてその体験をもとに専門家と呼ばれる人たちに伝えたい
と願って貴重な時間を執筆という作業に割いたのでしょうから
だとしたら、単なる感想に終わらずに
自身の体験を対象化して分析して洞察・理解を深め
他者の実践にも役立つように昇華できたら良かったのに。。。と今なら思います。

当時、そこまで明確に言語化できなかった私自身も
やっぱりよくわかっていなかったのだと思いましたが。。。
その時にはわからないことでも
わからないことはわからないとして留保しておくと
後年になってわかるようになることもあるし
より深いところで意味がわかり直すようになることもあります。

結局のところ
体験から得るものは必ずある。
どれだけ明確に広く深く得られるのかは
対象化・分析・理解・洞察の深度による。
と思います。

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