作業療法は触媒2

触媒論の補足です (^^;

初めに私の体験談を。
実は、私は数年前に坐骨神経痛になって
痛みのために寝返りもうてず
独歩は2−3歩のみで、短距離のつかまり歩きしかできない
という状態になったことがありました。

整形外科にも通っていましたが
本当にお世話になったのは、スポーツマッサージをしている治療者でした。
触診の技術の高さは素晴らしく、筋だけでなく神経や血管も触知しながら癒着した軟部繊維を剥離してもらいました。

治療の後半になってくると私も教えてもらうこともありましたが、
分野違いとはいえ全然触診できませんでしたし、
老健で働いている時に、炎症による軟部繊維の癒着という視点を私は持っていなかったので反省もしました。

その先生の治療論を尋ねる機会もありましたが
「パターンはあるけどパターンじゃない」って言っていました。
また、触診・治療している時は指先の感覚にものすごく集中しているのが伝わってきました。
私も集中して食事介助していますから「会話しながら」なんてあり得ない
のもわかります。
分野違いながら共通している実践や考え方もあり、ずいぶん触発されたものです。

その先生は、身体の働きをすごく信頼していて
「動けるようになってきたら身体は自然に動くものだ」と言っていて
言葉で「背筋を伸ばして」「足をもっと前に出して」というように指示することは、ほとんどなかったと思います。
そのかわり望ましい動きができた時には、「そう!その動き!」ときちんと言葉でのフィードバックがありました。

軟部繊維の癒着を剥離していく過程では、ゆっくりとも言えるくらいにとても丁寧で決して無理矢理に行うことはありませんでした。

先生の実践と在りようは、本当に信頼できるものでした。

治療が進んで、ちゃんと立てるようになった時に感じた「抗重力伸展活動」の感覚は、今でも覚えています。
すごく気持ちが良かったし、自然な感じでどこにも無理がかかっていない感覚がありました。
まさしく、身体が自然に動いていくのを実感できました。

その他にも
寝ていても2時間も経つと痛みのために目が覚めてしまう体験をして
体位変換の時間が2時間ごとって正しいんだなーと思ったことも覚えています。

期せずして患者体験の一端をしたわけですが
いろいろと学ぶことがあったのを久しぶりに思い出しました。
しないで済むなら患者体験はしないほうが良いと思いますが
せっかくの体験。
「転んでもタダでは起きない」というわけではないですけど。

さて、前置きはこのくらいにして
本題に入りたいと思います。

「作業療法触媒論2」

対象者によって
一人ひとりに必要な触媒の種類も量の匙加減も異なりますし
同じ人でも時期によっては異なる種類、異なる量の触媒が必要となります。

対象者に起こっていることを的確に観察・洞察できないと、
必要な触媒の種類も量も選択することが困難になり、
誤った触媒の選択・提供をして逆効果になってしまう恐れもあります。

つまり私が言いたいのは「たかが触媒されど触媒」

もうひとつ、記事のタイトルが示しているように
「作業療法が触媒」であって、「作業療法」を指してはいません。

私たちは作業療法士として養成されたので
何をやっても作業療法しか提供できません。

 「作業療法って何だろう?」と言う人も少なくないようですが
 「あなたの実践があなたの作業療法です」

 と答えるのが良いと最近は思うようになりました (^^)

ただし、Aという作業療法士が提供したBという実践ないし関与が、
その時その場のその関係性においてCという対象者にとって適切なのか否か
ということが問われているということを
自覚しておいて自覚しすぎることはありませんし
問いに答えるためには、結果を出すことから始めるしかありません。

  Bという実践ないし関与は、Aという作業療法士が選択(無自覚であれ)提供して
  初めて作業療法というカタチになります。
  Bそのものが規定するCという対象者の状態像もありますから
  当然そこも踏まえたうえでCに対してプラスの結果が出る意図をもって
  Bを選択しているのは他ならぬAという作業療法士その人です。

  結果が出ないという場合に
    (現状維持も立派な結果=目標だと思いますが
     漠然と現状維持ではなく、どの部分の維持をする。それは〇〇だから。
     と担当者が言語化できることが大切だと考えています) 
  Cが困難な現実に在るということは、当然わかっているのだから
  そこを踏まえてBを選択
するという責務がAにはあると思います。
  さまざまな状態像と限界もあるにせよ。
      
他の多くの職業と同様に
作業療法士もまさしくピンキリだし、
ピンとキリの間にたくさんのグレー状態が存在するのだと考えています。

ピンだろうが、キリだろうが、グレーだろうが、
自分の今いる立ち位置から、出せる結果から出していくしかないと感じています。

  結果を出せていないことは、わからないからです。

その過程において
結果として起こることと目的を混同する対人援助職は本当に多いものです。

拘縮悪化予防スポンジ」の記事で書いたように
自分の見たいことしか見ていない
知識を実践に結びつけていない という現実的な対応しかり

「OTの不安への答え」の記事で書いたように
結果として楽しかった実習を目指すはずが
「実習は楽しく」というスローガンにすり替えられてしまうとか

そもそも
目標と目的と治療内容の混同というレベルでも起こっています (^^;
「OTどこでズレたのか:目標設定」の記事に書きましたのでご参照ください。

対象者にとってプラスの変化を期待するための触媒は
唯一絶対のものではなく
その時の対象者の状態像によって選択されるものだと考えています。

作業療法がスタンスを決めてしまうことの危険性は
あちらこちらに透明の蜘蛛の巣のように存在しているように感じています。

 例えば
 「作業療法は楽しく!」というスローガンを抱えている作業療法士には
 泣きたい気持ちを必死になって抑圧している方に対して
 表面的に楽しませる(楽しむのではなく)体験を提供し
 結果的であったとしても、善意からであったとしても
 抑圧を強め、問題を拗らせることになり
 その代償を払うのは当の作業療法士ではなく
 ご本人と先送りされた問題に直面した他の対人援助職にな
る。
 というようなことが現実に起こっていませんか?

もしも
私がスローガンを表明するとすれば
「自分はこう!」というものではなくて
目の前の対象者に今何が起こっているかを
虚心坦懐に観察する・洞察できるようになる
「事実の子たれよ」
の他にはあり得ないと感じています。

スローガンを表明する対人援助職は本当に多いですが
それは本来の対人援助職と真逆の在りようだということに気がついて欲しいものです。
例え自覚していなかったとしても
自身のスローガンやニーズを実践するために対象者を利用している事になってしまいます。
スタートは常に目の前の対象者なのだということを忘れたすり替えが
容易に起こりうるリスクを内在しているのが対人援助職の業というものです。
これらを学生のうちに感受したり学んだり
実習で身をもって実感する機会って最近はないのでしょうかねぇ。。。

内村鑑三の
「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」
という言葉のもつ重さをひしひしと感じています。

ここでいう理論とは
通常の意味での理論に限らずに
ギョーカイの常識や慣習的対応
自身のスローガンも含みます。
それらの奴隷とは、観察放棄・思考放棄という在りように繋がりかねず
ハウツー的思考回路が蔓延していることと関連しているように感じられてなりません。

事実を観察する眼が曇ってしまうことのないように
少なくとも自覚的で在るように

触媒に濁りがあれば
結果が明確ではなくなってしまいます。

触媒の純度が高ければ高いほど
対象者の行動変容という反応が明確に現れるものです。

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