評価=検査ではありません。
ここは、本当に誤解が多いところですが
検査だけをたくさん行っても
それだけでは、認知症のある方の状態像を把握したことにはなりませんし
どのように対応したら良いかは導き出せません。
今は教科書的に
〇〇という疾患には、△△という検査を行う
という蓄積がなされているので
そうするものだ、と思い込まされているのではないでしょうか?
「認知症はわからない」「難しい」「苦手だ」という声をよく聞きますが
通常の身体障害のようには各種検査ができないから
という側面もあるように感じられてなりません。
検査しなくてはわからないことはありますから
すべき検査はきっちりと検査すべきです。
一方で、検査をすれば、状態像が把握できるとは言い切れません。
統合・解釈が困ってしまうのは
評価の一手段として検査しているからではなくて
すべき検査項目だから検査しているという側面もあるのではないでしょうか。
MMSEでもHDS-RでもTMTでも
必要であれば検査すべきではありますが
何点だったかという結果が重要なのではなくて
得られた結果を普段のリハやケアの場面に活用することの方がよっぽど重要で
そのための検査だと考えていますが、どのくらいの人がそのような対応をしているでしょうか?
現実には、検査は検査、対応の工夫は対応の工夫と
分断されていることの方が多いのではないでしょうか?
例えば
「認知症のある方への対応−能力と障害の把握」
作業療法ジャーナルVOL.51 NO.2 2017
において記述したように
近時記憶が低下している方に
骨折後のリハで立ち上がりの練習をする時には
認知症のある方から尋ねられなくても
「骨折して手術したから立ったら痛いかもしれないが、心配はいらない」
と説明してから立ち上がりの練習をするようにしています。
そして、その頻度は
その方の近時記憶の連続性がどのくらい保たれているのか
を根拠に判断しています。
人によっては立ち上がりの都度説明をしますし
人によってはリハの開始時に1回のみ説明することもあります。
検査をすることが評価ではありません。
より良い対応をするための 状態像把握が評価 です。
検査はそのための一手段に過ぎません。
病名から想定される障害に沿って検査をもれなく行うことよりも
その時その場で認知症のある方に何が起こっているのかが把握できること
そして、どのような場面で困難が起きやすいのか
それを回避するためにはどのように工夫したらよいのかが
事前に想定できること
そして、それらの根拠について明確に説明できることの方がずっと重要です。
これらができるようになるためには
たくさんの検査を知っていることや実施できることではなくて
その時その場を観察・洞察できることが求められます。
そのためには知識を習得していることが前提であり
観察力・洞察力を磨くことにゴールはありません。
私たちは、評論家ではなくて援助者なのですから
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