繰り返しわかり直す


同じコトを繰り返しわかり直す
理解の深度が深まっていくということを何度も何度も実感しています。

食事介助において
スプーン操作の重要性を私が訴え始めたのは30年以上前になります。
その考えは今もなお変わることはありませんが
当時よりももっと深くその意義が理解できるようになりました。

当時から講演では体験学習を提案していて
その体験学習のキモは今も変えてはいませんが
細かな配慮や環境設定の工夫を積み重ねて
より良い体験学習が提供できるようになってきていると自負しています。

講演での伝え方も
より印象に残る伝え方や
より明確な伝え方の工夫ができるようになってきていると自負しています。

どのように場面設定をするのか
どんな言語的説明、視覚的説明を提示するのか
それらを考える過程において
フッとパワーワードが浮かぶこともよくあります。
でも、「ここでパワーワードが欲しいな。どんな言葉にしようかな。」
と考えたことは一度もありません。

確かに「書く」機会は多かったと思います。
日々の辛さにやむにやまれず15年以上個人のブログを書き続けてきたことや
神奈川県作業療法士会のウェブサイト管理委員会のお仕事や
県学会広報部や県士会理事の時に立ち上げた複数のコンテンツの作成を通して
培われてきた部分もあると思う。

明確な言語化は明確な認識と関係しています。
実習指導の時に「わかっているけど書けないだけだから気にしないでいいよ」
と学生に声をかける人にたくさん出会いましたが
内心、それは違うと思っていました。

わかっているつもりになっているだけだから書けないのだと。

若い頃に
転倒している方を発見して、ひやりハットを書こうとして
体幹のどちらが下になっていたのか
下肢はどういう状態だったのか
書けなくて困ったという体験をしたことを覚えています。

見れども観えず
になっていたのだと。

もちろん、究極、言葉にできない部分もあると感じていますが
それは、言語化を突き詰めていった人がようやく言えることだと思います。
わかっているつもりから卒業しようと今でも心がけています。

そうすると
わかっていたつもりだったことが
確かにそうなんだけれど、もう一段明確に深くわかり直す機会に遭遇したりします。

たとえば
食事介助において
上の歯でこそげ落としたり、スプーンを口の中に差し入れてしまうことの弊害が
準備期の機能を廃用に陥れるだけでなく
口腔期の機能をも廃用に陥れてしまうことを深くわかるようになったことがあります。

不思議なもので、タイミングがあるんですね。

ずっと探し求めていた言葉や概念にふっと遭遇する
私にとって必要な体験ができるような状態像の方に出会う
見れども観えずになっていたことが明確に観えるようになる
一般化・抽象化の深度が深まる

もしかしたら、実は、タイミング自体はずっとあって
それこそ、私が気づけていなかっただけかもしれないのですが
私が実感できるタイミングで起こるように感じています。

繰り返しわかり直すことを通して
観察の深度が深まるし
観察の範囲も広がります。

  時には
  表面的に不合理な思いをする体験にも遭遇しましたが
  後になって振り返ってみると
  思いもよらないメリットを享受する機会だったことがわかったりします。
  その後の展開も大きく変わりました。
  一見、悪いことに見える良いことだったというわけです。
  そして、良いことに見える悪いこともありました。

  「Connecting the dots」「塞翁が馬」本当にそうだなぁ。。。と思います。

  知や力の問題もずっと考えさせられてきました。
  結局は、扱い方の問題で
  知や力に引きずられることなく自分がしっかりしていれば良いけれど
  知や力の持つパワーの底知れなさに
  抗いきることの困難も少しはわかるようになりました。
  (お金持ちや名声が高まると、ここにお金や名声のパワーも加わるのでしょう)
  このことについては、いずれ記事にしたいと思います。

繰り返しわかり直す体験をしていると
(良い意味でも悪い意味でも)五十歩百歩なのかな?と思ったり
志さえ曲げなければ、
必ず自身の成長につながる機会に出会うことができることを実感でき
一見、悪いように見える体験に遭遇しても
過剰に落ち込むことなく(落ち込む自分を否定はせず)
その体験の意味を活用しようという気持ちになれますし
現実的にも神様からのプレゼントと思えるような体験が巡ってきたりします。

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