認知症のある方の対応全般
身体的なリハであれ、声かけであれ、Activityの提供であれ、食事介助であれ、ポジショニングであれ
本当に認知症のある方が良くなるというのは
短期的にも長期的にも良くなることを意味していて
その関与は綺麗事の実践です。
真・善・美です。
理想論・抽象論を騙る人は多くても
理想を具現化する実践を心がける人は少ないものです。
口先人間にはヤマほど遭遇してきましたが
よくそんなことが言えるものだと現行不一致の見事さには感嘆するくらいです(^^;
綺麗事を実践するためには
知識も技術も経験(本当の意味での経験)も必要ですし
実践の過程で相当な自己反省と努力を要請されます。
それは時には本当に辛く過酷なものです。
その過程において必ず
従来言われてきているような方法論が
理想に合致もしなければ
実際に目の前にいる認知症のある方に対して効果的でもない体験に
繰り返し遭遇するはずです。
本当に実践しようとさえすれば。
ここが分かれ道で、苦難の道に進むか、表面的に騙る道を選ぶか、選択しているだけの話です。
口先人間も無意識にはわかっているんです。
だから、口先人間にとっては実践者がいると困るので足を引っ張るようになります。
まさしく「足を引っ張られたら喜ばなくちゃいけない」わけです。
そして自身の実践の未熟には「時間がないからできない」と言うわけです。
確かに
認知症のある方が本来の自身の能力を合理的に発揮できるようになるまでには
善き体験の蓄積という時間が必要ですが
不適切な関与が多ければ多いほど
ゼロではなくマイナスからの出発となるので余分に時間がかかります
善き体験を構築するための関与そのものには時間はかかりません。
むしろ、時間もエネルギーも少なくて済みます。
ただし、知識と技術がなければ善き関与ができないのです。
善き関与とは
なじみの関係のために毎朝訪室して挨拶することでも
表面的に褒め称えることなどでは決してありません。
対象者自身が「助けられた、楽になった、できるようになった」と実感できる体験を
提供できることが善き関与です。
幾多の体験に鍛えられて
短期的にも長期的にも効果がある対応ができるようになり
その効果の意味を言語化できるようになると
理想はゴールだけでなく道標でもあることが心の底からわかるようになります。
綺麗事だから良くなるのです。
願えば叶うわけではなく
語れば為せるようになるわけでもありません。
でもさぁ、そんなの、当たり前じゃん!
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